【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】
- 101 :考える名無しさん:2024/06/17(月) 14:37:30.74 0.net
- このじぶんに対して(フユール・ジッヒ)存在することが無視されているはこびによってまた、そもそも形式がみずから運動することも慮外に置かれているのである。
「形式は実在と同等である」〔シェリング〕と言表される場合、まさにそれゆえひとつの誤解が生まれて、認識は「自体的なありかた(アンジッヒ)」あるいは「実在(ウェーゼン)」で満足しうるのだから、いっぽう形式はどうでもよいと思いこまれてしまう──つまり、絶対的な根本命題〔フィヒテ〕あるいは絶対的な直観〔シェリング〕がありさえすれば、その命題を実現し、もしくは当の直観を展開することなど必要がない、というわけである。
形式が実在にとって本質的であるのは、実在(ヴェーゼン)がじぶん自身にとって本質的なもの(ヴェーゼントリッヒ)であることとしい
ほかでもないその理由からして、実在はたんに実在として、すなわちひたすら直接的な実体あるいは神的な純粋な自己直観として把握され、表現されればよいというものではない。
実在はむしろ同様に形式として、しかも展開された形式が有するゆたかさのすべてにおいて把握され、表現されなければならない。
かくてはじめて、実在は現実的なものとして把握され、表現されるのだ。
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😁 難易度92(最高100)
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精神現象学(上) p36.37
- 102 :考える名無しさん:2024/06/18(火) 12:13:15.47 0.net
- ★真なるものは全体である。全体とはいっぽう、ひとえにみずから展開することをつうじて完成される実在のことにほかならない。
絶対的なものにかんして語らなければならないところは、それが本質的にいって結果であり、おわりにあってはじめて、それが真にあるありかたで存在する、、ということである。
まさにこの点に、絶対的なものの本性がある。
つまり現実的なものであり、主体であり、ことばをかえれば じぶん自身へと生成してゆく(ジッヒゼルプストヴエルデン)ものであう、ということだ。
「絶対的なものは本質的に結果として概念的に把握されなければならない」と語ると、それはひどく矛盾したものに聞こえるかもしれない。
それでもすこし考えてみれば、この矛盾という見かけは匡(ただ)されるだろう。 (……はじまり、 につづく……)
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😦 難易度93(最高100)
横槍)>>真なるものは全体である。
これは早計か。
>>全体とはいっぽう、ひとえにみずから展開することをつうじて完成される実在のことにほかならない。
全体とは、……完成される「実在」なのだろうか。「実在」とは思えない。
???
なんやかんや、説明がわかりづらい。
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精神現象学(上) p37
- 103 :考える名無しさん:2024/06/19(水) 11:18:31.47 0.net
- はじまり、原理とは、絶対的なものが、まずは直接的なかたちで言明されたものであって、(p37の最期(言明されたものであって、の部分))
それはたんに普遍的なものにすぎない。たとえば私が「すべての動物」と言いはじめたところで、そのことばをもって動物学〔にぞくする言明〕とみなすわけにはいかない。
これとおなじことで、たやすく気づかれるとおり、神的なもの、絶対的なもの、永遠なるもの等々のことばを口にすれば、そこにふくまれていることがらを言明しているというわけではないのだ。
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😀 難易度82(最高100)
原理や絶対的なものが、まずは直接的なかたちで言明されたとしても、それは普遍的なものにすぎなかったりする。
私が「すべての動物」と言ってもその言葉を持って動物学とみなすわけにはいかない。
これとおなじで、神的なもの、絶対的なもの、永遠なるもの等々の言葉を口にしても、そこに学はないのである。
解説、ネット民
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精神現象学(上) p37-38
- 104 :考える名無しさん:2024/06/20(木) 10:19:47.45 0.net
- こうしたことばが表現しているのは、じっさいには直接的なものとしての「直観」にすぎないのである。
──そういったことば以上のものといえば、それは他なることであって、この 他なること(アンデルスヴェルデン)とは、そこから立ちもどってこなければならないものである以上、一箇の媒介である、
この媒介こそが、しかし〔直接性を強調する立場からすれば〕忌みきらわれているところにほかならない。
それはあたかも、媒介についてそもそも、「それは絶対的なものではまったくなく、絶対的なものにおいてはすこしも存在する余地がない」という以上のことを言おうものなら、絶対的な認識が、それだけで放棄されると言わんばかりなのである。
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😂 難易度90(最高100)
>>こうしたことばが表現しているのは、じっさいには直接的なものとしての「直観」にすぎないのである。
>ことばが表現しているのは、直観の類ではない。よって詭弁とみなす。
二行目、ことば以上のももといえば、……のくだりも詭弁とみなす。
三行目も四行目も詭弁とみなす。
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精神現象学(上)p38
- 105 :考える名無しさん:2024/06/21(金) 15:24:14.47 0.net
- 媒介がこのように忌みきらわれるのは、とはいえじっさいには、媒介と絶対的認識そのものの本性がよく知られていないことに発している。
なんといっても、媒介とはみずから運動しながらじぶん自身とひとしいありかたにほかならない。
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😄 難易度85(最高100)
媒介について嫌われるのは、よく分からないものだからだ。
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精神現象学(上)p39
- 106 :考える名無しさん:2024/06/21(金) 15:44:19.72 0.net
- んまぁ、区別がはっきりしておれば、いかなる言表であっても直観を損なうことがないからだ
- 107 :考える名無しさん:2024/06/22(土) 13:52:02.31 0.net
- あるいは媒介とは、みずから運動しながらじぶん自身へと 立ちかえってゆくこと(レフレクシオーン)であり、自立的に(フユール・ジッヒ)存在する〈私〉をかたちぐくる契機なのである。
媒介はつまり、純粋に否定的なありかた(ネガティヴィテート)であって、この 否定性(ネガティヴィテート)を純粋に抽象へと引きおろして言いかえるなら、それは単純な生成なのだ。
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😂難易度86 (最高100)
媒介のくだりで詭弁を展開するヘーゲルだ。
単純な生成なのだ、という意見もてきとうに値するだろう。
p39
- 108 :考える名無しさん:2024/06/23(日) 12:17:24.63 ID:0.net
- 〈私〉あるいは生成一般であるこのようなこの媒介作用は、それが単純なありかたをしていることからいっても、直接的なありかたが生成することにほかならず、かくて直接的なものそれ自身である。──それゆえ、理性を誤解することにつながるのは、反省(レフレクシオーン)を真なるものから排除して、それを絶対的なものにとって積極的な契機ととらえないことである。
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😁 難易度93(最高100)
→直接的なものそれ自身である
詭弁。
→積極的な契機
何のことやら。
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精神現象学(上)p39
- 109 :考える名無しさん:2024/06/26(水) 10:24:25.24 0.net
- p39 反省とは真なるものを結果としてつくりだすものであり、いっぽう結果がその生成に対して有する対立も、おなじく反省によって廃棄(アウフヘーベン)*される。というのも、この生成は同様に単純なものであって、したがって、真なるものが有する形式──これは結果において単純なものとしてあらわれる──とことなるところがないからである。
- 110 :考える名無しさん:2024/06/26(水) 11:10:58.01 0.net
- 差異ではなくてそれ以前の「違和感」を考える哲学はありますか
- 111 :スレ主:2024/06/26(水) 11:34:16.10 0.net
- 「違和感」を考える哲学は見ないかもしれませんね。
ですが、違和感という言葉の意味ならあります。
「ファイファイファイファイファイ」という意味です。
これは目立った意見ではなく、女子語と呼ばれるものに属します。
- 112 :考える名無しさん:2024/06/26(水) 12:22:46.61 0.net
- なるほど!
ありがとうございます
- 113 :スレ主:2024/06/26(水) 12:50:53.65 ID:0.net
- どういたしまして。また何かあれば聞いてください。
- 114 :考える名無しさん:2024/06/27(木) 13:01:42.36 0.net
- わかりました
- 115 :考える名無しさん:2024/06/29(土) 14:51:13.11 0.net
- 生成とはむしろ、単純なありかたをへとこのように立ちかえることにほかならない。──胎児がしかしそれ自体として人間であるからといってじぶん自身にとって人間であるというわけではない。自覚的(フユール・ジッヒ)に胎児が人間となるのはただ、みずからを形成し〔教養をへ〕て理性となったときである。
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p39.p40
生成とは単純なものの連続なありかただ。胎児はみずからを人間であるから人間とみなすのではなく、みずからを形成し(教養をへ)て理性を獲得したときである。
ネット民
- 116 :考える名無しさん:2024/07/02(火) 09:29:45.40 0.net
- 理性とは、みずからが自体的にはそれであるものへと、じぶんをかたちづくったものなのだ。
そのようにかたちづくられることで、理性ははじめて現実的なものとなる。
いっぽうこのように結果であるものは、それじしん単純で直接的なありかたをともなっている。
というのも、結果〔としてここであらわれてくるもの〕とは自己意識をともなった自由であり、それはみずからのうちで安らっているからである。
この自由はみずからに対立するものを一方の側に置いて、対立するものをそこに置きざりにすることがない。
自己意識をともなった自由はかえって、対立するものと和解(フェアゼーネン)しているのである。
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p40
難易度90(最高100)
→理性とは〜〜〜〜かたちづくったものなのだ。
よくわからない。
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精神現象学(上)
- 117 :考える名無しさん:2024/07/03(水) 21:05:29.20 0.net
- 良質のポエム
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