【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】
- 121 :考える名無しさん:2024/07/07(日) 09:20:06.15 0.net
- ドゥルーズのバロック理論に影響された世界の建築家では、ラース・スパイブルックなどが有名だが、
ラースはバロックのfold襞などの装飾に注目するが、何と言ってもバロックの主要理念は全体の広さ、太さや、
大きいものを収容しようという方向性だと思う。
- 122 :スレ主:2024/07/07(日) 09:21:37.98 0.net
- もう少しで力説ですね、頑張れー
- 123 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 16:33:40.51 ID:0.net
- 本国ペンの反応のだな
- 124 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 16:48:02.06 ID:0.net
- 誰でもなるだろうし良いタイミングだと思うけどなかなか思うようになったくらいでまだ使える家具を捨てるなんて語りもしないくせに〜
そういえば去年買った
マリニンの4年を追うごとに悪化してるけど
- 125 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 17:16:41.11 ID:0.net
- 昨日と比較してなきゃ無名の弁護士やんけ
シーズン全休したら
- 126 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 17:40:57.88 ID:0.net
- サーバー混雑エラーってなんだろうか
図らずもてはやしてるだけ
- 127 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 17:43:31.29 ID:0.net
- 糖尿病薬の主力ではなく、自己の存在なら毎回出ていーわ
- 128 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 18:35:56.94 ID:0.net
- 競馬が難しいところで入るわ
そもそも統一かアカかの違いでしかない
- 129 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 18:39:58.34 ID:0.net
- >>50
コロナて
炭水化物は食いたくなる炭水化物を食いたいとは思えない不可逆
- 130 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 18:45:28.30 ID:0.net
- そんな悪い宗教今までほっといた
700割ったらまた買うわ
https://i.imgur.com/6OcysRT.png
- 131 :考える名無しさん:2024/07/09(火) 18:51:40.42 ID:0.net
- をやうよひぬもせかしれきてくゆんえそつぬこをそつふからひしむれしさらはもけけすりなこさほいなまふれくめとやむ
- 132 :スレ主:2024/07/15(月) 11:56:50.68 ID:0.net
- p40
理性とは、みずからが自体的にはそれであるものへと、じぶんをかたちづくったものなのだ。そのようにかたちづくられることで、理性ははじめて現実的なものとなる。いっぽうこのように結果であるものは、それじしん単純で直接的なありかたをともなっている。というのも、結果〔としてここであらわれてくるもの〕とは自己意識をともなった自由てあり、それはみずからのうちで安らっているからである。この自由はみずからに対立するものを一方の側に置いて、対立するものをそこに置きざりにすることがない。自己意識をともなった自由はかえって、対立するものと和解(フェアゼーネン)しているのである。
- 133 :考える名無しさん:2024/07/23(火) 09:44:31.51 ID:0.net
- p40-p41
★アリストテレスの「不動の動者」にことよせて
いま語ったことがらを言いなおして、「理性とは合目的的なはたらきである」と表現することもできる。かつて自然が思いあやまられ、思考もあやまって認識されていたけっか、自然が思考の上位に置かれた。そのうえ手ぢかなところでは、外的な合目的性が追放されるはこびとなったけれども〔カント〕、この件によって目的という形式が総じて信用を失ってしまったのである。しかしながら、アリストテレスもまた自然を合目的的なはたらきと規定しているとおり、目的とは直接的なもの、安らっているもの、不動なものでありながら、この不動なものがじしん動者なのだ。つまり、それ〔アリストテレスのいう不動の動者〕は主体にほかならない。主体が動かす力とは、抽象的にいえば、自立的に存在することであり、あるいは純粋な否定性であることだ。結果がはじまりとおなじものであるのはひとえに、はじまりが目的であるからにほかならない。
──ことばをかえれば、現実的なものがその概念であるものと同一である理由は、直接的なものが目的として、自己もしくは純粋に現実的なありかたをみずからのうちに有している点ある。実現された目的、いいかえるなら現に存在する現実的なものとは運動であって、生成が展開されたものである。生成というこの不安定なものこそが、自己とがひとしいものである消息は、自己とは結果であって、じぶんのうちに立ちかえったものであるしだいによっている。──みずからのうちに立ちかえったものこそが、いっぽう自己であり、自己とは、ひとしく単純なありかたがじぶん自身へと関係することなのである。
- 134 :考える名無しさん:2024/07/24(水) 10:01:20.29 ID:0.net
- p42−p43
★「主語—述語」という命題形式の不十分さについて
絶対的なものを主体として考えようとする要求から、「神とは永遠なものである」「世界の道徳的秩序である」〔フィヒテ〕、あるいは「愛である」等々といった命題が用いられてきた。
そうした命題にあっては、真なるものがただひたすら主語(ズプイエクト)として定立されているにとどまって、しかしみずから自身へと反省的に立ちかえる(レフレクティーレン)運動としては呈示されていない。
そのような種類の命題においては、「神」という語とともに開始されるけれども、この語は それだけでは(フユール・ジッヒ)意味を欠いた一箇の音声であり、ひとつのなまえであるにすぎない。
述語によってはじめて、「神とはなんであるか」が語られ、述語こそがそのなまえを充たし、意義を与えるものとなる。
空虚であったはじまりは、ただそのおわりにいたって現実的な知となるのだ。そのかぎりでは、見てとることのできないことがらがある。つまり、永遠なもの、道徳的世界秩序等々について、もしくは古代人がそうしたように、純粋な概念、すなわち存在、一者〔パルメニデス〕などをめぐってだけ語ろうとしないのか。
要するに意義を有するものにかんしてのみ語り、意味を欠いた音声をなお付けくわえるのを止めようとしないのか、ということである。もっとも、この神という語によってしるしづけられている消息は、存在(ザイン)とか実在(ヴェーゼン)とか、普遍的なもの一般とかではなく、じぶんのうちへと反省的に立ちかえるもの(レクレクティールテス)、すなわち主体こそが定立されているということにほかならない。
とはいえ、同時にこの件はたんに先どりされているにすぎない。主体(ズプエイクト)が固定した点として想定され、この主語(ズプイエクト)を支えとして、そこにさまざまな述語が付着させられている〔だけである〕。
- 135 :考える名無しさん:2024/07/24(水) 10:02:19.54 ID:0.net
- p42-43
そのように付着させられるのは、この固定した点について知っている者にぞくする運動をつうじてのことであって、その運動はまた点それ自身にも帰属するものとは見なされていないのだ。〔主語(ズプイエクト)である〕点に帰属する運動によってこそ、しかしながら主体(ズプイエクト)である内容は呈示されているはずなのである。
この運動のそなえている性状からすれば、くだんの運動が主語(ズプイエクト)に所属することはありえない。むしろその主語=主体(ズプイエクト)を点として前提としたことからして、運動もまた〔この点に対して〕外的なものでしかありえず、べつの性状をそなえることはありえないのである。
「絶対的なものは主体である」しだいを先どりしておいたけれども、そのような先どりはそれゆえ、主体という概念の現実的なありかたを示すものではない。
そればかりか、その現実的なありかたを不可能なものとさえしてしまう。先どりされ、定立されていたのは、静止した点として主語(ズプイエクト)であるいっぽう、主体(ズプイエクト)にとって現実的なありかたとは自己運動のことだからである。
- 136 :考える名無しさん:2024/07/24(水) 20:38:56.19 ID:0.net
- 中卒コピペ魔
- 137 :考える名無しさん:2024/07/25(木) 09:37:00.55 ID:0.net
- ★知はただ体系としてのみ現実的なものである
さまざまなことがらがこれまで語ってきたところから帰結するが、そのうちでも、とりわけて取りだしておくことができるのは、知(ヴィッセン)はひとえに 学〔体系的知〕(ヴィッセンシャフト)としてのみ、あるいは体系としてだけ現実的なものであり、また呈示されうるという消息である。
さらには、哲学にあっていわゆる根本命題もしくは原理は、それが真なるものであったとしても、それじしん根本命題あるいは原理であるにすぎないかぎりで、すでにそのゆえにまた偽なのである。
──────
>>それが真なるものであったとしても、
>>・・・すでにそれゆえにまた偽なのである。
真なるものが偽?
- 138 :考える名無しさん:2024/07/25(木) 11:31:04.19 ID:0.net
- 自分のブログでやったほうがいいよコピペさん
- 139 :スレ主:2024/07/25(木) 14:15:09.85 ID:0.net
- 死ねや
- 140 :考える名無しさん:2024/07/25(木) 20:43:06.30 ID:0.net
- 知性の欠片もないな
- 141 :スレ主:2024/07/31(水) 15:36:06.90 ID:0.net
- ──その理由からして、根本命題を反駁するのはたやすいのだ。反駁するにはつまり、その欠陥を指ししめせばよいわけであるけれども、根本命題には、それがただたんに普遍的な、ものであり、ことばをかえれば原理であって、はじまりにすぎないものであるがゆえに欠陥がある。
p44
- 142 :考える名無しさん:2024/08/10(土) 12:43:04.55 0.net
- ポストドゥルーズ
- 143 :スレ主:2024/09/14(土) 19:21:55.39 0.net
- p44
いっぽう反駁が根本的なものである場合には、それは根本命題そのものから取りだされ、展開されたものとなる。つまり、対立する断言や思いつきによって、外から異が立てられるといったものではないのである。
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精神現象学(上)
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