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【ドゥルーズ】同一性【差異とは何か】

1 :考える名無しさん:2024/03/01(金) 10:32:02.60 ID:0.net
ドゥルーズの差異と同一性について、我々は好奇心を惹かれる。
小学校の頃の自分、中学校の頃の自分、高校生の頃の自分、昨日の自分、はそれぞれバラバラである。
それらすべてには差異が関わっている。大人の我々は、小学生の頃の自分を自分だと思うだろうか?
同一性がないとして大人は小学生の頃の自分を語るだろうか?
小学生の頃は視力が高かった。でも今は違う。もしそうなら同一性がない。

59 :考える名無しさん:2024/05/21(火) 12:22:10.79 0.net
右に挙げたような説明を要求することは、その要求を満足させることとならんで、本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである。
なんらかの哲学的著作について、その内奥にあるものは、当の著作の目的と帰結を措いて、それ以上にいったいどこで表明されているというのか。
さらには、そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは、なによりも、同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか。
〔ひとはそう主張するわけである。〕とはいえ、このようなふるまいが、認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ、それがまた現実的な認識と見なされる、などというはこびとになったとしてみよう。
その場合には、じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって、それによってことがらそのものが回避される。

――――――

『精神現象学』(上) p13‐14

――――――

なんらかの哲学的著作について、その真髄となりそうなものは、当の著作の目的と帰結以外に、どこにあるだろうか。

――――――ネット眠の解説

60 :考える名無しさん:2024/05/21(火) 17:04:40.54 0.net
そのうえ、ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と、当の努力を現実には省略すること、この両者がむすびあわされているのである。
──そもそも、ことがらはそれが〔上ルビ〕目的〔、、〕とするところで汲みつくされるのではなく、その生成とともに全体となる。目的とは単独では[フユール・ジッヒ]生命を欠いた普遍的なものにすぎない。それは、傾向がたんなる駆動であって、その現実性をいまだ欠落させているのと同様である。
たほう剝きだしの成果とは、傾向を背後に置きざりにした屍なのだ。

──────

精神現象学(上) p14

61 :考える名無しさん:2024/05/22(水) 09:43:20.31 0.net
つづき


──おなじく、相違(上ルビ、、)とはむしろことがらの限界であって、相違が存在するところでは、ことがらはおわってしまっている。
いいかえれば、相違とはことがらが「それではないもの」である。
そのように、目的や成果に、同様にまた或るもの〔ひとつの哲学的体系〕とべつのものとの相違やそれらの評価にかかずらうとすれば、それは、だから、たぶん見かけよりもたやすい仕事なのだ。
ことがらをとらえようとするかわりに、そうしたふるまいはつねにことがらを飛びこえてしまっているからである。
つまり、ことがらのうちで足をとめて、そこに没頭するのではなく、そのような知識はいつでもなにかべつのもとを追いもとめている。
要するに、ことがらのもとにとどまって、これにみずからを捧げるというよりは、かえってじぶん自身のもとにありつづけようとするものなのである。
――もっとも容易なのは、内実をそなえ、堅固なものを評価することだ。
より困難なのはそれをとらえることであり、もっとも困難であるのは、そのふたつのことがらを統合することである。
つまり、内実があり、堅固なものを叙述してみせることにほかならない。


──────

精神現象学(上) p14‐15

62 :考える名無しさん:2024/05/23(木) 09:47:15.71 0.net
★教養のはじまりは、実体的な生からの離脱にある

教養のはじまりとはつまり、実体的な生*1の直接的なありかたを離脱しはじめようとつとめることである。
それがはじまるのはつねに、さまざまな一般的な(上ルビ、、、、)原則と立場にかかわる知識を手にすることによってであるほかはなく、なによりまずことがら一般(上ルビ、、)にかんして思考されたもの(上ルビ、、、、、、、)へと向上しようとつとめることによってである。
さらに、これにおとらず、ことがらを支持するのにも反駁するのにも根拠をもってすること、具体的でゆたかに充実した内容を、その規定されたありかたにしたがい捉えること、くわえて、この内容をめぐって正当な決定と厳粛な判断とを下すすべを知ることをつうじてなのである。
教養のこうしたはじまりは、しかしさしあたりは、充実した生の厳粛さに席をゆずり、その厳粛さによって、ことがらそのものの経験へとみちびかれることになるだろう。
いっぽうまた、なおこの件が付けくわわって、概念の厳粛さがことがらの深みまで達することになった場合でも、これまで語ってきたような知識や評価には、おしゃべりのなかでは、なおもその恰好な場所が残されるしだいとなるだろう。

p15

*1
「教養 Bilding」とはみずからを形成することであるのに対して、「実体的な生 das substantielle Leben」とは、いまだ対立を知らない素朴な生のこと。「反省 Reflexion」がそこに対立をもちこみ、統一された生を分裂させることになる。

p16


──────

精神現象学(上)p15-16

63 :考える名無しさん:2024/05/23(木) 10:28:26.24 0.net
★真理は学的な体系としてのみ実現される

真理が現実在する、〔それじしん〕真なる形態は、ひとり真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学〔愛知〕は学の形式へ、つまりその目標へと、より近づいてゆかなければならない。
その目標とはつまり、「知への愛」というみずからのなまえを脱ぎすてることができ、現実(上ルビ、、)に知(上ルビ、)となることなのだ。
そのための努力に参加することこそが、私のくわだてたことがらなのである。

──────

真理が現実在としてあり、それの真なる形態は、ただ真理の学的な体系以外にはありえない。
哲学は真理を探究する形式を学び、知を獲得する。こうした努力が、ヘーゲルのくわだてたことがらなのである。

──────

精神現象学(上)16

64 :考える名無しさん:2024/05/24(金) 08:49:24.66 ID:0.net
つづき

その内的な必然性からして、知(ヴィッセン)は学〔体系的知〕(ヴィッセンシャフト)でなければならず、この件は知の本性のうちに存することがらである。
しかもこの点にかんするじゅうぶんな説明は、ひとり哲学そのものを叙述することによってだけ与えられる。
外的な(上ルビ、、、)必然性であっても、しかしそれが個々人とその個人的な機縁という偶然性をはなれて、普遍的なしかたで把握される場合、そのかぎりでは内的な(上ルビ、、、)必然性とえらぶところがない。

😀
知は学体系的知であるべきであり、これが本性のうちあるべき在り方である。
この件はただ哲学そのものを叙述することによってだけ説明できる。


―――

精神現象学(上)p16

65 :考える名無しさん:2024/05/24(金) 15:40:52.43 ID:0.net
すなわち時代が、この必然性の諸契機が現に存在するありかたを表象してる形態にあってはおなじものである、ということだ。
哲学を学まで高めるべき時代が到来している。
この件をさし示すことによって、またそのことによってのみ、したがって、その目的をいだく〔本書の〕こころみが真に正当化されるだろう。
なぜなら時代が証明しているのは、その目的が必然的なものであることであろうし、そればかりか同時に、時代はこの目的を実現するにいたるだろうからである。

😂難易度85(最高100)



精神現象学(上)p16−17

66 :考える名無しさん:2024/05/25(土) 10:10:52.50 0.net
★直接知の立場が、このことに反対している

真理がそなえるべき真の形態は、このような学であること《ヴィッセンシャフトリッヒカイト》のうちに定立される。
あるいはおなじことであるけれども、真理にかんして、それはただ概念においてのみ、みずからが現実存在するための境位《エレメント》を有するものと主張される。✤1

──────

✤1 「概念Begriff」とは、ことがらの全体をその本質にあってとらえるものである。真理が知においてとらえられ、知の体系的全体である学のかたちで、叙述されなければならないとすれば、真理を真理とする境位、あるいは場面は、この概念のうちにあることになる。
通常たんに「とらえる、把握する」という意味でも用いられる
begreifen という動詞をヘーゲルは、このような連関で、つよく概念という含意を強調して使用することがあり、そのような場合には「概念的に把握する」と訳しておく。

──────
注釈はp18でしたがわかりやすさを考えました。これがヒントです。

😂難易度93(最高100)

精神現象学(上) p17

p18を一歩早く書きました。

67 :考える名無しさん:2024/05/25(土) 11:42:57.01 0.net
そのばあい私としても、このような主張が或る考えかた(フォアシュテルング)とその帰結とに矛盾しているかに見えるしだいは分かっている。
その考えかたはしかも、当代のひとびとの確信にあって、ひろく行きわたっているとともに、きわめて尊大な僭越を生んでいるものなのだ。

──────

😅💌 難易度98(最高100)

精神現象学(上)p17

68 :考える名無しさん:2024/05/26(日) 10:34:54.93 0.net
それゆえ、このような矛盾についていくらか説明しておくことが、よけいなこととは思われない。
たとえその説明その説明が、ここ〔序文〕では一箇の断言を超えるものではありえず、それは当の説明が立ちむかおうとするものとえらぶところがないとしても、この点にかんしてはうごかない。

😂難易度92

精神現象学(上) p17

69 :考える名無しさん:2024/05/26(日) 11:15:35.64 0.net
〔その考えかたによれば〕つまり、真なるものは、ただ以下のようなもののうにのみ現実に存在し、あるいはむしろ、ひとりそのようなものとしてだけ現実存在する、とされる。
そのものは、あるときは直観、べつの場合には絶対的なものにかんする直接知、宗教、存在──しかも、神的な愛の中心における存在ではなく、かえってその中心そのものの存在──と称されるのだ。
そうであるとすれば、ここからただちに哲学の叙述に対しても、概念による形式とはむしろ正反対のものが要求されるにいたる。

😅💌難易度99(最高値100)

精神現象学(上) p17.18

70 :考える名無しさん:2024/05/26(日) 16:36:27.81 0.net
すなわち、絶対的なものは概念的に把握されるべきではなく、感得され、直観されるべきである、ということである。
絶対的なものの概念ではなく、かえってその感情と直観とが口をひらいて、その感情と直観が語りださなければならないというわけである。


──────

絶対的なものは、常に感得された、あるいは直観されたもので、概念として口をひらくのではなく、直観が語りださなければならない。
(解説 ネット民)
──────

😄🤩難易度56(最高100)

精神現象学(上) p18 

71 :考える名無しさん:2024/05/26(日) 16:47:34.95 0.net
★精神の現況はどのようなものであり、哲学になにが要求されているのか?


このような要求があらわれてきたことを、その要求を生んだより一般的な脈絡にしたがって把握し、自己を意識した精神が現在たっている段階に目を向けてみよう。

😄😂難易度76

──────

精神現象学(上) p18

72 :考える名無しさん:2024/05/27(月) 08:56:58.28 ID:0.net
そうすると精神は、実体的な生──精神はかつて思考の境位(エレメント)という点でそのような生をいとなんでいたのだ──を超えでてしまっていることがわかる。
つまり精神はみずからの信仰が有していたこのような直接的なありかたを超え、確信したありかたに満足し、安らっているありようを超えてしまっている。
そのような確信を意識は、実在とじぶんが宥和していること✤1について、また実在の普遍的な、内的かつ外的な現在にかんして所有していたのである。

😁😆難易度86

──────

精神現象学(上) p18-19

73 :考える名無しさん:2024/05/27(月) 09:09:35.97 ID:0.net
精神は、このような段階を超えて、実体を欠いてみずから自身のうちへと精神が反省的に立ちもどる(レフレクシオーン)、もう一方の極へと超えでているばかりではない。
このような反省(レフレクシオーン)をも超えてしまっているのだ。
じぶんにとって本質的な生が、精神には失われている。それだけではない。
精神はまた、この喪失を意識し、有限性がじぶんの内容となっていることをも意識している。 〔かつて存在していた実体的なありかたの〕残りかすをやめ、みずからが悪しき状態に置かれているしだいを告白し、それを呪いながら、精神がいまや哲学に要求するにいたったところは、むしろ「精神とはなんであるか」をめぐる知ではない。

難易度86

精神現象学(上)p19

74 :考える名無しさん:2024/05/27(月) 09:19:55.39 ID:0.net
かえって、くだんの実体的なありかたと、存在の堅固さとが、哲学によってふたたび恢復されるにいたるところを望むのである。
このような要求に応じるために哲学がなすべきところは、したがってむしろ、実体の閉ざされたありかたを開示して、それを自己意識〔の次元〕まで高めることではない。
つまり、カオスをはらんだ意識を、思考を経た秩序と、概念という単純なあれりかたへと連れもどすことではない。

──────



😄😆難易度83

精神現象学(上)

75 :考える名無しさん:2024/05/28(火) 11:03:51.22 0.net
かえって、思考を分離したものを〔ふたたび〕攪乱し、区別だてをおこなう概念を抑止して、
実在(ヴェーゼン)をめぐる感情を再興すべきである。すなわち、洞察*3ではなく、むしろ信心をこそ与えるべきだ、というのである。
美しいもの〔シラー〕、聖なるもの、永遠なもの〔シェリング〕、宗教と愛〔シュライエルマッハー〕といったところが、必要となる餌であって、それらによって喰らいつく快楽が喚起されるのだ。
概念ではなく忘我(エクスターゼ)が、ことがらが冷然と進行してゆく必然性ではなく、むしろ滾りたつ霊感こそが、実体のゆたかさをささえ、それを不断に拡大してゆくものである、とされるのである。


😍難易度85
──────

✤1と2と3は省かせていただいた。詳しくは「精神現象学 上」

76 :考える名無しさん:2024/05/29(水) 11:13:37.21 0.net
★哲学に対するそのような要求の背後にあるもの

こういった要求に対応するものが、張りつめた、ほとんど熱狂にも接し、いらだっているかにも見える努力であって、そのような努力によってひとびとを、感性的なもの、卑俗なもの、個別的なものへの惑溺から引きはがして、その視線を星辰へと振りむけさせようとするのである。
それはあたかも、ひとびとが〔いまや〕神的なものをまったく忘れはて、塵と水とを与えられて、虫けらのように微小な一点で満ちたりたままであるかのようなのである。
かつてひとびとには、思想と形象の大いなる富をともなう天界が与えられていた。
存在するすべてのものは光の糸につながれて意義をもち、その光の糸によってあらゆるものが天界へとつなぎとめられていた、ということである。
この光の糸をたどることで、この現在に立ちどまることなく、視線は現在をこえて神的存在(ヴェーゼン)を振りあおぎ、いわば彼岸的な現在を仰ぎみていた。
そのとき精神の眼を地上的なものに向けさせて、そこに縛りつけておくためには、むしろ強制が必要であったのである。
だから、長い歳月をかけて、地上を超えたものだけが有していたあの明るみを、彼岸的なもののそなえる感覚が置かれている、陰鬱と混乱のうちへみちびき入れ、現在的なものそのものへの注意━━この注意が経験と呼ばれる━━が関心を惹くもの、意味をもつものとされる必要があったのだ。
━━いまや正反対のことがらが、必要なものとして現にあらわれているかのようである。


━━━━━━

😲難易度87


精神現象学(上)p20-21

77 :考える名無しさん:2024/05/30(木) 09:38:56.93 0.net
つまり、感覚は地上的なもののうちにあまりに深く根を下ろしているので、そのような感覚をおなじく暴力をもって地上的なものから引きあげなければならない、ということである。
精神が示しているすがたはあまりに貧しく、精神はまるで砂漠をさすらう者のごとくただ一杯の水に焦がれるかのように、神的なもの一般をほんのすこしでも感じとって、みずからの英気を恢復しようと憧れているとでも言いたげなのだ。
精神に満足を与えているこのささやかなものをもって、精神が喪失してしまったものの大きさが測られるべきなのである。

受けとったものでかくて満足してしまうこと、あるいは与えることがかくも貧しいものであることは、しかし学にとって似つかわしいところではない。
みずからが地上に現にあり、思考しているにふくまれている、多様なありかたを霧のうちに包みこんで、このふたしかな神性のさだかではない享受を追いもとめる者は、じぶんがどこでそれを見いだすのかを思ってみるがよい。
そのような者であるならば、なにかに熱狂して、その或るもので得意になるすべを、じぶんでたやすく見いだすことになるだろう。
哲学がみずから戒めなければならないのは、だが、信心ぶかくあろうとすることなのである。

──────
😂難易度99

精神現象学(上) p21-22

78 :考える名無しさん:2024/05/30(木) 11:19:42.23 0.net
このようなもので満足してしまうことは、学を断念するしだいであって、そのような満足がましてこのような感激と混濁とをもって、学を超えたなにより高きものであるする要求におよぶことなど、あってはならないところである。

😒難易度92〜94

精神現象学(上)p22

79 :考える名無しさん:2024/06/03(月) 17:02:22.68 ID:0.net
そうした預言者めいた語り口は、まぎれもなく、〔ことがらの〕中心と深みとに佇んでいると思いこんでいるものであって、かくして〔ことがらの〕限定されたありかた(ホロス Horos)〔ギリシャ語〕を、侮辱をこめて見やって、概念とその必然性とから、わざと身を遠ざける。
そういったものは、ひとえに有限性をすみかとする反省にすぎないからだ。
とはいえ、空虚(レール)なひろがりといったものが存在するように、空々しい(レール)深みといったものもまた存在する。
多様であるとはいえ有限的なありかたへた流れでながら、それを総括する力を欠いた実体の延長が存在する。
おなじように、内実をともなわない強度も存在するのであって、それはただの力であるにとどまり、ひろがりを欠いている。
──────

😄💌 難易度86(最高100)

精神現象学 p22-p23

80 :考える名無しさん:2024/06/04(火) 12:43:36.40 ID:0.net
これはつまり、表面的であることにひとしい。
精神の力が大きなものとなるのは、ただそれが発現する(オイセルング)のに応じてのことであり、その深度が深まってゆくのはひとえに、精神みずからを展開し、ひろがりを増してゆくことで、じぶんを喪失するのに耐える度合いにひとしい。

──これと同時に、このように概念をともなわない実体的な知が、自己の固有なありかたを実在(ヴェーゼン)のうちに沈めてしまい、真に神聖なしかたで哲学しているのだ、と称するとしよう。

😍 難易度85(最高100)

精神現象学 p23

81 :考える名無しさん:2024/06/04(火) 15:25:56.07 0.net
その場合でもみずから隠していることがらがある。
それは、この知は神に身をゆだねるのではなく、規準と規定とを軽蔑することで、むしろ或るときにはしぶん自身のうちに内容の偶然性を、べつの場合には内容のなかにあるしぶん自身の恣意を放置しているということだ。
──こうした者たちは実体が制御を欠いて発酵してゆくのに身をまかせるのだから、じぶんが自己意識を包みかくし、悟性をばなすことで、「いとし子」〔旧約聖書、詩篇一二七─二〕
となり、じふんには、眠っているうちに神から智慧が授けられるものと思いこんでいる。かれらがじっさいに眠りのなかで身ごもって産みだすものは、それゆえにまた夢なのである。

──────

自分なりに拘ってしまい、恣意を放置してしまう者は、眠っているときの恩恵もなく、彼が産みだすものはそれゆえにまた夢だ。

😁難易度83(最高100)

──────

精神現象学(上)p23-24

82 :考える名無しさん:2024/06/04(火) 15:37:02.43 ID:0.net
てす

83 :考える名無しさん:2024/06/04(火) 15:59:24.64 ID:0.net
★私たちの時代は誕生の時代である

ちなみに、見てとるかにかたくない消息がある。
私たちの時代が誕生の時代であり、あらたな(かく期、ここではかくが漢字表記)へと移行する時代であるということだ。

──────

かく期とは漢字で表記できない場合がある。そのためひらがなで表記しました。

84 :考える名無しさん:2024/06/05(水) 09:51:09.59 0.net
精神は、これまでの世界と、その現にあるありかた(ダーザイン)においても、そのとらえかた(フォアシュテレン)にあっても手を切って、それを過去へと沈めさり、みずからを改造する仕事に取りかかろうとしている。
精神はというものは、どのようなときでも静止することがなく、たえず前方へと歩をすすめる運動をつづけているのは、たしかなところである。
けれども、〔ここで言おうとしているのは、それだけのことではない。〕子どもは、ながいあいだ静かに〔胎内で〕養われたのちに、〔胎外で〕最初の息を吸い、それまでのただしだいに量を増やしてゆくだけの進展がとつぜん途切れる。
ここに質的な飛躍が生まれ、いまや子どもが誕生する。ちょうどそれとおなじように、みずからを形成する精神もゆっくりと静かにあらたな形態にむかって成熟してゆき、これまでのじぶんの世界という建築物の小部分をひとつずつ解体してゆく。
そのばあい世界の動揺は、ひとえに個々の徴候をつうじて感知されるにすぎない。
徴候というのはつまり軽薄さや倦怠感は、現存しているもののうちで蔓延ったり、未知なものへの不定型な予感がひろがったりすることであるけれど、これらはなにかべつにのものが近づきつつあることの前兆なのだ。
ゆっくりとすすむこうした崩壊によっては、全体の相貌が変じることがなかったとはいえ、そのゆるやかな崩壊は日の出とともに断ちきられる。
陽光が、一閃の光によって一挙に照らしだすものは、あらたな世界のすがたなのである。

──────
🌝 難易度97(最高100)

──────
精神現象学 p24-25

85 :考える名無しさん:2024/06/06(木) 09:36:14.78 0.net
★登場してきたばかりの学には、避けがたく欠陥がある


しかしながら完全に現実的なありかたを、このあらたなものがそなえてはいないことについては、たったいま生まれたばかりの子どもとえらぶところがない。
この件は、本質的にいってみすごされてはならない。
それがはじめて立ちあらわれたときには、このあらたなものはようやくその直接的なありかたを示しているにすぎず、いいかえればみずからの概念であるにすぎない。
建築物が完成したといえるのは、その基礎が置かれたときではないように、全体の概念に到達したからといって、その概念が全体そのものであるわけではない。
一本の樫の木を、逞しい幹とひろがった枝、茂った葉をそなえたすがたで目にしたいと願っているときに、それにかえて樫の実をひとつ示されたとしても、私たちとしては満足するわけにはいかない。
それとおなじように学、精神の世界におけるこの王冠は、そのはじまりにあって完成されているわけではない。

(……あらたな……につづく)

――

🌝 難易度86(最高100)

精神現象学(上) p25

86 :考える名無しさん:2024/06/06(木) 10:30:42.58 ID:0.net
あらたな精神のはじまりとは、多様な教養の形式が広範なしかたで変革されてきたことの所産であり、さまざまに入りくんだすじみちが辿られてきたことの賜物であって、おなじようにさまざまな緊張と努力の賜物である。
そのはじまりは、〔多様なみちすじが〕つぎつぎと開け(ズクツエシオン)、ひろがってきて(アウスブライトウング)、しかもそこからみずからに立ちかえってきた全体であって、つまり生成を経てきた全体がしめす単純な概念なのである。
このような単純な全体が現実になりたつのは、いっぽう、〔いまや〕契機(モメント)となっているくだんの形態のさまざまなふたたびあらたに、しかも境位(エレメント)をもあらたにし、つまり生成してきた意味において展開され、形態を与えられるはこびをつうじてのことなのである。

――

🌝 難易度89

精神現象学(上)p26

87 :考える名無しさん:2024/06/07(金) 10:34:01.08 ID:0.net
一方では、あらたな世界がはじめてあらわれたときには、それはみずからの単純なありかたのうちで蔽われた全体であり、あるいはその全体に対する一般的な根拠であるにすぎない。
その場合〔あらたな世界に直面した〕意識にとっては、これに対して、先行する〔すでに過ぎ去った〕現にあるありかたがそなえていた豊かさが、いまなお想起のうちで現前している。
そうした意識が、あらたにあらわれつつある形態をまえにすると、そこには内容のひろがりと特殊化が欠けているのを託つしだいとなる。
この件にもまして、しかしこの意識が嘆くのは、形式がなおその形成をおえて(アウスビルドウング)いないことである。
そのような形式によってこそ、さまざまな区別が確実に規定され、それらの確乎たる関係へと整序されるからである。
そうした形成をおえていないばあい学には一般的な理解可能性が欠けており、学が身にまとう外観は、それがいくらかの個人の秘教的な所有物にすぎないといったところになる。

──────

😄 難易度93(最高100)

──────

精神現象学(上)p26

88 :考える名無しさん:2024/06/08(土) 15:13:23.41 ID:0.net
──いま「秘教的な所有物」といったのは、学がようやくその概念であるにとどまっているからであり、いいかえれば目のまえにあるものは学の「内なるもの」にすぎないからである。
たほう「いくらかの個人の」とも語ったけれども、それは、学がなお展開されたしかたではあらわれていないかぎり、その現にあるありかたは個人にぞくするものであるからだ。
かんぜんに規定されたものであってはじめて、同時に公教的となり、把握可能であって、学ばれ、したがって万人の所有物に帰することができる。
学の理解可能で悟性的(フェアシユテンディッヒ)な形式が、すべてのひとに提供され、あらゆるひとに対してひとしく開かれた、学へといたるすじみちであって、悟性(フェアシユテンタント)
をつうじて理性的(フェアニユンフテッヒ)な知へと到達しようとすることは、学へと近づこうとする場合、意識が正当に要求しうるところなのである。
悟性とは思考することであり、純粋な〈私〉一般であって、悟性的に理解可能なことがら(ダス・フェアシユテンデイゲ)こそがすでによく知られているものであり、学と学に到達していない意識とに共通した場面だからである。
その場面をつうじて、意識は直接に学へとすすむことができるのである。

──────
😄 難易度99(最高100)

──────

精神現象学(上) p26-27

89 :考える名無しさん:2024/06/09(日) 14:29:15.12 0.net
ここで✤つきの説明文がかいてあるが、省かせていただいた。

──────
学は、それがようやく開始されたばかりで、したがってその細部については完璧ではなく、形式にかんしても完全なものとなっていない場合には、この点をめぐって批難にさらされることになる。
とはいえ、この批難が学の本質(ヴェーゼン)にかかわるものであるなどというならば、それは不当なものであろう。
他方おなじように、学を完全に形成することへの要求を承認しようとしないことも、許されないところだろう。
このような対立がもっとも主要な結び目であって、その結び目をほどくために、学を形成しようとする努力が現在のところ奮闘しているのであり、しかもその件にかんしては、いまだ適切な理解がえられてはいないのだ。
一方のひとびとは素材の豊かさと〔形式の〕理解しやすさ(フェアシュテントリッヒカイト)とを誇っている。
他方のひとびとは、すくなくとも悟性的であること(フェアシュテントリッヒカイト)を軽蔑し、ただちに理性的であり、神的なものであることを誇示している。前者が──真理の力のみによってのことであるか、あるいはまた後者が喧噪をきわめているがゆえにであるかはべむとして──、沈黙を余儀なくされ、そのうえ、ことがらの根拠にかんして圧倒されていると感じているとしても、かれらが、だからといってくだんの要求について満足させられているというわけでもない。
要求は正当であるのに、それが充足されていないからだ。
前者のひとびとが沈黙しているとすれば、それはなかばは〔後者の〕勝利のゆえであるにすぎず、なかばは倦みはて、無関心になっているせいである。
そうした倦怠と無関心は、たえず期待が換気されるのに、約束の履行がともなわないばあい生じるのがならいなのである。

──────

😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p28.29

90 :考える名無しさん:2024/06/10(月) 12:16:15.74 0.net
★学の内容と形式をめぐるあらそい

内容にかんしてはいえば、後者のひとびとがときとして、いともたやすくやってのけるのは、多大なひろがりを手にすることである。かれらがみずからの地盤に引き入れるのは大量の素材であって、それはつまりすでによく知られており、整理されたものなのだ。
その者たちがとりわけてかかずらっているのは、珍奇で好奇心をそそるものであるから、かれらはそれだけに、それ以外のもの、知がそれなりにすでに片をつけてしまったことがらにかんしては〔いうまでもなくすでに〕所有さており、同時にまたまだ整理されていないものも思いのままにすることができるかのように見える。
こうして、そのひとびとはいっさいを絶対的理念のもとに従属させているかに見えるし、その理念がかくてまた、すべてのもののなかで認識され、ひろがりをもって学にいたるまで成長しているかに見えるのである。
しかしより立ちいって、このひろがりなるものを考察してみよう。
そうすれば分かるとおり、そのひろがりがもたらされるのは、「一箇同一のもの」がみずから自身にことなったしかたで形態を与えたことによるのではない。むしろそのひろがり……

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😄 難易度97(最高100)

むしろそのひろがり、までがp29である。

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精神現象学(上)p29

91 :考える名無しさん:2024/06/10(月) 16:58:52.52 0.net
むしろそのひろがりにあっては、「一箇同一のもの」が形態を欠いて反復されている。
「一箇同一のもの」がさまざまな素材に対して外的に適用されているぎすぎないかぎり、そこにふくまれているのは、相違をよそおう退屈なみかけだけなのてある。
ここには、たしかにそれだけで見れば(フユール・ジッヒ)真の理念があるのかもしれないが、その理念にはじっさいにはただみずからの出発点にいつまでも停止しているほかはない。
そこで展開がなりたっているのは、同一の定式がこのように反復されることを措いてはほかにないからである。
ただひとつの不動の形式が、知る主観によって目のまえにあるものに手あたりしだい適用され、素材がこの形式という静止した境位(エレメント)のうちに外から持ちこまれて、そこに漬される。
このようなやりかたでは、内容にかんする恣意的な思いつきを挙げることにおとらず、要求されていることがらを充足することにはならない。
要求されているのはつまり、さまざまな形態がじぶんから豊かなものを溢れださせ、みずから自身を規定して区別することであるからだ。
ここにあるのはかえって、単調な形式主義によって素材の区別が到達されるとしても、それはひとえに区別がすでに準備されていて、よく知られているからにほかならない。

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😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p30

92 :考える名無しさん:2024/06/11(火) 09:25:23.20 ID:0.net
ジルときてドゥルーズだからな

93 :考える名無しさん:2024/06/11(火) 16:46:41.67 0.net
★形式主義の批判──すべての牛が黒くなる夜

そのさい形式主義は、こうした単調なありよう、しかも抽象的に普遍的なありかたをもっと絶対的なものであると主張する。
形式主義の断言するところによれば、この普遍性に満足することができないのは、能力が欠けていて、絶対的な立場を我がものとし、それを堅持することができないからなのである。
かつてならば、或ることがらをべつのしかたでも、考えること(フォアシュテレン)ができる空虚な可能性が存在するというだけで、なんらなの考えかた(フォアシュテルング)を反駁するのに充分であった。
そのうえ、このおなじたんなる可能性、一般的な思想であっても、現象的な認識という積極的価値のすべてをそなえていたのである。

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形式主義は、普遍的なありかたや単調なありかた、どれもが抽象的にせよ、絶対的なものであると主張する。
形式主義の断言だが、この普遍性に満足することができないのは、能力に欠けていて、絶対的な立場を堅持することができないからなのである。
かつては、或ることがらをべつのしかたでも考えることができており、その空虚な可能性が存在するだけで、なんらかの考えかたを反駁するのに充分だった。
そのうえ、このおなじ可能性、一般的な思想であっても、現実的な認識という積極的価値のすべてを網羅していたのだ。

byネット民
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😄 難易度94(最高100)

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精神現象学(上)p30.31

94 :考える名無しさん:2024/06/12(水) 09:45:52.01 ID:0.net
そうであるとしても、私たちが形式主義にあって、同様に見てとるところもまた、非現実的なものでしかないこの形式をとった普遍的な理念に対して、いっさいの価値が帰せられていることである。
そこでは区別されたもの、規定されたものが、さらに展開されることなく、また空虚な深淵へと投げこまれ、そうすることがそれじしん正当化もされていない。
このようなやりかたが、思弁的な考察様式とみなされているのだ。
なにか或る現に存在するものが、絶対的なもののうちでどのように存在するのか。
この件を考察することが、形式主義にあっては、その現に存在するものにかんして、以下のように語ることにほかならない。
すなわち、「いまこの現に存在するものをめぐって、それがなにか或るものであると語りだされることはたしかなところである。
絶対的なもの、つまりA=Aのうちでは、しかしながら、そうした或るものはまったく存在せず、むしろそこではいっさいが「一」なのである。」
絶対的なもののなかでは、いっさいがひとしい。
このただひとつの知をもって、区別をともなって充実した認識、あるいは充実をもとめ、それを要求する認識に対して対抗している。
ことばをかえれば、じぶんがいうところの絶対的なものは、そう語るのがつねであるように、すべての牛を黒くする夜であるなどと公言されている。

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😐 難易度92(最高100)

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精神現象学(上)p31.p32

95 :考える名無しさん:2024/06/13(木) 11:08:49.55 ID:0.net
このようなことは、認識ついては空虚であることに由来する素材さというものである〔以上、シェリングとその学派に対する批判〕。
──形式主義については、最近の哲学がそれを見とがめ、軽んじるようになっている〔ヤーコビとヘルダーによる批判〕。
それでも、最近の哲学自身にあっても、形式主義はふたたび生みだされているのだ。
形式主義が不十分なものであることがよく知られ、また感じられているにしても、学から形式主義がすがたを消すとすれば、それは絶対的に現実的なありたかを認識することが、その本性にかんしてかんぜんに明晰なものとなるはこびを待ってのことだろう。
──一般的な 構 想 (フォアシュテルング) が、それを実現(アウスフユールング)しようとするこころみであるものに先だって与えられれば、それがじっさいに、遂行(アウスフユールング)されるさまを把握することを容易にする。
そも事情を考えてみると、その構想のあらましをここで暗示しておくことも一法である。
それはまた同時に、この機会をとらえて、いくつかの形式を遠ざけておくことを意図するものであって、その形式とは、それが習慣となることで、哲学的な認識を妨げてしまうものなのである。


😆 難易度99(最高100)

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精神現象学(上) p32

96 :考える名無しさん:2024/06/14(金) 13:01:38.91 0.net
★真なるもの主体として把握され、表現されなければならない。

私が見とおしたところ(アインジヒト)は、ただ体系そのものを叙述することをつうじて正当化されなければならない。
その 洞察(アインジヒト)にしたがうならば、いっさいは、真なるものを実体としてではなく、むしろ同様に主体として把握し、表現することにかかっている。
同様に注意されなければならないことがある。
それは実体的なありかたが、普遍的なもの、あるいは知そのものの直接性を含んでいるとともに、知に対しての存在であり、もしくは知に対しての直接的なありかた(ウンミツテルバーカイト)である 直接性(ウンミツテルバーカイト)をもふくんでいるということである。

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ウンミツテルバーカイトというドイツ語を、直接的あるいは直接性と、熊野純彦氏は訳している。また、アインジヒトを、見とおした、あるいは洞察と訳している。

😄 難易度97(最高100)

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精神現象学(上)p33

97 :考える名無しさん:2024/06/14(金) 13:55:44.75 0.net
──神はただひとつの実体として把捉すること〔スピノザ〕が、そのような規定が言明された時代、当時のひとびとを激昂させたことがある。
ひとつにその理由は、そのように規定すれば、自己意識はただ没落するばかりであって、維持されることはない、というしだいが本能的に感じとられたことにある。
いっぽうしかしその反対の見解、つまり思考としての思考に、すなわち普遍性そのものに固執する見解もまた〔カント、フィヒテ〕おなじように単純なありかたに固執しており、区別をふくまず、動くこともない実体的なありかたに陥っている。
さらに第三に、思考が実体の存在をみずからと合一させて、直接性あるいは直観作用を思考して把握する場合〔シェリング〕であっても、なお問題が残っている。
つまり、こういった知性的な直観作用もふたたび惰性的で単純なありかたに立ちもどってしまい、現実的なありかた自身を非現実的なしかたで呈示するものとなるのではないか、ということなのである。

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😅 難易度97(最高100)

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精神現象学(上)p33.34

98 :考える名無しさん:2024/06/15(土) 15:36:33.49 ID:0.net
生き生きとした実体とは、さらにいうなら、存在でありながら、その真のありかた(ヴァールハイト)においては主体であるものである。
あるいは同じことであるが、その存在が真に(イン・ヴァールハイト)に現実的であるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動であるかぎりにおいてにすぎない。
いいかえれば、みずから他のものとなってゆくことでじぶん自身と媒介するかぎりにあってのことなのである。
生き生きとした実体は、主体であるがゆえひ純粋かつ否定的なありかたをともなっており、まさにその消息をつうじて単純なものでありながら、ふたつに分化していることであり、あるいはふたつのものへと二重化して対立しつつ、当の二重化がふたたび、このたがいに無関心な相違とその対立とを否定するはたらきなのだ。
このように〔他のものから〕みずからを恢復してゆく〔自己〕同等性であり、いいかえるならば、他であることのうちでじぶん自身へと反省的に立ちかえること──つまり、根源的にもともと 統一されたありかた(アインハイト) をしているのではなく、あるいはもともと直接的な統一性(アインハイト)であるわけでもないというこた──、これこそが真なるものである。
真なるものとはじぶん自身への生成であり円環であって、その円環はみずからのおわりをその目的として前提し、当のおわりをはじまりにおいて有している。
だから真なるものは、ひとえにその目的を実現して、おわりへと到達することによってのみ、現実的なものとなるのである。


──
😀 難易度99(最高100)

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精神現象学(上)p34.35

99 :考える名無しさん:2024/06/16(日) 13:13:31.66 ID:0.net
ジル・サンダーの叔父か

100 :考える名無しさん:2024/06/16(日) 13:51:03.52 ID:0.net
★実在(ヴェーゼン)それをとらえる形式は不可分である

神の生命ならびに神的認識についていえば、それは、したがってたしかにか〔神の〕「愛がみずから自身とたわむれること」〔スピノザの神の知的愛 以下ドイツ語省略〕であると言明されうることだろう。
こうした観念は、しかし、ただの信心ぶかさ、そればかりか陳腐なものにすら成りさがってしまうことがある。
それは、否定的なものが有する真摯さ、痛み、忍耐、さらには労苦がそこに欠落している場合なのだ。
それ自体として(An sich)みるならば、神の生命は、みずから自身とひとしく、ひとつであること(アインハイト)であって、そこに攪乱はない。
この統一されたありよう(アインハイト)にとっては、他であることは真摯に受けとめられるべきことがらではなく、異他的なものとなることも、この異他的となること〔そのもの〕を克服することも真摯に受けとめられてはいない。
とはいえ、いま語りだされた「自体的なありかた」とは抽象的に普遍的なありかた(アルゲマインハイト)であって、当の自体的なありかた(Ansich)である普遍的(アルゲマインハイト)のうちでは、その本性からして、しぶんに対して存在することが、度外視されている。

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😁 難易度99(最高100)

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精神現象学(上) p35.36

101 :考える名無しさん:2024/06/17(月) 14:37:30.74 0.net
このじぶんに対して(フユール・ジッヒ)存在することが無視されているはこびによってまた、そもそも形式がみずから運動することも慮外に置かれているのである。
「形式は実在と同等である」〔シェリング〕と言表される場合、まさにそれゆえひとつの誤解が生まれて、認識は「自体的なありかた(アンジッヒ)」あるいは「実在(ウェーゼン)」で満足しうるのだから、いっぽう形式はどうでもよいと思いこまれてしまう──つまり、絶対的な根本命題〔フィヒテ〕あるいは絶対的な直観〔シェリング〕がありさえすれば、その命題を実現し、もしくは当の直観を展開することなど必要がない、というわけである。
形式が実在にとって本質的であるのは、実在(ヴェーゼン)がじぶん自身にとって本質的なもの(ヴェーゼントリッヒ)であることとしい
ほかでもないその理由からして、実在はたんに実在として、すなわちひたすら直接的な実体あるいは神的な純粋な自己直観として把握され、表現されればよいというものではない。
実在はむしろ同様に形式として、しかも展開された形式が有するゆたかさのすべてにおいて把握され、表現されなければならない。
かくてはじめて、実在は現実的なものとして把握され、表現されるのだ。

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😁 難易度92(最高100)

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精神現象学(上) p36.37

102 :考える名無しさん:2024/06/18(火) 12:13:15.47 0.net
★真なるものは全体である。全体とはいっぽう、ひとえにみずから展開することをつうじて完成される実在のことにほかならない。
絶対的なものにかんして語らなければならないところは、それが本質的にいって結果であり、おわりにあってはじめて、それが真にあるありかたで存在する、、ということである。
まさにこの点に、絶対的なものの本性がある。
つまり現実的なものであり、主体であり、ことばをかえれば   じぶん自身へと生成してゆく(ジッヒゼルプストヴエルデン)ものであう、ということだ。
「絶対的なものは本質的に結果として概念的に把握されなければならない」と語ると、それはひどく矛盾したものに聞こえるかもしれない。
それでもすこし考えてみれば、この矛盾という見かけは匡(ただ)されるだろう。 (……はじまり、 につづく……)

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😦 難易度93(最高100)

横槍)>>真なるものは全体である。
    これは早計か。

>>全体とはいっぽう、ひとえにみずから展開することをつうじて完成される実在のことにほかならない。
全体とは、……完成される「実在」なのだろうか。「実在」とは思えない。

???
なんやかんや、説明がわかりづらい。

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精神現象学(上) p37

103 :考える名無しさん:2024/06/19(水) 11:18:31.47 0.net
はじまり、原理とは、絶対的なものが、まずは直接的なかたちで言明されたものであって、(p37の最期(言明されたものであって、の部分))

それはたんに普遍的なものにすぎない。たとえば私が「すべての動物」と言いはじめたところで、そのことばをもって動物学〔にぞくする言明〕とみなすわけにはいかない。
これとおなじことで、たやすく気づかれるとおり、神的なもの、絶対的なもの、永遠なるもの等々のことばを口にすれば、そこにふくまれていることがらを言明しているというわけではないのだ。

──────

😀 難易度82(最高100)

原理や絶対的なものが、まずは直接的なかたちで言明されたとしても、それは普遍的なものにすぎなかったりする。
私が「すべての動物」と言ってもその言葉を持って動物学とみなすわけにはいかない。
これとおなじで、神的なもの、絶対的なもの、永遠なるもの等々の言葉を口にしても、そこに学はないのである。

解説、ネット民

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精神現象学(上) p37-38

104 :考える名無しさん:2024/06/20(木) 10:19:47.45 0.net
こうしたことばが表現しているのは、じっさいには直接的なものとしての「直観」にすぎないのである。
──そういったことば以上のものといえば、それは他なることであって、この 他なること(アンデルスヴェルデン)とは、そこから立ちもどってこなければならないものである以上、一箇の媒介である、
この媒介こそが、しかし〔直接性を強調する立場からすれば〕忌みきらわれているところにほかならない。
それはあたかも、媒介についてそもそも、「それは絶対的なものではまったくなく、絶対的なものにおいてはすこしも存在する余地がない」という以上のことを言おうものなら、絶対的な認識が、それだけで放棄されると言わんばかりなのである。

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😂 難易度90(最高100)


>>こうしたことばが表現しているのは、じっさいには直接的なものとしての「直観」にすぎないのである。
>ことばが表現しているのは、直観の類ではない。よって詭弁とみなす。


二行目、ことば以上のももといえば、……のくだりも詭弁とみなす。
三行目も四行目も詭弁とみなす。

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精神現象学(上)p38

105 :考える名無しさん:2024/06/21(金) 15:24:14.47 0.net
媒介がこのように忌みきらわれるのは、とはいえじっさいには、媒介と絶対的認識そのものの本性がよく知られていないことに発している。
なんといっても、媒介とはみずから運動しながらじぶん自身とひとしいありかたにほかならない。

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😄 難易度85(最高100)

媒介について嫌われるのは、よく分からないものだからだ。

──────

精神現象学(上)p39

106 :考える名無しさん:2024/06/21(金) 15:44:19.72 0.net
んまぁ、区別がはっきりしておれば、いかなる言表であっても直観を損なうことがないからだ

107 :考える名無しさん:2024/06/22(土) 13:52:02.31 0.net
あるいは媒介とは、みずから運動しながらじぶん自身へと 立ちかえってゆくこと(レフレクシオーン)であり、自立的に(フユール・ジッヒ)存在する〈私〉をかたちぐくる契機なのである。
媒介はつまり、純粋に否定的なありかた(ネガティヴィテート)であって、この 否定性(ネガティヴィテート)を純粋に抽象へと引きおろして言いかえるなら、それは単純な生成なのだ。

──────

😂難易度86 (最高100)

媒介のくだりで詭弁を展開するヘーゲルだ。
単純な生成なのだ、という意見もてきとうに値するだろう。

p39

108 :考える名無しさん:2024/06/23(日) 12:17:24.63 ID:0.net
〈私〉あるいは生成一般であるこのようなこの媒介作用は、それが単純なありかたをしていることからいっても、直接的なありかたが生成することにほかならず、かくて直接的なものそれ自身である。──それゆえ、理性を誤解することにつながるのは、反省(レフレクシオーン)を真なるものから排除して、それを絶対的なものにとって積極的な契機ととらえないことである。

──────
😁 難易度93(最高100)

→直接的なものそれ自身である
詭弁。

→積極的な契機
何のことやら。

──────
精神現象学(上)p39

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