2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

すがちゃんねるPART3

57 :考える名無しさん:2024/05/02(木) 16:40:17.44 ID:0.net
絓 つまりどういうことかと言うと、革マルの支配というのは「殺す」ということではなくて、
「生かす」ことなんですよ。キャンパスにおいて「生きさせる」ことによって支配する。そういった
「生きさせる」 支配に対して山村 (梁) 政明は抗議をして焼身自殺をしたというふうに、
後知恵的かもしれないけれども、捉えることができる。

この映画には革マルによる支配とは何だったのかということに対する歴史認識が全くないんです。
山村 (梁) 政明のことを想起せずに『ゲバルトの杜』なんていう無神経なタイトルをつけてしまう
この映画は何なんだろうという怒りがありますね。

あと、樋田さんの本にしてもこの映画にしても、今の早稲田は平和になったということになっています。
90年代の奥島総長による革マル派の早稲田大学からの括弧つきの「放逐」があって
平和になってよかったねというのが樋田さんの本の大前提で、この映画でもそうなっていますよね。


花咲 そこが最大の問題だし、そのことを象徴的に表しているのが、この映画のプレス資料の表紙で、
おもて表紙が大隈銅像あたりからヘルメットを被っている学生たちを撮った当時の写真で、
裏表紙がおもて表紙と同じ構図で今の平和そうに歩いている学生を撮った写真が使われている。
奥島当局の英断によって革マル派が一掃され、平和な学園が戻ってきたと言いたいんでしょうが、
トンデモないことです。

学生自治やサークル自治を当局のコントロール可能な領域に押し込めるために、革マル派を
地回りヤクザよろしく活用していたのを切り捨てただけ。企業が、反対勢力が弱体化すると見るや
否や総会屋を切捨てるのと全く構図は一緒です。


亀田 おもて表紙の写真は当時のものではないのですよ。


花咲 えっ、そうなんですか。

155 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :

read.cgi ver.24052200