2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

宝塚エリザベート総合スレ 14

1 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/10/13(木) 21:26:11.27 ID:lw7a3Pvd.net
96年の初演雪組エリザから09年の月組エリザまでの本公演に
今年秋開催されるスペシャルガラコンサートまで、
宝塚の超ヒット作エリザベートについて色々語りませう。


前スレ
宝塚エリザベート総合スレ 11
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/siki/1360375814/
宝塚エリザベート総合スレ 12
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/siki/1413775147/
宝塚エリザベート総合スレ 13
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/siki/1472609373/

913 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:19:16.67 ID:NRgZ2VI1.net
ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")

914 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:20:34.20 ID:NRgZ2VI1.net
エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。

915 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:21:44.84 ID:NRgZ2VI1.net
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。

916 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:23:18.94 ID:NRgZ2VI1.net
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。

917 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:24:16.80 ID:NRgZ2VI1.net
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。

918 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/08(火) 23:25:51.84 ID:NRgZ2VI1.net
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
捨て子として孤児院に入れられ、孤児院から孤児院、里親から里親へとたらいまわしにされた。定職に就けず、国から国へと渡り歩いた先のスイスで無政府主義に出会い、傾倒した。
生まれながらに特権を享受する王族や貴族階級は、彼にとって誰よりも憎むべき存在でなければならなかった。("キッチュ〈リプライズ〉")

919 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:35:07.63 ID:hanSnlD+.net
梅芸もe+もローソンもぴあも抽選ハズレたけど、ぴあ一般で姿月トートのフルコスチュームバージョンS席取れた。一階後方サイドだけど、取れただけでも有難い。

920 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:43:05.19 ID:XXEEcNNx.net
1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")

921 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:43:52.37 ID:XXEEcNNx.net
(晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)

922 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:44:57.39 ID:XXEEcNNx.net
ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。

923 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:46:16.22 ID:XXEEcNNx.net
沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")

924 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:47:02.69 ID:XXEEcNNx.net
1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。

925 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:48:50.23 ID:XXEEcNNx.net
彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")

926 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:49:41.04 ID:XXEEcNNx.net
...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)

927 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:51:23.31 ID:XXEEcNNx.net
エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。

928 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:54:17.35 ID:XXEEcNNx.net
一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。

929 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:54:47.35 ID:f9rDxDdX.net
一般販売分の支払い期限が8日までだったからね
チケキャンで大量に転売してる人がいて7日昼で掲載が消えたから
その売れなかった分が今日戻ってくるだろうなと思ってた
なんとか定価で買えてよかった

930 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:55:37.30 ID:XXEEcNNx.net
宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。

931 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 10:56:26.09 ID:XXEEcNNx.net
また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。

932 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:01:15.53 ID:ZZWX8Tt3.net
>>919
いいなあ
ログインではねられて、やっと入れたら6桁の数字でまたはれねられて
未だにログインできないよ

933 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:03:22.46 ID:ZZWX8Tt3.net
もう完売したみたいだね
はーあ疲れた

934 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:08:13.76 ID:xAxnL4bq.net
あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。

935 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:09:27.47 ID:xAxnL4bq.net
1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。

936 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:10:09.90 ID:xAxnL4bq.net
トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。

937 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:11:02.32 ID:xAxnL4bq.net
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。

938 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:11:32.00 ID:xAxnL4bq.net
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。

939 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:13:15.69 ID:xAxnL4bq.net
エリザベート (ミュージカル)

『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。

940 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:14:05.31 ID:xAxnL4bq.net
作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。

941 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:14:41.54 ID:xAxnL4bq.net
「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。

942 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:15:59.83 ID:xAxnL4bq.net
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。

943 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:16:51.52 ID:xAxnL4bq.net
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。

944 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:20:47.19 ID:t81JTGEN.net
ぴあ梅田水、東京春野まだある がんばれ

945 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:24:22.32 ID:kIepr2Yy.net
ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")

946 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:25:28.56 ID:kIepr2Yy.net
1853年、南ドイツの緑に囲まれた湖畔のポッセンホーフェン城では、エリザベートの父マックス公爵が旅に出ようとしていた。自由奔放に生きる父親の影響で、宮廷生活とは無縁の片田舎で詩や乗馬を好む少女として育ったシシィは、
予定されている親戚同士の集まりから逃げだすため、父と一緒に行きたいと願い出る。("パパみたいに") 親戚の集いでは、母ルドヴィカから長女ヘレネがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とお見合いをするとの発表がある。縁談はルドヴィカの姉でオーストリア皇太后のゾフィーが取り持った。

947 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:25:58.62 ID:kIepr2Yy.net
("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")

948 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:26:24.02 ID:kIepr2Yy.net
その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。

949 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:27:13.93 ID:kIepr2Yy.net
次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)

950 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:27:38.13 ID:kIepr2Yy.net
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。

951 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:28:04.20 ID:kIepr2Yy.net
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")

952 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:28:37.32 ID:kIepr2Yy.net
(結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")

953 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:29:38.54 ID:kIepr2Yy.net
数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")

954 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:30:08.62 ID:kIepr2Yy.net
やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")

955 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:30:35.34 ID:kIepr2Yy.net
行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")

956 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:31:14.51 ID:kIepr2Yy.net
宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")

957 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:33:28.00 ID:xyHl25W3.net
結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。

958 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:33:51.84 ID:xyHl25W3.net
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")

959 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:34:24.19 ID:xyHl25W3.net
しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)

960 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:34:54.30 ID:xyHl25W3.net
19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。

961 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:35:28.47 ID:xyHl25W3.net
次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")

962 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/09(水) 11:37:55.58 ID:xyHl25W3.net
1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。

総レス数 962
513 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★