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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

2 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:07:09.07 .net
前スレ

坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329022431/l50

3 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:14:10.01 .net
改めて書きます。

684年(天武13)に制定された八色の姓(やくさのはばね)、その5番目、道師(みちのし)、こそ、道の管理、流通や情報伝達をつかさどる毛野に与えられるはずの姓(かばね)だった。
ところが、その直後に起きた白鳳の大地震、つまり、南海トラフ巨大地震と推定される地震で、東国との連絡網が途絶えてしまった。
これが、八色の姓の5番目、道師(みちのし)が賜姓されなかった本当の理由である。

4 :日本@名無史さん:2014/09/03(水) 18:09:31.26 .net
東山道の新田駅家から東に二駅目くらいに三毳山〈みかもやま〉があり麓には、三鴨駅家があった。
これが一番、毛野国らしい駅家だと思うな。

5 :日本@名無史さん:2014/09/03(水) 19:11:30.92 .net
へえそうなん(・ω・)ノ
まあ米とかを運ぶ流通路はあったみたいだな

6 :日本@名無史さん:2014/09/03(水) 21:56:25.45 .net
佐野と言えば、犬伏宿と天明宿。
天明の方は鋳物の街だけれど、白村江のころから毛野氏の鎧や兜を作っていたのだろう。
犬伏宿の方は藤原秀郷ゆかりの唐沢城の麓です。
唐沢城からは江戸大火も見えて、それを危険視した徳川幕府は佐野氏を改易し、佐野庄を天領にしたという。

7 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 01:05:50.75 .net
徳川氏って毛野国から見たらゴミみたいな氏族だよな。
新田氏ですら遙かに新参者なのにそのシッポ以下のシッポですら怪しいという。

武家の祖の八幡神社は応神を祀るが
その応神の朝鮮征伐に参戦してたのが毛野氏じゃん。

八幡神社って毛野氏を崇めてる神社?

8 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 08:30:03.97 .net
下野国新田郡徳川郷を名字の地と見なされて少し北方に日光東照宮は、燦然とその凛とした勇姿を現したのであろうか。今や世界の各地から観光客が訪れる日本屈指の名所旧跡だ。
見猿言わ猿聞か猿。小野猿麻呂のお友達も上毛野国に睨みを利かす。八幡神社が崇めているのは誰かって。義家と毛野氏は全くの無関係。毛野氏を崇めている神社なら東北の方に
一、二カ所、上毛野田道の神社かあるらしい。時が変わって正月参賀日、明治神宮のお賽銭ときたら銀行員もテンヤワンヤの大騒ぎ。それに引き換え陸奥の田道の神社と来た日には、
寂しそうに閑古鳥が鳴いているだけなのかもしれない。

9 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 12:08:57.13 .net
まーた他氏族貶めてる基地外が来てるな

10 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 13:36:06.89 .net
北海道は札幌市に豊平神社もあるで。上毛野田道を祀っている。

11 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 14:04:50.85 .net
豊平川のシャケ供えるべ

12 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 14:27:26.02 .net
川漁用のヤスには、鮭用、鮎用と様々なものがある。貴殿は、ざるでドジョウ位すくったことはあるのかね。

13 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 14:46:15.95 .net
おい!
ちょっとスレを上げているやつ身元名乗ってみ?!w

14 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 15:04:35.57 .net
武茂郷出身ですが。那珂川流域では、ヤスでサケや鮎をついたり、上流の方では笊でドジョウをすくっていますか、何か疑問点があるのですか。

15 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 15:26:46.46 .net
那珂川沿いの高瀬の簗近くで、ドジョウ汁が出てきたので少し食べてみたら丼には五十匹ぐらいの天然ドジョウが入っていて驚いたわ。

16 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 16:29:29.57 .net
古代の食卓
春先は木の芽の季節である。私はタラの芽や白木の芽を取ってきて食したことがある。ところが都市部の八百屋では、タラの芽はあっても白木の芽はないらしい。古代人は、もっと豊富な木の芽を食糧源としていたのではないだろうか。
皆さん、白木の芽を食べたことはありますか。 ?

17 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 17:51:25.29 .net
★【群馬】国内初の骨製小札 6世紀初め渋川の金井東裏遺跡

六世紀初め(古墳時代)の火山灰層からよろいを着けた男性の骨が出土した渋川市の
金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、動物の骨でつくられた小札(こざね)と呼ばれる
短冊状の板が新たに見つかったことが二十日、県埋蔵文化財調査事業団の調査で分かった。

数十枚が連結された状態で、よろいの一部か付属品とみられる。事業団によると、骨製小札が
見つかったのは国内で初めて。同日、県の検討委員会で報告した。

骨製小札は、一枚が縦六・六センチ、横約三センチ、厚さ数ミリ。一段あたり十数枚が、
三段にとじられていた。男性の骨の出土場所近くで、巻かれた状態で見つかった別の
鉄製よろいの内部にあった。

韓国で四世紀の骨製小札が出土した例があるとされ、今回の小札は穴の開け方から、
韓国の技術を用いて日本でつくられた可能性が高いという。

事業団の右島和夫理事は「材質から考えて、防具としての機能よりも視覚的なアピールが
重視されたのではないか。遺跡の意義を東アジアの枠組みで考える必要性が高まった」
と話している。また、男性がつけていたよろいは羽織った状態だったことも、
CTスキャンを使った調査で新たに分かった。

東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131221/CK2013122102000174.html
渋川市の金井東裏遺跡で見つかった骨製小札(県埋蔵文化財調査事業団提供)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131221/images/PK2013122102100058_size0.jpg

18 :日本@名無史さん:2014/09/04(木) 21:17:13.93 .net
残念ながら渋川は、その時代、毛野ではなく、新潟方面から侵入してきた物部氏に占領されていた。
その武具も、物部氏のものだろう。物部氏は朝鮮半島からやってきた渡来系で、毛野の領土に侵入し、氷川神社を関東各地に残している。

19 :日本@名無史さん:2014/09/05(金) 01:41:43.10 .net
物部は製鉄の全過程に関わってた氏族(物部連)の総称で日本人だよ。
結社かコンツェルンみたいなもん。
現代でいうと「三菱グループ」みたいなもん。
後には渡来人の秦氏も加わるけど。
朝鮮半島は東国などと並んで、その進出先の一つ。秦氏を日本に連れてきたのも物部連でその絡み。

20 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 00:28:17.68 .net
東国の歴史は、上毛野、下毛野、武蔵、相模に別れる以前の記録がほとんどない。
それは、文字が抹殺されたからではなく、残りにくい媒体に記録されていたためだろう。
例えば、縄文字、沖縄やインカ帝国のキープ。
竹の皮、木の皮に書いた。
一番の可能性は口伝。
言霊の力を信じていたのだ。

21 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 06:27:42.46 .net
>>20
河川氾濫圏内(湿地帯含む)に留意するように

22 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 07:36:33.23 .net
この、結縄文字には2種類あって、
1、川のように垂らすタイプ・・・これは蛇のように見える

http://www.gondo.com/g-files/wara/qui.jpg

2、両側に垂らすタイプ・・・これはムカデに見える

http://www.gondo.com/g-files/wara/warasan.jpg

これは恐らく違う部族のものであり、両部族は男体山と赤城山をご神体として対立していた。
そして、日光戦場ヶ原で対決することになる。
勝ったのは蛇で、その後、日本中の神社のしめ縄は蛇タイプになった。

この藁算というものは、商取引の記録、住民基本台帳にも使われていたとされ、
東国の総合商社である毛野と物部ともに蛇タイプの結縄文字を使用する同族と思われる。

23 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 08:00:37.18 .net
考古学的知見と日本書紀の記述(崇神帝、四道将軍)との連関性にも注目されたし。

24 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 16:39:53.74 .net
豊城が290〜330(318没崇神+20)
八綱田が310〜350 で垂仁時代の狭穂彦王の叛乱が330〜340(20〜40のときに将軍として畿内の乱を鎮圧)
彦狭島王 330〜355 早死 滋賀〜美濃止まり?
御諸別王 350〜390 関東平野に到達・蝦夷征伐あり
荒田別・鹿我別 370〜420 応神遠征に同行

25 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 16:45:22.35 .net
360〜370までに関東平定が終わってないと394応神の朝鮮征伐に軍勢連れて同行できない。
340くらいまでは畿内に留まっている。

つまり実際に関東征伐をしたのは御諸別王か。
300〜360までが関東遠征の期間。

だが300〜330の関東周辺の遺跡の変化はないらしいので=民間交流すら見られない。
350〜370に毛野氏がきたものと思われる。

26 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 16:49:04.76 .net
群馬・栃木の初期古墳は4世紀末に見られるので
300年代後半に来たのか?

ただ土器=民間人は280までくらいに少数の集団が畿内かどこかから関東に来てたらしい。
卑弥呼の死後に来た?集団がいる模様。

27 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 20:09:15.52 .net
奈良時代の人口と兵士
初期の頃の日本の総人口は、500万人弱とされている資料が多いようだ。一郷あたり1399人と想定して、それに郷数を乗じて算出するらしい。下野国は70郷だったので9万7千人になるという。
したがって、古代毛野国の人口は、おおよそ二倍にして那須国分を控除することになる。すると約18万人となる。飛鳥や古墳時代は、緩やかに逓減する。この数字から兵士の動員数5万人というのは、
大風呂敷の荒唐無稽なる絵空事と言わざるを得ない。まず女子は省かれるので半夏する。残りから、さらに老若を除くのである。5万人と言ったら適任者のほぼ全員になってしまう。周りのの信濃や、
武蔵国、まとまった感じのしない国造の多い常陸国などなが八紘一宇になるなど夢にも思えないのである。

28 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 20:32:59.59 .net
>>27
禿げ上がるくらいに同意!

29 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 02:20:46.04 .net
>>27
>尾張が2万なら毛野は5万くらいだろ。

「誇張」を入れても「洪水だらけの尾張よりは開発できてるから兵力はでかい」
んだから【それに合わせた数字】なだけですが。

尾張が2000なら毛野が5000という意味で5万といったまでですけど
そんなに変というなら「尾張が2万なのがそもそもおかしい」って書いてある
日本書紀28巻
(尾張國司守小子部連 鉤、率二萬衆歸之)
に文句言ってくれ。


尾張 鬼頭宏 5.5万 澤田吾一@ 5.5万 A 5.5万
上野 鬼頭宏 11.2万 澤田吾一@16.5万 A10.4万
下野 鬼頭宏 7.7万 澤田吾一@9.7万 A10.2万

尾張 人口5.5万人で兵力2万?

5.5 VS 18.9 or 26.2 or 20.6
1 VS 3.4倍 4.7倍 3.7倍

尾張が2000なら毛野氏は6800〜9400
尾張が5000なら毛野氏は17000〜23500
尾張が1万なら毛野氏は3.4〜4.7万
尾張が2万なら毛野氏は6.8万〜9.4万

「尾張が2万なら毛野氏は10万」
が正しいねー
5万じゃなかったわ、失礼。

30 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 02:27:13.02 .net
うーん、見れば見るほど天武は尾張の軍勢で大逆転したとあるが
毛野氏の軍団規模はすさまじいなと。

「天武が大喜びした大軍勢の尾張を毛野氏は全滅」できるくらいの規模。

倭国軍主力だしな。第二軍総軍で1万7000で、他の地域があるにしても1万3000〜1万5000くらいは出せたな。
「壬申の乱で尾張2万」なんて嘘くさいが=実際2万じゃなくて2000だとすると実に現実通り。
>人口5万で兵力2000は「4%」だからそんな程度。<「人口の4%は問題なく出せる兵力数」

白村江の兵力数に関してはかなり信憑性が高いな。
毛野氏はこの時代に兵士が1万5000超えくらいいるね。
そんで尾張は2000だろうな。

31 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 02:36:56.59 .net
690くらいの毛野氏は
平常動員数が1万3000で
最大動員数が2万6000くらいか?<人口の10%根こそぎ動員かけると

戦国時代だとすると兵力3万の大名だな。
戦国最大クラスの大名だな。

そんで遠征が多いから騎馬の比率も高いかと。

32 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 08:13:39.96 .net
後の時代になるが、毛野はアテルイとの戦い、東北遠征でも数万の兵が徴用され疲弊している。
防人として九州へ行くにも、旅費が出るわけではなく、手弁当で行かねばならぬ。
九州に歩いて、一部船で行くにしても村中から有り金残らず集めなければならなかったはず。
白村江の戦いでも5万の兵を出してその殆どが帰国できず、生き残った兵は現地化した。
神功皇后の時代から毛野は武人として兵役に就いているから、現地化した集落が多い。
例えば、九州の豊前上毛町には三毛郡(みけの こおり)があった。
大和朝廷へ租庸調を差し出すのも自力で運ばなければならず、野垂れ死んだ。
大和朝廷が来てから毛野にはろくなことがない。
非征服民として、奴隷のように扱われたのだろう。
平将門の気持ちがわかるだろう?

33 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 09:48:15.82 .net
>>29
>>30
確かにそんな感じだろうね。況してや当時の尾張は今の名古屋中心部辺りまで
内湾状態だったわけだし。

34 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 19:26:14.15 .net
>平将門の気持ちがわかるだろう?

将門の方がひどいですぅー
東国を滅ぼしたのは火山灰以外では将門=桓武平氏が最悪だった

マジで東国が荒廃したからな。

35 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 19:29:37.01 .net
尾張は平安時代から戦国時代にかけてすごい石高=人口が増えるが
それは後の時代のこと。

1000年以前は全然まったく毛野国には歯が立たない地域。

みたいな貧乏地域の援軍で畿内が一気に盛り返すって・・・ ワロス
どんだけ畿内ザコなんだよ。

36 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 22:20:38.70 .net
古代の公共の宿、駅家って食事付きと違うか。
奈良時代になると白河軍団や安積軍団、磐城軍団とか計八軍団はあったけれど、
上野軍団ってあったか。 ?

37 :日本@名無史さん:2014/09/07(日) 23:04:02.90 .net
押し入り強盗は犯罪である。それでは最近では、あまり聞かない押し入り投宿とは如何なるものを指すのであろうか。それは戦で、その日の戦いが済んで見ず知らずの民家に問答無用で強引に投宿すること。
幕末の天狗騒ぎの際に見受けられた。それでは最初に行った集団は誰なのであろうか。もしかして、それは貴方の近くにいる毛野氏関係者かも知れない。   押し入り投宿、万歳!!  朝から酒飲むなよ。

38 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 00:37:54.04 .net
>>35
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。

長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)

39 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 01:58:56.16 .net
スコットランドが独立するかもしれないな

毛野国も独立すればいい
初代天皇の崇神から賜った私領だもんな。
毛野氏は独自に東国を支配してもよいとのお墨付きをもらってる。

今の天皇には毛野国を支配する根拠がない。
毛野国はそもそも日本建国以来の独立国だろ。スコットランド程度の関係。

崇神とそれ以降の天皇は格が全然違うから何言ってもムダ。

40 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 02:02:04.18 .net
畿内天皇家は西国支配
毛野氏は東国支配

というのが日本の初代天皇の崇神が決めた国是なんだが。
なんで天皇家が東京に来てるんだろうか・・
根拠がないんじゃないの? 誰の許可?

天皇勢力は西日本ほったらかしにしてるんだが・・
やっぱりバランスに欠ける配置だよな。東国は親王国で、皇太子が来てもいいが
本家の天皇家は大阪なり京都なり奈良にいるべきだろ。

41 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 07:37:49.33 .net
東京奠都は、知る人ぞ知る我らが武茂郷出身の北島秀朝らの尽力により実現した。明治維新の総仕上げ。一部の御三家の水戸藩のものは倒幕に動いたのかよ。別におかしくはない。
鎌倉幕府を倒したのは、新田義貞や足利高氏らである。江戸幕府を倒したのは、御三家水戸藩の尊王攘夷思想が源流にある。  ところで、もうすぐ毛野が独立するって。本当かよ。
バチカン市国よりは大国になるのか。  周りにいる奴は、高い通行税を取ってやれ。関税は350%にしようぜ。直ぐに干しあがるな。 年末年始ごろに街の何処かで忠臣蔵が放映
されていて、吉良上野介が出てくるけど、少し前まで上野国をこうずけこくと読んでいたよ。普通は、こうずけって読むよな。ところで吉良氏も足利氏系で源氏か。毛野には、随分と源氏が多いな。

42 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 11:49:51.28 .net
このスレの基地外率はパないな

43 :日本@名無史さん:2014/09/08(月) 22:48:59.08 .net
北島秀朝--「天皇と窮民に尽くした人」という資料があるらしい。 読みたくなって国会図書館から取り寄せたよ。

44 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 06:51:19.31 .net
北島秀朝は、天皇の御東行だけではなく、太政官も移されることも望んだとされる。次のような趣旨の書簡が残されている。
「関東はひとまず平定することが出来ましたが、天皇の御威光はまだ全国に広まってはいません。人々は、ただ官軍の強さに恐れを抱いて服従しているにすぎません。
 願わくば天皇に東京に来ていただかなくては、どんなに有能な人でも政治を安定させることは難しいと思います」
秀朝の明治元年の京都滞在は三度にわたる。時期と頻度からいって、その活躍の度合いが分かるであろう。 実は京都には、天皇の御東行に対して反対勢力が存在していた。

45 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 11:44:25.55 .net
北島秀朝は、明治元年7月26日から京都にいて八方手を尽くしているらしかった。しかし多くの案件は滞ったままだったらしい。そこで北島は、京都から東京に戻ると9月6日に江藤新平と二人で大久保利通宅を訪ねて、
上京の上で反対派を説得して御東行を実現する旨要請した。大久保は要請に応えて翌7日に西上の命を受け9日に海路東京を立ち13日に京都に着いた。直ちに大久保は太政官に出頭して御東行の義について協議した。
大久保利通得意の熱弁をこれでもかと言わんばかりに奮ったのであろうか。その結果、御東行の京都出発は、9月20日に決定したのである、但しこれは、第一回目の御東行で後の東京奠都の予行練習の様なものになった。
なお、予算関連については、すでに一応の目処は立ったことから8月13日に三条実美は、「御東行後御用費之義」の手配の整ったことを岩倉具視宛に通知していた。

46 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:24:37.95 .net
毛野国独立運動まだー?

グンマーは治外法権なんだよ。崇神天皇がそう決めたんだよ。
東国15ヵ国は「毛野氏の私領」です。

将門は勝手に名乗ってよくないが
「毛野国は崇神から賜った独立領地」なので天皇制なら逆らえませんよ−。

天皇には畿内があります。

西は天皇 東は毛野氏 これが日本の正しい国境です。

47 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:25:53.34 .net
日本書紀の崇神期に書いてあるじゃん

「豊城は東国を治めよ」

って。
東国を治めて良いのは垂仁の末孫ではなく毛野氏です。

48 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:30:31.89 .net
まーた基地外出現かw

49 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:52:10.30 .net
西も東も分からない輩が、能書き垂れるな。 例えば、富山はどちらですか。?

50 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 18:37:22.75 .net
当時の日本は、百余国に分かれていた。仮に百余国を120か国と仮定した場合、その内の15か国は、日本の国土の約12%になる。
狭いなあ。 これで独立国気取りかよ。ポルトガル本土は狭いけれど、ブラジルは広大だ。少しはポルトガルやスペインを見習ってくれ。

51 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 19:09:55.55 .net
その「狭さ」に萌えてしまう俺がいる。

52 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 19:45:20.61 .net
>>51
思わず和んだw

53 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 22:51:48.44 .net
狭いところが好きなのも毛人の特徴。
うさぎ小屋のような住宅、ワンルームマンション、カプセルホテル、一人用テントが好きだ。落ち着く。
恐らく、古代人も、竪穴式住居だけではなく、岩穴に住んでいたのではと思う。
吉見のような百穴が関東各地に見らるが、あれは、古代のビジネスホテルのシングルルームかワンルームマンションだと思われる。
空の下では眠れない、体育館の真ん中でも眠れないのです。

54 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 23:05:52.79 .net
>>53
どうなんだろうかねぇ……自分は判らなくはないと思う口だが。
そんなオレは基地外様方から氏族丸ごとで誹謗中傷を喰らう足利(源姓)門葉の後裔w

55 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 21:24:57.39 .net
>>50
まずは毛野国が独立して毛野氏直属の軍団をつくってから、南関東を取るんだよ。
東京攻略なんかちょろいよ。

大本営も防衛無理だと判断して長野に基地をつくってたし。

アメリカ海兵隊と互角に戦った毛野国なら問題なく東京は取れます。
練馬駐屯地潰せば勝てる。

第十二旅団(群馬栃木連合)で第一師団(練馬)を倒せばいいだけ

都市部の戦車戦を想定した10式戦車は毛野氏の南下を阻止するために開発されたんだよ。

56 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 21:27:22.01 .net
グンマーとネリマーの戦いがはじまると
勝った方が関東平野を掌握できる。

57 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 21:51:26.12 .net
国内戦は明治十年の西南戦争が最後かと思っていたけれど、そうでもないらしい。武蔵国造の乱で助太刀して負けた怨念を今こそ晴らす時だ。
1500年は永いようで短かった。 いざ出陣。 座間や横須賀にいる外国勢は何方につくのか。 私は、永世中立人間なので高みの見物といくか。

58 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 21:55:12.21 .net
>>56
ネリマーでは無理だ、存在しないw
此処はトシマーを担ぎ奉らんぞ!w

59 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 21:57:30.85 .net
福島の自衛隊はザコだった
すぐに逃げたしな。
敵ではない

練馬も「烏合の衆」だからザコだろ。命をかけて練馬を守ろうとする連中がどれだけいるのか?
静岡の砲兵部隊は市街地戦じゃ使えないし。
けっこう勝率高くて笑える。

ザコしかいない練馬駐屯地を1つ潰せば霞ヶ関を毛野国が取れます。
まあ東京を取ったところで、群馬と栃木が争う内乱になるわけだが・・

60 :日本@名無史さん:2014/09/11(木) 22:01:21.20 .net
群馬と栃木が連合組んで
要するに練馬の陸自を倒せばいいのです

そんなに複雑怪奇なプロセスはいらないです。

命をかけて東京を守ろうとする陸自がそんなにいるとも思えない。
群馬栃木はやばすぎる。
ろくに物資がない太平洋戦争でアメリカの精鋭師団でも勝てなかったんだぞ。
全滅させて撤退させたしな。

硫黄島を守った九州の師団の強さは認めるが九州の師団は練馬にいないから「勝てます」

地方から支援にくるかもしれないが、主要道路をぶっつぶすし、南下速度が速ければ勝てる。

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