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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

432 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 09:54:55.54 .net
>>430
非熟者どころではなかろうか、不熟者と断ずるよりなきゆえ、
それ以上明後日なる与太話は為ぬがよかろう。

とまれ
「己の胸に手を当てて顧みる事だな」

433 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 10:18:23.31 .net
上州人の年齢を誤り、対応した。侮辱的な言動もあった。古代でも刑罰の対象になるのではないか。
だから私は、あえて節穴と言ったのである。節穴が坂東武者について語ろうとするところに違和感を覚えるのは私だけではあるまい。

434 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 11:05:09.72 .net
新撰組も秩父一揆も天狗等も水戸藩も
要するに全部北関東だよな。

南関東って何なの?
ヘタレのウンコ虫の集団?

なんでウンコがしゃべってるの?

435 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 12:03:12.34 .net
>>433
いろんな人が好きなように書いてる中で、あなたがいろんな人達ごっちゃにして勘違い
してるだけじゃないですか?
私にはそう見えるんですけど・・・
だとするとあなたもかなり失礼だし侮辱的だし、坂東武者について語る資格がない人って
なると思うんですよね。

ていうか、結構大人な方だとしたら・・・ごめんなさいね、余りに子供じみた態度ですよ?
多分、私の父くらいのお年かもなんで、ほんとにごめんなさいなんですけど、手本にしたく
ない大人だなって思います。今のまんまのあなただったら。

>>434
全部非計画的行き当たりばったりでポシャっちゃってる集団だけどねw
てことで
っ 鏡

436 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 12:10:54.98 .net
>>434
多摩を北関東に入れんじゃねーよウンコw
つかしゃべんな嘘吐きウンコw

437 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 12:22:53.53 .net
>>433
>>435
要するに「他人の振り見て我が振り直せ」じゃないがさ、オレも>>435に同意するよ。
年間違えられたとか侮辱されたとか言ってるけど、だとすっと、あんた反論反駁加えられて
論破されて悔しくて、で話摩り替えたり話題摩り替えたりして誤魔化して〜その繰り返しじゃん。
端から見ててもみっともない事この上ないとしか言えないぜ?
あんたがこの話題とかについて何か書いても、もう恥じの上塗りにしかなんねぇんだから
黙って引き下がった方が武者らしいしカッコいいと思うぜ?
オレもあんたのみっともねぇ姿をこれ以上見たくねーしよ。

438 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 12:46:58.69 .net
つまり赤の他人に難癖つけといて、でぇ自己弁護だけは一人前ってのが
上州人つか毛野の末裔って事かw

ウンコ以下の価値しかねーわなそんなん(ノ∀`)アチャー
そう思いたくはないわな、おいらもよ(´・ω・`)

坂東武者は引き際も肝腎だろうしな

439 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 13:05:11.34 .net
明治維新は、東京奠都ではなく西南戦争の終結を以て完結したという識者は多い。
明治10年2月12日に北島秀朝長崎県令は大久保内務卿宛に、
「河村大輔その他の電報によれば、鹿児島既に背きたる形跡現れたり、速やかに大軍を出し、
 一つは熊本鎮台を助け、一つは当港を守り、一つは鹿児島を衝くを急務と思うなり」
と打電した。やがて西南戦争終結後に九州臨時裁判所は、北島秀朝のいる長崎に置かれた。こうして明治維新は完結したのである。
水戸藩関係者の一部はボシャっていねえだろう。

440 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 13:53:47.02 .net
>>439
詭弁乙!
そんなん言うてたらあらゆる事件出来事に当て嵌まるってのアホか

441 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 13:55:06.75 .net
>>434 ぶっちゃけ、武田や佐竹からなる源氏も清盛等の平家も北関東だよ。

442 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 14:22:45.80 .net
明治維新は、関ヶ原以来の大革命ではないか。細かい事件を引っ張り出していないぞ。
あえて出してくれと言われれば、水戸藩関係者による桜田門外の変だろうな。

443 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 14:30:03.27 .net
日本は革命未経験だぞー(棒
言葉の意味理解してから使えよ能無し未開人

444 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 14:33:07.67 .net
江戸幕府の引継ぎ役として寺社奉行は新田義雄、町奉行は土方久元、勘定奉行と評定所は、水戸藩出身の北島秀朝と江藤新平・島義勇の三羽烏が担当した。

445 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 14:48:08.17 .net
「皆さん私は、江戸鎮台府判事の北島秀朝と申すものです。引継ぎで参りました。皆さんもご存知かと思いますが時代は変わりました。
 最後の将軍でありました徳川慶喜侯は、江戸を去って水戸城に向かいました。江戸城には先月21日に東征大の有栖川宮熾仁親王が入られました。
 昨日には大総督府布告によって皆様方が長年にわたり喜怒哀楽を共にされた役所もなくなりました。そして本日からは江戸鎮台府が管轄することになりました。
 政務に滞りがあると無誰にとってもご利益がありませんから簿書一切の提示を願います」
水戸藩出身の北島秀朝の台詞で私の創作である。おかしな所あるかなあ。?

446 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 15:03:12.30 .net
将軍叙任で正二位へと位階も上がっているので
慶喜侯ではなく慶喜公が正しいかと。それと往時は濫りに諱を用いない慣習の下にあった故、
徳川内府卿とするが最善かと。

他は全体的に猶一層推敲を施されると宜しいかと。

447 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 15:15:34.03 .net
原文は、直ちに徳川内府卿にします。

448 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 15:36:26.86 .net
北島秀朝が大監察だった東山道軍本隊は上州に入っていませんけれども理由としては、
佐幕寄りは極めて少なかったということでよろしいのでしょうか。

449 :日本@名無史さん:2014/09/30(火) 20:47:53.05 .net
他人の書き込みを一々全否定するのが大好きな変んなのが巣食ってますね。
石田三成に退治してもらわないと。

450 :日本@名無史さん:2014/10/02(木) 21:22:28.68 .net
毛野はモノと読む
毛野(モノ)の出身者が物部(モノノベ)

451 :日本@名無史さん:2014/10/02(木) 21:24:55.61 .net
そして物部の衰退と共に毛野の歴史も抹消された

452 :日本@名無史さん:2014/10/02(木) 23:23:39.96 .net
物部は渡来人。
毛野は旧石器時代からの原住民。全く別物。

453 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 03:38:45.88 .net
渡来人という呼び方は語弊や齟齬を招く虞があるね。
もしもそう仮定するなら、長江域出身の「倭人」とすべきだろうね。
尤も、後の新撰姓氏録編纂をその経緯(編纂せざるを得なかった経過)まで考慮して古代氏族の区分を
見つめるなら、物部は皇統と同様、倭人以前よりの先住民族と捉えるのが常識的見解ではないかと
思われる。

454 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 03:48:23.88 .net
それと、所謂「三韓征伐」と毛野氏族を巡って再考察・再検討を加えるとするなら、先に新撰姓氏録
編纂を巡るエピの存在を示唆したわけであるが(詳細は日本後紀を読めw)、一大国家プロジェクトとしての
「日本書紀」編纂、またそれに先立ち、ある種のエイリアス的意図を以て為された「古事記」編纂が有する
であろう意図や恣意性を思えば、「昔氏新羅」の実態を取り巻いても再検討すべき点が多々存在しよう。
ちなみに昔氏とは我が国においては前(さき)氏であり、その名には必ず「タケ」が付随する点は殊に重要で
なかろうか? と同時に、先述の通り、記紀編纂は「国家プロジェクト」であり、その必要性ゆえに為されまた
余れた「国史」である。

そう、我々が再検討すべきは、所謂「渡来系」毛野氏と「三韓征伐」を巡る新たな問題である。

455 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 03:49:53.81 .net
余れた ×
編まれた ○

456 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 18:49:12.15 .net
関東には、といってもほぼ北関東になるが、
古代においては、
崇神、豊城入彦系統の毛野氏。
大彦、武渟川別系統の阿部氏が有力な勢力を形成していた。
それくらいしかわからない。

457 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 19:14:23.38 .net
>>456
北関東ではなく、概ね関東全域で捉えてしまっても問題はないように思われる。そのおおまかなラインは、
まず西方より利根川水系南西岸⇒後にさきたま古墳群が形成されるエリア、太日川西岸より南方がより
早く大王勢力が進出した圏内=大彦、武渟川別系統エリアであり、緩衝地帯としての猿島、豊田等香取海
奥湾を経て、毛野川・小貝川水系上流域が豊城入彦後裔たる御諸別=毛野氏支配圏、そして再び香取海を
取り巻く筑波国造、茨城国造支配圏内が大彦、武渟川別系統支配域内に入る。
大彦、武渟川別系統は後に阿部氏等を輩出はしているが、4〜5世紀頃はある種の広域職能氏族連合体であり、
一方、北関東の毛野氏はそれ単体である程度の再生産可能な産業形態を網羅した単独職能&血統氏族集団、
そう眺めて吝かではないかと考えられる。これらは記紀記録等との整合性から導く推測である。

458 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 19:32:15.60 .net
>>457に追加。さらに北東方面へ那須国造=那須直も大彦、武渟川別系統に属する。
後年、蝦夷俘囚が安倍氏を号した所以はこの辺りにあるのであろう。また出羽方面も初期の時点では
阿部比羅夫等、大彦、武渟川別系統がその海上交通・通商ルートを開拓している。

459 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 22:06:45.56 .net
>>457毛野=御諸別説と言うのは興味があります。
そして、関東にある奈良の地名は御諸別の子孫、奈良別と関係があると思うのですが、調べた方はいますか?

奈良別:下毛野君の祖で、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子孫とされる
『日本書紀』では事績は記されていない。また、下記のように記載のある文献においても、四世孫か六世孫かで異同がある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」下毛野国造では、仁徳天皇の時に毛野国を分割し上下とし、豊城命四世孫の奈良別を初めて下毛野国造に任じたと記されている。
『新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されている。

460 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 22:57:31.83 .net
>>459
以下は特に調べて云々という話ではなく、寧ろ直観的インプレッションの類ですので話半分でお願いしますが、
「網」という文字に宛てられた「音」に何かヒントがあるように思います。なぜ斯様に感じたか……毛野君から吉弥侯へと
転訛しているのはおそらくご存知とは思いますが、あ=「吾」=一人称に対し、き=君(吉弥)=二人称と捉えてみたのです。
栃木県には現在でも田名網等「網」の字を用いる名乗りつまり苗字が少なからず存在しておりますが、この「あみ」を「吾身」
と仮定した場合の、姓としての「君もしくは公」を如何に捉えるか……そして「なら」は「汝等」=三人称として比定するのも
可能となるのです。この場合の「奈良=なら」が、御諸別ひいてはその父祖たる豊城入彦の故地たる「奈良」である蓋然性は
当然あるとして、三人称としての「なら=汝等」と捉えた場合、四道将軍事蹟より遅れて入植し割りを喰う恰好となった御諸別
らにとっては「結束」とか「約定」を意味する作用を見出すのも可能な気がするのです。聊か「ファンタジイ」の域を出ない話やも
しれませんが、そのように仮定してみた場合、「真若君」=「わがきみ」という符丁的な命名として解釈するのも容易いでしょうし、
一般名詞として「奈良君」と捉えるなら、つまり「汝らが君」という双方向関係を表象する表現でもあると。

直接「奈良別」とは係わりのない話で恐縮ではありますが、往時の関東における趨勢にあって毛野氏族の位置づけを顧慮する
場合、大和の地とのそれ以上に、集団としての「ある種の仮託」としての意味が付されているような気もします。

与太話失礼。

461 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 23:18:26.42 .net
三人称ではなく二人称複数でしたね^^;

462 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 23:42:00.47 .net
ウリナラといえば、朝鮮語では我が国。
栃木県鹿沼市には上奈良部と下奈良部という地名が残っている。

463 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 23:53:28.77 .net
>>462
尤も今日朝鮮民族は言語的にも民族的にも、十三世紀中葉〜後半へと至る三十有余年に渡る
「エスニック・クレンジング」の洗礼を受けておりますので、音云々以前に似て非なる物かとw

464 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 10:22:06.01 .net
>>463クレンジングクリームで顔を洗って出直せ。

465 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 10:42:24.60 .net
>>464
おまえアホ?ヴァカ?テヨン?w

466 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 20:52:45.16 .net
毛野氏が東国を支配するのは崇神に命じられたからであって
東国支配は崇神に認められた領地であるのに対して
今の皇族が関東にいるのはなんら法的根拠も・皇族としての歴史的根拠も一切無い。

信長は勘違いして一時上野守を名乗ったが、
後に関東平野を支配する根拠がないことをしって改めている。


名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」[5]を僭称し、
江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、
また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官したのも、
名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。


「上野守」と「上野守護」は全然別「守護」はただの武士の赴任先の役職にすぎない

上野守を名乗るのは皇族だが、親王が実際に赴任することはないのでただの名誉職

つまり皇室の歴史では関東平野の支配権は毛野氏にあって、
それ以外が支配することを許さなかったのが
背景にあり、それが後々まで続いてることが分かる。
信長ですら名乗れなかったわけだな。

もちろん皇族すら支配権がなかった。

「毛野氏しか関東平野を支配する権利はなかった」のが日本の歴史
畿内の天皇がなぜ関東平野にいるのかさっぱり分からない。
それは崇神天皇に認められた権利なのか? 毛野氏に許可を取ったのか?

467 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 20:56:37.24 .net
関東の支配体制に不自然な「空き席」があるように見えるのは
もともと関東平野は毛野氏の領有地であり、昔はそれが守られていたことが背景にある。


古代は
「毛野氏→親王(畿内の皇族の子供達)→それ以外」
という支配体制だったんだな。

鎌倉時代も信長の時代も幕末までこれはちゃんと守られていた
で、なんで天皇たちが関東にいるわけ?
何の権利があるの?

毛野氏に許可を取ったのか?
それとも天皇家は崇神なんてのはどうでもいいと思ってるのか?

468 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 20:58:22.93 .net
天皇家は崇神以来の関東の支配者の毛野氏の墓参りもしないで関東に居座ってるんだよな。

空き巣強盗みたいな連中に見える。

469 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 21:00:48.80 .net
天皇家が崇神の末裔であるなら毛野氏を敬うべきだ
赤城神社を毎年皇族は参拝すべきだろ

まあ現在の天皇家がハツクニシラススメラミコトの崇神の末裔でもなんでもないどっかよその氏族なら、
別にいいんだけどね

470 :日本@名無史さん:2014/10/04(土) 21:16:55.99 .net
畿内をないがしろにし(崇神以来の先祖伝来の任地をほったらかして)
関東をないがしろにしているのが天皇家

皇霊殿(神武以来の皇室の祖先をまつる)には何が祀ってあるのか分からないな

というマジレスをすると皇室は(実際根拠がなく、皇室の歴史を自分から否定しているから)
自爆するんだろうけどね。

伊勢神宮に参拝して赤城神社を無視するのはそもそも変。
畿内の皇室の神社はそもそも宇佐ではないのか?

畿内の天皇は畿内と宇佐(九州)を管理して
毛野氏は東国を管理して、子供の親王を預かる
という良好な地域関係があったのに、

現在は「東京以外は全部無視」という。

(皇室神ではない)豊受神社である伊勢神宮に参拝がそもそもおかしいですよ。
伊勢神宮自体が崇神にとっては「俺の宗教じゃないので近くにあると気にくわないからよそへ行け」的な神社だったんだが。

>伊勢神宮ができたのは約1500年前。しかし1400年近く、天皇は一人もここを参拝しなかった。

突っ込みどころがありすぎ。

471 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 00:38:52.26 .net
>>466-470
お前はバカなの?それとも開き盲目?
崇神帝の命令に絶対性も神性もないのは、ある意味豊城入彦が暗に認め体現してるよw
それ以前に、彼自身が毛野に入らなかったんだからよw

○ 豊城入彦に認められた行動=東山道経由にての関東の鎮撫
× 豊城入彦に認められた行動=関東支配

472 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 00:54:51.26 .net
それ以前に、記紀の記述に拠るなら、崇神の下命すらないと断じて過言ではない

473 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 00:59:02.28 .net
武渟川別が東海道経由で会津へと至っている時点で
豊城入彦後裔による関東支配という「名分」は成立し得ないな

474 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 01:08:27.02 .net
更には、その後のヤマトタケルによる「東征」が豊城入彦血統による関東独立支配を
一切認めていない証左になる

御諸別が豊城入彦裔にせよ、毛野氏の実態は毛野一帯の単なる在地豪族。事実はこれだけ。

475 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 01:12:36.83 .net
>>466
織田信長とか親王任国とか、その手のワードまで入れちゃうと
単なる「お頭の弱い子」の書き込みにしか見えないよ(笑)

476 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 07:12:25.56 .net
節穴、意気軒昂としているな。
ある時は源氏、別の日には上毛野氏。変幻自在のその姿。唯今、忍者稼業修行中か。
実態は関西系根なし草だろうな。頻繁に登場する方は上州人。私は那須国武茂郷出身。
貴殿も生国を名乗れ。

477 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 09:54:38.27 .net
御主こと先生が言う「節穴」こと我。
生国は上州吉井郷。明治近代化期は士族籍。元安中板倉家中家士。祖は源義康。
故あって寛正〜天正期に逝く度か名乗りを変えるが元は岩松。
剣は無外流、弓は武田流。馬もいなす。但し視力0.02の近眼故、先生の申す通りの「節穴」(笑)

478 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 10:05:38.07 .net
ところで先生、北島秀朝伝の進み具合は如何?
その時々により作法調法も異なるゆえ、呼びかけの作法等含めいつでも示唆をば申し出ますw

479 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 21:10:25.48 .net
ところで先生、松永 久秀と毛野氏の関係も研究されているのでしょうか?
小野妹子―毛人―毛野と毛野氏の関係はわかっているのでしょうか?

480 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 22:08:47.90 .net
★【群馬】国内初の骨製小札 6世紀初め渋川の金井東裏遺跡

六世紀初め(古墳時代)の火山灰層からよろいを着けた男性の骨が出土した渋川市の
金井東裏(かないひがしうら)遺跡で、動物の骨でつくられた小札(こざね)と呼ばれる
短冊状の板が新たに見つかったことが二十日、県埋蔵文化財調査事業団の調査で分かった。

数十枚が連結された状態で、よろいの一部か付属品とみられる。事業団によると、骨製小札が
見つかったのは国内で初めて。同日、県の検討委員会で報告した。

骨製小札は、一枚が縦六・六センチ、横約三センチ、厚さ数ミリ。一段あたり十数枚が、
三段にとじられていた。男性の骨の出土場所近くで、巻かれた状態で見つかった別の
鉄製よろいの内部にあった。

韓国で四世紀の骨製小札が出土した例があるとされ、今回の小札は穴の開け方から、
韓国の技術を用いて日本でつくられた可能性が高いという。

事業団の右島和夫理事は「材質から考えて、防具としての機能よりも視覚的なアピールが
重視されたのではないか。遺跡の意義を東アジアの枠組みで考える必要性が高まった」
と話している。また、男性がつけていたよろいは羽織った状態だったことも、
CTスキャンを使った調査で新たに分かった。

東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131221/CK2013122102000174.html
渋川市の金井東裏遺跡で見つかった骨製小札(県埋蔵文化財調査事業団提供)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20131221/images/PK2013122102100058_size0.jpg

481 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 22:38:59.65 .net
東海道は当時は未整備 数百年後だろ。
記紀には富士山すら表れてないのが「当時のルートじゃないから」
東山道こそが当時の幹線ルート
そのレール上に配置するのは強力な皇族です。

徳川幕府が東海道沿いに強力な親藩を置いて、それ以外は外様大名を配置した通り。

>東海道は渡河が困難な大河の下流域を通過するため
東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている


当時の東海道はタヌキも通らないルート。
なんで21世紀の価値観で考えるかな

東山道を支配して東国を監視していた毛野氏が在地豪族?
それってものすごく危険なことだよw

482 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 23:52:10.29 .net
>>481
ヒント:香取海と航海術(内海は外洋の下位互換ではないw)
記紀、ちゃんと読もうねw

483 :日本@名無史さん:2014/10/05(日) 23:53:50.07 .net
あ、
>東山道を支配して東国を監視していた
これにはまるっと同意w

484 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 04:34:10.04 .net
>>466-474
豊城入彦はそもそも関東入りしてなくてずっと畿内在住なんだが。
関東入りしたのはヤマトタケルの平定の後、孫だか曾孫の代だぞw

485 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 04:56:55.99 .net
>>484
おいおいw
オレまで一緒に含めんなよww
オレは豊城入彦の関東入部否定派だぞ?w
※彼の後裔たる御諸別入部は肯定しているがw
時代感覚的にも……まぁ暦年法の問題は措いて、ヤマトタケルとほぼ同時期、もしくは若干
遅く東山道経由で御諸別が入部したと考えているぞいw

486 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 05:09:25.97 .net
先に東海道開発・整備に触れるレスもあったが、武渟川別入部やヤマトタケル入部等、
一部東山道経由はあろうものの、東海道筋が例えば十世紀頃まで全く未整備だったと
考える方がムリw

出雲系氏族の存在をよく引き合いに出すが、他にも尾張氏等「海部氏族系」の入部も
無視出来ないのは、総国(後の令制国たる安房国含む)を顧みれば明らか。
しかも崇神帝事蹟「四道将軍」を巡って考察するなら、東海道筋を低評価する見解が
そもナンセンスw

かつお前らの見識の低さを物語るのかもしれないが、香取海に触れる人間がオレ含め
少数なのがこのスレの質の低さを示してるぞよ?w

487 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 05:15:45.01 .net
あ、考古学的知見無視すっと先生wみたいに頓珍漢な毛の亡者になっちゃうぞ?w
※関東最古の古墳がいずくにあり、その分布と敷衍経過を如何に眺めるかも枢要なヒントw

488 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 07:55:50.91 .net
整備とか未整備とかって曖昧な議論したって度合いの問題なんだからはっきりしないだろ
開通か不通かって話なら明解だけどさ

489 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 08:05:32.41 .net
>>488
アッピア街道の話と違うんだから当然だろw
箱根の石畳ですら整備されたのは江戸期だぜ?w
かつ、此処で言う場合のそれは、幹線道としてのそれのみならず、広域行政区分としての
それをすら含めて捉える必要を迫られている>東山道、東海道等

崇神帝の御世にせよ次代の垂仁帝の御世にせよ、またヤマトタケルの時代たる景行帝の
御世も所謂「倭の五王」の御世も、それら行政圏内を往来する手段は幾らでもある。
オレが香取海の件とも絡めて「内海は外洋の下位互換ではない」と書いたのも上記意図を
含めてのそれさね。

ちなみに時代は聊か下るが、平安〜鎌倉期に香取海を往来していた船舶の規模を知ってるか?
それすら知らずに「毛野=古代関東支配者」なんぞと与太話を語り出す輩がいるとするなら、
ソイツは歴史を語る場から一度去れ、そして顧慮しろと言ってやるべき。

490 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 08:24:09.57 .net
>>489
要するにおまえは不通じゃなくて開通してたっていってんだろ
未整備だけど開通してたのか、整備されてた上で開通してたのか、どっちなのよ?

491 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 08:28:05.38 .net
>>490
整備されていたか、その可否を巡っての話に一体どれだけの意味があるんだ?
この時代においてさw
※平安期においてすら整備の程度の議論は無意味だぞ? 東山道ですらw

492 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 08:32:01.66 .net
宿駅等が公により整えられたとされる律令体制化の頃おいに於いてをや、だなw
※我が朝のそれは結局のところ「ナンチャッテ律令制」に過ぎなかったわけだしw

493 :490=488:2014/10/06(月) 08:59:51.20 .net
>>491
俺にいうな >>466-474,>>486に言えよ
整備が未整備がってこいつらのレスの中でいってることじゃん
俺はそんなの意味ないだろって言ってるがな
おまえは自分の言いたいことばかりで他人のレスは読んでないみたいだな

494 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 10:44:34.76 .net
>>493
お前がレスをつけて来たからお前に返しただけだろうが、
それでその言い草とはもういね、いやはや(苦笑)
※安心しろ、読んでいなけりゃ書き込みなんざしねぇw

495 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 22:04:50.36 .net
道と言うものは、轍を埋めて、路肩を補修して、橋を架け、排水溝を整備しないと人馬は安心して通れない。
それには相当の労力を必要とするから、無料で通らせるわけにはいかない。
東山道は毛野氏が支配していたし、数キロおきに道の案内人を置いていた。
通行するには手形、馬鈴が必要だったし、それを買えるのは一部の金持ちだけ。

後の世になるが、
説話よれば、赤城忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行ったとある。
忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、最後には関所破りの罪で磔の刑に処せられる。享年41。

この「三室」こそ「毛野」の末裔であり、関八州から東山道の通行権を江戸時代まで世襲していたのではないだろうか。

これを証明できれば、毛野のほとんどのなぞが解けるのだが。
神武を畿内に道案内した猿田彦と同族か?

496 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 22:27:17.49 .net
>>495
ぬかるんで泥田の如くなる「街道」も江戸期初頭においてさえ決して珍しくもない。
駅鈴等の発効は飽くまで律令的法治国家において「帝の名の許」に朝廷が最終的に裁可、
認可する物。毛野の世襲の蓋然性は低い(まったくないという訳でもない)。仮に蓋然性を
是とするのであれば、律令制が機能し得なくなった「荘園公領」期であろうし、それもおそらく
部分的限定的なものであったろう。

おそらくは仰る通り東山道においても特に不破関等近江美濃隣接圏内、また上野中央部以東に
関して言えば、何らかの恰好で交通・流通に係る利権利得を世襲していたようにも思われる。

猿田彦と毛野との係わり……確かに興味深い。

497 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 19:34:12.66 .net
四方拝に東国の三社が入ってることからして皇室のルーツが東国に有ったことは明らかなんだよなぁ
東国出身の現皇室が当時尾張(熱田神宮)に首都があった倭国を簒奪し、
その後大和に遷都した、って考えるのが一番自然な考え方。
四方拝では西方は全く無視してるんだよなぁ

498 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 21:07:06.60 .net
アホ
今の四方拝は天皇が東京に来てからのもんだ

499 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 21:46:28.43 .net
上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村

百々氏は、現滋賀県である近江国坂田郡百々村が起源で、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏がある。

宇都宮には、藤原秀郷(田原の藤太)が悪鬼・百目鬼を討ったという「百目鬼伝説」があって、これが宇都宮にある田原街道「百目鬼通り」の由来になったという話がある。

四道将軍が関東に入った東山道ルートととうかい東海道ルートの両方と関係のある百々氏、
よく調べると、おもしろいと思うのだが、今のところ時間がない。

いずれ時間を作って、毛野の全容を解明したい。

500 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 22:02:03.77 .net
東山道は、おそらく崇神期にはある程度押さえられていて、それで実際には所謂「四道将軍」
派遣が同時に実施されなかったのかもしれない。大彦らと同時代人と見てほぼ間違いない
豊城入彦が実際には入部せず、後裔・御諸別が後年、改めて入部したのは何らかの事情が
あったのかもしれない。記紀の記述は暗喩的・比喩的な物がどうしても増えてしまうから、実態は
そのようなところであろう。そう仮定してみた上で
>上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村
これらの関連を調べるのは中々良いと思われる。殊に近江と毛野国……奇しくも秀郷に絡んでは
近江における「三上山の百足退治」の伝承が「百目鬼伝説」とリンクしていると捉えてしくはないで
あろうから、毛野氏を評価する上で非常に興味深いヒントが隠されているかもしれない。

501 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 22:50:48.45 .net
>>498
アホなアナタは何と勘違いしてるの?

502 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 00:12:28.21 .net
>>481
武渟川別や御諸別が、陸路代わりに遡上したであろう鬼怒川(毛野川)は、
その当時はどの地域を流れ、どの地で太平洋に注いでいたのですか?

503 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 01:36:56.96 .net
>>499
>上州勢多郡百々(どうどう)村 、近江国犬上郡百々(どど)村、三河国額田郡百々(どうど)村・・・・・・・・
この他にも百々という地は、以下の通り各地にあるようだね。
   美作国東北条郡百々村 
   美作国勝南郡百々村 
   岡山県久米郡美咲町百々 
   愛知県豊田市九久平町百々 
   愛知県豊田市百々町 
   愛知県西尾市刈宿町百々
   山梨県旧中巨摩郡白根町百々
   新潟県上越市下百々
これらが全て近江国百々氏の入植地なのか?それとも地形由来の地名なのか?
土地鑑のある数ヶ所に共通するのは、川沿いの地なのだが。

504 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:41:14.38 .net
>>503
川沿い等、何らかの水系に係わりのある地の場合、その音の様、あるいは音を表す品詞
(この場合であれば轟き)等の転訛の蓋然性が極めて高い。ただし毛野国における毛野氏は、
香取海こそ押さえられはしなかったものの、毛野(鬼怒)・渡良瀬両水系、及び一部利根川
水系の利権等に与りはしているから、各地の地形的特徴とか考古学的な発見等、郷土史料
をも参照しつつ、比較類似点を探せば何らかの答えは出てくると思う。

505 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:41:20.90 .net
御諸別王って・・・
御諸山とはあの三輪山だぞ。巻向古墳の近くの大上神社だぞ。

豊城入彦命の毛野氏はいったい何者?

「王」ってつくのは皇族中でも最上位なんだよな。
通常 そのときの天皇の直接の王子にしかつかない。

「王」って名前がついたやつは皇位継承権の序列最上位とかだろ。
「毛野氏の初期は畿内での皇位継承権を持っていた」説はやはり有力だな。
つまり東西は並列した分国支配体制だったわけだな。


彦坐王と彦狭島王のつながりが分からないが

この彦○王ってのは神功皇后につながるんだよな。で、応神になると。
毛野氏は新撰姓氏録で、応神時代には畿内にいたって書いてある。

応神につながるわけだな。応神時代には荒田別と鹿我別がいる。
皇位継承権の上位に食い込むか、そもそも「皇位」とは後の時代の産物なのか=並列王説=天皇が2人いてもいいじゃない。

毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられるな。
豊城入彦命の時代はむしろ継承権の1位だったのではないかと。
「軍の統帥権」は毛野氏が持っていた。統帥権を天皇とすれば、初期の天皇は毛野氏だな。

506 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:49:57.74 .net
東国統治とは東西ローマ帝国みたいな「共同統治せよ」という意味ではないかと

皇位継承権では「同着1位」だった?
雄略時代になって並列天皇だった毛野氏が畿内から追い出されたと。
--------------------
古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、
3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、
複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。

さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、
政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。

395年のテオドシウス1世の死後、
長男アルカディウスは東を、
次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、
帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった
----------------------

厩戸の皇子はネストリウス派によるキリスト誕生の再現シーンだろう。
西ヨーロッパの話が日本にも伝わっていたということだ。
巨大な日本を統治するのに、「同時代のローマ帝国」を参考にした可能性が高い。
(右も左も分からなかった明治維新政府が帝政ドイツを参考に建国したように)

「395年頃の日本は、東西を分割統治していた」「序列は同着で1位=天皇は2人いた」
畿内で共同統治をして、どこを攻めるかを共に決めていた。

崇神次男の系統の応神は西国統治、長男の毛野氏は東国統治 両方の政治拠点は畿内。

神功皇后と応神が2人も権力者として現れるのは、倭国の並列分割統治を意味している。

秀吉と家康くらいの偏ったパワーバランスじゃなくて、
「かなり並列に近い王権」だったかと思われる。

507 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:53:54.79 .net
明治初期時代に日本はビスマルクドイツと同じ帝政だったのを考えると
(強烈にドイツにあこがれて、日本の議会・憲法はドイツのクローン的な制度にした
当時のドイツが強かったからだ)

400年頃の日本が最高の国家のローマ帝国と同じ政治体制だったというのは非常に考えられる。
(参考にしまくったはず)

508 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:57:05.24 .net
>>502
>>418ではないが、毛野川は結城郡辺りを南下し、かつ下妻の辺りで子飼(小貝)川水系と
入り混じっている。いずれにせよそれぞれ中流域は時に氾濫地帯であったと推測し得る。
そして河内郡、相馬郡の境(後の下総、常陸国境)で完全に一本の河川としてに交わり、
そのまま現在の小貝川流域を西へ向け流れ、今の龍ヶ崎辺りで香取海に注いでいたものと
思われる。

また、武渟川別は現在の茨城県内地域は溯上していると思われるが、御諸別はこれらの
中流域には達していない蓋然性が高い。

509 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:57:16.03 .net
西ローマ帝国=畿内天皇家
は傭兵のオドアケルの反乱により480年に皇統が断絶するのである
→以降東ローマ帝国のみが残る

雄略〜継体期に畿内は皇位が一度断絶して東国毛野氏のみが崇神末孫として残ったはずである。

非常におもしろいな。ほとんど時代が一致している。

510 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 13:01:29.62 .net
>>505-507
残念ながら毛野氏に
>毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられるな。
は考えられない。東国における古墳等考古学的発掘物とその伝播、拡散を時間軸的に眺めつつ、
冷静に記紀を読まれるなら簡単に理解し得よう。

毛野氏は聊か語弊を顧みずに言えば、後の賜姓皇族的存在に過ぎない。しかも遅れてやってきた。

511 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 13:04:00.68 .net
>>509
残念ながら皇位は断絶していない。君はどの程度の史料に目を通しかつ、批判批評的に比較しているか?
他所の文明とを無批判的並列的に並べて妄想的推測を凝らしても意味がない。

512 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:42:14.80 .net
>>510
じゃあ 「おまえの家族で日本を運営しろ」とか言われてできんの?
「今から自分で自動車作れ」っていうのと同じ作業だぞ。

中国的な効率的な律令制度が整うまでは、分断統治するのが最も楽な政治体制。

「日本は縦に長い」からローマと同じで東西で領地をわけて分割統治するのが楽ですね。

個人的には「西日本の王権が先に滅んだ」ってのがうけますね。

雄略で滅んだのはまったく同時期
500年までに畿内の皇族は残らず滅亡したのだろう<ああ、これは史実だからね!
分断ローマは「東で」1200年まで続いていた、東日本統治を任された毛野氏も同じだろう。

513 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:48:35.92 .net
>>511
いろいろ悩むほど400年くらいに世界の政治体制はないのだが・・

「当時世界最大のローマ帝国」を参考にしたとするのは物足りないのだろうか?
ササン朝ペルシアのガラス製品が古墳からも見つかっている。

2014/7/25 11:44
奈良・古墳出土のガラス椀、ペルシャの高級品の可能性
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500M_V20C14A7CC0000/
 奈良県橿原市の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群の126号墳
(5世紀後半)で出土した円形の切り子ガラス碗が
ササン朝ペルシャ(226〜651年)の遺跡で発見されたガラスのうち、
5〜7世紀に流通した高級品とほぼ同じ化学組成であることが分かった。
東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光エックス線分析で明らかにした。

なるほど・・
やはり縦に長い日本というのは中央集権というのは不自然な形態で、
東国毛野氏と西国応神が日本を仲良く分割統治していたのは自然な話だ。

ローマ帝国と同じ体制だったのだろうな。

今の日本もありとあらゆる世界の制度を参考にしている
明治政府も同じだし、ヤマト王権もまた同じ。

2000キロの日本を1つの家族(せいぜい10人くらい)が支配するのは技術的に難しいもんな。

514 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:57:52.23 .net
崇神の
「豊城は東国を治めよ」
ってのは、
「垂仁は西国を治めよ」ってのを同時に意味するんだよ。

それが西の畿内が先に滅んでしまっただけ。わけの分からん土着氏族が多くて支配が難しかったのだろう。

中央集権体制が整うのは遙か後の時代です。
崇神からは豊城は日本の半分を支配する権限を担っていた。

大宝律令ができるのは701年
それまでは家族経営的なものだろう。
350〜700くらいまでかな。

名目上も実質も日本の半分は毛野氏のものだったと言える。
上下構造すらなく(東ローマは西ローマの属国ではない)
「広大な領土の共同統治」だろうな

豊城の神社が伊勢神宮で
垂仁の神社が宇佐神宮だな。

今の天皇はチグハグなことをしてるw

まあ「豊城の神社を西の皇族がお参りしている」わけで、まあそれでもいいけどなw

515 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:05:38.28 .net
なんかちょっと前に
古墳の件とかで論破されまくってた
エセ文化人類学な妄想君が暴れてるね

516 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:08:27.84 .net
応神・仁徳の古墳が最大化したのは
東国毛野氏の「畿内共同統治」のたまもの。

実際それ以降は畿内の古墳規模がガタ減りしている。
オドアケル雄略で東国とケンカして「西だけでやればー」となった途端縮小するのはまあそういうこったな。
(西の皇族の支配力がそんだけ巨大なら(統一王権論)、応神・仁徳・履中以降は古墳のサイズが急激に縮小するのはおかしくね?)

継体以降また300m古墳ができるものの(継体の子の欽明)、
毛野氏は自分で東国で古墳をつくることにしたんだな。
(これ以降 古墳サイズが畿内と東国で逆転しだす)

日本の半分を支配していた毛野氏の理解なしで初期ヤマト王権の理解はできないね。

517 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:11:53.51 .net
そういやあん時、なぜか武茂出身のおじさんがファビョってたね・・・
もしかして妄想君と武茂おじさんって同一人物???
てことはジサクジエーンキャラってことw

518 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:13:57.26 .net
毛野氏がぶち切れて納税しないし、人足も出さなくなれば
畿内の古墳サイズが最大化しようがないのは当然。

逆に毛野氏との関係が良好ならば、納税も人足も喜んで出すだろうね。

当然の当たり前のことと(金と人がなければ土木事業はできない)
古墳サイズの変遷の史実を述べたまでだな。

その理由も「毛野氏が畿内政権に加勢したかしなかったか」で説明が簡単につく
「わけのわからない選挙制度で土着豪族からヤマト王権の王が選ばれていた」とかいう論理よりも遙かに妥当だな。

倭国の東西並列統治だな。
やはり毛野氏は重要だな。

519 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:19:44.95 .net
豊鍬入姫命
御諸別王=三輪山=大神神社
=伊勢神宮=毛野氏

三輪野山茂呂神社
http://yaplog.jp/yagimitinomise/archive/819
西暦一世紀頃、東国に派遣された御諸別王の子孫の
上毛野君と下毛野君の一族がこの地に来て、
丘陵の景色が大和の三輪山に似ているところから
「三輪の山」と名づけて住みつき、
故郷の三輪神社の分霊として茂侶神社を創建したというもの。


伊勢神宮は毛野氏の神社ですねー
ありとあらゆる史実がそれを意味している。
その伊勢神宮に三種の神器があるとはどういうことだろう?

→豊城入彦命こそが王権の保持者?

畿内の皇族が伊勢神宮を1000年祀らなかったのは当然だな=伊勢神宮は豊城入彦命の氏神神社だから。

520 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:24:09.28 .net
豊城入彦命の妹の豊鍬入姫命は伊勢神宮の初代斎宮

伊勢神宮外宮の豊受大神宮は豊城と関係がある。
豊受大神宮は伊勢神宮の2つの正宮のうちの1つ

御諸別王からしても確定だろうな。

やっぱり伊勢神宮は日本の東半分を託された豊城入彦命と関わる氏神神社だったんだなー

521 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 17:11:56.65 .net
夢ばっかり見ているのなw

522 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:02:17.00 .net
初期のヤマト王権は倭の五王を見ても
皇位に矛盾があるんだよねー

大論争が続いている
これは応神の弟は毛野氏じゃないかなー。

倭の五王は1次方程式だと解けないが=親子関係だけとすると系図が繋がらない
二次方程式=東国と西国の共同統治 だとすると答えがでる。
初期は東国毛野氏が交互に天皇になっていた。
A家とB家が交互に天皇を出すというのはよくあること=

(大覚寺統 持明院統は交互に天皇だしてた)

畿内皇族の系図だけだと倭の五王が矛盾して混乱するんだな。

523 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:03:06.87 .net
持明院統と大覚寺統とは?
http://1950rekisi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-05-9
幕府は、後深草天皇方と亀山天皇方の皇族が
代わる代わる天皇の位につくよう取り決めました。
後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。
両統は幕府の取り決めに、従うことになりました。


幕府=崇神とすると
豊城入彦命の家と畿内皇族の家がかわるがわる交互に皇位を出していたことが
推測できる。


倭の五王からは並列した皇位が伺える。
で、それを雄略以降にそのルールを破ったから毛野氏がぶちきれたんだなー
雄略が東国を支配宣言して崇神以降の絶対則だった「両家並列皇位」のルールを破ったので大乱が起きたと。

神功皇后が「女」とされてるのは「男」とすると
両家並列が分かるが、それを改竄されてるため

つまり応神期は豊城入彦命と垂仁はそれぞれ交互に天皇を出す取り決めで
そのルールが応神・仁徳から雄略まで生きていたと言える。

524 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:18:08.55 .net
御諸別王や彦狭島王はどちらかが「天皇だった」んだな。
どれが具体的に倭の五王になるかはまだ難しいが
どれかは確実だろ

なぜ皇位継承最上位を表す「王」が不自然につくのかが説明できるし
倭の五王の系図混乱も説明が付く。
まさに御諸別王や彦狭島王は倭の五王時代だから
いずれかを比定すれば系図混乱がなくなる。

うーん、完璧だな。

愛子の東宮を垂仁家
秋篠宮文仁を豊城家とすると

次の次の天皇は悠仁親王だから秋篠宮に皇位が移る
「王」と名前が付く皇族は皇位継承権があることを示している
倭の五王は不自然だから皇位継承権だけじゃなくて
「皇位そのもの」についていた可能性がありますね

下毛野祖の奈良別も「奈良別王」とされてる=皇位継承権あり?

「皇位継承権が複数あった」のは珍説じゃなくて当然
1人だけのはずがない
毛野氏は皇位を出す宮家だったのも自然<今の天皇家も宮家はいっぱいある

平均的に5〜6人産んだとしても
早世したり女だったりがあるので、複数の宮家がないと数代ももたない。

525 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:58:57.81 .net
何この史学の素人w
トンデモ学説か何かに犯されちゃったのかしら?w

526 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 19:14:53.41 .net
確かに妄想の羅列で何一つ根拠が挙げられてないねw
多分、末期古墳と終末期古墳の区別とかチンプンカンプンだと思うよw
きっとリアルでも思い込みとか激しいタイプなんじゃない?w

527 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 19:57:50.64 .net
明治→まだいる?(うざいのがいるなw)
大正→三笠宮→断絶寸前(女ばっかり)
昭和→断絶寸前
平成→断絶寸前(もう若い男は1人だけ)
----------------
崇神→まだいる?→豊城入彦命
垂仁→断絶寸前
(景行・成務・仲哀<本当にいたの?)
応神→断絶寸前
仁徳→断絶寸前

と考えると大正以降の系統は断絶寸前と見ると(この前の男の子がでなければマジで終わってた)
仁徳の次に豊城入彦命の宮から天皇が出たとするのはおかしくない。

実在が確実な応神・仁徳・履中のどれかは毛野氏のからでてるっぽい。

応神・仁徳・履中のどれかが彦狭島王・御諸別王のいずれかに該当すると
倭の五王の謎が分かるわけだな

528 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:32:12.71 .net
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw
ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw

とっととタヒねばいいのに妄想厨w

529 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:33:12.18 .net
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw
ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw

とっととタヒねばいいのに妄想厨w

530 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:55:47.89 .net
その記紀をまともに読んだ学者が倭の五王を2014年になっても比定できてませんけどもw

531 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:58:44.64 .net
その記紀をまともに読んでいないと中二病を拗らせた妄想狂になるんですか?w
この妄想狂、白壁王践祚でも断絶とか言い出しそうなほど無知を露呈してますけどねw

532 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:02:49.60 .net
>>531
あれだよ。一次史料をまともに読めるだけの能力がないから、倭五王が比定出来てないとかアホが
言えちゃうんじゃね?
んで、何故それでアホ扱いされてるかも理解出来てないと思うよ、一連の妄想の展開具合からすっとw>妄想クソw

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