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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

509 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 12:57:16.03 .net
西ローマ帝国=畿内天皇家
は傭兵のオドアケルの反乱により480年に皇統が断絶するのである
→以降東ローマ帝国のみが残る

雄略〜継体期に畿内は皇位が一度断絶して東国毛野氏のみが崇神末孫として残ったはずである。

非常におもしろいな。ほとんど時代が一致している。

510 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 13:01:29.62 .net
>>505-507
残念ながら毛野氏に
>毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられるな。
は考えられない。東国における古墳等考古学的発掘物とその伝播、拡散を時間軸的に眺めつつ、
冷静に記紀を読まれるなら簡単に理解し得よう。

毛野氏は聊か語弊を顧みずに言えば、後の賜姓皇族的存在に過ぎない。しかも遅れてやってきた。

511 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 13:04:00.68 .net
>>509
残念ながら皇位は断絶していない。君はどの程度の史料に目を通しかつ、批判批評的に比較しているか?
他所の文明とを無批判的並列的に並べて妄想的推測を凝らしても意味がない。

512 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:42:14.80 .net
>>510
じゃあ 「おまえの家族で日本を運営しろ」とか言われてできんの?
「今から自分で自動車作れ」っていうのと同じ作業だぞ。

中国的な効率的な律令制度が整うまでは、分断統治するのが最も楽な政治体制。

「日本は縦に長い」からローマと同じで東西で領地をわけて分割統治するのが楽ですね。

個人的には「西日本の王権が先に滅んだ」ってのがうけますね。

雄略で滅んだのはまったく同時期
500年までに畿内の皇族は残らず滅亡したのだろう<ああ、これは史実だからね!
分断ローマは「東で」1200年まで続いていた、東日本統治を任された毛野氏も同じだろう。

513 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:48:35.92 .net
>>511
いろいろ悩むほど400年くらいに世界の政治体制はないのだが・・

「当時世界最大のローマ帝国」を参考にしたとするのは物足りないのだろうか?
ササン朝ペルシアのガラス製品が古墳からも見つかっている。

2014/7/25 11:44
奈良・古墳出土のガラス椀、ペルシャの高級品の可能性
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500M_V20C14A7CC0000/
 奈良県橿原市の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群の126号墳
(5世紀後半)で出土した円形の切り子ガラス碗が
ササン朝ペルシャ(226〜651年)の遺跡で発見されたガラスのうち、
5〜7世紀に流通した高級品とほぼ同じ化学組成であることが分かった。
東京理科大の阿部善也助教(分析化学)らが蛍光エックス線分析で明らかにした。

なるほど・・
やはり縦に長い日本というのは中央集権というのは不自然な形態で、
東国毛野氏と西国応神が日本を仲良く分割統治していたのは自然な話だ。

ローマ帝国と同じ体制だったのだろうな。

今の日本もありとあらゆる世界の制度を参考にしている
明治政府も同じだし、ヤマト王権もまた同じ。

2000キロの日本を1つの家族(せいぜい10人くらい)が支配するのは技術的に難しいもんな。

514 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 15:57:52.23 .net
崇神の
「豊城は東国を治めよ」
ってのは、
「垂仁は西国を治めよ」ってのを同時に意味するんだよ。

それが西の畿内が先に滅んでしまっただけ。わけの分からん土着氏族が多くて支配が難しかったのだろう。

中央集権体制が整うのは遙か後の時代です。
崇神からは豊城は日本の半分を支配する権限を担っていた。

大宝律令ができるのは701年
それまでは家族経営的なものだろう。
350〜700くらいまでかな。

名目上も実質も日本の半分は毛野氏のものだったと言える。
上下構造すらなく(東ローマは西ローマの属国ではない)
「広大な領土の共同統治」だろうな

豊城の神社が伊勢神宮で
垂仁の神社が宇佐神宮だな。

今の天皇はチグハグなことをしてるw

まあ「豊城の神社を西の皇族がお参りしている」わけで、まあそれでもいいけどなw

515 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:05:38.28 .net
なんかちょっと前に
古墳の件とかで論破されまくってた
エセ文化人類学な妄想君が暴れてるね

516 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:08:27.84 .net
応神・仁徳の古墳が最大化したのは
東国毛野氏の「畿内共同統治」のたまもの。

実際それ以降は畿内の古墳規模がガタ減りしている。
オドアケル雄略で東国とケンカして「西だけでやればー」となった途端縮小するのはまあそういうこったな。
(西の皇族の支配力がそんだけ巨大なら(統一王権論)、応神・仁徳・履中以降は古墳のサイズが急激に縮小するのはおかしくね?)

継体以降また300m古墳ができるものの(継体の子の欽明)、
毛野氏は自分で東国で古墳をつくることにしたんだな。
(これ以降 古墳サイズが畿内と東国で逆転しだす)

日本の半分を支配していた毛野氏の理解なしで初期ヤマト王権の理解はできないね。

517 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:11:53.51 .net
そういやあん時、なぜか武茂出身のおじさんがファビョってたね・・・
もしかして妄想君と武茂おじさんって同一人物???
てことはジサクジエーンキャラってことw

518 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:13:57.26 .net
毛野氏がぶち切れて納税しないし、人足も出さなくなれば
畿内の古墳サイズが最大化しようがないのは当然。

逆に毛野氏との関係が良好ならば、納税も人足も喜んで出すだろうね。

当然の当たり前のことと(金と人がなければ土木事業はできない)
古墳サイズの変遷の史実を述べたまでだな。

その理由も「毛野氏が畿内政権に加勢したかしなかったか」で説明が簡単につく
「わけのわからない選挙制度で土着豪族からヤマト王権の王が選ばれていた」とかいう論理よりも遙かに妥当だな。

倭国の東西並列統治だな。
やはり毛野氏は重要だな。

519 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:19:44.95 .net
豊鍬入姫命
御諸別王=三輪山=大神神社
=伊勢神宮=毛野氏

三輪野山茂呂神社
http://yaplog.jp/yagimitinomise/archive/819
西暦一世紀頃、東国に派遣された御諸別王の子孫の
上毛野君と下毛野君の一族がこの地に来て、
丘陵の景色が大和の三輪山に似ているところから
「三輪の山」と名づけて住みつき、
故郷の三輪神社の分霊として茂侶神社を創建したというもの。


伊勢神宮は毛野氏の神社ですねー
ありとあらゆる史実がそれを意味している。
その伊勢神宮に三種の神器があるとはどういうことだろう?

→豊城入彦命こそが王権の保持者?

畿内の皇族が伊勢神宮を1000年祀らなかったのは当然だな=伊勢神宮は豊城入彦命の氏神神社だから。

520 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 16:24:09.28 .net
豊城入彦命の妹の豊鍬入姫命は伊勢神宮の初代斎宮

伊勢神宮外宮の豊受大神宮は豊城と関係がある。
豊受大神宮は伊勢神宮の2つの正宮のうちの1つ

御諸別王からしても確定だろうな。

やっぱり伊勢神宮は日本の東半分を託された豊城入彦命と関わる氏神神社だったんだなー

521 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 17:11:56.65 .net
夢ばっかり見ているのなw

522 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:02:17.00 .net
初期のヤマト王権は倭の五王を見ても
皇位に矛盾があるんだよねー

大論争が続いている
これは応神の弟は毛野氏じゃないかなー。

倭の五王は1次方程式だと解けないが=親子関係だけとすると系図が繋がらない
二次方程式=東国と西国の共同統治 だとすると答えがでる。
初期は東国毛野氏が交互に天皇になっていた。
A家とB家が交互に天皇を出すというのはよくあること=

(大覚寺統 持明院統は交互に天皇だしてた)

畿内皇族の系図だけだと倭の五王が矛盾して混乱するんだな。

523 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:03:06.87 .net
持明院統と大覚寺統とは?
http://1950rekisi.blog.so-net.ne.jp/2014-02-05-9
幕府は、後深草天皇方と亀山天皇方の皇族が
代わる代わる天皇の位につくよう取り決めました。
後深草天皇の子孫を持明院統といい、亀山天皇の子孫を大覚寺統といいます。
両統は幕府の取り決めに、従うことになりました。


幕府=崇神とすると
豊城入彦命の家と畿内皇族の家がかわるがわる交互に皇位を出していたことが
推測できる。


倭の五王からは並列した皇位が伺える。
で、それを雄略以降にそのルールを破ったから毛野氏がぶちきれたんだなー
雄略が東国を支配宣言して崇神以降の絶対則だった「両家並列皇位」のルールを破ったので大乱が起きたと。

神功皇后が「女」とされてるのは「男」とすると
両家並列が分かるが、それを改竄されてるため

つまり応神期は豊城入彦命と垂仁はそれぞれ交互に天皇を出す取り決めで
そのルールが応神・仁徳から雄略まで生きていたと言える。

524 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:18:08.55 .net
御諸別王や彦狭島王はどちらかが「天皇だった」んだな。
どれが具体的に倭の五王になるかはまだ難しいが
どれかは確実だろ

なぜ皇位継承最上位を表す「王」が不自然につくのかが説明できるし
倭の五王の系図混乱も説明が付く。
まさに御諸別王や彦狭島王は倭の五王時代だから
いずれかを比定すれば系図混乱がなくなる。

うーん、完璧だな。

愛子の東宮を垂仁家
秋篠宮文仁を豊城家とすると

次の次の天皇は悠仁親王だから秋篠宮に皇位が移る
「王」と名前が付く皇族は皇位継承権があることを示している
倭の五王は不自然だから皇位継承権だけじゃなくて
「皇位そのもの」についていた可能性がありますね

下毛野祖の奈良別も「奈良別王」とされてる=皇位継承権あり?

「皇位継承権が複数あった」のは珍説じゃなくて当然
1人だけのはずがない
毛野氏は皇位を出す宮家だったのも自然<今の天皇家も宮家はいっぱいある

平均的に5〜6人産んだとしても
早世したり女だったりがあるので、複数の宮家がないと数代ももたない。

525 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 18:58:57.81 .net
何この史学の素人w
トンデモ学説か何かに犯されちゃったのかしら?w

526 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 19:14:53.41 .net
確かに妄想の羅列で何一つ根拠が挙げられてないねw
多分、末期古墳と終末期古墳の区別とかチンプンカンプンだと思うよw
きっとリアルでも思い込みとか激しいタイプなんじゃない?w

527 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 19:57:50.64 .net
明治→まだいる?(うざいのがいるなw)
大正→三笠宮→断絶寸前(女ばっかり)
昭和→断絶寸前
平成→断絶寸前(もう若い男は1人だけ)
----------------
崇神→まだいる?→豊城入彦命
垂仁→断絶寸前
(景行・成務・仲哀<本当にいたの?)
応神→断絶寸前
仁徳→断絶寸前

と考えると大正以降の系統は断絶寸前と見ると(この前の男の子がでなければマジで終わってた)
仁徳の次に豊城入彦命の宮から天皇が出たとするのはおかしくない。

実在が確実な応神・仁徳・履中のどれかは毛野氏のからでてるっぽい。

応神・仁徳・履中のどれかが彦狭島王・御諸別王のいずれかに該当すると
倭の五王の謎が分かるわけだな

528 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:32:12.71 .net
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw
ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw

とっととタヒねばいいのに妄想厨w

529 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:33:12.18 .net
記紀もまもとに読んでないのは確かだなw
ローマがどうたら書いてたが、ローマ法とか十二表法も知らないんだろうなw

とっととタヒねばいいのに妄想厨w

530 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:55:47.89 .net
その記紀をまともに読んだ学者が倭の五王を2014年になっても比定できてませんけどもw

531 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 20:58:44.64 .net
その記紀をまともに読んでいないと中二病を拗らせた妄想狂になるんですか?w
この妄想狂、白壁王践祚でも断絶とか言い出しそうなほど無知を露呈してますけどねw

532 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:02:49.60 .net
>>531
あれだよ。一次史料をまともに読めるだけの能力がないから、倭五王が比定出来てないとかアホが
言えちゃうんじゃね?
んで、何故それでアホ扱いされてるかも理解出来てないと思うよ、一連の妄想の展開具合からすっとw>妄想クソw

533 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:03:49.30 .net
古代史研究で「妄想」を入れてない学者がいたら見てみたいもんだわ。
それがただの妄想か仮説かは「何らかの妥当性があるかないか」のみだね。

同時代・同地域・活動範囲と事績が重複するから
かなり確率が高いなこれは。

直系のみですべて切り捨てたら皇族なんて一瞬で断絶するのが
今の皇族みても分かる=直系だけだともう愛子しかいないよw

宮家制度は古代もあったはず。
「王」を名乗る豊城入彦命の系統が皇位にかかわっていたんだな。
部下とか家臣じゃない、皇位1位を争う中枢皇族として畿内にいたらしい。(雄略・武烈までは)

534 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:05:09.45 .net
このスレも武林の先生含め、やっとここんとこマトモに戻ったと思ったら…
妄想野郎が性懲りもなく戻ってきたんか(笑) 今後の展開が楽しみ(笑)

535 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:08:04.83 .net
>>533
まぁ比定の根拠と読み込み、一次文献二次文献の索引等データ提示含め、学者は
妄想じゃなくて推測しているから。貴方が妄想氏かどうか知らないけど、妄想氏と学者の
推測とは雲泥の差なんで一緒にしないでねw

536 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:11:15.16 .net
>>535
ソイツ妄想野郎その人だよw
悦に入るくらいだから、何らかの病気を発症してんのかもよw
書いてる文読めば発達障害系とか鉄板だろjkw

537 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:14:00.94 .net
妄想?

記紀を読んだ学者がそろって倭の五王の比定がぐちゃぐちゃなんだが。
まあ最有力宮家の毛野氏を考えてないから答えが出せないんだろうねこれは。

「応神・仁徳は毛野氏だった」
のかなー

「垂仁には子供がいなかった」とすれば理解できる。
垂仁の子が反乱で断絶したっぽい描写まであるw
皇后の実家が謀反して后をぶっ殺したし断絶したのだろう・・

垂仁は反乱を見事鎮圧した勇壮な豊城の子の八綱田の家に皇位を譲ったのだ。
(垂仁の子の景行は存在自体が怪しいので垂仁系統はここで断絶したっぽい
一方、豊城入彦命の家は若い男子がいて元気に軍を指揮している
景行の子は日本武尊だしなw もう完全にウソっぽいね)

武に秀でた豊城入彦命の八綱田から応神系統につながるんだな。

538 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:18:31.94 .net
妄想が過ぎて日本語までオカシクなっちゃった?wwwww
どっちみち、一切根拠らしい根拠提示してないって意味で妄想は妄想w
それでも自分が学者と同列かそれ以上だと思ってるみたいだから
触っちゃいけない類かもよ? もしかしたらねwwwww
(でも触れば触る程、程度の低さを漂わせてくれるからつい触っちゃうwwwww

539 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:19:04.92 .net
他人の説の否定は止めろ。みっともない。
もっと、現実的な自説を唱えることで、妄想説を黙らせれば良いだけだ。
煽り合いは止めよう。
誇り高き毛野氏の末裔(今は、まだ、自称にすぎないけれど)の俺はそう思う。

540 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:22:21.51 .net
>>539
よく文章読んでやれよ
例の他氏族侮辱貶め野郎だぞ?
結局ヤキが回って来たって証なんだよ
それに説を補強する根拠出せてねーって
何人から指摘されてんだ?
まともな根拠提示させんのが先だろ、ちゃうか?w

541 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:28:13.96 .net
垂仁天皇の子は「口も聞けない精神障害児」だったとある
一方、豊城入彦命の八綱田は軍を率いている男子

障害児に皇位を与えるわけがないから
皇位はここで豊城入彦命の系統に移ったと考えるのが自然。

いつ反乱があるかも分からないときに障害児を天皇にするわけがない。
(景行は生まれてないから垂仁はここで断絶、はした女が子を産んだかもしれないがそんなのは天皇にならない)

よほどアホでもない限り、垂仁は兄の豊城入彦命に
「どうぞ今後の皇位は武に秀でた男子がいるあなたの家から出してください」と懇願したでしょ。

反乱が頻発する畿内で障害児やらを皇位にしてたとしたらマヌケだしなー

で、「能力は遺伝する」ので毛野氏の応神が武王になるわけだな。

542 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:30:51.96 .net
どんどん妄想こじらせていってるね。てか史料の読み解き自体出来てないのは分かった。

543 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:32:52.83 .net
もしかして素で本当に武林の人≒この妄想クソ???

544 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 21:41:48.22 .net
司令官はU字

545 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 22:06:39.47 .net
>>544
いや工事だよ

546 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 22:18:00.48 .net
OK牧場

547 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 06:34:58.22 .net
>>508
子飼(小貝)川というのは、この古地図で川名が付記されておらぬが
毛野川の東隣を並行南流している川のことですね?
毛野氏が入部した4〜7世紀頃の坂東も、この1000年前地図と同じ
河川が錯綜する一大氾濫原平野だったと類推してもよいですか?
こんな稲作に向かぬ氾濫原に御諸別命は、何故侵攻したのでしょう?
1000年前の利根川
ttp://www.rekishinosato.com/isiokapicture/kanameisi/tonegawa.gif

548 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 06:56:10.10 .net
>>514
>崇神からは豊城は日本の半分を支配する権限を・・・・・・・・・・・・・・
4世紀の崇神統治時代の日本の範囲を、誤認していないか?記紀の
崇神の四道将軍派遣記事が示唆しているのは、当時のヤマト王権の
統治範囲が畿内から三河かせいぜい駿河あたりまでの本州の中央
部分だけだぞ。
統治範囲外の東国支配権限を任じても、無意味だね。

>豊城の神社が伊勢神宮で
>垂仁の神社が宇佐神宮だ・・・・・・・・・・・
意味不明なんだが。崇神・垂仁時代の記紀に、宇佐神宮は
登場しないし、上記の如く九州は次の景行時代に
征服なんだがね。

549 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 12:58:59.75 .net
>>547
その地図で毛野川と並行して流れるのが小貝川で間違いありません。ただ、この氾濫地帯は
後に筑波国造、茨城国造、更に北東に那須国造が横断的に設置された地域。掲げられた地図では、
より上流域の毛野水系と渡良瀬水系に挟まれた地域が毛野氏版図の中心。氾濫地域は往時、
東海道圏内から入植している尾張氏等海部氏族や、武渟川別との所縁で入植出雲系氏族等、香取海と
それへと注ぐ各水系下流部を版図においた「水の民」との緩衝地帯と考えてしくはないでしょう。

550 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 17:49:51.76 .net
このスレってあれだよね……リュートとウードと琵琶の見分けがつかず、瑠璃を翳して感動を呼ぶ紺碧の美しさだけで
「日ユ同祖論的」陰謀論思考で視野狭窄しちゃう妄想癖で禿げ上がる程度の低い人が元気だよねw

551 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 18:12:13.21 .net
>>550
最近もローマがどうこう言ってる「ローマ史」を知らない類もいるし、ちょっと前にはイングランド史をまともに知らん類が
ヘンな盛り上がりやってたくらいだから推して知るべしでしょうねw

552 :551:2014/10/09(木) 18:13:53.99 .net
× イングランド史
○ イングランド関係史

553 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 18:57:11.10 .net
久米及び久米部、伴及び伴部、大伴及び大伴部を巡って言及し得ない類が何を語っても
説得力皆無なのは当然だろう。

554 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 19:01:10.44 .net
>>553
末期古墳、それとは異なる事象としての終末期古墳を巡って、どの程度「見識」を見出すか。
今回の武林先生の無理推しは笑い話として、いつぞや必ず成果を挙げて下さると信じております。

555 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:00:12.03 .net
>>505
>「王」ってつくのは皇族中でも最上位なんだよな。
>通常 そのときの天皇の直接の王子にしかつかない。
>「王」って名前がついたやつは皇位継承権の序列最上位・・・・・・・・・・・・
どの時代の皇族名の話なのかね?毛野氏が記紀に登場する時代だと、
皇位継承序列最上位皇族は、○○大兄皇子で○○王などではない。
天皇の直接の王子って、一世孫という意味かね?
天皇登極皇族の一世孫だけが○○皇子、それ以外が○○王。

>毛野氏と畿内の一派の倭国共同統治説が考えられる・・・・・・・・・・・
倭国とは、ヤマト王権のことかね。共同統治というのも意味不明だが、
長門より東は我が治め、西は汝が治めよと分国統治を言った大王はいたが、
その汝は物部氏で毛野氏だった記録はないぞ。

556 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:06:56.17 .net
>>547良い地図をありがとう。
この地図の太日川の東側のルートを見てくれ。
このルートなら、大きな川を渡らず、舌状台地と呼ばれる微高地伝いに、
毛野の支配地域から房総半島先端まで一続きになることがわかる。
この流通ルートこそ毛野の勢力の根元。
千葉県は、関東最大の古墳地帯だった。
恐らく、干魚や干貝、その他海産物加工品の一大生産地だったのだろう。

557 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:36:39.34 .net
>>556
君は今日「各県」行政区分域内圏内含むある地点に遊水地を擁せざるを得ない弱点を知らんのか?
寧ろ今でも存在する五霞周辺の遊水地の存在を知るなら、毛野が房総と分断されている証を
無言のうちに物語るだけなのだが……それでもこんな与太話をするくらいだから、知らないのであろうな。

558 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:38:59.18 .net
>>556
君は今日「各県」行政区分域内圏内含むある地点に遊水地を擁せざるを得ない弱点を知らんのか?
寧ろ今でも存在する五霞周辺の遊水地の存在を知るなら、毛野が房総と分断されている証を
無言のうちに物語るだけなのだが……それでもこんな与太話をするくらいだから、知らないのであろうな。

559 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:45:08.53 .net
毛野氏の失敗は「香取海」を支配圏内に収められなかった点に集約される。
その証左は初期三世紀〜後期七世紀古墳の分布と形態、及びその傾向から鮮やかに
浮かび上がる。

560 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:53:04.90 .net
結果として「名義」としての「毛野氏」の存在が浮上する。田辺史周辺のそれであり、記紀に
司令官各として記載される毛野は全て田辺史に係る。要するに毛野圏内は何たる「人的」
資源供給の場に過ぎなかった蓋然性が高い。

561 :野田へ:2014/10/09(木) 20:54:13.91 .net
>>557
なるほど。重要な示唆を与えてくありがとう。
その付近で毛野の流通網が途切れているのが気になっていました。
恐らく、春日部から川間、野田へ船で渡ったと思われます。
東武野田線のルートが参考になります。

不思議なことに、東武鉄道の路線と毛野の流通網は重なるのです。

562 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 20:55:35.07 .net
>>556
笠原史、後の武蔵氏とか知々夫国造に勝てなかった毛野さんこんにちわw

563 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:02:22.05 .net
>>561
今の野田辺りまで流通網を整備し得るなら、寧ろ太日川を含め江戸湾をも視野に入れつつ
水運網を顧慮するのが「勝ち目」をも極める点かな、と。
ゆえに所謂「毛野」系と東海道を開拓して香取海に至る「水の民」系の分かれ目の見極めに
なるかと。

564 :野田へ:2014/10/09(木) 21:08:24.04 .net
>>562いやー、毛野は旧石器時代からの根っからの野人ですから、文明人には勝てませんよ。
現代社会でも、うだつの上がらない風来坊がいいとこ。
第一、組織が嫌いですからね。笑う。

565 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:11:58.42 .net
現代社会がどうとか言ってるとこは笑うとこ?w

566 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:14:11.30 .net
>>561
皮肉か否かは措いて、氷川さんまで至ると?w

567 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:16:18.55 .net
>>565
多分誰も「現代社会」とは表現してないよw

568 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:18:47.73 .net
ずいぶんと古代史をだしているがお前らが模倣から入っているところは分かっているところ
まったく関係ないんだろうが江戸時代の大日本史あたりから参考を得てるんだろ、お前らはw

569 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:19:41.97 .net
>>567
言ってんだろw

570 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:20:35.16 .net
567
恥ずかしいねw

571 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:20:40.55 .net
>>568
武林先生酔っ払ってますねw

572 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 21:23:07.26 .net
>>568
きっと武林先生!w お説拝聴賜ります!w

573 :野田へ:2014/10/09(木) 21:51:01.23 .net
春日部に程近い埼玉県南埼玉郡宮代町に 大落古利根川の渡し舟というのがありますね。
この渡しがいつの時代まで遡るものなのか調べていませんが、
春日大社と言えば 藤原氏(中臣氏)の守護神である武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって春日神と総称される。

とあり、古代から毛野と鹿島、香取両神宮とを結ぶ渡しがあったと見て良さそうですね。野田へ渡る渡しなので醤油はあってもソースはありません。笑う。

574 :日本@名無史さん:2014/10/09(木) 22:01:35.96 .net
ふーん

575 :野田へ:2014/10/09(木) 22:02:46.73 .net
それと、毛野は船は苦手、牛か馬を使って荷役をしていたのではないかと思います。
坂道も苦手なので、山間部には連絡員しか置きません。
数日前、百々(どど、どうど、どうどう)という地名について書きましたが、
馬を仕向ける時に、「どうどう」というのは日本だけとわかったからです。
西洋式の騎馬用語のようですが、全くの勘違いらしいです。

576 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 00:12:34.33 .net
毛野は水軍持ってるぞ。
でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送できない

馬と水軍を共に大量に持ってるのが毛野氏
関東平野は「海」だったんだから当然。

577 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 05:53:48.27 .net
なるほど。

578 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 09:25:06.54 .net
>>553
久米は和邇。そして大伴。

579 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 19:02:07.67 .net
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送できない

弁証法をしても演繹をしても反論は容易である。まず毛野氏が「水軍」を持つ基盤はあったか?
答えはノー。毛野は結局のところ、利根川水系以南西、猿島・大方・下妻等以南東、下妻・結城・真壁
以東への進出は果たせなかった。これは上記地方より以西以南以東における古墳の分布と形態・興隆等
含む経年的変遷を具に眺めれば理解に容易い。以上の地域は常に磯城の大王家や尾張氏等東海、上記
地域とほぼパラレルで連動するように古墳の大規模化〜衰退期=小規模八方形化、祭祀の進化を共有
している。しかも香取海の利権の総元締とも言うべき存在が香取、鹿島の傘下とする中臣氏である点を
顧慮すれば、尾張氏等「海の民、水の民」が香取海権益に深く係っていたのも得心が行く。

一方で毛野氏は南下出来ず、他氏族との緊張状態を最小限に抑える(武蔵国造乱においても、屯倉献上で
事なきを得る)ことで、辛うじて香取海の利得を僅かに得ている体たらく。とても海の民、水の民とは言えない。
(彼らは、例えば長期タームとして眺める三韓征伐においては、飽くまで兵員兵站基地を担う程度。初期こそ
荒田別、鹿我別等司令官を輩出しているが、田道や竹葉瀬のように、後の田辺史等渡来系(帰朝組含む)の
上毛野氏の蓋然性すらある。

いずれにせよ、ある程度の国家的事業において、兵員派兵と兵站供給、船舶造作、航海操船、現地司令官を
単一氏族が請け負うなど常識的にあり得ない。

よって毛野氏は水軍など有していないと考えるのが常識的である。
享ける程度

580 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 23:30:30.73 .net
なるほど

581 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 02:05:31.37 .net
>>573
利根川の歴史を調べてくる事だな
渡しの位置が固定だったとか、すごい思い込み

江戸時代に利根川の東遷・荒川の西遷があるまで、あのへんの川は度々洪水を起こして
流れが頻繁に変わっていた所だ

582 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 07:44:50.88 .net
>>581
関東の川の流れを時系列で特定していくのは至難の業だし、当時(いつの時代を指すかで変わるとすれば)の渡しの位置を特定することは、毛野の全体像を把握するのにそれほど重要ではないので、今は深入りしないことにします。
その辺を詳しく調べた文献でもあれば参考にしたいと思います。

それより、>>579の毛野系の古墳の分布、これを先に調べていこうと思います。

まだまだ勉強を始めたばかりで、どこから手をつけていいやら手探りの状態なので、いろいろ参考になります。

583 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 12:15:01.34 .net
>>582
若干示唆を致しますと、環濠(水濠等濠付き)を有する円墳方墳、あるいは前方後円墳等
それらの組み合わせよりなる古墳は、時代を下るにつれ北上、北海道地域まで伝播します。
それがおおよそ七世紀。毛野氏との係わり等をも含め考察しますと、何か面白い知見に
遭遇出来るかもしれません。(尚、毛野氏族係男系の一部は吉彦氏のように出羽等東北に
根拠を移しています。)

584 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 13:32:36.31 .net
その吉弥候部とは何者か?というところで、いきなり壁に当たってしまった。
君子部だったら儒教を思想を持った新羅系の渡来人かもしれないし、
卑弥呼部なら邪馬台国は関東にあった。ということになり、トンデモ説になってしまう。
物部や刑部、杖部、大伴部に春日部、矢田部。
部民とはなんぞや。唸ってしまいます。

585 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 13:52:12.01 .net
>>584
「吉弥候」乃至「吉弥候部」は毛野氏族のうち主に上毛野氏と密接な関係を有する氏族で、
一部はその「部曲」等が「上毛野公」を賜姓され、それがやがて吉弥候、吉彦に転訛したものと
考えてよいでしょう。一般には陸奥の蝦夷等、帰属した「俘囚」にも外位階とともにこれらの姓が
賜られているケースも存在しますが、出羽等多くの地域では、征伐等毛野氏族進出に伴い、
入植・在地化した上毛野公が吉弥候→吉彦へと変化したものと考えられます。前九年・後三年の
役で活躍した吉彦秀武の場合、毛野氏族出身で多くの吉弥候部を束ねる「族長」としての
吉彦氏=毛野氏族出身者と考えられます。

586 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 14:06:16.74 .net
言い換えれば、吉弥候部とは大和朝廷側に従った浮囚に対し賜姓したもので、それがもともと毛野と呼ばれる者なのか、毛野地域に住んでいた土豪なのか、その後に入り込んだ(関東以外から来たという意味で)渡来系なのかすら、はっきりしないことです。

そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王が、いきなり浮囚ですか?

この時期、大きな政権交代があったということでしょうか。

587 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 14:24:25.90 .net
>>586
「浮囚に対し賜姓」が現状独り歩きしていまっている点が問題で、例えば毛野氏は血統集団で
あると同時に職能集団、血のみの繋がりではない氏族、という点が重要で、そのために上記にても
「部曲」(部民)という表現も交えているわけですね。これは中世期、私奴婢と共に「家人」層構成員
となるわけですが、それらを束ねる氏族としては、大元の毛野氏族が当たり、時代の経過と共に
彼らと同じ名乗りを使用した(集団的結束)のケースと言えます。元々、彼らの場合の「吉弥候」は、
上毛野氏の傘下に収められ、その内、一定の財力等を持つ者は主筋たる上毛野朝臣の下の者
という意味で「上毛野公」を賜っているという訳です。ですので、一定の有力氏族が俘囚に成り
下がった訳でもなければ、政権交代があった訳でもありません。

蝦夷等「俘囚」に名誉的浴典としての「外位階」が与えられたのと同様、帰属すればそれなりに
優遇してやる、という朝廷の順撫政策の一環ですね。

588 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 22:17:19.24 .net
その説明では納得できませんね。
やはり、三輪王朝の外戚として中央と繋がっていた毛野が、
三輪、河内王朝が断絶し、男大迹天皇(オオドノスメラミコト) 、つまり継体天皇へ政権交代したことで基盤を失い、新王朝に反抗するまつろわぬ荒蝦夷になってしまったとする方が納得性が高いです。

稲荷山鉄剣の主は、毛野とは系統の異なる文化を持っていたわけだし、毛野の支配地を分断するように入り込んでいます。

589 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 12:43:16.56 .net
豊城入彦、御諸別も上毛野も下毛野も県犬飼も壬生部も蘇我倉山田石川麻呂の子孫たちも
みんな関東に入植した渡来人で、毛野ではない。本当の毛人はどこに消えたんだ?

590 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 12:51:56.75 .net
さあ?

591 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 13:44:42.27 .net
>>547
氾濫原平野こそが米の栽培適地なわけで。
水田は氾濫を人工的に安全に再現したもの。

592 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:24:15.57 .net
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。

593 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:34:50.71 .net
>>586
>そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王・・・・・・・・・・・・
そもそも毛野氏がヤマト王権首長家に次ぐ氏族で東国の王だったと
言っておる根拠は、何なの?どの文書・金石に記録されてあるの?
古墳期に次ぐ王家というと記紀に記された吉備か筑紫王家だろう。

594 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 13:53:31.93 .net
関東は古代から特別な地域って意識はあったんだろうね

595 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 14:55:37.08 .net
毛野は水軍どころか騎馬軍も歩兵ない。
金属器もなく、黒曜石のナイフと小弓と鏃、モリは狩りの道具で武器ではない。
部族同士の争いも話し合いで解決する。代表者はいても決定権を持った首長はいない。
そもそも戦争なんてしたことがなかった。
常世の国と呼ばれる桃源郷だったのです。

596 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 16:44:46.61 .net
>>595
歩兵はいるでしょ

597 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:11:41.82 .net
595
5,6世紀には日本刀の原型となった刀剣が出土してる
江戸時代には猟師は火縄銃も所持している

598 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:13:17.75 .net
刀は15世紀近く手放さなかったし銃だって4世紀手放さなかったぞ

599 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:18:11.66 .net
6,7世紀ころには刀剣を制作する施設みたいな跡地もでてきてるんだろ?

600 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:25:28.66 .net
「金属器もなく」とありますから、595は石器時代の話をしているのでしょう。
氏族としての毛野氏族の登場は古墳時代になりますが。

601 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:28:58.91 .net
上御殿のオルドス式が日本刀のルーツかね?

602 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 20:16:34.30 .net
『常陸国風土記』が編纂された時代でさえ、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていました。
タヂマモリ(『古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。)が行ったという常世の国とは房総半島。
ここに橘、自生のみかんである橘の花が咲いていたのです。
田道間守>県犬飼氏>橘氏は、群馬県の倉賀野から、房総半島に安房国一宮を結ぶ通商ルートを支配していた毛野の一族だったのです。

この橘氏、県犬養三千代以前から女系だったと思われ、女系毛野だったことは間違いないと思います。

603 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 13:01:37.12 .net
92 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:24:15.57
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。

対馬・博多の船が関東まで来るわけ?
それこそ非合理だ。
群馬は船の材料の木がいくらでもある。
船が作れないはずがない、作って米を積んでそのまま流せば房総半島まで兵と米が輸送できる。
そこから朝鮮半島まで移動すればいいだけですね。

「博多の船を利根川上流まで持ってくる」方が遙かに不合理です。

604 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 20:05:44.96 .net
>>595
無知すぎ
笑わせるな

605 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:08:15.20 .net
纏向型の神門古墳群と古河かどっかの遺物が似てるんだよな
下総と大和は纏向型で繋がってて、下総と毛野も繋がってた

606 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:16:58.20 .net
だから、古墳を造ったのは畿内の勢力。
労働者として働かされたのは毛野の先住民。
労役が嫌で逃げ出したのが、まつろわぬ蝦夷。

607 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:22:19.47 .net
妄想と事実ははっきり区別しようよ

608 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:46:27.59 .net
独り言はやめなよ。

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