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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

577 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 05:53:48.27 .net
なるほど。

578 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 09:25:06.54 .net
>>553
久米は和邇。そして大伴。

579 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 19:02:07.67 .net
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送できない

弁証法をしても演繹をしても反論は容易である。まず毛野氏が「水軍」を持つ基盤はあったか?
答えはノー。毛野は結局のところ、利根川水系以南西、猿島・大方・下妻等以南東、下妻・結城・真壁
以東への進出は果たせなかった。これは上記地方より以西以南以東における古墳の分布と形態・興隆等
含む経年的変遷を具に眺めれば理解に容易い。以上の地域は常に磯城の大王家や尾張氏等東海、上記
地域とほぼパラレルで連動するように古墳の大規模化〜衰退期=小規模八方形化、祭祀の進化を共有
している。しかも香取海の利権の総元締とも言うべき存在が香取、鹿島の傘下とする中臣氏である点を
顧慮すれば、尾張氏等「海の民、水の民」が香取海権益に深く係っていたのも得心が行く。

一方で毛野氏は南下出来ず、他氏族との緊張状態を最小限に抑える(武蔵国造乱においても、屯倉献上で
事なきを得る)ことで、辛うじて香取海の利得を僅かに得ている体たらく。とても海の民、水の民とは言えない。
(彼らは、例えば長期タームとして眺める三韓征伐においては、飽くまで兵員兵站基地を担う程度。初期こそ
荒田別、鹿我別等司令官を輩出しているが、田道や竹葉瀬のように、後の田辺史等渡来系(帰朝組含む)の
上毛野氏の蓋然性すらある。

いずれにせよ、ある程度の国家的事業において、兵員派兵と兵站供給、船舶造作、航海操船、現地司令官を
単一氏族が請け負うなど常識的にあり得ない。

よって毛野氏は水軍など有していないと考えるのが常識的である。
享ける程度

580 :日本@名無史さん:2014/10/10(金) 23:30:30.73 .net
なるほど

581 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 02:05:31.37 .net
>>573
利根川の歴史を調べてくる事だな
渡しの位置が固定だったとか、すごい思い込み

江戸時代に利根川の東遷・荒川の西遷があるまで、あのへんの川は度々洪水を起こして
流れが頻繁に変わっていた所だ

582 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 07:44:50.88 .net
>>581
関東の川の流れを時系列で特定していくのは至難の業だし、当時(いつの時代を指すかで変わるとすれば)の渡しの位置を特定することは、毛野の全体像を把握するのにそれほど重要ではないので、今は深入りしないことにします。
その辺を詳しく調べた文献でもあれば参考にしたいと思います。

それより、>>579の毛野系の古墳の分布、これを先に調べていこうと思います。

まだまだ勉強を始めたばかりで、どこから手をつけていいやら手探りの状態なので、いろいろ参考になります。

583 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 12:15:01.34 .net
>>582
若干示唆を致しますと、環濠(水濠等濠付き)を有する円墳方墳、あるいは前方後円墳等
それらの組み合わせよりなる古墳は、時代を下るにつれ北上、北海道地域まで伝播します。
それがおおよそ七世紀。毛野氏との係わり等をも含め考察しますと、何か面白い知見に
遭遇出来るかもしれません。(尚、毛野氏族係男系の一部は吉彦氏のように出羽等東北に
根拠を移しています。)

584 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 13:32:36.31 .net
その吉弥候部とは何者か?というところで、いきなり壁に当たってしまった。
君子部だったら儒教を思想を持った新羅系の渡来人かもしれないし、
卑弥呼部なら邪馬台国は関東にあった。ということになり、トンデモ説になってしまう。
物部や刑部、杖部、大伴部に春日部、矢田部。
部民とはなんぞや。唸ってしまいます。

585 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 13:52:12.01 .net
>>584
「吉弥候」乃至「吉弥候部」は毛野氏族のうち主に上毛野氏と密接な関係を有する氏族で、
一部はその「部曲」等が「上毛野公」を賜姓され、それがやがて吉弥候、吉彦に転訛したものと
考えてよいでしょう。一般には陸奥の蝦夷等、帰属した「俘囚」にも外位階とともにこれらの姓が
賜られているケースも存在しますが、出羽等多くの地域では、征伐等毛野氏族進出に伴い、
入植・在地化した上毛野公が吉弥候→吉彦へと変化したものと考えられます。前九年・後三年の
役で活躍した吉彦秀武の場合、毛野氏族出身で多くの吉弥候部を束ねる「族長」としての
吉彦氏=毛野氏族出身者と考えられます。

586 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 14:06:16.74 .net
言い換えれば、吉弥候部とは大和朝廷側に従った浮囚に対し賜姓したもので、それがもともと毛野と呼ばれる者なのか、毛野地域に住んでいた土豪なのか、その後に入り込んだ(関東以外から来たという意味で)渡来系なのかすら、はっきりしないことです。

そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王が、いきなり浮囚ですか?

この時期、大きな政権交代があったということでしょうか。

587 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 14:24:25.90 .net
>>586
「浮囚に対し賜姓」が現状独り歩きしていまっている点が問題で、例えば毛野氏は血統集団で
あると同時に職能集団、血のみの繋がりではない氏族、という点が重要で、そのために上記にても
「部曲」(部民)という表現も交えているわけですね。これは中世期、私奴婢と共に「家人」層構成員
となるわけですが、それらを束ねる氏族としては、大元の毛野氏族が当たり、時代の経過と共に
彼らと同じ名乗りを使用した(集団的結束)のケースと言えます。元々、彼らの場合の「吉弥候」は、
上毛野氏の傘下に収められ、その内、一定の財力等を持つ者は主筋たる上毛野朝臣の下の者
という意味で「上毛野公」を賜っているという訳です。ですので、一定の有力氏族が俘囚に成り
下がった訳でもなければ、政権交代があった訳でもありません。

蝦夷等「俘囚」に名誉的浴典としての「外位階」が与えられたのと同様、帰属すればそれなりに
優遇してやる、という朝廷の順撫政策の一環ですね。

588 :日本@名無史さん:2014/10/11(土) 22:17:19.24 .net
その説明では納得できませんね。
やはり、三輪王朝の外戚として中央と繋がっていた毛野が、
三輪、河内王朝が断絶し、男大迹天皇(オオドノスメラミコト) 、つまり継体天皇へ政権交代したことで基盤を失い、新王朝に反抗するまつろわぬ荒蝦夷になってしまったとする方が納得性が高いです。

稲荷山鉄剣の主は、毛野とは系統の異なる文化を持っていたわけだし、毛野の支配地を分断するように入り込んでいます。

589 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 12:43:16.56 .net
豊城入彦、御諸別も上毛野も下毛野も県犬飼も壬生部も蘇我倉山田石川麻呂の子孫たちも
みんな関東に入植した渡来人で、毛野ではない。本当の毛人はどこに消えたんだ?

590 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 12:51:56.75 .net
さあ?

591 :日本@名無史さん:2014/10/12(日) 13:44:42.27 .net
>>547
氾濫原平野こそが米の栽培適地なわけで。
水田は氾濫を人工的に安全に再現したもの。

592 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:24:15.57 .net
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。

593 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:34:50.71 .net
>>586
>そもそも古墳時代に大和の大王家に次ぐ地位にあったはずの東国の王・・・・・・・・・・・・
そもそも毛野氏がヤマト王権首長家に次ぐ氏族で東国の王だったと
言っておる根拠は、何なの?どの文書・金石に記録されてあるの?
古墳期に次ぐ王家というと記紀に記された吉備か筑紫王家だろう。

594 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 13:53:31.93 .net
関東は古代から特別な地域って意識はあったんだろうね

595 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 14:55:37.08 .net
毛野は水軍どころか騎馬軍も歩兵ない。
金属器もなく、黒曜石のナイフと小弓と鏃、モリは狩りの道具で武器ではない。
部族同士の争いも話し合いで解決する。代表者はいても決定権を持った首長はいない。
そもそも戦争なんてしたことがなかった。
常世の国と呼ばれる桃源郷だったのです。

596 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 16:44:46.61 .net
>>595
歩兵はいるでしょ

597 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:11:41.82 .net
595
5,6世紀には日本刀の原型となった刀剣が出土してる
江戸時代には猟師は火縄銃も所持している

598 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:13:17.75 .net
刀は15世紀近く手放さなかったし銃だって4世紀手放さなかったぞ

599 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:18:11.66 .net
6,7世紀ころには刀剣を制作する施設みたいな跡地もでてきてるんだろ?

600 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:25:28.66 .net
「金属器もなく」とありますから、595は石器時代の話をしているのでしょう。
氏族としての毛野氏族の登場は古墳時代になりますが。

601 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:28:58.91 .net
上御殿のオルドス式が日本刀のルーツかね?

602 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 20:16:34.30 .net
『常陸国風土記』が編纂された時代でさえ、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていました。
タヂマモリ(『古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。)が行ったという常世の国とは房総半島。
ここに橘、自生のみかんである橘の花が咲いていたのです。
田道間守>県犬飼氏>橘氏は、群馬県の倉賀野から、房総半島に安房国一宮を結ぶ通商ルートを支配していた毛野の一族だったのです。

この橘氏、県犬養三千代以前から女系だったと思われ、女系毛野だったことは間違いないと思います。

603 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 13:01:37.12 .net
92 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 02:24:15.57
>>576
>毛野は水軍持ってるぞ。
>でなきゃ朝鮮まで兵糧を輸送でき・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、戦時兵站の為に、常時大量の水軍を所有しておったのかね?
で、朝鮮戦役の際には、遠く関東から出航したのかね?
で、その大量の船舶は、平時は何処に係留されていたと?
戦時には、平時に半島・大陸と往来しておる現地の海洋民に案内・
兵站を委嘱するのが合理的というか非海洋民には操船すらできぬだろう。

対馬・博多の船が関東まで来るわけ?
それこそ非合理だ。
群馬は船の材料の木がいくらでもある。
船が作れないはずがない、作って米を積んでそのまま流せば房総半島まで兵と米が輸送できる。
そこから朝鮮半島まで移動すればいいだけですね。

「博多の船を利根川上流まで持ってくる」方が遙かに不合理です。

604 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 20:05:44.96 .net
>>595
無知すぎ
笑わせるな

605 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:08:15.20 .net
纏向型の神門古墳群と古河かどっかの遺物が似てるんだよな
下総と大和は纏向型で繋がってて、下総と毛野も繋がってた

606 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:16:58.20 .net
だから、古墳を造ったのは畿内の勢力。
労働者として働かされたのは毛野の先住民。
労役が嫌で逃げ出したのが、まつろわぬ蝦夷。

607 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:22:19.47 .net
妄想と事実ははっきり区別しようよ

608 :日本@名無史さん:2014/10/14(火) 21:46:27.59 .net
独り言はやめなよ。

609 :日本@名無史さん:2014/10/15(水) 22:33:23.14 .net
清和天皇=大災害天皇 生きてる間中大災害の連続
桓武天皇=女とやりまくっただけ 将門は反乱しただけ
崇神天皇=ハツクニシラススメラミコト〜最初に我が国を平定した天皇〜

うーん、崇神末孫の毛野氏ってランクが明らかに違わないか?

610 :日本@名無史さん:2014/10/15(水) 23:00:21.19 .net
卑弥呼、神功皇后、斉明天皇、推古天皇、持統天皇、女系天皇は強過ぎます。
そもそも天皇家だけではなく、藤原や源平も男系は何度も断絶しているけれど、実は女系で繋がっているのではないかと思われます。
それが知られていないのは、女系系図が残ってないこと、研究者がいないことが原因。
もしかしたら、組織的に隠しているのかもしれません。

その鍵を握るのが女系氏族の解明。毛野、橘氏、北条氏、浅井、近江との関係が濃厚です。
女系を調べれば、ほんとうの日本の姿が明らかになる。

ただ、ソースが圧倒的に不足しているので、男系至上主義者に荒らされ放題になるのは不可避。
辛抱強く書いていきましょう。

611 :日本@名無史さん:2014/10/16(木) 00:33:23.87 .net
武家の元は蝦夷らしいね。
斬撃主体の蕨手刀が毛抜太刀に変化してるのは確実。

毛抜形太刀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%8A%9C%E5%BD%A2%E5%A4%AA%E5%88%80
>毛抜形太刀の直接的な起源は、古墳時代、東北地方の蝦夷が用いてきた蕨手刀である

直刀から湾刀に移ったのはこれが元

結局武家の技術なんて毛野氏と毛野氏と対立した(共同した)蝦夷なわけで
「源平藤橘ガー」
って笑えるよね


そんな氏族が影も形もなかった時代から戦場の技術は東国で磨かれてきたんだよ。

>出土刀も、神社に奉納されていた伝世刀も、全て関東以西である。
>突き刺す直刀と違い、斬ることに特化していった蕨手刀系統の刀は、
>馬上での疾駆斬撃戦に有利であった。そのため、毛抜形刀は内国の武人にも好まれたものとみられる。

横取りすんなボケ
日本刀が武士の魂なら、日本刀の元は毛抜き太刀=蕨手刀なんだから、
蝦夷と毛野氏にひれ伏せってんだ。

>いずれにしても、日本刀の成立には蝦夷鍛冶の技術力に因があることは確かである。

サムライがどうこう言う割りに、そのルーツを理解しないなんて情けないよな

612 :日本@名無史さん:2014/10/16(木) 00:40:33.82 .net
源平藤橘=朝鮮伝来の忍者

みたいなもんだね。
日本刀の起源すら知らないでサムライがどうこう言ってるアホって
なんか朝鮮人みたいなんだが恥ずかしくないのかな・・・

日本刀の起源を見ても源平藤橘が影も形もなかった時代から戦場で戦ってた毛野氏と蝦夷が発端。
「毛野氏と蝦夷」についてもっと理解を深めるべきだろ。

中世礼賛ってアホだったよな。古代の武装集団の毛野氏をもっと知るべきだね。

613 :日本@名無史さん:2014/10/16(木) 22:59:46.64 .net
昔の武士のもののふが、馬から落ちて落馬して、頭にケガねでよかあたま
香香背男(かがせお)、つまり、山田の中の一本足のかかしこそ毛野の正体。
体は大きく力は強いが、性格は温厚すぎで戦いには向かない人々。
毛野とは、漫画家の蛭子 能収さん、ギャンブル好きなああいう感じの人たちだったに違いない。

614 :日本@名無史さん:2014/10/19(日) 23:22:30.07 .net
毛野氏や物部が入り組んだ時代より遥か昔・・・
和田峠や神津島、那須の高原山の黒曜石の流通を支配し、
黒曜石の性質に合わせて用途の異なる黒曜石製品を仕入れては、関東全域に販売していた古代商社があった。
その流通の基礎となる道、河岸と川舟、下田から神津島への海上ルートとカヌー軽野、
恐らく、旧石器時代と呼ばれる時代から1万年以上かけて、
黒曜石だけではなく、生きるために不可欠な塩、貴重な蛋白源である干貝や魚の干物、
山間部からは毛皮や皮製品、麻などの植物繊維の織物、籠や編み笠 、土器、
ありとあらゆるものの流通と物々交換を行う市の運営を担っていた者達がいた。
それが名もない古代商社である本来の毛野なのだ。

615 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 13:57:38.90 .net
毛野氏が胎児眺めて笑う蛭子だったとか・・
そこらの土着民とか

あんまり毛野氏を侮辱すると不敬罪だぞ
崇神第一子の豊城入彦命をなめんな

関東平野は豊城入彦命末孫が来るまで原っぱだったのが考古学的に明らか。
山麓部での縄文・弥生遺跡しかない
関東で毛野以前に国家なんてありえないんだが。

616 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:36:26.45 .net
毛野氏って八十神でしょ

617 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 21:24:56.93 .net
>>615
関東の旧石器時代の遺跡、縄文・弥生遺跡、特に奈良時代、近世まで続く重畳遺跡を調べれば、毛野の住民に民族的、文化的な断絶はなく、毛野は旧石器時代から続く民族集団だったことがわかります。
豊城入彦やその子孫も、毛野集団と大いに関係がありますが、豊城入彦の系統がはじめて関東平野の住人ではありません。
恐らく、関東平野に灌漑技術を伴った水田稲作、鉄器、養蚕など当時の最先端の文化を持ち込み、神に近い存在として君臨したことは想像に難くありません。

しかし、毛野と呼ばれる地域の住民は、一貫して旧石器時代からの住人だったことは間違いないと思われます。
大化の改新や明治維新以上に新しいもの好きの民族性が発揮された時代だったと思います。

618 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 22:15:47.28 .net
>>612
いやいや、蝦夷はわかるけど毛野氏が格別どうのってあるかね?
安倍氏=丈部
大伴氏=大伴部
毛野氏=吉弥侯部
安倍氏や大伴氏も毛野氏に劣らず奥羽の経営には参与していたようだが。

619 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:55:16.51 .net
>>617
群馬の弥生・縄文時代の遺跡密度をマップで調べてからしゃべってな。

土器の分布を見ても国家があり活発な民族がいた形跡も
戦乱の形跡もないです。

考古学で完全否定されてるんだが、「異論なしに300以前の関東平野は縄文時代で国家がなかった」
のが確定。

何度もいわせんなアホが
文句あるなら土器でもなんでも土を掘って見つけろや

620 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:59:01.47 .net
>>618
大伴が蝦夷と戦ったとか初耳。
律令以降だろ?
蝦夷が完全に弱体化したときに出てこられてもな。

板東武者の祖は上毛野田道です。

上毛野田道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%AF%9B%E9%87%8E%E7%94%B0%E9%81%93

どうでもいい氏族の自慢とかマジでうざい。
そんなに素晴らしいのがいるとかいうなら、なんか出せよ
勇敢に戦った偉大ななんとかさんを。

大伴なんて壬申の乱のときにたかが2000の尾張勢にしっぽ巻いて逃げたザコだろ。

621 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:01:47.77 .net
阿倍比羅夫はそこそこだが、日本海側で関東平野に関係しないし
その最高点ですら毛野氏の方が格が高い=軍勢が多い。

700〜800以降は弱体化するが、
初期は関東平野に毛野氏に並ぶものなしだな。
なのに同格にしたがるザコ氏族うざい。

622 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:04:11.42 .net
関東で強かった「桓武平氏」は反乱を起こした朝敵の逆賊が有名ですねー

いまだに神田神社に将門を祀るか祀らないかで論争があるくらい。

毛野氏と互角なのは弓矢と刀に長けた蝦夷くらいだわ。
「毛野より蝦夷の方が強かった」「蝦夷と互角だった」は一応認める論争だが
それ以外のなんとか氏族は話になんねーからウザイです。

623 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:21:20.15 .net
当時の天皇ですら勝てなかった軍団なんだから
>>「毛野とそれ以外がほぼ互角 17000 VS 20000」
何とか氏族ガーとか言われても笑えるだけ

え? そいつは天皇よりも権力があったのか?
確定してるんだからどうにもならんね、朝鮮人みたいに過去を好きなように捏造したいなら別だがw

624 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 19:44:18.40 .net
権力?

625 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 21:28:04.23 .net
>>619
オレは、豊城入彦が来る以前に、後に毛野と呼ばれる地域に大きな国があったなどと言っていない。
むしろ、旧石器時代の関東は、富や権力の集中がなく、緩やかな共同体だったと思われます。
御諸別が国に近い支配体制を築いた後も、毛野の住民は自由に暮らしていた。
それは、江戸時代の士農工商に組み込まれなかった穢多や非人と呼ばれた人達に連なる。
中央集権だけが国家の在り方ではないのです。

626 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 00:54:16.46 .net
>>625
原始共産制の夢まだあきらめてないのかw 団塊ブサヨ乙 
とっくに人類学で否定されてるからアキラメロン

627 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 01:01:34.83 .net
自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、
王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。

628 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 06:42:56.27 .net
>>626色褪せた古い学説なんか信じてたのか?ごくろうさん。

629 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:16:32.85 .net
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w

630 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:17:56.46 .net
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w

631 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 16:28:07.59 .net
>>589
>本当の毛人はどこに消えた・・・・・・・・・・
貴殿は「日本書紀」、「常陸國風土記」を読んだことがないのかね?
侵攻してきた日本武尊や御諸別や建借間に率いられた軍兵に、原住民は
殲滅されたのだよ。服属せぬ男女は虐殺、降伏した男は近畿へ拉致、
女は蹂躙された。
夜尺斯・夜筑斯を酋長とする部族などは、建借間の計略により全員
焚殺したと堂々と記述されておる。

632 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 17:47:27.37 .net
ふ〜ん、それがいわゆる国府やら荘園やらが成立するときの話か?

633 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 21:08:31.12 .net
そやがな。
大阪のおばちゃんこそ蝦夷。
これでいいでいい?

634 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 00:24:23.06 .net
>>625
お花畑が目に浮かびますねw

>>629
そもそもこの板からして
ろくな根拠も論証もない、思い込みの垂れ流しみたいなカキコばっかりやん

635 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 08:02:35.54 .net
妄想でもソースがなくてもお花畑でも構わないから自説を書けよ。
他人の説の批判ばかり子は来なくていい。

636 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 22:48:33.39 .net
めちゃくちゃな妄想垂れ流しでも書いたほうがいいとか既知外沙汰や

637 :日本@名無史さん:2014/10/27(月) 04:57:43.63 .net
>>634
関西の土人くん、少しは歴史を勉強してくる事だな

関西の自称武士なんて、鳥の羽音に驚いて慌てて逃げ帰ったり、
敵より20倍もの数の兵が居ながら負けるヘタレだけなんだよ

638 :日本@名無史さん:2014/10/27(月) 07:43:48.31 .net
富士川の戦いのことか。疾風怒濤の身のこなしは那須与一であろう。

639 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 09:43:42.65 .net
ヤマトタケルのときは原住民は相模にいたっぽいが、
(日本武尊が駿河で野火攻めに遭ってるが、群馬・埼玉ではなんの戦いもない)

毛野は素通りしているので、景行のときはすでに毛野国一体は支配下で目立った抵抗もない。
原住民がいたとか何をいってるのかな。
もちろん先住の縄文人はいたが、毛野がその原住民だとか、

すでに国家があって毛野はその原住民の支配下で、皇族出自は仮冒したものだった!はありえんわ。

640 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 09:45:11.03 .net
ヤマトタケルの東征は350〜400年代の皇族である毛野氏の軍事行動を示唆するものだろうね。
東山道からはいってるので、どうみてもそうだわ。

641 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 12:31:20.53 .net
『記』では常陸までだけど、
『紀』では陸奥、さらにはその奥の蝦夷領域(日高見国とも表記)まで東征してることになってるね。ヤマトタケル。

642 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 22:37:22.39 .net
11代垂仁天皇の命により常世の国に渡った田道間守、その子孫の県犬養三千代、葛城系が北関東との繋がりが深い。
この常世の国こそ毛野国。
御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。
祟神の兄の豊城入彦と全く同じ設定だと気づくはず。

毛野国は、神武=祟神の国ヤマトと兄弟国にあたる。

643 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 23:21:12.17 .net
大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ
武渟川別命:常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ

644 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 06:11:53.03 .net
東北のエミシの首長たちはほとんど「公」(きみ)のカバネだから
公式には豊城入彦命か倭建命のどちらかの子孫を名乗ってた可能性が高い

645 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 18:10:05.70 .net
>>643
大彦・武渟川別親子双方の会津坂下までの行路は、紀の祟神天皇段には
何の記載もないが、その経路だとどうして断定しえたのですか?

646 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 20:10:40.27 .net
>>631
建借間が、先住民国栖を七夜歌舞歓楽に誘い、種属尽く一時に
焚滅したと得意気に記す『風土記』のこの記事ですね。
  有国栖名曰 夜尺斯夜筑斯二人 自為首帥 堀穴造堡・・・・・・・
  建借間命 令騎士閉堡 自後襲撃 尽囚種属 一時焚滅・・・・・・・

647 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 22:21:33.46 .net
風土記に資料的価値など無い

648 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 23:38:25.76 .net
>>643
>大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ
> 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、 :常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ

その道案内をした者達がいる。
ニニギを道案内した猿田彦。
神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をした 八咫烏。
道祖神、馬頭観音、会津遠征でも道案内がいた。

江戸時代になっても、関東取締出役の用いた道案内 がよく知られる。町奉行所では,三回(さんまわり)(隠密回,定(じよう)回,臨時回)の 同心が給金を与えて雇っておく私的な使用人として生き残った。

それが関東平野の原住民。毛野の正体だ。

649 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 00:20:05.60 .net
>>639
目立った抵抗もないと言われるが、父景行天皇に命じられ東国に赴いた
ヤマトタケルに逆らい略殺された行方郡当麻郷の蝦夷鳥日子、やはり
従わずに斬殺された芸都里の国栖寸津毘古などは、東征軍への先住民
抵抗事件ではないのかね?

650 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 09:47:14.05 .net
アメリカインディアンも、さしたる抵抗もせずに土地を追われ、砂漠の中の居住地に強制的に囲われてしまった。
そして、最後まで白人に立ち向かったのはアパッチ族の酋長ジェロニモ。
このアパッチ族の風習と古代毛野の風習が似ていて、遺伝子的な繋がりもありそうだ。
彼らは馬にも乗るが騎馬戦はせず、降りて戦う。
酋長はいるが絶対的な権力者ではなく、シャーマンのような存在。重要事項は関係者の合議で決まる。
鳥アイテムを信仰し、頭を鳥の羽で飾る。

651 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 00:00:29.36 .net
>>649
639は毛野氏が原住民系ではなく侵略側だったといってんじゃね?

652 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 10:29:27.48 .net
御諸別が作り上げた第一次毛野王国をヤマトタケルが平らげて、平氏を入植させたのですね?
つまり、三輪王朝から河内王朝に代わったヤマトでの政変が東国にも持ち込まれたということではないだろうか。

653 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:00:06.70 .net
末期になると、どっちが蝦夷で、どっちが朝廷か分からんくなるな
「兵士の質が劣化して使い物にならないから警備は蝦夷を使う」
って720くらいから言ってる。

654 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:02:16.01 .net
>>652
御諸別王は三輪王だしな。卑弥呼の拠点の王?
後の豪族じゃなくて邪馬台国からそう経ってない古墳前半時代なのがおもしろい点。

まあいろいろ研究すれば毛野氏はすごいおもしろいと思うよ。
グンマーについて研究する酔狂な研究者が足りないだけ。

655 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:05:43.22 .net
葛城氏と御諸山勢力の関係は謎だらけだが、=近いから敵か同族か、いずれにしろ深い関係があるとは思われる。

王朝交代論とかいろいろある。

御諸別王なんて「卑弥呼の拠点ですが何か」で、ずばりそうだしな。
その御諸別王は毛野氏と系図が繋がる。
雄略以降は畿内がぐちゃぐちゃになるが、景行なのであまり乱れてない時代なので
「謎の3〜4世紀が温存」されていると言える。

ニヤニヤ・・

656 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:06:55.62 .net
毛野氏は卑弥呼とヤマト王権初期の全勢力との接点がある。
かつ強力な軍事力と。

657 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 00:17:00.94 .net
>>655
なにが「ニヤニヤ」だ、キモすぎ…。自信あるなら普通に自説を展開しろ

658 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 01:24:54.75 .net
しかし網野義彦先生が足で丹念に調べた結果見つけ出した「大中臣氏略系図(桐村家文書)」は世紀の大発見だったなあ。
あの系図のお蔭で、それまで太田亮博士などによりその可能性が指摘されていた多氏系としての中臣氏の存在がグッと現実味を帯びてきたわけだし、
海道平氏(繁盛流常陸平氏一門)と出羽清原氏との関係や、さらにはそれらと義家〜両毛源氏との相関関係、そしてもちろん上記諸氏と藤原秀郷流との相関関係も明らかにしてくれたわけだ。
他にも、「若狭一宮社務家系図」などの詳細な研究によって、後期王朝国家時代が到来する以前には当たり前の婚姻形態であった母系継承による氏族形態の実態の把握にも大きく貢献することになったわけだし。
ほんとあの頃の網野先生は目の付けどころとかがいちいち神懸かっていたなあ。

659 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 12:14:04.33 .net
網野先生も古田先生も、自分の足で資料を収集しようとする地場の学者は、例外なく偽書にたどり着いてしまう運命なのです。

660 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 19:09:03.78 .net
都々一坊扇歌の謎かけの最高傑作は、何気なく天王寺の塔だと思っていたけれど天王寺の由来を知って、その思いがさらに強くなってしまった。
天王寺の塔は、古墳時代末期に聖徳太子が百済から呼んだ宮大工集団が建てたのですね。それこそが世界最古の企業家集団である金剛組。ロマンがあるなあ。

少し前に毛野氏族は総合商社を持っていたという話があったけれど疑わしいなあ。当時は貨幣も流通していない物々交換の時代。決済が迅速に行われたとは思えないのです。

661 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:34:22.86 .net
千葉県の旧東葛飾郡の野田市、流山市、柏市、我孫子市、松戸市、鎌ケ谷市、市川市、船橋市、浦安市に相当する地域、ここが千葉県における毛野の支配地域に相当します。
この辺りの微高地沿いに、毛野の流通網が続いており、その先の、出水市出雲系の鳥海氏や香取、鹿嶋とは明確に住み分けています。
物々交換の時代に、縄文字を商取引に使用し、縄張りを守ってきたのだろう。

662 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:43:04.46 .net
毛野の作った道の両側には縄を張って、一般人の侵入を禁じ、数キロおきに見張り番を配置し、縄張りを巡回していた。
道案内、目明かし、同心。
八色の姓の5番目、道師さ。

663 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:52:34.96 .net
なぜ八色の姓の5番目、道師が賜姓されなかったかといえば、
それは、官製の大道、東山道の整備を進めていたからだ。
これは毛野の利権と真っ向対決する毛野氏最大の危機だったろう。
しかし、大和勢力には歯が立たなかった。
東山道と競合しなかった接続道路が、今でも産業道路、迂回路として残っている。

664 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:01:23.71 .net
物々交換を支障なく行うためには、枡の寸法を決めることや天秤ばかりの普及が不可欠であったと思います。
さらに、おおよその交換比率を決めておくこと。  同じ米でも、旨いものがあれば、まずいものもある。
物々交換もなかなか大変だったでしょうね。

665 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:48:15.18 .net
>>662-663
「道師」の道って道路じゃなくて技芸の道のことだろ
旧の造(みやつこ)に該当で伴造、職業部の管掌氏族じゃん
賜姓はされたけど下級貴族(というか貴族ですらない)だから記録が早く散逸したんじゃね?

666 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:37:08.59 .net
道路沿いに縄を張るのは物理的に難しいので廃れたけれど、神社の入り口、ご神体山の入口に大鳥居を建てて、侵入を制限、
鳥居に大しめ縄を張るのはその名残。神木、神石、滝などにも進入禁止の縄を張ります。
田んぼに杭を立てて縄を張る習慣は今でも残っているし、案山子と日本神話に登場する星の神、天香香背男( あめのかがせお)は同体。

星の神、天香香背男( あめのかがせお)は、 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

星宮神社の配置は毛野の支配地とは一致しないが、関東平野では毛野とは交流があり、共存していた様子。

667 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:44:20.35 .net
ふふんw

668 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:17:19.05 .net
今でも、目明し、同心の流れを汲む警察の現場では縄の代わりに黄色いテープを張って現場保存をします。
潜ろうとすれば誰でも通れるのに、心理的バリアーを張って侵入させない。それが結界ですね。

669 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:39:51.75 .net
江戸時代の話
そいつらの話とどう結びつくんだ?

670 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:05:17.22 .net
鎌倉幕府の頼朝が朱印状で認められたとされる通行権、通商権、興業権などの特権。
江戸に入封した徳川家康もそれを追認した。
江戸は、幕府が支配する士農工商と浅草弾左衛門配下の穢多非人の二重構造だったのです。

671 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:11:21.58 .net
日本に良いこわざあるね。

本は急げ!

672 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:30:46.05 .net
その鎌倉幕府の御家人というのは、平安時代から住んでいた土豪で、
古墳時代や奈良時代に渡来した帰化人だったり、
実はその前から住んでいた御諸別、奈良別、犬飼氏、橘、藤原系、ごちゃごぎゃ。
しかし、その本性は石器時代から住んでいた土人。ですよ。

673 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 17:18:43.96 .net
>>671
外国の方ですか?

674 :日本@名無史さん:2014/11/11(火) 22:04:10.23 .net
蝦夷と毛野氏が同時代から
蝦夷は強いが、勝ったり負けたりして結局領地を広げた毛野氏の優勢勝ち
もしくは蝦夷が取り込んだか

蝦夷は遠距離も近接も馬術も長けているので
武者の原型だな。対抗した毛野氏が弱いわけではないので、
基本互角の技術か。

修羅の国での楽しい殺し合い=切磋琢磨で生まれたのが日本の戦闘技術
権力者が弱い者をたまに追い回すだけの畿内の戦乱じゃ技術の発展はなかったはず。

675 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 00:19:03.50 .net
縄張りは古代からあった気がするな

676 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 01:34:48.20 .net
発掘考古学からは日本の古代は、戦争による大規模な殺戮の跡って発見されていないんじゃなかったっけ?

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