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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

616 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 19:36:26.45 .net
毛野氏って八十神でしょ

617 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 21:24:56.93 .net
>>615
関東の旧石器時代の遺跡、縄文・弥生遺跡、特に奈良時代、近世まで続く重畳遺跡を調べれば、毛野の住民に民族的、文化的な断絶はなく、毛野は旧石器時代から続く民族集団だったことがわかります。
豊城入彦やその子孫も、毛野集団と大いに関係がありますが、豊城入彦の系統がはじめて関東平野の住人ではありません。
恐らく、関東平野に灌漑技術を伴った水田稲作、鉄器、養蚕など当時の最先端の文化を持ち込み、神に近い存在として君臨したことは想像に難くありません。

しかし、毛野と呼ばれる地域の住民は、一貫して旧石器時代からの住人だったことは間違いないと思われます。
大化の改新や明治維新以上に新しいもの好きの民族性が発揮された時代だったと思います。

618 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 22:15:47.28 .net
>>612
いやいや、蝦夷はわかるけど毛野氏が格別どうのってあるかね?
安倍氏=丈部
大伴氏=大伴部
毛野氏=吉弥侯部
安倍氏や大伴氏も毛野氏に劣らず奥羽の経営には参与していたようだが。

619 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:55:16.51 .net
>>617
群馬の弥生・縄文時代の遺跡密度をマップで調べてからしゃべってな。

土器の分布を見ても国家があり活発な民族がいた形跡も
戦乱の形跡もないです。

考古学で完全否定されてるんだが、「異論なしに300以前の関東平野は縄文時代で国家がなかった」
のが確定。

何度もいわせんなアホが
文句あるなら土器でもなんでも土を掘って見つけろや

620 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 17:59:01.47 .net
>>618
大伴が蝦夷と戦ったとか初耳。
律令以降だろ?
蝦夷が完全に弱体化したときに出てこられてもな。

板東武者の祖は上毛野田道です。

上毛野田道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%AF%9B%E9%87%8E%E7%94%B0%E9%81%93

どうでもいい氏族の自慢とかマジでうざい。
そんなに素晴らしいのがいるとかいうなら、なんか出せよ
勇敢に戦った偉大ななんとかさんを。

大伴なんて壬申の乱のときにたかが2000の尾張勢にしっぽ巻いて逃げたザコだろ。

621 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:01:47.77 .net
阿倍比羅夫はそこそこだが、日本海側で関東平野に関係しないし
その最高点ですら毛野氏の方が格が高い=軍勢が多い。

700〜800以降は弱体化するが、
初期は関東平野に毛野氏に並ぶものなしだな。
なのに同格にしたがるザコ氏族うざい。

622 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:04:11.42 .net
関東で強かった「桓武平氏」は反乱を起こした朝敵の逆賊が有名ですねー

いまだに神田神社に将門を祀るか祀らないかで論争があるくらい。

毛野氏と互角なのは弓矢と刀に長けた蝦夷くらいだわ。
「毛野より蝦夷の方が強かった」「蝦夷と互角だった」は一応認める論争だが
それ以外のなんとか氏族は話になんねーからウザイです。

623 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 18:21:20.15 .net
当時の天皇ですら勝てなかった軍団なんだから
>>「毛野とそれ以外がほぼ互角 17000 VS 20000」
何とか氏族ガーとか言われても笑えるだけ

え? そいつは天皇よりも権力があったのか?
確定してるんだからどうにもならんね、朝鮮人みたいに過去を好きなように捏造したいなら別だがw

624 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 19:44:18.40 .net
権力?

625 :日本@名無史さん:2014/10/22(水) 21:28:04.23 .net
>>619
オレは、豊城入彦が来る以前に、後に毛野と呼ばれる地域に大きな国があったなどと言っていない。
むしろ、旧石器時代の関東は、富や権力の集中がなく、緩やかな共同体だったと思われます。
御諸別が国に近い支配体制を築いた後も、毛野の住民は自由に暮らしていた。
それは、江戸時代の士農工商に組み込まれなかった穢多や非人と呼ばれた人達に連なる。
中央集権だけが国家の在り方ではないのです。

626 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 00:54:16.46 .net
>>625
原始共産制の夢まだあきらめてないのかw 団塊ブサヨ乙 
とっくに人類学で否定されてるからアキラメロン

627 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 01:01:34.83 .net
自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、
王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。

628 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 06:42:56.27 .net
>>626色褪せた古い学説なんか信じてたのか?ごくろうさん。

629 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:16:32.85 .net
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w

630 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 22:17:56.46 .net
このスレにも、「これが定説です。」みたいな教祖様がいらしたとは驚きです。w

631 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 16:28:07.59 .net
>>589
>本当の毛人はどこに消えた・・・・・・・・・・
貴殿は「日本書紀」、「常陸國風土記」を読んだことがないのかね?
侵攻してきた日本武尊や御諸別や建借間に率いられた軍兵に、原住民は
殲滅されたのだよ。服属せぬ男女は虐殺、降伏した男は近畿へ拉致、
女は蹂躙された。
夜尺斯・夜筑斯を酋長とする部族などは、建借間の計略により全員
焚殺したと堂々と記述されておる。

632 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 17:47:27.37 .net
ふ〜ん、それがいわゆる国府やら荘園やらが成立するときの話か?

633 :日本@名無史さん:2014/10/25(土) 21:08:31.12 .net
そやがな。
大阪のおばちゃんこそ蝦夷。
これでいいでいい?

634 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 00:24:23.06 .net
>>625
お花畑が目に浮かびますねw

>>629
そもそもこの板からして
ろくな根拠も論証もない、思い込みの垂れ流しみたいなカキコばっかりやん

635 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 08:02:35.54 .net
妄想でもソースがなくてもお花畑でも構わないから自説を書けよ。
他人の説の批判ばかり子は来なくていい。

636 :日本@名無史さん:2014/10/26(日) 22:48:33.39 .net
めちゃくちゃな妄想垂れ流しでも書いたほうがいいとか既知外沙汰や

637 :日本@名無史さん:2014/10/27(月) 04:57:43.63 .net
>>634
関西の土人くん、少しは歴史を勉強してくる事だな

関西の自称武士なんて、鳥の羽音に驚いて慌てて逃げ帰ったり、
敵より20倍もの数の兵が居ながら負けるヘタレだけなんだよ

638 :日本@名無史さん:2014/10/27(月) 07:43:48.31 .net
富士川の戦いのことか。疾風怒濤の身のこなしは那須与一であろう。

639 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 09:43:42.65 .net
ヤマトタケルのときは原住民は相模にいたっぽいが、
(日本武尊が駿河で野火攻めに遭ってるが、群馬・埼玉ではなんの戦いもない)

毛野は素通りしているので、景行のときはすでに毛野国一体は支配下で目立った抵抗もない。
原住民がいたとか何をいってるのかな。
もちろん先住の縄文人はいたが、毛野がその原住民だとか、

すでに国家があって毛野はその原住民の支配下で、皇族出自は仮冒したものだった!はありえんわ。

640 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 09:45:11.03 .net
ヤマトタケルの東征は350〜400年代の皇族である毛野氏の軍事行動を示唆するものだろうね。
東山道からはいってるので、どうみてもそうだわ。

641 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 12:31:20.53 .net
『記』では常陸までだけど、
『紀』では陸奥、さらにはその奥の蝦夷領域(日高見国とも表記)まで東征してることになってるね。ヤマトタケル。

642 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 22:37:22.39 .net
11代垂仁天皇の命により常世の国に渡った田道間守、その子孫の県犬養三千代、葛城系が北関東との繋がりが深い。
この常世の国こそ毛野国。
御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。
祟神の兄の豊城入彦と全く同じ設定だと気づくはず。

毛野国は、神武=祟神の国ヤマトと兄弟国にあたる。

643 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 23:21:12.17 .net
大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ
武渟川別命:常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ

644 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 06:11:53.03 .net
東北のエミシの首長たちはほとんど「公」(きみ)のカバネだから
公式には豊城入彦命か倭建命のどちらかの子孫を名乗ってた可能性が高い

645 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 18:10:05.70 .net
>>643
大彦・武渟川別親子双方の会津坂下までの行路は、紀の祟神天皇段には
何の記載もないが、その経路だとどうして断定しえたのですか?

646 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 20:10:40.27 .net
>>631
建借間が、先住民国栖を七夜歌舞歓楽に誘い、種属尽く一時に
焚滅したと得意気に記す『風土記』のこの記事ですね。
  有国栖名曰 夜尺斯夜筑斯二人 自為首帥 堀穴造堡・・・・・・・
  建借間命 令騎士閉堡 自後襲撃 尽囚種属 一時焚滅・・・・・・・

647 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 22:21:33.46 .net
風土記に資料的価値など無い

648 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 23:38:25.76 .net
>>643
>大彦命:新潟市付近から阿賀野川を東へ遡り、会津へ
> 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、 :常陸西部の筑波から鬼怒川を北に遡り(栃木を縦断し)、山王峠を越え大川沿いに会津へ

その道案内をした者達がいる。
ニニギを道案内した猿田彦。
神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をした 八咫烏。
道祖神、馬頭観音、会津遠征でも道案内がいた。

江戸時代になっても、関東取締出役の用いた道案内 がよく知られる。町奉行所では,三回(さんまわり)(隠密回,定(じよう)回,臨時回)の 同心が給金を与えて雇っておく私的な使用人として生き残った。

それが関東平野の原住民。毛野の正体だ。

649 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 00:20:05.60 .net
>>639
目立った抵抗もないと言われるが、父景行天皇に命じられ東国に赴いた
ヤマトタケルに逆らい略殺された行方郡当麻郷の蝦夷鳥日子、やはり
従わずに斬殺された芸都里の国栖寸津毘古などは、東征軍への先住民
抵抗事件ではないのかね?

650 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 09:47:14.05 .net
アメリカインディアンも、さしたる抵抗もせずに土地を追われ、砂漠の中の居住地に強制的に囲われてしまった。
そして、最後まで白人に立ち向かったのはアパッチ族の酋長ジェロニモ。
このアパッチ族の風習と古代毛野の風習が似ていて、遺伝子的な繋がりもありそうだ。
彼らは馬にも乗るが騎馬戦はせず、降りて戦う。
酋長はいるが絶対的な権力者ではなく、シャーマンのような存在。重要事項は関係者の合議で決まる。
鳥アイテムを信仰し、頭を鳥の羽で飾る。

651 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 00:00:29.36 .net
>>649
639は毛野氏が原住民系ではなく侵略側だったといってんじゃね?

652 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 10:29:27.48 .net
御諸別が作り上げた第一次毛野王国をヤマトタケルが平らげて、平氏を入植させたのですね?
つまり、三輪王朝から河内王朝に代わったヤマトでの政変が東国にも持ち込まれたということではないだろうか。

653 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:00:06.70 .net
末期になると、どっちが蝦夷で、どっちが朝廷か分からんくなるな
「兵士の質が劣化して使い物にならないから警備は蝦夷を使う」
って720くらいから言ってる。

654 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:02:16.01 .net
>>652
御諸別王は三輪王だしな。卑弥呼の拠点の王?
後の豪族じゃなくて邪馬台国からそう経ってない古墳前半時代なのがおもしろい点。

まあいろいろ研究すれば毛野氏はすごいおもしろいと思うよ。
グンマーについて研究する酔狂な研究者が足りないだけ。

655 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:05:43.22 .net
葛城氏と御諸山勢力の関係は謎だらけだが、=近いから敵か同族か、いずれにしろ深い関係があるとは思われる。

王朝交代論とかいろいろある。

御諸別王なんて「卑弥呼の拠点ですが何か」で、ずばりそうだしな。
その御諸別王は毛野氏と系図が繋がる。
雄略以降は畿内がぐちゃぐちゃになるが、景行なのであまり乱れてない時代なので
「謎の3〜4世紀が温存」されていると言える。

ニヤニヤ・・

656 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:06:55.62 .net
毛野氏は卑弥呼とヤマト王権初期の全勢力との接点がある。
かつ強力な軍事力と。

657 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 00:17:00.94 .net
>>655
なにが「ニヤニヤ」だ、キモすぎ…。自信あるなら普通に自説を展開しろ

658 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 01:24:54.75 .net
しかし網野義彦先生が足で丹念に調べた結果見つけ出した「大中臣氏略系図(桐村家文書)」は世紀の大発見だったなあ。
あの系図のお蔭で、それまで太田亮博士などによりその可能性が指摘されていた多氏系としての中臣氏の存在がグッと現実味を帯びてきたわけだし、
海道平氏(繁盛流常陸平氏一門)と出羽清原氏との関係や、さらにはそれらと義家〜両毛源氏との相関関係、そしてもちろん上記諸氏と藤原秀郷流との相関関係も明らかにしてくれたわけだ。
他にも、「若狭一宮社務家系図」などの詳細な研究によって、後期王朝国家時代が到来する以前には当たり前の婚姻形態であった母系継承による氏族形態の実態の把握にも大きく貢献することになったわけだし。
ほんとあの頃の網野先生は目の付けどころとかがいちいち神懸かっていたなあ。

659 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 12:14:04.33 .net
網野先生も古田先生も、自分の足で資料を収集しようとする地場の学者は、例外なく偽書にたどり着いてしまう運命なのです。

660 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 19:09:03.78 .net
都々一坊扇歌の謎かけの最高傑作は、何気なく天王寺の塔だと思っていたけれど天王寺の由来を知って、その思いがさらに強くなってしまった。
天王寺の塔は、古墳時代末期に聖徳太子が百済から呼んだ宮大工集団が建てたのですね。それこそが世界最古の企業家集団である金剛組。ロマンがあるなあ。

少し前に毛野氏族は総合商社を持っていたという話があったけれど疑わしいなあ。当時は貨幣も流通していない物々交換の時代。決済が迅速に行われたとは思えないのです。

661 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:34:22.86 .net
千葉県の旧東葛飾郡の野田市、流山市、柏市、我孫子市、松戸市、鎌ケ谷市、市川市、船橋市、浦安市に相当する地域、ここが千葉県における毛野の支配地域に相当します。
この辺りの微高地沿いに、毛野の流通網が続いており、その先の、出水市出雲系の鳥海氏や香取、鹿嶋とは明確に住み分けています。
物々交換の時代に、縄文字を商取引に使用し、縄張りを守ってきたのだろう。

662 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:43:04.46 .net
毛野の作った道の両側には縄を張って、一般人の侵入を禁じ、数キロおきに見張り番を配置し、縄張りを巡回していた。
道案内、目明かし、同心。
八色の姓の5番目、道師さ。

663 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:52:34.96 .net
なぜ八色の姓の5番目、道師が賜姓されなかったかといえば、
それは、官製の大道、東山道の整備を進めていたからだ。
これは毛野の利権と真っ向対決する毛野氏最大の危機だったろう。
しかし、大和勢力には歯が立たなかった。
東山道と競合しなかった接続道路が、今でも産業道路、迂回路として残っている。

664 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:01:23.71 .net
物々交換を支障なく行うためには、枡の寸法を決めることや天秤ばかりの普及が不可欠であったと思います。
さらに、おおよその交換比率を決めておくこと。  同じ米でも、旨いものがあれば、まずいものもある。
物々交換もなかなか大変だったでしょうね。

665 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:48:15.18 .net
>>662-663
「道師」の道って道路じゃなくて技芸の道のことだろ
旧の造(みやつこ)に該当で伴造、職業部の管掌氏族じゃん
賜姓はされたけど下級貴族(というか貴族ですらない)だから記録が早く散逸したんじゃね?

666 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:37:08.59 .net
道路沿いに縄を張るのは物理的に難しいので廃れたけれど、神社の入り口、ご神体山の入口に大鳥居を建てて、侵入を制限、
鳥居に大しめ縄を張るのはその名残。神木、神石、滝などにも進入禁止の縄を張ります。
田んぼに杭を立てて縄を張る習慣は今でも残っているし、案山子と日本神話に登場する星の神、天香香背男( あめのかがせお)は同体。

星の神、天香香背男( あめのかがせお)は、 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

星宮神社の配置は毛野の支配地とは一致しないが、関東平野では毛野とは交流があり、共存していた様子。

667 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:44:20.35 .net
ふふんw

668 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:17:19.05 .net
今でも、目明し、同心の流れを汲む警察の現場では縄の代わりに黄色いテープを張って現場保存をします。
潜ろうとすれば誰でも通れるのに、心理的バリアーを張って侵入させない。それが結界ですね。

669 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:39:51.75 .net
江戸時代の話
そいつらの話とどう結びつくんだ?

670 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:05:17.22 .net
鎌倉幕府の頼朝が朱印状で認められたとされる通行権、通商権、興業権などの特権。
江戸に入封した徳川家康もそれを追認した。
江戸は、幕府が支配する士農工商と浅草弾左衛門配下の穢多非人の二重構造だったのです。

671 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:11:21.58 .net
日本に良いこわざあるね。

本は急げ!

672 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:30:46.05 .net
その鎌倉幕府の御家人というのは、平安時代から住んでいた土豪で、
古墳時代や奈良時代に渡来した帰化人だったり、
実はその前から住んでいた御諸別、奈良別、犬飼氏、橘、藤原系、ごちゃごぎゃ。
しかし、その本性は石器時代から住んでいた土人。ですよ。

673 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 17:18:43.96 .net
>>671
外国の方ですか?

674 :日本@名無史さん:2014/11/11(火) 22:04:10.23 .net
蝦夷と毛野氏が同時代から
蝦夷は強いが、勝ったり負けたりして結局領地を広げた毛野氏の優勢勝ち
もしくは蝦夷が取り込んだか

蝦夷は遠距離も近接も馬術も長けているので
武者の原型だな。対抗した毛野氏が弱いわけではないので、
基本互角の技術か。

修羅の国での楽しい殺し合い=切磋琢磨で生まれたのが日本の戦闘技術
権力者が弱い者をたまに追い回すだけの畿内の戦乱じゃ技術の発展はなかったはず。

675 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 00:19:03.50 .net
縄張りは古代からあった気がするな

676 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 01:34:48.20 .net
発掘考古学からは日本の古代は、戦争による大規模な殺戮の跡って発見されていないんじゃなかったっけ?

677 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 23:11:09.68 .net
縄張りは、縄文時代以降だろう?最近の話。
大量の藁がなければ縄が出来ないからな。
縄文時代は、葦の時代。豊葦原、葦舟。

678 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 12:26:06.07 .net
藁縄の普及は、稲作の盛んになった弥生時代以降のような気がする。
縄文時代以前は、麻、井草、藤を主原料として縄を編んでいたのではないでしょうか。
藁の用途は、縄、コモ、むしろ、俵、その他。 茣蓙は井草か。

679 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:56:22.53 .net
>>678
馬は石ころを食うとでも思ってるの?

米を人間が食って、稲藁を馬が食うんだよ。
そんでそれが人馬一体の兵団になるんだわ。
馬は運搬にも使うし、肉も食う(分からんが食ったかも知れない 馬を飼う信州では馬肉食ってる)

すんげーエコだな。
人間が食えない稲藁で馬をつくってそれが自家用車になるわけだし。
他に何にもいらなくね?って感じがする。

680 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:12:36.70 .net
水稲は弥生時代から。また、当時は品種改良もなく水稲は北の方では育たない。
藁縄が沢山使用され始めたのは、どう考えても弥生時代からと思える。

馬って自家用車みたいに誰でも自由にのれたのかなあ。太平洋戦争末期には、
白馬に乗れるのは選ばれし人だけ。古代でも大差ないような気がする。
それと、馬の普及はひずめを保護する金属製の馬蹄が出来てから。それがないと足がもたない。
従って鉄器の登場と馬の活用は同時代からとずぶの素人の私は考える。

681 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:45:13.07 .net
馬を持てたのは庄屋、名主、肝煎といった地域の顔役だけだ。
百姓上がりの足軽は馬は持てない。

682 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 23:04:02.97 .net
そうなんだよな、馬を持ってたのは、上士と名主層が大半

因みに下士足軽は百姓あがりじゃない。
雑多と呼ばれた非定住民
まじで。
百姓は豪農の郷士クラスも百姓に分類される

683 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 02:19:47.50 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

684 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:45:22.79 .net
鬼怒川と黒川に挟まれた河内地区、栃木県中部を中心に、 高(たかお/たかおかみ)神社が100社以上集中して残っているらしい。
この神社のうち最も古い神社の一つ高雄神社(茂木町)は景行天皇56年に御諸別王が勧請したという社伝が残る。
しかし、この神社の分布は毛野のうち下毛野地域に限定され、実際には御諸別王の時代よりずっと後の時代に創建されており、毛野全体の神と言うわけではないようだ。

Wikipediaによれば、
5世紀末に新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。
その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「 旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする説もある。
とあり、下毛野の古墳と高神社は密接な関係がありそうだ。

この高神社は、奈良の桜井市や大阪河内の茅渟宮との関係が伺える。
高神社は、応神朝の頃渡来した帰化人の神か?

685 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:48:29.42 .net
案の定、文字化けしてしまった。
たかお神社の「お」は、雨冠に口3つ、その下に龍という漢字です。

686 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:09:17.93 .net
東京の高尾山とか関係あんの?

687 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:45:47.58 .net
茂木の高雄神社の所在地は、那須国なのか毛野国なのか、あやしいなあ。
何故、那須与一の絵馬が宝物のように保管されているのか疑問がわく。
千本氏の領地だったような気がする。
なお付近は宇都宮氏系の茂木氏、益子氏系の飯村氏、那須氏系の千本氏と入り組んだ地域になる。

688 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 17:30:36.03 .net
高尾山との関係はどうだろうな。
位置的にも時代的にも違うので無関係としても良いが、
高麗からの渡来人、雨乞山、龍神、という共通点はあるから、
後の時代に渡来してきた同族かもしれない。

茂木の高尾神社は社伝丸ごと偽装だろう。
御諸別も那須与一も箔を付けるために後付けしたのだろう。

龍を奉る氏族はどこから来たのだろうか。

689 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:25:42.04 .net
武蔵南部の大都会江戸の二百石の御旗本は馬を持ってないのに
武蔵北部の秩父あたりの本百姓は普通に馬を飼ってた

江戸時代はそんな時代

690 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:38:20.37 .net
首都圏の駅近くに住む我が家には駐車スペースすらないのに、
車持氏の子孫である群馬県民は免許取得年齢に達すれば一人一台が当たり前である。
しかも、100メートル先のコンビニに行くときも車を使うのである。

県民性ってやつだ。

691 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:43:01.86 .net
東京23区と同じ広さに人口2万人ですが車がないとなにもできません
遊楽地にいこうと思ったら100キロメートル先です

692 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 19:50:05.48 .net
さすが車持氏

693 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 12:20:25.19 .net
下毛野の高神社に相当する上毛野の神社を調べてみると雷電神社ということになる。
この雷電神社といえば、上毛野の板倉雷神神社が有名だが、上毛野を中心にかなりの数がある。
京都の上賀茂神社の賀茂別雷神とも関連があり、賀茂族の上毛野入植にあたり、元からあった雷電信仰と習合したようだ。
ちなみに、下毛野の高(たかおかみ)の方は下賀茂神社の賀茂建角身命・八咫烏伝承にある高木大神との関係が伺える。
つまり、賀茂族と秦氏の集合体ということになる。

毛野とは、先に関東へ入植を果たしたものの、畿内の政治的混乱によって忘れられた賀茂族のことではないだろうか?

694 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 14:26:08.07 .net
両毛は鉄とれるの?
雷神は元は鉱山探索の神だよ。
奉じてた人達はのちの山師に連なる人達。
お察しの通り氏族は鴨氏。
役小角なんかもその一員。

695 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:08:09.08 .net
賀茂氏(三輪氏族)

大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。

大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族だろう。
秦氏とも関係が深く、大陸から稲作文化をや養蚕、機織りなどの先進文化を持ち込んだ弥生系渡来人だろう。

696 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:34:21.88 .net
>>694
鉄は何も鉄鉱石や砂鉄としてしか存在しないわけではありません。
みなさんは、高師小僧というものをご存じでしょうか?
葦の根に溜まった褐鉄鉱の団塊のことです。
下の記事は近江八幡ですが、豊橋市のものが有名で、
関東平野の足利の葦原からも大量の褐鉄鉱が見つかったと思われます。

http://blog.goo.ne.jp/ 高師小僧 /e/b661a1d10070832af785c020f51c5d56

697 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:36:40.52 .net
リンクが良くないようです。
すみません、高師小僧で検索してください。

698 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:52:41.14 .net
は?

699 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 16:43:08.39 .net
ほうれん草を食べると鉄分を感じるなあ。 ポパイになれるだろうか。

700 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:20:41.00 .net
>>695
なんというか、雷(いかづち)神は鴨の神であり、和邇・息長(久米族)の神であり、三輪(大神)の神であり、宗形の神であり…
という感じ。
これらはみなある意味同族っちゃ同族だから(あくまでも「ある意味」ね)。
あと、積羽八重事代主命の系譜や『記紀』での隠喩なんか読むとね。この神は鴨氏の神であると同時に和邇氏の神でもある。
理由は上と同じ。
これもやっぱり「ある意味」同族っちゃ同族だから。
高鴨(上鴨)さんは味鍬高彦根の迦毛大御神さんで間違いないけど、その異母弟である事代主命は鴨都波(下鴨)さんのご祭神だね。
上鴨、下鴨ってのは葛城での話ね。山城ではなくて。
面白いのは、この葛城の各鴨社では下照姫命と高照姫命を別神としていること。
前者は味鍬高彦根命の、後者は積羽八重事代主命の同母妹として、それぞれの神社の相殿神に祀っている。
『記紀』では下照姫、高照姫は同神と記しているけど、『旧事本紀』では異母姉妹と記している。
つまり葛城鴨三社のご祭神は『旧事本紀』の記述に準拠した配神の仕方をしているわけだ。

701 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 22:55:02.00 .net
豊城入彦も彦狭島王も東国へは行っていないに、
さしたる戦いもなく、御諸別王が東国に行って善政を行う下地があったのか?
それも、いくつかヒントを見つけた。
既に前の時代に三輪、賀茂族の祖先は東国入植を果たしていたのだ。

上毛野、下毛野に分かれる前の毛野が少しづつ見えてきた。

702 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 22:39:54.15 .net
毛野国なんてなかったらしいが。
上毛野、下毛野に別れた後の名前であって
毛野国が別れたわけではない。

そもそも日本書紀に「毛野国」は出てこない。

是上毛野君・下毛野君之始也
といきなり崇神期に700年以降の氏族名ぽんとででてくるが
崇神期の「毛野国」は出てこない。

その後に毛野国ができたかと思えば
その後は「近江毛野氏」と「上毛野小熊」の話であり
これも「毛野国」を特定するものではない

本に書いてあったが、その通りだと思った。記紀には実は「毛野国」がでてこない。
しいていうなら「東京都知事」「東京都」がいきなりでてきて、その前身の江戸が出てこないのと似てる。
非常に不思議ですが、理由は分かるかな?
東国に毛野氏の祖がいなかった記録はどうみてもない、

703 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 22:40:28.04 .net
ウィキペディア:上毛野氏

東国統治

豊城入彦命は第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている『古事記』も同様。
崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという。

垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた。
『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる。景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。
しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った。

---------------------------- 引用終わり -----------------------------------
ここにある、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。というところにあるように、毛野と呼ばれる地域に毛野という国があったかどうかはわからないが、15もの国があったことは確かだ。
豊城入彦は、東国へ行っていないとみられることから、15国はそれ以前から別王朝の支配下、もしくは友好関係のある国だったと見てよかろう。

つまり、崇神天皇以前の欠史八代の時代に、毛野地域(一つの国ではない)と畿内にはつながりがあったことになる。
それはいつの時代のことか、継続して調査中です。
その15国と、たかお神社、雷電神社、鷲神社、氷川神社、香取神社、鳥見神社、久伊豆神社など、神社ごとに住み分けとも関係がありそうだ。

ほかにも、他の神社と領域を棲み分けられている神社があれば教えて欲しい。それが、毛野の15国である可能性が高い。

704 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:08:43.35 .net
>15国はそれ以前から別王朝の支配下

「3世紀以前の関東独立王朝説」は考古学から完全に否定されてる
ヤマト王権発祥とともに畿内の文化が流入している。

非常に限定される最初期の古墳の石棺
「長持形石棺」が関東の太田天神古墳から見つかる
>畿内の大型古墳で多く見らる形式
>仁徳天皇古墳と同じ形式=応神と同じ

ヤマト王権以降の王朝については否定しない。
ヤマト王権以前の関東王朝については、広範囲な国家の痕跡を示すものが
見られない以上否定される。=考古学者でも誰も言ってない。

人口は多かったようだが、山岳部での縄文時代的な暮らしをしていたため
田園地帯で人口発展すると見られる「国家」がないのは人類学的にも頷ける。

705 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:12:05.08 .net
狗奴国東海説を言う学者が関東王朝があったら便利なのだが、
=東海と関東との連合で畿内と十分対抗できる勢力になりうるから。

3世紀以前の国家を示す考古学遺跡が関東平野から見つからないもんだから、
関東勢力との同盟論を諦めてるくらい。

「記紀での記述通りヤマト王権の軍団が関東に進出した」というのを否定する根拠は見つからない
文献学的にも考古学的にも見つからない。ほぼ確定。

まあ見つかってないのだろう。火炎の縄文土器だしな。

706 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:20:54.83 .net
飽きたよ、妄想は
日本書紀や古事記が書かれてからはっきりしてきたのは
火山活動の記録だ

707 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:23:07.72 .net
「関東に独立王朝があって、畿内と対抗した
それが畿内邪馬台国と関東狗奴国だ!」

というのは実に都合のいい=めんどくさい九州説を抹殺できるから
論理で、畿内の学者は目を皿にして弥生時代の関東王朝の存在を研究したが
見つからないもんだから=関東平野は遺跡の発見が山岳部に多い=弥生時代に入っても
豊かな縄文時代を満喫してて、それでよかったのが関東平野

「関東王朝」という結論に意図的に持って行こうとした畿内の学者がいたのに
関東に国家があった考古学的形跡がないため断念した
というのを知っておくべき。

708 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:29:16.15 .net
関東ローム層の形成は富士山が噴火したから

709 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:31:44.00 .net
記紀には富士山の記述が少ない
関東平野はヤマト王権が4世紀に入り侵入し

南関東と抗争して富士山まで辿り着いたかどうかというのが

三角縁神獣鏡の初期分布からみたヤマトの国々
http://blogs.yahoo.co.jp/ainomori_snow/6782929.html
これを見るとだいたい国家の形跡が分かる。

静岡から千葉にかけての南関東は
畿内の勢力との関係が薄いのが分かる。

国家がないという意味ではなく、ヤマト王権・卑弥呼以外の勢力がいたことが分かる。
ヤマトタケルの征伐はこの図から言っても筋が通ってる。
=王権の範囲が及ばない南関東を倒したという記紀通り。

710 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:33:46.65 .net
小御岳、古富士、新富士

どれも火山活動で一気にできた山

711 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:41:46.73 .net
記紀や風土記には富士山の記述が確かに少ない(少ないどころか記紀神話には記述ゼロ。あれほど目立つ霊峰なのに)が、
反対に日本武尊の関東や日高見(東北地方)までの遠征譚などもっと東方、北方への記述は普通になされている。
これは記紀編纂当時、どうも富士山山麓地域が触れてはならない、あるいは触れにくい(書きにくい)事情があったことが推察される。
『竹取物語』なんか読むと、間接的にそのあたりの“事情”を物語っている可能性があるように思う。

712 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 21:57:39.69 .net
上毛野、下毛野は大和朝廷が小国をまとめて国にしました。
関東には大きな国はなく、小国が分立して共存共栄していたと思われます。
湿地帯には人が住めず、人類学的にも無人地帯でした。
毛野氏の祖先は関東周辺の扇状地や微高地で細々と暮らしていたのです。
遺跡と呼べるものはほとんど残していません。
あなたのおっしゃる通り、未開の荒野だったのです。

713 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 23:44:16.41 .net
国家というと、国会議事堂があって、衆議院解散して国民に信を問い合うとか、
税制があって国民から租庸調を取っていたとか思っている人ごくろうさんです。
実は、王がいれば国家なのです。社会制度なんてなくても良い。ただそれだけ。

714 :日本@名無史さん:2014/11/23(日) 14:26:05.43 .net
>>712
そのような古代国のひとつ毛野国が、何のために出羽方面に進出?
侵略?し植民したのか?
103 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 10:27:30.41
・・・・・・・・毛野氏の北関東〜出羽方面への進出も絡めて。
古代の関が原 関東の東西戦争
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284125193/-103

715 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 12:26:47.47 .net
会津の山の中、福島県河沼郡柳津町の石生前遺跡(いしゅうまえいせき)という大規模縄文遺跡があることをご存知でしょうか?
この地域で出土した火炎式土器は、翡翠の産地 越国姫川上流や宮城県の大木囲貝塚などの縄文集落とも繋がりにあったとされています。

四道将軍大彦命とその子東海道将軍建沼河別命が出会ったのが会津ですが、遠征の目的はこの柳津の縄文国を挟み撃ちにして攻略することにあったと思われます。
この河沼郡という地名は、建沼河別命を連想させる地名です。
それと石生前という地名も、兵庫県高砂市にある巨大な石造物を神体で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)との関係が気になるところです。この神社の祭神は大穴牟遅命、すなわち大国主大神です。
生石神社(おうしこじんじゃ)と大彦(おおひこ)が似ているところも気になるのですが、偶然でかもしれません。

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