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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

655 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:05:43.22 .net
葛城氏と御諸山勢力の関係は謎だらけだが、=近いから敵か同族か、いずれにしろ深い関係があるとは思われる。

王朝交代論とかいろいろある。

御諸別王なんて「卑弥呼の拠点ですが何か」で、ずばりそうだしな。
その御諸別王は毛野氏と系図が繋がる。
雄略以降は畿内がぐちゃぐちゃになるが、景行なのであまり乱れてない時代なので
「謎の3〜4世紀が温存」されていると言える。

ニヤニヤ・・

656 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:06:55.62 .net
毛野氏は卑弥呼とヤマト王権初期の全勢力との接点がある。
かつ強力な軍事力と。

657 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 00:17:00.94 .net
>>655
なにが「ニヤニヤ」だ、キモすぎ…。自信あるなら普通に自説を展開しろ

658 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 01:24:54.75 .net
しかし網野義彦先生が足で丹念に調べた結果見つけ出した「大中臣氏略系図(桐村家文書)」は世紀の大発見だったなあ。
あの系図のお蔭で、それまで太田亮博士などによりその可能性が指摘されていた多氏系としての中臣氏の存在がグッと現実味を帯びてきたわけだし、
海道平氏(繁盛流常陸平氏一門)と出羽清原氏との関係や、さらにはそれらと義家〜両毛源氏との相関関係、そしてもちろん上記諸氏と藤原秀郷流との相関関係も明らかにしてくれたわけだ。
他にも、「若狭一宮社務家系図」などの詳細な研究によって、後期王朝国家時代が到来する以前には当たり前の婚姻形態であった母系継承による氏族形態の実態の把握にも大きく貢献することになったわけだし。
ほんとあの頃の網野先生は目の付けどころとかがいちいち神懸かっていたなあ。

659 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 12:14:04.33 .net
網野先生も古田先生も、自分の足で資料を収集しようとする地場の学者は、例外なく偽書にたどり着いてしまう運命なのです。

660 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 19:09:03.78 .net
都々一坊扇歌の謎かけの最高傑作は、何気なく天王寺の塔だと思っていたけれど天王寺の由来を知って、その思いがさらに強くなってしまった。
天王寺の塔は、古墳時代末期に聖徳太子が百済から呼んだ宮大工集団が建てたのですね。それこそが世界最古の企業家集団である金剛組。ロマンがあるなあ。

少し前に毛野氏族は総合商社を持っていたという話があったけれど疑わしいなあ。当時は貨幣も流通していない物々交換の時代。決済が迅速に行われたとは思えないのです。

661 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:34:22.86 .net
千葉県の旧東葛飾郡の野田市、流山市、柏市、我孫子市、松戸市、鎌ケ谷市、市川市、船橋市、浦安市に相当する地域、ここが千葉県における毛野の支配地域に相当します。
この辺りの微高地沿いに、毛野の流通網が続いており、その先の、出水市出雲系の鳥海氏や香取、鹿嶋とは明確に住み分けています。
物々交換の時代に、縄文字を商取引に使用し、縄張りを守ってきたのだろう。

662 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:43:04.46 .net
毛野の作った道の両側には縄を張って、一般人の侵入を禁じ、数キロおきに見張り番を配置し、縄張りを巡回していた。
道案内、目明かし、同心。
八色の姓の5番目、道師さ。

663 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:52:34.96 .net
なぜ八色の姓の5番目、道師が賜姓されなかったかといえば、
それは、官製の大道、東山道の整備を進めていたからだ。
これは毛野の利権と真っ向対決する毛野氏最大の危機だったろう。
しかし、大和勢力には歯が立たなかった。
東山道と競合しなかった接続道路が、今でも産業道路、迂回路として残っている。

664 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:01:23.71 .net
物々交換を支障なく行うためには、枡の寸法を決めることや天秤ばかりの普及が不可欠であったと思います。
さらに、おおよその交換比率を決めておくこと。  同じ米でも、旨いものがあれば、まずいものもある。
物々交換もなかなか大変だったでしょうね。

665 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:48:15.18 .net
>>662-663
「道師」の道って道路じゃなくて技芸の道のことだろ
旧の造(みやつこ)に該当で伴造、職業部の管掌氏族じゃん
賜姓はされたけど下級貴族(というか貴族ですらない)だから記録が早く散逸したんじゃね?

666 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:37:08.59 .net
道路沿いに縄を張るのは物理的に難しいので廃れたけれど、神社の入り口、ご神体山の入口に大鳥居を建てて、侵入を制限、
鳥居に大しめ縄を張るのはその名残。神木、神石、滝などにも進入禁止の縄を張ります。
田んぼに杭を立てて縄を張る習慣は今でも残っているし、案山子と日本神話に登場する星の神、天香香背男( あめのかがせお)は同体。

星の神、天香香背男( あめのかがせお)は、 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

星宮神社の配置は毛野の支配地とは一致しないが、関東平野では毛野とは交流があり、共存していた様子。

667 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:44:20.35 .net
ふふんw

668 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:17:19.05 .net
今でも、目明し、同心の流れを汲む警察の現場では縄の代わりに黄色いテープを張って現場保存をします。
潜ろうとすれば誰でも通れるのに、心理的バリアーを張って侵入させない。それが結界ですね。

669 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:39:51.75 .net
江戸時代の話
そいつらの話とどう結びつくんだ?

670 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:05:17.22 .net
鎌倉幕府の頼朝が朱印状で認められたとされる通行権、通商権、興業権などの特権。
江戸に入封した徳川家康もそれを追認した。
江戸は、幕府が支配する士農工商と浅草弾左衛門配下の穢多非人の二重構造だったのです。

671 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:11:21.58 .net
日本に良いこわざあるね。

本は急げ!

672 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:30:46.05 .net
その鎌倉幕府の御家人というのは、平安時代から住んでいた土豪で、
古墳時代や奈良時代に渡来した帰化人だったり、
実はその前から住んでいた御諸別、奈良別、犬飼氏、橘、藤原系、ごちゃごぎゃ。
しかし、その本性は石器時代から住んでいた土人。ですよ。

673 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 17:18:43.96 .net
>>671
外国の方ですか?

674 :日本@名無史さん:2014/11/11(火) 22:04:10.23 .net
蝦夷と毛野氏が同時代から
蝦夷は強いが、勝ったり負けたりして結局領地を広げた毛野氏の優勢勝ち
もしくは蝦夷が取り込んだか

蝦夷は遠距離も近接も馬術も長けているので
武者の原型だな。対抗した毛野氏が弱いわけではないので、
基本互角の技術か。

修羅の国での楽しい殺し合い=切磋琢磨で生まれたのが日本の戦闘技術
権力者が弱い者をたまに追い回すだけの畿内の戦乱じゃ技術の発展はなかったはず。

675 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 00:19:03.50 .net
縄張りは古代からあった気がするな

676 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 01:34:48.20 .net
発掘考古学からは日本の古代は、戦争による大規模な殺戮の跡って発見されていないんじゃなかったっけ?

677 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 23:11:09.68 .net
縄張りは、縄文時代以降だろう?最近の話。
大量の藁がなければ縄が出来ないからな。
縄文時代は、葦の時代。豊葦原、葦舟。

678 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 12:26:06.07 .net
藁縄の普及は、稲作の盛んになった弥生時代以降のような気がする。
縄文時代以前は、麻、井草、藤を主原料として縄を編んでいたのではないでしょうか。
藁の用途は、縄、コモ、むしろ、俵、その他。 茣蓙は井草か。

679 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:56:22.53 .net
>>678
馬は石ころを食うとでも思ってるの?

米を人間が食って、稲藁を馬が食うんだよ。
そんでそれが人馬一体の兵団になるんだわ。
馬は運搬にも使うし、肉も食う(分からんが食ったかも知れない 馬を飼う信州では馬肉食ってる)

すんげーエコだな。
人間が食えない稲藁で馬をつくってそれが自家用車になるわけだし。
他に何にもいらなくね?って感じがする。

680 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:12:36.70 .net
水稲は弥生時代から。また、当時は品種改良もなく水稲は北の方では育たない。
藁縄が沢山使用され始めたのは、どう考えても弥生時代からと思える。

馬って自家用車みたいに誰でも自由にのれたのかなあ。太平洋戦争末期には、
白馬に乗れるのは選ばれし人だけ。古代でも大差ないような気がする。
それと、馬の普及はひずめを保護する金属製の馬蹄が出来てから。それがないと足がもたない。
従って鉄器の登場と馬の活用は同時代からとずぶの素人の私は考える。

681 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:45:13.07 .net
馬を持てたのは庄屋、名主、肝煎といった地域の顔役だけだ。
百姓上がりの足軽は馬は持てない。

682 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 23:04:02.97 .net
そうなんだよな、馬を持ってたのは、上士と名主層が大半

因みに下士足軽は百姓あがりじゃない。
雑多と呼ばれた非定住民
まじで。
百姓は豪農の郷士クラスも百姓に分類される

683 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 02:19:47.50 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

684 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:45:22.79 .net
鬼怒川と黒川に挟まれた河内地区、栃木県中部を中心に、 高(たかお/たかおかみ)神社が100社以上集中して残っているらしい。
この神社のうち最も古い神社の一つ高雄神社(茂木町)は景行天皇56年に御諸別王が勧請したという社伝が残る。
しかし、この神社の分布は毛野のうち下毛野地域に限定され、実際には御諸別王の時代よりずっと後の時代に創建されており、毛野全体の神と言うわけではないようだ。

Wikipediaによれば、
5世紀末に新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。
その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「 旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする説もある。
とあり、下毛野の古墳と高神社は密接な関係がありそうだ。

この高神社は、奈良の桜井市や大阪河内の茅渟宮との関係が伺える。
高神社は、応神朝の頃渡来した帰化人の神か?

685 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:48:29.42 .net
案の定、文字化けしてしまった。
たかお神社の「お」は、雨冠に口3つ、その下に龍という漢字です。

686 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:09:17.93 .net
東京の高尾山とか関係あんの?

687 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:45:47.58 .net
茂木の高雄神社の所在地は、那須国なのか毛野国なのか、あやしいなあ。
何故、那須与一の絵馬が宝物のように保管されているのか疑問がわく。
千本氏の領地だったような気がする。
なお付近は宇都宮氏系の茂木氏、益子氏系の飯村氏、那須氏系の千本氏と入り組んだ地域になる。

688 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 17:30:36.03 .net
高尾山との関係はどうだろうな。
位置的にも時代的にも違うので無関係としても良いが、
高麗からの渡来人、雨乞山、龍神、という共通点はあるから、
後の時代に渡来してきた同族かもしれない。

茂木の高尾神社は社伝丸ごと偽装だろう。
御諸別も那須与一も箔を付けるために後付けしたのだろう。

龍を奉る氏族はどこから来たのだろうか。

689 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:25:42.04 .net
武蔵南部の大都会江戸の二百石の御旗本は馬を持ってないのに
武蔵北部の秩父あたりの本百姓は普通に馬を飼ってた

江戸時代はそんな時代

690 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:38:20.37 .net
首都圏の駅近くに住む我が家には駐車スペースすらないのに、
車持氏の子孫である群馬県民は免許取得年齢に達すれば一人一台が当たり前である。
しかも、100メートル先のコンビニに行くときも車を使うのである。

県民性ってやつだ。

691 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:43:01.86 .net
東京23区と同じ広さに人口2万人ですが車がないとなにもできません
遊楽地にいこうと思ったら100キロメートル先です

692 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 19:50:05.48 .net
さすが車持氏

693 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 12:20:25.19 .net
下毛野の高神社に相当する上毛野の神社を調べてみると雷電神社ということになる。
この雷電神社といえば、上毛野の板倉雷神神社が有名だが、上毛野を中心にかなりの数がある。
京都の上賀茂神社の賀茂別雷神とも関連があり、賀茂族の上毛野入植にあたり、元からあった雷電信仰と習合したようだ。
ちなみに、下毛野の高(たかおかみ)の方は下賀茂神社の賀茂建角身命・八咫烏伝承にある高木大神との関係が伺える。
つまり、賀茂族と秦氏の集合体ということになる。

毛野とは、先に関東へ入植を果たしたものの、畿内の政治的混乱によって忘れられた賀茂族のことではないだろうか?

694 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 14:26:08.07 .net
両毛は鉄とれるの?
雷神は元は鉱山探索の神だよ。
奉じてた人達はのちの山師に連なる人達。
お察しの通り氏族は鴨氏。
役小角なんかもその一員。

695 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:08:09.08 .net
賀茂氏(三輪氏族)

大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。

大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族だろう。
秦氏とも関係が深く、大陸から稲作文化をや養蚕、機織りなどの先進文化を持ち込んだ弥生系渡来人だろう。

696 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:34:21.88 .net
>>694
鉄は何も鉄鉱石や砂鉄としてしか存在しないわけではありません。
みなさんは、高師小僧というものをご存じでしょうか?
葦の根に溜まった褐鉄鉱の団塊のことです。
下の記事は近江八幡ですが、豊橋市のものが有名で、
関東平野の足利の葦原からも大量の褐鉄鉱が見つかったと思われます。

http://blog.goo.ne.jp/ 高師小僧 /e/b661a1d10070832af785c020f51c5d56

697 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:36:40.52 .net
リンクが良くないようです。
すみません、高師小僧で検索してください。

698 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:52:41.14 .net
は?

699 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 16:43:08.39 .net
ほうれん草を食べると鉄分を感じるなあ。 ポパイになれるだろうか。

700 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:20:41.00 .net
>>695
なんというか、雷(いかづち)神は鴨の神であり、和邇・息長(久米族)の神であり、三輪(大神)の神であり、宗形の神であり…
という感じ。
これらはみなある意味同族っちゃ同族だから(あくまでも「ある意味」ね)。
あと、積羽八重事代主命の系譜や『記紀』での隠喩なんか読むとね。この神は鴨氏の神であると同時に和邇氏の神でもある。
理由は上と同じ。
これもやっぱり「ある意味」同族っちゃ同族だから。
高鴨(上鴨)さんは味鍬高彦根の迦毛大御神さんで間違いないけど、その異母弟である事代主命は鴨都波(下鴨)さんのご祭神だね。
上鴨、下鴨ってのは葛城での話ね。山城ではなくて。
面白いのは、この葛城の各鴨社では下照姫命と高照姫命を別神としていること。
前者は味鍬高彦根命の、後者は積羽八重事代主命の同母妹として、それぞれの神社の相殿神に祀っている。
『記紀』では下照姫、高照姫は同神と記しているけど、『旧事本紀』では異母姉妹と記している。
つまり葛城鴨三社のご祭神は『旧事本紀』の記述に準拠した配神の仕方をしているわけだ。

701 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 22:55:02.00 .net
豊城入彦も彦狭島王も東国へは行っていないに、
さしたる戦いもなく、御諸別王が東国に行って善政を行う下地があったのか?
それも、いくつかヒントを見つけた。
既に前の時代に三輪、賀茂族の祖先は東国入植を果たしていたのだ。

上毛野、下毛野に分かれる前の毛野が少しづつ見えてきた。

702 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 22:39:54.15 .net
毛野国なんてなかったらしいが。
上毛野、下毛野に別れた後の名前であって
毛野国が別れたわけではない。

そもそも日本書紀に「毛野国」は出てこない。

是上毛野君・下毛野君之始也
といきなり崇神期に700年以降の氏族名ぽんとででてくるが
崇神期の「毛野国」は出てこない。

その後に毛野国ができたかと思えば
その後は「近江毛野氏」と「上毛野小熊」の話であり
これも「毛野国」を特定するものではない

本に書いてあったが、その通りだと思った。記紀には実は「毛野国」がでてこない。
しいていうなら「東京都知事」「東京都」がいきなりでてきて、その前身の江戸が出てこないのと似てる。
非常に不思議ですが、理由は分かるかな?
東国に毛野氏の祖がいなかった記録はどうみてもない、

703 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 22:40:28.04 .net
ウィキペディア:上毛野氏

東国統治

豊城入彦命は第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている『古事記』も同様。
崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという。

垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた。
『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる。景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。
しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った。

---------------------------- 引用終わり -----------------------------------
ここにある、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。というところにあるように、毛野と呼ばれる地域に毛野という国があったかどうかはわからないが、15もの国があったことは確かだ。
豊城入彦は、東国へ行っていないとみられることから、15国はそれ以前から別王朝の支配下、もしくは友好関係のある国だったと見てよかろう。

つまり、崇神天皇以前の欠史八代の時代に、毛野地域(一つの国ではない)と畿内にはつながりがあったことになる。
それはいつの時代のことか、継続して調査中です。
その15国と、たかお神社、雷電神社、鷲神社、氷川神社、香取神社、鳥見神社、久伊豆神社など、神社ごとに住み分けとも関係がありそうだ。

ほかにも、他の神社と領域を棲み分けられている神社があれば教えて欲しい。それが、毛野の15国である可能性が高い。

704 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:08:43.35 .net
>15国はそれ以前から別王朝の支配下

「3世紀以前の関東独立王朝説」は考古学から完全に否定されてる
ヤマト王権発祥とともに畿内の文化が流入している。

非常に限定される最初期の古墳の石棺
「長持形石棺」が関東の太田天神古墳から見つかる
>畿内の大型古墳で多く見らる形式
>仁徳天皇古墳と同じ形式=応神と同じ

ヤマト王権以降の王朝については否定しない。
ヤマト王権以前の関東王朝については、広範囲な国家の痕跡を示すものが
見られない以上否定される。=考古学者でも誰も言ってない。

人口は多かったようだが、山岳部での縄文時代的な暮らしをしていたため
田園地帯で人口発展すると見られる「国家」がないのは人類学的にも頷ける。

705 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:12:05.08 .net
狗奴国東海説を言う学者が関東王朝があったら便利なのだが、
=東海と関東との連合で畿内と十分対抗できる勢力になりうるから。

3世紀以前の国家を示す考古学遺跡が関東平野から見つからないもんだから、
関東勢力との同盟論を諦めてるくらい。

「記紀での記述通りヤマト王権の軍団が関東に進出した」というのを否定する根拠は見つからない
文献学的にも考古学的にも見つからない。ほぼ確定。

まあ見つかってないのだろう。火炎の縄文土器だしな。

706 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:20:54.83 .net
飽きたよ、妄想は
日本書紀や古事記が書かれてからはっきりしてきたのは
火山活動の記録だ

707 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:23:07.72 .net
「関東に独立王朝があって、畿内と対抗した
それが畿内邪馬台国と関東狗奴国だ!」

というのは実に都合のいい=めんどくさい九州説を抹殺できるから
論理で、畿内の学者は目を皿にして弥生時代の関東王朝の存在を研究したが
見つからないもんだから=関東平野は遺跡の発見が山岳部に多い=弥生時代に入っても
豊かな縄文時代を満喫してて、それでよかったのが関東平野

「関東王朝」という結論に意図的に持って行こうとした畿内の学者がいたのに
関東に国家があった考古学的形跡がないため断念した
というのを知っておくべき。

708 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:29:16.15 .net
関東ローム層の形成は富士山が噴火したから

709 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:31:44.00 .net
記紀には富士山の記述が少ない
関東平野はヤマト王権が4世紀に入り侵入し

南関東と抗争して富士山まで辿り着いたかどうかというのが

三角縁神獣鏡の初期分布からみたヤマトの国々
http://blogs.yahoo.co.jp/ainomori_snow/6782929.html
これを見るとだいたい国家の形跡が分かる。

静岡から千葉にかけての南関東は
畿内の勢力との関係が薄いのが分かる。

国家がないという意味ではなく、ヤマト王権・卑弥呼以外の勢力がいたことが分かる。
ヤマトタケルの征伐はこの図から言っても筋が通ってる。
=王権の範囲が及ばない南関東を倒したという記紀通り。

710 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:33:46.65 .net
小御岳、古富士、新富士

どれも火山活動で一気にできた山

711 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:41:46.73 .net
記紀や風土記には富士山の記述が確かに少ない(少ないどころか記紀神話には記述ゼロ。あれほど目立つ霊峰なのに)が、
反対に日本武尊の関東や日高見(東北地方)までの遠征譚などもっと東方、北方への記述は普通になされている。
これは記紀編纂当時、どうも富士山山麓地域が触れてはならない、あるいは触れにくい(書きにくい)事情があったことが推察される。
『竹取物語』なんか読むと、間接的にそのあたりの“事情”を物語っている可能性があるように思う。

712 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 21:57:39.69 .net
上毛野、下毛野は大和朝廷が小国をまとめて国にしました。
関東には大きな国はなく、小国が分立して共存共栄していたと思われます。
湿地帯には人が住めず、人類学的にも無人地帯でした。
毛野氏の祖先は関東周辺の扇状地や微高地で細々と暮らしていたのです。
遺跡と呼べるものはほとんど残していません。
あなたのおっしゃる通り、未開の荒野だったのです。

713 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 23:44:16.41 .net
国家というと、国会議事堂があって、衆議院解散して国民に信を問い合うとか、
税制があって国民から租庸調を取っていたとか思っている人ごくろうさんです。
実は、王がいれば国家なのです。社会制度なんてなくても良い。ただそれだけ。

714 :日本@名無史さん:2014/11/23(日) 14:26:05.43 .net
>>712
そのような古代国のひとつ毛野国が、何のために出羽方面に進出?
侵略?し植民したのか?
103 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 10:27:30.41
・・・・・・・・毛野氏の北関東〜出羽方面への進出も絡めて。
古代の関が原 関東の東西戦争
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284125193/-103

715 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 12:26:47.47 .net
会津の山の中、福島県河沼郡柳津町の石生前遺跡(いしゅうまえいせき)という大規模縄文遺跡があることをご存知でしょうか?
この地域で出土した火炎式土器は、翡翠の産地 越国姫川上流や宮城県の大木囲貝塚などの縄文集落とも繋がりにあったとされています。

四道将軍大彦命とその子東海道将軍建沼河別命が出会ったのが会津ですが、遠征の目的はこの柳津の縄文国を挟み撃ちにして攻略することにあったと思われます。
この河沼郡という地名は、建沼河別命を連想させる地名です。
それと石生前という地名も、兵庫県高砂市にある巨大な石造物を神体で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)との関係が気になるところです。この神社の祭神は大穴牟遅命、すなわち大国主大神です。
生石神社(おうしこじんじゃ)と大彦(おおひこ)が似ているところも気になるのですが、偶然でかもしれません。

716 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 13:43:29.36 .net
生石神社は物部の祖宇留命を祀るために弓削大連守屋が神殿を建てている最中だったのだが、蘇我との戦いに敗れてしまったため中途で終わってしまった。
本来なら巨大な石の神殿が出来ているはずだった。
石は物部の象徴だから。
石上、石鎚、石切、石作連、そして生石…

717 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 13:53:32.67 .net
大彦命は父がオホヤマトネコヒコクニクル、母がウツシコメだから父方和邇、母方物部だねえ。
物部というのは本来製鉄氏族の総体だから和邇も実は物部。
そこから派生したんだから安倍(オホビコ、タケヌナカワワケ父子)もざっくりいうと和邇だね。

718 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 14:02:15.07 .net
補足を。
オホヤマトネコヒコクニクル
根子+彦+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc)。
姫川のヌナカワは、タケミナカタトミの母と言われるヌナカワヒメとの関連が気になるな。
場所柄、渡来系の可能性も考えられる。

719 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 14:09:54.81 .net
訂正
オホヤマトネコヒコクニクル
根子+彦+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → ×


オホヤマトネコヒコクニクル
彦+国+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → 〇

720 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:39:54.75 .net
ワニ氏は分かったけど、関東と何の関係が?
鹿島神宮と関係?

ぶっとんだレスされても困るわ。

721 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:47:34.17 .net
物部は独立王朝だったが、AC300くらいにヤマト王権に降伏したから
最初は部下だったんだよな。
だから最初に関東にきた勢力の中にいてもおかしくない。

でもやっぱり部下でしかないので、物部は茨城方面で
ヤマト王権の毛野氏は要地の北関東を治めたと。

支配関係はヤマト王権勢力の毛野氏が上位だな。
譜代大名が北関東周辺、外様の物部が茨城あたりってことだな。

722 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:49:29.87 .net
物部の先祖はニギハヤヒで、神武に降伏したとあるので、
支配関係は毛野氏の方が上。

だから、これは俺の仮説じゃなくて事実。毛野氏の北関東が王様で
香取の物部は部下

723 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 17:04:07.12 .net
まぁ〇世孫の御諸別ってのは後年の平氏みてぇなモンだなw
平忠常(笑)

724 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 17:55:27.80 .net
侵略されてないから温存されてますね、
兵の動員命令もあるから軍事力が形骸化することもない。
そもそも蝦夷は倭国最強の兵なので
そいつらと四六時中戦ってた毛野氏がただの官僚集団とか小領主とかねーわー

結局毛野氏最強説は変わらんね。
ろくな反論がない。

725 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:20:22.33 .net
関八州の内の陸奥国ができたのは大化の改新のころになるわけですから、北関東の王様という地位は存在しなかったのではないでしょうか。
那須氏や岩城氏は、陸奥方面の国造も兼務していたわけですから。689年頃まで。
また、何よりも常陸の国の北の境界が分かりません。

726 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:33:29.81 .net
まあ一応、日高見は甘し国討ち取らん
といった武内宿禰がいたり、日本武尊の東征が『紀』では「日高見国」まで進軍し敵方を降伏させ、とはあるが。

727 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 23:29:27.46 .net
>>720
相模や陸奥牡鹿半島に和邇氏系氏族の丸子連氏が根拠地を築いていたり(牡鹿半島は当時倭人の最北端進出地だったのだろう)、あなたも指摘する環香取海氏族の存在も、陸奥一宮塩竈神社の奉祭氏族も和邇氏の東国への進出によるものの痕跡だと考えている。

728 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:00:28.52 .net
崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫
崇神天皇-ヤマトタケル-神功皇后までの間に皇族が現地に入り入植している
神功皇后の時代には既に坂東武者の祖、毛野氏族らは関東に巨大な都市と軍を形成していた
それが源氏の繁栄につながった

729 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:06:19.78 .net
>>724
香取海の流通網に掠りもしないで最強説はありえない。これが事実。

730 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:18:29.44 .net
>>728
どこのパラレルワールドですか?

731 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 08:30:56.30 .net
陸奥国一宮神社は、大和政権勢力の北上に伴って次第に北上していった。
最初の元々の陸奥国一宮神社の所在地は、今の福島県棚倉町である。
当時は白河国で国造は那須氏であった。

732 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 09:55:58.50 .net
宮城県多賀城遺跡研究所による奈須直廣成の解説は続いている。
宮城県の人は最近まで陸奥国における那須氏の治績を知らなかったようだ。
私には、どうでもよいことだけれども。気になる人には、気になるようだ。

733 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 14:04:29.87 .net
そういや山内氏が奥会津に進出してるな。
那須国造→守部(美濃国席田郡司)→佐藤(秀郷流藤原氏嫡流)→首藤(首馬主佐藤氏)→山内首藤(相模国鎌倉郡山内荘荘司首藤氏)
の流れ。

734 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 15:26:24.96 .net
婿養子を取るとは。
猿田氏や芦野氏にも男子がいなかったのかなあ。普通は身内から選ぶような気もするけれども。

735 :733:2014/11/26(水) 16:23:18.59 .net
出羽の小野寺氏もこの流れらしい

736 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 18:18:44.27 .net
寒くなると鍋の中のハタハタも格別だなあ。出羽名物

737 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 21:35:53.22 .net
この時代、つまり、ヤマトタケルに象徴される大和政権による東国遠征で征服された地域は、縄文文化の中心地。
これが大事。

738 :日本@名無史さん:2014/11/27(木) 21:49:49.13 .net
方々の弥生文化の中心地ではないでしょうか。平定後には徐々に古墳時代へと移行したと思えます。

739 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:04:34.94 .net
東国遠征は東国弱体化だろ。
なにしに奈良の連中が来るの?って感じだわ。

しいていえば、人様の家の台所にあがって肉を取り出して
焼き肉して食い散らかして、そんで税金を要求するのと同じだな。
東国が勝手に緩い自治してたのに畿内の連中のタカリがおそってきたというのが
東国遠征

毛野氏はすでに東国勢力との話し合いは済んでおり、
ものすごい緩いが、広大な自治区を東日本一帯に構築していたが
それをタカリの畿内のハゲタカが襲ってきたという。
そんで兵士を東国の毛野氏に出させるなど、まさにひどい有様。

毛野氏・東国同盟の弱体化政策だろうね。

740 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:07:06.55 .net
ローマの政治技術に
「蛮族は分断して統治せよ」とある。
東国同士で戦乱をさせて、毛野氏に侵略者の兵士をさせて
恨ませて、蝦夷を反発させて共同統治国家の東日本を分断して弱体化させのが
7世紀以降の東国遠征

あとただのタカリ

741 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:12:06.84 .net
天武期に東国勢力=おそらく主力は毛野氏
により畿内がたやすく滅んだのを見て
7世紀以降はすげー警戒されたんだろうな。
「分断して統治する」ことを外国の資料から学んだんだろう

まあ見事に成功して蝦夷と結びついてた毛野氏は分断されて弱体化したわ。
そんで皇族の武力の根源であった東国を滅ぼしたことで
畿内も弱体化しておしまいとw

742 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 01:57:56.25 .net
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)

743 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 14:26:01.04 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

744 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 21:47:04.22 .net
この前、会津に調査に行ってきたのだけれど考えがまとまらない。
四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか?
もしかして会津は大彦の故郷なのではないだろうか?という妄想まで湧いてきた。
縄文文化の中心地はみんな盆地で、おそらく九州から青森まで繋がっていたのではないかと思われるのです。
なにせ、縄文時代は1万年もあったわけだし、冒険好きの縄文人が次々と探し当てた盆地に移り住んだはず。
アルピニスト野口健、宇宙飛行士野口聡一、マラソン金メダリスト野口みずき、そして、野口英世博士。
野口、ノロ、下呂(ケロ)、毛野、全部、縄文人のシャーマンのことではないのだろうか?

745 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 22:13:52.60 .net
>>695
>毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族・・・・・・
新説ですね?根拠文が見当たりませんが、、何なのか追記願えませんか。
賀茂を賜姓と言われるのは、君姓-->朝臣姓賜姓の誤記ですね?

>弥生系渡来人・・・・・・・・
意味不明ですよ。百済系とか伽耶系なら理解できますけれど、弥生系?

746 :日本@名無史さん:2014/12/07(日) 12:52:17.97 .net
>>744
>四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか・・・・・・・・・・・・・・・・・
紀崇神天皇10年段に目を通していないのかね?「服従せぬ者は、
討伐せよ」という勅命に従ったのだよ。畿内を制圧したので、
畿外を制圧すべく。尤も下命半年後には、帰還しておるがね。
云うまでもなく大彦は、畿内の一画統治王孝元天皇の子と
されるから、会津生まれなどありえない。
   九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、
   丹波道主命遣丹波。因以詔之曰 若有不受教者、乃舉兵伐之・・・・・・・・・

747 :日本@名無史さん:2014/12/07(日) 20:46:41.14 .net
>>709
>静岡から千葉にかけての南関東は
>畿内の勢力との関係が薄い・・・・・・・・・・・・・・・
薄いどころか関東地方は、稲作文明の伝播が本州で最も遅れた
未開不毛の地だったらしい。
19 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/28(金) 22:02:36.94 ID:9rVO+etL0
・・・・・3000年前の富士山噴火で関東平野の縄文人は激減した。
弥生文明の稲作は北九州→近畿→中部ときてここで日本海経由で
青森まで北上し、太平洋側を南下一番最後に関東平野に到達した。
つまり、弥生文化は関東より東北の方が早かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【歴史】DNA分析で縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明 我々の祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのかc2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1417179097/19-

748 :日本@名無史さん:2014/12/24(水) 22:47:43.35 .net
あの辺りの人は毛野とは関係が薄い。
毛が薄いってことですね。
わかりますわかります。

749 :日本@名無史さん:2015/01/15(木) 23:42:20.65 .net
いんや。
尾張と毛野の支配地域は関係が深い。
東国の毛野を侵略するための前線基地が岡崎辺りにあった。
宇頭には五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)の墓といわれる和志山古墳がある。鷲宮だ。
『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子だ。
景行天皇には、80人の子供がいたといわれており、ヤマトタケルとは異母兄弟。

750 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:08:35.71 .net
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側

▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48

751 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:14:40.65 .net
毛野氏も皇族だが、白村江の戦いで、上毛野君が築紫君やらの他の皇族を配下に
している時点で、相当な皇族だし武力もあったよ。

752 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 18:17:39.49 .net
>> 744
大彦命は、そもそも畿内政権とは独立した王権だったと思うね。
胡志王=大彦命で、越の國の王だったというのが正解じゃないかな。

ただし、雄略の時代までに、なんらかの形で畿内政権に取り込まれていると
考えられるので、畿内政権の先駆として、「みちのく」の開発にあたった可能性は否定しない。

こう考える理由は、稲荷山鉄剣銘文で、オワケ臣が、自らの祖先を大彦命としているから。
もし、孝元天皇が実在して、大彦命が、その子だったとしたら、オワケ臣は、自らの出自を
孝元天皇に遡らせるはず。

また、四道将軍の武渟川別が、東海道の将軍となったという点についても史実かどうか
一考すべき点があると思う。

この将軍の「ヌナカワ」というのは、糸魚川あたりの翡翠産地の地名のはずで、やはり越の國
に関わりが深い人物と考えるのが妥当だと思う。

もし、記紀のとおり、この将軍が東海道を支配したとしたら、それも畿内政権から派遣されたというより、
大彦命の配下で東海道を支配したと考えたほうが自然だと思う。

こう考えると、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣が出土したオワケ臣が、大彦命の子孫でありながら
関東にいた理由も理解できる。

753 :752:2015/01/25(日) 18:56:12.38 .net
すまん。
そもそも、武渟川別は、大彦命の子と記紀に記されているわけだから、「また、四道将軍の武渟川別が…」
以降の文章は自明だった…。

754 :日本@名無史さん:2015/02/06(金) 17:55:47.78 .net
田道将軍のお札
人物も兵船も、なかなかかっこいい。ただし今このような図柄を一万円札に施したなら、
半島の方で発狂するだろうな

755 :日本@名無史さん:2015/02/06(金) 20:12:55.54 .net
アイヌと縄文の関係の証拠
ニール・ゴードン・マンロー『先史時代の日本』
http://tresi-nonno.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.html?m=1

比較で私は、日本の貝塚の頭蓋とアイヌの頭蓋の同一を確立して、それらが同じストック
であるという結論ヘ導かれた。小金井教授(今その方は私の標本の調査をしています)は、
私のために第2番頭蓋と或るアイヌ頭蓋の輪郭を親切に描いてくれました。私はその輪郭
を図420に置いた。2つの分離された頭蓋の比較、それは理解されるであろう、実例で単に
作られた。

図420 横浜市三ツ沢貝塚から出土した頭骨とアイヌ頭骨
http://2.bp.blogspot.com/-mL7QoD2Ihjs/T9vfny4AC8I/AAAAAAAAAFA/jbBsU8mTa2A/s1600/15xweb6.gif

756 :日本@名無史さん:2015/02/10(火) 20:12:00.16 .net
蛇穴山古墳は、上毛野田道の墳墓のような気がする。

757 :日本@名無史さん:2015/02/11(水) 07:37:32.72 .net
>>751
君には日本後紀の精読と新選姓氏録成立の背景をキッチリ調べるようお勧めするよ

758 :日本@名無史さん:2015/02/11(水) 08:16:17.69 .net
毛野氏は朝廷に帰順した関東の蝦夷。
東北地方の蝦夷については記録がかなり残っているが、
関東の蝦夷については、景行天皇やヤマトタケルの伝承しか残っていないので詳細不明。
貴族と言うより、上皇の私兵、北面武士といった案配だね。

759 :日本@名無史さん:2015/02/11(水) 11:53:23.40 .net
なんで越前に佐味君氏の郡司がいるの?
佐味朝臣氏も8世紀中たびたび国司になってるし。
なんか縁があるの?

760 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 09:26:18.44 .net
>>620
上毛野田道は、この名簿では欠落しておりますよ。
新興軍事氏族・大和朝廷軍 人物簿 上毛野氏/下毛野氏 
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi106.htm

761 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 09:39:13.59 .net
>>758
日本書紀が皇族としてるけど。

762 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 09:47:25.96 .net
>>760
こちらの氏名簿では、上毛野でなく下毛野田道と記されて
いますね。
古代豪族入門 27)毛野氏考(上毛野氏/下毛野氏)附:宇都宮氏
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-27.html

763 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 18:36:05.10 .net
旧国立銀行の一円札を飾った上毛野田道が下毛野になっている。
奇妙ですね。

764 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 19:23:53.90 .net
https://www.youtube.com/watch?v=32BMwiwJbrw&feature=player_detailpage#t=260
関東の方が畿内よりも馬具の出土数は圧倒的に多い

馬具出土古墳数
関東760 近畿380

古代の馬牧場数
関東27 近畿0

765 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 19:45:27.28 .net
坂東武者は、朝鮮騎馬軍団

766 :日本@名無史さん:2015/02/13(金) 20:28:24.56 .net
テレビの見過ぎ

767 :日本@名無史さん:2015/02/16(月) 11:10:21.14 .net
>>764
香取内海域圏内及び周辺河川水系圏内に多く存在する点に留意
>>765
お薬の飲み忘れには気をつけてね 笑

竹葉瀬、田道はおそらく「所謂」毛野氏族じゃない可能性=渡来系(てか半島からUターン系)
氏族の可能性。毛野氏族支配圏内は一次供給地に過ぎない点とか、日本後紀の平城天皇
関連記述、新選姓氏録関連研究(姓氏録自体、編纂中途挫折だったり欠落多かったりで多少
問題抱えているけど)は結構「陥穽」 笑

768 :日本@名無史さん:2015/02/16(月) 11:39:38.75 .net
一円札を渡来人が飾るのも違和感がありますから引き上げ組と考えますと田道は何度も半島に渡航していた事になります。
また、田道は、生前には上毛野田道で没後には初代に相応しい人物として下毛野田道になるはずであると編者は考えたのではないでしょうか。
もっとも689年までは毛野国だったわけですから必ずしも二人の国造がいる必要もないと思いますが。

769 :日本@名無史さん:2015/02/16(月) 21:31:59.38 .net
>>764
関東の方が草原が多く、馬の飼育に適してるからね。

770 :日本@名無史さん:2015/02/16(月) 21:32:27.42 .net
 
(1)日本民族への朝鮮半島人の人種的影響の色濃い
 現代日本へとつながる日本人に及ぼす朝鮮半島の文化の影響の色濃さ、朝鮮半島人の人種的影響
の色濃さはかなりのものであることが分かる。大陸、とりわけ中国人、漢民族が及ぼした影響は
人種的というよりも、文化面での方ものであろう。

(2)弥生人は朝鮮半島から渡来
 朝鮮半島の人々と日本人の人種的つながりを濃厚に示している地域がある。現代日本人の近畿地方
の人々は、他の地域の人々に較べて特殊な日本人であることが判明している。朝鮮半島から渡来した
と考えられている弥生人は、北方要素を強くもった人々であることが分かっている。現代の近畿地方
に住む人々と朝鮮人とには、他の地域の人々とは比較にならないほど共通項が多い。両者は人種的に
近い間柄である。これに反して、アイヌは古モンゴルの系統に属し寒冷地適応をしていない人種であ
る。縄文時代人もひどい寒冷気候のさらされたことがなかった。

(3)形態学的あるいは遺伝学的方法には大和朝廷は朝鮮半からの島渡来人
 弥生人やその後大陸から渡ってきた人々は北方要素を強くもっている。弥生人とおぼしき人々が、
朝鮮半島から九州に渡来し、山陽を経て近畿に達し、その後大和朝廷を形成したのであろうことが、
形態学的あるいは遺伝学的方法による人種の分類から明らかである

(4)生体計測値は近畿人=朝鮮、関東・東北人=アイヌ系である地域差は歴然
 渡来人の移動の経路は、遺跡や文化的遺産あるいは現代人に残されている形態学的あるいは遺伝
的特徴から推測できるのである。生体計測値からも近畿地方に住む人々が朝鮮系であり、関東地
方あるいは東北地方に住む人々は古モンゴロイドと関係するアイヌ系であるという地域差が歴然としている。

http://www.keiryou-keisoku.co.jp/other/gakkai2.html

771 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 06:37:09.80 .net
俗に弥生系と呼ばれる人々は、半島系ではなく江南系。商の移民等が中心。
半島はストローの役割を果たしたに過ぎない。
それから「呉服」語源の呉等、支那中南西部経由の人々が重要やね。まあ
関東圏は殆ど関係ないが。

772 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 21:11:13.06 .net
こういうこと

「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科、総合研究大学院大学

その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土
人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国
人と同じクラスター(注2)に属することも分かった。
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html

遺伝子解析による日本民族と周辺の民族との近縁性
http://www.soken.ac.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/12/20121017172022_1.jpg

平均顔
日本
http://livedoor.blogimg.jp/crx7601/imgs/c/3/c3e96d49-s.jpg 
韓国
http://livedoor.blogimg.jp/crx7601/imgs/f/b/fb3210eb-s.jpg 
中国
http://livedoor.blogimg.jp/crx7601/imgs/f/e/fe91a3ee-s.jpg

773 :日本@名無史さん:2015/02/17(火) 22:50:09.63 .net
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=igRKLfX2zgM#t=157
唯一、関東の古墳だけから出土した北斉の水がめ(北斉=高句麗の隣国)

関東人が独自に北斉と繋がっていた

774 :日本@名無史さん:2015/02/20(金) 01:22:51.11 .net
ここ10年くらいで、毛野地域、上毛野氏、下毛野氏について
精力的に論文を書いている方って誰かいますか?

それ以前だと群馬県関連の職員の方が、かなりの数の論文を書いていて
読んだ記憶がありますが、お名前を忘れてしまいました。
分かる方いたら教えてください

775 :日本@名無史さん:2015/02/20(金) 18:17:55.22 .net
勘違いするなよ、万年パシリの北関東猿よ

足利氏は元々は三河
平治の乱後の源氏雌伏期間、源義兼は、母方の三河の藤姓熱田大宮司家に養育され、三河で育ち、旗揚げした従兄弟の源頼朝から足利荘を安堵され足利氏となった


・足利義兼(初代足利氏)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→女(養女)→足利義兼→義氏(足利氏として初めて三河守護)


熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf
千秋家は三河国設楽郡千秋を本貫地とする
源義兼は15ページに登場する

776 :日本@名無史さん:2015/02/21(土) 08:50:17.97 .net
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び

777 :日本@名無史さん:2015/02/21(土) 09:30:49.66 .net
尾張では坂西武者になるな
大久保氏と下野国那須郡大久保村は関係ねえだろう。
系図偽装の三河武士

778 :日本@名無史さん:2015/02/21(土) 13:58:13.30 .net
小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。
このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。
大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)

779 :日本@名無史さん:2015/02/21(土) 15:27:14.64 .net
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。

780 :日本@名無史さん:2015/02/22(日) 03:58:10.09 .net
大和飛鳥地域を含む高市郡は、別に今来の郡とも呼ばれた。
宝亀三年(七七二)、坂上苅田麻呂が、
高市郡内には朝鮮渡来の人々がみちみちており、
「他姓の者は、十にして一、二」と述べたくらいである。
大和の飛鳥文化がそれらの人々によって推進されたことは、
まぎれもない事実であった。
河内の飛鳥文化もそうである。
(上田正昭・京都大学教授)

781 :明治天皇の孫G林田 ◆WSZ7beIuXw :2015/02/23(月) 08:37:32.26 .net
うわっ!!!!!!! #歌舞伎俳優 十代目 #坂東三津五郎 ・・俺も、テレビCMでよく見た「五代目 #坂東八十助(バンドウヤソスケ)」が、
俺の誕生日に絶命した!これ!俺のお気に入りの女の誰かとセックス・性交しただろ!!小松菜奈? https://www.youtube.com/watch?v=XLq0GvyeEDQ
俺は、何度も、色々な所に書いておいたのに。テレビに出ている女優、女性雑誌の表紙のモデルとかは、日本に住んでいる、私、天皇聖帝へのプレゼント・奉仕女が、
陳列代わりに、テレビや雑誌に出ているだけであるので、芸能人男性向けの女ではなく、性行為をすると暗殺や殺害される。
ちなみに、その日は・・・私は「カツユキ」であるのだが、東京には「ユキ〜雪」が降っていた。そして、何か、事故みたいなのが起きたり、色々とあったと思う。
「五代目 #坂東八十助(バンドウヤソスケ)」って、俺の育ての「おかあさん」の知り合いではないみたい。誰かの知り合いみたいだが。
「早川会長では?」という話なんだけど。俺の育ての「お父さん」でもないみたいなんだけど。「お父さん」の偽者が、宗教担当だそうだが。
「ダバダー」は、「田ハハ田〜田・林田」。上質を知る男のくにせ、俺のサポートをしていなく、俺宛の女の代表格である、
女子アナウンサーを自分で抱いていたので、ただの害毒であり無価値という判断で、俺の誕生日に処分されたそうだ。俺は、ちゃんと警告したよ。

782 :明治天皇の孫G林田 ◆WSZ7beIuXw :2015/02/23(月) 08:38:36.74 .net
天皇陛下を部下・侍従にしている「天皇聖帝」登場(http://pbs.twimg.com/media/B0cE4HFCcAAEgLO.jpg)。
皇族は、古代の王、神の血筋であり、神の特徴が多く遺伝している存在が、より偉い。私よりも遺伝しているのは不存在と言われる、
明治神宮で祭られている「神」である「明治天皇」の孫が私である。天皇陛下は「陛下」なので、天皇への書簡を渡す連絡係である。
当然だが、愛新覚羅家、李王家、徳川家、天皇陛下よりも偉い。三清であるので。愛新覚羅はロシアや中国に依頼して軍隊を呼べない。
「子供は二人まで」の女は全員、皇帝へのプレゼントの女。約束、〜の人の子供を産め!は全部、皇帝の子の量産用だが、95%騙されている。
曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、創価学会が「日本人ではなくて雑種だったから」と勝手に他の男に渡していて、その結果、女が汚れていたら一人に付き、主犯・実行犯が処罰され〜絶命する。
「Japan Emperar 日本皇帝"Japan High-class king"」「天皇Ten-nOu」「中国皇帝 China Emperar」「天子 Ten-Shi」「天然大カール・イザナギ/ポセイドンの血筋」
同じ血筋Lineage of the same strain。髪質が天然パーマのクセ毛で大カールする NaturallyBigCurlyHair(カール大帝KarlDerGrobe、ルイ15世Louis XV、 George Washingtonと同じ)。
私はこの血筋ですI am this pedigree(lineage)。2014年4月18日現在、39歳 18, April 2014, 39 years old。
Virgin Like 処女が好き。処女と性交したことがない Do not virgin sex。子供がいないNo children。未婚Unmarried。
2001年8月からセックス性交してない From August 2001, and do not sex。所持金は少ししか無い There is only a little money in hand.
http://blog.goo.ne.jp/sho_gun_3

783 :明治天皇の孫G林田 ◆WSZ7beIuXw :2015/02/23(月) 08:39:39.72 .net
天皇陛下を部下・侍従にしている「天皇聖帝」登場(http://pbs.twimg.com/media/B0cE4HFCcAAEgLO.jpg)。
皇族は、古代の王、神の血筋であり、神の特徴が多く遺伝している存在が、より偉い。私よりも遺伝しているのは不存在と言われる、
明治神宮で祭られている「神」である「明治天皇」の孫が私である。天皇陛下は「陛下」なので、天皇への書簡を渡す連絡係である。
当然だが、愛新覚羅家、李王家、徳川家、天皇陛下よりも偉い。三清であるので。愛新覚羅はロシアや中国に依頼して軍隊を呼べない。
「子供は二人まで」の女は全員、皇帝へのプレゼントの女。約束、〜の人の子供を産め!は全部、皇帝の子の量産用だが、95%騙されている。
曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、創価学会が「日本人ではなくて雑種だったから」と勝手に他の男に渡していて、その結果、女が汚れていたら一人に付き、主犯・実行犯が処罰され〜絶命する。
「Japan Emperar 日本皇帝"Japan High-class king"」「天皇Ten-nOu」「中国皇帝 China Emperar」「天子 Ten-Shi」「天然大カール・イザナギ/ポセイドンの血筋」
同じ血筋Lineage of the same strain。髪質が天然パーマのクセ毛で大カールする NaturallyBigCurlyHair(カール大帝KarlDerGrobe、ルイ15世Louis XV、 George Washingtonと同じ)。
私はこの血筋ですI am this pedigree(lineage)。2014年4月18日現在、39歳 18, April 2014, 39 years old。
Virgin Like 処女が好き。処女と性交したことがない Do not virgin sex。子供がいないNo children。未婚Unmarried。
2001年8月からセックス性交してない From August 2001, and do not sex。所持金は少ししか無い There is only a little money in hand.
http://blog.goo.ne.jp/sho_gun_3

784 :日本@名無史さん:2015/03/06(金) 15:08:43.29 .net
>>774
群馬女子大のなんとかってのが権威じゃなかったか
続日本紀の訳文書いてるから古代関連の権威になってて
群馬じゃ強い。

http://www.gpwu.ac.jp/guide/info/prof_list/01kitagawa.html
最近の本も出してるはず。

上毛野氏については復古本として
古代東国の王者―上毛野氏の研究 単行本 – 2008/2熊倉 浩靖 (著)

が出てるが、復古本で最近はとくにだしてない作者
古代史関連の本の出版は盛んだが、

上毛野氏から迫った本はあまりないな。

群馬・栃木・埼玉の遺跡発掘の市の教育委員会の調査本の方が資料としてはいいかもね。

群馬大とかも「古代史」というくくりで中央の研究やってる人が多くて
「毛野氏関連はそのおまけ」という扱いだな。

あまり学会で評価されないのかもしれないが、
上毛野氏に特化した学者は最近あまりいませんね。
若手はいないはず。

群馬大はだめで、群馬県立女子大の方がなぜか研究が盛んか
ここの専門の教授が最先端?ではないかと。
興味があるなら問い合わせしてみればいい。

785 :日本@名無史さん:2015/03/17(火) 23:35:22.32 ID:EEwI+d2DR
毛野氏が支配した関東平野の上野、下野、武蔵、相模、及び、旧葛飾郡といった地域には、
現在、2000万人の人が暮らしているけれど、そのうち、毛野氏の血を引くものは1万人程度だろう。
首都圏に人口が集中したせいもあるけれど、藤姓の佐藤、加藤、伊藤さんが数百万人いるのに比べると極端に少ない。

その原因として考えられることは、
数千年もの間、閉鎖社会で生活し近親婚を繰り返したことで繁殖力が弱くなっている。
弥生人に追われて山に隠れ住んで、婚姻の機会がなかった。
コミュニケーション能力が劣り、弥生人と同化できず、差別された。
などが原因だと思われます。

今は毛野氏の子孫を探すことさえ難しいのです。

786 :日本@名無史さん:2015/03/23(月) 10:39:05.51 .net
>784
ありがとうございます
ちょこちょこあたってみます

787 :日本@名無史さん:2015/04/25(土) 07:45:09.57 .net
縄文人のDNA分析したら、日本人と似ていなかったでござる。

>日本列島3集団(アイヌ,本土日本,琉球)と縄文人を用いた主成分分析の結果、
>縄文人と遺伝的に類似の集団は見られず、遺伝的に非常に特異な集団であることが明らかとなった。

http://www.jstage.jst.go.jp/pub/pdfpreview/asj/122/1_122_122.117.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg

788 :日本@名無史さん:2015/05/06(水) 08:08:38.43 .net
786番、 これ坂東武者と何か関係があるのかよ ?

789 :日本@名無史さん:2015/05/10(日) 08:48:36.54 .net
>>771
>それから「呉服」語源の呉等、支那中南西部経由の人々が重要やね。まあ
>関東圏は殆ど関係ない・・・・・・・・・・・・・・・・
支那中南西部経由で弥生系人が、何処から日本列島に渡来したというの?
また記紀の記す織物技術「呉織・漢織(くれはとり・あやはとり)」の伝来元は、
読みから解るように中国大陸の呉・漢でなく朝鮮半島の高句麗・阿耶。
狛江、高麗郡といった高句麗由来地名があるから、関東圏に関係があるぞ。

790 :日本@名無史さん:2015/05/12(火) 10:52:53.26 .net
狛江とか高麗郡は陸の孤島のように隔離されていた。奈良から平安時代に、そこから飛翔した人物とか誰かいるのかよ。

791 :日本@名無史さん:2015/06/08(月) 13:20:14.03 .net
>>262
>建御名方命系=相武国造or鎌倉別=ヤマトタケル系氏族・・・・・・・・・
=記号の意味が、理解不能だぞ。建御名方(国津神)系=ヤマトタケル(天津神)
系が、イコール?同族?
建御名方命系氏族って、何々氏のこと?ヤマトタケル系氏族って、何々氏のこと?

792 :日本@名無史さん:2015/06/09(火) 23:56:05.23 .net
毛野氏は、耶麻郡・信夫郡・行方郡・宇多郡といった陸奥国も
勢力下においていたのか?
毛野(賜姓の謎)  ttp://www.musubu.jp/manoshousei.htm

793 :日本@名無史さん:2015/06/13(土) 14:42:24.46 .net
【考古学】佐野市の黒袴台遺跡から大規模集落跡発見 縄文時代早期の北関東最大級か 栃木 [転載禁止]©2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1434158469/

 県埋蔵文化財センター(下野市紫)によると、佐野市黒袴町の黒袴台(くろはかまだい)遺跡から、
縄文時代早期中葉(約8500年前)の大規模な集落跡が発見された。同センターの2013〜14年度の発掘調査で分かった。
北関東エリア固有の出流原(いづるはら)式土器や交易で持ち込まれたとみられる黒曜石の矢尻「石鏃(せきぞく)」が多数見つかり、
同センターは「交易や石器製作が行われ、地域の拠点となるような大きなムラだったと考えられる。
早期の北関東最大級の規模だったのではないか」と分析。14日の「発掘調査報告会」で説明される。

 黒袴台遺跡は縄文時代から中世にかけての複合遺跡。竪穴住居跡や横穴式石室などの遺構が確認されている。

 遺跡からは、出流原式土器約160点や片刃石器約120点、石鏃約450点、石鏃の製作過程で生じたとみられる破片約2400点が出土。
出流原式土器がこれだけ多数出土した例は他にないという。
また、黒曜石は矢板市高原山や長野県、伊豆七島などで産出する黒いガラスのような石で、交易などを通じ遠隔地から持ち込まれたとみられる。
多数の破片からここで石器が製作されていたと推測される。

 同センター普及資料課の塚本師也課長は「出流原式土器の多さから、かなりの人数がいたことがうかがえる。
遠隔地との交流や石器製造の拠点でもある、縄文時代早期中葉の北関東一大拠点集落だったと考えられる」と話している。

 発掘調査報告会は同センターで午前10時〜午後3時。
同遺跡のほか、岩舟台遺跡(大田原市)や国分寺愛宕塚古墳(下野市)など14年度に調査が行われた県内外6遺跡の調査成果が報告される。
参加無料、要予約で定員110人(先着順)。

http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/feature/images/20150612dd0phj000089000p_size5.jpg

黒袴台遺跡:佐野で大規模集落跡発見 縄文時代早期の北関東最大級か 14日に報告会 県埋蔵文化財センター /栃木 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/feature/news/20150612ddlk09040147000c.html

794 :日本@名無史さん:2015/06/13(土) 17:18:45.06 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

795 :日本@名無史さん:2015/06/13(土) 17:19:10.59 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

796 :日本@名無史さん:2015/06/20(土) 07:15:54.78 .net
>>795
馬鹿はおまえだ。坂東武者を語る場で小麦とは何だ。米が取れなかったら稗でも粟でも狐狸の狩猟でも良いではないか

797 :日本@名無史さん:2015/07/02(木) 22:19:48.39 .net
朝木市議転落死事件
http://www.youtube.com/watch?v=Y8xgwjBH4yg
http://www.youtube.com/watch?v=g8o_e7_ILrA
http://www.youtube.com/watch?v=vPH2BV_ArfM
http://www.youtube.com/watch?v=_C0IqoGU5bQ

798 :日本@名無史さん:2015/07/09(木) 21:05:40.30 .net
>>700
上毛野氏が祟神後裔は後世の仮冒で、実際は海神族系で三輪・丹波国造・
吉備氏らと同族・・・・?
日本古代(真実)史 850.神功紀who's who?(1)  2009/10/11
ttp://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/34389367.html

799 :日本@名無史さん:2015/07/09(木) 22:12:42.56 .net
崇神くらいまともに変換しろや

800 :日本@名無史さん:2015/07/21(火) 19:42:21.12 .net
>>762
正史公伝に拠れば毛野国と毛野氏との関わり概史は、以下でよいのかな?

   ・景行天皇紀56年8月・・・・・・・御諸別命が、騒擾蝦夷を平定
   ・仁徳天皇紀55年・・・・・・・・毛野田道が、対蝦夷戦で伊峙水門(千葉県夷隅郡?勝浦市?)で
                   敗死するも、田道の墓をあばいた蝦夷が大蛇の毒を浴び死亡
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・舒明天皇紀9年 (AD637)・・・・・対蝦夷軍上毛野形名将軍が、妻の督励により蝦夷戦勝利
   ・孝徳天皇元年紀(AD645)・・・・・国造制廃止、毛野国消滅

801 :日本@名無史さん:2015/07/23(木) 18:56:21.25 .net
下毛野田道は後世の名前で当初は、毛野田道なのでしょうか。? 敗死したのは、もっと北の方でしょう。
国造の廃止の645年は、中央の畿内方面でしょう。那須国造碑で分かる通り那須国は689年頃までありました。
はずれの方の毛野国もそれまでは、あったことになります。その後に毛野国は上下に分かれて、那須国も国でなくなり 、
下野国那須郡となりました。那須氏は、那須郡と陸奥国白河郡の郡司です。

802 :日本@名無史さん:2015/07/23(木) 18:58:18.32 .net
訂正 下毛野田道 → 上毛野田道

803 :日本@名無史さん:2015/08/02(日) 14:24:56.80 .net
毛野→魚名藤原→あだち、いだち(伊達ではなくIDACHIというのが本来発音)

804 :日本@名無史さん:2015/08/13(木) 23:24:38.67 ID:16ovIRXLH
伊達氏は日立出身、「いだち」だったのだ。

805 :日本@名無史さん:2015/08/20(木) 06:55:20.61 .net
本家の上毛野氏より分家の下毛野氏のほうが繁栄したな

806 :日本@名無史さん:2015/08/20(木) 22:37:30.51 ID:8kMcumGbC
更に直系に近い筋でも、生きながらえたのは女系繋がりの宇都宮氏くらいかな。
それも改易されて秋田にわずかに残るのみ。
宇都宮城址公園開園の時、秋田ステーションの社長が来た。
庶流も豊前、筑後、伊予程度。
古代豪族の名家は、繁殖力の旺盛な藤原系に乗っ取られて、わずかに女系を残すだけだ。
出雲も熱田も東照宮も藤原氏だ。

807 :日本@名無史さん:2015/08/21(金) 13:11:07.20 .net
坂東方面って位置的に首都圏+千葉+横浜あたりは坂東武士団以降開拓したもので
それ以前に集落や人口が到達した領域はおもに北関東と上総とか首都圏一部

ちょうど首都圏はまるまる開発してなくて集落も少ししかなかった
点ころ到達以前は主な集落は北関東方面で秩父、香取じょうりく、残りは北関東の毛野氏なんかがいた

この関東系豪族ってのはかわっていて文化的には北部奥州の派生文化臭いんだけどヤマト系文化と混ざってた。
明らかな東北文化の影響はありながら人種系統は混ぜた感じ

あと日本史においてBC10-1世紀の人口拡大は北関東ベースで派生して行った臭いよ。集落や文化レベル見る限り
でその人口拡大は最後にヤマトに到達してそれがBC1からAD1世紀の間でありそこから姫の巫女とか天皇の歴史が始まる

過去の東征ってのがAD5-9世紀の東征と東国支配を権威化させるための想像神話なんだよな

808 :日本@名無史さん:2015/08/21(金) 13:23:50.64 .net
日本史
@すごい古い時代赤色の赤道系人種が2万年前に到達
Aその系統の人種はだんだん肌が白くなり北海道を基点に原書のイヌイット文化を形成してブリヤートからアメリカ大陸までの行動圏を確定させ旧ネイティブアメリカ文化を形成するのがBC数千年前まで
Bスキタイやマレー系農耕文化が到達して農耕が始まる。明らかに農耕史中国を起源としない
(というか当時はまだ大陸内の傍流文化であり日本に来るほどの大文化、主流文化でもなく日本に来たグループも沿岸部のマレー系文化を起点としてマレー系に追従したそもそもマレー人種)
CBC5-1から北関東毛野集落群で人口と農耕の拡大が起こり関西まで文化到達し今に繋がる日本人種が形成される。
この時やまとは辺境であった
DAD1-5世紀に点ころはシナ系渡来人、東漢史と合併してテクノロジーを獲得し、シナ朝に「高度なチャイナテクノロジーの継承者(チャイナにおける文化貴人という貴族扱い)」として国際的地位を固め
国家間位置づけでがんしゅ的な性格を獲得する
EAD5-8世紀に点コロの東征が始まる
F坂東武士団の登場で東国が独立しヤマトよりも強力巨大な勢力となって点ころの支配を終わらせ権威を滅ぼす
G以降平次の乱など

日本支のヤマト大阪起源説とか権威説って事実と異なるしヨタなんだよな

809 :日本@名無史さん:2015/09/08(火) 23:40:19.16 .net
毛野もネイティブアメリカン集団と関係があるような気がする。
あの彫りの深いインディアン顔の北関東住民を見かける。
うちのばあちゃんもそんな感じだった。
自分もネイティブアメリカンというか、アサバスカンのような気がする。

インディアンのテントと竪穴式住居は同根ではないだろうか?
鳥見神社などの鳥崇拝、インディアンの羽根飾り、トーテムポールと鳥居、
5000年前に分かれたのに共通点がなお多く残る。

810 :日本@名無史さん:2015/09/10(木) 03:38:26.24 .net
>>328
>つながってはいねえだろう

荘園が、律令政府の定めた国境(くにざかい)線にとらわれず国を跨ぐのは普通にあることだよ(陸続きなんだし)。
有名なところでは、島津荘が薩・隅・日三国に跨る日本最大の荘園として存在したのは顕著な事例でしょう。

811 :日本@名無史さん:2015/09/10(木) 18:25:48.53 .net
今回の洪水なんか見ると遺跡類が残るのってラッキーな事なんだな
礎石が残るだけでもめっけもんだわほんと

812 :日本@名無史さん:2015/09/10(木) 18:40:51.02 .net
大きい古墳とかはその辺よく考えて作ってるんだろうね

813 :日本@名無史さん:2015/09/12(土) 10:02:50.55 .net
>>810
「つなががってはいねえだろう」の者です。私が、ここで主張したかったのは伊達政宗は毛野氏ではないということにつきます。

律令政府が定めた国境は未来永劫に続いたわけではありません。もともと蝦夷地は大井川の西の方からあったわけで冨士が日本一の山と認識されるようになったのは源平合戦後あたりではないでしょうか。
境界が流動的であったことは三分割された陸奥国が直ぐに元に戻ったことからも分かります。その後に出羽国などが出来ました。太閤検地の際に陸奥国寄上保(茨城県大子町)は常陸国になりました。
これは侵略行為を目立たなくする為の手法に見えなくもありません。これは例外でしょう。多くの国境は律令政府によって定められて明治維新の廃藩置県まで続いたと言って良いでしょう。ただし、
台湾が日本領であった時代の日本一の山は、「ニイタカヤマ」であった事実は忘れてはならないことでしょう。

814 :日本@名無史さん:2015/09/12(土) 22:16:46.11 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

815 :日本@名無史さん:2015/09/12(土) 22:17:09.27 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

816 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 13:16:13.99 .net
>>811
先週9/10昼に発生した利根川合流地近くの旧水海道市鬼怒川堤防決壊
洪水災害は、江戸期利根川付替え以前では起こりえなかったのかな?
【災害】茨城・鬼怒川で堤防決壊 ★27 [転載禁止]c2ch.net
h ttp://daily.2ch.n et/test/read.cgi/newsplus/1441962660/

817 :日本@名無史さん:2015/09/15(火) 02:32:43.95 .net
>>581
毛野川は、利根川付替え以前は小貝川と合流していたのか?
85 :名無しさん@1周年:2015/09/14(月) 08:59:28.81 ID:6Kh4yNWm0
>>68
鬼怒川と小貝川の間は元は一つの大河で古鬼怒湾と繋がってたからな
肥沃な土地で農作物育てるには向いてるんだろうけど水害とも隣り・・・・・・・・・
【災害】茨城・鬼怒川で堤防決壊 ★28 [転載禁止]©2ch.net
h ttp://daily.2 ch.net/test/read.cgi/newsplus/1442161975/68-85

818 :日本@名無史さん:2015/09/15(火) 07:14:31.34 .net
坂東武者が難儀したのは利根越えだろう。毛野川越えは朝飯前だったのではないか

819 :日本@名無史さん:2015/09/15(火) 07:28:37.30 .net
テレビを見た限りでは砂地で不味い米しか取れないような気がした。来年は旨い米だろうな。砂利まで入っていたら取り除くの大変だろうけど。しかし近くの山林は貧相だから木の葉さらいをして堆肥づくりをするのは、なかなか難儀そうだな

820 :日本@名無史さん:2015/09/30(水) 16:56:36.79 .net
昨夜、NHKのラジオを聴いていたら奈良県に次いで二番目に古墳が多いのが群馬県とか。鎧を身に着けたまま火山灰に埋もれた人物の話で盛り上がっていたよ

821 :日本@名無史さん:2015/10/07(水) 04:53:15.40 .net
>>820
9/29のNHKのラジオを聴いてだけじゃ、AM第1か第2かFMか判別できず、
レス応答しようがないんだが、その県別古墳数や火山灰埋没人物と
スレタイとにどのような関連があったのかね?

822 :日本@名無史さん:2015/10/10(土) 04:59:24.34 .net
>>800
>   ・舒明天皇紀9年 (AD637)・・・・・対蝦夷軍上毛野形名将軍が、妻の督励により蝦夷戦.......
上毛野形名は、毛野国在住でなく都在住で妻同伴で蝦夷制圧に出向いた
ということか?

823 :日本@名無史さん:2015/10/14(水) 01:01:40.12 .net
古代から関東は特別だったんだろうね

824 :日本@名無史さん:2015/10/20(火) 11:42:15.02 .net
大化(元年に毛野国に赴任してきた紀麻利耆拕とかいう長官は、毛野国の
財物を不法に収公して中央政府から処罰されたらしいね。
武器も収公したらしいが、北隣蝦夷との間に軍事的緊張があったのか?

825 :日本@名無史さん:2015/10/25(日) 18:08:07.67 .net
特別に無能地域だったんだね

826 :日本@名無史さん:2015/11/14(土) 13:15:59.48 ID:82ZiUKYNp
魏書 高句麗伝 

(原文)
正始中(240−249年)、世宗於東堂引見其使?悉弗、悉弗進曰:「高麗係誠天極、累葉純誠、地産土毛、無愆王貢。
但黄金出自夫餘、珂則渉羅所産。
今夫餘為勿吉所逐、渉羅為百濟所并、國王臣雲惟繼絶之義、悉遷于境内。二品所以不登王府、實兩賊是為。」
(訳文)
正始中(240−249年)、世宗(宣武帝)は東堂で、使者の悉弗を引見、悉弗が進んで曰く「高麗の誠をつなげば天を極め、代々に忠誠、地の産する五穀や植物、王への貢献に遅滞なし。
ただ、黄金は扶余の出自、珂(白色の瑪瑙)は渉羅の産。
今、扶余は勿吉に故地を追われ、渉羅は百済に併呑され、国王である臣の雲は、ただ継承の途絶は不徳であり、悉く領土を奪還する(ことを望む)。
黄金と珂の二品は王府に届けられないのは、実に両賊の為せること」。

結局、領土を奪回できなかった高麗(こま)が海を渡って入植したのが「地産土毛」の実り豊かな国、つまり毛の国ではないでしょうか?
後の時代になりますが、高麗王若光は、天智天皇5年(666年)高句麗からの使者の一員として来日しますが、唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、
日本に残って、既に高麗人が入植していた毛の国に領土を与えられます。それが、武蔵国高麗郡です。
つまり、毛国とは高麗人が作った国なのです。もちろん、新天地を求めてやってきたのは新羅人や百済人や靺鞨、鮮卑も同じです。

827 :日本@名無史さん:2015/11/21(土) 10:55:20.25 .net
気は進まないが群馬と栃木のフィールドワークをせねばならんな

828 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 10:05:19.18 .net
>>784
>上毛野氏については復古本として
>古代東国の王者―上毛野氏の研究 単行本 – 2008/2・・・・・・・・・・・・・・・・
著者熊倉浩靖群馬県立女子大学群馬学センター教授は、専門分野:日本古代史、
行政評価、地域づくり?とあり、経歴からも通常の古代史研究者とは違うようだ。
また上記代表著作は、2008/2発刊であり復刻本ではないよ。
所属群馬学センターには、群馬史専攻者はおらぬようだし。
http://www.gpwu.ac.jp/guide/info/prof_list/06kumakura.html

なおURL掲載北川和秀国文学科教授は、著作からみて東国史でなく
「続日本紀」の専門家だろう。

829 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 14:54:29.30 .net
>>828
古代東国の王者 上毛野氏の研究 (茜史朗著/あさお社)
という本が手元にあるが、ペンネームだったのか。
京大で師事していたという上田正昭氏は、東アジアと古代日本の権威で、
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である」可能性が高いことを著書で指摘し、天皇発言につながったことで、右翼の標的にされた人物。
熊倉氏自身は、全学連・全共闘運動で京大を中退、バリバリの左翼思想の持ち主だったのかもしれない。
その後、高崎哲学堂設立に携わっていた32歳の時にこの本を書いている。
従って、単に、東国の古代豪族毛野氏だけではなく、当時の東アジアの社会情勢の中で東国と捉えようとしている。
そういった視点で、百済に遠征した荒田別、鹿我別についても自説が展開されていく。
毛野氏も、車持氏も、そして熊倉氏自身も渡来人の子孫ではないだろうかという漠然とした疑念を持っていたのだろう。
東国は、新羅による朝鮮半島統一で国を失った三韓からの帰化人が競い合うようにして開拓していったのだ。

830 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 15:12:08.11 .net
桓武天皇生母が自称百済王族末裔なんて
上田正昭が指摘するまでもなく
続日本紀に堂々と記述されているのだが
何か取り違えていないか

831 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 22:26:03.42 .net
あなたの指摘通り、上田氏は標的にされただけのことだ。

832 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 20:29:56.92 .net
武茂郷出身の者です。渾身の一冊を上梓しました。
ヘンネーム:石川興一郎   書名:明治元年の大行進  書店では流通していませんが、
電子書籍版を青山ライフ出版にてお取り寄せできます。
目次
第一章  飯村城炎上から水戸黄門
第二章  奇人岡玄策と都々一坊扇歌
第三章  史館動揺の時代
第四章  政権闘争の時代
第五章  常野総 乱の時代
第六章  天狗復讐の時代(戊辰戦争・新しい夜明け)
第七章  北島秀朝の生々流転               以上です。

833 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 21:37:27.95 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

834 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 21:38:03.37 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

835 :日本@名無史さん:2015/12/03(木) 21:54:06.44 ID:7/8d0gOdk
実は6万年前に小麦栽培は始まったのだ。
お前の説は時代遅れ、明後日おいで。

836 :日本@名無史さん:2015/12/24(木) 09:48:39.04 ID:6pFq8d/Uo
835番目の消えているのがある。不思議だ ?

837 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 19:08:04.24 .net
>>825
毛野国の「毛」は、作物や木を意味するのか?
”関東地方は、@「ケヌクニ」〈群馬・栃木)、A「ムサクニ」〈埼玉・
東京・神奈川)、B「ヒタクニ」(茨城)、C「フサクニ」〈千葉)の
4クニがあった。「ケヌ・ケノ」の「ケ」とは「毛」で、「毛野国」と
表記された。「毛」は作物や木を意味する・・・・・・・・・”
関東4国(毛野国、牟佐国、総国、ヒタ国)の由来  2008-04-16
ttp://baba72885.exblog.jp/8673232/

838 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:38:18.50 .net
那須国を忘れないでくれ。

839 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:41:59.41 .net
>>837に書かれている事こそが
真実なんだよ

840 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:50:44.08 .net
>>816
>>817




というくらいだからな〜

841 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:56:03.89 .net
国宝の那須国造碑は本物じゃねえの。

842 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:58:33.35 .net
>>7
なんで知ってるの?
あの時代の人物は自称ばかりいるという説もあるし

自称○○ 自称□□

843 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:01:39.72 .net
利根川や渡良瀬川は、今の東京湾に流れていたわけで、だとすれば、あっち方面で降った雨水が今の茨城県で溢れることはねえわな

844 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:05:21.30 .net
那須氏 冤罪
というのは何なんだろう

845 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:09:02.10 .net
>>1
>毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
>が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

そうだろうか。
前橋天神山古墳出土の三角縁五神四獣鏡は、
同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として、
奈良県桜井市桜井茶臼山古墳、同天理市黒塚古墳のものがあるようだ。
両古墳とも4世紀初頭〜前半なので景行天皇の孫である御諸別命なら遅すぎると思う。

やはり崇神天皇皇子の豊城入彦命だろう。

846 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:09:10.08 .net
昭和の時代に起きた些細なことなど誰も気に留めていませんよ。那須郡武茂郷出身の者より

847 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:17:35.92 .net
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。

848 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:28:46.78 .net
東国は北朝ばかりではなく、新田氏、宇都宮氏、東北の雄である白河結城氏は南朝方

849 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:51:58.42 .net
本当のスサノオ

というスレッドを読んでみるといい
トンデモばかりだけど、真実らしき事も書かれているよ

悪役 冤罪にも繋がる

850 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:53:15.12 .net
鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。

『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」

これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄)

851 :日本@名無史さん:2016/01/29(金) 22:25:54.05 ID:tzeYT9xCt
>>838
那須国はなす。

852 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 08:25:42.14 .net
>>845
今月、豊城入彦命を祀った下野國二荒山神社を特集したムック本が、
刊行されました。
週刊「日本の神社」 第105号 二荒山神社・唐澤山神社 他 2016-02-02発売 \562*1.08
http://deagostini.jp/jin/backnumber.php?id=47859&issue=105

853 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 08:49:04.98 .net
平安期の皇別武家の源氏や平氏の先輩格だな、
毛野氏、小野氏、日下部氏は。

854 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 13:46:24.93 .net
朝倉能楽幕府や
宇都宮餃子幕府ができてたら

日下部氏や毛野氏の時代再びでしたね。

855 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 21:36:38.66 .net
>>848
白河結城氏が南朝で、下総結城氏は北朝?
結城氏の歴史はややこしいとこが多い感じ。
ネットの説明読んでもよくわからないことが多い。本みたらまた違ってたりして

856 :日本@名無史さん:2016/02/19(金) 21:48:14.15 ID:jCm90N2QH
鎌倉幕府は上下に分かれていた毛野国や分割された武蔵相模の一部を併合して、古代の毛野を再統一したということではないだろうか。

857 :日本@名無史さん:2016/03/13(日) 20:41:29.85 .net
今、大河ドラマを見ている。上野国をこうずけと言っている。時は戦国時代。
話し方は、正しいのでしょうか。 私は、かみつけかじょうしゅうが正しいのではないかと思っています。
あくまでも戦場における坂東武者の話し言葉としての正否が知りたいものです。

858 :日本@名無史さん:2016/03/14(月) 09:07:33.54 .net
上野国の呼び方についての第二弾。朝廷および武士階級と読み書きの出来ない百姓町人エタヒニンでは話し言葉が違うと思われる。時は戦国の武将なら上野をかみつけ又は上州と呼ぶであろう。
読み書きの出来ない百姓町人等の全員が上野をこうずけと呼ぶのであれば理解できる。しかし読み書きの出来る越後、信濃、北関東の武将全員が上野をこうずけと呼ぶことはありえない事実である。
常識的に考えて少なからずの者は、かみつけ又は上州と呼ぶはずである。   従ってNHK大河ドラマにおいて武将全員が揃って上野をこうずけと読んでいるのは誤りである。

859 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 10:27:01.01 .net
上野国の呼び方について第三弾。鎌倉時代の吾妻鑑で既に現在の群馬県は上州と呼ばれている。従って漢字の読み書きの出来る戦国武将がこうずけこうずけと連呼するのは誤り。
大河ドラマの台詞としては、かみつけ又は上州が正しい。  NHKに苦情の電話を入れましょう。☎0570-066-066 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9f6dec46a9c05ac98b043733bb0c28f0)


860 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 12:35:41.96 .net
早くから訛ってたのでは
かみ(む)つけ → かうづけ

861 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 13:06:04.81 .net
総理大臣が多い割にあんま恩恵受けて無い地域だな
足元の発展に興味が無いお国柄とかなんだろうか

862 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 14:25:27.42 .net
近代栃木は三島、古河、陸奥、原といった売国奴に蝕まれた悲劇の地

863 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 14:45:47.25 .net
ついでに言えば、上杉謙信は、「うえすぎ」ではなく「かみすぎ」ではないの?

864 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:41:25.07 .net
>>863
上杉氏は、毛野氏だって言いたいの

865 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:50:44.15 .net
一万円札の聖徳太子は、しょうとくたいし。初期の一円札の上毛野田道は、かみつけのたみち。訛ってねえだろう

866 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:59:27.87 .net
>>865
お前は経時的に言語が変化するって当たり前な事実を知らないのか?
上代(古代)〜平安期〜戦国期〜現代でどれほどの母音消失や子音等音韻変化
言語訛化が起きていることか……アホだろお前

867 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 19:41:21.77 .net
>>866
俺は特許庁に何件か登録しているのでお前のような馬鹿ではない。 あんたは文系馬鹿か

868 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 19:47:41.69 .net
百姓町人ではなく戦国武将の、こうずけこうずけの連呼は、どうしても違和感がある。少なくとも宇都宮氏、佐竹氏、那須氏などは上州と記載された吾妻鑑を読んでいるぞ。どうだ

869 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 20:26:16.63 .net
こういう馬鹿は思い込みで話すからたちが悪い

870 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 20:33:20.82 .net
「那須紀」を執筆した那珂川町小口の大金氏の本家には立派な書庫がある。 何か疑問があるのであれは見せてもらえば良い。

871 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 21:06:01.13 .net
>>869
だな。挙句に特許庁と来たもんだ。
こりゃ真性の馬鹿だね。

872 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:08:01.82 .net
そうだ俺は馬鹿ちょん以下の存在だ。それの何が悪い

873 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:23:33.38 .net
あんたみてーな馬鹿ちょん以下の存在が思い込みだけで実証的史学を歪めんだよ自覚もねーのか笑

874 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:48:01.78 .net
歪んだら矯正する必要があるな。暇つぶしに良いだろう

875 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 23:30:30.02 .net
宇都宮氏とは、太秦、宇治と同じ秦氏系藤原氏の宮という意味ではないのだろうか 。
ウィキペディアによれば、「宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。官位は従五位下越中守。
鎌倉御家人でもあり伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。」とある。

876 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 06:16:36.43 .net
>大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である


つまり、縄文とヤマトのハイブリット民族化したわけか。

今の典型的関東人もまさにそれ。

877 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 13:08:58.43 .net
だから関東人はすべてにおいて優秀なんだろうなあ

878 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 18:31:40.98 .net
実証的学風を尊ぶのであれば、京都宇都宮氏宅から藤原定家宅を歩くべき。
私は遠方から天橋立を西から東へと眺めただけなので何も語る資格なし。

879 :日本@名無史さん:2016/03/26(土) 16:37:33.15 .net
北条氏、「敵陣の蟠踞する太田を攻めまくるぞ。援軍の手配を万全にな」
雑魚侍、「おう」
北条氏、「遅い、援軍はまだか」
雑魚侍、「一手は上州太田あたりを、あるものは野州大俵をふらついている様子で」
北条氏、「敵陣の蟠踞する太田といえば、佐竹の蟠踞する常陸太田に決まっているだろうに。たわけ者めが」
※江戸末期
武田耕雲斎、「今、田中隊はどこで何をしているか」
藤田小次郎、「上州太田宿で軍資金を集めています」

880 :日本@名無史さん:2016/05/02(月) 20:28:14.18 .net
>>876
そうだよ。蛮族どころか、南方系マレー系外来種(天皇ルーツ)と北方系(蝦夷、毛野)の主流部族のハイブリッドが関東人=坂東武士団

人種の系譜は
・過去BC15000-20000のルーツを持つ蝦夷北方部族が東北から東日本にBC1000年頃増え最大50-100万規模の巨大な部族を形成
・BC300-600年頃マレー系が九州で拡散し始める。当時の人口は15万前後、同時期に蝦夷系は関東に進出する
・蝦夷は大和まで到達し、BC100-0年頃大和にマレー人も来るいわゆる大和人のルーツ
・おそらく大和の後にマレー人混合集団が関東にも到着する(所詮平氏)仮定で二次的な混合人種(坂東人)が形成される

馬鹿が大和を権威化したがるけど大和の人種ルーツは北方人種と豚鼻マレー人なのな。
厳密な人種系統は関東とほぼ近似した系統

土人は何故か大和と豚鼻マレーと蝦夷の混血を権威化したがる。

坂東武士においては文化的な意味での混成集団だといえる。つまり民族、職能的に

881 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 15:03:32.76 .net
常陸、野州、上州の方が日光東照宮を参拝しても待遇は同じである。
ところが、江戸ものが日光東照宮を参拝する際には優遇措置がありました。
ということは、江戸とは何なのか、何処からどこまでを江戸と言ったのかについては、明確な色分けがありました。
私は良く知りませんが東照宮の受付担当者などは熟知していたと思われます。

882 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 19:56:00.22 .net
あの辺は大和の国なんてなかったですが?

畿内含め紀伊半島あたりから一括して木の国

木内→畿内

木→紀→紀伊

883 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 20:00:55.15 .net
紀伊半島東部にあったのが熊野国

だいたいニギハヤヒだのの伝説は旧熊野国の人らの伝承を持ってきてるの明らかじゃん

884 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 20:04:59.14 .net
ど〜せ熊野国の連中が大和(奈良県)に移って住み始めたのがら始まりだろ

大和朝廷だのなんだの

885 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 07:39:15.20 .net
躾のために置き去りにされた少年が生き延びて作ったのが大和朝廷だろう?

886 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:17:42.89 .net
もうすぐ、こうずけ名物の梅が旬を向かえるそうな。だけどやはり横綱は紀州和歌山か。

887 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:19:07.04 .net
まさか科学的事実を無視して自分が縄文系だなんて妄想してる馬鹿いないよなあ

記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html

研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)(注1)を示す100万塩基サイト
を一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分
を含む日本列島人のDNA分析を行った。

その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的に、もっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いで、アイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団とし
ては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。

888 :日本@名無史さん:2016/07/05(火) 00:22:17.79 .net
>>798
そのURLのブログのほか記事読んでみたら、カビの生えた反日共産主義シンパのブログじゃないかww
恣意的な内容多いし、こんなん読んでたら反日自虐の方向に思想誘導されるぞww

889 :日本@名無史さん:2016/07/05(火) 08:41:42.96 .net
歯でわかる縄文、弥生チェック

縄文人と弥生人では、歯の構造がまったく異なる事で知られています。
特に歯の噛み合わせがまったく異なっており、縄文人やアイヌ民族は100%が鉗子状咬合、一方の弥生人はハサミ状咬合となっています。
前歯を閉じてぶつかった時に上の前歯が下よりも前にあれば弥生人に見られるハサミ状咬合です。縄文人やアイヌでは見られないタイプです。

>縄文時代人は 100%が「鉗子咬合」といって、毛抜きのように上下の歯はぴったりと重なっていた。
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~edugrad/507sato.pdf
>アイヌでは主に鉗子状咬合である。
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/215cd216e60b5d4db583be9ca6e0c331

890 :日本@名無史さん:2016/07/17(日) 04:13:46.81 .net
毛深かったんだろうな。女でもひげが生えてるような一族だったんだろう。

891 :日本@名無史さん:2016/07/17(日) 08:23:59.15 .net
西日本人は火病起こしてないで現実見ろよ

>また西日本の人達は来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
>な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
>京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nifty.com/yokubari-sennin/jinkoubunpu1.jpg

892 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 08:55:03.77 .net
これを見れば、毛野氏が関東甲信越地方を、いや、日本を支配していたことがわかる。

893 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 10:09:47.93 .net
>>108
詳しくは、こちらの文献参照ですね?
古代東国の王者 - 上毛野氏の研究 -  熊倉浩靖 2008/02/15刊 A5判310p 雄山閣 ¥6,048
http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=7251

894 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 12:01:21.42 .net
>>849
この民俗学板スレか?
本当のスサノオ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1304225092/
本当のアマテラス 2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1285333836/

895 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 07:41:26.76 .net
熊倉先生、先週の「ケンミンSHOW」に出て、なぜ群馬県民は、もつ煮を食べるようになったのか解説していた。(笑)既に好々爺。

グンマーは、巷で言われるように未開の地。
江戸時代でも日本で唯一、四足獣の肉を常食とし、内蔵まで食い切る野獣だった。(笑)

896 :日本@名無史さん:2017/05/19(金) 15:40:16.18 .net
日本各地には様々な慣習がある。常陸の方では米寿を超えた方の葬儀は紅白の垂れ幕となりどんちゃん騒ぎをするようである。
このような慣習は野州や上州方面でもあるのであろうか。?  ただし、本来葬儀は厳粛に行うべきものである。平均寿命が延びた今は、
88歳の米寿から百歳位に引き上げるべきと私は思う。役所から記念品が出るのも多くは百歳のようである。異論は無いのではないだろうか。
百歳でも元気な女性は多い。  かかあ天下に空っ風。  一方で群馬県の男子にはヘタレが多いと聞く。
元凶は上毛野形名あたりから来ているのかも知れない。同じ毛野国出身のピストン堀口を見習うべきであろう。あれだけ戦ってKO負けがない。

897 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 11:51:23.46 .net
高崎前橋の中心エリアに太田が対抗する構図は面白いね
太田天神山古墳の巨大さ
今もこの地にはSUBARUがあり東毛地域で威厳を保っている
中島さんは金山で徳川埋蔵金を発見して財を成したのかも
赤城山じゃなかったのかな

898 :日本@名無史さん:2017/11/06(月) 15:58:09.93 .net
明治維新期頃の駄作の一部に、水戸藩出身の北島秀朝の文章があるのですが、そこだけは国会図書館のリサーチナビに
登録されたようですので、お暇な方はどうぞご覧になってください。  ペンネー、ム、石川興一郎より。

899 :日本@名無史さん:2018/01/02(火) 14:50:16.52 .net
昨夜、ラジオから上州子守歌が流れていた。上野子守歌なんてねえわな。ドアホ

900 :日本@名無史さん:2018/01/12(金) 22:58:44.66 .net
毛野氏(けぬうじ)なんて日本史上に存在したことすらない
御諸別王の子の荒田別が上毛氏、鹿我別が下毛氏で
野はもともとは接続詞として使われだしたのが始まり
(「平清盛:たいらのきよもり」「源頼朝:みなもとのよりとも」の「の」と同じ)
だから上毛野氏となるのはずっと後
下毛氏は野がつく前に下毛の名を捨て大野氏等を名乗ってるから下毛野氏も存在したことがない
Wikiの説明は全く根拠のない創作

901 :日本@名無史さん:2018/01/15(月) 08:41:44.99 .net
ここは上州草津の湯とは唄の文句。上野の湯では的外れ。坂東武者は北条政子の名演説をけっして忘れはしないだろう。
都人が定めた国名など糞くらえ。上州があり野州があり奥州がある。吾妻鏡は、これ武士の鏡なり。こうずけこうずけと連呼する侍は坂東武者ではない。
どこか西国の故郷に帰ればよい。上毛野田道は一円札になっている。これは、ほぼ全員がかみつけのたみちと呼ぶんじゃねえの。
これを上州田道とするのは、ちと難しいなあ。

902 :日本@名無史さん:2018/01/16(火) 13:43:14.79 .net
>>901
正確には「こうずけ」ではなく「こうづけ」な
どうでもいいけど

903 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 14:14:23.84 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

M1BRM

904 :日本@名無史さん:2018/02/17(土) 12:31:25.83 .net
>>875
この下毛野氏後裔説のある宇都宮氏のことか?
236 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:26:48
・・・下野国の宇都宮氏は、藤原氏北家の藤原道兼の後裔の藤原宗円を祖とするとされるが、
下毛野氏子孫説ほかがある。
このように、藤原、源の子孫の系譜を持ちながらも、古代氏族の子孫説のある氏は意外と多い。
これは、藤原氏の者が、下毛野氏の娘に子種を孕ませたということだろう。
子供は、母親の家である下毛野氏の方で育てるため、下毛野氏の家の子となる。
しかし、藤原氏の種だから氏の血筋の上では藤原氏の子になる。
下毛野氏としては藤原氏と結びつくことが有利と判断し、その子の父の藤原氏を、
その子を基点にして祖にし、 藤原氏後裔の系譜を・・・・・・・・・・・
【紀伴菅江在】 マイナー氏姓 【マケルナ源平藤橘ニ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1137830191/236-

905 :日本@名無史さん:2018/02/27(火) 23:42:49.29 .net
紀氏とかかわりが深い

906 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:43:43.04 .net
大野東人は日本史上の武人の中で最強だと思う

907 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:00:37.27 .net
那須国大野村から出た大熨氏。この方は毛野氏系なのですか。

908 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 20:26:31.24 .net
>>892
毛野氏が関東全域を支配していたのは、間違いないだろうね。
南関東の人は北関東のなまりを小バカにしていたけど、本来は関東全域で北関東の方言が
話されていたと思う。
もしかしたら、北関東の方言が日本の共通語になっていたかも知れない。

909 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 16:10:30.48 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

A08

910 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 19:38:29.29 .net
>>897
>高崎前橋の中心エリアに太田が対抗する構図は面白いね
>太田天神山古墳の巨大さ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、高崎前橋地域と太田地域それぞれにどのような勢力が
盤踞していたと推されるのですか?

911 :日本@名無史さん:2018/12/24(月) 19:27:49.57 .net
「太田地域」とか言ってる時点で勉強不足だな
あそこは治水がやっかいでほとんど水浸しの不毛の土地
大昔からあるわりに遺跡がほとんど残ってないのは、全部洪水で流されてるため。
実際 郡衙跡も存在してない

広大な土地がいまでこそ広がってて「太田地域」と思ってしまうのだが
ちょっと古い地図ですら水浸しの湖になってる
ちょうど京都の巨大湖の巨椋池(つい以前の1933まで巨大な湖が京都南部に広がってた)
と似たような場所。

高低差のない平野部=「昔は湿地帯」が多い
逆に非常に利用しずらい土地と言える(いつ洪水で流されるか分からないので 農業にも住居にも向かない
大河の中の三角州の中で生活するようなもので非常に危険)
もしくは完全な水没地帯だった可能性がある。

つまり昔になるほど「太田地域」など存在してないので、
「太田地域」と「前橋高崎地域の対立」というのもまったく見当違いと言える。
太田天神古墳がちょっと成立がおかしすぎるだけ。
戦前のスバル工場のすぐ東側ですら湿地帯だったらしく
山を削って埋め立てている。非常に地盤がない地域が太田駅周辺。

古代に太田天神古墳は確かにあるが、「太田地区」は存在してない

912 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 14:36:37.24 .net
>>118
>>学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」
>>が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○?
>>しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。

>「毛野は独立国」だが、「独立国が日本各地にあった」
>とすると「畿内主観の統一国家大和」の観点から外れるからあえて取り扱わないのかもな。
>(武士団は出自からして臣従関係が公家以下だったが=それに反発したのが武家政権)

>わけのわからない構造の武家政権と違って古代豪族の毛野氏は独立性がかなり認められるので
>「独立国で畿内と同盟関係」だったというのがもっとも正確
>本質的に主従関係が分断されている。
>「そうは言っても家臣が出自ではないか」という反論があるが
>豊城入彦命に限っては「そもそも家臣ではない」ので「畿内の並立関係」にある

>そもそも豊城は「垂仁の兄」なわけで 長兄優位の後世の価値観からすれば
>「畿内は弟の国」だろ。
>かつ軍事力についても豊城系統の方が最初から畿内を上回っている
>=畿内の反乱の鎮圧をまかされている。

>"出自からして家臣ではなく"、"その後も家臣になった覚えはない"。
>毛野国が占領されたこともないし畿内に合戦で負けたこともない。
>しょぼい合戦で緑野屯倉を渡しただけ=国境紛争があった程度
>武士団でもなく家臣でもない。

>これを定義する言葉は「毛野国は独立国である」としか言いようがない。
あああ

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