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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

656 :日本@名無史さん:2014/11/03(月) 19:06:55.62 .net
毛野氏は卑弥呼とヤマト王権初期の全勢力との接点がある。
かつ強力な軍事力と。

657 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 00:17:00.94 .net
>>655
なにが「ニヤニヤ」だ、キモすぎ…。自信あるなら普通に自説を展開しろ

658 :日本@名無史さん:2014/11/05(水) 01:24:54.75 .net
しかし網野義彦先生が足で丹念に調べた結果見つけ出した「大中臣氏略系図(桐村家文書)」は世紀の大発見だったなあ。
あの系図のお蔭で、それまで太田亮博士などによりその可能性が指摘されていた多氏系としての中臣氏の存在がグッと現実味を帯びてきたわけだし、
海道平氏(繁盛流常陸平氏一門)と出羽清原氏との関係や、さらにはそれらと義家〜両毛源氏との相関関係、そしてもちろん上記諸氏と藤原秀郷流との相関関係も明らかにしてくれたわけだ。
他にも、「若狭一宮社務家系図」などの詳細な研究によって、後期王朝国家時代が到来する以前には当たり前の婚姻形態であった母系継承による氏族形態の実態の把握にも大きく貢献することになったわけだし。
ほんとあの頃の網野先生は目の付けどころとかがいちいち神懸かっていたなあ。

659 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 12:14:04.33 .net
網野先生も古田先生も、自分の足で資料を収集しようとする地場の学者は、例外なく偽書にたどり着いてしまう運命なのです。

660 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 19:09:03.78 .net
都々一坊扇歌の謎かけの最高傑作は、何気なく天王寺の塔だと思っていたけれど天王寺の由来を知って、その思いがさらに強くなってしまった。
天王寺の塔は、古墳時代末期に聖徳太子が百済から呼んだ宮大工集団が建てたのですね。それこそが世界最古の企業家集団である金剛組。ロマンがあるなあ。

少し前に毛野氏族は総合商社を持っていたという話があったけれど疑わしいなあ。当時は貨幣も流通していない物々交換の時代。決済が迅速に行われたとは思えないのです。

661 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:34:22.86 .net
千葉県の旧東葛飾郡の野田市、流山市、柏市、我孫子市、松戸市、鎌ケ谷市、市川市、船橋市、浦安市に相当する地域、ここが千葉県における毛野の支配地域に相当します。
この辺りの微高地沿いに、毛野の流通網が続いており、その先の、出水市出雲系の鳥海氏や香取、鹿嶋とは明確に住み分けています。
物々交換の時代に、縄文字を商取引に使用し、縄張りを守ってきたのだろう。

662 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:43:04.46 .net
毛野の作った道の両側には縄を張って、一般人の侵入を禁じ、数キロおきに見張り番を配置し、縄張りを巡回していた。
道案内、目明かし、同心。
八色の姓の5番目、道師さ。

663 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 21:52:34.96 .net
なぜ八色の姓の5番目、道師が賜姓されなかったかといえば、
それは、官製の大道、東山道の整備を進めていたからだ。
これは毛野の利権と真っ向対決する毛野氏最大の危機だったろう。
しかし、大和勢力には歯が立たなかった。
東山道と競合しなかった接続道路が、今でも産業道路、迂回路として残っている。

664 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:01:23.71 .net
物々交換を支障なく行うためには、枡の寸法を決めることや天秤ばかりの普及が不可欠であったと思います。
さらに、おおよその交換比率を決めておくこと。  同じ米でも、旨いものがあれば、まずいものもある。
物々交換もなかなか大変だったでしょうね。

665 :日本@名無史さん:2014/11/08(土) 23:48:15.18 .net
>>662-663
「道師」の道って道路じゃなくて技芸の道のことだろ
旧の造(みやつこ)に該当で伴造、職業部の管掌氏族じゃん
賜姓はされたけど下級貴族(というか貴族ですらない)だから記録が早く散逸したんじゃね?

666 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:37:08.59 .net
道路沿いに縄を張るのは物理的に難しいので廃れたけれど、神社の入り口、ご神体山の入口に大鳥居を建てて、侵入を制限、
鳥居に大しめ縄を張るのはその名残。神木、神石、滝などにも進入禁止の縄を張ります。
田んぼに杭を立てて縄を張る習慣は今でも残っているし、案山子と日本神話に登場する星の神、天香香背男( あめのかがせお)は同体。

星の神、天香香背男( あめのかがせお)は、 『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

星宮神社の配置は毛野の支配地とは一致しないが、関東平野では毛野とは交流があり、共存していた様子。

667 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 11:44:20.35 .net
ふふんw

668 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:17:19.05 .net
今でも、目明し、同心の流れを汲む警察の現場では縄の代わりに黄色いテープを張って現場保存をします。
潜ろうとすれば誰でも通れるのに、心理的バリアーを張って侵入させない。それが結界ですね。

669 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 14:39:51.75 .net
江戸時代の話
そいつらの話とどう結びつくんだ?

670 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:05:17.22 .net
鎌倉幕府の頼朝が朱印状で認められたとされる通行権、通商権、興業権などの特権。
江戸に入封した徳川家康もそれを追認した。
江戸は、幕府が支配する士農工商と浅草弾左衛門配下の穢多非人の二重構造だったのです。

671 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:11:21.58 .net
日本に良いこわざあるね。

本は急げ!

672 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 15:30:46.05 .net
その鎌倉幕府の御家人というのは、平安時代から住んでいた土豪で、
古墳時代や奈良時代に渡来した帰化人だったり、
実はその前から住んでいた御諸別、奈良別、犬飼氏、橘、藤原系、ごちゃごぎゃ。
しかし、その本性は石器時代から住んでいた土人。ですよ。

673 :日本@名無史さん:2014/11/09(日) 17:18:43.96 .net
>>671
外国の方ですか?

674 :日本@名無史さん:2014/11/11(火) 22:04:10.23 .net
蝦夷と毛野氏が同時代から
蝦夷は強いが、勝ったり負けたりして結局領地を広げた毛野氏の優勢勝ち
もしくは蝦夷が取り込んだか

蝦夷は遠距離も近接も馬術も長けているので
武者の原型だな。対抗した毛野氏が弱いわけではないので、
基本互角の技術か。

修羅の国での楽しい殺し合い=切磋琢磨で生まれたのが日本の戦闘技術
権力者が弱い者をたまに追い回すだけの畿内の戦乱じゃ技術の発展はなかったはず。

675 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 00:19:03.50 .net
縄張りは古代からあった気がするな

676 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 01:34:48.20 .net
発掘考古学からは日本の古代は、戦争による大規模な殺戮の跡って発見されていないんじゃなかったっけ?

677 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 23:11:09.68 .net
縄張りは、縄文時代以降だろう?最近の話。
大量の藁がなければ縄が出来ないからな。
縄文時代は、葦の時代。豊葦原、葦舟。

678 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 12:26:06.07 .net
藁縄の普及は、稲作の盛んになった弥生時代以降のような気がする。
縄文時代以前は、麻、井草、藤を主原料として縄を編んでいたのではないでしょうか。
藁の用途は、縄、コモ、むしろ、俵、その他。 茣蓙は井草か。

679 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 19:56:22.53 .net
>>678
馬は石ころを食うとでも思ってるの?

米を人間が食って、稲藁を馬が食うんだよ。
そんでそれが人馬一体の兵団になるんだわ。
馬は運搬にも使うし、肉も食う(分からんが食ったかも知れない 馬を飼う信州では馬肉食ってる)

すんげーエコだな。
人間が食えない稲藁で馬をつくってそれが自家用車になるわけだし。
他に何にもいらなくね?って感じがする。

680 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:12:36.70 .net
水稲は弥生時代から。また、当時は品種改良もなく水稲は北の方では育たない。
藁縄が沢山使用され始めたのは、どう考えても弥生時代からと思える。

馬って自家用車みたいに誰でも自由にのれたのかなあ。太平洋戦争末期には、
白馬に乗れるのは選ばれし人だけ。古代でも大差ないような気がする。
それと、馬の普及はひずめを保護する金属製の馬蹄が出来てから。それがないと足がもたない。
従って鉄器の登場と馬の活用は同時代からとずぶの素人の私は考える。

681 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 22:45:13.07 .net
馬を持てたのは庄屋、名主、肝煎といった地域の顔役だけだ。
百姓上がりの足軽は馬は持てない。

682 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 23:04:02.97 .net
そうなんだよな、馬を持ってたのは、上士と名主層が大半

因みに下士足軽は百姓あがりじゃない。
雑多と呼ばれた非定住民
まじで。
百姓は豪農の郷士クラスも百姓に分類される

683 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 02:19:47.50 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

684 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:45:22.79 .net
鬼怒川と黒川に挟まれた河内地区、栃木県中部を中心に、 高(たかお/たかおかみ)神社が100社以上集中して残っているらしい。
この神社のうち最も古い神社の一つ高雄神社(茂木町)は景行天皇56年に御諸別王が勧請したという社伝が残る。
しかし、この神社の分布は毛野のうち下毛野地域に限定され、実際には御諸別王の時代よりずっと後の時代に創建されており、毛野全体の神と言うわけではないようだ。

Wikipediaによれば、
5世紀末に新興勢力として摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳を始めとした大型古墳が思川流域に出現した。
その事からこの「新興勢力の領域」を「下毛野」と呼び、「 旧来の毛野」を「上毛野」と呼び分けたとする説もある。
とあり、下毛野の古墳と高神社は密接な関係がありそうだ。

この高神社は、奈良の桜井市や大阪河内の茅渟宮との関係が伺える。
高神社は、応神朝の頃渡来した帰化人の神か?

685 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 12:48:29.42 .net
案の定、文字化けしてしまった。
たかお神社の「お」は、雨冠に口3つ、その下に龍という漢字です。

686 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:09:17.93 .net
東京の高尾山とか関係あんの?

687 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 15:45:47.58 .net
茂木の高雄神社の所在地は、那須国なのか毛野国なのか、あやしいなあ。
何故、那須与一の絵馬が宝物のように保管されているのか疑問がわく。
千本氏の領地だったような気がする。
なお付近は宇都宮氏系の茂木氏、益子氏系の飯村氏、那須氏系の千本氏と入り組んだ地域になる。

688 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 17:30:36.03 .net
高尾山との関係はどうだろうな。
位置的にも時代的にも違うので無関係としても良いが、
高麗からの渡来人、雨乞山、龍神、という共通点はあるから、
後の時代に渡来してきた同族かもしれない。

茂木の高尾神社は社伝丸ごと偽装だろう。
御諸別も那須与一も箔を付けるために後付けしたのだろう。

龍を奉る氏族はどこから来たのだろうか。

689 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:25:42.04 .net
武蔵南部の大都会江戸の二百石の御旗本は馬を持ってないのに
武蔵北部の秩父あたりの本百姓は普通に馬を飼ってた

江戸時代はそんな時代

690 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:38:20.37 .net
首都圏の駅近くに住む我が家には駐車スペースすらないのに、
車持氏の子孫である群馬県民は免許取得年齢に達すれば一人一台が当たり前である。
しかも、100メートル先のコンビニに行くときも車を使うのである。

県民性ってやつだ。

691 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 18:43:01.86 .net
東京23区と同じ広さに人口2万人ですが車がないとなにもできません
遊楽地にいこうと思ったら100キロメートル先です

692 :日本@名無史さん:2014/11/15(土) 19:50:05.48 .net
さすが車持氏

693 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 12:20:25.19 .net
下毛野の高神社に相当する上毛野の神社を調べてみると雷電神社ということになる。
この雷電神社といえば、上毛野の板倉雷神神社が有名だが、上毛野を中心にかなりの数がある。
京都の上賀茂神社の賀茂別雷神とも関連があり、賀茂族の上毛野入植にあたり、元からあった雷電信仰と習合したようだ。
ちなみに、下毛野の高(たかおかみ)の方は下賀茂神社の賀茂建角身命・八咫烏伝承にある高木大神との関係が伺える。
つまり、賀茂族と秦氏の集合体ということになる。

毛野とは、先に関東へ入植を果たしたものの、畿内の政治的混乱によって忘れられた賀茂族のことではないだろうか?

694 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 14:26:08.07 .net
両毛は鉄とれるの?
雷神は元は鉱山探索の神だよ。
奉じてた人達はのちの山師に連なる人達。
お察しの通り氏族は鴨氏。
役小角なんかもその一員。

695 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:08:09.08 .net
賀茂氏(三輪氏族)

大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。

大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族だろう。
秦氏とも関係が深く、大陸から稲作文化をや養蚕、機織りなどの先進文化を持ち込んだ弥生系渡来人だろう。

696 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:34:21.88 .net
>>694
鉄は何も鉄鉱石や砂鉄としてしか存在しないわけではありません。
みなさんは、高師小僧というものをご存じでしょうか?
葦の根に溜まった褐鉄鉱の団塊のことです。
下の記事は近江八幡ですが、豊橋市のものが有名で、
関東平野の足利の葦原からも大量の褐鉄鉱が見つかったと思われます。

http://blog.goo.ne.jp/ 高師小僧 /e/b661a1d10070832af785c020f51c5d56

697 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:36:40.52 .net
リンクが良くないようです。
すみません、高師小僧で検索してください。

698 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 15:52:41.14 .net
は?

699 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 16:43:08.39 .net
ほうれん草を食べると鉄分を感じるなあ。 ポパイになれるだろうか。

700 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 17:20:41.00 .net
>>695
なんというか、雷(いかづち)神は鴨の神であり、和邇・息長(久米族)の神であり、三輪(大神)の神であり、宗形の神であり…
という感じ。
これらはみなある意味同族っちゃ同族だから(あくまでも「ある意味」ね)。
あと、積羽八重事代主命の系譜や『記紀』での隠喩なんか読むとね。この神は鴨氏の神であると同時に和邇氏の神でもある。
理由は上と同じ。
これもやっぱり「ある意味」同族っちゃ同族だから。
高鴨(上鴨)さんは味鍬高彦根の迦毛大御神さんで間違いないけど、その異母弟である事代主命は鴨都波(下鴨)さんのご祭神だね。
上鴨、下鴨ってのは葛城での話ね。山城ではなくて。
面白いのは、この葛城の各鴨社では下照姫命と高照姫命を別神としていること。
前者は味鍬高彦根命の、後者は積羽八重事代主命の同母妹として、それぞれの神社の相殿神に祀っている。
『記紀』では下照姫、高照姫は同神と記しているけど、『旧事本紀』では異母姉妹と記している。
つまり葛城鴨三社のご祭神は『旧事本紀』の記述に準拠した配神の仕方をしているわけだ。

701 :日本@名無史さん:2014/11/16(日) 22:55:02.00 .net
豊城入彦も彦狭島王も東国へは行っていないに、
さしたる戦いもなく、御諸別王が東国に行って善政を行う下地があったのか?
それも、いくつかヒントを見つけた。
既に前の時代に三輪、賀茂族の祖先は東国入植を果たしていたのだ。

上毛野、下毛野に分かれる前の毛野が少しづつ見えてきた。

702 :日本@名無史さん:2014/11/18(火) 22:39:54.15 .net
毛野国なんてなかったらしいが。
上毛野、下毛野に別れた後の名前であって
毛野国が別れたわけではない。

そもそも日本書紀に「毛野国」は出てこない。

是上毛野君・下毛野君之始也
といきなり崇神期に700年以降の氏族名ぽんとででてくるが
崇神期の「毛野国」は出てこない。

その後に毛野国ができたかと思えば
その後は「近江毛野氏」と「上毛野小熊」の話であり
これも「毛野国」を特定するものではない

本に書いてあったが、その通りだと思った。記紀には実は「毛野国」がでてこない。
しいていうなら「東京都知事」「東京都」がいきなりでてきて、その前身の江戸が出てこないのと似てる。
非常に不思議ですが、理由は分かるかな?
東国に毛野氏の祖がいなかった記録はどうみてもない、

703 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 22:40:28.04 .net
ウィキペディア:上毛野氏

東国統治

豊城入彦命は第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている『古事記』も同様。
崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという。

垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた。
『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる。景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。
しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った。

---------------------------- 引用終わり -----------------------------------
ここにある、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられた。というところにあるように、毛野と呼ばれる地域に毛野という国があったかどうかはわからないが、15もの国があったことは確かだ。
豊城入彦は、東国へ行っていないとみられることから、15国はそれ以前から別王朝の支配下、もしくは友好関係のある国だったと見てよかろう。

つまり、崇神天皇以前の欠史八代の時代に、毛野地域(一つの国ではない)と畿内にはつながりがあったことになる。
それはいつの時代のことか、継続して調査中です。
その15国と、たかお神社、雷電神社、鷲神社、氷川神社、香取神社、鳥見神社、久伊豆神社など、神社ごとに住み分けとも関係がありそうだ。

ほかにも、他の神社と領域を棲み分けられている神社があれば教えて欲しい。それが、毛野の15国である可能性が高い。

704 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:08:43.35 .net
>15国はそれ以前から別王朝の支配下

「3世紀以前の関東独立王朝説」は考古学から完全に否定されてる
ヤマト王権発祥とともに畿内の文化が流入している。

非常に限定される最初期の古墳の石棺
「長持形石棺」が関東の太田天神古墳から見つかる
>畿内の大型古墳で多く見らる形式
>仁徳天皇古墳と同じ形式=応神と同じ

ヤマト王権以降の王朝については否定しない。
ヤマト王権以前の関東王朝については、広範囲な国家の痕跡を示すものが
見られない以上否定される。=考古学者でも誰も言ってない。

人口は多かったようだが、山岳部での縄文時代的な暮らしをしていたため
田園地帯で人口発展すると見られる「国家」がないのは人類学的にも頷ける。

705 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:12:05.08 .net
狗奴国東海説を言う学者が関東王朝があったら便利なのだが、
=東海と関東との連合で畿内と十分対抗できる勢力になりうるから。

3世紀以前の国家を示す考古学遺跡が関東平野から見つからないもんだから、
関東勢力との同盟論を諦めてるくらい。

「記紀での記述通りヤマト王権の軍団が関東に進出した」というのを否定する根拠は見つからない
文献学的にも考古学的にも見つからない。ほぼ確定。

まあ見つかってないのだろう。火炎の縄文土器だしな。

706 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:20:54.83 .net
飽きたよ、妄想は
日本書紀や古事記が書かれてからはっきりしてきたのは
火山活動の記録だ

707 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:23:07.72 .net
「関東に独立王朝があって、畿内と対抗した
それが畿内邪馬台国と関東狗奴国だ!」

というのは実に都合のいい=めんどくさい九州説を抹殺できるから
論理で、畿内の学者は目を皿にして弥生時代の関東王朝の存在を研究したが
見つからないもんだから=関東平野は遺跡の発見が山岳部に多い=弥生時代に入っても
豊かな縄文時代を満喫してて、それでよかったのが関東平野

「関東王朝」という結論に意図的に持って行こうとした畿内の学者がいたのに
関東に国家があった考古学的形跡がないため断念した
というのを知っておくべき。

708 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:29:16.15 .net
関東ローム層の形成は富士山が噴火したから

709 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:31:44.00 .net
記紀には富士山の記述が少ない
関東平野はヤマト王権が4世紀に入り侵入し

南関東と抗争して富士山まで辿り着いたかどうかというのが

三角縁神獣鏡の初期分布からみたヤマトの国々
http://blogs.yahoo.co.jp/ainomori_snow/6782929.html
これを見るとだいたい国家の形跡が分かる。

静岡から千葉にかけての南関東は
畿内の勢力との関係が薄いのが分かる。

国家がないという意味ではなく、ヤマト王権・卑弥呼以外の勢力がいたことが分かる。
ヤマトタケルの征伐はこの図から言っても筋が通ってる。
=王権の範囲が及ばない南関東を倒したという記紀通り。

710 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:33:46.65 .net
小御岳、古富士、新富士

どれも火山活動で一気にできた山

711 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 14:41:46.73 .net
記紀や風土記には富士山の記述が確かに少ない(少ないどころか記紀神話には記述ゼロ。あれほど目立つ霊峰なのに)が、
反対に日本武尊の関東や日高見(東北地方)までの遠征譚などもっと東方、北方への記述は普通になされている。
これは記紀編纂当時、どうも富士山山麓地域が触れてはならない、あるいは触れにくい(書きにくい)事情があったことが推察される。
『竹取物語』なんか読むと、間接的にそのあたりの“事情”を物語っている可能性があるように思う。

712 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 21:57:39.69 .net
上毛野、下毛野は大和朝廷が小国をまとめて国にしました。
関東には大きな国はなく、小国が分立して共存共栄していたと思われます。
湿地帯には人が住めず、人類学的にも無人地帯でした。
毛野氏の祖先は関東周辺の扇状地や微高地で細々と暮らしていたのです。
遺跡と呼べるものはほとんど残していません。
あなたのおっしゃる通り、未開の荒野だったのです。

713 :日本@名無史さん:2014/11/21(金) 23:44:16.41 .net
国家というと、国会議事堂があって、衆議院解散して国民に信を問い合うとか、
税制があって国民から租庸調を取っていたとか思っている人ごくろうさんです。
実は、王がいれば国家なのです。社会制度なんてなくても良い。ただそれだけ。

714 :日本@名無史さん:2014/11/23(日) 14:26:05.43 .net
>>712
そのような古代国のひとつ毛野国が、何のために出羽方面に進出?
侵略?し植民したのか?
103 :日本@名無史さん:2012/02/08(水) 10:27:30.41
・・・・・・・・毛野氏の北関東〜出羽方面への進出も絡めて。
古代の関が原 関東の東西戦争
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284125193/-103

715 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 12:26:47.47 .net
会津の山の中、福島県河沼郡柳津町の石生前遺跡(いしゅうまえいせき)という大規模縄文遺跡があることをご存知でしょうか?
この地域で出土した火炎式土器は、翡翠の産地 越国姫川上流や宮城県の大木囲貝塚などの縄文集落とも繋がりにあったとされています。

四道将軍大彦命とその子東海道将軍建沼河別命が出会ったのが会津ですが、遠征の目的はこの柳津の縄文国を挟み撃ちにして攻略することにあったと思われます。
この河沼郡という地名は、建沼河別命を連想させる地名です。
それと石生前という地名も、兵庫県高砂市にある巨大な石造物を神体で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)との関係が気になるところです。この神社の祭神は大穴牟遅命、すなわち大国主大神です。
生石神社(おうしこじんじゃ)と大彦(おおひこ)が似ているところも気になるのですが、偶然でかもしれません。

716 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 13:43:29.36 .net
生石神社は物部の祖宇留命を祀るために弓削大連守屋が神殿を建てている最中だったのだが、蘇我との戦いに敗れてしまったため中途で終わってしまった。
本来なら巨大な石の神殿が出来ているはずだった。
石は物部の象徴だから。
石上、石鎚、石切、石作連、そして生石…

717 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 13:53:32.67 .net
大彦命は父がオホヤマトネコヒコクニクル、母がウツシコメだから父方和邇、母方物部だねえ。
物部というのは本来製鉄氏族の総体だから和邇も実は物部。
そこから派生したんだから安倍(オホビコ、タケヌナカワワケ父子)もざっくりいうと和邇だね。

718 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 14:02:15.07 .net
補足を。
オホヤマトネコヒコクニクル
根子+彦+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc)。
姫川のヌナカワは、タケミナカタトミの母と言われるヌナカワヒメとの関連が気になるな。
場所柄、渡来系の可能性も考えられる。

719 :日本@名無史さん:2014/11/24(月) 14:09:54.81 .net
訂正
オホヤマトネコヒコクニクル
根子+彦+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → ×


オホヤマトネコヒコクニクル
彦+国+個人名
というのは和邇氏の名前の中でも典型的なモノね(ヒコクニオシヒト、ヒコクニブク、ヒコクニオケツetc) → 〇

720 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:39:54.75 .net
ワニ氏は分かったけど、関東と何の関係が?
鹿島神宮と関係?

ぶっとんだレスされても困るわ。

721 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:47:34.17 .net
物部は独立王朝だったが、AC300くらいにヤマト王権に降伏したから
最初は部下だったんだよな。
だから最初に関東にきた勢力の中にいてもおかしくない。

でもやっぱり部下でしかないので、物部は茨城方面で
ヤマト王権の毛野氏は要地の北関東を治めたと。

支配関係はヤマト王権勢力の毛野氏が上位だな。
譜代大名が北関東周辺、外様の物部が茨城あたりってことだな。

722 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 16:49:29.87 .net
物部の先祖はニギハヤヒで、神武に降伏したとあるので、
支配関係は毛野氏の方が上。

だから、これは俺の仮説じゃなくて事実。毛野氏の北関東が王様で
香取の物部は部下

723 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 17:04:07.12 .net
まぁ〇世孫の御諸別ってのは後年の平氏みてぇなモンだなw
平忠常(笑)

724 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 17:55:27.80 .net
侵略されてないから温存されてますね、
兵の動員命令もあるから軍事力が形骸化することもない。
そもそも蝦夷は倭国最強の兵なので
そいつらと四六時中戦ってた毛野氏がただの官僚集団とか小領主とかねーわー

結局毛野氏最強説は変わらんね。
ろくな反論がない。

725 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:20:22.33 .net
関八州の内の陸奥国ができたのは大化の改新のころになるわけですから、北関東の王様という地位は存在しなかったのではないでしょうか。
那須氏や岩城氏は、陸奥方面の国造も兼務していたわけですから。689年頃まで。
また、何よりも常陸の国の北の境界が分かりません。

726 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:33:29.81 .net
まあ一応、日高見は甘し国討ち取らん
といった武内宿禰がいたり、日本武尊の東征が『紀』では「日高見国」まで進軍し敵方を降伏させ、とはあるが。

727 :日本@名無史さん:2014/11/25(火) 23:29:27.46 .net
>>720
相模や陸奥牡鹿半島に和邇氏系氏族の丸子連氏が根拠地を築いていたり(牡鹿半島は当時倭人の最北端進出地だったのだろう)、あなたも指摘する環香取海氏族の存在も、陸奥一宮塩竈神社の奉祭氏族も和邇氏の東国への進出によるものの痕跡だと考えている。

728 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:00:28.52 .net
崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫
崇神天皇-ヤマトタケル-神功皇后までの間に皇族が現地に入り入植している
神功皇后の時代には既に坂東武者の祖、毛野氏族らは関東に巨大な都市と軍を形成していた
それが源氏の繁栄につながった

729 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:06:19.78 .net
>>724
香取海の流通網に掠りもしないで最強説はありえない。これが事実。

730 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 00:18:29.44 .net
>>728
どこのパラレルワールドですか?

731 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 08:30:56.30 .net
陸奥国一宮神社は、大和政権勢力の北上に伴って次第に北上していった。
最初の元々の陸奥国一宮神社の所在地は、今の福島県棚倉町である。
当時は白河国で国造は那須氏であった。

732 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 09:55:58.50 .net
宮城県多賀城遺跡研究所による奈須直廣成の解説は続いている。
宮城県の人は最近まで陸奥国における那須氏の治績を知らなかったようだ。
私には、どうでもよいことだけれども。気になる人には、気になるようだ。

733 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 14:04:29.87 .net
そういや山内氏が奥会津に進出してるな。
那須国造→守部(美濃国席田郡司)→佐藤(秀郷流藤原氏嫡流)→首藤(首馬主佐藤氏)→山内首藤(相模国鎌倉郡山内荘荘司首藤氏)
の流れ。

734 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 15:26:24.96 .net
婿養子を取るとは。
猿田氏や芦野氏にも男子がいなかったのかなあ。普通は身内から選ぶような気もするけれども。

735 :733:2014/11/26(水) 16:23:18.59 .net
出羽の小野寺氏もこの流れらしい

736 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 18:18:44.27 .net
寒くなると鍋の中のハタハタも格別だなあ。出羽名物

737 :日本@名無史さん:2014/11/26(水) 21:35:53.22 .net
この時代、つまり、ヤマトタケルに象徴される大和政権による東国遠征で征服された地域は、縄文文化の中心地。
これが大事。

738 :日本@名無史さん:2014/11/27(木) 21:49:49.13 .net
方々の弥生文化の中心地ではないでしょうか。平定後には徐々に古墳時代へと移行したと思えます。

739 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:04:34.94 .net
東国遠征は東国弱体化だろ。
なにしに奈良の連中が来るの?って感じだわ。

しいていえば、人様の家の台所にあがって肉を取り出して
焼き肉して食い散らかして、そんで税金を要求するのと同じだな。
東国が勝手に緩い自治してたのに畿内の連中のタカリがおそってきたというのが
東国遠征

毛野氏はすでに東国勢力との話し合いは済んでおり、
ものすごい緩いが、広大な自治区を東日本一帯に構築していたが
それをタカリの畿内のハゲタカが襲ってきたという。
そんで兵士を東国の毛野氏に出させるなど、まさにひどい有様。

毛野氏・東国同盟の弱体化政策だろうね。

740 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:07:06.55 .net
ローマの政治技術に
「蛮族は分断して統治せよ」とある。
東国同士で戦乱をさせて、毛野氏に侵略者の兵士をさせて
恨ませて、蝦夷を反発させて共同統治国家の東日本を分断して弱体化させのが
7世紀以降の東国遠征

あとただのタカリ

741 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:12:06.84 .net
天武期に東国勢力=おそらく主力は毛野氏
により畿内がたやすく滅んだのを見て
7世紀以降はすげー警戒されたんだろうな。
「分断して統治する」ことを外国の資料から学んだんだろう

まあ見事に成功して蝦夷と結びついてた毛野氏は分断されて弱体化したわ。
そんで皇族の武力の根源であった東国を滅ぼしたことで
畿内も弱体化しておしまいとw

742 :日本@名無史さん:2014/12/02(火) 01:57:56.25 .net
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
直心影流島田派 豊後中津藩士(大分県)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県)
甲源一刀流・比留間派 武蔵梅原の富農(埼玉県)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
香取神刀流 常陸笠間藩士(茨城県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)

743 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 14:26:01.04 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

744 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 21:47:04.22 .net
この前、会津に調査に行ってきたのだけれど考えがまとまらない。
四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか?
もしかして会津は大彦の故郷なのではないだろうか?という妄想まで湧いてきた。
縄文文化の中心地はみんな盆地で、おそらく九州から青森まで繋がっていたのではないかと思われるのです。
なにせ、縄文時代は1万年もあったわけだし、冒険好きの縄文人が次々と探し当てた盆地に移り住んだはず。
アルピニスト野口健、宇宙飛行士野口聡一、マラソン金メダリスト野口みずき、そして、野口英世博士。
野口、ノロ、下呂(ケロ)、毛野、全部、縄文人のシャーマンのことではないのだろうか?

745 :日本@名無史さん:2014/12/04(木) 22:13:52.60 .net
>>695
>毛野は 、三輪系の氏族が賀茂を賜姓される以前に分岐した氏族・・・・・・
新説ですね?根拠文が見当たりませんが、、何なのか追記願えませんか。
賀茂を賜姓と言われるのは、君姓-->朝臣姓賜姓の誤記ですね?

>弥生系渡来人・・・・・・・・
意味不明ですよ。百済系とか伽耶系なら理解できますけれど、弥生系?

746 :日本@名無史さん:2014/12/07(日) 12:52:17.97 .net
>>744
>四道将軍大彦はなぜ会津に遠征したのか・・・・・・・・・・・・・・・・・
紀崇神天皇10年段に目を通していないのかね?「服従せぬ者は、
討伐せよ」という勅命に従ったのだよ。畿内を制圧したので、
畿外を制圧すべく。尤も下命半年後には、帰還しておるがね。
云うまでもなく大彦は、畿内の一画統治王孝元天皇の子と
されるから、会津生まれなどありえない。
   九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、
   丹波道主命遣丹波。因以詔之曰 若有不受教者、乃舉兵伐之・・・・・・・・・

747 :日本@名無史さん:2014/12/07(日) 20:46:41.14 .net
>>709
>静岡から千葉にかけての南関東は
>畿内の勢力との関係が薄い・・・・・・・・・・・・・・・
薄いどころか関東地方は、稲作文明の伝播が本州で最も遅れた
未開不毛の地だったらしい。
19 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/28(金) 22:02:36.94 ID:9rVO+etL0
・・・・・3000年前の富士山噴火で関東平野の縄文人は激減した。
弥生文明の稲作は北九州→近畿→中部ときてここで日本海経由で
青森まで北上し、太平洋側を南下一番最後に関東平野に到達した。
つまり、弥生文化は関東より東北の方が早かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【歴史】DNA分析で縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明 我々の祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのかc2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1417179097/19-

748 :日本@名無史さん:2014/12/24(水) 22:47:43.35 .net
あの辺りの人は毛野とは関係が薄い。
毛が薄いってことですね。
わかりますわかります。

749 :日本@名無史さん:2015/01/15(木) 23:42:20.65 .net
いんや。
尾張と毛野の支配地域は関係が深い。
東国の毛野を侵略するための前線基地が岡崎辺りにあった。
宇頭には五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)の墓といわれる和志山古墳がある。鷲宮だ。
『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子だ。
景行天皇には、80人の子供がいたといわれており、ヤマトタケルとは異母兄弟。

750 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:08:35.71 .net
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側

▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48

751 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 23:14:40.65 .net
毛野氏も皇族だが、白村江の戦いで、上毛野君が築紫君やらの他の皇族を配下に
している時点で、相当な皇族だし武力もあったよ。

752 :日本@名無史さん:2015/01/25(日) 18:17:39.49 .net
>> 744
大彦命は、そもそも畿内政権とは独立した王権だったと思うね。
胡志王=大彦命で、越の國の王だったというのが正解じゃないかな。

ただし、雄略の時代までに、なんらかの形で畿内政権に取り込まれていると
考えられるので、畿内政権の先駆として、「みちのく」の開発にあたった可能性は否定しない。

こう考える理由は、稲荷山鉄剣銘文で、オワケ臣が、自らの祖先を大彦命としているから。
もし、孝元天皇が実在して、大彦命が、その子だったとしたら、オワケ臣は、自らの出自を
孝元天皇に遡らせるはず。

また、四道将軍の武渟川別が、東海道の将軍となったという点についても史実かどうか
一考すべき点があると思う。

この将軍の「ヌナカワ」というのは、糸魚川あたりの翡翠産地の地名のはずで、やはり越の國
に関わりが深い人物と考えるのが妥当だと思う。

もし、記紀のとおり、この将軍が東海道を支配したとしたら、それも畿内政権から派遣されたというより、
大彦命の配下で東海道を支配したと考えたほうが自然だと思う。

こう考えると、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣が出土したオワケ臣が、大彦命の子孫でありながら
関東にいた理由も理解できる。

753 :752:2015/01/25(日) 18:56:12.38 .net
すまん。
そもそも、武渟川別は、大彦命の子と記紀に記されているわけだから、「また、四道将軍の武渟川別が…」
以降の文章は自明だった…。

754 :日本@名無史さん:2015/02/06(金) 17:55:47.78 .net
田道将軍のお札
人物も兵船も、なかなかかっこいい。ただし今このような図柄を一万円札に施したなら、
半島の方で発狂するだろうな

755 :日本@名無史さん:2015/02/06(金) 20:12:55.54 .net
アイヌと縄文の関係の証拠
ニール・ゴードン・マンロー『先史時代の日本』
http://tresi-nonno.blogspot.jp/2012/06/blog-post_15.html?m=1

比較で私は、日本の貝塚の頭蓋とアイヌの頭蓋の同一を確立して、それらが同じストック
であるという結論ヘ導かれた。小金井教授(今その方は私の標本の調査をしています)は、
私のために第2番頭蓋と或るアイヌ頭蓋の輪郭を親切に描いてくれました。私はその輪郭
を図420に置いた。2つの分離された頭蓋の比較、それは理解されるであろう、実例で単に
作られた。

図420 横浜市三ツ沢貝塚から出土した頭骨とアイヌ頭骨
http://2.bp.blogspot.com/-mL7QoD2Ihjs/T9vfny4AC8I/AAAAAAAAAFA/jbBsU8mTa2A/s1600/15xweb6.gif

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