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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

80 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 11:56:33.27 .net
但木土佐殿には気の毒であった

81 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 15:19:19.16 .net
奥羽越列藩同盟には水戸藩の市川三左衛門率いる保守門閥の諸生派も与して慶応四年春から越後方面で本格的な戦闘を開始していた。一部は佐渡に渡って軍資金を求めたが果たせなかった。
やがて水戸城が手薄なことを知った市川等と長岡藩約百名を加えた総勢五百余名は、会津の陥落直前に、「勝機到来ぞ、今こそ手薄な水戸城を奪還して佐幕の兵を関東に挙げようではないか」
と叫びながら南下していった。長岡藩兵は銚子から、願わくは仙台に向かう意向だった。しかし銚子では、飛び地として高崎藩兵が護衛していた。もっともこの時には、仙台藩は、すでに新政府軍に
降服していた。長岡藩兵も白旗を挙げる。 なおも水戸藩諸生軍は、抵抗を続けようとしたが八日市場あたりで壊滅した。しかしここでも市川三左衛門は逃走。今の東京都港区三田の娘の嫁ぎ先で
ある宝生院や剣術指南役宅などに潜んでいたか、やがて水戸藩関係者によって逮捕されてしまった。    宝生院には都々一坊扇歌の妻の墓所でもあった。

82 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 15:35:33.61 .net
北島 秀朝(きたじま ひでとも)旧姓・益子。
益子氏の本姓は、下野宇都宮氏を支えた紀清両党の紀氏だ。
その子孫が出雲国造家北島家の養子となり、東京遷宮に関わった。
下野宇都宮氏と言えば、祟神天皇、豊城入彦、下毛野氏の流れを汲む東国の支配者の正統。
古代の神武東遷も出雲の国譲りによるもので、裏のそのまた裏で日本を動かしているのは出雲国造家なのだ。

83 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 16:26:43.54 .net
北島家の養子になったのは事実、しかし京都には、既に北島家は無かった。これは岩倉具視の権謀術策か。あるいは当時、名前を変えるとは護身のためであった。単純に、その理由と思える。
元、東山道軍大監察の北島の妻は、江戸は浅草下平右衛門町三番地の松岡蒼造の妹である。最早、旧家としての北島家の痕跡は何もない。

84 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 16:46:01.83 .net
北島は、源頼朝や藤原秀郷に憧れていて秀朝というカッコいい名前にしたのであろうか。何となく気になる。

85 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 18:56:49.08 .net
>>79
毛野氏は百済を支配してたのに何をいまさら・・

左翼のせいで毛野氏の朝鮮の300年統治が教科書に書かれなくなって残念だね。
徳川や秀吉すらやってないし、源氏も平氏もやったことがない海外遠征・海外統治を
毛野氏はやってたわけで

毛野氏を過小評価しすぎた時代は終わるべきだろう。
「レベルが違う」氏族です。

86 :日本@名無史さん:2014/09/13(土) 22:54:50.73 .net
パクリ
http://livedoor.blogimg.jp/inumenken/imgs/b/a/ba83a44f.jpg

パクラレ
http://livedoor.blogimg.jp/inumenken/imgs/4/9/499d2b9b.jpg

パクリ。ひきこもりのバカ。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/11704718.html

87 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 07:07:37.26 .net
前橋から霞ヶ浦の西側 筑波山までの平野部が毛野氏の領地かな。
霞ヶ浦から千葉の下側ラインは違う。

これだけの平野部というと名古屋平野全域
大阪・奈良・滋賀の平野部全域と互角以上

平野面積だけ見ても古代毛野氏には恐ろしいまでの軍事力があったと思われる。

88 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 07:11:56.39 .net
畿内が信長 東国が家康の関係でもないな
信長はいざとなれば家康を滅ぼせるが

防衛側が有利なことを考えると
毛野氏を滅ぼすのは畿内全力+名古屋でも軍事的に不可能でしょう。

畿内と東国の関係は思った以上に緊張感があったのでは?
というか、毛野氏は滅ぼせないわけで、独立地域だなこれは。

日本はアメリカを滅ぼせないし、アメリカはできるが、
両国は同盟してるのと同じようなもんか
パワーバランスがおもしろいな。

89 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 07:18:20.15 .net
崇神が「豊城は今後 東国を治めよ」
と言ったのは文字通りそうなってたわけで

畿内の支配権認定とかでもなんでもなく、純粋に独立地域と化していたようだ。
毛野氏は朝臣にすぎないが、52朝臣の中では完全に別格だな。

筆頭家老ですらないな、「同盟してやっている」だけの関係。
末期の秀吉政権の中での家康と同じポジションか。もっとすごいか。

畿内政権が日本すべての軍事力を動員すれば理論上は毛野氏を滅ぼせるが
天智が九州に無視されたように、地方が必ずしも畿内の天皇に完全に従い、
十分な兵力を出兵できるとは思えず。

秀吉と家康の関係よりひどいかも・・

畿内に東山道直結でけっこう近いから毛野氏側からの侵攻は可能なのな。
関ヶ原をいつでもおこせたのが毛野氏か。

90 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 07:25:26.55 .net
戦争するには理由がいるから
必ずしも軍事力が畿内より数倍あるからといって勝てるわけではないが。
(なんで戦うの?と家臣に疑われる)

いつでも畿内を滅ぼせる毛野氏だったが=武田信玄の比ではない
たまたまやらなかっただけですね。

300回くらい畿内を滅ぼせる可能性はあったのでは? 逆はないけどな

91 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 09:34:48.58 .net
毛野は部族ではないので毛野氏は滅ぼせない。
当時の毛野はトヨタと三菱商事と日本郵便と専売公社とセブンイレブンを合わせたような東日本を牛耳る巨大組織だった。
つまり、武器や農具など鉄製品、海産物や塩と酒といった必需品の生産、物流に加え、通信、小売まで支配する巨大コンツェルンだ。
しかも、関東の主要道路沿いには毛野の拠点が2、3キロ毎に置かれていたし、関東以外にも支店網があった。
中仙道や東海道の主要宿、そして近江に一大拠点があったし、遠く九州、任那(恐らく、木浦付近)にも広がっていた。
白村江の戦では5万の兵を動員する力はあったが、政治、軍地面では表だつことを嫌ったようだ。
毛野には総帥はおらず、重要事項は合議で決めており、中央集権ではなく、アメーバーのような有機体組織だったのだ。
東国の六腹と呼ばれる有力氏族も、毛野を構成する大親分の一人にすぎなかったし、毛野が長い歴史の中で培ってきた習慣を無視するものは徹底的に排除された。
徳川家康は、毛野の伝統や既得権を認めることで東国の政治や軍事面での支配を認められたのだ。
つまり、士農工商は徳川の支配下にあるけれど、それ以外の 穢多(えた)、非人は浅草団左衛門等の 穢多頭や各地の大親分、
僧侶は各寺院、神官は各寺院が支配する権利の二重構造があったのだ。

92 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 09:56:54.17 .net
海なし県の群馬+海なし県の栃木+海なし県の埼玉

海なし毛野国

毛野国は海を確保すべく、海を求めて南下政策をすべきだろう

93 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 09:57:34.29 .net
邪悪な海あり県を軍事力で平定すべき。

94 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 10:03:22.22 .net
奈良の崇神
近江の毛野氏
群馬栃木の毛野氏

たった8県しかない海なし県をまたがって生息している

海のない8つの県
http://www.benricho.org/chimei/nairikuken/

まるで海を狂犬病の犬のように恐れていたような毛野氏だな。

でもいざとなったら朝鮮を平定している。
よく分からんが、海なし県>>>海あり県らしい。

海に面した地域は邪悪な県民性を発揮するのかもしれない。

95 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:17:29.22 .net
>>94
長野や山梨、甲斐武田や上杉も殿様はともかく主要な将は毛野の血を引くものたちだろう。
上杉は、その後やはり盆地の米沢に移った。
盆地好きの伝統はヤマトタケルの頃にすでにあった。

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠 (やまこも)れる 倭しうるはし

これは縄文人の生活に適した場所だったと言うことで、海賊に襲われないし、大津波も来ない。
長く1万2千年も続いたのは盆地の気候が比較的安定していたからでもある。
そして毛野の居住地は、更に古い旧石器時代の集落跡とも重なりそうだ。

96 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 11:23:03.26 .net
>>60
なぜ硫黄島を守ったのが九州?
鹿児島の硫黄島(いおうじま)と東京の硫黄島(いおうとう)を
取り違えていないか?

97 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 13:24:11.45 .net
バングラディッシュは雨季になると国土の60%が水に覆われる。高台だけが浮き島のように取り残され、人々はそこで暮らす。
学校も船の中にあって、高台の島に子供達を迎えに行って授業をし、学校が退ければ島々に送り届ける。
関東平野の渡良瀬川周辺も河川工事が進む前は同じような風景だったと思われる。
毛野は雨季にも水没しない狭い高台に暮らしていて、古代の道路も住居跡も舌状台地と呼ばれる長く突き出した固い地層の上に作られた。

↓バングラディッシュの雨季 、水煙湧く土地

http://ord.yahoo.co.jp/o/image/_ylt=A3JvcouvFhVURi8ApIiU3uV7/SIG=131ivuiop/EXP=1410754607/**http%3a//image.space.rakuten.co.jp/lg01/48/0000316848/67/img462ac8fczikczj.jpeg

↓東京亀戸の大洪水、近世

http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/w0001-5000/w4076.jpg

98 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 17:42:17.46 .net
日本の首都は群馬か奈良にすべきだろ
毛野氏は海外遠征しまくったせいか、
海外からの侵略にも怯えていて
それで内陸部を重視してたわけだな。

「沿岸部がやられている間に対策をうてる」からな!

東京が首都なんて韓国の首都を釜山にするような愚かな行為ってことだな。
一瞬でやられるじゃん。

バカ徳川様は海に面したところを首都にしたくせに
海からの侵略で一発で終わるとかマヌケもいいところ

毛野氏は海外遠征の経験が豊富なので、海に面した地域の防衛の脆弱性をよく理解してたと。
やっぱり毛野氏は総合的に徳川より遙かに上だな。

99 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 20:20:41.36 .net
歴史街道を行く  群馬編
私が初め群馬の地に足を踏み入れたのは、平成二年頃の社内旅行であった。サファリーパークという動物園に行くことになった。車の中から見る百獣の王ライオンは少し眠そうな感じはしたものの野迫力満点であった。
旅行から戻るとテレビや新聞で飼育員がライオンの餌食になってしまったという報道があった。ライオンの前では油断大敵であると肝に銘じた。  そのころであろうか、東京は目黒駅西口の中華料理店で昼食を取った
ところ、カウンターの隣の席では、何処かで見かけたことがあるよう方がごく普通のラーメンを頬張られていた。私も何か麺類を注文している。食事を終えて店から出ると同僚から、あの方は司馬遼太郎だと教えられた。
何でも近くの杉野女子大で教鞭を執られていたということで同僚な話では、「時々、この辺にも出没される」ということであった。私は、いききなり十か所位の歴史街道を行く旅をおえたような気分になったものである。

100 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 20:58:23.08 .net
海なし県の方が外的の侵略に対して防衛できる

・そもそも都市部が海から遠いので地理的に何もしなくてもある程度の防衛になる。艦砲射撃も不可能
・「海は恐ろしいもの」という発想の下で、海をそもそもの侵略者とみなしている

海有り県は海があまりに目の前すぎて、「海は海水浴をして楽しむもの」という間違った判断をしてしまう。
→海有り県ほど海岸線の防衛に関して完全に無頓着(徳川幕府は江戸湾にありながら、黒船までお台場防衛を一切してこなかった)

海がない内陸部では「海は邪悪なおそろしいもの」という「正しい判断」をしているので
防衛ラインを内陸部の山間部にひきやすく、それ自体が外的の侵略に対して絶大な効果がある
→黒船なにそれ? 見えないしw

この「海はおそろしい未知なるもの」という内陸人特有の発想が
ペリリュー島の防衛に向いていたのであろう。

フィリピン・サイパンで海岸線で無様に玉砕したのに対して
内陸人はそもそも「海は怖い」ので山城を築こうとする習性があり
「海は楽しむもの、おもしろいもの」という誤った発想の連中が負けまくるのに対して
アメリカに対して内陸人は唯一猛攻を行い、イーブンに持ち込めたのである。

海なし県こそ首都に向いているのはこのため。
・そもそも津波なんて赤城山までこない
・外人が侵略してきても「沿岸部の尊い犠牲」によって時間を稼げるので 防衛ラインを構築できる。

海あり県の発想は海外からの侵略に対して非常に脆弱なのは津波被害をみても分かる。

101 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 21:01:04.97 .net
海あり県の県民性はマヌケで無様の連続であり、任せられない。
日本の首都は今後群馬・栃木にすべき。

千葉や神奈川や東京は海外からの攻撃にやられやすいので
「やられ地帯」でしかないので内陸部に首都を遷都すべきだろう。

102 :日本@名無史さん:2014/09/14(日) 22:15:56.53 .net
平成になったばかりの頃に首都機能の移転先は、那須地方が有望ということで、どこかの役所まで行って、取り纏められた資料を受け取ったりしたもんだ。
当時の青島都知事は、首都機能の移転には断固反対しますと頑張られていたので。私は、「首都機能の移転には賛成します」という葉書を送付したところ、
青島都知事の直筆で、「貴重なご意見有難うございます。今後の都政にご参考にいたします」という返書が届いて驚いたことがある。

103 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 07:52:09.36 .net
スコットランドが独立するかもしれない
毛野国も独立しよう!

104 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 07:53:32.30 .net
群馬・栃木・埼玉は連合を組んで独立すべき。

秩父一揆程度ではなく独立運動をすべきだろ。
日本の首都を群馬にしない限り、毛野国独立を撤回することはできない。

105 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 08:51:14.20 .net
群馬は100%ない。榛名山や浅間山が火が噴きそうだ。阿蘇や桜島のある九州もない。
那須と筑波周辺の争いとなるであろう。

106 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 10:03:32.26 .net
内陸の山の中の毛野氏の方が徳川よりも海外に行きまくってるのがおもしろいなー

家康は「朝鮮にも東北にすら行ってない」
家康は「中国軍と戦ったこともないし、東北で戦ったこともない」

鎌倉北条の活動範囲はごく狭いし、元寇で戦ったのは九州・西国の武士団であって
元寇で東国が何してたのか分からん。
偉そうに命令してただけでは?

時宗が九州で戦ったわけでもないしな。口だけ番長で九州が戦って血を流したわけだろ。

海すらない内陸の毛野氏の方が活動範囲が徳川や北条氏より遙かに広いのがおもしろい。

107 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 11:07:46.21 .net
毛野国は、香取海に面していたのではないか。

108 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 11:48:36.66 .net
確かに香取海勢力(鹿島、香取両神宮を奉祭)と、両毛の勢力(つまり元は毛野氏に源流)とは古くから繋がりがあるっぽいな。
鎌足は鹿島の出だし、息子の不平等は毛野(車持)氏が母系氏族だ。
また、藤原秀郷は母が鹿島氏(大中臣貞忠に比定する説あり)。
将門の与党に藤原玄明というのがいて、別名が鹿島玄明とも名乗っていた。玄明もその名と根拠地から、母系氏族はおそらく鹿島神宮宮司家・大中臣氏の一族であり、秀郷とは母系で同族の関係にあったのだろう。
さらに、その秀郷の父・藤原村雄の娘(つまり秀郷の姉妹)が、常陸平氏・平国香と婚姻している史料がある。つまりこれによると秀郷と貞盛は従兄弟同士ということになる。
平将門の乱はこれらの姻戚関係が複雑に絡み合い、土地の利権関係などが一筋縄では行かなかった結果起こったものなんだろうな。
さらに、上で誰かも述べているように、伊達氏も、常陸と毛野に跨る前史を有しているようだ。

109 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 11:51:22.84 .net
>>108
一筋縄では行かなかった結果

一筋縄では行かなくなった結果

110 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 12:49:27.40 .net
>>106
他氏族貶してまーた逆に毛野氏sageやってんのかよw

111 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 13:32:57.71 .net
上毛野、下毛野、武蔵、相模に別れる前の毛野には、太平洋岸から内陸部の上毛野、下毛野に通じる道は幾通りもあって、西から、
1.平塚市の相模川を真っ直ぐ北上する西の国境線ルート。ここは相模国なってしまった。
2.三浦半島城ヶ島ルート。ここは、神津島の黒曜石積み出し基地でもあったが、武蔵国になってしまった。
3.葛西、長島ルート。ここは、古地図で見ると分かりやすいが、将門の本拠地葛飾郡の南端にあたる。
4.船橋、太日川ルート。ここが最重要ルートだ。上毛野の軍港といっても良い。
その他1.霞ヶ浦、美浦村付近。 全国を代表する縄文遺跡である「陸平貝塚」があり、古代の食料基地だった。
その他2.水戸、ひたちなか。那珂川と中臣の中は同じだろう。
鬼怒川の向こうは異国だが、敵対していたわけではなく、交流があった。

112 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 14:13:46.96 .net
>>111
考古学的知見からすると、所謂後の毛野国圏内の古墳というのは
いつ頃より発生しはじめかつ、築造年代的にはいつ頃が最盛期だったのかな?
御教示頂けると有り難い。

113 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 16:21:36.36 .net
「これは今時珍しい掘り出し物ですよ」と口八丁手八丁に話す商人に聞いてくれ。   東国は西国よりも遅く、那珂川西岸の那須国の全方後方墳等の築造は、4世紀後半みたいですよ。
毛野国は、那須国よりも少し遅いのではありませんか。 

114 :112:2014/09/15(月) 17:09:20.99 .net
栃木県真岡市の「大前神社」、この社の祭神は当初から
大己貴命(大国主命)、事代主大神だったのかな?
どなたか同社にj詳しい方の知見・見識を巡りその詳細を
御教示願えたら幸いです。

115 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 18:52:34.59 .net
毛野氏である伊達氏が慶長遣欧使節でスペインと海外交流しようとしたのは
毛野氏の海外へ向けての発展性を示すものだろう。

徳川や北条は国内どころか関東のローカルな活動に止まったただの田舎者。

毛野氏は関東にとどまらない国際的な武士団である。

116 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 19:07:43.27 .net
>>114
神社の祭神はその地域の豪族と関わりがある
=豪族が自分の敬う祭神をかかげるために神社をつくるため

大前神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE

芳賀郡周辺の遺構は中村廃寺がある
瓦はあまりみつかってないが、軒丸瓦は単弁・複弁がある典型的な
白鳳時代の瓦で、群馬各地・畿内でも見つかっている。

下野だから下毛野氏が関係しているとみてよい。
毛野氏である宇都宮氏関連ではないかと思うが、
祭神からはアマテラスやオオクニヌシなど「ごくありふれた祭神」しか出ないので
何とも言えない。

後の時代に祭神を「一般的なものに」変えた可能性もあるが
社伝の記録は創建時のことについてはあまり書かれてない。

豪族の解明のために真岡市の歴史を古墳時代から詳しく調べないといけないだろう。
がんばってな。時間があれば六国史を調べておく

117 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 19:18:47.01 .net
>毛野氏は関東にとどまらない国際的な武士団である。

詳しくは武士団の定義からは外れるけどな。

武士は公家=摂関政治ができるときに分離された雑用係で
元は皇武は一体のもの。

たとえば神武や崇神や応神とその兵士どもが武士団かと言われたら「そうじゃない」わけで
神武や応神は武士団の統領でもない。

学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」
が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○?
しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。

武力が権力から分離された藤原氏以降=摂関政治時代しか扱わないようになっている。
臨時任命とも違う。

「武士団の前の武士団」をなんというのか分からないし、間違っているが
暫定的に「毛野氏は武士団」としておく。

というか「独立国」とすれば、国家ならば当然国家独自の防衛力=軍事力を内包するわけで
「毛野国は完全な独立国」というのが最も妥当か=独立国でも軍事行動を畿内の政府ととってもおかしくない
=リムパック演習は総勢22ヵ国が参加するが、それぞれが家臣や部下という関係でもない。

毛野国が畿内天皇家と軍事行動を取っても全然おかしくないし、「畿内主導」でも東国の独立性は変わらない。

118 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 19:29:33.73 .net
>学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」
>が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○?
>しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。

「毛野は独立国」だが、「独立国が日本各地にあった」
とすると「畿内主観の統一国家大和」の観点から外れるからあえて取り扱わないのかもな。
(武士団は出自からして臣従関係が公家以下だったが=それに反発したのが武家政権)

わけのわからない構造の武家政権と違って古代豪族の毛野氏は独立性がかなり認められるので
「独立国で畿内と同盟関係」だったというのがもっとも正確
本質的に主従関係が分断されている。
「そうは言っても家臣が出自ではないか」という反論があるが
豊城入彦命に限っては「そもそも家臣ではない」ので「畿内の並立関係」にある

そもそも豊城は「垂仁の兄」なわけで 長兄優位の後世の価値観からすれば
「畿内は弟の国」だろ。
かつ軍事力についても豊城系統の方が最初から畿内を上回っている
=畿内の反乱の鎮圧をまかされている。

"出自からして家臣ではなく"、"その後も家臣になった覚えはない"。
毛野国が占領されたこともないし畿内に合戦で負けたこともない。
しょぼい合戦で緑野屯倉を渡しただけ=国境紛争があった程度
武士団でもなく家臣でもない。

これを定義する言葉は「毛野国は独立国である」としか言いようがない。

119 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 19:45:50.78 .net
「毛野は独立国」であるので独自の軍事力と指揮権を有する。

畿内が毛野氏に官位を与えることもあるが、
天皇がイギリス大使に勲章を与えたところで、イギリス大使はイギリス王室に属するわけで、イギリス大使が天皇の家臣団なわけではない。
→毛野への官位授与の有無は毛野国の独立性を否定するものではない。

毛野氏は東北遠征に従うこともあるが、「同盟国間の協調軍事行動」とすれば
日米軍事演習くらいのもので、
これも毛野国の独立性を失うことにもつながらない。

結局350から750くらいまでの400年間〜もしくはさらに延長して500年以上
毛野国は倭国の中で独立国として君臨していて、不可侵領域だったと言える。
毛野氏の私領だな。

毛野氏が自力で先住民の関東の縄文人から奪い取った地域で官位や任命と無関係。
この関東の独立国が完全に解体されるのはかなり後の時代になると思われる。

蝦夷や熊襲問題ではないな。
「関東に400年以上独立国が存在した」という問題は後々重要になってくるだろうな

120 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 20:13:42.46 .net
基地外はハンドルつけてくんねーかなー
下らねー与太話はいらねーんだよ

121 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:15:59.40 .net
>>120
あなたは、どのレスを基地外だと感じたのか?
アンカーを付けて、簡潔に理由を書いた方がよいですよ。
でないと反論もできません。
個人叩きになるのは嫌だから、個人的にはハンドルは付けない方が良いと思う。

122 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:19:54.56 .net
なるほど、毛野国は水源も多数のダムによる電力発電もあるわけだな。
即座に南関東の息の根を止める恐ろしい地位にあるわけか。

「東京の水源地を有する」ってすげー優位性だな。
その割に立場が低いのはおかしい。

南関東に何も依存してないどころか、毛野国の資源に南関東すべてが依存しているというのが正しい。
毛野が独立すれば、関東は電気も止まるし、水も止まるのか・・

中東で油田を占拠してるのと同じだな。
奥多摩水系だけではまかなえないはず。

関東は利根川に依存し、利根川は毛野国が制していると。
ふーん。まさに要衝だな。

123 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:21:36.26 .net
>>121
スコットランド独立が盛り上がってるので、
「毛野国独立」をネタにして盛り上がろう!というだけです
そもそも日本史スレなんて所詮すべてネタスレだろ。

「おもしろくない」という批判は受け入れるがw

124 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:25:21.32 .net
毛野氏は四六時中戦争してた武装集団なので、
関東の軍事についてあれこれ考えるのが論外とは思わない。

意外と優位性が多数みつかり、勝てるかもしれないのがおもしろい。
毛野国独立で東京は未曾有宇の大混乱に陥るね。

南関東の圧政を解放するのが北関東=毛野国の使命。秩父困民党の例もある。
隙あらば群馬・栃木は南関東占領を狙うべきだろ。

125 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:28:53.42 .net
・まず南関東への水と電力を遮断する。
・24時間以内に第十二師団の空中輸送力を持って重迫撃砲を輸送し、
練馬駐屯地に向けて進軍する
・練馬を制したら霞ヶ関に進軍する。
・独立を宣言する。

作戦は72時間以内に完了するな。
100年以内に実行されるでしょうね。日本史で次の政変があるとしたら毛野国からだわ・・

126 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:34:14.08 .net
群馬・栃木の第十二旅団はドイツ降下猟兵(ドイツ最強の精兵師団 恐ろしい戦歴を有する)
に匹敵するのでは?

練馬駐屯地のザコどもが第十二旅団の猛攻に耐えられるとは思えない。

127 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:38:21.75 .net
>>121
多分あんたさんのは平気じゃね?どのレスか知らねーけど
>>123-125みてーのがネタにしてもつまんねってかこっからいねや!w

128 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 21:58:00.10 .net
静岡の第一戦車隊は関東を脱出する避難民が殺到するので
陸路じゃとうてい間に合わないな。

南関東は電気がなくなるので電車も動きません=車両輸送ができない
線路もJRがダイヤを空けるか分からん。
水がなくなるので自衛隊は給水活動に追われ戦力が減る。

そもそも命をかけて南関東なんぞを守ろうとする自衛隊員がどれだけいるのか非常に疑問だわ。
どっちにしろ進行速度が速すぎるからとうてい支援が間に合いませんね。

各地から支援が集まる速度より、群馬から霞ヶ関に到達する速度の方が速い。
練馬は戦うどころか、むしろ寝返るのでは?w もしくは素通りさせるかと。
ある事前準備すれば、いずれにしても救援は線路・道路ともに十分に遮断できる。

群馬・栃木はやれば勝てるんだよな。
やっぱり日本の首都は群馬にすべきだろ。

そもそもザコのくせに威張りすぎなんだよ東京とかは。

東京=練馬で、 群馬が練馬なんかに負けるわけねー

129 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 22:09:02.98 .net
>>123
毛野がスコットランドに似ていると俺も感じた。
しかし、日本の場合は、もう120年前にスコットランドに首都を移してしまったと言うことです。
というか、鎌倉幕府も江戸幕府も毛野の子孫が影で支えていたのです。
イギリスも、首都をロンドンからエディンバラか秋葉原に移せばよいのです。
そうしないと、渡来系のイングランドと、原住民のスコットランドの真の統合はないでしょう。

あと、スコットランドヤードと六波羅探題も似ていると思った。

ネタが嫌いな人、ゴメン。

130 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 22:48:34.05 .net
エジンバラ公が豊城入彦命末孫で
イギリス王室が畿内天皇家とすれば、まさにそんな関係だな。
両君体制だったのに勝手に家臣みたいに扱ってきたのがスコットランド

そんで毛野国は畿内に占領されたことすらない。
スコットランドはスコットランド独立戦争をして負けているが
そもそも毛野国は成立当初から独立国家。畿内の属国や臣下だったことはない。

経済的には東京都民に電気と水を高値で売ればよろしい。
東北からは電気を依存していたが、毛野国からは「電気も水も依存」しているのが南関東。
優位性は非常に高いと言える。

軍事的・地形的・宗教的・歴史的に毛野国の独立は完全に正当性があると言える。
熊谷県を復活させ、栃木と茨城を編入して独立国家になり
東北=毛野氏の伊達氏と連盟を組むべきだろう=これで海もできる。

もちろん軍事行動なんかしないで群馬と栃木と埼玉と茨城の一部が
住民投票をして平和的に毛野国独立宣言を採択するのが最善だろう。

131 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 22:56:26.21 .net
毛野国はイスラム国をめざすもよし
スコットランドの独立を見習うもよし
どちらでもいい

いずれにしてもこれ以上、東京・神奈川による内陸国をバカにする態度はもう許すまじです。
関東平野の覇者は毛野です。
毛野国の今後の参考にするためにもスコットランドを注視だな

最初はネタでやってる内に実現するかもしれない。

132 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 23:29:29.15 .net
地域分断工作の亜種みたいになってきたね。

133 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 23:34:55.51 .net
毛野氏は兵士1万人を輸送できる大量の軍船を持ってたんだが・・
いったいどこに持ってたのかな?

「群馬に外洋船があったのか?」 対馬海峡渡るにはそれなりの船じゃないと無理
多賀城あたり?

うーん分からん。毛野氏は海軍力を持ってるようだが、利根川にでもあったのか?
まあ木ならいくらでもあるからでかい船も作れなくはないけど
利根川をそのまま下ればいいのか。
そんで朝鮮まで行ったのか? なんかすごいな。

134 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 23:39:44.34 .net
歩いて九州までいくと兵糧・物資の輸送に難がある
できれば自前の船が必要。

独自の海軍まで持ってたっぽい毛野氏
伊達氏が外洋船の建造に拘ったのも何か理由があったのか、血筋が船を造らせたのかと。

「山の中の武士団」のはずなのに海軍力まで持っていた毛野氏はおもしろい。
東山道だけではなく舟運のルートも握ってたのかな。

135 :日本@名無史さん:2014/09/15(月) 23:49:15.54 .net
古代の利根川は猛烈に川幅があり、霞ヶ浦につながっている。
直接太平洋から群馬・栃木まで船で遡上できたのでは?
もちろん下ることもできたと。

江戸湾みたいなもので、毛野氏の保有する海軍基地が途中にあったのかもしれない。

136 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 07:04:26.87 .net
宇都宮氏や伊達氏を勝手に毛野氏にしないでくれ。 親族一同の了承は取れているのか。 ?

137 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 08:00:58.88 .net
新田郡徳川剛は下野国であった。明治となり徳川郷は群馬県になった。
従って群馬県民は徳川郷を、「私の愛する憩いの地」としなければならない。ところが一部には、徳川郷を毛嫌いする群馬県民がいるようだ。これは筋違いもいいところ。
そのような人間は、軽薄短小と言わざるを得ない。

138 :112:2014/09/16(火) 09:53:27.42 .net
>>133
毛野氏は越国との関係も一定程度有していた蓋然性も高いですから、
充分可能だったような気も致しますね。

139 :112:2014/09/16(火) 10:02:27.07 .net
>>136
平安後期〜鎌倉初期までは利権絡みもあって公家であれ百姓(この場合皇族や公家、
あるいは各層の私奴婢除く全ての層)であれ招婿婚を基本とし、男系で官位浴典や姓等の
権威を、女系で地盤や財産等の敬称相続を基本としていた事実を無視し、つまらない話題で
スレの無駄遣いをする人達(上の方で基地○扱いされているネタ遊びの人達)が結構いるので
お赦し下さい。

そういう人達に限って上記基本を押さえていないので、他にも他氏族を徒に貶める向きも
ありますので、併せてお赦し下さい。

本当に詰まらないスレになりましたね。では、仕事へ。

140 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 10:48:17.09 .net
母系制、或いは双系制などと言われますね。
伊達氏も宇都宮氏も招婿婚によって藤原氏から婿を入れている蓋然性はかなり高いと思います。
南関東の桓武平氏諸氏、
北関東の秀郷流藤原氏諸氏、
武蔵や常陸の嵯峨・仁明系源氏諸氏など、
他の豪族がみな、元は国造やその後裔たる郡司階層などの在地豪族を基層(母系氏族)にして、
そこに国司や押領使などとして赴任してきた主に「源平藤橘」を中心とする中央貴族が婿入りして成立した氏族であると考えられる中で、上記二氏だけがその対象外であると考える方が不自然ですので。

141 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 18:25:07.65 .net
舞踊に荒らされてる方がま〜だマシ
それくらい程度の低い糞スレ(笑)

142 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 19:06:23.37 .net
藤原兼房  妻  源高雅娘
        子  兼仲  左大臣家少輔  静範  円範  宗円
藤原宗円  妻  益子氏娘
        子  宗綱 (頼朝の乳母である寒河尼の父)、他
前九年の役の後に八幡太郎義家が下野国司になると、ほぼ同時に宗円は宇都宮二荒山神社の検校職になった。
さらに常陸国八田(今の茨城県下館市)に所領を得た。
これには八幡太郎義家の後ろ盾や紀勢両党からの支援があったであろうことは間違いない。
世間体もあるし、日もまだ浅い藤原上野国司を殺害した一族からの支援など受けていないのではないだろうか。
遅かれ早かれ毛野氏は宇都宮二荒山神社への出入り禁止になったであろう。頼朝なら、そう決断するに違いない。

143 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 19:14:50.85 .net
舞踊婆

144 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 19:19:35.04 .net
益子氏は確か紀清両党(紀氏)でしたよね。
そうであるなら、毛野氏が出入り禁止含め排除されたとは言い難いような気もするのですが、どうでしょうか?

145 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 19:54:38.50 .net
八幡太郎義家の何代か前の者は、関白藤原道兼の家人だったのである。
藤原上野国司と敵対したのは、痛手であったような気がするのです。

146 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 19:59:58.58 .net
ぶよってまだいるの?

147 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 20:05:29.29 .net
いるよ。名前伏せていつもかきこんでんじゃん

148 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 20:17:19.04 .net
>>147
まだいるんだw
さんきゅ。
どのあたりのスレ?自分最近あまり史板に来ないんで。

149 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 21:54:06.18 .net
毛野は母系社会だから、婿を入れて生ませた子に家を継がせた。
そうすることで、次の代から入り婿の姓を名乗ることができた。
藤原、平、源。母系毛野は、いつの時代にもこの手口で当時の最大勢力に取り入ってきた。
豊城入彦は、崇神天皇の第1皇子であり、母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛だから母系は毛野と同族の紀氏。
その上、豊城入彦は垂仁天皇の異母兄という立場でもあり、イリ王朝から入婿を迎えることで毛野は天下を佐治する立場に立てるはずだった。

ところが、それを快く思わない勢力があった。
そのため、豊城樹入彦、子-八綱田、孫 -彦狭島王と3代に渡って入国を拒まれ、三世孫 -御諸別王が初めて毛野国に入国することになる。

続く

150 :日本@名無史さん:2014/09/16(火) 22:38:26.13 .net
>>149
>毛野は母系社会だから

毛野に限らず古代の氏族社会はみなそう。

151 :日本@名無史さん:2014/09/17(水) 01:07:57.60 .net
>>150
>毛野に限らず古代の氏族社会はみなそう。

ソースプリーズ

152 :日本@名無史さん:2014/09/17(水) 02:11:36.42 .net
>>151
常識だろ?
野口実さんの本読んでも、高橋昌明さんの本読んでも、下向龍彦さんの本読んでもみんな書いてあるわ。
お前なに読んでんの?

153 :日本@名無史さん:2014/09/17(水) 07:03:27.97 .net
>>152
あれだね、>>151は招婿婚って言葉すら知らなさそうだねw
そういう類がこのスレを玩具にして糞スレ化させてんだろな(ノД`)アチャー

154 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 02:56:36.49 .net
「藤原氏ガー」
って騙してきたが、

これだけ情報が広がってくると
藤原氏なんてただの馬の骨で、毛野氏こそが皇族だったのがよく分かるな。

藤原氏はいまやfacebookで適当なこと言ってるバカに見える。
それらの摂関家の権威なんて笑えてくるな。馬の骨の末裔でしかないわ。

もちろん天皇家の正当性についてはノーコメントだが、「藤原氏は出自が卑しい氏族」ってのがモロバレしてきた時代ですね。
毛野氏は初代天皇崇神の末裔で、応神系統が絶え、継体系統がやや怪しく、蘇我氏や物部の「汚染=入れ替わり?」の可能性を考慮すると

純系皇族は毛野氏の可能性が高いわ。

155 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 07:49:37.32 .net
藤原氏が馬なら貴殿は鹿だ。二人合わせて仲良く○○だ。  来週からヤンマー農機のコマーシャルに出てくれ。

156 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 09:49:16.15 .net
崇神期までに出てない氏族は部落民みたいなもんだな。
またそれ以前の氏族はツチグモ族だったんだろ。

崇神以前が確定できない以上、
崇神の直後が超えられない血統の最上ランクと言える

・神武東征の家臣→神武の系統ではないのであくまで「家臣の最上ランク」止まり
・神武の血統=崇神の血統なので同じ。差はない


神武ー崇神の系統で応神までが第一ランクとすると
「応神系統は断絶してしまった」ので、崇神系統の豊城入彦命が第一ランクを引き継ぐ最上ランクに交代する。

応神系統から劣るのが継体系統で、「畿内のなんとか氏族は継体以下」なのが確定してしまったので=そうじゃなきゃそいつが継体になってるはず。
かなり早い段階でなんらかの戦乱が畿内に起こっており、畿内での第一ランクの血統は断絶したのが確定しているので

毛野しか第一ランクは残っていない=継体は応神系統ということだが、参考記録に留まる。

藤原祖の中臣氏がいくら偉かろうが、「家臣の中で」止まりで
いくら家臣ががんばっても皇族にはなれない。=信長ががんばっても天皇になれない。

つまり血統的には毛野氏が日本史史上最上位ランクとして残っているわけだな。
これ以降はとくに断絶してないので(断絶したという記録もない)
かなり長期間、天皇家の最初期の第一ランクの血統が東国の毛野氏で受け継がれていたと言える。

157 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 10:03:49.26 .net
継体系統の血筋と毛野氏の血筋はどちらが上かと言えば
毛野の方が互角かそれ以上だったと言える。

ただし「地理的な意味合いで」畿内に近かった継体の方が畿内を支配することになっただけ。
またしても西国と東国の並列論が成立するわけだな。

毛野氏から天皇を出しても全然おかしくないくらいの血筋。
ただ、なんというか「新しいものがすばらしい」というスマホ理論的な意味での選択が
継体系統を天皇にしたと言える。
応神末孫>>>崇神末孫 というのは間違った考えだなー 今なら完全におかしいと思うはず。

でもまあ間違ってはないので、
応神を崇拝するなら、豊城入彦命系統は「応神の部下」にあたってしまうので 皇族>>>家臣という関係が成立したため

でも「途中の母がだれだろうが父系のみ最優先で5代すっとばす」ことが許されるなら
東国で畿内の母親と関係が薄くなった毛野氏も同じく「父系では崇神末孫」なので互角と言える。
つまり

豊城入彦命系統は 「崇神末孫+応神臣下」というブランドであり
「応神末孫ではなくそれ以降の臣下」
「神武の臣下」よりはブランドが高いが

「応神末孫」には若干劣るブランドと言える。あと東国なのでこれも減点対象と言えるが

欧州では血統が断絶した場合はフランスやスペイン、その他遠隔地から
「血統を再注文して取り寄せる」ことがよくあったため、東国からは天皇がでないという論理は成立しないと思う。

遠隔地から血統を取り寄せると、東国の政治介入がはじまり、戦乱の元となるのを警戒したのかもしれない。
軍事力では東国>>畿内だから血統まで入れると完全に畿内が東国に平定されて畿内の在来豪族が一掃される危険性がある。

158 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 10:16:56.75 .net
断絶が発生したときに、東国毛野氏ではなく
やや勢力が薄いが「畿内が滅ぼされることはない」
微妙なスタンスの近江の王族の末孫を畿内が採用したのは
政治的とも言える。

血統的にはかなり悩んだはずでしょ。
問題は東国が軍事力が強すぎたこと。
これを継体を選んだ畿内の勢力はかなり警戒したのだろうと思う。
ここら辺の葛藤はイングランド王とスペイン王フェリペ2世や
フランス王との王位争奪戦でも理解できる話。

イングランド・フランス二重王国 wikipedia
>ヘンリー5世の息子であるヘンリー6世はイングランドとフランスの両国王となった

>ヘンリー6世はヘンリー5世の唯一の子であり後継者であった。
>彼は1421年12月6日、ウィンザー城で誕生し、1422年8月31日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、
>1422年10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。

イングランド=畿内
フランス=毛野国
とすると血統論争が分かりやすい。血統理論ではフランス王の血筋を輸入しなければならないが
そうすると血筋だけではなく、フランスからの政治介入も生まれるので=最悪 それを理由にフランスにイングランドが支配される。

というのが継体天皇の真相でしょうね。20年間の空白は畿内の混乱を示している。
もちろん東国毛野氏を天皇家として迎え入れれば済む話だが
それだと畿内の豪族が一掃される恐怖があったんだろうな。
断絶が長引くのもやばいので、小集団でしかない近江・北陸の継体をしょうがなく選んだと。

159 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 10:23:09.21 .net
ここら辺はおもしろいですね。
継体天皇になったのは東国毛野氏がかなり関係している。

もっと積極的な意味で毛野氏が関わっていた可能性もありますね。
毛野氏は応神末孫ではないが、崇神末孫で、畿内とパワーバランスが拮抗・逆転するくらいの超大国だったと。

こんな恐ろしいお目付役の毛野氏がいなければむしろ天皇家はかなり早くに断絶していたのでは? とも思う。

160 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 10:33:24.40 .net
継体天皇が応神末孫ではなく別の氏族の僭称だという主張もあるが>継体新王朝論
「そんなことしやがったら毛野氏がぶち切れて武装侵略して畿内を焼け野原にした」
可能性が高いです。完全に皇族とは別の氏族の王の国になったら、毛野氏は不可侵条約を維持する理由もなくなるからな。
そこまで東国と西国は全面的な戦乱にはなってないようなので、やはり継体は皇族(の末孫)というのはかなり確実になる。

このように毛野氏は畿内に常時圧力をかけられる地位だったので
東国の軍事力は畿内の政治にもかなり影響していたように見える。

畿内の政治を左右した中心氏族は
物部・蘇我・毛野氏だろ。毛野氏をもっと教科書でやるべきだな。

161 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 11:18:12.20 .net
小中高で使用されている教科書に毛野氏の毛の字も掲載されていない理由を知りたい方も若干いるのではないか。ある小学生の質問、これってモヤシ(毛野氏)と読むのですか。?

162 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 11:38:15.07 .net
毛野氏を貶すのも瘋的理屈だが、毛野氏こそなんて宣う一部諸兄も瘋理屈になりかけているのをお忘れなきよう。
先ずは毛野氏の本来的発祥、皇統と磯城県主等周辺氏族から拡がる姻戚ネットワーク、その渦中で毛野氏が如何なる
途を辿って東山道圏、香取海圏、出羽方面へと進出したのか、一方でなぜ後の東海道行政圏内に入る相模の方がより
古い古墳等文明が拡散しているか、また最終的に香取海南岸地域を出雲系、あるいは物部系に押さえられてしまったのか、

冷静に氏族としての毛野氏を語るが有意義と思われるのだが、如何?

163 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 12:03:29.62 .net
筑紫とか毛野とか、キミ姓の国造は皇位継承権がないだけで
江戸時代の将軍家でいえば御三家とヒラ親藩の間ぐらいの存在だろうね

164 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 12:57:27.94 .net
>>163 ところがこのスレの少なくない毛野氏過剰評価組はそう考えず、一部は御三家の水戸家(将軍位叙任資格なし、定府)程度は力があったと思い込み、
一部は尾張家、紀伊家程度に思い込み、更に拗らせた手合いはファンタジーの世界の住人――厨ニ病的暗黒面にさえ堕している始末。そういう体だから
スコットランド独立という時事問題と単純に結びつける巫山戯たお遊びを始めたり、根拠不明意味不明の他氏族侮辱を吐いて恥じない輩すら出る始末。

真面目に毛野氏及びその周辺を論じる人々だけがこのスレに残る良い手立てはない物かと真剣に悩む昨今。

165 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 14:27:59.69 .net
御三家とヒラ親藩の間ですぐに思いつくのは、会津松平家。似ているような似ていないような。会津は食料自給率が、ほぼ100%。水力発電所もある。今直ぐにでも独立出来るのではないでしょうか。

166 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 21:17:48.22 .net
毛野の祖を祟神天皇の第一子豊城入彦に求めようとすると大きな錯覚に陥る。
実は、毛野にとっては、祟神の子豊城入彦も高望王の子 平国香も、藤原秀郷も、招婿婚の相手つまり婿殿にすぎず、
姑に反抗しない男の方が好まれたのだ。将門は最悪だったのだろう。。
毛野は、畿内の大王家から良き種を貰うことで子孫の繁栄を果たしたのだ。

167 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 21:33:57.51 .net
まだ確証はないが、徳川幕府も毛野に入婿することで、江戸に幕府を開くことができた。それが徳川秀忠とお江。
お江は、近江八幡をに勢力を置く浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。
最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれたが死別。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。
つまり、近江毛野の浅井の娘を嫁にすることが、天下を取るための条件だったことがわかる。

168 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:05:42.14 .net
毛野氏:崇神末孫・応神時は軍団長=皇族の最上位ランク



藤原氏<こいつ何したの?

>藤原氏祖の中臣鎌足:すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
武力はカス。自分で認めてます。藤原氏は武力は何もない。武力で貢献してない
「天武の末孫ですらないし、天武の部下でもない」。天武系統断絶で天智政権になったために
のし上がっただけじゃん。

やっぱり藤原氏祖の鎌足を見ても

毛野氏>>>>>>馬の骨の藤原氏は確定です

崇神・応神は「別格」なんです。天武や天智はそれに勝るわけがない。
崇神・応神両方に関与した毛野氏は日本史史上最上位の出自を持つ皇族が確定。

169 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:41:03.16 .net
藤原秀郷    武
藤原定家    文
藤原道長    娘
その他藤原氏 官
今日でも大奥の人々に影響を与えているのではないでしょうか。毛野氏の比ではない。

170 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:41:10.21 .net
藤原氏がどんなに優秀かは
「藤原氏子孫だけになった」平安時代以降にはっきりと表れるわけですね

「私には武が分からない」とか言ってた藤原鎌足の子孫が繁栄することは
まさに皇族がその後(武力が分からない天皇家になって)武家に負けて没落することを確定してしまったのである。

むしろ逆臣では?
まだ物部の方がマシだったわ。

171 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:43:12.27 .net
たいそう優秀で、文官でしかなく武力軽視の藤原家によって
天皇家は平安時代以降完全に没落してしまったのである。

藤原の子孫の近衛も戦争さっぱりのクズだったし。
本当に藤原氏はすばらしい家系ですこと。

172 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:45:36.95 .net
まあそういう意味で東国=毛野氏の子孫関連だとすれば

武家を犬くらいにしか思ってない公家のアホを
東国出身の武士団がその後圧倒して主従逆転させてしまうことはおもしろいですね。

藤原氏には負けたが、武の毛野氏は勝ったのである。
勝負には負けたが試合には勝った。

173 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:47:21.57 .net
○試合(官位競争)に負けたが勝負(武家と公家の争い)には勝った。
のミス

174 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:51:31.19 .net
まーた他氏族侮辱で毛野氏に悪印象を与えようとしているヴァカは抛っておくとして。
>>167
現状、信頼し得る諸史料や研究(鈴木真年等)からするに、浅井氏の場合は物部連
もしくは浅井直(あたい)とする蓋然性が高く、下毛野氏関連との結び付きを求める場合、
美濃における毛野氏の事蹟と保食神等の祭祀を巡って考慮する必要があると思う。
ということで、自分は正親町三条等、藤姓を仮冒する浅井氏を古代浅井氏まで下って
眺める場合、毛野氏との関係性はほぼないと考えているわけですが如何でしょうかねぇ。

175 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:54:58.35 .net
多くの武将は源氏と藤原氏ではないのか。毛野氏がいるとすれば、せいぜい足軽クラスか。それ以下の荷物運びかも。

176 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 22:59:38.49 .net
>>175
女系で毛野氏の地盤や利権を受け継いだ家は数多ありますよ、殊に
秀郷流の家等の場合。

当時の承継相続を巡って調べてみると宜しいと思います。
(ちなみに後三年の役のキーパーソンたる出羽の豪族・吉彦秀武は
毛野氏族になります)

177 :日本@名無史さん:2014/09/18(木) 23:04:10.74 .net
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また毛野話してる
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

178 :日本@名無史さん:2014/09/19(金) 01:02:16.89 .net
「私は武力は苦手ですぅー」
って泣きべそかいてるのが、あらゆる公家の祖(事実上)の藤原鎌足です

こういうヘタレ氏族が天皇家と合体したことにより、
天皇家は武力ダメダメになり際限なく形骸化していったわけだな。

179 :日本@名無史さん:2014/09/19(金) 01:05:43.65 .net
蘇我や物部はアホだったがキングオブヘタレの藤原氏よりは100倍マシ

公家が武家をバカにして犬呼ばわりしたのは
軍事からきしの、武を誇った崇神・応神とは一切無関係の出自からして卑しい藤原氏が祖だったため。

180 :日本@名無史さん:2014/09/19(金) 01:08:26.99 .net
調略や血縁戦略が軍事より劣るとは必ずしも言い切れないが

全然かっこよくもないし、尊敬もしないよね
ずるがしこいひねくれものの詐欺師集団にしか見えない。

自分が死にもしない安全なポジションから偉そうに命令するだけの公家をどう尊敬しろというのかな?

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