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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう(その2)

1 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 22:04:58.71 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

839 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:41:59.41 .net
>>837に書かれている事こそが
真実なんだよ

840 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:50:44.08 .net
>>816
>>817




というくらいだからな〜

841 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:56:03.89 .net
国宝の那須国造碑は本物じゃねえの。

842 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 10:58:33.35 .net
>>7
なんで知ってるの?
あの時代の人物は自称ばかりいるという説もあるし

自称○○ 自称□□

843 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:01:39.72 .net
利根川や渡良瀬川は、今の東京湾に流れていたわけで、だとすれば、あっち方面で降った雨水が今の茨城県で溢れることはねえわな

844 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:05:21.30 .net
那須氏 冤罪
というのは何なんだろう

845 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:09:02.10 .net
>>1
>毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
>が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

そうだろうか。
前橋天神山古墳出土の三角縁五神四獣鏡は、
同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として、
奈良県桜井市桜井茶臼山古墳、同天理市黒塚古墳のものがあるようだ。
両古墳とも4世紀初頭〜前半なので景行天皇の孫である御諸別命なら遅すぎると思う。

やはり崇神天皇皇子の豊城入彦命だろう。

846 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:09:10.08 .net
昭和の時代に起きた些細なことなど誰も気に留めていませんよ。那須郡武茂郷出身の者より

847 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:17:35.92 .net
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。

848 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:28:46.78 .net
東国は北朝ばかりではなく、新田氏、宇都宮氏、東北の雄である白河結城氏は南朝方

849 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:51:58.42 .net
本当のスサノオ

というスレッドを読んでみるといい
トンデモばかりだけど、真実らしき事も書かれているよ

悪役 冤罪にも繋がる

850 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 11:53:15.12 .net
鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。

『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」

これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄)

851 :日本@名無史さん:2016/01/29(金) 22:25:54.05 ID:tzeYT9xCt
>>838
那須国はなす。

852 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 08:25:42.14 .net
>>845
今月、豊城入彦命を祀った下野國二荒山神社を特集したムック本が、
刊行されました。
週刊「日本の神社」 第105号 二荒山神社・唐澤山神社 他 2016-02-02発売 \562*1.08
http://deagostini.jp/jin/backnumber.php?id=47859&issue=105

853 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 08:49:04.98 .net
平安期の皇別武家の源氏や平氏の先輩格だな、
毛野氏、小野氏、日下部氏は。

854 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 13:46:24.93 .net
朝倉能楽幕府や
宇都宮餃子幕府ができてたら

日下部氏や毛野氏の時代再びでしたね。

855 :日本@名無史さん:2016/02/16(火) 21:36:38.66 .net
>>848
白河結城氏が南朝で、下総結城氏は北朝?
結城氏の歴史はややこしいとこが多い感じ。
ネットの説明読んでもよくわからないことが多い。本みたらまた違ってたりして

856 :日本@名無史さん:2016/02/19(金) 21:48:14.15 ID:jCm90N2QH
鎌倉幕府は上下に分かれていた毛野国や分割された武蔵相模の一部を併合して、古代の毛野を再統一したということではないだろうか。

857 :日本@名無史さん:2016/03/13(日) 20:41:29.85 .net
今、大河ドラマを見ている。上野国をこうずけと言っている。時は戦国時代。
話し方は、正しいのでしょうか。 私は、かみつけかじょうしゅうが正しいのではないかと思っています。
あくまでも戦場における坂東武者の話し言葉としての正否が知りたいものです。

858 :日本@名無史さん:2016/03/14(月) 09:07:33.54 .net
上野国の呼び方についての第二弾。朝廷および武士階級と読み書きの出来ない百姓町人エタヒニンでは話し言葉が違うと思われる。時は戦国の武将なら上野をかみつけ又は上州と呼ぶであろう。
読み書きの出来ない百姓町人等の全員が上野をこうずけと呼ぶのであれば理解できる。しかし読み書きの出来る越後、信濃、北関東の武将全員が上野をこうずけと呼ぶことはありえない事実である。
常識的に考えて少なからずの者は、かみつけ又は上州と呼ぶはずである。   従ってNHK大河ドラマにおいて武将全員が揃って上野をこうずけと読んでいるのは誤りである。

859 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 10:27:01.01 .net
上野国の呼び方について第三弾。鎌倉時代の吾妻鑑で既に現在の群馬県は上州と呼ばれている。従って漢字の読み書きの出来る戦国武将がこうずけこうずけと連呼するのは誤り。
大河ドラマの台詞としては、かみつけ又は上州が正しい。  NHKに苦情の電話を入れましょう。☎0570-066-066 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9f6dec46a9c05ac98b043733bb0c28f0)


860 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 12:35:41.96 .net
早くから訛ってたのでは
かみ(む)つけ → かうづけ

861 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 13:06:04.81 .net
総理大臣が多い割にあんま恩恵受けて無い地域だな
足元の発展に興味が無いお国柄とかなんだろうか

862 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 14:25:27.42 .net
近代栃木は三島、古河、陸奥、原といった売国奴に蝕まれた悲劇の地

863 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 14:45:47.25 .net
ついでに言えば、上杉謙信は、「うえすぎ」ではなく「かみすぎ」ではないの?

864 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:41:25.07 .net
>>863
上杉氏は、毛野氏だって言いたいの

865 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:50:44.15 .net
一万円札の聖徳太子は、しょうとくたいし。初期の一円札の上毛野田道は、かみつけのたみち。訛ってねえだろう

866 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 18:59:27.87 .net
>>865
お前は経時的に言語が変化するって当たり前な事実を知らないのか?
上代(古代)〜平安期〜戦国期〜現代でどれほどの母音消失や子音等音韻変化
言語訛化が起きていることか……アホだろお前

867 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 19:41:21.77 .net
>>866
俺は特許庁に何件か登録しているのでお前のような馬鹿ではない。 あんたは文系馬鹿か

868 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 19:47:41.69 .net
百姓町人ではなく戦国武将の、こうずけこうずけの連呼は、どうしても違和感がある。少なくとも宇都宮氏、佐竹氏、那須氏などは上州と記載された吾妻鑑を読んでいるぞ。どうだ

869 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 20:26:16.63 .net
こういう馬鹿は思い込みで話すからたちが悪い

870 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 20:33:20.82 .net
「那須紀」を執筆した那珂川町小口の大金氏の本家には立派な書庫がある。 何か疑問があるのであれは見せてもらえば良い。

871 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 21:06:01.13 .net
>>869
だな。挙句に特許庁と来たもんだ。
こりゃ真性の馬鹿だね。

872 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:08:01.82 .net
そうだ俺は馬鹿ちょん以下の存在だ。それの何が悪い

873 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:23:33.38 .net
あんたみてーな馬鹿ちょん以下の存在が思い込みだけで実証的史学を歪めんだよ自覚もねーのか笑

874 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 22:48:01.78 .net
歪んだら矯正する必要があるな。暇つぶしに良いだろう

875 :日本@名無史さん:2016/03/19(土) 23:30:30.02 .net
宇都宮氏とは、太秦、宇治と同じ秦氏系藤原氏の宮という意味ではないのだろうか 。
ウィキペディアによれば、「宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。官位は従五位下越中守。
鎌倉御家人でもあり伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。」とある。

876 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 06:16:36.43 .net
>大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である


つまり、縄文とヤマトのハイブリット民族化したわけか。

今の典型的関東人もまさにそれ。

877 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 13:08:58.43 .net
だから関東人はすべてにおいて優秀なんだろうなあ

878 :日本@名無史さん:2016/03/20(日) 18:31:40.98 .net
実証的学風を尊ぶのであれば、京都宇都宮氏宅から藤原定家宅を歩くべき。
私は遠方から天橋立を西から東へと眺めただけなので何も語る資格なし。

879 :日本@名無史さん:2016/03/26(土) 16:37:33.15 .net
北条氏、「敵陣の蟠踞する太田を攻めまくるぞ。援軍の手配を万全にな」
雑魚侍、「おう」
北条氏、「遅い、援軍はまだか」
雑魚侍、「一手は上州太田あたりを、あるものは野州大俵をふらついている様子で」
北条氏、「敵陣の蟠踞する太田といえば、佐竹の蟠踞する常陸太田に決まっているだろうに。たわけ者めが」
※江戸末期
武田耕雲斎、「今、田中隊はどこで何をしているか」
藤田小次郎、「上州太田宿で軍資金を集めています」

880 :日本@名無史さん:2016/05/02(月) 20:28:14.18 .net
>>876
そうだよ。蛮族どころか、南方系マレー系外来種(天皇ルーツ)と北方系(蝦夷、毛野)の主流部族のハイブリッドが関東人=坂東武士団

人種の系譜は
・過去BC15000-20000のルーツを持つ蝦夷北方部族が東北から東日本にBC1000年頃増え最大50-100万規模の巨大な部族を形成
・BC300-600年頃マレー系が九州で拡散し始める。当時の人口は15万前後、同時期に蝦夷系は関東に進出する
・蝦夷は大和まで到達し、BC100-0年頃大和にマレー人も来るいわゆる大和人のルーツ
・おそらく大和の後にマレー人混合集団が関東にも到着する(所詮平氏)仮定で二次的な混合人種(坂東人)が形成される

馬鹿が大和を権威化したがるけど大和の人種ルーツは北方人種と豚鼻マレー人なのな。
厳密な人種系統は関東とほぼ近似した系統

土人は何故か大和と豚鼻マレーと蝦夷の混血を権威化したがる。

坂東武士においては文化的な意味での混成集団だといえる。つまり民族、職能的に

881 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 15:03:32.76 .net
常陸、野州、上州の方が日光東照宮を参拝しても待遇は同じである。
ところが、江戸ものが日光東照宮を参拝する際には優遇措置がありました。
ということは、江戸とは何なのか、何処からどこまでを江戸と言ったのかについては、明確な色分けがありました。
私は良く知りませんが東照宮の受付担当者などは熟知していたと思われます。

882 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 19:56:00.22 .net
あの辺は大和の国なんてなかったですが?

畿内含め紀伊半島あたりから一括して木の国

木内→畿内

木→紀→紀伊

883 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 20:00:55.15 .net
紀伊半島東部にあったのが熊野国

だいたいニギハヤヒだのの伝説は旧熊野国の人らの伝承を持ってきてるの明らかじゃん

884 :日本@名無史さん:2016/05/07(土) 20:04:59.14 .net
ど〜せ熊野国の連中が大和(奈良県)に移って住み始めたのがら始まりだろ

大和朝廷だのなんだの

885 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 07:39:15.20 .net
躾のために置き去りにされた少年が生き延びて作ったのが大和朝廷だろう?

886 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 22:17:42.89 .net
もうすぐ、こうずけ名物の梅が旬を向かえるそうな。だけどやはり横綱は紀州和歌山か。

887 :日本@名無史さん:2016/06/19(日) 14:19:07.04 .net
まさか科学的事実を無視して自分が縄文系だなんて妄想してる馬鹿いないよなあ

記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_241101_j.html

研究グループは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)(注1)を示す100万塩基サイト
を一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分
を含む日本列島人のDNA分析を行った。

その結果、アイヌ人と琉球人が遺伝的に、もっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いで、アイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団とし
ては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。

888 :日本@名無史さん:2016/07/05(火) 00:22:17.79 .net
>>798
そのURLのブログのほか記事読んでみたら、カビの生えた反日共産主義シンパのブログじゃないかww
恣意的な内容多いし、こんなん読んでたら反日自虐の方向に思想誘導されるぞww

889 :日本@名無史さん:2016/07/05(火) 08:41:42.96 .net
歯でわかる縄文、弥生チェック

縄文人と弥生人では、歯の構造がまったく異なる事で知られています。
特に歯の噛み合わせがまったく異なっており、縄文人やアイヌ民族は100%が鉗子状咬合、一方の弥生人はハサミ状咬合となっています。
前歯を閉じてぶつかった時に上の前歯が下よりも前にあれば弥生人に見られるハサミ状咬合です。縄文人やアイヌでは見られないタイプです。

>縄文時代人は 100%が「鉗子咬合」といって、毛抜きのように上下の歯はぴったりと重なっていた。
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~edugrad/507sato.pdf
>アイヌでは主に鉗子状咬合である。
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/215cd216e60b5d4db583be9ca6e0c331

890 :日本@名無史さん:2016/07/17(日) 04:13:46.81 .net
毛深かったんだろうな。女でもひげが生えてるような一族だったんだろう。

891 :日本@名無史さん:2016/07/17(日) 08:23:59.15 .net
西日本人は火病起こしてないで現実見ろよ

>また西日本の人達は来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
>な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
>京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nifty.com/yokubari-sennin/jinkoubunpu1.jpg

892 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 08:55:03.77 .net
これを見れば、毛野氏が関東甲信越地方を、いや、日本を支配していたことがわかる。

893 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 10:09:47.93 .net
>>108
詳しくは、こちらの文献参照ですね?
古代東国の王者 - 上毛野氏の研究 -  熊倉浩靖 2008/02/15刊 A5判310p 雄山閣 ¥6,048
http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=7251

894 :日本@名無史さん:2016/10/01(土) 12:01:21.42 .net
>>849
この民俗学板スレか?
本当のスサノオ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1304225092/
本当のアマテラス 2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1285333836/

895 :日本@名無史さん:2017/02/19(日) 07:41:26.76 .net
熊倉先生、先週の「ケンミンSHOW」に出て、なぜ群馬県民は、もつ煮を食べるようになったのか解説していた。(笑)既に好々爺。

グンマーは、巷で言われるように未開の地。
江戸時代でも日本で唯一、四足獣の肉を常食とし、内蔵まで食い切る野獣だった。(笑)

896 :日本@名無史さん:2017/05/19(金) 15:40:16.18 .net
日本各地には様々な慣習がある。常陸の方では米寿を超えた方の葬儀は紅白の垂れ幕となりどんちゃん騒ぎをするようである。
このような慣習は野州や上州方面でもあるのであろうか。?  ただし、本来葬儀は厳粛に行うべきものである。平均寿命が延びた今は、
88歳の米寿から百歳位に引き上げるべきと私は思う。役所から記念品が出るのも多くは百歳のようである。異論は無いのではないだろうか。
百歳でも元気な女性は多い。  かかあ天下に空っ風。  一方で群馬県の男子にはヘタレが多いと聞く。
元凶は上毛野形名あたりから来ているのかも知れない。同じ毛野国出身のピストン堀口を見習うべきであろう。あれだけ戦ってKO負けがない。

897 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 11:51:23.46 .net
高崎前橋の中心エリアに太田が対抗する構図は面白いね
太田天神山古墳の巨大さ
今もこの地にはSUBARUがあり東毛地域で威厳を保っている
中島さんは金山で徳川埋蔵金を発見して財を成したのかも
赤城山じゃなかったのかな

898 :日本@名無史さん:2017/11/06(月) 15:58:09.93 .net
明治維新期頃の駄作の一部に、水戸藩出身の北島秀朝の文章があるのですが、そこだけは国会図書館のリサーチナビに
登録されたようですので、お暇な方はどうぞご覧になってください。  ペンネー、ム、石川興一郎より。

899 :日本@名無史さん:2018/01/02(火) 14:50:16.52 .net
昨夜、ラジオから上州子守歌が流れていた。上野子守歌なんてねえわな。ドアホ

900 :日本@名無史さん:2018/01/12(金) 22:58:44.66 .net
毛野氏(けぬうじ)なんて日本史上に存在したことすらない
御諸別王の子の荒田別が上毛氏、鹿我別が下毛氏で
野はもともとは接続詞として使われだしたのが始まり
(「平清盛:たいらのきよもり」「源頼朝:みなもとのよりとも」の「の」と同じ)
だから上毛野氏となるのはずっと後
下毛氏は野がつく前に下毛の名を捨て大野氏等を名乗ってるから下毛野氏も存在したことがない
Wikiの説明は全く根拠のない創作

901 :日本@名無史さん:2018/01/15(月) 08:41:44.99 .net
ここは上州草津の湯とは唄の文句。上野の湯では的外れ。坂東武者は北条政子の名演説をけっして忘れはしないだろう。
都人が定めた国名など糞くらえ。上州があり野州があり奥州がある。吾妻鏡は、これ武士の鏡なり。こうずけこうずけと連呼する侍は坂東武者ではない。
どこか西国の故郷に帰ればよい。上毛野田道は一円札になっている。これは、ほぼ全員がかみつけのたみちと呼ぶんじゃねえの。
これを上州田道とするのは、ちと難しいなあ。

902 :日本@名無史さん:2018/01/16(火) 13:43:14.79 .net
>>901
正確には「こうずけ」ではなく「こうづけ」な
どうでもいいけど

903 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 14:14:23.84 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
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904 :日本@名無史さん:2018/02/17(土) 12:31:25.83 .net
>>875
この下毛野氏後裔説のある宇都宮氏のことか?
236 :日本@名無史さん:2006/05/18(木) 19:26:48
・・・下野国の宇都宮氏は、藤原氏北家の藤原道兼の後裔の藤原宗円を祖とするとされるが、
下毛野氏子孫説ほかがある。
このように、藤原、源の子孫の系譜を持ちながらも、古代氏族の子孫説のある氏は意外と多い。
これは、藤原氏の者が、下毛野氏の娘に子種を孕ませたということだろう。
子供は、母親の家である下毛野氏の方で育てるため、下毛野氏の家の子となる。
しかし、藤原氏の種だから氏の血筋の上では藤原氏の子になる。
下毛野氏としては藤原氏と結びつくことが有利と判断し、その子の父の藤原氏を、
その子を基点にして祖にし、 藤原氏後裔の系譜を・・・・・・・・・・・
【紀伴菅江在】 マイナー氏姓 【マケルナ源平藤橘ニ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1137830191/236-

905 :日本@名無史さん:2018/02/27(火) 23:42:49.29 .net
紀氏とかかわりが深い

906 :日本@名無史さん:2018/03/20(火) 21:43:43.04 .net
大野東人は日本史上の武人の中で最強だと思う

907 :日本@名無史さん:2018/03/24(土) 17:00:37.27 .net
那須国大野村から出た大熨氏。この方は毛野氏系なのですか。

908 :日本@名無史さん:2018/03/27(火) 20:26:31.24 .net
>>892
毛野氏が関東全域を支配していたのは、間違いないだろうね。
南関東の人は北関東のなまりを小バカにしていたけど、本来は関東全域で北関東の方言が
話されていたと思う。
もしかしたら、北関東の方言が日本の共通語になっていたかも知れない。

909 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 16:10:30.48 .net
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910 :日本@名無史さん:2018/08/18(土) 19:38:29.29 .net
>>897
>高崎前橋の中心エリアに太田が対抗する構図は面白いね
>太田天神山古墳の巨大さ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふーん、高崎前橋地域と太田地域それぞれにどのような勢力が
盤踞していたと推されるのですか?

911 :日本@名無史さん:2018/12/24(月) 19:27:49.57 .net
「太田地域」とか言ってる時点で勉強不足だな
あそこは治水がやっかいでほとんど水浸しの不毛の土地
大昔からあるわりに遺跡がほとんど残ってないのは、全部洪水で流されてるため。
実際 郡衙跡も存在してない

広大な土地がいまでこそ広がってて「太田地域」と思ってしまうのだが
ちょっと古い地図ですら水浸しの湖になってる
ちょうど京都の巨大湖の巨椋池(つい以前の1933まで巨大な湖が京都南部に広がってた)
と似たような場所。

高低差のない平野部=「昔は湿地帯」が多い
逆に非常に利用しずらい土地と言える(いつ洪水で流されるか分からないので 農業にも住居にも向かない
大河の中の三角州の中で生活するようなもので非常に危険)
もしくは完全な水没地帯だった可能性がある。

つまり昔になるほど「太田地域」など存在してないので、
「太田地域」と「前橋高崎地域の対立」というのもまったく見当違いと言える。
太田天神古墳がちょっと成立がおかしすぎるだけ。
戦前のスバル工場のすぐ東側ですら湿地帯だったらしく
山を削って埋め立てている。非常に地盤がない地域が太田駅周辺。

古代に太田天神古墳は確かにあるが、「太田地区」は存在してない

912 :日本@名無史さん:2019/03/21(木) 14:36:37.24 .net
>>118
>>学者的な定義からは「毛野氏は武士団ではない」
>>が、「武」に関わる氏族であることは確か、武士団ではないが、武○○?
>>しかしこれを明確に定義する言葉が日本の史学ではないわけだな。

>「毛野は独立国」だが、「独立国が日本各地にあった」
>とすると「畿内主観の統一国家大和」の観点から外れるからあえて取り扱わないのかもな。
>(武士団は出自からして臣従関係が公家以下だったが=それに反発したのが武家政権)

>わけのわからない構造の武家政権と違って古代豪族の毛野氏は独立性がかなり認められるので
>「独立国で畿内と同盟関係」だったというのがもっとも正確
>本質的に主従関係が分断されている。
>「そうは言っても家臣が出自ではないか」という反論があるが
>豊城入彦命に限っては「そもそも家臣ではない」ので「畿内の並立関係」にある

>そもそも豊城は「垂仁の兄」なわけで 長兄優位の後世の価値観からすれば
>「畿内は弟の国」だろ。
>かつ軍事力についても豊城系統の方が最初から畿内を上回っている
>=畿内の反乱の鎮圧をまかされている。

>"出自からして家臣ではなく"、"その後も家臣になった覚えはない"。
>毛野国が占領されたこともないし畿内に合戦で負けたこともない。
>しょぼい合戦で緑野屯倉を渡しただけ=国境紛争があった程度
>武士団でもなく家臣でもない。

>これを定義する言葉は「毛野国は独立国である」としか言いようがない。
あああ

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