2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1

1 :日本@名無史さん:2018/07/31(火) 18:05:41.68 .net
年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。

邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。

侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。

沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。

233 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:36:24.64 .net
日本史に於いては、沖縄の存在は薩摩が編入したところから始まってるイメージだ
ところが奈良時代推古紀(616年)に掖玖人(屋久島人)が来朝してきて多数が帰化しており、
朝廷側からも田部連を遣使(629年/舒明天皇元年)に出してる
この掖玖というのが屋久島に限らず琉球全域を指してる
この史実には猛烈な違和感を持ってしまうのだが、
琉球が大和朝廷に入貢する理由は、
隋が大業3年(607年/推古天皇15年)以降、琉球に侵攻してきたからだ
(実際には、琉球ではなく台湾への侵攻との説もある)
こうした琉球の機敏な行動様式なら、
かつては邪馬台国として魏に貢納したと想像してもおかしくはない
この時、琉球は朝鮮の3国のような外国扱いだ
しかし騎馬民族説はともかくとして、
記紀では外国である百済を自国史にように描いてて、
ほぼ倭国の一部のようなものだし、
親近なのに百済の王子を人質にとってたり、
一方で、百済から王子が帰化してるケースもある
記紀の記述には往々にしてその意味に表と裏がありがちで、
何気ない一文に深い意味が隠されてることもまた多い。
琉球との関係には単なる朝貢以上の意味があるのではないか

234 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:36:37.18 .net
琉球・沖縄史年表
http://www.ne.jp/asahi/okinawa/hiro/okinawa_history.htm
沖縄琉球年表 琉球・沖縄の歴史
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/nenpyo.htm
69.琉球王国
http://komatsu0513.heteml.jp/ryukyu.html

日本書紀 巻第廿三
http://hjueda.on.coocan.jp/koten/shoki44.htm
舒明天皇(十七)掖玖人の帰化・百済王義慈の王子の豊章を人質に
https://nihonsinwa.com/page/1974.html
九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立 ─朝鮮半島記事の取扱いについて─
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur3.html
しまぬゆ1
https://books.google.co.jp/books?id=dN59YX00GvgC&pg=PA20&lpg=PA20
地域と出版: 南方新社の十年を巡って
https://books.google.co.jp/books?id=HhjZkyPla4cC&pg=PA214
屋久島、もっと知りたい人と暮らし編
https://books.google.co.jp/books?id=doT-_Z3Tg8cC&pg=PA93&lpg=PA93
飛耳長目 隋書および元史の「琉球」は台湾、明から「琉球」は沖縄 
https://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/35404619.html
倭国と日本古代史の謎
https://books.google.co.jp/books?id=UqxqCwAAQBAJ&pg=PA72
「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第1章:原始と古代の日本」批判I
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-10.htm

235 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:39:21.23 .net
この大業3年(607年)というのは、
本来は百済とともに南朝派である倭国が、
あえて遣隋使を送りだした年だ。小野妹子の派遣である
隋が琉球の王宮を陥落させ多人数を拉致連行した609年に、妹子が帰国している
先進文明の取得が目的とされるが、
対中外交はもっぱら半島情勢をにらんだ理由を持っているとしても、
時期的な関係から、遣隋使の目的には琉球問題があったのではなかろうか?
しかし琉球は当時、倭国の一部ではないのだから、それは遣隋使を出す理由にはなり得ない。
そこに倭国と琉球との解明されざる関係性があるように思える

ところでこの小野妹子というのは、実は蘇我馬子と同一人物ではないかという推論がある
小野妹子は隋で蘇因高と呼ばれたが、蘇我馬子の「蘇」に、いずれも男子名なのに「子」とつく。
妹子の子供は毛人だが、馬子の子の蝦夷と同義語になってる。

ここで隋書倭国伝に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」、
「?王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩?彌」、「王妻號?彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」と、
倭国王は妻子のある男王で阿毎多利思北孤(多利思比孤)だとされている
アメタリシヒコというのは小野妹子の氏祖である天足彦国押人命に通じるが、
むろん当時は女帝推古の時代だ
そうすると当時倭国の本当の王は推古ではなかったことになる

236 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:50:47.77 .net
丁未の乱(587年)で物部氏を滅ぼして一極体制を確立した馬子は、
592年には”イノシシ”への夢想を理由に崇峻天皇に対して古代唯一の弑逆を実効している

遂には自邸宅を王宮と称したり、国書を編纂し出したりするなど、
専横が極まるようになった馬子は、公然と国王のごとく振る舞い出したのである
この背景に、妹子として渡隋した際、自らを国王と称し、
認知を得て下賜された品、例えば玉壁や黄幢のような物、
あるいは百済に掠取され紛失したものと後世に伝えられた、受領したはずの返書の内容、
それをして印籠のごとく掲げ、倭国の王権を簒奪してしまったのではないだろうか?
隋による琉球への侵攻時にそれがなされているわけである

237 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:51:52.00 .net
一部仮説で唱えられている通り、、聖徳太子は架空の人物であり、
蘇我馬子(あるいは入鹿)と同一人物である。
史書に記された倭の五王は、その実態があくまで地方豪族でしかない
よって蘇我馬子が中国に承認された初の統一倭国王だったと言える
それは神代を引き継いだ初代天皇、すなわち神武天皇その人を指している
神武とは、馬子によって王朝が創始されるに至るまでの蘇我氏の来歴を一代記にしたものである
おそらくは蘇我氏が編纂した大王記(天皇記)を範にしたものだろう
以降の欠史八代は物部朝が列挙されたものであるり、
崇神以下、継体より前までの数代は、南朝の宋書倭国伝に記された倭の五王までの地方豪族である。
蘇我王朝を打倒(乙己の変/645年)した天智天武朝以降、
易姓革命を正当化するために創作されたのが大化の改新だ。
蘇我馬子は激しく貶められる一方で、その無視できない巨大な業績は聖徳太子のものと分離され、
名目の天皇には推古という初の女帝があつらえられることとなったのである。


聖徳太子と小野妹子と蘇我氏 No016
https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/3b603887fa42e2c93b0c45e5f14c7652
『蘇因高は蘇馬子の音訳?』
http://ggb03124.o.oo7.jp/tondemo/soinko.htm
寄り道・『隋書倭国伝』の阿蘇山についてA
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fb6adf7e933b63efc97d2af1c3b8a532

238 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:52:25.03 .net
この場合の女帝の設定に、
魏志倭人伝の邪馬台国像が念頭には置かれていないだろうか?
女王卑弥呼を弟が補佐する二元政治が行われ、
卑弥呼没後に男王を立てるも大規模騒擾が生じ、
やむなく少女の壱与(台与)に引き継がせた
この時、卑弥呼が魏に使いに出した難升米は漢族だったという指摘もある
おそらく衛氏朝鮮(BC195〜BC100)遺民の、高位の燕(〜BC222)系中国人子孫だろう。
彼は卑弥呼が個人で任用した一代限りの客卿だった、
ゆえに卑弥呼没後の壱与の治世には姿を消している。
しかし難升米が有能なら、人材に限りのあろう邪馬台国では、
後代においても任官されるべき存在ではないか?
難升米は国王でもないのに詔書・黄幢(魏朝の軍旗)を拝領して直接告諭を受けている。
これは難升米が魏の軍隊を動かせるようになったことを意味する。
これにより邪馬台国の王権の簒奪を企てたのが卑弥呼没後の男王たる難升米だったはずだ
ことによれば卑弥呼は難升米に謀殺されたのかも知れない
だが民衆の離反に遭って放逐されてしまったのだ
つまり難升米と蘇我馬子は同じことをやったのである
それはすなわち馬子が難升米の手口を知っていたということに他ならない
であるなら蝦夷(毛人)や入鹿とともに後世に付与された蔑称とおぼしき
馬子の“馬”の字には、特別の意味が込められていると言えよう

239 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:55:04.29 .net
武内宿禰を祖とする蘇我氏は、始祖の蘇我満智が実は百済の高官・木満致と同一人物だとする考えもある
だがそれは蘇我氏を百済系渡来人に位置付けるのが目的であり、真の始祖は蘇我稲目のはずだ。
むしろ木満致に紐づけられるべき者を暗黙裡に蘇我氏に結び付けたとも考えられる。
そのような作為は、蘇我氏が、魏志倭人伝に倭国盟主と記録された邪馬台国の直系子孫となれば、
その統治と強権に正当性が生じてしまうことを嫌ってなされたものである。
馬子の墓と比定される石舞台古墳が、弥生時代に絶えて久しい支石墓(ドルメン)であることも興味深い
従来、それを南洋巨石文明の観点から語ることは少なかったのではないか?
さて難升米とは違って、卑弥呼から壱与の二代に仕えたのが掖邪拘(掖邪狗) であり、
彼が難升米の存在に取って代わっている。
この掖邪狗という名前の意味についてはいろいろ分析されてはいるが、
個人的にはそれが掖玖(屋久島/=琉球全般)に関係しているように思えてならない。

240 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:55:22.97 .net
難升米は漢族
http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
伊声耆掖邪狗の正体
https://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/50627250.html
5.「伊聲耆掖邪狗」とは
http://p.booklog.jp/book/112878/page/3064460

沖縄出土滑石混入系土器からみた東シナ海の対外交流
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1468021/pa063.pdf#page=21
西都原考古博物館で「玉と王権」講演会を聴く
http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-cf2e.html
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1331559630/540-545

241 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:56:26.63 .net
〜蘇我氏の直系、韓子と百済は入鹿を逆賊に仕立てるための仇名?〜
https://blogs.yahoo.co.jp/mushipro75/63778641.html
◆蘇我氏の出自
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/0c95423d90c49cce4db0873c3f93a6f6
「入鹿と鎌足」謎と真説
https://books.google.co.jp/books?id=kTxWBAAAQBAJ&pg=PT53

朝鮮半島における支石墓ってどういった影響を持っていたんですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1175235451
朝鮮半島の倭と日本列島の倭
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/99966d9deb33daa2ab8224cfef65b589

242 :日本@名無史さん:2018/08/25(土) 01:58:51.54 .net
中国統一(589年)以降の隋の対外拡張姿勢による、
琉球、もしくは台湾への示威行為は、おそらく史書に記される以前からその兆候を見せていたはずであり、
琉球人の来朝もまた、史実(612年)より前から発生していたに違いない。
570年以降に倭国との接近を模索した高句麗と蘇我氏との密接な関係は、
歴史的な北朝との結びつきに基づき、中国情勢への対応という共通の利害から生じたものと考えられる。
そのことと、北東アジアでは旧高句麗地域の北朝鮮と宮崎串間にのみ、
玉壁が発掘されていることとは関係しているのかもしれない。
かくして、琉球危機への対応が遣隋使の派遣と蘇我氏の国王即位をもたらし、
百済危機に対応して乙己の変が発生し、白村江敗北後の壬申の乱(672年)は、
倭国それ自身の危機と高句麗危機とに対応した引き起こされたのである。

総レス数 774
323 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200