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欠史八代とは何だったのか? 其2

1 :日本@名無史さん:2019/03/06(水) 00:39:29.03 .net
議論の続きをどうぞ

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547384861/

464 :太国 :2022/02/06(日) 22:42:12.56 .net
イザナギは神代の神。

神武は神代の末期の境目のころの人物で、紀に年月日があるから神武から
は史実となる。神武が初代天皇なのは当然だ。綏靖は第2代。

神武の後がイザナギではない。当然綏靖はイザナギではない。

あんたのは時系列が出鱈目。

465 :日本@名無史さん:2022/02/07(月) 07:22:08.08 .net
>>463

そんな面倒をする必要はない。

466 :日本@名無史さん:2022/02/07(月) 07:22:56.52 .net
>>462

違いという根拠が(もしあるならw)よろ

467 :日本@名無史さん:2022/02/07(月) 09:21:22.20 .net
うわぁ、また伊都チョンが自分のスレのテンプレ張ってるwww
相変わらずのクズっぷりだよな。
対馬の雷大臣なんて、思いっきり藤原や中津臣の投影なのに。

468 :日本@名無史さん:2022/02/07(月) 23:05:01.30 .net
大和の初代王は、大和から出発した。
出雲国譲り神話なんて、どうみても、大和と出雲の戦いだよ。
でも、その時の大和の初代の王は、神武天皇ではない。
記紀によれば、神武天皇の曽祖父の邇邇芸命の時代に、出雲国譲りがあり、
その時代に大和の初代の倭王が誕生したはずなのだ。
その初代王は、出雲国譲り後、九州の高千穂に飛ばされた邇邇芸命のわけがない。

469 :太国 :2022/02/07(月) 23:17:41.02 .net
初代天皇は皇宗の神武さ。自己免許ならいくらでもできるがな。

470 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 03:28:01.62 .net
>>467
そういう根拠ゼロの妄想はいらないから
>>444に全く反論できない負け犬くん

471 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 03:30:16.03 .net
>>466
それ以前に類似のエピソードが無いじゃん

472 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 08:22:45.89 .net
意味不明

473 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 09:36:45.24 .net
大和の建国は大きく分けて二つ、三つある。
最初は、出雲国譲り、
次に、神武東征、
最後に、崇神による四道将軍の派遣

多くの人が神武東征ばかりに目が行くが、
それよりも前の時代の出雲国譲りこそ、真の大和による天下統一である。
それは、神武の曽祖父の邇邇芸命の時代に起こった。

でも、神武の曽祖父の邇邇芸命は、出雲国譲りの後、九州高千穂に飛ばされた。
このことから、出雲国譲りを達成して天下統一した大和の王は、
神武の曽祖父の邇邇芸命ではなかったことが分かる。

474 :太国 :2022/02/08(火) 09:43:12.63 .net
神武は九州で当時すでに立太子をして畿内に来て初代天皇に即位した。
これで決まり。神武を皇祖皇宗の皇宗という。

4回転半を公式試合でできなければ、日陰の練習時4回転半をやってのけたと
言い張ってもこれは認められない。

従って神武が初代天皇なのである。


羽生選手よ、頑張れ。

475 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 11:35:16.47 .net
>>474

九州を出た時には兄たちがいて、神武は末弟だから、それはおかしい。

476 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 11:36:22.01 .net
>>473
出雲の大国主が降伏して、邇邇芸が倭王となるために筑紫の日向に降臨した。
つまり筑紫が西日本を統一した。

477 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 11:54:10.05 .net
>>470
お前の出鱈目時系列を支持してる奴など見たこともないわ
他のスレッドに来てまで寄生する程にお友達か少ない様だが?

あと手作りの系図、まだ使ってたんだなww

478 :太国 :2022/02/08(火) 12:12:04.81 .net
>>475
今は兄が天皇に即位してるが、当時は弟が即位したことがわりとあったのさ。

立太子したのは狭野の神武さ。兄は立太子してねえだろ。

479 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 12:18:53.78 .net
伊都チョンで使えそうな情報は、須佐男と小屋根の時代考証くらい。
現在、2000年超の日本の旧家は、大体130代弱。
徐福の時代に陰中として先に出雲にやってきた千家であるが、本来の系図が隠され、約80代になっている。
これは神魂神社の先代、秋上氏が言及しているのだが、記紀編纂の際に、小屋根を藤原に差し出し、藤原氏は最終的にタテカシマ系のミカヅチを出雲から奪って祖神としたとされる。
そこで出てくるのが小屋根系統の40代。、
そうすると出雲には及ばないが、小屋根系を同じくらいの代数になる
同じような現象は、タテミナカタの系譜のはずの諏訪の神長官家が早苗さんで87代。武甲山神社の守屋家40代にも通じる
小屋根の更に先の代を秋上氏はツヤハムスビと言っているが、全く情報が公開されていない
秋上氏文書は内容が難解でまだ咀嚼中。
私もわからない

ただひとつ。千家と藤原は血縁。だから両方の祖神の氏子を名乗れる。

480 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 12:25:27.16 .net
>>460
神武が崇神って、諡号から読み取ってる説なんですかね?w
系図だと、2代目3代目は名前が分かってて、叢雲だけ隠されてるのに、記紀で圧縮された通りの意図で踊るしかないのでしょうね。
学術上でそのように神武を当てる説もマイナーではありますがないことも無いですから

普通なら、最後の出雲王である遠津山崎帯まで、大国主17人全員の名前が登場する記紀の書き方に関して時代が圧縮されてることくらいわかりそうな物ですが

481 :太国 :2022/02/08(火) 12:29:08.02 .net
神武と崇神は別人だよ。
2回初国治らすといっても、正月も旧正月と2回あるし、でも別人だよ。

482 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 12:42:00.54 .net
先代旧事本紀には、登美家、尾張家、海部家の系図が出ていますが、勢力が大きかった順に書かれています。
これは物部氏を顕彰すると思われている先代旧事本紀では異例のこと。
国押人の代で、宗像氏の租であるアタカタスが間違って入っているとはいえ、普通に叢雲の家が、本家である尾張家=神武であることは見当がつく
海部家の二つの系図の意図は、叢雲が神武だよという事を示唆している。

483 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 12:55:18.07 .net
小屋根に関して
どの家系にも父系と母系がそれぞれある。
ちょっと伊都チョンにフェイクを投下したが、そもそも毒饅頭を食う前に知識が乏しかったのか食いつかなかったのでそろそろマジレスする。
越智(三島や河野家)は、尾張家の母系の先祖ではない。

話を小屋根に戻す。
杵築大社であるが、千家の悪行の一つに毛利氏に寄進させた銅の鳥居がある。
あれは朝鮮出兵の関係で、社領が没収され、秀吉の死後に千家が社寮の返還を申し出て断られたから妥協として毛利氏に要求したもの

刻まれている内容は、杵築大社の祭神の本質は、素戔嗚であるということ。
ある段階までは、千家の悲願は大社の祭神を素戔嗚に変えることであった。
実際に大社が別当寺のガクエン寺の所有に落ちぶれた際には素戔嗚が一時的に祭神に切り替わってる
その後、大国主に戻る。

ノベルズにもなってる神の時空という本があるけど、そこにも書かれているが大社裏に重要な社がある。
須賀神社(素戔嗚)あれは元々は違った名前で、簡単にいうと、出雲が北陸蘇我氏に養子に出した継体天皇を祀る神社で、蘇我に近い名前の神社だった。
明治以降に東西出雲王家の上官家、向井上官家と、神門上官家を追い出した千家は本来の本家の北島家を出し抜いて専任の大社宮司家となるが
本家屋敷である北島の館を解体させる際までは蘇我系の神社だった。
その後本性を表し、素戔嗚に変えてしまう。
あそこは禁足地である八雲山に触れることのできる唯一の場所で、裏側に出ている岩が祭祀的に重要になっている

484 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 12:59:07.20 .net
じゃあ、現在の出雲大社の中身ってどうなっているのかというと
大国主の位牌の様なもの、素戔嗚の位牌の様なもの、は実は取り払われてしまって、既にない。
(これは上官家とある程度通じている大社の内部の方の情報)
千家は、単独で自分の先祖の位牌のようなものを作り祀っている。
ゆえに、大社の本殿から出されて真後ろに素戔嗚が来ている。

私はそれが小屋根だと思っている。

485 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 13:09:13.52 .net
さて、母系、父系の話。

国譲り事件以降、母系文化の影響で、出雲の王家の子供たちは、奥さんの実家に帰る事になった。
タテミナカタは、古志のヌナガワ姫の子であったので、北陸に。ミナカタの妹であるミホススミは、美保関で父親である事代主を慰霊する事になった。
国譲り事件の際に手引きをしたとされた穂日家(千家)は、最下層の「やっこ」に落とされるが助命される。

事代主のもう一人の奥さんが「摂津の豪族であった三島の姫」三島の姫父親は現在でも三島溝杭耳として山城の鴨神社に祀られている。
事代主と、三島溝杭姫子供がクシヒカタ、タタラいすゞ姫、いすゞなんとか姫

先代旧事本紀の出雲分家は登美家と言って、父系が出雲王家の向家(富家)、母型が三島家(越智家)
さて叢雲の家系であるが、徐福の子供である五十猛は、国譲り事件の際に徐福により見捨てられ置き去りにされる。
出雲では立場が悪くなったが、助命はされ、名前を大年彦に変えられた。
これは後に嫁となる大屋姫が大年教の巫女だったから。現在でも島根の五十猛神社の南には大年神社がある。

486 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 13:17:13.49 .net
その後、大俊彦は、丹後に移住。これが籠神社の元になる地盤を作る。
さらに大俊彦は、物部饒速日の腹違いの妹、ホヤ姫を娶り、叢雲をもうける。
その際には、すでに天カゴヤマ(カゴヤマのカゴは籠神社の籠)と名を変えていたそうである。
大屋姫は後に遠ざけられ、紀伊に移住。国造家になっていく。

ここで整理する。
叢雲は大和の富家の分家からたたらいすゞ姫を貰う。この時点で
尾張家は母型母が三島家、母型父系が富家
父系父が五十猛(カゴヤマ)父系母が物部家

さて、八井耳系の藤原氏がどうやって小屋根とミカヅチを手に入れたか(血筋があるのか)

487 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 13:23:31.53 .net
富家の分家はその後、出雲から神門家を引き入れ、集合して鴨家になり賀茂家になる。
これで賀茂神社に三島家を祀る神社の下地になる。
磯城地方に住んだので、磯城登美家と名乗る様になったのは建飯勝の代から数代を重ねて
そこから国押人近くで、登美家には建ミカヅチが輩出される。
ミカヅチは二代目大王の代で別れた八井耳系からすると親戚になる。

さて小屋根だ。磯城登美家には、何とホヒ家から、サマナ姫が輿入れしている。

つまり、八井耳系には、母型にミカヅチと、小屋根が親戚に入っているんだ。

488 :日本@名無史さん:2022/02/08(火) 13:27:28.85 .net
元々、中臣には小屋根が入っていて、養子入しただけの鎌足に祭祀の中心を奪われたから、藤原氏にミカヅチが奪われた説に繋がっていくのである。
藤原は朝鮮系ではない。息子のフヒトも中臣の娘との血縁はない。

そもそもが氏素性は徹底管理され、古い本にもなっているくらいだからね。
だから、渡来の綾部家は家が貧乏だった。

489 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 01:56:40.97 .net
>>477
お前も含めて誰もまともに反論できてないがな
学問板でお友達とか寝ぼけたこと言ってる時点で程度が低すぎる

490 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 02:18:50.48 .net
>>453
結局比較的冷静に受け止めることができたのは君一人のようだな
まあ別に頭から信じる必要は無いが視点として頭の隅にでも置いておくといい

せっかくだからもう一つだけ記紀を読み解くヒントをやろう
「記紀には真実を隠すときに180°真逆の意味のことを書くという癖がある」
これを覚えておくといい
例えばイケメンで知られる大国主をアシハラシコヲと書いてみたりするのが典型だな

上でアメノコヤネと天村雲命が同一人物であり>>446のとおり天村雲命と五十猛もまた同一神であることを書いたが
五十猛の別名である大屋毘古の大屋とは「大きな屋根」の意味であり天児屋根命の児屋とは「小さな屋根」の意味だ
こうやって真逆の意味の言葉を使って事実を隠すが分かる人には分かるように書いてあるのが記紀のやり口

491 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 02:31:42.25 .net
実はこの記紀の嘘のつきかたの癖を知っておくと仁徳天皇が淡路島で詠んだとされる和歌が
本当はどこで詠まれた歌だったのかも分かり
そこに書かれた淤能碁呂島が能古島であることもおおよそ分かるのだが
まあ欠史と関係ないからいいか

492 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 02:45:43.15 .net
あと天村雲命に触れたついでに書くと天村雲命の別名に後小橋命があるが
雷大臣の息子の名前は大小橋命である

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%8A%BC%E9%9B%B2%E6%A0%B9%E5%91%BD
>別名を天押雲命、天村雲命(あめのむらくものみこと)[1][2][3]、天二上命(あめのふたかみのみこと)[1]、後小橋命(のちおばせのみこと)[1]と伝える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%8F%E6%A9%8B%E5%91%BD
>父は中臣雷大臣、母は紀氏清夫とし、三人兄弟の長男とされる。

記紀神話の先入観を捨ててこうやって丹念に調べていけば>>446の図が正しいことが読み取れる

493 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 14:12:35.20 .net
小屋根と安曇は基本的に無関係

ここでも安曇は蚊帳の外。記紀的にはなくとも全く影響のない一族

494 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 14:20:15.96 .net
アチメに関する神事の成立は応神期以降。
服属儀礼からしても明らか

宇佐家もそのように直接言及してる
結局伊都チョンは何が言いたいのか全く不明だし、時代が破茶滅茶w

月神信仰を持ってた宇佐や、越知(小市とも高野とも)の事すら知らないんじゃそもそもが時代を組み立てることは出来ない

神功皇后の実家は月神信仰の家で、母系はヒボコの子孫

ヒボコそのものは中国系の韓で、そもそもがチョンが日本の歴史に与えている影響は極小値に過ぎない

495 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 14:38:50.56 .net
古事記は元国造の千家の果安が、国司として赴任した忌部小人が絡んでいる物で、古事記と日本書紀の杵築大社の住所が違っているのは、その近辺で大社が建てられたから。
創建時期で劣る杵築大社が、例えば更に古い神魂神社を押さえて一宮の格になったのは、東西出雲王家が自分達で創建したのが杵築大社だったから。
千家は殆ど出資しておらず、かつては神門家の分家の別火家が持つ鍵を使ってもらえなければ大社に勝手に入れなかった

忌部は8年ほど滞在して古事記の前半部分を担当
その際に徐福を須佐男に変え、良い面の業績を出雲の大国主初代、管八耳と混同させた
故に奥さんが稲田姫になっている
千家の祖神の小屋根を差し出したにしては充分な報酬であるが、興味深い記述が残されることになる

出雲の舅として母系の繋がりで書かれた須佐男ではあるが、粗暴な側面も描かれて、田んぼを荒らすなどしているが、大国主に向かって、この「やっこが」という下がある

これは、国譲り事件で最下層である、やっこ、に落とされた千家の意趣返しであるそうだ。

小屋根は粗相をしていない須佐男の様な書かれ方をして、素性が隠されている

記紀編纂事にはある程度のツハヤムスビ系の権威はあったと考えるのが妥当だが、藤原氏はちゃっかり既に手に入れていたミカヅチを国譲りに登場させて、自分の功績であるかの様に記紀を書いている

日本書紀の太安万侶は八井耳系ので、カシマの鎌足の両親と同じ、多臣家の親戚

太宰府勤務経験もあり、綾部人麻呂の都での柿本家への養子入りの件も把握できる立場にあった

496 :日本@名無史さん:2022/02/09(水) 17:07:39.18 .net
>>493-495のような根拠のない妄想語りが多すぎてスレの意味が乏しい

497 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 12:38:25.40 .net
伊都チョンの笑えるところは、「欠史」の意味を全く理解いてないところ。

磯良は神功皇后期、4世紀なのに、神武より前の五十猛を同一視しているところ。

それ欠史じゃなくて、歴代天皇が、余分なのが入り込んでて、居なかった事になる考え方。
太国さんも言ってるように、紀元前後、もしくは出雲や宇佐、出石の旧家が言及しているように前2世紀の話が記紀によって圧縮されて同一時代に起きたこととして書かれているわけだから
8代を居なかった、架空の挿入された大王として扱わなければ成立しない。

つまり、スレタイからすれば、伊都チョンは本来は出番がない、お呼びではないスレッドなわけだ。

バカ過ぎだよなwww自分のやってることすら理解できないんだから

498 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 12:48:34.28 .net
>>451

>崇神当時九州に卑弥呼がいて畿内に百襲媛がいたのさ。

伊都チョン安曇マンセー論だとその辺が全く理解できてませんよね。
そもそもが、「八井耳系の子孫である多臣、中臣、藤原」が自分の先祖の物語を書かせてて、途中の物部とかを繋げて万世一系を演出してるのに
物部ですら書いて貰ってるのに、安曇は邪馬台国時代以前には全然出てこないのに、強引に安曇参加させたくて嘘を撒き散らしw

イクメに暗殺されて天細女にされた歴史を伝承し、延喜式にも複数ある語り部の中でも本流に近い扱いをされる稗田流がベースで記紀が書かれているのにまだ自説を展開ww
我執の伊都チョンw

499 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 13:03:06.63 .net
磯良舞で一番重要とされるのが、細男舞と言われる
磯良は本当に安曇なのか?と言うことなんだけどね。

豊国の宇佐+物部の姫であるトヨは後年になってから籠神社の工作で(元伊勢として売り出したかった)豊受神にされた
しかし、最終的に猿田彦を祀る椿大社にて暗殺された事により、わざわざ解る様に記紀に猿田彦の奥さんにされ、ウズメになったのだが

天鈿女は、細女とも書くわけだ。イトへん→伊都

磯良舞と、椿大社の神事は共通点がある可能性があるな。細男舞は、隠され、簡単に舞うことが出来ず、寿命がなくなるかどうかの50代を超えてから一度しか舞うことが許されなかった舞

伊都の中心は少なくとも2世紀までは豊国(越智、仁井田含む)物部の王国だったといわれている
ヒボコは倭国大乱期の諸端の戦乱に関わってて、邪馬台国時代より前に淡路島に逃げ込んだという伝承があり、近い遺跡として淡路島のごっさかいと遺跡がある。
その際に伊都にも逃げ込んだとされ、いとし、出石の語源になった。
安曇は古い時代に一時期、単純にイトの長官をやってた時期があるだけの一族。
魏書には、景初の伊都の長官が出てるけど、ビビ→耳、ニギと、八井耳と物部らしい名前に書かれている。
既に安曇は出てこない。

500 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 13:04:34.15 .net
そもそもが安曇を混ぜ込んで欠史を語ること自体が意味不明。
伊都チョンがここに出入りする理由など全くない。

501 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 13:19:28.87 .net
延喜式にはもう一つ、高天原が本来はどこだったかについて言及されている。
タキ津彦系、奈良での神門家(高鴨家)の地盤の西側に、桧(ヒモロギ)が語源になった高台がある。
現在では、かつてのタカオワリムラの範囲の中であるが、高天彦神社の西側あたり。
現在でも高天原の石塔が教育委員会で建てられている。土蜘蛛伝承のあるあたり。
それを窺わせる内容も万葉集にある。

それが神功皇后期までを圧縮して兆候の事実を隠すために、魏書の内容を把握していた危機の編纂者が、高天原を最終的に九州に変更した。
故に、わざわざ神功皇后紀に魏書を引用し、「山門」の地名を書かせた。

伊都チョンの主張は九州説ですらない鼻つまみの話で、九州論者にも相手にされてないw
自分のスレッドでも総スカンされてるのに、無関係の話題のスレッドにまで出張して戯言を垂れ流している。

502 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 13:28:33.00 .net
欠史の代を考えるときに一般の社会は何を考えているかというと
記紀によって時期がずらされているのに、出土する遺跡に該当する歴史がないことで空白の世紀という事になってるだけの話ではなかろうか?

つまり、記紀の方をどうやって組み解いていくかで、逆説的に欠史が存在しないということになるわけだ。

糸井国造家、ヒボコの子孫の神床家(元出石神社の社家)
豊国王国、宇佐氏
出雲の東西王家の富家、神門家

少なくともそれらの旧家の伝承では欠史は存在していない。
語り部の歴史で書かれている記紀は、語り部の伝承がなければ解読は逆に困難と言えるのではないか。

ただし、欠落がないとする旧家の伝承は内容が共通しているが、前2世紀(100年代)を叢雲から始めると景初までが若干間伸びしてしまうことも事実。
これは叢雲からクニクルの代を主張する全てに言えること少なくとも1.5代から2代は消されていて本当に隠されている代の地方の大王がいる。

隠され方に注目しなければ何を持って欠史の7日は定らず、消したら良いのか、さらに付け足したらいいのかが定まらない。

503 :太国 :2022/02/10(木) 13:36:46.78 .net
>>498
諸葛亮が当時の大陸を鼎の三分で示した如く、日本のほうは当時おおむね二分
だったのだよ。
女王国は九州にあり、天皇国は畿内にあったのさ。畿内に女帝は推古から
だから、卑弥呼が畿内の女王でるわけがない。

日本は当時九州と畿内の二分の政局だったのさ。

この神国は萬世一系の天皇が統治するというのが天帝の勅だよ。
演出ではエンタメになり、演出ではない。

504 :太国 :2022/02/10(木) 13:39:54.76 .net
×畿内の女王でるわけがない。
〇畿内の女王であるわけがない。

505 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 13:49:27.91 .net
>>503
> 女王国は九州にあり、天皇国は畿内にあったのさ。畿内に女帝は推古から

実は出雲伝承でも、神功皇后は物部氏の二代目、セイムの妻で、播磨に宮があり大和には居なかったとあります。
息子のタケルは、大和には入れず、関東方面の残党刈りで貝塚のあるあたりで死んだとあります。
その後、関東の方は協力者に任せ、九州征伐をもう一人の息子と一緒に行ったそうです。
神功皇后の三韓征伐(実際には2韓しか平定してない。高句麗は従わなかった)は九州発で、そこから後に武内襲津彦と一緒に奈良に凱旋したとあります。

女帝の出現が奈良からというのは伝承とピッタリです。

506 :太国 :2022/02/10(木) 13:57:24.46 .net
神功は女帝じゃあないですよ。摂政です。
女帝は英女王のような身分のはず。
たとえば雅子さまは女帝じゃあないですね。

それに神功の代は卑弥呼より後代だから、紀の神功の代に卑弥呼の記述が
あるが神功は卑弥呼ではないです。

507 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 14:00:04.84 .net
欠落時代の重要一族は、安曇ではなく、越智(二田物部、仁井田、河野)一族

倭国大乱期には、物部一族がイツセを大将として奈良に向け進軍している。
しかし、問題があった。それは瀬戸内海。既にその頃大和は分裂してて、大彦とフトニが勢力争いをしていた。
フトニは吉備国に地盤を作り、分断されて支配下に置かれたヒボコ族から進んだ鉄器の技術を九州。
強力な鉄の国家となっていた。
一度目の東征は吉備国を避けるため四国ルートだったとされ、一度体制を整えた場所は物部(モノべ)川となっている。

そこに高岡神社があり、祭神が特徴的。非常に重要な場所。

高知県高岡郡窪川町の高岡神社には、モノノベ王国のシンボルの銅矛が5本残されており、今でもそれらを高く担いで村々を回る祭りがある。

モノノベ王国のシンボルは大型銅矛であったが、移住に際してシンボルを銅鏡に変えた時期に当たるらしい。
モノノベ勢の中には、その鏡を持ってそのまま土佐に住み着いた人々がいたらしく、香美や香我美の地名が残っている。

伝承によれば大和時代の6世紀頃、伊予の豪族・河野氏の一派が一族の争いから当地に逃れ、この地の土豪と共に土地を開墾し安住の地と定めたのが創建の由来であるとしているが、おそらく元々の地盤に逃げ込んだと考えられる。
単独の拠点なら物部川にならない。
三島大社と似た祭神で、もろに越智の投影が感じられる神社

そして、かつてその神社は「仁井田神社」といった。
三島大社
「三島大祝家は伊予小市国造の越智氏の後裔であり、さきの河野氏とは先祖を同じくする同族である」とある。
そして、そこにはかつて樹齢3000年ともいわれる楠木が生えていた。

508 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 14:02:59.70 .net
安曇が奈良方面に展開していくのは4世紀以降、神功皇后の征伐から大和凱旋の時代。
だからあの時代に船を出した一族は、現在でも先祖の偉業を顕彰するために「お船まつり」をやるところが多い。
お船まつりには道祖神系と、海人系の二つがあるが、現在の穂高神社のそれは海人系

それも住吉以降の、三柱神信仰と同時期以降の神社

509 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 19:31:34.48 .net
時系列出鱈目玉石混交で読むに堪えない。

510 :日本@名無史さん:2022/02/10(木) 23:31:50.41 .net
160年代の四国ルートの物部東征と、景初の二回目の物部東征の区別がつかないんじゃそもそも付いていくこと自体が無理。

180年代は、土器で言えば纏向1の時代。
布留0はその後の景初以降に比定されている

中津臣の伝承の資格者を中津身というが、藤原氏でも継承することが出来た。
中津身に伝承されてきたのが弓前文書

弓前文書でも東征が複数回あったとこに言及がある。

511 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:04:56.46 .net
>>493
>>445で安曇磯良とアメノコヤネやタケミカヅチが同一神とされていることを教えてやったばかりなのにもう忘れたのか
痴呆だなキナイコシくんは

512 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:10:18.25 .net
>>497
>磯良は神功皇后期、4世紀なのに、神武より前の五十猛を同一視しているところ。
>それ欠史じゃなくて、歴代天皇が、余分なのが入り込んでて、居なかった事になる考え方。
だから前回お前が惨敗して泣きながら逃げたときからずーっとそう言ってるわけだが
神功皇后が4世紀なんて根拠は無いし>>444のとおり安曇磯武良と五十猛が同一人物なのは疑いようがない
神功皇后の重臣である雷大臣が磯武良と同行してるってことは磯武良=五十猛と神功は同時代人でしかあり得ない

君は結局先入観を捨てることができずに記紀の嘘に騙されているだけ

513 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:16:27.39 .net
>>508
そうやって考古学を無視した嘘しか言えないから君の言葉は空疎なんだよキナイコシくん

220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>302
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w

まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)

514 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:18:43.55 .net
1世紀の池上曽根遺跡から樹齢700年のクスノキを使用した大井戸が見つかったことで
ここにいたのが北部九州からきた海人族であることもはっきりしている
キナイコシくんの願望は考古学によって無残に踏みにじられてしまいましたとさ
めでたしめでたし


227 :名無しさん@1周年 :2019/06/01(土) 08:22:56.40 ID:l+G41n4N0
>>307
クスノキ林の自生北限は福岡県とされているね

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。


254 :日本@名無史さん :2022/02/03(木) 00:22:04.57
クスノキ樹林の自生北限が福岡ということは本州のクスノキは人が持ち込んだものということになる
そして九州には樹齢3000年のクスノキがあるのに対して本州には2000年より古いクスノキは無い
http://www.kyoboku.com/jurei/

1世紀の池上曽根遺跡の時点で樹齢700年ということは約2700年前に芽吹いた木ということになるから
そのようなクスノキは本州には無い
間違いなく九州から持ってきたものである

515 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:22:11.82 .net
しかし相変わらずキナイコシくんの書き込みは全てソースの無い妄想だけで構想されてるな
こんなところじゃなくなろう小説で書けばいいのに

516 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 00:53:47.58 .net
>>496
神話がからむとそんなもんだよ
まあキナイコシくんのはかなり極端だがね

517 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 11:29:22.17 .net
>>514
外持ってきたところが三島の越知の拠点という事

和泉の遺跡には泉の痕跡も証拠も全くないし、考古学的に裏付けも何もない

摂津との関係性が窺われる記事になってたけど。摂津も三嶋、越知の地盤

518 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 11:30:26.25 .net
>>515
太国さんと同じで邪馬台国と月神を奉じてた卑弥呼は九州だよ

お前は言ってる事が意味不明

519 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 11:31:32.30 .net
>>511
お前しかそんなことを言ってる奴が居ないんだよ

520 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 11:33:19.49 .net
負け惜しみの伊都チョンは、三島大社の七木の事など知りもしない情弱のホラ吹き

521 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 11:54:31.07 .net
つーか、ホントは三島大社の楠木じゃなくて、大山祇神社の楠なんで、フェイクなんだが、ツッコミが入らないところを見るとホントに何も知らないんだな伊都チョンは

3000年の楠は現在では失われていて切り株。
しかしまだ現存するものがある。
大三島の祖神である大山積大神を祀った、おちの命の御手植えの楠は樹齢2700年で、御神木。境内には「大山祇神社のクスノキ」として38本の国の天然記念物の楠がある。

楠木をシンボルとするのは越知、三島大祝家

安曇と結論づけたのは伊都チョンの願望に過ぎない

522 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 12:29:45.41 .net
穂高神社はケヤキと杉で、楠木はない

これでよくあんなホラが吹けたものだわww

523 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 15:50:47.97 .net
帯方群を通じた朝貢が可能になった時代に三韓征伐があったかの様なことを吐かすのが伊都チョンw

それで大陸に朝貢が許されるはずがなかろうよw

一体何しに行くんだよ

524 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 15:54:27.17 .net
>>517
摂津には安曇江があるわけだが
そんな事も知らない無知がなにをほざいても説得力ゼロだな

525 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 15:55:20.12 .net
>>520-521
>>438でとっくに論破された話を繰り返すしかなくなった負け犬キナイコシw

526 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 15:56:53.60 .net
>>519
八幡愚童訓や八幡宮御縁起でそうなっていると引用してやってるわけだが
現実を認めないことでしか自分を保てないキナイコシくんw

527 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 16:06:02.81 .net
>>523
無知だな
神功皇后=台与のころには中国は西晋の時代だが西晋は291年3月の楊駿殺害から内乱時代に入り
ごく短命で終わり中国の支配力はすぐに衰えた
特に辺境にある朝鮮半島の支配権は比較的早期に失っただろう

528 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 16:13:56.90 .net
神功皇后は4世紀後半

529 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 16:17:26.47 .net
>>528
根拠なし

530 :太国 :2022/02/11(金) 16:37:10.40 .net
>>528
ほぼ同意。合っている。

531 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 18:04:05.70 .net
惣ケ池遺跡だけど、あの地域は阿部氏と大年彦の地盤で、信田ノ森は安倍晴明の母親の伝承
近くの聖神社は、大年彦や関連の5柱が祀られる神社

つまり、尾張氏や海部氏(海家、天家)と、その子孫の阿部氏の地盤

安曇の影など全くない。

摂津は出雲と尾張氏(村雲の海部王朝)、そして三嶋(越知)の地盤

越知は九州から来たと考えられ、豊国の宇佐家に近い
のちに物部と習合して仁井田、新田から、二田物部を名乗る一族が出た(古代豪族集覧より)
楠木のシンボルからしても、祭神からしても安曇にこじつける要素は全く感じられない地域

そもそも吉備国ができる前は、瀬戸内海側播磨から広島方面は出雲系の領地

三島、越知なら播磨や摂津を繋げる事ができる。

532 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 18:05:20.26 .net
>>530

ですよねー。

伊都チョンの意図は全く持ってして意味不明

533 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 18:08:21.61 .net
>>524
だから何?あるから何?ww

四世紀以降だろどうせ

534 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 18:11:09.01 .net
そもそも安曇江なんて場所が特定されてないから、関連する地域との関係性なんて全く論じることのできない眉唾の地名

535 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 20:07:12.16 .net
>>530

どうしましょ、神功皇后がトヨですってww
確かに実家の息長家は月神を祀る九州系が源流の家系だけど
流石にそれを持ってトヨってww

536 :日本@名無史さん:2022/02/11(金) 20:32:04.68 .net
壹與は3世紀後半だぞ。
神功皇后は4世紀後半。

537 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 13:22:27.83 .net
伊都チョン防戦一方ワロタw

538 :太国 :2022/02/12(土) 15:28:38.99 .net
壹與は垂仁の代のあたりの女性であり、だいたい3世紀後半になる。

539 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:40:21.96 .net
>>531
尾張や海部は安曇と同祖で同系統だと前回も教えてやったはずだが
相変わらずの痴呆ぶりだな
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png

天村雲命=アメノイタテは射楯兵主神社の祀る射楯(イタテ)神であり五十猛
つまり安曇磯武良その人だから安曇そのもの

540 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:42:02.74 .net
>>532
キモっw

根拠のない話をいくらしたって根拠なし
きっちり根拠に基づいている>>512は覆せない

541 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:43:08.97 .net
>>533
3世紀前に近江や淡路島まで来ていた安曇が大阪湾岸に来るのが4世紀とか
もう少し現実を見なさい

542 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:45:19.93 .net
>>535
>>512に全く反論出来ない時点で君の負け
祀っていた月神とは神代における月読尊であり人代においては武内宿禰
やはり>>446と一致しているな
自爆おつ

543 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:49:47.75 .net
>>534
住吉は本来スミノエとよみ安曇江が語源だぞw
大阪湾沿岸はまさに安曇の庭

https://folklore2017.com/timei900/954.htm
>景勝地の安曇江(あずみのえ)から「あ」をとって「すみのえ」とした。【大阪 地名の由来を歩く 若一光司 ベスト新書】

544 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:51:25.75 .net
五十猛は2代目大国主だな
因みに1代目の大国主はイザナギ=綏靖天皇な

射楯の名跡は神八井耳の子孫に受け継がれたようだけど何故だろう

545 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:51:54.51 .net
>>536
神功の年代に根拠なし
何度同じ嘘を繰り返しても駄目


>>537
根拠のない空疎な書き込みなんて何度したって無駄だよ
きっちりと根拠を示した>>512に対して何の反論にもなっていない

546 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 21:52:57.06 .net
>>544
>五十猛は2代目大国主だな
残念だが違う
大国主についてはあまり追求しないことをオススメする

547 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 22:00:23.14 .net
射楯(兵主)神は、日矛であり、大国主であり、住吉神かもしれん
そういう気はしていた
住吉大社を入るとすぐ、矛神と楯神が鎮座しており
その時は特に疑問には思わなかったが
また播磨には、中臣印達神社があり、祭神は五十猛神である
藤原氏氏神なる春日大社には奥の宮と呼ばれる紀伊神社があり、そこの祭神もまた五十猛神である

548 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 22:04:13.52 .net
ただ、日矛は播磨を戦場として、伊和大神(大己貴、葦原醜男)と戦っているから
なんとも言えんのだが、少なくとも住吉神は日矛だと思う

549 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 22:29:25.90 .net
住吉神には比売大神がいて、まあ、神功皇后であろうということになっている
日矛に后神がいるとすれば、それはアカルヒメ以外にない
アカルヒメは天御影神の娘で、新羅の地で紅い宝玉から出生し、日矛の妻となった
後に夫の粗暴に耐えかねて倭国へ帰り、国東半島と難波の地で、比売許曽神社の祭神となっている
大阪では阿遅?高日子根神の妹である下照姫ということになっているが、
別の場所に別途赤留比売命神社もある

550 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 22:48:18.31 .net
住吉大社は「若宮」八幡神社を摂社とする
これは神功皇后の子が応神天皇だからだろうか
また、神域の中心ではないが、大歳神もあわせて奉斎されている
摂社には他に志賀神社があり、もっとも格式の高い摂社は大海神社という
大海神社の祭神は豊玉彦である

551 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 22:54:56.71 .net
>>544
>射楯の名跡は神八井耳の子孫に受け継がれたようだけど何故だろう

自己レスだけど解決したわ
母方が大国主だからか
五十猛=大国主→事代主→五十鈴姫→神八井耳=武位起、と
こうして見ると五十鈴姫の五十も五十猛に関係してそうだ

552 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 23:09:44.25 .net
名跡なら母系でも継げるが、宗族関係はやはり男系でまとめたいところだな

日矛だが、彼は播磨への上陸を伊和大神に断られ
ならば、と手にした矛で海をかき混ぜ、島を作ってそこに陣を張ってしまった
矛で大地を作る動作は、まるで伊弉冉尊のそれである

ちなみに伊和大神は出雲神であり、伊和の地名を出雲の地にさかのぼることができる
この伊和大神の子に火明がいるといわれるが、これは娘婿のことだろうとも言われる
記事の文脈がわが子へのそれとは思えないほどの畏怖を伴っているからね
ただ火明が饒速日であるという物部氏族の主張を踏まえたうえで、
東征?に伴って信濃や関東に逃れた「国津神」の子孫らが、こぞって「大己貴」と少彦名神という
国造りの祖神を祀る事情を考慮すれば、この出雲族こそが
神武?に恭順した氏族らと決別して近畿地方を去った、もう一つの天津神といえるのではと考えている

553 :日本@名無史さん:2022/02/12(土) 23:29:44.00 .net
また、播磨では素戔嗚尊は、北部九州においてそうであるように
おおむね新羅の神であるという受け止めをされている

関東へ去った後の国造家について補足しておきたい
彼らの祖神は、伊勢津彦という
調べればすぐ分かることだが、この伊勢津彦が、播磨では火明と言われたりするため
結局、関東で「大己貴」と少彦名神を祀る、かつて東方へ退去した、
後代に国造家となっていた氏族は、簡単に言えば物部氏族の一派なわけだ
これが出雲国造と祖を同じくするから、記紀の説明によれば天津神となる

そして結局、日矛が鎮まった但馬一宮出石神社に招来されている神宝は、
饒速日が高天原で授けられ、一部が籠神社に伝世している神宝とまことによく似ている

554 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 00:49:54.38 .net
迂遠になってしまったが、何が言いたいかというと
神別天孫と呼ばれる氏族の上祖に、「大己貴命」が位置しうるという可能性だ
出雲国造は神話の経緯に従って、出雲の地で大国主を祭るが
何のことはなく、単に自らの上祖を祭っているに過ぎないということだ
そのさらなる祖が素戔嗚尊ということになる
これが事実なら欠史や国譲りの経緯にも大きく影響するだろう

555 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:04:34.96 .net
>>543

住吉は神功皇后系。
安曇が神功皇后のおこぼれでうまい汁吸っただけの話。

七支刀が石上にあって、住吉に伝わらなかったのは別物だから。

全くもってして話にならん妄言だなw根拠なし。

山城国と国という説もあり、通説上の地名に過ぎない。

556 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:16:37.76 .net
>>553

スサノオが朝鮮系と言われるようになったのは神功皇后期以降ですよ。
大陸系と半島系の混同が起きました。

ヒボコは新羅ではなく、辰韓の頃、紀元後100年頃に来たとされます。
辰韓は、秦韓とも言われ、中国系の国でした。

ヒボコ族は須佐族と習合していき、銅鐸祭祀を丹後で、その後は習合の影響で銅鏡祭祀に変わっていったそうです。

関東国造家の本質は、本当は出雲族と、安倍(尾張家、本来の神武)で、邪馬台国事件以降、邪魔になった豊彦を討伐する為に
物部イクメ(垂仁)の要請で進出し、国造家になっていきました。
出雲兵の目的は、富の霊璽を奪った豊国軍を追い払う目的だったという事です。

その後、政権からの圧迫を怖れ、系図にホヒの子孫であるかのようにして家を守ったとされます。
後期の物部系に入れ替わる前の初期の関東国造家の系図には「タケヒナドリ」が入っていることが多いです。
武甲山神社の社家は、現在でも「守屋家」です

これは、奈良での出雲の分家に、ホヒ家の娘、サマナ姫が入っているからです。
女系の先祖を男系の先祖であるかのようにいじったそうです

557 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:19:35.72 .net
>>549

出石神社の神床家は、実はヒボコに嫁をやった豪族の家系なんです。
ヒボコの舅の家なんですよ

558 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:26:30.49 .net
>>553

イセツ彦は風の古い紙で、鉄を吹く際の風の事を表すとされ、風三郎とかそっち系ではありませんでしたっけ?

『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」

伊勢は、出雲系と、若干の忌部の親戚、八坂が入ってるイメージ

559 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:32:08.20 .net
少なくともトヨは泰始二年(266)年までは大陸と朝貢の痕跡が認められるから、その時点で伊都チョンの神功皇后説(失笑)はレベルが低い妄言という事になるわな。
あいつ、何がしたくてあんなホラを吹いて回ってるんだか

魏志倭人伝は、梯儁、張政の二度の遣使の報告と、魏政府公文書等を、陳寿自身の見解に従って整理編纂したもので、ほとんど同時代のことを書いているため、トヨに関する情報の信頼性は極めて高い。
233年生まれの陳寿は壱与と同世代の人間。
三国志を著したのは、晋が呉を平らげた後と記されているから(華陽国志)、280年以降で、その死は297年。

560 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 04:38:29.91 .net
>>547

射楯(兵主)神となると、播磨の射楯兵主神社ですよね

あれ、神様上書きされてて、朝鮮系の村の後に、尾張氏系が入り込んでそうなったようで、本来はイタテと兵主は別の神なんだそうです。
本来の古い兵頭神は、蚩尤を祀る神社で、イタテ系(カゴヤマや五十猛系)の子孫が建てたそうです。

奈良の兵主神社は、本来はイタテヒョウズ神社と言ったらしいのですが、実は五十猛は祀られていません。
ヒボコが入ったのは後年とされ、少なくとも景初以降、タジマノモリが奈良を攻めて、野見宿祢に追い出されたあとに習合したと思われます。

561 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 07:50:02.79 .net
>>508
>安曇が奈良方面に展開していくのは4世紀以降・・・・・
4世紀以降に阿曇族が奈良大和盆地の何処の地に進出したのか?
阿曇族の進出を示す大和盆地の遺跡はどれだと言うのか?

562 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 08:29:21.88 .net
>>507
>欠落時代・・・・・
何が欠落していた時代を指しているの?

>物部一族がイツセを大将として奈良に向け進軍・・・・・
イツセとは始祖ニギハヤヒのどういう縁者なの?名は五瀬?伊勢津?
奈良を目指した理由は何だったの?

>分断されて支配下に置かれたヒボコ族から進んだ鉄器の技術を九州・・・
何者が何の為にヒボコ族を分断・支配したの?

>安住の地と定めたのが創建の由来・・・・  
創建されたのは高岡神社なの?「仁井田神社」なの?

>単独の拠点なら物部川にならない・・・・・
何がどういう理由により物部川にならないの?

>三島大社と似た祭神で、もろに越智の投影が感じられる・・・・
祭神名は何といいどういう点が似ているの?越智の「投影」とは何?

>先祖を同じくする同族である」とある・・・・・
先祖を同じくする同族?何にそう記されてあるの?

>かって樹齢3000年ともいわれる楠木が生えて・・・・・
論旨不明。かって楠が生えていたから何だと言いたいの?

563 :日本@名無史さん:2022/02/13(日) 11:24:32.56 .net
>>562
〉>かって樹齢3000年ともいわれる楠木が生えて・・・・・
〉論旨不明。かって楠が生えていたから何だと言いたいの?

なるほど、楠の井戸があるだけで安曇にこじつけした伊都チョンのお話は論旨が分かるんですか

素晴らしい理解力ですねw

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