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欠史八代とは何だったのか? 其2

1 :日本@名無史さん:2019/03/06(水) 00:39:29.03 .net
議論の続きをどうぞ

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547384861/

674 :日本@名無史さん:2022/02/16(水) 23:05:50.15 .net
>>657
俺は神功は台与だと言っているのに卑弥呼が何故出てくるのやら
君はまず時系列というものを理解しなさい

675 :日本@名無史さん:2022/02/16(水) 23:15:33.82 .net
>>662
至極簡単なことだよ

>紀元前後のイソタケルが、神功皇后期の安曇磯良と同じになり、もう出鱈目である
五十猛が紀元前後というのが間違い
雷大臣とともに新羅に遣わされた安曇磯武良=五十猛が紀元前後の人物のわけがあるまい
最初から3世紀後半の人間だよ

676 :太国 :2022/02/16(水) 23:21:21.90 .net
>>668
外国の資料の年代と日本の年代と対応させて信じちゃぁダメ。
そういう点で疑わしいというのは分かるが、混線した紐をほどくようにやると
不合理でなくなるのさ。

外国資料と日本の年代を突き合わせて失敗的だったのが、神功39年の倭人伝という外国資料からの神功紀記載であって、年代を合わせられなかっのだ。
だから外国資料をそのまま使うと失敗だよ。例外はあるがね。

合わない理由は、日本が2倍暦等を使ってたのに大陸半島は通常の暦だから
ずれちゃうのさ。だから外国資料は通常は使うなということ。
再度言うが例外はある。卑弥呼の真の年代は崇神の時代なのだよ。

677 :日本@名無史さん:2022/02/16(水) 23:36:27.81 .net
>>676
いや>>668は外国の資料関係ないから
記紀の内部で自己矛盾してる
ついでに言うとこの時期の記紀は更に疑わしい点がある

紀角
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%A7%92
> 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。
> これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという[1]。
>
> また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。
> その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという[1]。

この2件は同じ出来事を2回別時代のこととして書いていると見られる
いくらチョンの先祖でも王族が立て続けに2回も無礼を働いてしょっ引かれるなんてことはあるまいよ
神代と人代という大きなループの他にもこういう小さなループがあちこちに潜んでいる

678 :日本@名無史さん:2022/02/16(水) 23:40:21.72 .net
ところで先述の的戸田宿禰には面白いエピソードがある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%AE%BF%E7%A6%B0
> 「高麗国(こまのくに、高句麗)、鉄(くろがね)の盾・鉄の的(まと)を貢(たてまつ)る[5](中略)高麗の客(まらうと)を朝(みかど)に饗(あ)へたまふ。
> 是の日に、群臣(まへつきみたち)及び百寮(つかさつかさ)を集(つど)へて、高麗の献(たてまつ)る所の鉄(くろがね)の盾・鉄の的を射しむ。
> 諸(もろもろ)の人、的を射通すことを得ず。唯(ただ)的臣(いくはのおみ)の祖(おや)盾人宿禰(たたひとのすくね)のみ、鉄の的を射て通しつ」
>
> 誰も貫通させることのできなかった鉄の的に、唯一射通した盾人の勝れた力を、高麗の客人たちは、「共に起ちて拝朝(みかどおがみ)す」という。
> 翌日、盾人宿禰は功績を讃えられて、的戸田宿禰という名前を賜った。
> このことについて、本居宣長は『古事記伝』の中で、盾の的を射たのだから、戸田を「盾人」に改めたのではないか、という説をあげている。

へー盾を射たんだ

射楯だねぇ

こんなことに気づかないとは本居宣長も意外と抜けてるな

679 :日本@名無史さん:2022/02/16(水) 23:45:45.15 .net
さて、俺は>>446で生国の伊都国を追放されたスサノオこと雷大臣が日本各地に残した足跡を図にしたが
越後で祀られたり近江で伊香氏の祖となったりしながら最終的には畿内入りしたと思っている
なぜそう思うかといえば、彼が大物主の正体だと睨んでいるからだ

http://amanokuni.blue.coocan.jp/azumi.htm
> 1809年(江戸中期)成立の対馬の地誌「津島紀事」には、「琴崎(きんさき)の海底には「龍宮の通路」と称する穴有り。
> 神功皇后の新羅出征の時、碇(錨)がこの穴に挟まって抜けず、舵取安曇磯武良、亀に乗りて海に入り、碇を得て出で来る。」とあり、
> 磯良神は亀に乗り、龍宮と行き来が出来る存在として描かれている。
> 古代、「龍宮の使い」も「海神の駿馬」も鰐鮫であったが、後世、道教的神仙思想が反映するに伴って「亀」に変化して行ったことがわかる。
> また、「琴崎大明神の社、祭神一座、少童命また磯良と云う。」とあり、少童(わたつみ)神と磯良を同神としている。
> この上対馬郡琴崎には胡禄(ころく・やなぐい)神社が鎮座しているが、同じ「津島紀事」に、
> 「古、覡婆の小島氏(胡禄神社社家)の女が磯に出て、金鱗の小蛇と金の塊石を社前の海辺で見つけ、竹漉籠(ショーケ)ですくって祠に祭り奉った。」とあり、
> 琴崎大明神は磯良神であるから、磯良神の正体は小蛇ということになる。
> 蛇体の神というと、大物主神や阿治志貴高日子根神(賀茂大神)が思い浮かぶし、松浦の佐用姫にも関係がある。出雲のセグロウミヘビのような蛇だったのだろうか?

680 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 00:09:00.19 .net
>>660
桃太郎のモデルが吉備津彦というのは間違いだと思うね
まず根本的な話として

1.吉備津彦の時代の日本に○○太郎というネーミングセンスは存在しない
2.吉備津彦には姉(モモソヒメ)がいることがはっきりしている 兄や姉がいる人物が桃から生まれた男の話のモデルになれるわけがない、姉はどこから生まれたという話になる

この2つの根拠から吉備津彦モデル説は嘘だと考える

では誰なのか
結論から言えば安曇百足だろう
百足はムカデではなくモモタリと読む

志賀海神社歩射祭
http://webtv.pref.fukuoka.lg.jp/sp/movies/detail/3238
> 歩射祭は昔、志賀島で人や家畜に大きな危害を加えていた 「土蜘蛛」を阿曇百足(あずみの ももたり)と 8人の射手士(いてし)が退治した古事に由来し、
> 年占いと兼ねて、無病息災・五穀豊穣・豊漁を祈念 して受けつがれています。
> 県指定無形民族文化財に 指定されています。

この志賀島での土蜘蛛退治が鬼退治伝説の元ネタだろう
モモタリが訛って桃太郎と伝わったと思われる

681 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 00:41:25.89 .net
では何で吉備津彦がモデルということになったのか
ここからは少し確度の低い推測になるが>>680の話と別の話が混同されたのでないか
>>679のとおり大物主の正体が流浪の果てに畿内にたどり着いたスサノオもしくはその子五十猛だとすると
その現地妻が吉備津彦の姉モモソヒメということになる

そしてモモソヒメは大物主の怒りに触れて箸で陰部を突き死んでしまったとされる
普通に考えれば殺されたのだろう
となれば大物主は吉備津彦にとって姉の仇である
彼は仇討ちを果たしたのではないだろうか

神功は新羅征伐の後に香坂(カゴサカ)王・忍熊(オシクマ)王の二人を征伐しているが
どうもこの二人が気にかかっている
天村雲命の別名は天押雲根命(オシクモネ)であり、もっとストレートに天忍熊根命(オシクマネ)とする神社もある
カゴヤマとオシクマネの親子とカゴサカ・オシクマの兄弟
血縁設定こそ違えどちょっと似すぎている気がしている
朝鮮征伐で功を挙げた二人を狡兎死して走狗煮らるとばかりに始末したのでは

で、オシクマが敗れて入水自殺するときに共をしたとされるのが五十狭茅宿禰
なんかこれも吉備津彦の別名に似てねえか
実際は共に入水したどころか裏切って姉の仇を討ったんじゃないかって気がしてならない

桃太郎が討ったとされる鬼の大将の名は温羅(ウラ)
カゴヤマこと雷大臣は卜部(ウラベ)の祖として伝わっている

これはあくまで名前の類似性だけの推測だから大して確信のある話じゃないし
また時代が違うと騒ぐ人が目に浮かぶようではあるが
ループが1回だけとは限らない以上疑い例としてはありだろう
まあこぼれ話程度に

682 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:03:50.83 .net
>>669

>新潟の弥彦神社では主祭神がカゴヤマでその第一子をアメノイタネとしている

またアホ丸出しのデマを
あの神社は大彦の神社。社家は高橋家。
稲荷山鉄剣でも出てくるタカヒシワケの一族だよ。
村雲の正当の一族なんだから、イタテ(村雲)が入るのは当然
183年の大彦琵琶湖撤退の際に、三島(越智)(二田物部)の手を借りて北陸に逃れた。
二田物部神社の社家は5つの家で守られてきたが、現在でも三島氏

683 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:06:39.04 .net
>>671

>全国にクスノキを植えて回ったのは五十猛=安曇磯武良で
>そうしろと命じたのはスサノオだぞ
>そんなことも知らずに噛み付いてきたのか?

それで?お前の吠えてる妄言と安曇の関係は?(失笑)
どうも安曇は主流ではなく単なる分家の様だが?お前の妄言の通りだとすると、スサノオは海部の家系の様だが?

684 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:11:16.70 .net
>>670
>悪いが今までの経緯からして信用できない

べつに俺がそんなことをする義理はないね。自分で探せば?(失笑)

>朝鮮は関係ない

お前アホだろ。ヒボコ入ってる事多いだろ、兵頭は。wwこいつモノをしらないんだなw

685 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:14:35.57 .net
>>675

>最初から3世紀後半の人間だよ

おまえwwその間の海部家の系図まで圧縮か?www
一応、尾張の親戚なんだから、皇室の系譜と同じ代を重ねてるんだぞ?w
金印のクニオシヒトの先祖が3世紀にワープwwww

686 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:27:53.51 .net
神功皇后の時代の武内宿祢は武内ソツ彦。

朝鮮への征伐は、新羅の王族が本流から部下の血筋に変わった段階で、皇后が相続権を主張した事による。
成務に相談したが断られ、彼女は成務を見限る。
次に皇后が相談したのが中津彦。中津臣(中臣氏)だったが、彼にも断られ、そのうち彼は若くして戦死
最後に相談したのが日向で水軍を掌握していた西都原のソツ彦だった。

かれは全ての血筋が入った人間だったから、安曇や和歌山の連中まで呼び寄せることが出来た。
それで、大群で押し寄せ、戦うことなく二国は平服。高句麗のみ従わなかったから実質二韓征伐に終わった。

ちなみに、宇佐の伝承だと、神功皇后は後にソツ彦に捕らわれたという他の旧家にはない独自の伝承を持っている。

ソツ彦はヤマトに凱旋し、葛城に最終的に落ち着いた。
そこから葛城氏と名乗ったことが記紀の制作者には都合がよかったらしく、結果、「村雲の王家=磯城王朝=葛城国」が隠されることになった。
武内大臣が長命になったのは、神功皇后期まで圧縮された同時代まで子孫が活躍したから。

最初の武内宿祢=武内太田根は、景初の魏書に書かれた人物。弟の額田宿祢はヌカダイと書かれている。

687 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:29:17.94 .net
上毛野の竹葉瀬君が実子の身代わりで神功皇后に呼び寄せられ、応仁として即位する前
若くして夭逝した神功皇后の子供は、ソツ彦との間の子供だったと言われている。

688 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:36:52.39 .net
ここからは純粋に出雲伝承になるのだが

成務は結局、ソツ彦の協力で自分も征伐に参加したそうである。
征伐後も、朝鮮半島に残り、高句麗を度々撃退したそうだ。それが感謝され、七支刀が贈られた。
故に、あの刀が住吉に贈られることはなく、石上に落ち着いた。

しかし、征伐で九州の物部を相当動員してしまい、九州では物部氏は衰亡に向かったとされる。

伝承では言及してないが、実は物部の里とも言われている吉野ヶ里は、3世紀以降に遺跡が衰亡に向かったことが言及されており、奇妙な伝承殿一致が見られる。

朝鮮半島南部に前方後円墳が見られるのは成務の物部の影響らしい。

689 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:40:54.77 .net
>>674
>君はまず時系列というものを理解しなさい

お前は物事を筋を通して整理して嘘を言わないという事を覚えなさい

神社関係者の伝承を稚拙に嘘と言い放つ割には志賀島神社や弥彦神社などに言及のご都合主義の癖してな(失笑)

村雲がイタテという話は存在するが、イタテが五十猛本人だという話はそれこそ根拠がないし、神社関係者もそう簡単には踏み込んでこない分野。

690 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 03:00:06.39 .net
宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
神功皇后の影響を受けているとしか思えない神事

スサノオの朝鮮との関わりの下りは、神功皇后期のこの出来事が関係していると思われ、出雲伝承でも奇妙な一致の下りがある。
因みに、出雲伝承の本では宇佐市は一切取材で登場しないので、大元出版によって宇佐市の話は影響を受けていない。

出雲伝承では150年頃に播磨へ海部勢力が攻めてきたとき(ヒボコ族の播磨侵攻:最初の物部東征の少し前)、敗れたヒボコ系の人々が「淡路島」や「福岡の糸島半島」(志賀島や古代伊都国の地)へ船で移住し、残った広峯神社には海部軍側(村雲=イタテ族)がスサノオと五十猛を祀り、その後ヒボコの後裔である息長垂姫(神功皇后)が牛頭天王を祀り、新羅国明神と尊称したそうである。
それが「後代に祇園へと移された」という。この複雑な経緯によって「秦国系渡来人」と「新羅系渡来人」との混同が始まったようです。スサノオと牛頭天王の融合もここにあったのかもしれない。

紀元後100年に来たヒボコは、当時は辰韓(秦韓)といい築秦国と同じく秦国系の韓だった。
まあ、しょうがないっちゃないんだけどね。
伊都、いとしに通じるとも思われる糸井国造家、ヒボコの家系の神床家は、出雲伝承以外の本以外にはどの場面でも取材に応じていないし、他の神社の様に神床文書とか、そんな自身の歴史を一切公開せず、口伝で歴史を紡いでいるし
出石神社も新羅の時代って表向きには言ってるからね。

因みに、先代の出雲の伝承者は、神床家の人間と戦地で行動を共にし、娘を神床家に出している。
親族同士で情報の共有も行われている。たんなる噂を乗せている訳ではない。

伊都チョンの妄言のレベルの低さを挽回するのには余程の確度の話、誰でも把握できる証拠を出してもらわないとねww

秦韓系の人々が志賀島へ移住し、その後神功皇后の三韓出兵があり、磯良と神功皇后と新羅が融合していったと考えるのがどう考えても自然。
普通の人間なら、安曇と、海部とセンダイクジホンギで疑問を持つだろうし、磯良と朝鮮の関りは後世に起きたという可能性を考えるもんだと思うけどね。

それが出来ない恥ずかしい人も居るんでしょうねぇw

691 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 03:08:01.80 .net
阿知女作法は「宇佐家が自家の家伝として行っていた鎮魂祭」で「あちめわざ」と呼ばれる神楽歌であり、今も「宇佐八幡宮の分霊社」である石清水八幡宮に伝承されている。

この鎮魂の神楽には韓神の舞があって、その前後にあちめわざと呼ばれる呪詞が唱えられ、最初に「あちめ」といい、次いで「おお おお おお」と呼び答えるのが決まり。アチメとは阿度部アドメノ磯良を呼んでおり、「おお おお おお」とはそれに答える神の声なのだ。
因みに、昔は大陸を表すのに唐から、も使っていた。言葉にも混同に近い揺らぎがあるわけだ。

つまり、成立年代等(応仁以降)に関しては、宇佐市の見解が最優先という事になるわけだ。
かれは著書で「応神天皇と神功皇后に関係のある神楽であった」と言い切ってる

おやおや、スサノオどこに行ったしwww

692 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 03:20:55.33 .net
アチメ作法は宮中の祭祀に取り込まれたが、オリジナルの阿知女の神楽歌は現在でもきちんと宇佐市に残っている。
伊都チョンが散々バカにして否定する口伝であったものだが現在では文書化されている

そこに登場するのは興味深いモノになる。
「石の上 振の社の 大刀もがも 願ふ其の児に その奉る」

「三輪山に 在り立てるちかさを 今栄えでは いつか栄えむ」

「吾妹子わがいもこが 穴師の山の 山のやまも 人もみるがに 深山縵みやまかづらせよ」


磯良を呼ぶのに何故山なのだろうかww
更に、「穴師」と言えば、現在でも残る兵頭神社のある地名の事。(元々は製鉄用語らしい)
一番古い兵頭神社であるが興味深いことがある。
これは一般論であるが「この神社や他の兵主神社を調べても、祭神がよくわからないらしく、大和国魂神とはあっても五十猛神を祀っていると説明しているところは見当たらない。」

ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。
「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」

何が言いたいかって言うと、伊都チョンってバカだから、アチメ作法をアホみたいに持ち上げているのだが「肝心の中身を知らなかったらしく「穴師」」の事など考証に入れてないという事。

安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www

だよなぁ、伊都チョンの言う通り、奈良の兵頭神社とイタテは無関係で、磯良とは関係ありませんよねぇとなる(失笑)

ホント、あの嘘つき、筋の通った話も出来ないし、そもそもが知識に乏しい。

693 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 03:48:22.85 .net
因みに、出雲より古くから九州に土着していた宇佐氏だが

出雲と習合した後の、「宇佐津臣命」の段階ですら、コヤネの3代後という凄い家柄

藤原不比等の父親、鎌足の両親は「中臣鹿島連」の系統で、更に7代後の大盾命から
中臣連はその3代後の分家で、鎌足はそこに養子入りした。
藤原氏が中臣の中津身を継げるのはそういう理由。

格が相当上の家で、馬の骨の伊都チョンが軽々しくバカにできるような存在ではない。

694 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 04:07:00.46 .net
古代豪族系図収攬5ページ

コヤネの位置関係が分かる系図がある。これはおそらくだが、出雲の分家である忌部氏が、一時大陸系の子孫だと名乗った際に付け加えた系図が混じってると思われるが

大麻彦(忌部連祖)
天白羽鳥命(麻績連祖→八坂彦→八坂トメ)
天羽雷雄命(倭文宿祢系)

この三兄妹の親の世代に、「天日鷲翔矢命と、徐市の母親である高木神(栲幡千千姫命)」がいて、そこに高木神に関する注釈がある
「コヤネの后」と。
その更に一世代前にカガセオと言われる道教のシンボル、妙見の「天背男」がいる。

カゴヤマ=五十猛の爺さんに背男が居ると言ったのはこういう事情なのだが、忌部氏は、自分の家は尾張氏や、海部のより前、高木神の親戚の母系から分かれた家だと主張したかったらしい。
どう考えても安曇氏と同じやり方だろうな。
徐市であるワダツミの孫が村雲であり、タテイタツ。振魂命が五十猛(カゴヤマ)という事であれば
安曇は忌部氏以下の、村雲の父親の兄弟家系に過ぎないという事になるからな。

安曇は系図をいじるのなら、もっと上の代から分かれたことにしておけばいいのにw
新撰姓氏録の記録は、安曇が家督をとれなかった証の系図か、もしくは海部と同じでちょっと母系から失敬した盛った系図を表しているに過ぎない。

695 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 04:10:28.04 .net
つまり、コヤネは徐猛の事をさすらしい。

出雲の千家は、コヤネを中臣に差し出しているが、本来は皇室や出雲王家とさほど変わらない代数を数える、神床家以上の旧家
これは国譲り事件で、犯人を手引きしたから。

千家は、コヤネの子、スサノオと同じランクの旧家らしい。

696 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 04:31:31.71 .net
>>680
>桃太郎のモデルが吉備津彦というのは間違いだと思うね
>まず根本的な話として
>1.吉備津彦の時代の日本に○○太郎というネーミングセンスは存在しない

記紀も数百年後に成立している訳だがw
民間伝承が生きている時に出来るなんて話、逆に聞いたこともない

697 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 04:45:03.81 .net
兵主にヒボコが入ったのは応仁期以降。物部氏が圧迫されてヒボコの子孫であると言い始めた時期以降に入ったと考えられ
書記に純粋にイタテを祀ったと考えられるのが奈良の兵頭神社という事になる。(村雲か、その次辺りで三輪山西方を守る位置に尾張氏(これは私の推測だが、もしかしたら海部氏)が作ったらしい)
それは宇佐氏の書いた本や、神事の内容からも明らか。

現在でも宇佐八幡には石上から来た神事があり、物部氏のその後を知る立場にあった。
垂仁に裏切られ、宇佐市のトヨは殺されたが、現在では和解している様である。

698 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 05:03:27.46 .net
>>672

へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww

まさか、自分が根拠、俺様が証拠って妄言だったわけ?www

699 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 01:51:28.23 .net
実は、新撰姓氏録にある安曇氏の系譜ってのは、厳密に言うと安曇氏の系図ではない。

「穂高神社社家」の系図で、海神である、ワダツミ豊玉彦からの系譜。

志賀島神社の安曇家は、単独で系譜を公開していないので、そもそも伊都チョンの把握していると思い込んでる安曇の系譜は穂高神社の社家の系図。
タテイタツ(村雲)の代からすると、多久置命から並べれば、11代目、安曇浜子でやっと安曇連の初代になる。
臣を一度も貰ってない家系。
11代崇神期は、その4代前の大栲成吹命でるから何代かは欠損がある系譜としか判断できない。
仮にだが4代を代入で当てはめると、連の時代は神功皇后期になる。
連の方が格上とか吠えてたけど、宇佐津臣の例からも分かるように、少なくとも最低でも崇神期以降のカバネに過ぎない。下手すると神功皇后期となる。

700 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 02:27:14.25 .net
「宇佐八幡宮の分霊社」で、「宇佐氏の神事であるアチメ作法」がある石清水八幡宮の縁起である「平安期成立の『八幡愚童訓』」には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。

磯良が最初に居たのか、元々のワダツミに戻したのかは不明で、『八幡愚童訓』は根拠が不明確で、神事の舞からすれば宇佐氏との繋がりの方で考えるほうが妥当と言える。
確か、筑紫舞(磯良舞)は広島の方に疎開し、春日の細男舞を見た疎開先の伝承者が磯良舞として復活させたんじゃなかったかと記憶している。

なので、現在でも志賀島神社では磯良「細男」の名でも呼ばれているはずだよ。
本来はワダツミを祀ってて、応仁期以降に磯良になり、現在では昔の祭神に戻したと考えるのが妥当

701 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 09:52:16.83 .net
欠史の皇族に少童と書いてワダツミと読ませている例は
どう理解すべき?

702 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 13:22:30.88 .net
ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見) に関しまして。
確かに、海童とも書きますね。

二つの考え方があると思われます。

一つは出雲伝承
徐市と共に日本に渡来した諸氏達をまとめて秦氏と呼んだと言う考え方。
組合みたいなものでしょうか。本家らしきものは見当たりません。
海童神社というものが象徴的にわだつみを祀るイメージ。

それともう一つはヤマトで葛城氏を名乗った武内襲津彦です。
古代豪族集覧では、彼の後に秦氏が出ています。
記紀により襲津彦は葛城国を隠す重要な役割を演じていますが、秦氏の祖と言うのも政治的な背景が否定できません。

703 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 16:15:54.77 .net
>>701
続き

しかし、武内(葛城)襲津彦だと、欠史8代から外れます。
天ホアカリ饒速日は、尾張氏と、物部氏の共通の先祖ですので、両家がわだつみを拝んでいてもおかしくはありません
特に、わだつみ信仰は九州の方が盛んというイメージがあります。

704 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 16:37:06.28 .net
>>703
ありがとうございます

「少彦名」が大国主のもとへ海を照らしながら渡ってきたとの描写が思い起こされます
見た目にいくつもの伝承に分かれている氏族が
饒速日あるいは素戔嗚(海を治めよという伊弉諾の命)
あるいは豊玉彦を上祖とする一つの家なのかもしれませんね

大物主はまた、少彦名に代わるように海を照らしながら
大国主のもとに現れました
両神の、あるいは三神の一体同神を表すエピソードなのなら
かつての出雲あるいは奈良盆地の政権を解明する
鍵になるかもしれないですね

705 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 16:47:30.81 .net
安曇氏は、本当に安曇氏なのか。
ちょっと変な話をする。

穂高神社社家の系図だけど、都でやらかして、謀反の疑いをかけられて長野に飛ばされるまでの系図は、基本的に本来の安曇と同じ系図でもおかしくはない。
記紀に影響して隠されねばならない事情があっても、それは、他の系図も同じく影響を受ける話になるなので、ほかの系図と比較対象が可能である事は十分に期待できる。

さて、穂高神社の阿曇比羅夫。
白村江の戦いで戦死した中興の祖である人物。
実は、阿曇比羅夫と、安曇磯良は、安曇の系譜には存在しないのである。
欠史8代から外れる阿曇比羅夫は別としても、神功皇后と一緒に他国まで平らにした歴史は本来であれば絶対書きたいはずであり、信濃に飛ばされる前なら本来の安曇の系図で共通部分を掲載してもおかしくはない。

しかし、同じ名前でほぼ同じ時期に存在した人物がいる。
阿部比羅夫。そう、阿部氏。
伊都の近くには安倍の古い地盤がある。

706 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:01:14.57 .net
阿曇比羅夫と阿部比羅夫は、死亡時期が一年しか変わらないようである。

しゃあ、磯良は?と言う事になる。
安曇磯良は、別名が阿度部磯良
ちょっと強引な想像だが、近いと言えば近いのかもと言う仮説を作ってみる事にする。

さて、宮地嶽古墳の被葬者は、阿度部磯良という話が多いのではないか。
しかし、古墳という観点から見ると、宮地嶽古墳は異質であるという話がある。

まず、一般的に古墳に関して言われている事は
造営は6世紀末から7世紀前半という事になっており、若干夢のない話になっている。その時点で四世紀の磯良か、離れてしまうのである。
しかしそれは無視して強引に仮説を進める事にする。

宮地嶽古墳は津屋崎古墳群に指定されている。
結果から言うと宮地嶽古墳の地区だけは宗像一族とは思えないのだ。同じ海神一族と言われるのに、向いている方向が違うのだ。
津屋崎古墳群の4つのゾーンのうち宮地嶽神社の奥宮が古墳となるのだが、このゾーンだけ向いている方向が博多方面となっていて、一線を画していたはずの筑紫君一族のほうを向いているのだ。

707 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:10:09.02 .net
磐井の乱の磐井は阿部氏

安曇系として知られる事の多い宮地嶽神社の見解は、実は阿部系。
現在の祭神は以下の通り
神功皇后
勝村大神
勝頼大神

この勝村、勝頼大神とは三韓征伐で活躍した武人らしい。
昭和19年の福岡県神社誌に由緒として「宮地嶽大明神安倍相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿云々」とあります。神功皇后の三韓征伐前に宗像三女神に祈願し勝利したので三女神を奉斎し、「のちに神功皇后を御同座に祀る」とある。

比較的すぐに阿部に突き当たる。
同じような内容が筑前国続風土記拾遺(江戸時代の地誌)にも出ている。宗方女神は戦後に外されたらしい。
つまりは以下の通り
宮地嶽大明神⇒安倍相丞(相亟、亟相とも)
勝村大神⇒藤高麿
勝頼大神⇒藤助麿

もうこの時点で八井耳と阿部になっている。
ちなみに、出雲伝承でも磐井は阿部(大彦系)となっていて、奇妙な一致があるのである。

708 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:12:42.29 .net
一般には磐井は、安曇氏ではないかと言う事になっているが、阿部氏のようなのである。

確かに日本書紀には、孝元天皇の第一子の大彦命は安倍臣など7族の先祖であるとし、そこに筑紫国造も含まれているのだ。
ジワジワ筑紫君との関係が深くなってくるのが分かるであろうか?

709 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:17:35.22 .net
日本書紀にある毛野臣への同じ釜の飯のセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれる。
であれば本当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたとも、とれ、まさに安曇や阿部隠しにピッタリの仕掛けが為されていると言うことではなかろうか?

つまり、阿部の人間を安曇として書かれているのではないかと言う大胆不敵なw妄想が成り立つのである。
九州ファンの方御免なさい。

710 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:21:58.09 .net
ちょっと欠史8代から外れるが
日本書紀の仲哀天皇の御代で安倍氏に関わると思われるところがある。
天皇皇后が山口から香椎宮へ向けて行幸中、出迎えた岡県主(遠賀郡)先祖の熊鰐ワニが阿閉アヘノ島(相島)を献上したり、船が遠賀川河口で動かなくなった時に船長の伊賀彦を祝はふりとして祀らせると船が動いた(高倉神社の由来)といった話がある。
相島は古くは阿閉島といって、これは大彦の子孫の阿閉臣と同じ名です。また伊賀彦も大彦の子孫。

少なくとも糸島のすぐ近くには阿部氏がいた事はなんとなく想像できそうなのである。
安曇の隠された先人はもしかしたら阿部の可能性がある。

711 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:23:42.90 .net
ネット上では藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことであるとの情報が出ているのですが、その出典は見つかりませんので注意して下さいね。

712 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:36:02.14 .net
磐井が生前に築造したといわれる岩戸山古墳

そこに接するようにして吉田大神宮が建っている。
以前は墳丘上部に祀られていた伊勢社を遷したそうだ。
大正11年には菅原道真(出雲系)が合祀され、さらに石造猿田彦塔や大山咋命(クナト大神共に出雲系)を祀る松尾宮ができる。
出雲の匂いがプンプンの神社なのである。
磐井に関わる二つの古墳と神社が阿部系という事になる。

同一性を問うのなら、磯良と、イソタケルの系譜、尾張氏から大彦の代で変化した安倍家の方が説明が楽なのである。
伊都チョンのように安曇が本家だと全く成立しない。
安曇が尾張氏や海部氏や、安倍の分家なら全く問題もなく、子孫に磯や、五十の字をつけることが出来るのである。

713 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 17:58:48.87 .net
安曇は後に、連に加えて部民、安曇部になっている
さて、安曇磯良の別名、阿度部磯良の阿度部とはと言う事になる。
一緒にしたら本来は不味そうである。

しかし、安曇が尾張氏(神武の男系の実家)、海部の分家で、阿部(本来の神武の家系)に近いのであれば全く問題なくなるのである

妄想終わり。

最終的に蝦夷扱いされた安倍氏なら隠されてもおかしくはないし、そもそも金印の安曇なら朝貢の歴史を隠すために隠蔽されてもおかしくはない

714 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 18:03:31.99 .net
少なくとも志賀島と近い相島は、安曇と安倍の拠点である事は間違いないのではなかろうか
そして磯良のお墓の神社が阿部系ということから少々強引な考察をしてみた。

ま、宮地嶽古墳は岩井の息子のお墓って方がよほどしっくりは来ますけどね

715 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 18:08:30.18 .net
>>704
大物主、三輪大君に関しましては面白い噂がありまして、
出雲伝承では最初の物部東征の際、太田太根彦が熊野から物部を引き込んで、大乱を一時平定
その際に尾張氏と並行して二代、大君をやっていた時期があると書かれています
太田氏は賀茂氏と同じで事代主の家系
大物主は事代主であるという説もありますのでそっちも面白い方向性のお話にはなるかと思います

716 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 18:15:23.17 .net
>>704
出雲の王様を大国主、副王をスクナヒコと言いました。
出雲風土記にはスクナヒコナではなく、本来の名前、スクナヒコ(少名彦)で書かれています。
国譲り事件の際の副王は向家(富家)の八重波津身で、記紀においては事代主にされました。

副王をスクナヒコ、→事代主=スクナヒコとなる訳です。

717 :日本@名無史さん:2022/02/18(金) 22:02:25.52 .net
>>716
ゲ、間違えた

副王をスクナヒコ、→事代主=大物主。

大物主信仰は太田氏、三輪信仰に関連があります。

718 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:14:21.99 .net
>>682
デマは君しか言わないから安心していいぞキナイコシくん

弥彦神社公式サイト
https://www.yahiko-jinjya.or.jp/history/gosaijin/index.html
> 御祭神
> 伊夜日子大神いやひこのおおかみ
> 御名 天香山命あめのかごやまのみこと

719 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:15:49.16 .net
>>683
>どうも安曇は主流ではなく単なる分家の様だが?
そんな全く根拠のない話をされても

>お前の妄言の通りだとすると、スサノオは海部の家系の様だが?
いや全然
相変わらず君の主張には何一つ根拠が無い

720 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:16:44.00 .net
>>684
つまりソースの無いデマでしたと
まあいつも通りの負け犬キナイコシくんだね

721 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:17:41.67 .net
>>685
>一応、尾張の親戚なんだから、皇室の系譜と同じ代を重ねてるんだぞ?
その皇室の系譜がループしてると言ってるわけだが
いつまで経っても理解力が向上しないなキナイコシくんは

722 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:23:12.73 .net
>>686
襲津彦は新羅討伐に失敗しているわけだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E8%A5%B2%E6%B4%A5%E5%BD%A6
> 神功皇后62年条[注釈 2]
> 新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、
> 襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか[7])。
> 『百済記』逸文
> 壬午年(382年[1])に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、
> 惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという[1]。
> また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。
> 沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという[1]。

実質的なNo.1である武内宿禰が自ら行ったというのはかなり無理がある
しかも自害w
せいぜい時の武内宿禰の息子といったところだろう

実はこの襲津彦のおかげで>>446はより確固たるものになったのだがまあそれはまだ伏せておこう

723 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:25:47.95 .net
>>689
>お前は物事を筋を通して整理して嘘を言わないという事を覚えなさい
それは君のことだよキナイコシくん

>村雲がイタテという話は存在するが、イタテが五十猛本人だという話はそれこそ根拠がないし、神社関係者もそう簡単には踏み込んでこない分野
射楯兵主神社は射楯大神は五十猛だとはっきり言い切っているわけだが
ほらもう君は嘘をついたw

724 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:28:30.11 .net
>>690
>宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
別に根拠のない話だな
君はいい加減に根拠のない話には何の意味も無いということを覚えなさい

>神功皇后の影響を受けているとしか思えない神事
>>450のとおり歌に出てくるトヨヒルメは神功なんだから当たり前だな
俺の主張したとおりじゃないか

725 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:31:30.32 .net
>>691
>かれは著書で「応神天皇と神功皇后に関係のある神楽であった」と言い切ってる
トヨヒルメが神功なんだから関係はあるわな

>おやおや、スサノオどこに行ったしwww
俺は神功の神代における投影がアマテラスで五十猛神として知られる磯武良の先代のイソタケルがスサノオだという話をずーっとしているわけだが
今更何をトチ狂ってるんだ?

726 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:35:49.78 .net
>>692
>ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」
またそうやって根拠の無い話を始める

>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
根拠を示せとは言ったが否定はしていない
というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw


284 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 20:12:58.05
>>366補足
家都美御子大神について

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E9%83%BD%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E-1073308
> 朝日日本歴史人物事典の解説
> 熊野三山として名高い和歌山県本宮町の熊野坐神社,新宮市の熊野速玉神社,同県那智村の熊野那智神社の祭神で,いわゆる熊野権現の中心的な神。
> 平安時代から修験道で崇拝され,熊野信仰の広がりとともに各地に祭られるようになった。
> もともとこの神は,三山のうちでは,本宮とも呼ばれる熊野坐神社の祭神であったとされ,出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命が移し祭られて,
> それが当地で家都御子神になったと伝えられている。ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。
> 櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。

出雲国一宮・熊野神社の祭神であ櫛御気野命が元で、その子が五十猛だというのだからスサノオである
クシミケヌのミケは御食であり食物の神と考えられている
後に安曇氏が膳部となったこととの関連を思わせるし、 穴師坐兵主神社の兵主神がなぜか名の通りの軍神ではなく食物の神とされていることにも通じるだろう
なお、穴師坐兵主神社の大兵主神はスサノオ説がある
妻である奇稲田姫が合祀されているところを見ると可能性は高いだろう

> http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10265
> ご祭神について
> 御食津神:食物を司る神、天照大神の食物を司る神、稲荷神や保食神などに同じ、また、他説としてはこの兵主神は八千矛神(やちほこ)もある
> 大兵主神:武勇の神、武神、軍神、相撲の祖神、一説には素戔嗚尊説あり
> 奇稲田姫命:稲田の女神 ※スサノオ神の妻/オオクニヌシの母

727 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:45:01.40 .net
>>694
>徐市であるワダツミの孫が村雲であり、タテイタツ。振魂命が五十猛(カゴヤマ)という事であれば
徐市がワダツミというのがまず何も根拠のない話だし
五十猛は射楯大神なので村雲のほう
カゴヤマはその父スサノオとなる

君の妄想は前提がまず間違っている

728 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:46:38.85 .net
>>695
差し出したのではなくコヤネは磯武良だから雷大臣の子
最初から中臣氏系
当時まだ中臣氏は名乗っていなかっただろうがね

729 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:50:04.64 .net
>>696
的外れだね
桃太郎という物語のモデルとして吉備津彦はふさわしくないということだよ
数百年後の人間は吉備津彦をキビツヒコとしか認識しない
姉がいるんだから桃から生まれたなんてストーリーも付加できない
桃太郎と認識される可能性が高いのはモモタリ

730 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:51:38.88 .net
>>698
>へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww
捏造って何が?
>>446の内容は全てソースに基づく事実だが

事実に論理的に反論出来ないのだから君の負けだよキナイコシくん

731 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 00:54:53.95 .net
>>699
>連の方が格上とか吠えてたけど、宇佐津臣の例からも分かるように、少なくとも最低でも崇神期以降のカバネに過ぎない。下手すると神功皇后期となる。

連は神武東征以前からの皇室の臣下だった一族に与えられるカバネだと教えてやっただろう
安曇は東征前から筑後山門の邪馬台国の王(後の皇室)に仕えていた伊都国の王族だという話をしたわけだが
何の批判にもなっていないぞ

732 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:03:26.40 .net
>>704
>見た目にいくつもの伝承に分かれている氏族が饒速日あるいは素戔嗚(海を治めよという伊弉諾の命)
>あるいは豊玉彦を上祖とする一つの家なのかもしれませんね

海人族ですね
天=アメは本来は海=アマです
例えば天降るというのは海人族の都である伊都国から船で遠隔地へ下向するという意味です

ただ大国主だけは異質です
彼にはあまり触れたくありません
彼について解明するとどうしても日本神話のロマンを粉々にぶち壊してしまうからです
(だって正体があそこの王なんだもん・・・)

733 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:21:24.11 .net
>>716
>出雲の王様を大国主
残念ながら違うんだなこれが
とても残念だ

734 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:25:56.60 .net
>>718

> 御祭神
> 伊夜日子大神いやひこのおおかみ
> 御名 天香山命あめのかごやまのみこと

んで?お前はアホなのか?自分で作った神社に自分を祀るのか?ww
普通は祖神を祀るだろ。

高橋家に関しては全くの無視か?お?ww
高橋家は九州の菊池と同じで大彦系だよな?そんなことも知らないのか?w

735 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:27:33.42 .net
>>719
>相変わらず君の主張には何一つ根拠が無い

海部と安曇の系図から、お前が言ったように村雲=イタテなら、もう尾張とか海部の系図じゃん。
系図も読めなくなっちゃったの?伊都チョンw

736 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:33:03.45 .net
>>734
弥彦神社をカゴヤマが作ったなんて伝承はない
ハイ論破

本当にバカだなキナイコシくんは

737 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:34:21.32 .net
>>735
>>539で論破済みだよ痴呆

738 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:34:21.77 .net
>>735
>>539で論破済みだよ痴呆

739 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:37:21.31 .net
>>722

ソツ彦は武内太田根からそう離れてない子孫。
孫当たりだったかな。
二韓征伐が完了してから半島の利権は莫大になり、武内家から、小瀬臣、平群臣などが分かれていった。
大伴が失脚してからはほぼ武内宿祢の子孫が半島の利益を独占するようになっていった。
東国の安倍系の国家と北陸蘇我家手を結んで大きな勢力になったのには、弥彦の大彦の子孫も絡んでる。
受け皿となった二田物部の三島の拠点の近くは今でも出雲崎と呼ばれている。
応仁のあとから武烈までは平群臣。だから、遡って継体が北陸蘇我家から呼ばれることになった。
現在でも蘇我系が臣と分類されているのは、武内宿祢が出雲に逃げこんで匿われた際に、出雲と婚姻を結び、宿祢を名乗らない事と引き換えに臣姓を貰ったから。
臣姓は皇室から貰える最上位の名で、秀吉も豊臣を貰う前は藤原を名乗ってた。

連?プッ。豪族集覧の本の系図にはいつ連姓を貰ったかまで書かれている。
一般に通用する知識を付けてから出直してこいホラ吹き。

740 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:39:00.83 .net
>>724
>>宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
>別に根拠のない話だな

お前アホなのか?宇佐宮司家はもう書籍まで出して歴史を公開してるよ。
お前がモノを知らないだけ。そもそもアチメ作法の成立すら知らなかったんだろ?w
自分のホラに都合の悪いことは知らん顔か?ww

741 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:42:38.80 .net
>>726
>>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
>根拠を示せとは言ったが否定はしていない
>というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw

流石伊都チョンw効いてる効いてるww
肯定したのなら突っ込みを入れたというお前の話は何処に行った?w
工程ならなんの会話の続きもないよな?w

書記の兵頭にイタテが入ってる訳が無かろう。村雲がイタテなら、父親みたいな直ぐの先祖など祀らない。
後年になってから出ないとイタテは入らない。
出雲伝承も、神社の時系列にまで詳しく言及はしていない。当初は蚩尤のみ。
渡来系の勢力のけん制の目的もあって作られたのだそうだ・

742 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:43:36.38 .net
>>730

>>へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww
捏造って何が?
>>446の内容は全てソースに基づく事実だが

んで?自分で作った画像であるという事が争点なのだが?wwまた逃げちゃうの?ww
会話になってませんよ?伊都チョン?w

743 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:51:28.69 .net
>>704

あまり伊都チョンの話は真に受けないでね(失笑)
安曇は海住(あまずみ)
海家は天であってますが、高天原は後年になって武内ソツ彦の子孫が作ったらしい、高木神を祀る高天彦神社の上の高台です。
延喜式にも本来の高天原の場所が書かれていますよ〜。

因みに、野見宿祢は最後の出雲の副王、少名彦でした。
最後の大国主は、神門家(郷戸家)の遠津山崎帯です。
記紀には太安万侶の方針で全ての大国主の名前が出ています。全部で17
17代で出雲の国は邪馬台国の戦闘で滅びました。

古墳時代になったのは戦闘が終わって人が死に過ぎたから。
吉備の盾縫の墳丘墓が走りで、古墳が作られ始めました。

744 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:54:54.41 .net
>>737

論破済みだって?ご冗談をww
タケイタテは海部の系図にも、安曇の系図にも出てくるんだから
お前の話は、センダイクジホンギと照らし合わせると親の代のカゴヤマ(五十猛)に矛盾が出るんだよ
さっさと系図見て来いよw
どうせ、尾張氏と海部氏の系図の違いなんて分かってねぇだろ?w

745 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 01:59:02.62 .net
>>728
>差し出したのではなくコヤネは磯武良だから雷大臣の子
>最初から中臣氏系

コヤネは千家の祖神であって、中臣から見たら母系の方の先祖。
それを自分の系図に入れているだけ。男系か女系かは少しは気にしろ夫婦別姓の国の人w

千家が無関係な、富家の能見宿祢を系図に入れてるのと同じで盛ってるだけの話。そんな事は何処でもやってる。

746 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 03:55:44.38 .net
海部家系図だが、もう一人隠されている人物が居る。それが天御蔭。実際には彼が大和宿祢にあたる。
村雲の子供に家督を継がなかった方の子供が居て、それが天御蔭。
海部家は、大和宿祢系(天御蔭)の一族。神武の子供の代で分かれており、多臣氏と同格の分家。

海部氏本系図、勘注系図の「註文」を入れた系図は以下の通り(2パターンあり、場合によって使い分けを指示している。非常に野心的)

彦火明→彦火火出見→1建位起→2大和宿祢→3笠水彦→4笠津彦→5建田背→6建諸隅(先代旧事本紀でも6世の孫で彼が出てくる)→7大和得魂→8意富那比→9小縫→10小登与(尾張国造家)(宮主姫の父親。宮主姫はタケルの嫁)
彦火明→彦火火出見→1建位起→3珍彦→4大和宿祢

海部氏は「註文」によって、物部(山幸彦)を祖として歴史の勝者になれるよう準備をしていて他言無用としていた。
複数の系図を用意していたという事になる。
神武天皇の諱を彦火火出見尊としたのは誰であったのだろうか?籠神社が絡んでいるのであろうか?

一般的な海部家は以下の通り()内は出雲伝承
彦火明→天香語山(大年彦・五十猛)→1村雲→2大和宿祢(天御蔭)→3笠水彦→4笠津彦→5建田背→6建諸隅(先代旧事本紀でも6世の孫で彼が出てくる)→7大和得魂→8意富那比→9小縫→10小登与(尾張国造家)(宮主姫の父親。宮主姫はタケルの嫁)
実は尾張氏の系図がないと、本当の海部の立ち位置が分からない。

747 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 03:56:08.69 .net
一般的な尾張氏の系図古代豪族集覧より
天火明→天香語山→1村雲→2天押人→3天戸目→4建斗米→5建宇那比(兄弟に建田背)→6建諸隅→7倭得玉彦→8彦与曽ここで突然5の子供にジャンプして10乎止与(小豊)
尾張家は、海部の分家であるように系図が操作され、村雲の実家(高尾張邑の笛吹連)であることが隠されている。
実際にはコレ
天火明→天香語山→1村雲→2天押人→3天戸目→4建斗米→5多乎利→6大稲日→乎止与・・・

伊都チョンは循環してるとか新しくコリエイトしてきているが、安曇は全く出てこない。
新撰姓氏録:安曇氏系図
ワダツミ→-1(ここで分家して穂高見→安曇:穂高神社社家)もう一つの家系が-1振魂→1武位起→2珍彦→・・・

思いっきり振魂の家系は尾張や海部なのだが、武位起を五十猛にして更に安曇磯良にしているアホが伊都チョンww
下手すると振魂なんて布留魂で、海部の「註文」に近いのが新撰姓氏録
普通の人間なら、振魂は、カゴヤマと解釈する。
んで、6世孫までが同じ旧事本紀の村雲=建位起を突然五十猛と吠えてるのが伊都チョン

因みに、海部は尾張の系図を取り込んでいる可能性が高い。

748 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 10:59:50.85 .net
伊都チョンが建イタツを安曇に取り込む場合、自ずと海部や尾張の分家になるのだが、頑なに根拠もなく自説を唱えているわけだねw
そんな系図、どこにも無いのにww

749 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 12:15:12.06 .net
ちょうど孝霊天皇=ヒコナギサに関連して「アエ」という地名を調べてたから相島の話は勉強になったわ
福島の会津の地名由来で大彦とその息子が出てくるが、大彦の一族が元々アエという名を持っていたから付いた地名だろうな

自分が気になるのは岡山の阿智なんだけど、ここは渡来人由来の地名と説明されているが
元は安曇由来じゃないかと思う
安曇が訛って阿智という地名になっていた所に渡来人が住み着いて阿智を名乗った
当初はアチではなくアエツに近い発音だったのではないだろうか

それを吉備津彦=孝霊天皇が征伐して領地を冠してウガヤフキアエズの命となった、と。
ちなみに残りのウガは宇賀(出雲)、ヤフキは楽々福神社の辺りで、ヒコナギサのナギサは名草(紀伊かその前身の地か)だと思う
孝霊天皇の徐福伝説もこの名が原因と思われる

750 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 12:16:09.11 .net
ということで、ヤマトには大きく分けて3つの勢力が生まれる事になった。
1、男系・村雲の実家の尾張、海部連合
2、女系・事代主の家系、事代主タキツ彦連合(鴨家)
3、女系と男系の合わさった家系・欠史8代へ

その三つが互いに牽制し合うようになっていったのがヤマト

伊都チョンは、このスレに無関係な話ばかりをやってるだけのただの電波w

751 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 12:20:46.63 .net
ということで、ヤマトには大きく分けて3つの勢力が生まれる事になった。
1、男系・村雲の実家の尾張、海部連合
2、女系・事代主の家系、事代主タキツ彦連合(鴨家、賀茂家、太田家)
3、女系と男系の合わさった家系・欠史8代へ

その三つが互いに牽制し合うようになっていったのがヤマト
先代旧事本紀には、勢力の大きかった順番に書かれているそうだ。

伊都チョンは、このスレに無関係な話ばかりをやってるだけのただの電波に過ぎない

752 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 12:31:06.75 .net
さてみなさん、伊都チョンのこの文章を読んでみましょう

>ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」
またそうやって根拠の無い話を始める

>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
根拠を示せとは言ったが否定はしていない
というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw

www
根拠がないと言った話を、直後にはウリは前回肯定してますという文章になっている

循環という言葉を吐いてるけど、循環という言葉がもっとも当てはまるのが伊都チョンのこの妄言ではなかろうかww

753 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 12:52:30.70 .net
>>749
〉岡山の阿智

非常に興味深く読ませて頂きました。
信濃には恵那山の麓に阿智村があり、阿智祝一族と、阿智神社があります
特徴は、オモイカネが入るところ。
信濃南部から少なくともゆるキャンで有名な人馬型山まではオモイカネが来ています。
秩父の方にもオモイカネがいますので、阿智一族の話は非常に腑に落ちますね
岡山の阿智神社にもオモイカネがちゃんと合祀されていました。

安曇と阿智には、共に諏訪明神を監視するために置かれたのではないかという説があり、安曇と近いか、安曇がさらに追いやられ、その後に阿智が派遣されたのかのどちらかという事は容易に想像できそうですね
監視のお役目が本当にあったかどうかは不明ですが、越知一族に関係した戸隠神社は、天岩戸が吹き飛ばされて飛んでいった場所とされますから

754 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 13:08:37.37 .net
海部氏系図の価値は、「註文」のところの珍彦。
カゴヤマ
イソタケル
出雲伝承だと同一人物はそれぞれ別の嫁さんを貰う。
火火出見の妹、ホヤヒメ
タキツ彦系、出雲の神門家の大家姫

この大屋姫系の子孫が紀伊家の珍彦なのである。
故に、次の代のタテイタツの子供の代に別れているように間違って書かれてはいるが「註文」は非常に重要なことが書かれている。武内宿禰は和歌山の紀伊家が実家(母系文化の関係で幼少期は夫人の実家で育てられた)
大家姫系の紀伊家には唯一物部の血が入っていなかったが、父親フツオシマコトの代で紀伊家から奥方を迎え、尾張、村雲、物部、紀伊家の全ての血が彼に集まる事になった

安曇?残念ながらw

755 :太国 :2022/02/19(土) 14:13:13.73 .net
等号マンは盲象多し。ただ阿電波よりは少しまし。w

756 :日本@名無史さん:2022/02/19(土) 14:54:55.41 .net
>>755
伊都チョンは阿波に粘着されてらから、こっちで息抜きで相手して欲しいんですかね?
同じレベルの嘘つきをみて、ストレスが溜まるなんてなんて身勝手なのでしょうw

757 :太国 :2022/02/19(土) 15:18:52.95 .net
ww

758 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 00:59:18.14 .net
欠史八代から見た女系・事代主の家系:磯城登美家
概要としては
出雲の第八代副王:少名彦の富家の八重波津身(事代主)→クシヒカタ→建飯勝(磯城登美家・お嫁にホヒ家の沙麻奈姫)→建甕槌(間違いなく例のミカヅチ)→太田家

事代主→1天日方奇日方(便宜上村雲と同年代なので1)→2建飯勝→3建甕槌→4豊御食主→5大御食主→6建津乃身(加茂家・ここで太田と分家)→7建魂依彦→8五十手美→9麻都躱→10看香名男(日吉神社社家)
太田家
6太田太根彦(三輪大君:八咫烏)→7大御食持(神部大君:津久帯兄)

6の時代が第一次物部東征、磐余彦(ウマシマジ)の時代。約100年後、葛城国10代で第二次物部東征。垂仁が大和入り。
尾張系譜に倣って、村雲の代を1として出雲のヤマトでの分家、登美家の代数を揃える。
1天日方奇日方の妹二人が記紀にある様に神武と綏靖に嫁ぐ。三輪山の卑弥呼職は、磯城登美家か、村雲の家系の姫しかなれない世襲制だった。
踏鞴五十鈴姫→村雲、五十鈴依姫(川俣姫)→綏靖、三代目の磯城津彦(安寧)には、奇日方の娘、渟名底仲姫が輿入れ
出雲系の血が圧倒的に濃くなったことで、葛城国は磯城王朝とも言われるようになった。
この頃から尾張家との折り合いが悪くなり、尾張家は大王の証の銅剣を王朝側に渡さなくなった。村雲の剣は銅剣、草薙の剣は鉄剣
村雲の剣は元は、登美家から大王就任の際に尾張家に贈ったもの。

759 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 01:24:14.66 .net
最後に女系と男系の合わさった家系・欠史8代

1村雲→2綏靖(沼川耳)→3安寧(玉手看)→4懿徳→5孝昭→6孝安→7(孝霊天皇と大彦)→8孝元→9開化→10ヒコイマス→11(ヒコミチヌシとサホ彦、サホ姫)

10代大君は記紀では隠されたが、ヒコイマス(第二次物部東征開始時に死亡)。ヒコミチヌシは、魏書に狗奴国の人間として、武内宿祢によって噓の報告がなされた。ヒミコっぽい男王が彼。
武内宿祢は当初、物部+豊国の宇佐氏の連合側、西軍側についていた
村雲の王朝は、11の代で邪馬台国事件でアボン
7大彦はクニクルの時代の大兄ではなく、6クニオシヒトの時代の、7孝霊フトニの兄弟。この二人が争い、葛城国が分裂になった隙にヒボコの播磨侵攻が開始
大彦の本名:中曽大根彦 大彦と、長脛彦に分けて記紀に書かれた 4代将軍は全て敵側のやられちゃった人物たち
大彦は皇室の系譜から別の扱いを受け、息子は「別」の字が入った。物部の血が入ってない村雲の系譜が大彦。故にカゴヤマを持ち出し、弥彦神社の社家になった。
7大彦の後に、一時的に6太田家が二代に渡って三輪大君になる。そのため、倍歴でも若干1.5〜2代の間延びが発生する
大彦からは北陸方面に道の君家、高橋家、布施家 息子が主に安倍家を名乗っていった

中臣や藤原が奪ったと噂されるミカヅチだが、2八井耳の時代の母系が当時の磯城登美家の当主3建甕槌だっただけで、実は母系の先祖であり奪っている訳ではない。
ミカヅチはタテカシマとも言われている。
尚、6孝安クニオシヒトの代で特異点が発生。宗像家の祖であるアタカタスが先代旧事本紀によって誤挿入されている。

760 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 02:25:55.68 .net
国押人の代では、磯城登美家にも揺らぎが起きていて、7大御食持が、6建津乃身の前に来て、三輪大君が隠されている。
おそらくだが、大彦の時代の紀伊家の珍彦も辿れないように細工してあると考えられる。
大彦の細工と同じで、この時代、ほぼすべての家で揺らぎが発生。信用できないものとなっている。

紀伊家は五十猛(カゴヤマ)と大屋姫の息子、高倉下から始まる。そのまま6〜7の代で珍彦にあたればラッキーである。検証してみる。
天道根を1として並べてみる

1天道根(タカクラジと仮定)→2麻?利→3比古麻→4鬼刀彌→5久志多麻→6大名草彦→7宇遅比古(宇豆比古)
なんとなくビンゴwww

この家から9開化の息子、10フツオシマコトに紀伊家から嫁さんが入り、武内宿祢に繋がる。
天道根は物部系の人間で上書きしてると考えられ、熊野で亡くなった五瀬系を思わせる
同一人物とは思えないので御挿入して何かを隠したい意図と想像する
尚、古代氏族系譜集攬では、太田氏を思わせる、天御食持から3代後に天道根が出てきている。

尚、7珍彦の兄妹に、7山下影日売がきている(8武内宿祢の母)
8の時代なら、ギリギリ9〜10の邪馬台国事件に合致しそうである

は?安曇?どの系譜にも出てない。
名草のトベ系統の方が余程メジャー
三島=越智は、事代主の奥さんで、その関係で国譲り事件で御主人が無くなって、実家の摂津に息子のクシヒカタを連れて帰ってきた
しかし、三島だけは超謎で、系図が分からない。
事代主の奥さん三島が活玉依姫(別名・玉櫛姫、三島溝杭姫、勢夜蛇多良姫)となり父親が三島溝耳となることが分かっているだけ
その前の代になると大山祇神になってしまう。
出雲族やカゴヤマが大和に入ってくる1世紀以上前から奈良湖の開拓を行い水稲を作っていたらしく、越智の地では、御所駅の近くに中西遺跡という有数の水稲遺跡がある
色々な豪族と習合しており、物部系、クニオシヒト系、石上系などがあり系図が分からない。二田、新田、小市、越智と、色々過ぎて分からない

761 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 13:07:11.46 .net
つまり、出雲伝承他系図を総合すると、欠史8代とされる時代はほぼ邪馬台国事件までと言え、10代ヒコイマスまでが曖昧で欠史になっている

息子のヒコミチヌシは殺されずに生き残り、妹?のヒバス姫を垂仁にやって手打ちになった
後にヒコタツヒコと昔の名前に戻し、稲葉国造家になった。
サホヒコもヤマトから逃げ出し、たしか日下部になったかと
最後の卑弥呼であるサホ姫の行方は不明

762 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 13:54:59.91 .net
古墳から母系を辿れないだろうか
Wikipedia先生によると前方後円墳は各地の墳墓の形式を寄せ集めて作られたそうだが
これは母系の信仰を取り入れ続けた末に完成したという事ではないだろうか

例えば卑弥呼=アマテラスが各地に派遣した一大卒
九州から各地に派遣され、地元民との間に生まれた子供は両親の墓を作る際に
父の九州と母の地元の信仰を合わせた墓を作った
さらに子供達は地位の近い家同士で婚姻してその結果生まれた子供は3地域以上のルーツを持ち
両親の墓にもそれが反映された

一大卒のメンバーはオシホミミの兄弟や子供達とされる人物または神々で彼らが出雲、吉備、近畿、東海に散らばり
さらに婚姻を重ねた結果生まれた人物が両親の為に作ったのが箸墓古墳なのでは

763 :太国 :2022/02/20(日) 13:59:38.59 .net
卑弥呼≠アマテラス

764 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 18:26:21.47 .net
>>762
箸墓古に関してなのですが、実は円墳か、ホケノ山古墳のように、帆立貝型の弥生式墳丘墓だったという話があります。
現在の形になったのは江戸時代の徳川幕府によるもので、昔の調査可能だった頃の話だと、後円部と、前方部では土の固め方が違うという分析だったようです。
さらに、昔は高市古墳と呼ばれ、古い絵図では思いっきり円墳で書かれています。

765 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 18:31:02.37 .net
>>762
箸墓古墳に関しては、出雲伝承の本でも、著者によって、モモソヒメ説と、イクメの娘ヤマト姫説の両方があり、一定していません

766 :太国 :2022/02/20(日) 18:32:01.67 .net
いずれにせよ南下しろと倭人伝が指示してるのに東方へ行けとは
書かれてない。
現今の案内書に南下とあって東だったら旅行者から苦情が来て書は回収
せねばならなくなる。いそんな案内書は現今訊いたことがない。
紀無い説は偽造的盲象論。

767 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 18:53:58.10 .net
いずれにせよ伊都は、国の出先機関で、太宰府のようにそこに日本の首都があるかのように見せかけるための場所。

奈良の国名と伊都は一緒だったと考えられる
それが「邪馬台国ではなく、邪馬いっ国説」
そこだけ、いっの字だけ蔑称じゃないんだよね。
朝貢した国のお墨付きとしてイッは考慮に値する。
イッ→イツ→イド

イッ国説を取る人は金印の国名と整合性を取るよね。

だが、景初の卑弥呼は九州。
九州勢が、自国の軍隊を邪馬イッ国と名乗って戦闘を開始しただけ
蔑称を免れた朝貢の国イッを攻めるなど言えるはずがない。
豊国と築秦国は連合を組み、奈良を攻め落とした。

768 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 18:57:45.17 .net
金印のイッ国説ではなく、ナノクニ説だと、軍隊が集結したとされる西都原に繋がりにくかったような気がする

ともあれ、邪馬台国は、実態のない軍体であり、その軍隊が奈良の国名を名乗って朝貢して戦闘を開始しただけ。
大陸は最後まで連合軍が狗奴国と戦っていると思い込んでいた。
族が奈良のイッ国にいて、張政もついて行ったが、国名に訂正がないのだから、当時は邪馬台国ではなく邪馬イッ国だったとしか思えない

769 :太国 :2022/02/20(日) 19:02:04.60 .net
当時は九州王朝があったんだから朝廷とは必ずしも一致とはいえない。。

遠の朝廷か。

年号も多々出ているし、九州王朝はあったわけさ。

770 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 19:21:25.03 .net
>>769
ただ、九州王朝はウガヤ朝説を取るのなら、これまたヤマトより昔からあった事になっていて、さらに考証が難しいですよね

物部氏は九州から大部分がいなくなった後、口伝が途絶えたのかもしれません。
記紀における最大のタブーが物部の男系の血筋とも言えるので、人が少なくなったのか、圧迫を受けたかのどちかで、ホホデミから邪馬台国時期までのたった数代の系図すら、まともに伝承が残っていません。

771 :太国 :2022/02/20(日) 21:16:13.50 .net
ウガヤ朝があったか不明だが、あったなら九州王朝とは別で九州王朝のほう
があとの時代。

、物部文献の解説書か。30年位前青森県の梵珠山に探検に行ったとき、青森の
市内の書店で売ってたが買うのを怠ったなあ。買っておけばよかったが?

772 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 21:33:49.15 .net
さて伊都チョンにトドメをさくっとw

糸井国造とフェイクを入れましたが、神床家は後裔に「糸井造いといのみゃっこ」をだします。
いと、いそし、いとて

つまりですね、五十迹手はヒボコ系なんですわ。
須佐族と習合して中央に食い込んでいきますが、その影響で五十の名を付けるに至ったのです。

ま、普通に筑前風土記見れば
筑前国風土記逸文
 天皇(仲哀天皇)、いずれの人ぞや、と問い給うに、五十迹手、奏しけらく「高麗国の意呂山に天降り来たりし日鉾(ヒボコ)の苗裔、五十迹手これなり」。
 天皇、ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し手」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば、恪勤国(いそしのくに)と言うべきを、今、怡土郡といえるは、訛(よこなま)れるなり。

と出てる訳だからね。大陸秦国系と、朝鮮半島系の混同そのままに系譜を論じている訳だw
だからであろう、辰韓のヒボコって事になると、朝鮮臭が消えてしまうから焦っちゃうんじゃないかね?w

ココで何を言おうが直系の神床家が今でも続いてるんだから出まかせを言うのは止めればいいのに(失笑)
本当のことろは、ヒボコに嫁をやった舅の家なのですが、後裔にタジマノモリや神功皇后そしてイトテを出したことを今でも誇りに思ってるそうです。

773 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 21:37:44.14 .net
よっしゃ、ちょっと伊都チョンの物まねでもしてみるか、格調高くw

すわキナイコシくんがドヤ顔で磯城王朝とかのたまわってたが、」俺は既に謎を解いている。
磯城の瑞籬宮・・・とあるように「磯」は「イソ」であり「五十」であるから、そもそも「磯城(シキ)」とは大和地方の磯城郡から取られたのではなく、筑前国怡土郡の転訛前の地名「五十(郡)」の方が先にあり、王権の移動によって地名も遷移し、本来は「五十城郡」と書かれるべき地名である。
ワイの推測どおりや

どや?伊都チョンぽいだろww

774 :太国 :2022/02/20(日) 21:47:18.97 .net
ww

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