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欠史八代とは何だったのか? 其2
- 686 :日本@名無史さん:2022/02/17(木) 02:27:53.51 .net
- 神功皇后の時代の武内宿祢は武内ソツ彦。
朝鮮への征伐は、新羅の王族が本流から部下の血筋に変わった段階で、皇后が相続権を主張した事による。
成務に相談したが断られ、彼女は成務を見限る。
次に皇后が相談したのが中津彦。中津臣(中臣氏)だったが、彼にも断られ、そのうち彼は若くして戦死
最後に相談したのが日向で水軍を掌握していた西都原のソツ彦だった。
かれは全ての血筋が入った人間だったから、安曇や和歌山の連中まで呼び寄せることが出来た。
それで、大群で押し寄せ、戦うことなく二国は平服。高句麗のみ従わなかったから実質二韓征伐に終わった。
ちなみに、宇佐の伝承だと、神功皇后は後にソツ彦に捕らわれたという他の旧家にはない独自の伝承を持っている。
ソツ彦はヤマトに凱旋し、葛城に最終的に落ち着いた。
そこから葛城氏と名乗ったことが記紀の制作者には都合がよかったらしく、結果、「村雲の王家=磯城王朝=葛城国」が隠されることになった。
武内大臣が長命になったのは、神功皇后期まで圧縮された同時代まで子孫が活躍したから。
最初の武内宿祢=武内太田根は、景初の魏書に書かれた人物。弟の額田宿祢はヌカダイと書かれている。
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