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欠史八代とは何だったのか? 其2

1 :日本@名無史さん:2019/03/06(水) 00:39:29.03 .net
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775 :日本@名無史さん:2022/02/20(日) 23:32:51.89 .net
二人の珍彦

出雲伝承の本なのですが、最初に出した「出雲とやまとのあけぼの」はある時期に絶版となり(現在異常な高値で取引されます)、内容に変化が出てきます。
二冊目の「出雲と蘇我王国」で、編集方法の方針が書かれており、「最初に分かりやい本を出して気長に出版していく」というくだりがありました。
本題に入ります。
大彦は、磯城王朝に出雲の血が入っている事を誇りに思いトミ彦と名乗っていたそうです。
故に、事代主のもう一人の奥さん、奴奈川姫の名をとって、息子にヌナガワワケと名付けたと。
トミノナガスネヒコはそこから来ているそうです。
当初の大彦はクニクルの皇子として書かれていましたが、フトニの時代考証は今と同じになっていました。
孝霊天皇ことフトニは150年代開始のヒボコ族の播磨侵攻に触発され領土拡張に乗り出します。そして親戚の国である出雲に侵攻しました(160年頃)
そして遅れて165年頃に東征を開始した物部氏が八咫烏によって引き入れられた際に、ヤマトに戻れなくなり吉備国を作ったと。
私はその経緯が非常にあいまいでヤマトの争いのないイメージが気になっていました。
当初は、八咫烏は加茂建津野身になっており、一般的な話したが、焼き直しの本が2019年に「出雲王国とヤマト政権」が3年の歳月をかけて出版されました。(実は私はちょっと中の人と知り合い)
そこに驚くべきことが書かれており、大彦の時代が遡り、6クニオシヒトの御子の時代になっていたのです。
つまり、景初の二回目の東征から、165年頃の第一次物部東征の時代にさかのぼったわけです。
そして、太田氏の三輪大君説に大きく切り込み、建津野身が山代国に後退し、奈良が手薄になった際に太田氏が熊野勢を呼び込んだと。
故に、先出した系図は、最新のものに変更してあります。183年には大彦は戦線を守っていた琵琶湖から撤退
そして、名草軍と共に、大彦は熊野勢と戦った事になっており、何と名草トベ(なかつなぐさ姫)が尾張家の4建斗米の奥さんになっていました。

776 :日本@名無史さん:2022/02/21(月) 00:43:17.80 .net
訂正
つまり、景初の二回目の東征から、165年頃の第一次物部東征の時代にさかのぼったわけです。

つまり、8代クニクルの時代から165年頃の吉備国建設の戦い、7フトニによる出雲戦争の時代にさかのぼったわけです。

大彦撤退と伝わる180年代は太田遺跡(纏向遺跡)の一番古い纏向1式の土器の時代(180-210年)に相当します。
考古学的に土器の編年が大きく変わる年代に相当しますので時代考証的には確度的に問題はなさそうです。
尾張氏4の時代と、太田氏6の時代になると、名草姫が相当のおばちゃんになってしまいますが強引に話を進めます。
ちょうど、紀伊家は6大名草彦の時代です。こっちは良さそうです。「珍彦」のお父さんですね

名草トベのバイブル的本として、なかひらまいの「名草戸畔古代紀国の女王伝説」があります。
そこには、名草の頭を守る神社、宇迦部おこべ神社の社家、小野田博男(ルパング島の小野田さんですよ)さんが登場します。
彼は、文章にもなっていない口伝の持ち主で、第一次物部東征の五瀬と戦った伝承を受け継いでいました。
余談ですが、五瀬側の伝承の宮島文書でも、全く同じ伝承になります。(敵方なので、名草を悪く書いている)
つまり、出雲、宮下、小野田、それと竈山神社の五瀬の子孫の家で、第一次物部東征の指揮官が五瀬だったと言及されているのです。
そして、4男が大和入りしたと。
日向三代では磐余彦が出ていますが、古事記では大和入りしたのはいつの間にかすり替わったウマシマジ。そう、ウマシマジが4男だったようです。
磐余彦は五瀬から、ウマシマジに切り替わりました。

777 :日本@名無史さん:2022/02/21(月) 00:44:37.03 .net
小野田口伝では重要な点があります。
「事代主の子孫である」ナガスネヒコは、名草トベを傘下に引き入れ、ヤマト方面に進出していった
ナガスネヒコは名草トベと一緒に神武軍と戦った。(大彦とナガスネヒコ同一人物論の伝承は非常に少ない)

(注:小野田さんは発言には慎重で、五瀬が物部だったとは絶対に言いませんでした)(小野田口伝は尾張氏(村雲の実家)をナガスネヒコの血筋と混同している?)
そして、ナガスネヒコが降伏した事により、名草軍も一緒に負けてしまった事にされたと。
出雲伝承の修正と、名草伝説がリンクしました。

纏めに入ります。
そしてもう一人の珍彦の話がその本に出てきます。九州の珍彦です。
宇佐国造の口伝では、神武が豊後水道から佐伯湾に入り、宇佐国上陸を試みたが激しい抵抗にあい上陸できなかった
そこに漁師の「珍彦」が仲裁に入り、宇佐津彦を説得。神武軍に帰順する(ここまでは記紀とほぼ一緒)
そこから、宇佐独自の口伝に入る
宇佐家は、その際に宇佐津姫を神武に差し出した。記紀編纂の際に宇佐氏の要望か、忖度かでウサツ姫を「天種子命」に差し出して、中臣氏が嫁さんを貰ったように変更された。
宇佐の領域はトヨクニであり、豊後(ぶんご)豊前(ぶぜん?)の二つを合わせた領域だった。
出雲伝承では、この時の神武は物部イニエ(崇神)であり、宇佐津姫が九州の月の姫巫女、卑弥呼であったとしている。

記紀は二度の東征を一度に圧縮し、朝貢の歴史を消しています。

珍彦には道案内伝承があります。つまり、神武を説得した珍彦は、二回目の東征前の物部、宇佐・物部連合時代の珍彦。
私は武内宿祢(武内太田根)ではないかと思います。

武内宿祢は紀伊家の珍彦の甥。紀家の珍彦の妹に山下影姫、武内宿祢の母が居るのです。
武内宿祢が朝貢して名前が載ったので、珍彦にして隠されたのではないかと思います。

残る謎は、尾張氏の隠された?二代の系譜。名草姫の時代考証でしょうか。

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