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欠史八代とは何だったのか? 其2

821 :日本@名無史さん:2022/02/21(月) 19:58:43.09 .net
>>762の続きで楯築遺跡について調べてみた

場所は片岡山と言われ昔は神社があり片岡タケルが祀られていたそうだ
そこで片岡という名に関係する人物を調べるとタギシ耳、孝霊天皇、顕宗天皇、武烈天皇、聖徳太子が該当した
遺跡が築かれたのは2世紀末なので時代的にはタギシ耳が当てはまる

綏靖天皇をイザナギ=1代目大国主とするとタギシ耳=八十神となり
大国主と八十神の争いが綏靖天皇とタギシ耳の争いに重なる
大国主=イザナギはアマテラス=卑弥呼の父親なのでタギシ耳は倭国大乱の頃の人物だ
被葬者がタギシ耳=八十神かイマイチ確信は持てないが、築かれた時代が倭国大乱の終わりと重なっているのは確かだ
大国主、八十神兄弟の父親である九州の王はこの時代から各地に一大卒的なものを派遣していたのだろうか?

ところで気になるのはタギシ耳が討たれた時の「片丘の大室に伏せっていた」という描写だ
古墳関連で調べていたからか古墳に埋葬されている様を連想してしまう
そうすると神八井耳が怯んだのも死者への恐怖だったのではないかと思えてくる
実際は討伐ではなく何かの儀式だったのではないだろうか

ついでに顕宗天皇による雄略天皇陵への破壊命令と聖徳太子の片岡山の伝説も興味深い
例えば家督継承に際して祖先の墓から遺物を取り出して身に付けるような儀式があったとする
そういった吉備の片岡で行われた儀式が奈良の片岡で語り継がれ聖徳太子の片岡山の伝説になったのかもしれない

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