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なぜ古代天皇は100歳を超えるのか ◆2

1 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 19:19:32.48 .net
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのならば、7世紀の朝廷は古代の王のおおよその実年を把握できており、
2世紀初頭の後漢書東夷伝の倭国王師升がスサノオ(Shuai sheng)だと分っていたでしょう。

記紀編纂時の7世紀後半と言えば、白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオが渡海し生口160人を捧げて後漢の皇帝に朝貢していた。
ものすごくみじめであり自尊心がズタズタです。

彼ら7世紀の記紀編纂者たちは、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、時代を古く古くすることでごまかしました。

また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。

朝貢年

266年 台与        トヨ津媛
 ・
238年 卑弥呼Bei mei hu  比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后

 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升Shuai sheng      スサノオ


だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、まるで男王国であったかのような記述をし、
卑弥呼であるヒメ(踏鞴五十鈴)媛の記述を最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去り、神武以降の天皇の年齢もそれに合わせました。

これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。

299 :日本@名無史さん:2020/11/09(月) 01:21:12.80 .net
>>287>>289
武内宿禰の長寿は日本書紀の中でも300歳ぐらいなので
歴代天皇の寿命をぶちぬいている。とはいえ、武内宿禰が
景行から仁徳の5世代に仕えることは不可能かというと
当時の支配層としては例外的な(?)、長寿王やラメセス2世
並みの長生きであれば決して不可能でもないと言える。

武内宿禰は景行天皇が即位して後の誕生で、成務天皇と同日生まれ
というから、景行天皇が20数年ほど在位したとすれば、彼が20歳
ぐらいの若い時に父親ぐらいの年齢の景行天皇の命令で東国視察を
行ったということは十分ありうる。仲哀天皇と神功皇后は彼から
すれば早く生まれた子供ぐらいの年齢で、武内宿禰と応神天皇も
40歳ぐらいの年齢差かもしれない。また、葛城襲津彦は仁徳天皇の
皇后磐之媛命の父なので、彼は仁徳天皇の皇后の祖父でもある
わけだから、自分より60数歳ほど若い仁徳天皇の時代まで何とか生き
ることができたんじゃないかな。

300 :日本@名無史さん:2020/11/09(月) 01:49:01.67 .net
武内宿禰は欠史八代の孝元天皇の孫または曽孫とされ、仁徳天皇の
皇后の祖父となると、従来の皇室系図では孝元天皇から仁徳天皇まで9世代だが
実際には6世代なので、孝元即位から仁徳崩御までは二百年を超えない
のではないかと考えられる。しかし、仁徳天皇が皇后より家系図上一世代ぐらい下
ということもありうるから7世代もありと見なす。

もし、仁徳が景行の玄孫であるとすると、孝元の玄孫とされる景行は実際には
息子か孫の世代だが、孝元から仁徳まで7世代ならば、孝元の孫の世代と考え、
孝元の死後は息子が二人ずつ、その後孫が二人ずつ王位を継承したみたいに考えよう。
武内宿禰は孝元の曽孫だから景行より一つ下の世代になる。

景行の皇后である播磨稲日大郎姫は孝霊天皇の皇子稚武彦命の娘、つまり孝霊の孫
とされるので、その夫である景行は彼女と同世代か一つ下の世代ぐらいに収まるだろう。
となると、孝霊から景行まで実際には従来の皇室系図にあるような6世代ではなく3世代か4世代
ということになり、この頃の天皇家は順調に父子継承できていなかった疑いが出てくる。
やはり、記紀で父子継承が順調に続いたと記されているのは、建国年代を遠い昔に引き延ばす
「歴史延長」が目的だったのではないか。それとも本当に親子関係とか分からなくなってしまった
から、適当に父子継承の連続で誤魔化したか。

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