2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

太宰府の歴史 Part2

64 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 10:00:31 .net
【鴻臚館】
宣化元年(536年)に那津のほとりに通称「那津官家(なのつのみやけ)」を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。

この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、


11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。永承2年(1047年)には放火される。寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消えることとなる。
(Wikiより)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E8%87%9A%E9%A4%A8

鴻臚館が衰退したのは、私貿易が多くなり貿易拠点が博多から移ったかららしい

総レス数 466
410 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200