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邪馬台国=福岡説 PART6

1 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:55:40.87 .net
資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう   

※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/

※PART1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540896768/
http://n2ch.net/r/-/history/1540896768/1-?guid=ON

※PART2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563587141/
http://n2ch.net/r/-/history/1563587141/1-?guid=ON

※PART3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582199560/
http://n2ch.net/r/-/history/1582199560/1-?guid=ON

PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604820323/

2 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:57:11 .net
◆シン日本神代古代史◆

「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与

古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。

沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。

神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。

欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。

崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。

そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。

3 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:07:14.01 .net
ちゅちょちぇ?👶🏿

4 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:26:01 .net
>>1
九州説の核心「伊都説」
邪馬台国ファン、卑弥呼ラブのあなた
ゴールデンウイークに時間があったら、いかが?

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1〜5の5回シリーズで詳しく説明してますよ。
トンカラリン 邪馬台国 で検索すると見つかるよ

5 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:54:21 .net
>>1000
>女王國は後漢書にも記載されているのだが、
>大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
>後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、

これは真実だろうか?
大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
実は倭王帥升が大率なのではないだろうか。
帥升は洛陽まで詣でているが、戦乱期の倭王が自国を長期不在にするとは考えにくい。
しかしもともと諸国を検察する役割の大率ならば、洛陽まで足を伸ばすことも不可能ではなかったかもしれない。
漢は倭国の詳しい事情を知らないから、帥升つまり率を王と勘違いしたわけだ。
そう考えると、帥升から大率、太宰の帥は一貫して同じ制度だと考えることができる。

6 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 18:45:46.87 .net
平原遺跡の鏡の続き。

西日本各地の大型内行花文鏡のうち、後漢鏡とともに見つかった平原遺跡の鏡がおそらくは最も古く、その後のお手本となったのだろう。
興味深いことに、その後のどの鏡も、平原遺跡の円周8咫を超える大きさのものはない。

その理由について踏み込んだ推察をするならば、八咫の鏡を超える大きさの鏡を作ることは憚られたのだろう。

7 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:33:50 .net
>>5
なるほど。
王は別にいて、大率は外務大臣のようなものか。
あるいは弥生時代の軍は基本的に水軍なので、水軍大将でもある大率は、
日本史における将軍のようなものであり、
倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

だとすれば符合するのは、
吉武遺跡では大王=木棺墓、戦士階級=甕棺墓だったのに、三雲井原王墓は甕棺墓である点。
伊都説者によると糸島伊都=筑紫日向であるが、日向三代は天皇でない点。
ニニギとニギハヤヒ(天照国照)
山幸彦と海幸彦
なども腑に落ちてくる。

なれば卑弥呼もそもそもは大率で、元は奴國or不彌國から北方を担当する検察官であった。
それが倭国乱による混乱で刺史のように政務も行うようになり、
卑弥呼が統治する奴國不彌國は女王國として認識されるようになった。

女王國運営の手腕を認められて倭国王として共立されるわけだが、
その場合、「有男弟佐治國」とあるので、
これが女王國時代のことであれば、奴國不彌國を治めるのに弟が兕馬觚か多模か卑奴母離として助けたでいいが、
邪馬台国女王時代のことであれば、弟=大率?=難升米??伊聲耆掖邪狗???となってくる。

難升米は奴国王系と思われ、次の大率の伊聲耆掖邪狗は伊族=天神族系と思われるので、
卑弥呼の正体にも関わってくる。

8 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:55:47.22 .net
>>7
>倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

日向三代の末期の争いに嫌気が差して卑弥呼を共立したわけだから、卑弥呼政権そのものは軍事政権ではないだろう。
しかし、実務として軍事を司る人物は必要なわけで、卑弥呼は象徴のようなもので、君臨すれども統治せずということだったかもしれない。
日向三代が三雲南小路遺跡に始まる伊都国王家だよ(細石神社の祭神は木花佐久夜姫、高祖神社の祭神は彦火火出見)。
とすれば、卑弥呼は伊都国王統ではなく、血縁は近いが別の王統でなければならないだろう。
いわゆる国津神、筑紫の日向の生まれ(伊奘諾の末裔)ではあるけれど、天照の末裔ではない王族達だ。
例えば大山祇、綿津見、住吉の神などだ。
その中で、次代の壹與とクマソタケルがともに佐賀川上に鎮座していたことは注目に値する。
狗奴国王もまた卑弥呼の同胞であったとすれば、卑弥呼自身がもとは肥国女王であったとして矛盾しない。
倭国乱で天孫族が筑紫の日向を離れた後、筑紫(旧倭奴国)と肥国を統合する形で大倭国の女王に共立されたということになる。
筑紫の日向に留まった天孫族(邇邇芸の末裔)が、伊都国の官であった禰宜だろう。

9 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:03:49.54 .net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。

※もともと筑後は有明海沿岸なので肥国だったが、なんらかの理由で筑紫が併合した。
地理学的には、佐賀平野の河川は筑後川の支流だったが、後世に流路が変更された。
つまり壹與を祭る肥前一宮與止日女神社(旧河上神社)も、熊襲タケルあらため川上タケルも、筑後川の川上にいたことになる。

卑弥呼が肥国(後の筑後)山門の女王なら、肥後熊本つまり狗奴国の王である卑弥弓呼とも旧知の間柄どころか、同族であっただろう。
何より、名前が一文字しか違わない。

10 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:06:19.87 .net
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。

11 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:07:17.73 .net
畿内派も九州派もその他の人らも、こっちのスレを使って盛り上がりませんか?

12 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:11:02.69 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。

田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。

足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。

13 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:24:20.49 .net
>九州説の核心「伊都説」

なんだ、鬼道の意味も把握できない伊都チョンの第二スレッドだったのか?(失笑)

14 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:36:02 .net
伊都説は何人もいるんだよ。

15 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 23:49:20 .net
天孫降臨の舞台は宮崎高千穂だ
福チョンの妄想は書き込み禁止しろ

16 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 00:26:20 .net
ごめん1か月だと片道だった
魏志倭人伝の最後の部分をそのまま読むと
往復だから政等は伊都国での滞在は2〜4ヶ月か滞在している
当時は時間距離を埋める手段がない ネットとか郵便とか電話ないでしょ

17 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 01:46:25 .net
>>14

>伊都説は何人もいるんだよ。

そうか?ものの言い方や思い込み方、決めつけ方まで似通ってくるのか?

気の毒な説だなw

18 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 03:09:59.41 .net
【なんちゃって一級建築士の特徴】
高卒か大学文系卒
親族の工務店で修業
エコ、環境、子育て等のキーワード使用
設計依頼すると家族ぐるみのお付き合いをなどと言われ食事会に招待されキャンセル不可能に持ち込まれる
大きな建築物は経験無し

各地の建築セミナーに足繁く参加してHPに載せる

19 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:08:10.11 .net
お〜い!

20 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:40:48.85 .net
>>17
俺が伊都国説を言い出したころは賛同者は数人だったな
最初は内容も固まってなかったが
纏めた内容がユーチューブのゆっくり動画にある
UP主がトンカラリンの名前で邪馬台国1から5まである
見てくれ

21 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:43:19.59 .net
>>17
視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

22 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:47:27 .net
>>21

>視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

まず第一話を拝聴いたしました。
前置きとしまして、日本の指折りの旧家が、所謂邪馬台国は九州にあったと言っています。
例を挙げるのであれば、出雲の王家の血筋、出雲大社上官家筆頭の富家(事代主の直系)
更には、物部と連合を組み、東征した、九州ド真ん中の真実を知る立場の宇佐家
そして後年の伊都の偽装に結び付けられたと考えられるヒボコの姑の家、元、糸井造家の神床家(旧出石神社社家)

他の旧家は武内家ですら歴史を原則は明かしておらず、武内家の宗家(石川臣家)の分家の北陸蘇我家もまだ存続していますが、証言を始めていません。

それら主だった旧家は口をそろえて魏書における邪馬1国は、九州だよと言っています。

ただ、肝心の邪馬1国の位置となると、実際には国としての実態がないので、「東征開始にあたって宇佐八幡に軍隊が集結する前の拠点、都万が実際の邪馬台国である」という立場をとっています。
要点としては、記紀、とりわけ古事記は、まるでヤマトが大和を攻撃したように書かれています。

実際に大陸の魏書でも同じような誤解が生じました。
九州の卑弥呼たちは、自分たちの国名をヤマトの邪馬1国と名乗ったのです。
すでに朝貢していた国を倒すとは当然に言えない訳です。

邪馬1国と名乗った人たちが、実際に奈良の邪馬1国に攻め込んだというのが実態との事です。

イツ伊都に関しては、大宰府と同じように、邪馬1国が首都を分からなくするように日本府を置いて、そこから先に外国が入ってこないために作られた「施設」とのこと。

故に、王様がそこに居るように見えるのは当然という事でした。

なるほど、安曇と強引に結び付けてなさそうなので、伊都チョンとは別人なのですね。

23 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:51:18 .net
駆け落ちした(してきた?)〜とか、
江戸時代中期の伝説でもないしな、もっと前の時代。

24 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:54:14 .net
筑後市玉垂宮辺りが邪馬台国の都で間違いないだろう。

25 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:55:31 .net
23

スレッドを間違えた。

26 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 13:26:41.91 .net
そうそう、ヒボコの舅の家の神床家にはキチンと神功皇后伝承が残っていて、息長帯姫は実際には成務天皇の奥さんだったそうです。

たしかに、ヤマトが九州にやられた景初の東征の戦いで、前政権はヒコイマス系から手打ちとして奥方のヒバス姫を出していますが、系図を見てもわかる様に、神功皇后は、ヒバス姫と同年代の人物。
年上にしても成務天皇あたりまでが限界でしょう。
あの時代に母系の先祖のヒボコの実家が、王権が部下の人物に移行した際に、相続権を主張して韓征伐を計画したそうです。
当初、成務には断られた神功皇后は、なんと彼を見限り、九州の豪族、中臣家(当時はまだ中津臣家)の人物に依頼します。それが後に仲哀天皇にされ、取ってつけた様にナカツヒコと割と中継ぎの様な可哀想な名前になっています。
そして、九州西都原に住んでいた武内宿臣太田根の孫の襲津彦が、彼女と組んで二韓征伐を成功に導いたそうです。

つまり、応神ともなると孫の摂政の世代になるので、相当なおばあちゃんという事になってしまうので、この辺りまでは記紀によって時代が圧縮され、九州宇佐の卑弥呼が隠されている時代になります。
応神期以降は記紀は割と本当の時代にあってくる感じになります

27 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 13:34:56 .net
西小路の旧生目神社跡地が
伊支馬長官の所在地だろうな。

28 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 14:08:40 .net
>>24
>>27
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

29 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:05:45.65 .net
>>22
全部見てね、おかしいと思うところ指摘してくれ。

30 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:44:18.35 .net
銅鐸の分析によると、
大国主と大物主の共同作業の國造が、
実際に1世紀中期にあった事が分かる。
更に言うと、須佐之男命は実際に居て、
コレは荒神谷遺跡の主であると考えられるのである。
となると大国主は加茂岩倉遺跡の主だろう。
また、国譲りの際に事代主が隠れたと言われる青柴垣が高地性集落で、
建御名方神が逃げていった諏訪が、
銅鐸分布圏の最果て地であることも、
大国主のパートが歴史の事実であったことを物語っている。

31 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:47:22.93 .net
>>30
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

32 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:58:10 .net
で、この大和の大物主が大和に取り込まれるのが、
崇神天皇の時代のモモソヒメのパートの事で、
箸墓の伝承になって記述されている。
大和の支配者の大物主は、
実際には吉備の豪族御間城崇神に、
縁戚関係で取り込まれたと言えるだろう。

33 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:06:03.32 .net
また、御間城崇神の系統は、
孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇開化天皇らと
同族であると考えられ、
これらは中国四国地方から畿内へ
婚姻関係を広げて行っている事が分かり、
これらもまた縁戚関係によって、
畿内進出したことも分かるのである。

34 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:12:49.35 .net
で、この御間城崇神の大和進出以前に、
天孫降臨によって河内を拠点にして、
大和に進出していった部族がニギハヤヒであり、
それらは大阪湾型銅戈の出土と一致し、
長野県安積野からも出土したことで、
ニギハヤヒの河内を拠点にした大和進出と一部安積野進出が、
歴史の事実であることも証明されたと言えるだろう。
そしてこのニギハヤヒの部族との婚姻関係で、
御間城崇神は畿内に進出していった。
コレが歴史の事実である。

35 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:21:38.30 .net
また、御間城崇神と婚姻関係を結んで、
畿内に進出していった日向の部族が生目垂仁であり、
コレが魏志倭人伝には伊支馬長官として記述されている。
また、御間城は彌馬升として記述されており、
記紀では子と親の関係でありながら、
役職逆転していることから、
実際の直系の親子関係は無かったと考えられる。

36 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:28:47.62 .net
また、当時、狭穂彦の乱を制して、
日向から北部九州に進出していた生目が長官で、
一方、四道将軍を本州各地に派遣して
肇国知命となっていた御間城崇神が
副長官であることを考えると、
倭国の中心地は北部九州であることも分かるのである。
御間城崇神が四道将軍を本州各地に派遣しながら、
北部九州には手出しが出来なかったことも、
北部九州に軍事的に大きな勢力があったことが分かるのである。

37 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:05:40.37 .net
>>1スレ建てありがとうございます( ̄∇ ̄*)ゞ 
邪馬台国はどこなんでしょうねえ
九州は間違いないと思っていますが
私は
邪馬台国は高良山、高千穂は英彦山だと思っています
英彦山が高千穂の方が自信あるけどなあ

38 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:08:01.98 .net
>>37
妄想、楽しそうだな。   @阿波

39 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:18:57.27 .net
>>37
高千穂は高祖山 三雲南小路など方形墳
高良山は孝霊など大倭系男王 祇園山など前方後円墳

邪馬台国は北部九州全体

40 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 21:36:39.95 .net
>>29

ただいまです。
これから全部見てみますね。

あと、一応日本の旧家との違いは都万国の位置です。
https://daredoku.net/2020/08/17/1093/
当時、数万戸になっていたのは西都原で、そこが都万国でした。

私のお気に入りのヨウツベ動画はこれです。
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw&list=PLil3fU968DZoNIkJAhk1K4yWoeAislED1

ここの邪馬台国と都万国の位置を入れ替えてみてください。
概要としてはそんな感じです。

大陸の史書というのは、実は恐ろしい確度で日本の事を書いているそうです。
日本の旧家に言わせると、日本に欠史は存在しないとの事です。

41 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 21:42:38.04 .net
西都原のあたりが邪馬台国となるとは、実はかなりの線を行ってるらしいですね。

此処に集結した群衆が、タジマノモリ(だしょうまい)が大陸から貰った八本の属国旗を宇佐八幡で掲げ、
その旗の処に銅鏡を下げて、進軍が開始された様です。

二回目の東征が景初の東征にあたるそうですが、つまり、垂仁がヤマトを倒し、短期間ですが政権をとり、曲がりなりにも日本統一をしたというのが概要になります。

つまり、単なる奈良の出先機関の伊都は重要ではないんです。ヒミコが独身の卑弥呼、いつの間にか結婚してた卑弥呼が大陸の史書に書かれていた事。
宗女トヨの母親が、九州の卑弥呼で、朝貢した卑弥呼。大和の出雲の太陽の卑弥呼に対し、九州の月神信仰の卑弥呼という事が重要な話の様ですね。

魏志倭人伝は、物部と宇佐一族による、親戚の家、ヤマトへの侵攻という事なのだそうです。

42 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 22:29:50.23 .net
伊都と安曇の、景初の時代の関りは極小値。
律令時代にまで渡って長い間に展開した安曇族と、その勃興のあたりの時代とは基本無関係。
下手すると安曇族は宇佐家の分家筋。
磯良関係の神事はほぼ全て応仁期以降に宇佐八幡が作った体制への服属儀礼。

43 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 22:46:42.02 .net
>>36
北部九州が本陣なら、北部九州には攻め込まないよ。>大型内行花文鏡の東征

44 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 22:49:33.95 .net
高天原は元々は九州ではありませんでした。

九州説の人って、延喜式に書いてある事を不思議にガン無視ですよねww
延喜式に本来の高天原の場所が言及されています。

現在の高天原産参考地、御所市の高天彦神社の上の高台の様な処が本来の高天原です。

45 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 23:16:36.37 .net
記紀の中でも古事記は、実は九州系の旧家の血筋の伝承で書かれています。
それが稗田流と呼ばれるもので、トヨが名を変えられたあとの、天鈿女。
鈿女の系譜を名乗る一派の口伝が中心となって、記紀が書かれています。
口伝の伝承資格は利発さが問われ、必ずしも血筋に限った継承ではなかったようです。

九州説の方はもっとそれを認識すべきではないでしょうか?
九州説という話の中心は、トヨの実家筋の宇佐家ですよ。安曇なんてたまたま伊都の近くに神社があっただけの一族です。
鹿の神事は下手すると、鹿島から中臣家が運んできた神様ですよ。

延喜式には本来の高天原の場所以外にもう一つ大事なことが書かれています。()内は私の想像。
美濃に八人(不明)、丹後に二人(物部や海部)、但馬に七人(ヒボコや海部)、淡路に二人(忌部やヒボコ)、因幡二人(ヒコミチヌシなど)、出雲四人

延喜式には口伝の継承者の一族の数がハッキリ明言されています。
ヤマトの和邇の分家の一族に、柿本家と小野家がありました。

実は、小野家が稗田流の継承者で、その仕事を大海人皇子の乳母だった綾部家の人麿の母親がお役御免になった際に次の仕事として引き継いだのが稗田流の語り部の仕事だったそうです。
綾部家の人麿は頭がよかったらしく、母親の仕事を空で覚えてしまい、利発さが買われて柿本家の養子になりました。
稗田阿礼とは、便宜上、彼の母親の事です。

現在でも石見の戸田の綾部家、人麿の実家は現存します(妹さんが後を継いだらしいが、現在では口伝は失われています)

46 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 23:19:23.57 .net
>晋書倭人伝

倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫

>これ見ると七万戸ってのは30国の合計で七万ってことなんやね


邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。
列挙された30国は地方自治体で、その合計が七万戸。ということです。

47 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 23:30:44.98 .net
>>46
>邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。

邪馬台国は東征側の陣営なので、厳密に言うと乗っ取った側の陣営の国。
伊都を中心として支配していたのは奈良の邪馬1国

それが崩れた際に奈良に進軍する為に集まったのが魏書に書かれた邪馬1国
九州の卑弥呼が既に朝貢していた邪馬1国を名乗っただけの話。

政変が起きる前と後で、伊都の位置づけだけ変わらないなんてあり得ませんよ。
戦闘開始前に朝貢した事がきちんと魏書に書かれているでしょ?

48 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 23:37:16.89 .net
>>46
魏志倭人伝にも同じ事が書かれてるね。

49 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 23:45:31.90 .net
>>48
どこに?

50 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 00:36:13.51 .net
一大率は港に出向いて開封して中身をあらためてるけど、
勝手に開けていいんかな?
先スレで誰かが言ってた、実は一大率が真の支配者だったみたいな。

51 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 01:00:58.78 .net
>>50
一大率は女王以北に居るから末盧国の港には来ないよ
末盧国の港に集まるのは女王の家臣団

52 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 01:09:33.21 .net
>>49
邪馬壹國女王之所都
邪馬壹国は女王の統べる所である

丗有王皆統屬女王國
(伊都国には魏の)世に(卑弥呼、壱与)王が居た、(倭の国々は)皆女王国に統属していた

53 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 07:04:36 .net
「自女王國以北
 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
 於國中 有如刺史
 王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯」

>王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
>傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

>皆臨津搜露 
王からの文書や品々、王への文書や品々、その全てを港で開封して臨検するとある。
文書とか賜物の内容に相違がないかチェックするとまで書かれている。

この感じだと、船荷から陸荷に積み替えるところで一大率が開封している。
現代だと、船のコンテナからトラックへ移すところで一度開封するイメージか。

54 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 07:17:42 .net
開封まではしてないんじゃないの?
舟で運ばれてきた木簡束や品々の包装を確認して、取り残しが無いよう全て陸装に詰め替えるってことじゃ。舟で運ばれてきたコンテナを開けずにそのままトラックの荷台に乗せていく、一つも残さず。

55 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 07:22:09 .net
台帳があり、それを読み書きしていたということなんだよね。

56 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 07:35:52.73 .net
>皆臨津搜露 

開封しているようですね。
伊都国が最終目的地、つまり卑弥呼がいるところだからでしょう。
魏志倭人伝は、伊都国における卑弥呼の統治を繰り返し具体的な描写で伝えています。

57 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 08:10:36.96 .net
>>53
この辺の文章は全て女王卑弥呼の行いに付いての記事だよ
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させていた、諸国はこれを畏れ憚っていた
女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた
この様子は魏での刺史の様であった。

王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
女王卑弥呼が使者を遣したり、魏の都や帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に来る時は、卑弥呼の家臣は皆、末盧国の港に出向いて調査、確認した。
文書を伝送し賜遣の物を女王に届けるので、間違いは起きなかった。

末盧国の港に一大率は出向いていないよ

>>55
贈り物の目録と現物を港で確認してたんだ
末盧国の港からは魏使は手ぶらでの旅だね。

58 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 09:38:59 .net
独身の卑弥呼と、トヨの母親の卑弥呼は別人

魏書にはそうキチンと書いてあるでしょ

59 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 11:04:08.67 .net
魏書では、宗女トヨの母親の名代が、邪馬1国を名乗り、戦闘開始後に武内宿禰(たいしゅうえつ)が狗奴国のヒコミチヌシノミコ(ヒミココ?みたいな)と戦闘中だとオウキに報告してる。

つまり、大陸は、最後まで東征軍が邪馬1国が狗奴国と戦っていると思い込んでいるわけだ。

九州だけで完結する話なら三角縁神獣鏡は九州だけで出なければならない

60 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 11:10:47.62 .net
ヒコミチヌシノミコは、ヒコイマスの息子で、サホヒコの兄弟。
彼ら二人が後目の争いで葛城国が分裂していた。
ヤマトが九州勢に負けた後、ヒコミチヌシノミコは昔の名前、ヒコタツヒコに戻し、因幡国造になった。
武内宿禰はヒコタツヒコを守るために随伴したが、物部イクメ(垂仁)が追手を差し向けたので、そこから逃げ出し、出雲に保護された。
故に、彼の子孫全てが臣家になった。
蘇我家もwikiで確認できるが、カバネが臣になっている。
逃げ出した元の家は神社になり、その時のことが現在でも逸話として残っている。

出雲で景初の三角縁神獣鏡が出たのはこういう流れなのだそうだ。

61 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:07:30 .net
伊都の長官は耳の一族である、多臣家
耳の字は母権尊重で、母系の父親、出雲初代のスガノヤツミミとされ、二代目大君の綏靖だかにも入る(沼川耳だっけ?)
つまり、本来の神武である村雲の兄弟か、子供の代から分かれた分家で、ほぼ海部氏と同格の分家。
故に、魏書にビビと出ているのは耳の一族であるという話が九州説には出てくる事がある

基本は世襲なので、九州の卑弥呼が我々は邪馬1国であると言った際に大陸が疑いの目を向けていないことから、多氏は物部側の東征軍についた可能性がある

そして鹿島国造家の、鎌足の両親はおなじ八井耳で、鎌足は中臣家に養子入りした後に藤原氏となった
不比等の母親は中臣家とは別の家系の人物で、中臣家の血が入っていない

藤原氏と多氏は親戚同士

それが、完成しなかった帝記のメモと、和邇系統により保護されてきた細女の稗田流を元に古事記の編纂を開始した。

62 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:22:46.61 .net
先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
鉛の同位体比分析の結果、
同一工房内で、長江周辺の銅に、
北魏の銅を混ぜて作った鏡であることが分かり、
それが鏡の作成過程で徐州の銅山の銅を
使えなくなったことを意味すると考えられ、
ソレは即ち三国時代に呉に徐州の銅山を取られて、
魏は銅が枯渇したことを意味すると考えられるため、
コレが魏の時代に作られた卑弥呼に送られた鏡で間違いないだろう。
また、邪馬台国と関連が深い丹波氏の拠点、
丹後太田古墳から、青龍3年の銘のある方格規矩四神鏡が出土した事で、
卑弥呼に送られた鏡が方格規矩四神鏡であることは決定したと言っていいだろう。

63 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:29:31.81 .net
高天原が、当初の奈良から九州への変更がなされたのは、多氏か、物部、もしくは宇佐に配慮した結果かもしれない

定期の編纂メンバーには、上から序列順に、皇族関係者→各地豪族が呼ばれている。
半分の6名が皇族
残りが豪族

村雲の政権の大彦系である敗れた側の阿部ですら呼ばれ、臣姓にはなれず、連止まりだった格下の安曇氏まで呼ばれており、更には応神朝(ウズメの実家関連)の上毛野まで招かれているのに、物部氏が呼ばれていない。

これは一説によると、物部氏が圧迫されハブられたとも言われているが、私個人としては違うと考えている。

物部氏、多氏に加え、藤原氏は黒幕側であり、編纂委員を招いた側だから、招待されたリストには乗らなかったのではないか。

そうでなければ、諡号をつける役目の物部系の血が入る開化系の子孫の淡海や、壮大なネタバレ(饒速日とホアカリが同一人物)が含まれた先代旧事本紀などが編まれた理由が分からなくなる。

64 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:34:27.09 .net
つまり誰が誰で何処が何処なのかを=で書いて欲しいわw

65 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:35:32.84 .net
>>64
妄想愛好家にそれは無理!   @阿波

66 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:38:19.11 .net
>>64
イト君に限らず、邪馬台国絡みのスレに書き込むヤツらって、わかりやすい文を書いて持論を理解してもらおうという気がサラサラないように思える

67 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:39:07.52 .net
>>65
ナンバーワン知ったかたったったーの阿波じゃねえかよ

68 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:40:11.79 .net
6人の豪族のうち、呼ばれた動機が不明なのが安曇氏。
安曇連稲敷は、神功皇后関係か、海部氏の代わりとして呼ばれたとしか思えない。
難波連大杉は、大彦系であるので、ヤマトの磯城王朝のことで負けた側代表で呼ばれたのだろう
上家野君家は、細男、細女の関係で藤原に呼ばれたのかもしれない。
稗田流は多臣家か、中臣家の管轄下に入っていたと思われる。
春日神社では磯良舞を、細男舞として保護してきた経緯がある
平群臣小首は、武内宿禰(武内臣太田根)の子孫で、平群王朝(応神の次から武烈まで)のことで呼ばれたのだろう。
忌部は第三席で、何故か上毛野家より上位に置かれ、末席に中臣が来ているが、これは形式上の配慮であろう。
中臣家と忌部は争っていたからね

69 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:45:25.11 .net
>>64
先代旧事本紀だと、アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒでしょ

同じ人物で、簡単に言うと、奈良の海部や尾張氏は、九州の物部と同格の親戚同士

だから後目のお家騒動で争ったわけだ

70 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:50:25.57 .net
>>66
イヤイヤ、時代の合わない漢の金印と安曇と伊都を強引に結びつけるペテンよりはマシでしょww

ありゃマジクズの思い込み出ぜ?w

71 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:52:04.08 .net
>>63

高天原(海の城)が海なし県である奈良県に移動された理由でも考えてくれ。

72 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:57:05.42 .net
>>31
これに関しては流石に阿波に同意
埋められた銅鐸や銅剣には特異な紋様が刻まれていて、それは出雲の富家と、神門家の所有の区別のために刻まれていたもので、須佐男とか全く無関係ww

73 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:04:23.11 .net
>>71
字が読めないらしいな

延喜式でも見てきたら?

奈良から九州に変更されたのであって、その逆ではない。

74 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:16:02.34 .net
高天原は博多湾周辺である。
というのは、高天原から天孫降臨したのは、
天皇家だけではなく、
ニギハヤヒもいる。
ニギハヤヒの天孫降臨は、
大阪湾型銅戈で特徴づけられ、
銅戈等を祭祀の道具として使用していたのは博多湾周辺の部族であり、
高天原が銅剣銅矛文化圏発祥の地、
博多湾周辺であることが分かるのである。
また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
また、国譲りの際に西日本一帯に進出していった高天原の勢力が、
銅剣銅矛の伝播とイコールであることからも、
高天原が博多湾周辺であることが確定する。

75 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:32:44.25 .net
天孫ニニギが高天原から博多湾沿岸の高祖山(クシフル岳)に降臨しているから、博多湾に近いけれど博多湾ではないだろう。
海の城という原義に照らせば島嶼部であり、沖ノ島が有力候補。
大規模な祭祀つまりは祖先祭りが行われていたことが明らかであり、おそらくアマテラス祭祀だったのだろう。

76 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:33:41 .net
>>74
〉また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。

不気味なほど気持ち悪い伊都チョン表現ww

出てきたものと強引に何の証拠もなく関連づける、まさに安曇脳ww

77 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:45:40 .net
>>76
高天原はニギハヤヒの天孫降臨や国譲りによって、
銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族であることは確定する。
スサノウが高天原(博多湾周辺)から追い出されて出雲に勢力を張った場合、
出雲から銅剣銅矛の出土がソレを裏付ける訳で、
つまり、出雲から大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡が、
スサノウの拠点となるのは間違いないだろう。

78 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:52:58.02 .net
一方、大国主は銅鐸の伝播によって特徴づけられる部族であり、
荒神谷遺跡と同時期の遺跡で、
なおかつ初期の銅鐸が大量に出土している
加茂岩倉遺跡が、大国主の拠点であることは間違いないだろう。
およそ前2世紀〜前1世紀頃に、スサノウと大国主の物語りのようなことがあったのは
間違いないだろう。

79 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:53:10.05 .net
>>77
銅剣は、吉備国である、フトニの領域からも出土する。
やり直し。

80 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:54:18.99 .net
>>78
出雲の銅剣と、銅鐸には部族を区別する同じ刻印がなされている。
やり直し

81 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:04:29.47 .net
また、瀬戸内海に勢力を張っていたと考えられる事代主が、
国譲りの際に青柴垣を作って隠れたという。
コレがまさに弥生中期後期に
瀬戸内海を中心に出現した高地性集落であり、
記紀の出雲のパートは、
史実に基づくものである事が確定する。

82 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:05:47.91 .net
>>79
ソレは私の説を否定することには一切ならない。

83 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:23:49.93 .net
>>82
それは日本語が読めないだけに過ぎない

84 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 15:56:58.68 .net
>>76
>荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、

これは出雲国譲りの結果だろう。
武装解除して放棄させられた。

85 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 16:01:20.10 .net
アマテラスは博多湾沿岸(筑紫の日向)の生まれだが、筑紫を出て高天原に移った。
孫の天孫が、豊葦原中国の王となるために筑紫に戻ってきた。
つまり高天原は銅矛文化圏ではあるけれど、博多湾沿岸ではない。

86 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 16:44:40.92 .net
>>84
>これは出雲国譲りの結果だろう。

何のなんの、出雲忌部の痕跡に過ぎん。   @阿波

87 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:15:35.76 .net
吉備国の平型銅剣の分布
http://shosuzki.blog.jp/archives/80931430.html

吉備国の地方の王に成り下がったフトニの系譜は出雲領から奪った砂鉄の産地から、鉄器を作った
倭国大乱期の初端を開いた播磨に侵攻したヒボコ族は尾張氏などのイタテの一族に圧倒され分断される
そこで当時最新の鉄器の製造法を手に入れる
後漢が滅んだことにより流出した鍛造可能な鋳鉄の精錬法に、朝鮮半島の磁鉄鉱を使い、急速に武装化が進んだ
さらに、出雲に向かって停戦の条件として出雲の青銅器を要求した

西出雲王家の神床家のものだけ差し出し、東出雲王家のものは埋設して隠す方針に決定された

故に、出雲で大量に発見された銅剣に関しては過半に、富家の✖の刻印がある

逆に、差し出された無印の青銅器は吉備国に差し出されたから、平型銅剣は成分が無印の銅剣と同じになるはずだよ

88 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:20:47.70 .net
>>87
何のなんの、吉備忌部の痕跡に過ぎん。   @阿波

89 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:25:41.78 .net
伊都チョンは、それまで発見された全ての銅剣を足しても足りないくらいの青銅器に刻まれた特徴のある刻印には全く無関心らしいなw


普通なら気にするだろww

銅剣分布からもわかる様に、瀬戸内海から山陰の妻木晩田遺跡の東方、孝霊山までは吉備の領域になり、ヤマトは基本海、瀬戸内海の朝貢ルートが寸断され、出先機関の伊都は、単独で朝貢の判断が出来る様になっていた

そして、景初の出来事に繋がっていく

景初の戦闘で吉備国と出雲は滅んだ。

奈良のヒコミチヌシも降伏し、戦乱は終結した

90 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:27:05.23 .net
考古学的に考えて、最古の大王がいた吉武高木遺跡が高天原だろう。
豊葦原中国は豊葦原那珂津国。
早良平野は標高が高いから貴族が住んでいたのだろう。
出雲は遠賀式土器や鐘撞式土器が東征していった宗像地域。
越は土井ヶ浜遺跡など山口県からの本州日本海沿岸。
弥生遺跡の分布から考えると現代よりは西寄りにコンパクトになる、。

91 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:27:08.03 .net
稲葉国造のヒコミチヌシは、国造本紀にも出ていて、ネタバレされている

92 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 20:37:46.69 .net
>>87
根拠ゼロの妄想でしかない。

93 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 20:46:10.06 .net
考古学的に見て、
荒神谷遺跡の大量の銅剣に特徴づけられるスサノウと、
大阪湾型銅戈で特徴づけられるニギハヤヒらが出自した高天原は、
銅剣銅鉾の生産地であった博多湾周辺で間違いないだろう。
また事代主に国譲りを強要した高天原の部族という点でも、
銅剣銅鉾の西日本への広がりで裏付けられ、
高天原=銅剣銅鉾の生産地=博多湾周辺で間違いないだろう。

94 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:08:16.06 .net
また、銅鐸の時代編年と分布密度の分析から、
銅鐸の分布変遷は大国主の國造の伝承と一致する事が分かる。

95 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:43:35.01 .net
出雲は荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋められていただけで、
勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無

96 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:55:04.22 .net
スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡

97 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:58:24.40 .net
>>90

逆にいうと、年代とともに博多湾沿岸を中心に東に(時には南にも)全て拡大して移動した。
南っていうのは、日向が高祖山から宮崎に移動したことね。

98 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:05:48.78 .net
>>96

環濠が八重ではないから却下

99 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:08:49.75 .net
>>95

出雲全体ではたくさんの住居跡があるだろ?
荒神谷には人知れずこっそりと武器を埋めたのだろうから、近くに家がなくて当然。
しかしこの地域に200人を超える規模の軍団があり、そらを支えることができる人工と生産力があったことは間違いない。
まあ、出雲国譲りの時に放棄した武器だろうね。

100 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:22:38.30 .net
>>98
八重の環濠集落はどこにある?

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