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邪馬台国=福岡説 PART6

1 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:55:40.87 .net
資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう   

※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/

※PART1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540896768/
http://n2ch.net/r/-/history/1540896768/1-?guid=ON

※PART2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563587141/
http://n2ch.net/r/-/history/1563587141/1-?guid=ON

※PART3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582199560/
http://n2ch.net/r/-/history/1582199560/1-?guid=ON

PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604820323/

2 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:57:11 .net
◆シン日本神代古代史◆

「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与

古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。

沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。

神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。

欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。

崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。

そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。

3 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:07:14.01 .net
ちゅちょちぇ?👶🏿

4 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:26:01 .net
>>1
九州説の核心「伊都説」
邪馬台国ファン、卑弥呼ラブのあなた
ゴールデンウイークに時間があったら、いかが?

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1〜5の5回シリーズで詳しく説明してますよ。
トンカラリン 邪馬台国 で検索すると見つかるよ

5 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:54:21 .net
>>1000
>女王國は後漢書にも記載されているのだが、
>大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
>後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、

これは真実だろうか?
大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
実は倭王帥升が大率なのではないだろうか。
帥升は洛陽まで詣でているが、戦乱期の倭王が自国を長期不在にするとは考えにくい。
しかしもともと諸国を検察する役割の大率ならば、洛陽まで足を伸ばすことも不可能ではなかったかもしれない。
漢は倭国の詳しい事情を知らないから、帥升つまり率を王と勘違いしたわけだ。
そう考えると、帥升から大率、太宰の帥は一貫して同じ制度だと考えることができる。

6 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 18:45:46.87 .net
平原遺跡の鏡の続き。

西日本各地の大型内行花文鏡のうち、後漢鏡とともに見つかった平原遺跡の鏡がおそらくは最も古く、その後のお手本となったのだろう。
興味深いことに、その後のどの鏡も、平原遺跡の円周8咫を超える大きさのものはない。

その理由について踏み込んだ推察をするならば、八咫の鏡を超える大きさの鏡を作ることは憚られたのだろう。

7 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:33:50 .net
>>5
なるほど。
王は別にいて、大率は外務大臣のようなものか。
あるいは弥生時代の軍は基本的に水軍なので、水軍大将でもある大率は、
日本史における将軍のようなものであり、
倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

だとすれば符合するのは、
吉武遺跡では大王=木棺墓、戦士階級=甕棺墓だったのに、三雲井原王墓は甕棺墓である点。
伊都説者によると糸島伊都=筑紫日向であるが、日向三代は天皇でない点。
ニニギとニギハヤヒ(天照国照)
山幸彦と海幸彦
なども腑に落ちてくる。

なれば卑弥呼もそもそもは大率で、元は奴國or不彌國から北方を担当する検察官であった。
それが倭国乱による混乱で刺史のように政務も行うようになり、
卑弥呼が統治する奴國不彌國は女王國として認識されるようになった。

女王國運営の手腕を認められて倭国王として共立されるわけだが、
その場合、「有男弟佐治國」とあるので、
これが女王國時代のことであれば、奴國不彌國を治めるのに弟が兕馬觚か多模か卑奴母離として助けたでいいが、
邪馬台国女王時代のことであれば、弟=大率?=難升米??伊聲耆掖邪狗???となってくる。

難升米は奴国王系と思われ、次の大率の伊聲耆掖邪狗は伊族=天神族系と思われるので、
卑弥呼の正体にも関わってくる。

8 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:55:47.22 .net
>>7
>倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

日向三代の末期の争いに嫌気が差して卑弥呼を共立したわけだから、卑弥呼政権そのものは軍事政権ではないだろう。
しかし、実務として軍事を司る人物は必要なわけで、卑弥呼は象徴のようなもので、君臨すれども統治せずということだったかもしれない。
日向三代が三雲南小路遺跡に始まる伊都国王家だよ(細石神社の祭神は木花佐久夜姫、高祖神社の祭神は彦火火出見)。
とすれば、卑弥呼は伊都国王統ではなく、血縁は近いが別の王統でなければならないだろう。
いわゆる国津神、筑紫の日向の生まれ(伊奘諾の末裔)ではあるけれど、天照の末裔ではない王族達だ。
例えば大山祇、綿津見、住吉の神などだ。
その中で、次代の壹與とクマソタケルがともに佐賀川上に鎮座していたことは注目に値する。
狗奴国王もまた卑弥呼の同胞であったとすれば、卑弥呼自身がもとは肥国女王であったとして矛盾しない。
倭国乱で天孫族が筑紫の日向を離れた後、筑紫(旧倭奴国)と肥国を統合する形で大倭国の女王に共立されたということになる。
筑紫の日向に留まった天孫族(邇邇芸の末裔)が、伊都国の官であった禰宜だろう。

9 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:03:49.54 .net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。

※もともと筑後は有明海沿岸なので肥国だったが、なんらかの理由で筑紫が併合した。
地理学的には、佐賀平野の河川は筑後川の支流だったが、後世に流路が変更された。
つまり壹與を祭る肥前一宮與止日女神社(旧河上神社)も、熊襲タケルあらため川上タケルも、筑後川の川上にいたことになる。

卑弥呼が肥国(後の筑後)山門の女王なら、肥後熊本つまり狗奴国の王である卑弥弓呼とも旧知の間柄どころか、同族であっただろう。
何より、名前が一文字しか違わない。

10 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:06:19.87 .net
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。

11 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:07:17.73 .net
畿内派も九州派もその他の人らも、こっちのスレを使って盛り上がりませんか?

12 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:11:02.69 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。

田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。

足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。

13 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:24:20.49 .net
>九州説の核心「伊都説」

なんだ、鬼道の意味も把握できない伊都チョンの第二スレッドだったのか?(失笑)

14 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:36:02 .net
伊都説は何人もいるんだよ。

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