2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国=福岡説 PART6

1 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:55:40.87 .net
資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう   

※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/

※PART1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540896768/
http://n2ch.net/r/-/history/1540896768/1-?guid=ON

※PART2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563587141/
http://n2ch.net/r/-/history/1563587141/1-?guid=ON

※PART3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582199560/
http://n2ch.net/r/-/history/1582199560/1-?guid=ON

PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604820323/

2 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:57:11 .net
◆シン日本神代古代史◆

「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)

・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与

古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。

沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族

ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」

日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。

神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。

欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。

・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。

崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。

そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。

3 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:07:14.01 .net
ちゅちょちぇ?👶🏿

4 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:26:01 .net
>>1
九州説の核心「伊都説」
邪馬台国ファン、卑弥呼ラブのあなた
ゴールデンウイークに時間があったら、いかが?

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50

邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1〜5の5回シリーズで詳しく説明してますよ。
トンカラリン 邪馬台国 で検索すると見つかるよ

5 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 17:54:21 .net
>>1000
>女王國は後漢書にも記載されているのだが、
>大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
>後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、

これは真実だろうか?
大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
実は倭王帥升が大率なのではないだろうか。
帥升は洛陽まで詣でているが、戦乱期の倭王が自国を長期不在にするとは考えにくい。
しかしもともと諸国を検察する役割の大率ならば、洛陽まで足を伸ばすことも不可能ではなかったかもしれない。
漢は倭国の詳しい事情を知らないから、帥升つまり率を王と勘違いしたわけだ。
そう考えると、帥升から大率、太宰の帥は一貫して同じ制度だと考えることができる。

6 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 18:45:46.87 .net
平原遺跡の鏡の続き。

西日本各地の大型内行花文鏡のうち、後漢鏡とともに見つかった平原遺跡の鏡がおそらくは最も古く、その後のお手本となったのだろう。
興味深いことに、その後のどの鏡も、平原遺跡の円周8咫を超える大きさのものはない。

その理由について踏み込んだ推察をするならば、八咫の鏡を超える大きさの鏡を作ることは憚られたのだろう。

7 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:33:50 .net
>>5
なるほど。
王は別にいて、大率は外務大臣のようなものか。
あるいは弥生時代の軍は基本的に水軍なので、水軍大将でもある大率は、
日本史における将軍のようなものであり、
倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

だとすれば符合するのは、
吉武遺跡では大王=木棺墓、戦士階級=甕棺墓だったのに、三雲井原王墓は甕棺墓である点。
伊都説者によると糸島伊都=筑紫日向であるが、日向三代は天皇でない点。
ニニギとニギハヤヒ(天照国照)
山幸彦と海幸彦
なども腑に落ちてくる。

なれば卑弥呼もそもそもは大率で、元は奴國or不彌國から北方を担当する検察官であった。
それが倭国乱による混乱で刺史のように政務も行うようになり、
卑弥呼が統治する奴國不彌國は女王國として認識されるようになった。

女王國運営の手腕を認められて倭国王として共立されるわけだが、
その場合、「有男弟佐治國」とあるので、
これが女王國時代のことであれば、奴國不彌國を治めるのに弟が兕馬觚か多模か卑奴母離として助けたでいいが、
邪馬台国女王時代のことであれば、弟=大率?=難升米??伊聲耆掖邪狗???となってくる。

難升米は奴国王系と思われ、次の大率の伊聲耆掖邪狗は伊族=天神族系と思われるので、
卑弥呼の正体にも関わってくる。

8 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 20:55:47.22 .net
>>7
>倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。

日向三代の末期の争いに嫌気が差して卑弥呼を共立したわけだから、卑弥呼政権そのものは軍事政権ではないだろう。
しかし、実務として軍事を司る人物は必要なわけで、卑弥呼は象徴のようなもので、君臨すれども統治せずということだったかもしれない。
日向三代が三雲南小路遺跡に始まる伊都国王家だよ(細石神社の祭神は木花佐久夜姫、高祖神社の祭神は彦火火出見)。
とすれば、卑弥呼は伊都国王統ではなく、血縁は近いが別の王統でなければならないだろう。
いわゆる国津神、筑紫の日向の生まれ(伊奘諾の末裔)ではあるけれど、天照の末裔ではない王族達だ。
例えば大山祇、綿津見、住吉の神などだ。
その中で、次代の壹與とクマソタケルがともに佐賀川上に鎮座していたことは注目に値する。
狗奴国王もまた卑弥呼の同胞であったとすれば、卑弥呼自身がもとは肥国女王であったとして矛盾しない。
倭国乱で天孫族が筑紫の日向を離れた後、筑紫(旧倭奴国)と肥国を統合する形で大倭国の女王に共立されたということになる。
筑紫の日向に留まった天孫族(邇邇芸の末裔)が、伊都国の官であった禰宜だろう。

9 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:03:49.54 .net
卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。

※もともと筑後は有明海沿岸なので肥国だったが、なんらかの理由で筑紫が併合した。
地理学的には、佐賀平野の河川は筑後川の支流だったが、後世に流路が変更された。
つまり壹與を祭る肥前一宮與止日女神社(旧河上神社)も、熊襲タケルあらため川上タケルも、筑後川の川上にいたことになる。

卑弥呼が肥国(後の筑後)山門の女王なら、肥後熊本つまり狗奴国の王である卑弥弓呼とも旧知の間柄どころか、同族であっただろう。
何より、名前が一文字しか違わない。

10 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:06:19.87 .net
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。

11 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:07:17.73 .net
畿内派も九州派もその他の人らも、こっちのスレを使って盛り上がりませんか?

12 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:11:02.69 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。

田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。

足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。

13 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:24:20.49 .net
>九州説の核心「伊都説」

なんだ、鬼道の意味も把握できない伊都チョンの第二スレッドだったのか?(失笑)

14 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 21:36:02 .net
伊都説は何人もいるんだよ。

15 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 23:49:20 .net
天孫降臨の舞台は宮崎高千穂だ
福チョンの妄想は書き込み禁止しろ

16 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 00:26:20 .net
ごめん1か月だと片道だった
魏志倭人伝の最後の部分をそのまま読むと
往復だから政等は伊都国での滞在は2〜4ヶ月か滞在している
当時は時間距離を埋める手段がない ネットとか郵便とか電話ないでしょ

17 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 01:46:25 .net
>>14

>伊都説は何人もいるんだよ。

そうか?ものの言い方や思い込み方、決めつけ方まで似通ってくるのか?

気の毒な説だなw

18 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 03:09:59.41 .net
【なんちゃって一級建築士の特徴】
高卒か大学文系卒
親族の工務店で修業
エコ、環境、子育て等のキーワード使用
設計依頼すると家族ぐるみのお付き合いをなどと言われ食事会に招待されキャンセル不可能に持ち込まれる
大きな建築物は経験無し

各地の建築セミナーに足繁く参加してHPに載せる

19 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:08:10.11 .net
お〜い!

20 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:40:48.85 .net
>>17
俺が伊都国説を言い出したころは賛同者は数人だったな
最初は内容も固まってなかったが
纏めた内容がユーチューブのゆっくり動画にある
UP主がトンカラリンの名前で邪馬台国1から5まである
見てくれ

21 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 07:43:19.59 .net
>>17
視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

22 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:47:27 .net
>>21

>視聴したら感想や批判をよろしくお願いします

まず第一話を拝聴いたしました。
前置きとしまして、日本の指折りの旧家が、所謂邪馬台国は九州にあったと言っています。
例を挙げるのであれば、出雲の王家の血筋、出雲大社上官家筆頭の富家(事代主の直系)
更には、物部と連合を組み、東征した、九州ド真ん中の真実を知る立場の宇佐家
そして後年の伊都の偽装に結び付けられたと考えられるヒボコの姑の家、元、糸井造家の神床家(旧出石神社社家)

他の旧家は武内家ですら歴史を原則は明かしておらず、武内家の宗家(石川臣家)の分家の北陸蘇我家もまだ存続していますが、証言を始めていません。

それら主だった旧家は口をそろえて魏書における邪馬1国は、九州だよと言っています。

ただ、肝心の邪馬1国の位置となると、実際には国としての実態がないので、「東征開始にあたって宇佐八幡に軍隊が集結する前の拠点、都万が実際の邪馬台国である」という立場をとっています。
要点としては、記紀、とりわけ古事記は、まるでヤマトが大和を攻撃したように書かれています。

実際に大陸の魏書でも同じような誤解が生じました。
九州の卑弥呼たちは、自分たちの国名をヤマトの邪馬1国と名乗ったのです。
すでに朝貢していた国を倒すとは当然に言えない訳です。

邪馬1国と名乗った人たちが、実際に奈良の邪馬1国に攻め込んだというのが実態との事です。

イツ伊都に関しては、大宰府と同じように、邪馬1国が首都を分からなくするように日本府を置いて、そこから先に外国が入ってこないために作られた「施設」とのこと。

故に、王様がそこに居るように見えるのは当然という事でした。

なるほど、安曇と強引に結び付けてなさそうなので、伊都チョンとは別人なのですね。

23 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:51:18 .net
駆け落ちした(してきた?)〜とか、
江戸時代中期の伝説でもないしな、もっと前の時代。

24 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:54:14 .net
筑後市玉垂宮辺りが邪馬台国の都で間違いないだろう。

25 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 12:55:31 .net
23

スレッドを間違えた。

26 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 13:26:41.91 .net
そうそう、ヒボコの舅の家の神床家にはキチンと神功皇后伝承が残っていて、息長帯姫は実際には成務天皇の奥さんだったそうです。

たしかに、ヤマトが九州にやられた景初の東征の戦いで、前政権はヒコイマス系から手打ちとして奥方のヒバス姫を出していますが、系図を見てもわかる様に、神功皇后は、ヒバス姫と同年代の人物。
年上にしても成務天皇あたりまでが限界でしょう。
あの時代に母系の先祖のヒボコの実家が、王権が部下の人物に移行した際に、相続権を主張して韓征伐を計画したそうです。
当初、成務には断られた神功皇后は、なんと彼を見限り、九州の豪族、中臣家(当時はまだ中津臣家)の人物に依頼します。それが後に仲哀天皇にされ、取ってつけた様にナカツヒコと割と中継ぎの様な可哀想な名前になっています。
そして、九州西都原に住んでいた武内宿臣太田根の孫の襲津彦が、彼女と組んで二韓征伐を成功に導いたそうです。

つまり、応神ともなると孫の摂政の世代になるので、相当なおばあちゃんという事になってしまうので、この辺りまでは記紀によって時代が圧縮され、九州宇佐の卑弥呼が隠されている時代になります。
応神期以降は記紀は割と本当の時代にあってくる感じになります

27 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 13:34:56 .net
西小路の旧生目神社跡地が
伊支馬長官の所在地だろうな。

28 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 14:08:40 .net
>>24
>>27
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

29 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:05:45.65 .net
>>22
全部見てね、おかしいと思うところ指摘してくれ。

30 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:44:18.35 .net
銅鐸の分析によると、
大国主と大物主の共同作業の國造が、
実際に1世紀中期にあった事が分かる。
更に言うと、須佐之男命は実際に居て、
コレは荒神谷遺跡の主であると考えられるのである。
となると大国主は加茂岩倉遺跡の主だろう。
また、国譲りの際に事代主が隠れたと言われる青柴垣が高地性集落で、
建御名方神が逃げていった諏訪が、
銅鐸分布圏の最果て地であることも、
大国主のパートが歴史の事実であったことを物語っている。

31 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:47:22.93 .net
>>30
妄想、楽しそうだな。  わははははは   @阿波

32 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 17:58:10 .net
で、この大和の大物主が大和に取り込まれるのが、
崇神天皇の時代のモモソヒメのパートの事で、
箸墓の伝承になって記述されている。
大和の支配者の大物主は、
実際には吉備の豪族御間城崇神に、
縁戚関係で取り込まれたと言えるだろう。

33 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:06:03.32 .net
また、御間城崇神の系統は、
孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇開化天皇らと
同族であると考えられ、
これらは中国四国地方から畿内へ
婚姻関係を広げて行っている事が分かり、
これらもまた縁戚関係によって、
畿内進出したことも分かるのである。

34 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:12:49.35 .net
で、この御間城崇神の大和進出以前に、
天孫降臨によって河内を拠点にして、
大和に進出していった部族がニギハヤヒであり、
それらは大阪湾型銅戈の出土と一致し、
長野県安積野からも出土したことで、
ニギハヤヒの河内を拠点にした大和進出と一部安積野進出が、
歴史の事実であることも証明されたと言えるだろう。
そしてこのニギハヤヒの部族との婚姻関係で、
御間城崇神は畿内に進出していった。
コレが歴史の事実である。

35 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:21:38.30 .net
また、御間城崇神と婚姻関係を結んで、
畿内に進出していった日向の部族が生目垂仁であり、
コレが魏志倭人伝には伊支馬長官として記述されている。
また、御間城は彌馬升として記述されており、
記紀では子と親の関係でありながら、
役職逆転していることから、
実際の直系の親子関係は無かったと考えられる。

36 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 18:28:47.62 .net
また、当時、狭穂彦の乱を制して、
日向から北部九州に進出していた生目が長官で、
一方、四道将軍を本州各地に派遣して
肇国知命となっていた御間城崇神が
副長官であることを考えると、
倭国の中心地は北部九州であることも分かるのである。
御間城崇神が四道将軍を本州各地に派遣しながら、
北部九州には手出しが出来なかったことも、
北部九州に軍事的に大きな勢力があったことが分かるのである。

37 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:05:40.37 .net
>>1スレ建てありがとうございます( ̄∇ ̄*)ゞ 
邪馬台国はどこなんでしょうねえ
九州は間違いないと思っていますが
私は
邪馬台国は高良山、高千穂は英彦山だと思っています
英彦山が高千穂の方が自信あるけどなあ

38 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:08:01.98 .net
>>37
妄想、楽しそうだな。   @阿波

39 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 19:18:57.27 .net
>>37
高千穂は高祖山 三雲南小路など方形墳
高良山は孝霊など大倭系男王 祇園山など前方後円墳

邪馬台国は北部九州全体

40 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 21:36:39.95 .net
>>29

ただいまです。
これから全部見てみますね。

あと、一応日本の旧家との違いは都万国の位置です。
https://daredoku.net/2020/08/17/1093/
当時、数万戸になっていたのは西都原で、そこが都万国でした。

私のお気に入りのヨウツベ動画はこれです。
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw&list=PLil3fU968DZoNIkJAhk1K4yWoeAislED1

ここの邪馬台国と都万国の位置を入れ替えてみてください。
概要としてはそんな感じです。

大陸の史書というのは、実は恐ろしい確度で日本の事を書いているそうです。
日本の旧家に言わせると、日本に欠史は存在しないとの事です。

41 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 21:42:38.04 .net
西都原のあたりが邪馬台国となるとは、実はかなりの線を行ってるらしいですね。

此処に集結した群衆が、タジマノモリ(だしょうまい)が大陸から貰った八本の属国旗を宇佐八幡で掲げ、
その旗の処に銅鏡を下げて、進軍が開始された様です。

二回目の東征が景初の東征にあたるそうですが、つまり、垂仁がヤマトを倒し、短期間ですが政権をとり、曲がりなりにも日本統一をしたというのが概要になります。

つまり、単なる奈良の出先機関の伊都は重要ではないんです。ヒミコが独身の卑弥呼、いつの間にか結婚してた卑弥呼が大陸の史書に書かれていた事。
宗女トヨの母親が、九州の卑弥呼で、朝貢した卑弥呼。大和の出雲の太陽の卑弥呼に対し、九州の月神信仰の卑弥呼という事が重要な話の様ですね。

魏志倭人伝は、物部と宇佐一族による、親戚の家、ヤマトへの侵攻という事なのだそうです。

42 :日本@名無史さん:2022/04/12(火) 22:29:50.23 .net
伊都と安曇の、景初の時代の関りは極小値。
律令時代にまで渡って長い間に展開した安曇族と、その勃興のあたりの時代とは基本無関係。
下手すると安曇族は宇佐家の分家筋。
磯良関係の神事はほぼ全て応仁期以降に宇佐八幡が作った体制への服属儀礼。

総レス数 649
205 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200