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邪馬台国=福岡説 PART6

1 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:55:40.87 .net
資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう   

※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/

※PART1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540896768/
http://n2ch.net/r/-/history/1540896768/1-?guid=ON

※PART2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563587141/
http://n2ch.net/r/-/history/1563587141/1-?guid=ON

※PART3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582199560/
http://n2ch.net/r/-/history/1582199560/1-?guid=ON

PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604820323/

161 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 20:43:11.98 .net
>>154
>巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?

纏向の土器はすべて「東阿波型土器」だから。   @阿波

162 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 20:49:10.37 .net
中国書物に記載されている他国の地名や人物名の漢字は基本当て字と思って良い
例えば狗奴国の狗が犬だから熊襲や隼人なんじゃないのかという推測は正しくない
あくまでも日本語を中国語(漢字)で説明しているだけなので漢字自体に意味は無い

163 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 21:57:22.50 .net
>>150
聞いたことある。
福岡は昭和まで甕棺が使われていたって。
最近は流石に話を聞かなくなったから、思い違いかと思ってた。

164 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 21:59:41.26 .net
>>152
そうか?
草薙剣は鉄剣だと思っていたけど?

165 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 22:01:22.11 .net
>>160

纒向は、魏からの使いが滞在した伊都国とは隔絶され、魏と交流がない田舎だったんだよ。
楽浪土器もないし。
言わせんなよ、恥ずかしい。

166 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 22:03:28.74 .net
>>162

当て字だなんてみんな知っているよw

167 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 22:05:59.40 .net
>>162
寧ろ逆で古来の漢字にこそ意味がある
例えば不彌国という国は馬韓にも存在したので
馬韓の不彌国が日本に移った可能性もあるし
同じ意味合いの国が日本にもあった可能性もある
狗奴国は文字通り狗をシンボルとした国で、狗の付く国は他にも沢山ある
奴は奴隷的な意味なので「狗族の奴隷となった国」とも考えられる
若しくは「犬のように野蛮で奴隷のように醜い国」なども捉えられる
もちろん今と昔で意味合いが違う可能性もあるので一概ではないが

168 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 22:42:38.57 .net
ないない
意味があるのは伊都くらい

169 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 00:55:59 .net
実際、狗奴国が存在したと言われている熊襲や隼人の南九州は、ヤマト政権に度々反乱を起こしているがなw
日本の歴史書にもそう記されている

170 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 08:03:48.37 .net
熊襲はよくよく調べると九州北部だけどな

171 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 08:09:02.04 .net
>>170
ソースは?

172 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 08:46:45.38 .net
肥前一宮である與止日女神社(河上神社)の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上したとされる。

173 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 09:00:05 .net
>>172
それって筑紫を脱出したというよりも、遠征先の筑紫で戦に敗れて肥前に逃げ帰ったような印象だな
敗走先で宮を建てた上に新築祝いまでするものだろうか?

174 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 09:36:15 .net
福岡市早良区の西新町式土器圏は当然伊都国、奴国だが
熊本県南部、鹿児島県の免田式土器圏はおそらく
魏志倭人伝にでてくる狗奴国だろう

卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器出土地
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg

菊池川の北岸のある方保田東原遺跡は川を堀として
南から来る敵から守る配置になってて
菊池川が西新町式と免田式の境だと考えてる
https://stat.ameba.jp/user_images/20170524/08/yamatai-nihongi/db/8d/j/o0607040813944525554.jpg

175 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 10:26:21 .net
倭人伝に記載されている国名こそが日本古来の国名
漢字の意味は恐らく部族や地位などを意味している
「今では野蛮に思える漢字も、昔は強さを表していた」←ここ重要
邪馬国と邪馬壹国なんかは、同じ種の国の中で
王(壹)のいるエリアを独立させたとも捉えられる

そうなると邪馬壹国を日本で新たに当て字をする場合
大和という漢字は成立しない事に気付く
基本的に漢字と読みが一致しない地名というのは
方言が原因とされるので、それ以外は合併や移動などの
特別な条件で生まれた地名だと推測される

176 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 10:38:25.86 .net
>>173

熊襲タケルの言葉として、九州全土を治めていたが、(小碓尊のような)智略に長けた人物がいたとは知らなかった、と言っている。
九州全土を治めたなら、当然筑紫も治めていたことになる。
最後に倒されたのが佐賀大和だった。

ヤマトタケルの息子の仲哀天皇の時代の熊襲征伐では、神功皇后が筑後山門に田油津姫を追い詰めて倒している。
舞台はやはり九州北部になる。

博多湾沿岸から見れば漠然と南であることは間違いないが、南九州ではない。

177 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 10:54:54.38 .net
>>176
筑後地方こそ土蜘蛛の本拠地ですよねー

178 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 11:51:06.51 .net
倭人伝の奴国=倭奴国であり、倭族が支配する国である
奴国が二回出てくるのは、別の倭の支配国を意味する
鳥奴国は恐らく鳥栖であり、鳥族の支配国を意味する

倭族は海神族、鳥族は天孫族、狗族は山神族
これらは皆、大陸から渡ってきた弥生人と推測される

179 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 12:13:08 .net
あ、天孫族は「伊」だから伊都国と伊邪国か…
他の鳥とか鬼とか蘇とかは部族なのか地位なのかは不明

180 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 12:22:45.32 .net
>>177
しかも、熊襲タケル(川上タケル)の墓があるのは、河上神社こと與止日女神社といい、そこに祭られている神様こそ壹與でしょう。
肥前と肥後と筑後は、有明海沿岸として一つの領域と見做せるので、おそらく卑弥呼も壹與や川上タケルと同様に肥国の出自で、倭国大乱で筑紫を含む倭国女王に共立されたのかもしれません。

181 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 12:31:23.55 .net
>>174
菊池は阿部の領域

クコチヒコから来てる

182 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 12:34:12.42 .net
>>165
伊都に出て、巻向に無い土器という事なら支配関係は想像できるけど、なんとごく少数だが、巻向から九州式の土器が出てるというww

伊都に巻向の土器がないのなら、どちらが上位か想像はつきそうなものだ

183 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 15:32:39 .net
>>182

王都の筑紫で買い込んできたんだろ。

184 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 16:48:23.01 .net
少なくとも倭国大乱期開始以降、景初までは平型銅剣の勢力により瀬戸内海で九州と奈良の勢力は分断されていた
例外は四国南部ルートのみ

あそこは物部の勢力圏

銅剣だか銅矛は物部のものが出ている

その頃に忌部がいたかどうかは不明だが

185 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 17:00:36.73 .net
平型銅剣の勢力とは、古代出雲すなわち現宗像地域から東方開拓していたカモ勢力

186 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 17:10:59.01 .net
>>184
>その頃に忌部がいたかどうかは不明だが

少なくとも、縄文時代晩期末から「倭人(阿波勢力)」は全国へ進出していた。   @阿波

187 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 17:20:20.40 .net
それは毛人。

倭人はもう少し後で、先に進出した毛人と混ざったのが倭種。

188 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 17:56:22.94 .net
>>187
街既知か?   @阿波

189 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 18:14:26.54 .net
前スレの後半あたりから内容が濃くなっているね
書く人が変わったのか戻ったのか
昔みたいだ
勉強になります

190 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 19:05:16.32 .net
>>185
フトニ=孝霊天皇

つまり、海部や尾張氏(村雲の家)
父系がホアカリ、母系が出雲

それが開化天皇までの家系。
故に、阿部は本来の村雲の家系

だから帝記編纂委員に選出されたのではないかと

191 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 19:58:28.06 .net
私は竹原古墳の壁画が邪馬台国の邪馬だと思っている
壁画のように牙の生えた馬のようなのを想像していて
その想像の動物の骨か牙か化石?が安置してある場所が邪馬台国

みんなに失笑されるかもと思っているけど        

192 :日本@名無史さん:2022/04/15(金) 21:37:31.60 .net
遺跡にばかり集中していると本質が見えなくなる
本質は倭人伝の中に書かれている

193 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 09:58:50 .net
>>191
邪馬1国の1は、不思議な事に蔑称ではないんですよね。
確かにヤマってナニヨって感じる。
まあ、普通にヤマトの1国って事かな?とは思う。
ヤマトは蔑称で省略、国名は朝貢した事により良呼称になった

でも逆説もある。
それが宇佐豊姫。豊国のトヨ。

1与が、イヨなのかトヨなのか。
た行なら、邪馬1国がヤマトになる。
豊国の読みは、とよくにで良い事になる

しかし、昔から教科書にはトヨ(イヨ)と出ていた

194 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 11:16:24.97 .net
結局、邪馬1国だよ、伊都は1だよという説も、じゃあ邪馬ってナニヨでつまづく。

大陸の史書はあくまで大陸目線であるが、ひとつだけ例外がある。
それが自己紹介。
あれだけは中国読みではなく、和名の音感になる。

邪馬とはなんであろうか?

そもそも1国=伊都なら、漢字が同じになるはずである。

少なくとも別と大陸が認識していた事は間違いない。

陳寿はトヨと同年代の人物で確実にリアルタイムに出来事をまとめることができた時代の人物。

1国と1与が同じ字であるのなら伊都は、別の存在と考えるものではなかろうか

195 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 11:29:28.48 .net
ここからは勝手な思い込み

臺與、あるいは壹與
魏書に書かれたのは後者だったと記憶している。
豊という字に似ている。
当時の豊という字が和製漢字であるとするのなら何となく似た漢字で書いた可能性はあるかも知れない
板木で写していく過程で誤字になったとも考えられるが、何回も間違えるだろうかという話もある。

武内宿禰は、魏書には「たいしゅうえつ」と出ているが実際にはたけの字の写し間違いと言われており、実際にはタケシウエツではないかと考えられている。
弟の額田宿禰は「ぬかだい」と出ている。

タジマノモリこと「ダショウマイ」は、朝鮮語が話せ、漢文が読めたので、大陸の政変で、魏国に朝鮮半島を経由して真っ先に朝貢し、魏の権威を独占できるタイミングで朝貢したかったと考えられ、その際に自己紹介の字を先に考えて行った可能性はある。

196 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 11:56:35.10 .net
卑弥呼=甕依姫(玉依姫)
卑弥弓呼=国乳別皇子(海幸彦)
壹與=豊姫(神功皇后の妹)
邪馬壹国=山門国(八女王国)
鬼道=天道(母子信仰)

欠史八代を排除し、神話と実話を融合すれば答えは導かれる

197 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 11:59:48.21 .net
九州物部には二つ名の習慣があったらしい。

記紀においては法則があり、ササラ皇女が夫の政策を引き継ぎ、不比等を重用して記と、紀を纏めようとした際に、ヨキコトエラブツカサの委員を選出している
記紀編纂前には解散したらしいが、万世一系は、ササラ皇女か、もしくは不比等からの持ちかけだったのではと考える。

基本、朝貢した歴史や、我が国皇室の男系が渡来者である事は絶対的タブーで、複数の政権が入れ替わっていても同じ家系に偽装する。
他、大王自ら軍を率いて戦った事もみっともないとされた。

大陸に提出する我が国の書物に自慢げに属国でしたとは書かないのである。

物部イクメは朝貢したとされ、その際には九州の名前を名乗ったらしい。それがイサチ。
イサチイリヒコイクメ。
これが後の物部系の淡海によりネタバレされて諡号になった。

イクメの息子は成務だっけ?
彼の物部の名前は、物部オオタラシ彦。
諡号は確かオシロワケオオタラシ彦ではなかったかと。

198 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 12:11:41.74 .net
壮大なネタバレ本である先代旧事本紀。
そこにはヤマトと、九州の男系の共通の祖である一人の人物が書かれている。

さらに大陸には不老不死の薬を探しに来た道教のおっさんがいた

記紀は巧みにその部分を誘導し、その人物が誰だかバレても問題がないようにした。

大陸のおっさんと、スサノオだけ、大陸に一度戻っており、そいつが誰だかバレても問題ないようにするのには、女系に落とし込む事で解決した。

国譲り前の出雲、奥さん側のお爺さんにスサノオを持ってきて女系の先祖にしている訳だ

丹後ホアカリ、築秦国の饒速日、そしてスサノオは同一人物

スサノオを紀元前7世紀にして、出雲初代の管八耳の奥さんの稲田姫を娶ったように書いた。

この部分は千家果安が忌部小首に頼み、右大臣が許可して書かれたらしい

スサノオは記紀の際に生まれた新造の神で、渡来時期を誤魔化し、国譲りの事件を引き起こす手引きをした千家の悪事を隠すために工作されたらしい。

紀元前3世紀の渡来人を遡らせ、ヤマトと九州の共通の男系の重要人物をこのようにして隠した。

実際には丹後に移住したイソタケルと村雲が奈良入りしたのは紀元前二世紀あたりらしい

199 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 14:30:24.38 .net
記紀の狙いは成功した。

日本書紀が大陸に提出されて以降、その後の大陸の歴史書においても、我が国に大きなターニングポイントを持ち込んだ大陸からの渡来者の正体はバレる事なく、その後も修正される事はなかった。

せいぜいが、邪馬1国の読み方に修正が入ったくらい

しかし効きすぎてしまって、本来は国内向けには隠す方針ではなかったので様々なネタバレが随所に散りばめられた記紀を参照して持論を展開する論調が増えてしまったとも言える。

磐余彦の軍隊は物部氏。
磐余彦は、いつの間にかヤマトにきたら物部のウマシマジになってる。

200 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 16:54:24.24 .net
そもそも伊都国の井原や三雲や平原の弥生遺跡は奴国と比べて小さいんだよな

福岡市が行った那珂遺跡群34次調査説明会の画像
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/76/c93468b601104d5eb8a2df8dbbfb58f2.jpg
紙に書いてる内容 読めないところは□
那珂八幡古墳後円部
南側周溝下層出土土器
(那珂遺跡群34次調査)
□弥生時代終末期〜古墳時代初頭の
□□□(「西新町式□□」、「庄内式」□
□「□□式」□□□□□□

福岡市 西新町式T(編年240〜260年)と
大阪府豊中市 庄内式TB(編年210〜250年)と
不明だがもうひとつ何かの土器が出たんだろう

その結果調査した専門家たちは那珂八幡古墳が作られたのは
弥生時代終末期〜古墳時代初頭 と判断した↓記事

つまり卑弥呼〜台与あたりの時代に福岡市に
86mと小さいが前方後円墳が作られた伊都国〜奴国周辺は
畿内のヤマトの支配下にあったと考えるのが自然

福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
https://mainichi.jp/articles/20190303/ddp/014/040/012000c
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。

201 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:06:45.90 .net
狗奴国との戦争中にでかい土盛りは作らん。
その一点だけでも台与以降のもの。
土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
早くても3世紀後半、おそらく4世紀以降のものだろう。

202 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:17:07.15 .net
まあ、平原女王墓ですな。>卑弥呼さま

203 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:20:38.80 .net
福岡市博多区の前方後円墳の那珂八幡古墳の周濠で
大阪府豊中市製の庄内式土器がでた(編年210〜250年)
しかも福岡市 西新町式T(編年240〜260年)といっしょにでた

九州初の前方後円墳を作るにあたり
畿内から技術者が応援にきたんだろう

言っとくけど調査したのも発表したのも福岡市教育委員会だからな

>201 >土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
いや240〜250年の可能性は排除できないし実際記事にもそう書いてるじゃん
これは俺の意見ではなくて福岡市教育委員会の専門家の意見ね

204 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:25:58.20 .net
魏志倭人伝の誰が土盛りを作るんだ?
まさか妻を何人も持つ倭人様じゃないよな?

奴婢?生口?

生口はどこから来た?
来たとしたらその痕跡は?土器の流れか?

大きな土盛りを作るには多くの生口が必要だよな?
それはどこだ?

205 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:27:41.77 .net
今日のキナイコシ「畿内からの技術者」

206 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 17:41:43.96 .net
木内チョン

207 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 21:07:19 .net
また邪馬台国畿内説スレが終わってしまったので、
こちらに、転写保存です、
>>752
>最初の方は明らかに倭の説明をしているだろ?
倭あるいは通交していた倭の三十国の戸数が七万戸としか読めんけど

同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録に拠った魏志倭人伝では、
女王之所都のある邪馬壹國の推定戸数が「可七万戸」。

208 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 21:32:20.64 .net
>>207
>こちらに、転写保存です、

いらんわ。
ボケ

209 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:12:21.39 .net
魏志倭人伝の矛盾点の一つに奴国の南に倭国30国があると同時に
狗奴国も南にあること

女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。
次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。
その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。
その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。

この文章の部分ね
邪馬台国からみて北にある国の名を箇条書きにして
最後の奴国が一番北にあり30国の境界と書いていて
さらにその奴国の南に狗奴国があると読める

三国志正史より後に出た歴史書の中には
狗奴国を奴国の東と勝手に書き換えたものもあるから
昔の中国人もこの矛盾に気づいてた

210 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:25:39.47 .net
対馬、壱岐、まつろ国、伊都国、奴国は道のりや戸数が書かれてる

女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。

ここを読むと箇条書きされた国は遠くて詳しくわからない
もっとも南にある邪馬台国までの陸行の一月なんかはわかるけど
邪馬台国周辺の国は名前しかわからないと
魏志倭人伝には書かれてるわけだ

魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える

211 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:47:26 .net
邪馬台国以北の対馬海峡の国々は道のりがわかる(里程が書いてある)。
その他の邪馬台国(おそらく伊都国と奴国)の周りの国はよくわからん。
それらはぐるっと周旋五千里で奴国に戻ってくる(距離的には佐賀、長崎)。
それらの南に狗奴国(熊本)がある。
それとは別に(邪馬台国へのルートと並行して別ルートで)投馬国(宮崎都万神社)への道がある。
邪馬台国は狗奴国(熊本)や投馬国(宮崎)より帯方郡に近いことになる。
福岡と佐賀しかない。

212 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:48:39 .net
福岡には卑弥呼と思われる平原遺跡、佐賀には壹與と思われる與止日女神社。

213 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:55:47.25 .net
つぶやきさんの話は面白い
擬宝珠は龍の頭から出てきた珠
竹取物語、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を探させる
大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、
世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったとか

龍の珠の代わりに目のモモ
4世紀半ば〜後半の神功皇后、応神の話かな?

214 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:56:41.92 .net
平原遺跡は木棺
3世紀半ばとは考えにくくせめて石棺でないと
そうなると祇園山を出してくるだろうけどあれは方墳で
径百歩ではない

215 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 22:58:40.27 .net
なぜ木棺墓だとダメなのか、理由を聞かせてもらおうじゃないか。

216 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:00:32.40 .net
三雲南小路遺跡は後漢鏡、平原遺跡は後漢鏡プラス国産鏡だこら、平原遺跡は後漢滅亡後、つまり卑弥呼の時代の女王墓にしかならない。

217 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:03:58.08 .net
棺の移り変わりを勉強してないのか?

218 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:17:51 .net
ならその棺の移り変わりの仮説が間違っているんだよ。
平原遺跡が後漢滅亡後というのが歴史的定点だろう。

219 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:21:32.12 .net
>>210
>魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える

ちゃんと読めば真っ先に消えるのは畿内

220 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:35:11.57 .net
>>219 もちろんだ 九州と同様に畿内も消える
それどころか中国では1060年の新唐書がでて旧唐書の間違いが訂正されるまで
九州も本州も存在していないことになってるので書きようがない

221 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:43:59.54 .net
5世紀にでた後漢書のこれは
桓帝と霊帝の間(146〜168年、168〜189年)に倭国は大いに乱れ
3世紀に出た魏志倭人伝を脚色した結果だろう 倭国乱 → 倭国大乱
大した戦いはなかったんじゃないかってこと

そして畿内には畿内式銅鐸と三遠式銅鐸の特徴を併せ持つ
大岩山銅鐸があり共立のあとの可能性がある

1世紀や2世一の漢委奴国王やスイショウが朝貢した時には敵はいなくなってて
2世紀の九州に戦いのあとはない
七が瀬遺跡は鏡が出てきているので伊都国所属だろう

九州は狗奴国との乱れはあったとしても共立のあとはない

222 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:48:39.66 .net
キナイコシ「2世紀の九州に戦いのあとはない」

223 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:51:19.65 .net
紀元前の吉武大石の使われた形跡のある剣とか
〜1世紀の再建前の吉野ヶ里の首のない被葬者とか
矢がささったままの被葬者とかあるじゃん?
遺構的に九州では1世紀までは戦いがあった可能性はある

てか平原はピアスがでているので女性で
2世紀の九州は女性がトップになれる状況だった
個人的な意見だが戦いを避けるために女王にしたと考えてる

ただ狗奴国との関係はよくわからないがとりあえず共立はしてない

224 :日本@名無史さん:2022/04/16(土) 23:54:43 .net
>>222 悪いがレベルを落とす気はないぞ
おれは知識を望む
九州の戦いのあとを出せるか?出せるなら出せ
それが確かな場合はおれが間違ってる
出せないならおまえらが間違ってる

俺の書いてることどこか間違ってるか?

225 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:00:34.69 .net
吉野ヶ里から鏃が刺さったままの人骨でとるやろ

226 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:00:42.41 .net
>>224
畿内の戦いのあとは出せるのかい?

227 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:02:15.26 .net
普通は北九州から山陰で大乱があったと言われているんじゃないのか?

228 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:03:06.55 .net
吉野ケ里遺跡は2世紀に壊滅
桜馬場遺跡や七が瀬遺跡の王家も2世紀に断絶
三雲井原王墓から期間を経て平原遺跡に類を見ない女王墓
どう見ても北部九州が倭国そのもの

229 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:12:48.47 .net
畿内って戦いの跡あったっけ?あまり聞いたことないけど

230 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:13:34.78 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数

<弥生時代早期>
福岡1
高知5

<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5

<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1

<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

231 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:14:20.63 .net
>>226 >畿内の戦いのあとは出せるのかい?
それは出せない
ただ小競り合いの可能性はある

倭國亂相攻伐歴年 もともと大いにとは書いてない

大いに乱れるって後漢書のやつは
150年後に当時を知らないやつが勝手に書き換えた可能性はある

畿内式銅鐸(飾り耳)と三遠式銅鐸(飛び出す太い横線)で分かれていたのが
その両方の特徴を持った銅鐸が伊勢遺跡にちかい大岩山でみつかる

232 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:17:07.00 .net
>>231
アホなキナイコシ

233 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:19:29 .net
>>231
> ただ小競り合いの可能性はある

可能性くらいならどこでもあるやろw

234 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:21:27 .net
結局キナイコシはただのアホでしたw

235 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:24:59 .net
>>232 ないものは出さないぞ
ゴッドハンドと一緒にするなよ

ただし共立については出したぞ
共立のあとは九州は出してない
ここが決定的に違うところ

236 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:27:34 .net
>>235
お前がゴッドハンドだとは誰も考えとらんから心配せんでいいぞ

237 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:28:26 .net
>倭國亂相攻伐歴年

てかこれだけでどのくらいの争いかわかったらエスパーじゃね
しかも最終的には共立してるわけで状況から
憎みあうほど大いに乱れた可能性は低いといえなくもない

238 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:29:58 .net
銅鐸の文様、製作方法などから分割消滅集約される様子
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/d4/b0097b01ea41cc0a8edbeb378acebbf7.jpg
こんな感じで畿内、東海の銅鐸は2つに集約される

銅鐸出土場所からの1世紀初めの予想勢力図
赤の近畿勢力と青の東海勢力
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/98/58e42f814d897d51f1f47e55273a2b93.jpg

NHK

239 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:30:21 .net
飾り耳が特徴の近畿式銅鐸
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/ec/616fc419793ee09019da65d408a2036e.jpg
はみ出す太い横線が特徴の三遠式銅鐸
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/84/5d3f4e87763880eed54aade5da9b7f90.jpg

飾り耳が特徴の近畿式銅鐸と
はみ出す太い横線が特徴の三遠式銅鐸の
両方の特徴を併せ持った滋賀県大岩山遺跡の銅鐸135cm
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b5/3f5f38da66fc08be10650c707167abff.jpg
これが共立のあとと考えられる

240 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:30:43 .net
>>235
銅鐸が共立の跡?

じゃあ卑弥呼の都では共立の根拠となった銅鐸がさぞかし沢山出土するのだろうなw

241 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:31:12.81 .net
吉野ケ里遺跡は2世紀に壊滅
桜馬場遺跡や七が瀬遺跡の王家も2世紀に断絶
三雲井原王墓から期間を経て平原遺跡に類を見ない女王墓

どう見ても各王家による平原女王共立
北部九州が倭国そのもの

242 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:35:12.80 .net
>>203

那珂郡で三角縁神獣鏡が出てるんだから、思いっきり畿内の豪族の拠点でしょ。

243 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:37:05.10 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合

<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
 福岡904出土中36 3.98% 
 佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
 大阪 87出土中12 13.79%
 奈良 4出土中2 50.00%
 兵庫 4出土中1 25.00%

<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
 福岡 166出土中5 3.01%
 佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0

弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。

北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。

244 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:38:08.27 .net
>>216

>三雲南小路遺跡は後漢鏡、平原遺跡は後漢鏡プラス国産鏡だこら、平原遺跡は後漢滅亡後、つまり卑弥呼の時代の女王墓にしかならない。

お前の妄想は自分のスレッドでだけ書いてろ伊都チョン

245 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:38:54.25 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数

<弥生時代早期>
福岡1
高知5

<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5

<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1

<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

246 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:42:48.40 .net
>>228
吉野ヶ里が衰亡に向かうのは3世紀以降でしょ。
二世紀までは築秦国があり、物部王国だった。

景初以降から神功皇后期にかけて北九州から物部族が少なくなった。
朝鮮半島での戦闘に狩りだされたから。

どのみち、母系の協力者である豊国を裏切った物部氏に居場所はなかった。

その後、朝鮮半島の王から物部氏には七支刀が贈られた。

故に、石上に七支刀があり、住吉に七支刀が行かなかったらしい。

成務は結局朝鮮半島で洋平のような事をやって高句麗と戦っていた。それが広開土王碑文に書かれることになったそうだ。

朝鮮半島の前方後円墳は蘇我氏ではなく物部氏のものらしい

247 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:43:19.10 .net
>>244 そう簡単に決めつけられるものではないだろう
後漢鏡が手に入る状況にないとだめじゃね
曹操と袁紹が争っていた時期に手に手に入るかな
交易ルートが確保できてない可能性あるよね
結構粘ったよ袁家

248 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:47:50.86 .net
>>246
それはつまり率善中郎將を印綬された伊聲耆掖邪狗ならびにその一族が台与政権以降も朝鮮半島に干渉し続けた、ということ?

249 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 00:56:09.71 .net
三国志で戦乱だったからね
しかも楽浪郡や半島の混乱とかある間はルートが断たれて
後漢鏡の入手は難しいよね

袁家滅亡後も楽浪郡の公孫家の抵抗とか
帯方郡制圧や高句麗や半島三韓の抵抗とか三国志正史に書いてる

漫画では書いてないから正史を読んでるかどうか

250 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:08:57.45 .net
てか鏡が入手困難だったから
卑弥呼は銅鏡100j枚を曹芳にお願いしたんじゃないの

また、特に、汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、
金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、
みな装ほひ封じて難升米、牛利に付す。
還り到らば録して受け、悉くを汝の国中の人に示すを以って、
国家が汝を哀れむを知らしむべし。
故に、鄭重に汝の好物を賜ふなり。

そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。

魏志倭人伝に書かれてる絹、鏡、丹などは倭国側が要望した可能性が高い

251 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:15:25.28 .net
那珂八幡古墳

『古代の福岡』(アクロス福岡文化誌3、2009)
「規模は墳丘長約八五メートル、後円部径約五二b」「後円部径と前方部長の比率が八対五」「九州各地の古墳時代前期前半の初期前方後円墳の墳形につながると考えられる」
「『庄内式』(弥生時代終末期ないし古墳時代早期)の時期に古墳が築かれた可能性がある。
とすれば九州最古の古墳となり、大和の纒向古墳群に匹敵する古さと規模の古墳となろう」。2019年の調査で明らかになったはずの事柄が、不思議なことに、その10年前の2009年に出版された書籍にしっかりと記されている。

東征してない鏡である三角縁神獣鏡が出てる時点で畿内の勢力下であったことは明らか。
邪馬台国事件の後、衰退した物部のあとに、中津臣や阿部家が九州北部に入り込んでる。

宮地嶽古墳の神社の元社家が阿部氏だった事にも関係しているだろうな。
神功皇后期の前に急速な移動が発生している。

阿部系の不正神社は不思議な移動をしており、本来なら琵琶湖周辺から180年代には北陸や東海方面に撤退したはずの大彦勢が、なぜか瀬戸内海に布施神社を作ってる

252 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:20:33.70 .net
銅鐸祭祀は、盛んになったという点では出雲が先と一般には考えられているが、大型化した、いわるゆ見る銅鐸は、基本はヤマトの文化

フトニが出雲に攻め込む前に出雲が銅剣祭祀に変わっており、大型化したのは安倍勢が畿内から撤退した後。

その中間の時期の銅鐸は、出雲の砂鉄と機内の銅鐸を交易で交換していた時代がある。
出雲では、後期の銅鐸は畿内製品に置き換わっていた

そして、九州ではやっとこさ、吉野ヶ里遺跡から超初期型の小型の銅鐸がひとつ出土。
どういうわけか、九州では銅鐸が早くに廃れ、銅鏡に置き換わっていったようである。

253 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:27:43.47 .net
物部の生贄的文化

物部は元はイスラエル的な文化を持っていたとされ、生贄の文化があった。
対して出雲は黒不浄を極端に嫌う傾向があり、最高礼装が鳥葬であった。

杵築大社が出来上がってからは特にその傾向が強まり、死体に触れたものは祭祀の継承から外されるほどであったと言われる。
故に忌部などの特殊な一族が埋葬などに関わっていたらしい

物部族が景初において二度目の東征を行った際に、記紀に書かれている出来事が実際に起きたらしい。
つまり、古墳の処に戦った敵方の人間を首から下だけ埋めて叫ばせた。

あれが奈良の出雲族に決定的に嫌われる原因を作ったらしく、敵方であったはずの野身宿祢などの出雲勢まで動員して、仲間であったタジマノモリや豊国を切り捨てて政権を取った物部勢は孤立化した

じゃあ、丹後から大和に入った五十猛の一派はどうだったかというと、大年教が絡んでいると思われる。

254 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:34:39.66 .net
国譲り事件は、先代旧事本紀で出ている様にアメノホアカリニギハヤヒ(スサノオ)が渡来した直後に起きている。
千家の先祖であるホヒ家が手引きし、出雲の第八代の主王、副王が同時に殺された。

主王は郷戸家の大穴持、八千鉾
副王は富家の少名彦、八重波津身

特に郷戸家親族の怒りはすさまじく、ホヒも殺されるところだったが、向家が助命を申し出たそうだ。
その際、首謀者であるスサノオは、何と子供と奥さんを放り出して中国に帰ってしまった。

母系社会の出雲では、五十猛はそのまま放り出されるはずであったが、幼かった事もあり、大年教の巫女であった大屋姫の近くで育てられることになった。
現在でも出雲の五十猛神社の南には、大年教の神社がある。

そして、五十猛はカゴヤマと名を変えて奈良入りする前に、一時的に「大年彦」を名乗っていた時期がある

つまり、五十猛は、物部式の生贄の文化のある処では育てられていない。

255 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:47:04.11 .net
五十猛は九州には行っていない。

大陸に逃げ帰る前の父親の方針に従って丹後に移住したとされる。その際に大屋姫も随伴し、一緒に奈良入りしている。
奈良では、富家系の子孫、事代主の息子であるクシヒカタが摂津の三島家(おそらく主体は九州の越智氏)と組んで奈良湖の開拓を行い、水稲を栽培していた。

どうもその際に大規模な手打ちが行われたらしく、奈良の富家の分家、磯城登美家には、ホヒの娘のサマナ姫が輿入れ。
出雲における最下層の奴隷である「やっこ」からは比較的短時間で脱している。
そして、カゴヤマの息子は腹違いの妹である物部の穂屋姫と婚姻。

出雲側は短期間に再渡来したニギハヤヒの正体を知りながら、嫁を輿入れさせる(服属させる)ことで事を収めたようである。
すさのおにあてられた人物は宗像のイチキシマヒメを娶り、和名ニギハヤヒを九州で名乗った

ヤマトの村雲の家系は
父系父にカゴヤマ、父系母に穂屋姫
母系父に事代主系のクシヒカタ、母系母に三島ミソグイ姫
クシヒカタの次代の建飯勝が、サマナ姫を出雲から呼んで娶っている

五十猛=大年彦=カゴヤマ

大屋姫との間の子供は、和歌山の紀伊家になっていった。
紀伊家はヤマトの村雲の家と同格の分家であり、武内宿祢は、出雲、物部、紀伊家の全ての血が入った人物であった。
紀伊家の母親の兄弟の代で珍彦が生まれており、その代が、物部の最初の東征。熊野本宮大社に陣を張った物部勢との戦いの次代になる。

256 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:51:25.63 .net
つまり、村雲の家系の大彦は、五十猛の子孫

大彦系なら五十猛系の神を九州に持ってこれる立場。

それと、村雲か、沼川耳の代で分かれた八井耳系の多臣家も同じく五十猛の子孫。

つまり、この二つの家系が、北九州に三角縁神獣鏡を持ち込んだ可能性がある

257 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 01:57:33.86 .net
もうひとつ、紀伊家は、どういうわけか、ヤマトとの違いを出したかったのか、カゴヤマではなく、名を変える前の五十猛を奉じている。

古くから西都原にも地盤があったらしく、紀伊家も五十猛を九州に持ってこれる一族

しかし、築秦国に地盤があったかと言えば、安倍や多氏よりは地名などの名残が極端に少ないと言わざるを得ない。

258 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 02:33:33.93 .net
>>250
だろうね。
けど倭国でも作る絹をなんで欲しがったんだろうね。

259 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 02:34:00.19 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数

<弥生時代早期>
福岡1
高知5

<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5

<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1

<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

260 :日本@名無史さん:2022/04/17(日) 02:34:37.82 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合

<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
 福岡904出土中36 3.98% 
 佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
 大阪 87出土中12 13.79%
 奈良 4出土中2 50.00%
 兵庫 4出土中1 25.00%

<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
 福岡 166出土中5 3.01%
 佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0

弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。

北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。

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