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邪馬台国=福岡説 PART6
- 1 :日本@名無史さん:2022/04/11(月) 13:55:40.87 .net
- 資料の多い九州福岡説
邪馬臺国について話ましょう
※前スレ
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/
※PART1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540896768/
http://n2ch.net/r/-/history/1540896768/1-?guid=ON
※PART2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563587141/
http://n2ch.net/r/-/history/1563587141/1-?guid=ON
※PART3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1582199560/
http://n2ch.net/r/-/history/1582199560/1-?guid=ON
PART4
(田川日田)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1604820323/
- 59 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 11:04:08.67 .net
- 魏書では、宗女トヨの母親の名代が、邪馬1国を名乗り、戦闘開始後に武内宿禰(たいしゅうえつ)が狗奴国のヒコミチヌシノミコ(ヒミココ?みたいな)と戦闘中だとオウキに報告してる。
つまり、大陸は、最後まで東征軍が邪馬1国が狗奴国と戦っていると思い込んでいるわけだ。
九州だけで完結する話なら三角縁神獣鏡は九州だけで出なければならない
- 60 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 11:10:47.62 .net
- ヒコミチヌシノミコは、ヒコイマスの息子で、サホヒコの兄弟。
彼ら二人が後目の争いで葛城国が分裂していた。
ヤマトが九州勢に負けた後、ヒコミチヌシノミコは昔の名前、ヒコタツヒコに戻し、因幡国造になった。
武内宿禰はヒコタツヒコを守るために随伴したが、物部イクメ(垂仁)が追手を差し向けたので、そこから逃げ出し、出雲に保護された。
故に、彼の子孫全てが臣家になった。
蘇我家もwikiで確認できるが、カバネが臣になっている。
逃げ出した元の家は神社になり、その時のことが現在でも逸話として残っている。
出雲で景初の三角縁神獣鏡が出たのはこういう流れなのだそうだ。
- 61 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:07:30 .net
- 伊都の長官は耳の一族である、多臣家
耳の字は母権尊重で、母系の父親、出雲初代のスガノヤツミミとされ、二代目大君の綏靖だかにも入る(沼川耳だっけ?)
つまり、本来の神武である村雲の兄弟か、子供の代から分かれた分家で、ほぼ海部氏と同格の分家。
故に、魏書にビビと出ているのは耳の一族であるという話が九州説には出てくる事がある
基本は世襲なので、九州の卑弥呼が我々は邪馬1国であると言った際に大陸が疑いの目を向けていないことから、多氏は物部側の東征軍についた可能性がある
そして鹿島国造家の、鎌足の両親はおなじ八井耳で、鎌足は中臣家に養子入りした後に藤原氏となった
不比等の母親は中臣家とは別の家系の人物で、中臣家の血が入っていない
藤原氏と多氏は親戚同士
それが、完成しなかった帝記のメモと、和邇系統により保護されてきた細女の稗田流を元に古事記の編纂を開始した。
- 62 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:22:46.61 .net
- 先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
鉛の同位体比分析の結果、
同一工房内で、長江周辺の銅に、
北魏の銅を混ぜて作った鏡であることが分かり、
それが鏡の作成過程で徐州の銅山の銅を
使えなくなったことを意味すると考えられ、
ソレは即ち三国時代に呉に徐州の銅山を取られて、
魏は銅が枯渇したことを意味すると考えられるため、
コレが魏の時代に作られた卑弥呼に送られた鏡で間違いないだろう。
また、邪馬台国と関連が深い丹波氏の拠点、
丹後太田古墳から、青龍3年の銘のある方格規矩四神鏡が出土した事で、
卑弥呼に送られた鏡が方格規矩四神鏡であることは決定したと言っていいだろう。
- 63 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:29:31.81 .net
- 高天原が、当初の奈良から九州への変更がなされたのは、多氏か、物部、もしくは宇佐に配慮した結果かもしれない
定期の編纂メンバーには、上から序列順に、皇族関係者→各地豪族が呼ばれている。
半分の6名が皇族
残りが豪族
村雲の政権の大彦系である敗れた側の阿部ですら呼ばれ、臣姓にはなれず、連止まりだった格下の安曇氏まで呼ばれており、更には応神朝(ウズメの実家関連)の上毛野まで招かれているのに、物部氏が呼ばれていない。
これは一説によると、物部氏が圧迫されハブられたとも言われているが、私個人としては違うと考えている。
物部氏、多氏に加え、藤原氏は黒幕側であり、編纂委員を招いた側だから、招待されたリストには乗らなかったのではないか。
そうでなければ、諡号をつける役目の物部系の血が入る開化系の子孫の淡海や、壮大なネタバレ(饒速日とホアカリが同一人物)が含まれた先代旧事本紀などが編まれた理由が分からなくなる。
- 64 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:34:27.09 .net
- つまり誰が誰で何処が何処なのかを=で書いて欲しいわw
- 65 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:35:32.84 .net
- >>64
妄想愛好家にそれは無理! @阿波
- 66 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:38:19.11 .net
- >>64
イト君に限らず、邪馬台国絡みのスレに書き込むヤツらって、わかりやすい文を書いて持論を理解してもらおうという気がサラサラないように思える
- 67 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:39:07.52 .net
- >>65
ナンバーワン知ったかたったったーの阿波じゃねえかよ
- 68 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:40:11.79 .net
- 6人の豪族のうち、呼ばれた動機が不明なのが安曇氏。
安曇連稲敷は、神功皇后関係か、海部氏の代わりとして呼ばれたとしか思えない。
難波連大杉は、大彦系であるので、ヤマトの磯城王朝のことで負けた側代表で呼ばれたのだろう
上家野君家は、細男、細女の関係で藤原に呼ばれたのかもしれない。
稗田流は多臣家か、中臣家の管轄下に入っていたと思われる。
春日神社では磯良舞を、細男舞として保護してきた経緯がある
平群臣小首は、武内宿禰(武内臣太田根)の子孫で、平群王朝(応神の次から武烈まで)のことで呼ばれたのだろう。
忌部は第三席で、何故か上毛野家より上位に置かれ、末席に中臣が来ているが、これは形式上の配慮であろう。
中臣家と忌部は争っていたからね
- 69 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:45:25.11 .net
- >>64
先代旧事本紀だと、アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒでしょ
同じ人物で、簡単に言うと、奈良の海部や尾張氏は、九州の物部と同格の親戚同士
だから後目のお家騒動で争ったわけだ
- 70 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:50:25.57 .net
- >>66
イヤイヤ、時代の合わない漢の金印と安曇と伊都を強引に結びつけるペテンよりはマシでしょww
ありゃマジクズの思い込み出ぜ?w
- 71 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:52:04.08 .net
- >>63
高天原(海の城)が海なし県である奈良県に移動された理由でも考えてくれ。
- 72 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 12:57:05.42 .net
- >>31
これに関しては流石に阿波に同意
埋められた銅鐸や銅剣には特異な紋様が刻まれていて、それは出雲の富家と、神門家の所有の区別のために刻まれていたもので、須佐男とか全く無関係ww
- 73 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:04:23.11 .net
- >>71
字が読めないらしいな
延喜式でも見てきたら?
奈良から九州に変更されたのであって、その逆ではない。
- 74 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:16:02.34 .net
- 高天原は博多湾周辺である。
というのは、高天原から天孫降臨したのは、
天皇家だけではなく、
ニギハヤヒもいる。
ニギハヤヒの天孫降臨は、
大阪湾型銅戈で特徴づけられ、
銅戈等を祭祀の道具として使用していたのは博多湾周辺の部族であり、
高天原が銅剣銅矛文化圏発祥の地、
博多湾周辺であることが分かるのである。
また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
また、国譲りの際に西日本一帯に進出していった高天原の勢力が、
銅剣銅矛の伝播とイコールであることからも、
高天原が博多湾周辺であることが確定する。
- 75 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:32:44.25 .net
- 天孫ニニギが高天原から博多湾沿岸の高祖山(クシフル岳)に降臨しているから、博多湾に近いけれど博多湾ではないだろう。
海の城という原義に照らせば島嶼部であり、沖ノ島が有力候補。
大規模な祭祀つまりは祖先祭りが行われていたことが明らかであり、おそらくアマテラス祭祀だったのだろう。
- 76 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:33:41 .net
- >>74
〉また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
不気味なほど気持ち悪い伊都チョン表現ww
出てきたものと強引に何の証拠もなく関連づける、まさに安曇脳ww
- 77 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:45:40 .net
- >>76
高天原はニギハヤヒの天孫降臨や国譲りによって、
銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族であることは確定する。
スサノウが高天原(博多湾周辺)から追い出されて出雲に勢力を張った場合、
出雲から銅剣銅矛の出土がソレを裏付ける訳で、
つまり、出雲から大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡が、
スサノウの拠点となるのは間違いないだろう。
- 78 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:52:58.02 .net
- 一方、大国主は銅鐸の伝播によって特徴づけられる部族であり、
荒神谷遺跡と同時期の遺跡で、
なおかつ初期の銅鐸が大量に出土している
加茂岩倉遺跡が、大国主の拠点であることは間違いないだろう。
およそ前2世紀〜前1世紀頃に、スサノウと大国主の物語りのようなことがあったのは
間違いないだろう。
- 79 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:53:10.05 .net
- >>77
銅剣は、吉備国である、フトニの領域からも出土する。
やり直し。
- 80 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 13:54:18.99 .net
- >>78
出雲の銅剣と、銅鐸には部族を区別する同じ刻印がなされている。
やり直し
- 81 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:04:29.47 .net
- また、瀬戸内海に勢力を張っていたと考えられる事代主が、
国譲りの際に青柴垣を作って隠れたという。
コレがまさに弥生中期後期に
瀬戸内海を中心に出現した高地性集落であり、
記紀の出雲のパートは、
史実に基づくものである事が確定する。
- 82 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:05:47.91 .net
- >>79
ソレは私の説を否定することには一切ならない。
- 83 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 14:23:49.93 .net
- >>82
それは日本語が読めないだけに過ぎない
- 84 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 15:56:58.68 .net
- >>76
>荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
これは出雲国譲りの結果だろう。
武装解除して放棄させられた。
- 85 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 16:01:20.10 .net
- アマテラスは博多湾沿岸(筑紫の日向)の生まれだが、筑紫を出て高天原に移った。
孫の天孫が、豊葦原中国の王となるために筑紫に戻ってきた。
つまり高天原は銅矛文化圏ではあるけれど、博多湾沿岸ではない。
- 86 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 16:44:40.92 .net
- >>84
>これは出雲国譲りの結果だろう。
何のなんの、出雲忌部の痕跡に過ぎん。 @阿波
- 87 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:15:35.76 .net
- 吉備国の平型銅剣の分布
http://shosuzki.blog.jp/archives/80931430.html
吉備国の地方の王に成り下がったフトニの系譜は出雲領から奪った砂鉄の産地から、鉄器を作った
倭国大乱期の初端を開いた播磨に侵攻したヒボコ族は尾張氏などのイタテの一族に圧倒され分断される
そこで当時最新の鉄器の製造法を手に入れる
後漢が滅んだことにより流出した鍛造可能な鋳鉄の精錬法に、朝鮮半島の磁鉄鉱を使い、急速に武装化が進んだ
さらに、出雲に向かって停戦の条件として出雲の青銅器を要求した
西出雲王家の神床家のものだけ差し出し、東出雲王家のものは埋設して隠す方針に決定された
故に、出雲で大量に発見された銅剣に関しては過半に、富家の✖の刻印がある
逆に、差し出された無印の青銅器は吉備国に差し出されたから、平型銅剣は成分が無印の銅剣と同じになるはずだよ
- 88 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:20:47.70 .net
- >>87
何のなんの、吉備忌部の痕跡に過ぎん。 @阿波
- 89 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:25:41.78 .net
- 伊都チョンは、それまで発見された全ての銅剣を足しても足りないくらいの青銅器に刻まれた特徴のある刻印には全く無関心らしいなw
普通なら気にするだろww
銅剣分布からもわかる様に、瀬戸内海から山陰の妻木晩田遺跡の東方、孝霊山までは吉備の領域になり、ヤマトは基本海、瀬戸内海の朝貢ルートが寸断され、出先機関の伊都は、単独で朝貢の判断が出来る様になっていた
そして、景初の出来事に繋がっていく
景初の戦闘で吉備国と出雲は滅んだ。
奈良のヒコミチヌシも降伏し、戦乱は終結した
- 90 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:27:05.23 .net
- 考古学的に考えて、最古の大王がいた吉武高木遺跡が高天原だろう。
豊葦原中国は豊葦原那珂津国。
早良平野は標高が高いから貴族が住んでいたのだろう。
出雲は遠賀式土器や鐘撞式土器が東征していった宗像地域。
越は土井ヶ浜遺跡など山口県からの本州日本海沿岸。
弥生遺跡の分布から考えると現代よりは西寄りにコンパクトになる、。
- 91 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 18:27:08.03 .net
- 稲葉国造のヒコミチヌシは、国造本紀にも出ていて、ネタバレされている
- 92 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 20:37:46.69 .net
- >>87
根拠ゼロの妄想でしかない。
- 93 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 20:46:10.06 .net
- 考古学的に見て、
荒神谷遺跡の大量の銅剣に特徴づけられるスサノウと、
大阪湾型銅戈で特徴づけられるニギハヤヒらが出自した高天原は、
銅剣銅鉾の生産地であった博多湾周辺で間違いないだろう。
また事代主に国譲りを強要した高天原の部族という点でも、
銅剣銅鉾の西日本への広がりで裏付けられ、
高天原=銅剣銅鉾の生産地=博多湾周辺で間違いないだろう。
- 94 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:08:16.06 .net
- また、銅鐸の時代編年と分布密度の分析から、
銅鐸の分布変遷は大国主の國造の伝承と一致する事が分かる。
- 95 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:43:35.01 .net
- 出雲は荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋められていただけで、
勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無
- 96 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:55:04.22 .net
- スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡
- 97 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 21:58:24.40 .net
- >>90
逆にいうと、年代とともに博多湾沿岸を中心に東に(時には南にも)全て拡大して移動した。
南っていうのは、日向が高祖山から宮崎に移動したことね。
- 98 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:05:48.78 .net
- >>96
環濠が八重ではないから却下
- 99 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:08:49.75 .net
- >>95
出雲全体ではたくさんの住居跡があるだろ?
荒神谷には人知れずこっそりと武器を埋めたのだろうから、近くに家がなくて当然。
しかしこの地域に200人を超える規模の軍団があり、そらを支えることができる人工と生産力があったことは間違いない。
まあ、出雲国譲りの時に放棄した武器だろうね。
- 100 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:22:38.30 .net
- >>98
八重の環濠集落はどこにある?
- 101 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:24:28.68 .net
- >>99
悲しいほど無いね
調べたけど無いから、出雲にはそーゆーのが無かったという結論に至った。
あるというなら、ここに列挙してみなよ。
- 102 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 22:51:31.64 .net
- 八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を
環濠集落の環濠は、多くが3重程度。
8重あれば、国内屈指の守りの固い城柵ということになる。
- 103 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:10:25.05 .net
- >>101
島根県、弥生時代、遺跡で検索すると出てくるから、ないわけではないね。
伝承の通りなら、出雲の支配域はかなり広くて、神無月には各地から首長が詣て参集していたわけだから、それこそ支持基盤は島根県外まで含むだろう。
国譲りで出雲を倒して筑紫が再び天下を統一したというのなら、それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
滋賀県の伊勢遺跡もまるで出雲のような内容だから、確実に出雲の傘下だったのだろう。
そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。
その範囲の集落なんて、いくらでもある。
見つかっていないのは八重垣の環濠集落。
- 104 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:11:05.68 .net
- >>102
八重の環濠集落はどこにある?
あれば出せ
なければ八重は多いという表現
- 105 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:11:20.39 .net
- スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡
- 106 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:26:18.32 .net
- 昭和の編年や誰だか知らない人の説を出すけど現在においてそれ意味ないよね
鎌倉幕府は1192いい国じゃなくて1185いい箱だし
風邪ひいてもできれば風呂入ったほうがいいし
運動中は水をこまめに飲んだほうがいい
世の中の変化についてきてなくね九州
- 107 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:37:21 .net
- 九州は昭和にできた甕棺編年を信じて
250年ごろまで甕棺が作られたと本気で思ってるの?
だとしたらアホだなあ
甕棺編年が250年前後の卑弥呼に合わせて
ゆがめられて作られた編年である可能性は高いよね
これちゃんと説明になってるぞ
予備知識のない
これ意味わかってない人はこのスレにいてほしくないなあ
九州ももっと勉強すべきだと言いたいのよ
学術的にかみ合わないからいちいち説明しないといけない
その面倒な作業をなくしたいが九州は勉強不足すぎる
- 108 :日本@名無史さん:2022/04/13(水) 23:45:48 .net
- 2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
おれは奥村とか誰か知らないが
そんなの関係なく九州の書くことを否定できるのは
現代の客観的資料にしか興味がないからだろう
そして昭和に発表された説とかどうでもいい
知名度のある教授の編年を否定できないとか窮屈すぎる
現代の科学的資料を元に言いたいこと言おうぜ
- 109 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 04:58:12.73 .net
- 福岡はね、ナノ国だけあれば十分なんですよ♪
- 110 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 06:47:49 .net
- イトでもいいとも♪
- 111 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 07:09:19 .net
- >>103
>そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。
それは本国「阿波」から進出した、出雲忌部や北陸忌部だ。 @阿波
- 112 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 08:00:59.06 .net
- >>70
イトおかし
- 113 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 08:03:55.31 .net
- 委奴強し
- 114 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 08:25:56.48 .net
- >>107
甕棺と卑弥呼と何の関係がある?
言いがかりだね。
平原遺跡は木棺墓だし。
- 115 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 08:27:55.31 .net
- >>108
>2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
纒向なんて関係ないだろ。
平成の遺物は引っ込んでろ。
現実を直視できていないのはお前だ。
昭和の教授?
誰の何のことかさっぱりだ。
- 116 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 08:42:46 .net
- >>92
はい伊都チョン確定ww
- 117 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 09:49:24.49 .net
- >>112
おかしいのは顔だけではない
- 118 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 10:22:34.21 .net
- 甕棺墓の甕は水を意味しているので九州北部を支配していた海神族の証
(本質は雨の多い地域なので、単純に遺体保護の為)
海神族の都は山門周辺で、奥八女を禁足地とし女王が天道を行っていた
海神族の女王は豊玉姫(八女津姫)で、二代目は玉依姫(卑弥呼)である
飢饉の末、天道に従い豊玉姫を山麓に捧げた後、玉依姫が女王となった
倭人伝に記載されている邪馬台国の人々と、海神族との共通点は多い
当時の筑紫平野は沼地が多かった為、熊本平野より稲作量は少なかった
海に近い山門は漁業がメインだったと想定される
- 119 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 10:32:17.24 .net
- 妄想は顔だけにしてほしいものですな
- 120 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 12:14:07.04 .net
- >>98
八重垣の意味がまるで分からず、適当に物を言ってるだけ
八重垣というのは、出雲基本の法律。これを八重垣の法と言った。
伊都の地名の元になった可能性のあるヒボコの出石の子孫タジマノモリが出雲をわざわざ攻撃したのは、ヒボコが末子相続のために朝鮮半島から追い出された際に、最初に出雲に行って土地の世話をして貰おうと思ったが持ち前の高慢チキの性格が災いし、「八重垣の法を守る事を拒否」
それ故大国主は出雲の領域にヒボコが住む事を禁止し、遠くの土地の世話をする事もやめたそうである。
ヒボコ属はそれをずっと恨みに思っていて、わざわざ大和に行く前に物部朝倉の郡に合流してまで出雲攻撃作戦に加わったそう。
- 121 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 12:16:11.92 .net
- 大陸式の環濠集落は、吉野ヶ里でしょ。
大陸から二度目の渡来を果たした例の人は、和名ニギハヤヒを名乗った。
母系は出雲の分家、宗像家。
そして彦ホホデミを設けた。
- 122 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 12:37:19.40 .net
- >>108
巻向遺跡は昔はもっと関連していた豪族がわかる様な名前でした。
三輪大君説の、太田氏。
昔は太田遺跡といい、現在でも発見された大型遺構のあたりの地籍は太田になっています。
太田氏の本家筋は現在は墨坂神社の宮司家です。
- 123 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 12:56:12.97 .net
- 纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合では纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。
- 124 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:06:01.74 .net
- >>95
〉勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無
その認識は正しいそうです。
青銅器は宗教の祭器だったので、外敵から守られる様祈りを込めて、当時の国境や、戦線の防衛ライン付近に埋められたそうです。
- 125 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:11:34 .net
- 巻向遺跡は住居ではなく三輪山祭祀の遺跡で、農機具も刃先鉄器のない木製農具しか出てこないはずだよ。
これは、出雲系の三輪山祭祀で、神在月の様な祭りが春と秋に開かれたから。
だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
更には外国の勢力は奈良に入ってこない様に国の都を偽装して伊都を都に見せかけてそこで足止めして入ってこない様にしていたから、そもそもが巻向を持ち出して論じて結論を出す事自体が不適切。
話は変わるが
1%未満だけと九州式の土器が出た際にはテレビ放映もされるほど話題になったな。
- 126 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:18:56.97 .net
- >>103
〉それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
これに関しましては少し違っていて。青銅器時代、つまり大陸からの渡来者(一度大陸に帰もう一度来日するのは、徐と、スサノオのみ)は、先代旧事本紀でネタバレされている様に同一人物が男系になって始まっています。
故に、青銅器時代に奈良と九州に文化差はなく、大阪あたりからは丸木の船ではなくキチンと構造船が、出土しています。
どちらが格上かの、決着は、一応九州物部がホホデミの妹であるホヤ姫を出しているので下位には収まっています。
昔の習慣として、嫁を出す側が仕立てに出る側になります。
故に前政権が負けると血筋を残して手打ちにするために姫を出すわけです。
イクメには、磯城王朝最後の王、ヒコイマスの娘のヒバス姫が差し出されました。
- 127 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:28:50.24 .net
- >>125
>だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
関連する豪族が尾張氏しかいなかった。
- 128 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:30:46.41 .net
- >>125
つまり魏志倭人伝に出てくる、中国人が見た邪馬台国は伊都だということだよね。
- 129 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 13:44:58.08 .net
- 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 出雲の国譲りで大国主が失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫倭王であった応神による統一王朝へ
- 130 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 15:33:13.35 .net
- >>127
東海方面、阿部の領域からも土器が来てるでしょ。
イソタケル系の紀伊半島系の土器も出てる。
太田遺跡は、要は国内版の朝貢。手土産交換の貿易の場でもあったわけだ。
吉野ヶ里ではちがってたのかなあ?
九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか?
- 131 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 15:35:21.21 .net
- >>128
その通り。畿内ヤマトと大陸は最後まで勘違いしたままだった
九州の卑弥呼を奈良の卑弥呼と勘違いしてた
だから未婚の卑弥呼と子供のいた卑弥呼が同じ政権の卑弥呼としてそのまま記述された
- 132 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 15:37:39.74 .net
- 九州の卑弥呼と伊都は無関係
そんな物がなくとも朝貢した卑弥呼は九州の宇佐家の姫巫女
邪馬台国九州説に伊都や安曇は基本無関係。意味がない情報
- 133 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 16:17:03.41 .net
- >>130
阿部の領域ってどこさ。
尾張との境界はどこ?
- 134 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 16:18:21.76 .net
- >>130
>九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか?
博多ですよ。
吉野ヶ里は周囲の国邑を従えてはいたけれど、遠隔地との交流は奴国と伊都国の管轄ですね。
- 135 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 17:19:49.04 .net
- >>133
どの時代のことを言ってるの?
太田遺跡は景初のあとも続いてるけど?
180年代以降の東海地方は阿部系(大彦の息子のヌナガワワケ)
東海地方の三三島社は、九州に端を発する小市(越知)、奈良の事代主の系譜の登美家、そして阿部の一族が関連してる。
巻向の出土の土器で多いのは東海地方のものでは?
尾張氏、海部氏、加茂氏は一度、景初の戦いで奈良から逃れ、加茂氏は山代國に行った。だから鴨神社が移動した。
尾張氏は海部と途中で別れ、海部はイソタケルが奈良入りする前に地盤を作った丹後に。尾張氏は熱田方面に。そこで草薙の剣を祀った。
九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。
- 136 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 17:21:09.56 .net
- 二人も同じ人物はいらないよ。
魏志倭人伝にある卑弥呼も邪馬台国も九州だということだ。
- 137 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 17:55:34.25 .net
- >>136
倭人伝も普通に読んで理解できない程度では話ならん。
畿内説とか九州説を論じる以前の話だわ
- 138 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:02:02.36 .net
- 巻向の遺跡の祭祀の中心は太田氏が管轄していた時期がある。
太田太根彦(オオタタネコ)が、独身の姉の卑弥呼の世話をしていた。
それが記紀に書かれた。
大陸の皇帝は、後漢が滅んだ後の内戦がやっと落ち着き、朝鮮半島の目の上のたんこぶを処理した後、倭国大乱期にも関わらず、遠くのヤマトから朝貢したと思ったから健気に思ったんだよ
九州に居たことが分かってたら、あそこまでの表現にはならないし、大陸に提出した日本書紀の誤魔化し方が分かってしまうから、普通なら記紀の編纂者はそんなリスクは取らない。
記紀の編纂者は確実に大陸の史書に目を通して居た。その上で属国の歴史や朝貢の事実を全て消したとしても、何とか内容が通る形に我が国の歴史を纏めた。
- 139 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:10:20.66 .net
- 二度にわたる大規模なお家騒動、権力の相続に関連した物部氏によるヤマト侵攻だけど、九州の物部は本当に性格が悪く、力で強制する手法だったので、相当に嫌われたらしい。
離れた地で政治の根を下ろすのにはパートナーが必要。
物部は奈良では嫌われ、負けた側の住民は逃げ回るばかりで決して従わず、貢物も出さなかったらしい。
垂仁の次の成務は、結局奈良からかもしや太田氏などにより追い出され、宮は播磨に移動した。
結局、実質ナンバーツーの勢力の賀茂氏以下の貢物しか集まらず、再度平定のために戦闘をしなければならなかった。
関東方面にはタケルを、自らは九州方面に攻め込んだ。
東征の連合相手の宇佐を裏切った物部に帰る場所はなかったから九州では戦闘になり、宇佐氏は、奈良の土蜘蛛に比して、土雲にされた。
腹違いの兄弟であるトヨ彦、トヨ姫を椿大社で暗殺し、権力を独占した無法者は結局機内での権力基盤を掌中にすることはなかった。
二度にわたる東征移行、二度と物部は奈良に攻め込むことは無かった。
- 140 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:13:45.61 .net
- >>134
そういう意味ではなくて、他の地域から大規模な貢物があったり交流を示す様な、地域外の土器が沢山出るような遺跡のこと。
思い込みの話はどうでもいい
- 141 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:27:37.02 .net
- >>135
>九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。
福岡における弥生墳墓の副葬品から、制式化は明らかだよ。
後年になって畿内でもそれを継承して、草薙剣や八咫鏡を当てはめたんだ。
- 142 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:32:36.33 .net
- >>141
根拠なし。意味不明。
- 143 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:33:38.82 .net
- >>140
福岡で全国各地の産物が出ることは有名で、キナイコシは九州が全国各地の勢力に征服されたからだなどと畿内説の根拠にしていたくらいなんだが。
福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して、福岡平野全体が一つの遺跡みたいなもの。
魏志倭人伝でも奴国は2万戸となっているからね。
明らかに人口も一番集中していた。
それを支えるだけの農地や漁獲と、周辺地域からの移入産物があったということになる。
弥生時代におけるこのような大都市圏の形成は、福岡だけの特徴になる。
簡単に言うと、どこを掘っても遺跡に当たる。
- 144 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:34:33.02 .net
- >>142
根拠は考古学的な出土品だよ。
動かぬ証拠だ。
- 145 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:40:50.19 .net
- >>143
>福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波
- 146 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:45:25.30 .net
- >>144
頭がおかしい。さすが九州男児ww
3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
村雲の剣は、大王就任の際に出雲側から尾張家に贈られたもの。
一応王権のシンボルとして村雲の実家の尾張家が所有する事になった
しかし、シキツヒコの代からは三代も出雲系から嫁入りした弊害が出てしまい、尾張氏は銅剣を磯城王朝に渡さなくなった。
それ以降、ずーっと皇室に草薙の剣は渡っていなく、うつしがあるのみである。
尾張氏の持ってるものは青銅器の剣
- 147 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:46:44.69 .net
- 熱田神宮の本当の御神体は村雲の剣であり、草薙の剣ではない
- 148 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 18:53:18.13 .net
- >>146
>3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
古墳時代の話じゃないだろ。
紀元前からの弥生時代の話をしているんだ。
副葬品を見ると、剣は青銅でも鉄でも構わないみたいだけどね。
たなまに平原遺跡は鉄剣だが、後年ってどういう意味?
- 149 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:01:26.70 .net
- ナノ国強し!
- 150 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:11:29.66 .net
- >>107信じられないと思うかもしれないけど
福岡は昭和の初めのころまで甕で土葬の地域もあったんだよ
- 151 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:18:10.01 .net
- >>148
弥生式墳丘墓と古墳の間の区別は現在では意味がない。
便宜上、古墳と表現しただけ。
紀元前600からあったのは出雲のみで、最大版図になったのは記紀もしくは出雲風土記にある様に出雲6代のオミツヌ。
その時には、先代旧事本紀でネタバレしている物部と尾張氏の共通の先祖である同一人物饒速日ホアカリは渡来してきていない。
彼らは我が国に青銅器を持ち込んだから確実に後年の話。
そもそも弥生時代は今いつからの開始になってるよ?
佐賀には紀元前10世紀の水稲遺跡があるよな?
昭和の感覚と今の弥生の感覚は開始年代が違うぞ?
- 152 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:19:23.79 .net
- >>148
詳しい話よりも、世間一般の三種の神器のビジュアルって青銅器の剣になってやしないか?
まずはそこからだ
- 153 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:20:48.89 .net
- まーた出雲土人か
- 154 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:22:27.53 .net
- >>143
ばっかだねー、だったら巻向の土器でも出るのか?w
巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
またお得意の思い込みか?ww
そこはかとなく漂う伊都チョン臭ww
隠しても普段の言動や考え方、言葉の軽さや考えの浅さだけは隠しようがないなw
- 155 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:22:52.04 .net
- >>151
>出雲風土記にある様に
その出雲風土記に、「大国主」や「国譲り」の記述が一切ないというシャレにならないお話。 わははははは @阿波
- 156 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:45:55.65 .net
- 大国男児?
数年前の、とあるスレッドを読んでいたとき、
そういう話をしている人がいた。
おかしな話ばかり、例『大国男児』?
- 157 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:52:48.88 .net
- 家の近所の話。
数日前、ジャパニーズ何やらが〜という話(芸能関係)をしながら、
歩いている数人組もいたしな。
日本人ではないのかな。
- 158 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 19:54:23.81 .net
- 日本人(不明)なら、ジャパニーズ何やらとか、あまり使用しない。
でも使用する人は使用する。
- 159 :日本@名無史さん:2022/04/14(木) 20:02:26.92 .net
- 見た感じはw日本人()と同じような(少し違うのかな)・・・だから、
ほとんど、わからないしな。
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