■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国=福岡説 PART6
- 612 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:50:03.95 .net
- 三国志東夷伝倭人の条通称「魏志倭人伝」の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
入れ墨の習慣がない「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイハレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イハレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
- 613 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 04:31:11.08 .net
- >>611
土器は、東海・伊勢からのが多い
戦乱跡と思われる痕跡もない。
- 614 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 04:39:42.65 .net
- >>612
4世紀、6世紀の埴輪には入れ墨がある。
飛鳥京あたりで入れ墨の
ない文化が入り浸透かもしれない
- 615 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 15:41:48.97 .net
- 古墳時代に抹殺されたか?
- 616 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 13:33:14.61 .net
- >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
- 617 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:19:23.34 .net
- >>616
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
- 618 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:19:41.78 .net
- 3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
- 619 :日本@名無史さん:2022/09/13(火) 00:41:26.31 .net
- >>617
1000年近く後の事ではないのか。
見方、考え方も違ってるかも
- 620 :日本@名無史さん:2022/09/13(火) 16:13:07.45 .net
- 文字が無かったなんて
どうしても思えないんだけど…
- 621 :日本@名無史さん:2022/09/13(火) 16:44:22.04 .net
- >>613
180年代から始めるからだよ
その前が大乱期でしょ?
180年は大乱期終結期
つまり巻向一式そのものが戦乱の後に入ってきた連中の土器という考え方ですよ
丹後風土記だか、播磨風土記は、倭国大乱期の初端をヒボコの播磨侵攻にしてたはずだよ
- 622 :日本@名無史さん:2022/09/13(火) 17:08:33.58 .net
- スクランブルはよ 09/13 17時08壺
- 623 :日本@名無史さん:2022/09/13(火) 21:54:40.98 .net
- >>620
あっただろう。先住民文化だから破棄
- 624 :日本@名無史さん:2022/09/14(水) 02:11:41.51 .net
- >>618
肝心な邪馬台国までの里数がないんだよ。
- 625 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
- イヒ限契
急定約
げ放者
!送 09/14 14時05壺
- 626 :日本@名無史さん:2022/09/14(水) 23:15:44.03 .net
- >>619
沈約の宋書は5世紀だが?
そこから光緒四年(1878)の嘉興府志まで千年以上意味が変わっていないものを
魏志の頃だけ違ったと言い張るのはさすがに苦し過ぎるぞ
- 627 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 11:12:56.82 .net
- 佐賀市大和町・七ヶ瀬遺跡 「三種の神器」セットで出土 県内初、弥生後期に有力首長か
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/704143
これが奈良だったら大騒ぎだろうに佐賀だから誰も話題にしない
- 628 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 14:58:32.25 .net
- 福岡や糸島では昔から出るからな。
ご近所さんみたいなもんだから
文化的に近いんだろうな。
- 629 :日本@名無史さん:2022/10/03(月) 04:38:51.73 .net
- 三種神器は、佐賀は出てなかったのか
- 630 :日本@名無史さん:2022/10/14(金) 15:47:26.23 .net
- 九州を左回りでほぼ1周したのでは?
- 631 :日本@名無史さん:2022/10/16(日) 12:39:30.08 .net
- 吉野ヶ里が福岡と同じ甕棺だから、佐賀は同じ文化圏ということで。
邪馬台国の周旋五千里は、福岡佐賀長崎、大分の一部くらいかと。
- 632 :日本@名無史さん:2022/10/16(日) 13:04:42.85 .net
- 福岡佐賀は同じ文化圏ぽいが
八女あたりから南は熊本が混じってくる。
筑後だと、久留米文化圏、大牟田文化圏
佐賀文化圏。
佐賀と久留米の間で戦っていたのが
吉野ヶ里から鳥栖にかけて。
- 633 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 12:33:31.97 .net
- 水行10日は俺のただの意見だけどはるばる中国から使節が来るんだから通り道の全ての小国のオモテナシがあってほとんど進んでないと思う。
東京から大坂まで新幹線で行くと仮定するとこだまの各駅で降りて駅長にオモテナシを受けてを繰り返すみたいな感じ。
ちょびちょびオモテナシを受けて距離的には進んでないから日数で表記して水行10日とだけ記載して距離を書いてないのでは?と直感で感じた。
少なくとも私が邪馬台国連合の小国の長なら盛大なオモテナシをしてアピールする。
- 634 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 18:47:58.08 .net
- >>633
水行10日 【又は】 陸行1月 だ。
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波
- 635 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 06:20:22.00 .net
- >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
- 636 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:04:33.08 .net
- >>635
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
- 637 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:05:11.01 .net
- >>635
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
- 638 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 19:34:22.24 .net
- 不弥国から南の方角に向かって水行したので最終到着地点は有明海沿岸ですね
https://i.imgur.com/aeC7cCw.jpg
- 639 :日本@名無史さん:2023/01/17(火) 17:32:25.70 .net
- >>635
大月氏国より【遠い事にされた】だけだよ。
これで倭人伝の「おかしな里」も説明できるだろ?
帯方郡から万二千里とは洛陽から万七千里。
帯方郡から万六千里の大月氏国より遠くなりましたーと。司馬氏ご満悦。これが真相。
- 640 :日本@名無史さん:2023/02/03(金) 09:11:03.47 .net
- >>638
確かに邪馬台国探究において有明海沿岸部が軽視されてるのはおかしいな
壱岐から平戸方面に回り、大村湾から有明海に入る
昔は大村湾と有明海は繋がってだからね
- 641 :日本@名無史さん:2023/02/04(土) 14:29:28.02 .net
- 卑弥呼は伊都にいた説だが、本貫地は有明海沿岸だと思っている。
邪馬台国は博多湾沿岸と有明海沿岸を両方含む福岡佐賀長崎だな。
- 642 :日本@名無史さん:2023/02/04(土) 15:32:45.80 .net
- >>641
>本貫地は有明海沿岸だと思っている。
なんとなく、もやっとそう思うわけだな。 妄想が趣味のようだ。 わははははは @阿波
- 643 :日本@名無史さん:2023/02/05(日) 03:35:56.53 .net
- >>640
> 確かに邪馬台国探究において有明海沿岸部が軽視されてるのはおかしいな
> 壱岐から平戸方面に回り、大村湾から有明海に入る
> 昔は大村湾と有明海は繋がってだからね
諫早に船越と言う地名がありますが、ここで繋がっていたのでしょうね
https://i.imgur.com/x809xx9.jpg
- 644 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 21:25:03.71 .net
- >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
- 645 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 06:49:42.30 .net
- 不弥国まで細かく里程を刻んでおいて、いきなり水行二十日とかになるわけない。
その情報では辿り着けないしな。
ということは読み方が根本的に間違えている。
まして畿内は中国と交渉していた痕跡そのものが希薄。
- 646 :日本@名無史さん:2023/02/20(月) 01:49:36.26 .net
- >>644
>>636-637
- 647 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 22:10:36.89 ID:zyCCaToq5
- 7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里
伊都国までで12000里だから帯方郡からの里数による距離の説明は終了
日数の行程は同じ行程を時間で説明したもの
つまり伊都国が邪馬台国の王都。
- 648 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 17:31:01.35 .net
- 不弥国から有明海に水行したんだよ
- 649 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 19:29:04.45 ID:N1bzW8X4u
- (帯方郡)
帯方郡南端
↓
↓七千百里(560km)
↓
(狗邪韓国)
↓
↓千百里
↓
(一大国)方三百里(48km)
↓
↓千百里
↓
(対馬国)方四百里(64km)
↓
↓千百里
↓
唐津市呼子付近
↓
↓(末盧国)五百里(40km)
↓
福岡県糸島市伊都G.C付近
↓
↓(伊都国)百里(8km)
↓
糸島峠付近
↓
↓(奴国)百里(8km)
↓
福岡県福岡市早良区入部付近
↓
(不弥国)
総レス数 649
205 KB
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver.24052200