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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

2 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:54.58 .net
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。

うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

3 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:14:17.56 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

4 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:16:05.72 .net
以上テンプレです。

ゴールデンウイークにて特別復活しました。
類似スレは現在ありません。

文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。


邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/l50
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50

5 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:23:29.82 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

6 :贅六征伐:2022/04/30(土) 08:25:09.16 .net
>>1
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贅六シナチョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
贅六死ねバーカ

7 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:34:26.50 .net
後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
 朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で〜
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。

「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
 長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で〜
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。

「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
 陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で〜
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。

自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。

南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。

里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されているから、
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。

邪馬壹國は七萬戸で〜
(邪馬壹國の首都である)伊都國は女王卑弥呼が都とした所である。

8 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:36:13.38 .net
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰 
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接 
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國

馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す

後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。

<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。

馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。

朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。


<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」

9 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:45:36.84 .net
金印ってのは外交文書の木簡巻物に封泥する時に使うもの。
北部九州からは硯も出土してるんだから、
倭人は文字を使っていた。
倭人が文字を使っていなかったなら、その旨を倭人伝に記録されていただろう。
里数を知らないとかは書いてあるからね。

魏皇帝の詔書にも卑彌呼と書いてあるから、卑彌呼は正式名称。
卑彌呼自身がそう名乗ったことは確実。

また祖神である伊邪那岐伊邪那美にも邪の字が使われているのだから、
これも蔑称や卑下して充てているのではなく、「ザ」という字に当てて使っていただけのこと。

あと、魏皇帝の詔書には倭王しか出てこないから、
卑彌呼の国の正式名称は倭國であり、
邪馬壹國というのは別の概念あるいは倭国の訓読みへの当て字ということもわかる。

10 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:46:57.04 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

11 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 09:30:44.94 .net
奈良時代までの女性天皇は6人8代だが、うち4人が結婚してるし子も産んでいる。
あるいは神功皇后。
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫。
八咫鏡を保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。

つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。

「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。

卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/709-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。

これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。

12 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 11:17:13.11 .net
13歳で女王=初潮が来たら大人

13 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 13:48:38.37 .net
日ユ同祖論は一見荒唐無稽に見えますが、完全にありえない話かというと、そうでもないですね。

一つは、オルドス式銅剣。触角式柄頭飾・双環柄頭の特殊な銅剣ですね。
現在のウクライナにいたスキタイが用いていたものですから、
まさに現在と同じように、戦乱などで追われた一群が東アジアへ落ちのびてきた可能性がありますね。
高島市上御殿遺跡からは鋳型も出土していますから、ただ交易で入手されたのではなく、実際に日本列島へ移住してきた人達もいたことになります。
ただしこの鋳型はやや稚拙なので、移住二世か三世のものでしょう。

弥生時代の文明度からは、末蘆國王=柏崎遺跡(伊都説だと笠沙の岬)の元で、
お抱え渡来系工人として召し抱えられていたものと思われます。
同じ高島市の熊野本遺跡で私立の鉄工房を与えられて運営していたのでしょう。

もう一つは、奴国王の居館があった可能性が高い雀居遺跡。
沿海州に特徴的な家畜飼育跡が見つかっており、これも渡来系だった可能性が高いですね。
四隅突出墳丘墓その他、石積み部族であり、夫餘高句麗なども同祖でしょう。
沿海州在地の集団だったのか、
それともオルドス式銅剣と同じように、はるか西方から沿海州にやってきた集団の一部が、日本にやってきたのか、
はわかりませんが、
後者であれば、ユ系である可能性を探るならこの集団が最も可能性が高いかと思われます。

大元の吉武高木大王も、国家形成の最初期から、
遠方の丹後半島に扇谷遺跡など鉄工房を建設して、遠方の木材を消費し、
北部九州倭国の森林を保全するという、
鉄工房を長期にわたって運営した経験のある国家建設を行っていますから、
鉄器を使用した集団が渡来して、大王となったか、
あるいはそのような渡来人が重用されていたか。
ということになりますね。

14 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 13:55:49.17 .net
>>11
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。

対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。

HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。

ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。

15 :九州王:2022/04/30(土) 15:14:55.80 .net
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(日)」この意味は「南へ邪馬壹國に至る。女王の都する所(まで)は水行十日陸行一月(日)である。」
「女王所都」ではなく「女王之所都」と之が入っているので文章ではなく名詞句となっている「女王の都する所は」だな。
邪馬壹國の中の女王の首都までが行十日陸行一月(日)

16 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 16:16:52.51 .net
>>7
>>15
なるほど。後漢書のは之が入ってないから、直前の長安や朝歌にかかり、
倭人伝のは之が入ってるから、邪馬壹國にはかからず、邪馬壹國の中の女王が都とする所、となるわけですな。

17 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:18:15.25 .net
対馬海峡〜末蘆國〜伊都國(糸島平野+早良平野)は、
紀元前から倭人勢力が開発していたので、住みよい場所は既に倭人が暮らしていた。

ですから、渡来人は、まだ未開発の低湿地だった奴国(伊都説だと葦原那珂津国)や、
あるいは伊都國でも河川下流の海沿いの地域に集落を作ったわけですね。

渡来系のうち、
奴族は、前一世紀頃に渡来してきて、
青銅器作成技術によって商売繁盛して勢力拡大したわけですね。
大型の祭祀型銅剣や、銅鐸などは、彼らが受注製作したのでしょう。

財を蓄えた奴族が輩出したのが奴国王。0年頃生まれですね。
倭人ではありませんが、日本人ではある、ということになります。
中広型銅矛を製作して領地拡大し、金印を受領するに至ります。
ただ銅鏡に関しては、小形仿製鏡が彼らの作成したものと思われますので、
技術的には今一つですね。
鏡面加工や、裏面装飾などはさらに高度な技術が必要だったのでしょうか。

平原遺跡の方格規矩鏡は、
董卓によって壊滅した後に数十年ぶりに復興した洛陽にて、
一度技術継承が断たれた後に復興した、未熟な魏洛陽鏡師が作った舶載鏡であり、銅鏡百枚の一部ですね。

よって、小形仿製鏡の次世代の仿製鏡が、超大型内行花文鏡となって、
これを作成したのが、オルドス式銅剣の渡来工人だった、ということになりますね。

18 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:54:34.00 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数

<弥生時代早期>
福岡1
高知5

<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5

<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1

<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

19 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:54:47.85 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合

<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
 福岡904出土中36 3.98% 
 佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
 大阪 87出土中12 13.79%
 奈良 4出土中2 50.00%
 兵庫 4出土中1 25.00%

<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
 福岡 166出土中5 3.01%
 佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0

弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。

北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。

20 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:07:08.99 .net
中広型銅矛の奴国王が失脚した後の倭国を席巻したのが、
カモ系銅戈勢力ですね。
銅戈は奴国領域を占領、ならびに伊都国でも製作され、領土拡大へと出兵していきます。

長野県に逃げ込んだ、奴国王水軍大将「軍神」の攻略と、大阪湾上陸など畿内毛人の攻略、とについてです。

長野県の柳沢遺跡から銅戈と銅鐸の一括埋納遺構が出土しています。
・柳沢遺跡の銅戈は樋分離式(近畿式)で、初期のもの
・柳沢遺跡より奥の関東には祭祀型銅戈型の石戈が出土
・東日本にS字甕や多孔銅鏃が一定期間分布
・近畿式銅鐸と東海式銅鐸が一定期間愛知で睨み合い

つまり、
軍神が金印を持っていると考え、銅戈軍は征伐軍を派遣したものの、
軍神はより奥地へと銅戈軍を引きずり込んで、
関東奥地で壊滅させたわけですね。

銅戈が柳沢遺跡止まりで、関東まで分布していないので、
銅戈軍が継続的に派遣されて、柳沢遺跡からさらに周囲へと占領拡大したのではなく、
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍が、さらに奥地へと深入りさせられて、全滅したことになります。

軍神はおそらく、主要根拠地の諏訪ではなく、柳沢遺跡の方に陣を張っておびき寄せ、
わざと敗走して占領させた。
合戦で射るのもわざと、鉄鏃銅鏃2:石鏃8、くらいの割合にして、
物資不足を強調してみせる。

銅戈軍は金印奪取が主目的なので、弱小軍神軍を関東へと追撃します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/413
所々で分岐して、銅戈軍を分裂させてからの、
関東奥深くで反転攻勢して補給路や逃走路を絶ってからの、各個撃破、したのでしょうね。
全滅でしょう。

21 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:21:20.24 .net
諏訪派遣軍が全滅したことで、
銅戈軍は諏訪攻略をあきらめて、
畿内攻略、大阪湾上陸作戦にシフトしたわけですね。

次々に大阪湾上陸し、大阪湾に高地性集落を建設していきます。
銅戈軍が畿内制圧した結果が、107年の生口160人。

そのまま進軍して、名古屋の朝日遺跡まで進軍したところで、
軍神領域の西境界線に接触して、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、にらみ合いが始まったわけですね。

軍神と、倭国銅戈勢力の実力者にのし上がった田村遺跡系大物主とは、腹違いの兄弟ですから、ほぼ同世代。

軍神が亡くなり、軍神領域が劣勢になった。
その少し後に、田村遺跡系大物主も倭国王と対立する羽目になり、失脚した。

平型銅矛の時代になったわけですが、平型銅矛は北方重視ですから、
まあ軍神領域はそれなりに生き永らえて、倭国乱時代へと突入していったわけですね。

22 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:22:05.57 .net
倭奴国が伊都国であるって説は、日本語の漢字読みからの連想に過ぎず、古代中国語発音を全く無視していて成り立たない奇説。

古代中国語発音(Middle Chinese他)

倭:ワまたはヲ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD

奴:ナまたはヌ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4

伊:イ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A

都:トゥォまたはトゥ、ト

https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD

つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。

奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。

23 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:44:57.39 .net
>>22
その通りですね。

奴 ナ
倭 ワ(漢読み) やまと(倭読み)
伊都 いつ(倭読み)

後漢書
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

金印を授与した以上、後漢にとっては特別な外交関係を結んだ国家、ということですから、
倭國王が金印授与者の後継者であれば、「願請見」というのは不要で、
金印封泥の文書を持って来訪してきたなら無条件に謁見可能のはずです。

倭の奴國が朝貢してきた
漢委奴國王 漢は奴国王に(倭地を)委ねる

親魏倭王 魏と親しい倭国の王

考古学的に、伊都(いつ)は吉武高木大王→三雲井原大王→平原女王卑弥呼、
と倭国王権は連続している。

それに対抗したのが、渡来系の奴国王であり、倭国王=伊都国王系になれないからこそ、
漢の権威を頼って、金印を取得したわけですね。

伊都説だと、奴国=葦原那珂津国、奴国王=大国主に比定されうるのですから、
国際的な歴史書である記紀において、金印奴国王の権利は、
正式に奴国王から倭国系の王へと「完全譲渡済み」、ということになります。

24 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 04:29:27.82 .net
高知でも硯が見つかったね。(古津賀遺跡、伏原遺跡、祈年遺跡)
北部九州のと同系統らしい。

25 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 07:07:23.94 .net
>>24
高地各地に面状に硯が普及していたのは驚きですね。
鐘崎式土器が出土した田村遺跡群にもありそうですね。
HTLV-1も移動していることから、北部九州から縄文系女性を伴って移住している。
つまり軍=男性のみが侵略したのではなく、カモ系の一群が女性と共に移住・開拓したわけですね。

同系統の場所で考えるなら、和歌山や滋賀なども硯が見つかる候補。
淡路島も候補。
銅鐸やアジスキタカヒコネ繋がりだと、岐阜も候補にあがってきますね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/720-723

北部九州説からは、日本海沿岸に倭種。
瀬戸内沿岸に侏儒國。
高地は裸國で、ここに硯が沢山見つかった。

豊國領域からも硯が見つかり始めていますから、豊國でも文字を使っていた。
その開拓最前線が、各地の銅鐸+環濠集落。

硯が出土した筑前町の旧三輪町が、北部九州説における大倭本部であり、
中広型銅矛奴国王失脚後の、
銅戈時代に大倭〜裸国田村遺跡を本拠とし、ニニギ〜ウミサチに仕えたのが、
アジスキタカヒコネだったという考察になってきます。

26 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 07:27:36.70 .net
土佐の硯達が、紀元前から分布していたのなら、豊國勢力の開拓に伴う自然拡散でいいのですが、
紀元後に広まっているとしたら、
中広型銅矛奴国王によるものの可能性が出てきますね。

雀居遺跡の墓地からは縄文系女性の遺骨が複数出土しており、
奴国王は各地の指導的女性を集めて後宮を作っていた可能性があります。
案があって、長文の木簡外交文書を作成していたわけですので、
雀居遺跡で産まれた子は文字教育を受けてから、母の里へと巣立ち、
母系の故郷で指導的立場について文字を普及させた。

卑奴母離の語源は、雀居遺跡に居る母と離れて、母系故郷へ派遣された支配官、
とも読めます。
また、卑狗、卑奴母離、卑彌呼、卑彌弓呼、などの頭についていることから、
卑は我々の感じる卑語ではなく、
倭人自身が支配者の意味を含めて使っていた文字のようですね。

27 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 09:10:22 .net
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。   @阿波

28 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 10:00:50 .net
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?

http://yamadajiro15.wp.xdomain.jp/index.html

29 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 11:14:50 .net
魏の発音が現在の北京語って言ってる時点で素人丸出し。

現代で言えば、客家語や広東語の方がよほど中古音の特徴を色濃く残してる。北京地域の発音は、次から次へと遊牧民に蹂躙されて、宋の時代には漢人国家は南宋だけ、北は遊牧民国家、元の時代もモンゴル人と言う有様で、過去と全く異なる発音に変わってる。
https://youtu.be/OX047xj6HtQ

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