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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

413 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 17:51:32.15 ID:N9J93a0NY
>>410
ゴホウラ貝腕輪や銅腕輪をどのような背景でとらえるかですね。

弥生後期の二塚遺跡(前原市)では、ガラス腕輪が出ています。
一方、同じ後期〜晩期の平原遺跡では、ガラス玉やガラス小玉は出ていますが、腕輪は出ていません。
これを宗教的祭祀者(元首)のいる集落と行政的リーダーのいる集落とに分け、この2頭立ての体制の連携集落がこの時期の北部九州にあったとします。
この体制は、3世紀にも続いていて、倭国の元首となった卑弥呼のいる邪馬台国では、卑弥呼のいた所と卑弥呼の弟とされる行政的リーダーの人物がいた所は別々であったように倭人伝などでは描かれています。

このパターンで見ますと、ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡は、クニにおける宗教的祭祀者のいた所と行政的リーダーのいた所という2頭立て体制の関係にあり、
また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。

そうしますと、クニのような広域連携体制を形成することができなかったものの、怡土地域では重要な集落であった後期の二塚遺跡のガラス腕輪は、この集落には元首的な祭祀者がいたことを示していて、
ガラス腕輪を持たない行政的リーダーのいる平原遺跡とペアを組んでいたと考えることが可能になります。
そして、中期中頃の三雲南小路遺跡ではガラス玉類はたくさん出土しますが、ガラス腕輪が出ていないことから、この集落は行政的リーダーのいる所だったとみなすことができます。
そうなりますと、この三雲南小路遺跡の集落とペアを組んでいた宗教的祭祀者のいる集落が別にあったことが想定されます。
この集落はまだ見つかっていないとみなすことも可能でしょう。

いずれにしましても、怡土地域でもガラス腕輪を宗教的権威の印として身につけた人物がいたと見ることができそうです。
それがなぜゴホウラ貝腕輪でなくガラス腕輪だったのかについては、答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。

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