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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

454 :日本@名無史さん:2022/12/21(水) 13:40:44.32 ID:uGP53BU6Y
博多の比恵遺跡で出た石板は3世紀の硯だとされてきましたが、江戸時代の硯だとする調査結果が出てきましたね。
この分では、伊都国の硯も再検討の必要があるかも知れません。
まったくのドンデン返しとなるのかどうか、今後が注目されます。

455 :日本@名無史さん:2022/12/22(木) 23:19:21.65 ID:GYoQOlFIF
>>454
訂正1
比恵遺跡は間違い。
正しくは西新町遺跡。

訂正2
江戸時代の硯は間違い。
正しくは砥石。

456 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 14:32:26.84 ID:NckeOKwEs
伊都国がどのような立ち位置にあった国なのかは、倭人伝よりも魏略を見るほうが分かりやすい。
魏略では、「帯方より倭に至るには…対馬国に至る…一支国に至る…末盧国に至る…伊都国に至る」と道順を示したあと、
「その国王は皆女王に属すなり」と書いてある。
帯方郡などからの使節が留まる所とする字句はどこにも見えないし、
対馬から伊都までの四ヶ国の王は皆倭国の女王に所属しているとしている。

一方、倭人伝では対馬などの四ヶ国の道順は同じだが、
伊都国については「…伊都国に到る」として魏略の「至」字ではなく「到」字を用いて書いている。
そしてそのあとに「世々王有りて皆女王国に統属す」と続けている。
伊都国の王たちは皆女王国に統属してきたとするものだ。
さらにこの伊都国は「郡使往来するに常に留まる所なり」と書いて締めくくっている。

上の魏略が対馬から伊都までの国の王たちが皆倭国の女王に所属しているとしているが、
倭人では女王に所属しているのは伊都国の歴代の王たちだとし、その伊都国に帯方などの使節は逗留しているとしており、
この部分が魏略と大きく異なっていて、倭人伝は魏略の記述を書き換えていることが分かる。

魏略のほうが先行する史書であることからすると、倭人伝の伊都国に関する書き換えは明らかに意図的なものであることが考えられる。
なので、この倭人伝の記述に立って伊都国を理解すると、倭人伝の著者の意図に乗せられてしまう危険性がでてくるというわけ。
十分に注意する必要があるだろう。

457 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 15:24:37.68 ID:0CuNLspFi
まあ、魏略も倭人伝もイト国を伊都国と華美な字でもって記述しているところを見ると、
どうも帯方郡に非常に協力した国であったことが推測される。
倭国が魏の冊封国となることについて、伊都国の働きが大きかったことへの褒美だった可能性も考えられる。
帯方郡に忠実な国だったということになってくるな。

458 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:49:24.12 ID:8Fd89PlMA
>>450
こちらこそありがとうでした。
青銅器だけでなく、
貝釧の繋がりでクニを論じることができる、ということを
逆にそれだけ力強く主張してもらえたことで、
考察が進みました。

>>384
>>417
甕棺墓については、
男系も、少なくとも伊都国王系と奴国王系、のどちらも入っている、
女系も、少なくともカモ系とワニ系、のどちらも入っている、
ことから、部族を示すものでは無く、官職を示すものである、可能性が高いですね。

>>418
四隅突出については、
男系は、中国山地に逃げ込んだ、奴国王の兄達一族に比定されうるわけですが、
女系はカモ系とワニ系が交互に入っているので、女系はどちらでもいいと考えられます。

459 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:50:37.14 ID:8Fd89PlMA
>>434
>満潮の時には舟が通れるけれども、
>干潮の時には浅瀬あるいは陸になって舟が通れない。

海神ワニ王が新伊都二代目に渡した、潮満珠と潮乾珠が連想されますね。

仮説ですが、
交通信号だったのかもしれません。

潮の干満は6時間おきに繰り返しますね。

伊都と斯馬國の間の水道(仮に糸島水道と呼びます)を通るのに、
干潮時刻に通ろうとすると、座礁してしまい、水道が通れなくなってしまうわけですね。
先日もスエズ運河で座礁事故が起きて、しばらく通行不可になってしまい、
巨額の賠償金をどこが払うかで揉めていましたね。

糸島水道の浅い部分の両手前に、ワニ族の信号係の櫓があって、
通行可能時間には潮満珠が掲げてあり、
舟は通行料を払って糸島水道を通過できる。

干潮時間には潮乾珠が掲げてあり、潮が満ちてくるまで皆待っていた。

のかもしれませんね。

460 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:21.98 ID:8Fd89PlMA
そう考えると、
新伊都一代目はカモ系で、宰相Aタカヒコは新伊都二代目の兄を推していた。

新伊都二代目は一旦失脚して、古代豊国のワニ王に匿われた。

>>448
Aタカヒコ政策の問題点が次第に大きくなり、
ワニ勢力の復権を求める流れができて、古代出雲にて新伊都二代目が挙兵した。

新伊都から出陣した兄水軍は、糸島水道を通って古代出雲へ向かおうとした。

新伊都二代目+ワニは、潮乾珠を通常より長めに掲げて兄水軍を待たせた後に、
小戸にて干潮時間を迎えるタイミングで潮満珠を掲げて、兄水軍が糸島水道を進み始めた。

途中で潮が引いてきて、兄水軍の先頭集団が座礁してゆき、
兄水軍が糸島水道内で進退窮まったところで、
新伊都二代目+ワニの伏兵が、両脇の山側高所から攻め込んだ。

兄水軍は動けない舟から降りて応戦したが、
低地にて不利、かつ足場が悪く、苦戦しているうちに、
今度は潮が満ちてきて、動きも取れなくなり、溺れる者も多数で敗北した。

勝利した新伊都二代目が高祖宮に収まった。

461 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:48.89 ID:8Fd89PlMA
魏略逸文を出典別に並べると以下のようになります。

<漢書> 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』

<翰苑> 卷三十
『従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也

『女王之南又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』

<北戸録> 卷二 鶏卵卜
『倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視占吉凶也』

<三國志> 東夷伝倭人条 裴松之注
『其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀』

<法苑珠林> 魏略輯本 所引
『倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余』

462 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:54:22.61 ID:8Fd89PlMA
>>456
翰苑の原典を見ていただくとわかりますが、
魏略逸文においても「伊都に到着」しており、しかも伊都が最終目的地となっています。

魚豢が記した魏略は、陳寿の三国志より若干前に完成したと言われていますから、
梯儁の報告書は参照できたけれども、
張政さんの旅行日誌が手に入らなかったわけですね。

倭 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」であり、
邪馬台国は、「やまと」に対して張政さんが宛てた当て字であり、

里程は里数のみ。
伊都で女王卑彌呼に会えたし、
几帳面な陳寿は念のため卑彌呼前任地(邪馬一国)である奴國+不彌國までの里程も記した。

日程は日程のみ。
北部九州倭国=張政さん卑彌呼女王様時代の邪馬台国の、都=三雲遺跡まで、帯方郡から水行30日+陸行1日。

『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』
倭は九州島に倭国を成しており、千里渡海すると倭種の國がある。
つまり、倭人の倭国(=卑彌呼邪馬台国)とは、九州島に限定されるわけですね。

463 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:16.33 ID:8Fd89PlMA
>>245
対馬は北の上島と南の下島(古代は逆)から成る細長い島で、
古代延喜式の時にも上県と下県がありましたから、

それに対応して、
1-3世紀には、北に対馬國、南に対海國、がそれぞれあったものと思われますね。

里程は57年金印後漢使の来倭出張時のものなので、
狗邪韓國→千余里→対海國方可四百余里→千余里→一大國(一支國)方可三百里
は判っているけれども、
対馬國の正確な大きさや渡海距離は実測記録が無かったので、記載できなかったわけですね。

金印後漢使や、張政は対海國に停泊したけれども、
梯儁は対馬國に停泊した、ということですね。

ただ、狗邪韓國→ →一大國が、1000+400×2+1000=2800里なのはほぼ同じですから、
総計12000余里は変わらず記載できたことになります。

464 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:48.60 ID:8Fd89PlMA
<翰苑> 7世紀唐 著:張楚金

『倭國
 憑山負海 鎮馬臺 以達都』 (臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居 凡百余國
 自武帝滅朝鮮 使驛通漢於者州余國 稱王 其大倭王治邦臺 (臺の上部は吉でなく去)
 楽浪郡徼去其國万二千里
 其地大較在會稽東 与珠雀?耳相近』
『魏志曰 倭人在帯方東南
 炙問倭地 絶在海中 州島之山或絶或連周旋可五千余里』
『四面倶極海
 自営州東南 経新羅至其國也』
『分職命官 統女王而列部』
『魏略曰 従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也』
『早弥娥 惑翻叶群情 臺與 幼歯方諧衆望』(臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至
 桓遷之間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺
 復立卑弥呼宗女臺與 年十三為王 國中遂定 (臺の上部は吉でなく去)
 其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也』
『文身點面 猶稱太伯之苗』 黒占
『魏略曰
 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』
本文はまだ続く

465 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 17:05:41.27 ID:8Fd89PlMA
翰苑の一続きの記載もまた、
伊都国までで到着していますし、

倭国の説明にて、「其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也」
が組み込まれていますね。

四面倶極海でもありますし、
北部九州倭国ですね。

これを転写していたのは大宰府の官人でしょうから、
この流れで正しかったということですね。

466 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 21:52:27.39 ID:7coCRbtZs
>>464
翰苑の魏略では、「到伊都国」となっていますね。
「到」が正しいようです。

「至」は真っすぐに届く意で、一方、「到」は曲折して届く意のようです。
「到伊都国」は、末盧に着いてから曲折して進んで伊都国に至るの意になりますね。
真っすぐ進むか、方向を変えて進むかの違いがありますが、至と到はその程度の違いのようです。
根本的な違いはないようです。

467 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:05.39 ID:8Fd89PlMA
絹は中国並びに日本にとって重要な交易品でしたね。

中国では紀元前3000-6000年に絹生産が始まったとされており、
シルクロードを通して遥かエジプトやローマ帝国まで輸出していましたし、
蚕や桑の国外持ち出しは厳しく制限されていました。

日本での絹は、紀元前1-2世紀の、早良区有田遺跡の甕棺墓から銅戈に付着した絹が出土したのが最古で、
弥生時代の絹は全て福岡佐賀長崎県から出土しています。

甕棺墓からの出土が多いですが、
土壙墓や組み合わせ石棺墓などからも出土していますし、
かの吉武高木遺跡の、三種の神器が副葬された3号木棺墓にても、
銅矛銅戈を包んでいた絹が検出されています。

北部九州で最初期に出土する絹は、四眠蚕(4回脱皮したら繭を作る)のものですね。
朝鮮半島のは三眠蚕で、後になって楽浪郡経由と思われる伝播をしますので、
北部九州への絹生産法の伝来は、
稲のDNA解析結果と同じく、中国南部から伝来した可能性が高いですね。

468 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:55.51 ID:8Fd89PlMA
一方で、支石墓、ですが、
数としては、支石墓の大多数が朝鮮半島にあります。

支石墓には二種類あり、
卓子型支石墓(北方型支石墓)=支石が高いと、
碁盤型支石墓(南方型支石墓)=支石が低い、
があります。

朝鮮半島南部ならびに九州に見られるのは、後者ですね。

近年の研究から、同時期に双方が存在していることから、
源流はそれぞれ別である可能性が高いとされています。

469 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:54:54.54 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓の分布を見れば明らかですが、
・朝鮮半島では、南西部に密集している
・九州では、島原、五島列島、熊本など九州西岸に現れ始める
・九州では、いわゆる伊都國の西半分など、せいぜい福岡県の西半分までしか分布しない
・九州では、五島列島の宇久松原遺跡など、甕棺墓と混在する傾向がある
・支石墓は壱岐対馬に分布しない
・九州の支石墓は1世紀頃に終焉するが、甕棺墓は続く
といった特徴があります。

つまり、
朝鮮半島南部から九州へ伝播したのであれば、
壱岐対馬から出土するはずですし、
福岡県東部にも入っていくはず。

また甕棺墓という九州側の独自特色が強いことからも、
碁盤型支石墓は朝鮮半島南部からではない可能性が高いですね。

470 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:56:06.40 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓は、
九州においても、朝鮮半島南部においても、西岸に多い。
五島列島や島原といった、失礼ですが、西の辺境的な場所に多い。

といった傾向から、
中国南部から、海流に乗って、伝来してきた、
と考えるのが自然ですね。

浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)に碁盤型支石墓が13基ほど見つかっており、
甕棺墓も伴っているそうです。

副葬品には、銅矛銅戈銅斧銅鑿銅短剣、銅箭銅鏃、青銅製小型鐘
紡錘
などの弥生開始に必要な要素が詰まっており、
この石棚墓(碁盤型支石墓)の関係者が渡来してきて、
九州西岸に碁盤型支石墓などをもたらした、と考える人も多数いるようですね。

471 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:57:35.15 ID:8Fd89PlMA
九州における支石墓について検討してみると、
・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
・面として分布するというよりは、各地に飛び地的に固まって営まれている
・支石墓の副葬品は土器くらいで、威信材は無いのが普通。

ですから、
中国南部から交易や征服を目的として組織的に渡来して来た、
というよりは、
アクシデントとしての漂流者が、海流に乗って東に流され、
運よく九州や朝鮮半島の西岸に漂着した。

九州縄文人の集落で救助され、そこで縄文人に交じって生活し、
本人の場合もあるが、縄文人の配偶者やハーフの子供が支石墓に葬られる場合も多かった。
のでしょう。

支石墓は残るので目立ちますが、
当時の人口当たりの個数としてはごく少数ですね。
支石も1メートルちょっとのものが多く、近隣の山などで探せばありそうですよね。

ごく少数の漂流者がたまに来て、技術などを伝えつつも、
そのまま縄文集落に帰化同化したということでしょう。

472 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:58:34.53 ID:8Fd89PlMA
支石墓の群れに混じって、甕棺墓が出現してきます。

これもつまり、
漂流者の中にたまたま、稲を一束積んでいた農民がいたら、
それで九州縄文集落に稲作が伝来ですね。

漂流者の中にたまたま、桑の実と、四眠蚕を積んでいた養蚕家がいたら、
それで九州縄文集落に養蚕が伝来したわけですね。

蚕は生糸、絹を生み出して、産業の源にもなりますし、
繭を取ったあとの蚕蛹は食用にもなりますから、弥生時代にあっては貴重な蛋白源でもあった。
繁殖用においておくと、蚕蛾となって生まれ変わります。

甕棺墓は蚕の繭を模しており、
豊かさと、再生と、を象徴していたものと思われます。

473 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:00:10.17 ID:oV6Lk8FT5
養蚕伝来=甕棺墓の登場、ということですね。
甕棺墓=養蚕有力者、ということになります。

五島列島・宇久島の宇久松原遺跡には、早くも弥生早期の甕棺墓が出土しています。

縄文時代においては、日本側で海外に売れるものというのは、
翡翠や黒曜石ぐらいしか無く、
また朝鮮半島南部にもまだ鉄器青銅器が普及していませんから、
危険を冒して対馬海峡を渡海する必要性がそもそも無かったわけですね。

しかし、絹が作れるようになると話は別で、
中国が国外不出にしている高級品ですから、海外で高く売れるわけですね。

474 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:05.61 ID:oV6Lk8FT5
「国土交通省 地質図」

養蚕を開始したとして、では何が重要になってくるかというと、
「良質な畑」ですね。

蚕は桑の葉を大量に食べますから、桑が良く育つ土地が必要だったわけです。

桑は落葉性の灌木ですから、水はけの良い真砂土の畑。
つまりは『花崗岩』の土壌を求めて甕棺墓=養蚕有力者が展開していったわけです。

国土交通省の地質図で九州を見てみると、
花崗岩の土地がわかりやすく赤く記してあります。

桑がよく育つ花崗岩地域と、甕棺墓=養蚕有力者の分布域が合致することがわかります。

475 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:38.14 ID:oV6Lk8FT5
基本的には、
花崗岩あるいは玄武岩の土地は農業に適しており、
変成岩の土地は植物が育ちにくいようです。

国土交通省の地質図によると、
地質学的に、古代豊国は変成岩の土地ですから、桑が育ちにくかった。
ので、
養蚕をしても、花崗岩地域に比べて育ちが悪く、普及しなかったのですね。

ですから、豊國には、甕棺墓=養蚕有力者がやって来ず、
逆にそれ故に、領土を狙われることが無くて、
独立性を維持できたわけですね。

476 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:02:47.11 ID:oV6Lk8FT5
花崗岩の土地が、甕棺墓=養蚕有力者の分布そのままですね。

背振山系は花崗岩山系であり、
甕棺墓=養蚕農家がびっしりと群がって桑を植え、蚕を育てまくったわけですね。
絹バブルです。

博多湾東部だと、
古賀市は花崗岩で馬渡束ヶ浦遺跡など甕棺墓が出土していますが、
香椎は変成岩ですから、甕棺墓が入らなかった。
開発されずに残っていたので、後には逆に、宮の候補地になったのでしょう。

宇久松原遺跡の宇久島にも花崗岩があります。

離れた場所だと、下甑島にも花崗岩があり、ここからも甕棺墓が出土したらしいですね。

南島原で甕棺墓が出土したとのことですが、(島原市有家町中須川)
ここは玄武岩ですね。

壱岐島は同じく玄武岩で甕棺墓が出土。

477 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:03:25.53 ID:oV6Lk8FT5
あとは地理的政治的なもので、
五島列島の西側諸島にも花崗岩があり、甕棺墓が眠っているのか、
あるいは対馬海峡から遠すぎるので、輸送コストの問題で生産地に選ばれなかったのか。

熊本など甕棺墓が一時期だけ存在した場所は、花崗岩で無かったので、
コスト競争に負けたのか。

九州東岸の花崗岩も、豊國を越えなければならないし、
輸送コストの問題でしょうか。

478 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:05:23.03 ID:oV6Lk8FT5
明治政府と同じで、甕棺墓=養蚕有力者の勢力も、
絹を大量生産して、輸出することで、
青銅器などを輸入したのですね。

富の蓄積が始まって、甕棺墓からは青銅器が副葬され始めます。

養蚕の開始と共に、
縄文時代はさほど重要でなかった対馬海峡が、重要な交易ルートになったのですね。

その対馬海峡を仕切っていたのが、石棺墓勢力=ワニということですね。
ちなみにこの石棺墓は、後の新伊都二代目の奥さん豊国女王の実家の城野遺跡石棺墓まで続きますね。

古代の出雲や伯伎など地名は現在よりも西寄りで、
北部九州のものであったと推定されるのですが、
九州説の中には、それらは、本来はもっと西寄りだったと主張される方もいます。
そう考えると、豊國勢力は、本来もっと西寄りにいて、
西の有力者ワニは、
対馬海峡〜博多湾沿岸〜が本貫であった可能性もありますね。

479 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:22.38 ID:oV6Lk8FT5
おそらく花崗岩の土壌を求めてあちこち拡散したと思われる、
北部九州における支石墓の分布が、
福岡県東部に入れなかった、ということは、

支石墓(石棚墓)渡来人を吸収した、北西部九州縄文勢力と、
ワニなど北東部九州縄文勢力(八雷神)とは、
それぞれが別の、緩やかな広域クニを形成していた可能性が高いですね。

そして伊都説で考えるならば、
もう一つの、有力なおそらく九州中部縄文勢力が、
その中間にいたことになります。

さらに言うなら、豊國から東に渡海した、古代越の地域には、
縄文時代の有力勢力である、八岐大蛇(中ノ浜遺跡?)がいたことになります。

九州の有力中部縄文勢力が、脊振山系頭部で暮らしていたのを、
その花崗岩の土地を求めて、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)と、
北東部九州縄文勢力(八雷神→ワニ対馬海峡交易ルート)とが、
連合して攻めた、ということでしょうね。

480 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:58.78 ID:oV6Lk8FT5
微妙な話になるのであれですが、
空想世界の話として、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)は、
>>471
支石墓の段階ですでに、
>・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
のと、
支石墓が早々に姿を消している。
(標石墓や須玖岡本D地点などはあるにせよ)
ことから、
考古学的には、縄文系の可能性が高いと思われますね。
しかし文献的には、くどく呉の太伯の末裔と自称し続けているので、
どうでしょうね。
文献の方は、本当は縄文系だけれども、箔をつけるためにそう自称していた、という可能性もありますが。
DNA解析が進むとハッキリしてくるでしょうが、どうなんでしょうね。

481 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:48:43.01 ID:oV6Lk8FT5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/876

古代に渡海する場合、真夏で晴れならいいですが、
それ以外の季節や、雨に降られると、
潮しぶきで体が濡れて、低体温症になる危険がありますね。

>>428
体温維持のために、耐水性の高いサメ皮の衣服が必須だったのでしょうね。
油を塗ったサメ皮の衣服と、サメ頭部の帽子をかぶって、完全防水の姿で渡海していくので、
サメが舟を漕いでいくような光景だったのでしょうね。

>>375
甕棺墓=養蚕有力者を多数従えた吉武高木大王家と、
対馬海峡渡海を受けもつ、女系外戚ワニのタッグだったわけですね。

対馬海峡渡海時に遭難した場合、対馬海流で流されて、
まず目指す避難場所が沖ノ島だったと考えられ、
その近辺もワニ族が押さえていた、と考えると、
ワニ族は飛び地的に、対馬海峡と、古代出雲の一部と、を押さえていたのかもしれませんね。

482 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:49:29.61 ID:oV6Lk8FT5
国家の運営像としては、
<甕棺墓=養蚕有力者>
温暖な九州の花崗岩地域で桑がよく育つ
→蚕がモリモリ桑の葉を食べてよく育つ
→大量の生糸、絹が生産される
→<対馬海峡渡海専門のワニ族>が絹を朝鮮半島側に運ぶ
@
→朝鮮半島南部の神a派が、同じ燕系の衛氏朝鮮で多鈕細紋鏡など青銅器と交換してくる
→ワニ族と神a派はマージンを受け取る

A
→朝鮮半島南部で鉄資源を入手する
→鉄資源をワニ族が対馬海峡渡海して北部九州へ運ぶ
→田熊石畑遺跡将軍が、丹後扇谷遺跡へ鉄資源を運び込み、現地の木材を燃料に鉄器を生産する
→鉄器を北部九州に輸送して使う

という形だったのでしょうね。
明治政府と酷似していますね。

483 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:54:18.33 ID:oV6Lk8FT5
中国がそうであったように、

吉武高木王家ならびにワニ族にとって、
絹こそが富の源泉ですから、
当然のことながら、専売独占したわけですね。

豊國東部(古代伯伎國)の有力部族であるカモは、
背振山系南部で養蚕に参加してはいたものの、
海外交易の利益のほとんどは、吉武高木やワニ、神a派に取られてしまう。
金属器に乏しい状態で、環濠集落+銅鐸で東方開拓していたわけですね。

そこに風穴を開けようとした、女性実業家が、ヤガミヒメだった、のでしょう。

国土交通省、地質図で、本州四国を見ると、
中央構造線の北に、花崗岩のベルト地帯があることがわかります。

瀬戸内高地性集落の大半は、花崗岩の土地を選んで建設されており、
弥生時代の石油である、木材と炭、の生産はもちろんですが、
おそらく桑の栽培と養蚕にも手を出そうとしたのでしょう。

平形銅剣女王が、新規開発した、瀬戸内高地性集落群=木ノ俣、にて、
絹をも大量生産する。
そしてその海外販売ルートが、紀元前1世紀に楽浪郡と組んで勢力伸長した、
奴族ですね。

衛氏朝鮮が滅亡して没落した燕系にとって代わって、
奴族が海外交易ルートを担当しつつあった。

その倭地における有力奴族の末弟に目をつけたわけですね。

484 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:57:39.19 ID:oV6Lk8FT5
絹販売の独占を、敏腕女社長のベンチャー企業に破られそうになって、
銅矛銅剣戦争が勃発したわけですね。

既得権益派が、吉武高木王族の田熊石畑遺跡将軍、ワニ銅矛、(亡命神a派)、
ベンチャーが、銅剣女王、奴族、(亡命甲羅派)、
と見事に分かれますね。


しかしながら、奴族のおぼっちゃんが、女性関係の妙によって、
いつの間にか田熊石畑遺跡将軍の後釜に座っていて、
奴国王金印にまでつながった、ということでしょう。

子沢山の秀吉、のようなサクセスストーリーだったのでしょうかね。

485 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:24:57.07 ID:oV6Lk8FT5
奴国王が70年に奴国大洪水で失脚しますから、
被災地の福岡平野から甕棺墓が消えて、
新伊都に甕棺墓大王が出現しますね。

養蚕に大事なのは、花崗岩の真砂土土壌や温暖な気候と共に、
「平和な世の中」が必須ですね。

弥生時代も変わらず竪穴住居の天井部分で蚕を飼っていたでしょうし、
戦乱などで家屋が破壊されたりする状況だと、養蚕はできないのですね。

よって、倭国乱の時期は、養蚕がしにくくなって、甕棺墓=養蚕有力者が減ったでしょうし、

あるいは難升米の故郷である伊邪國は、定期的に倭国軍が攻めてきて、逃げ回らなければならなかったので、
難升米が司馬懿に話して広志に記録されたように、革を着ていたのですね。

486 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:05.98 ID:oV6Lk8FT5
紀元前の扇谷遺跡の丹後半島も、花崗岩
紀元後の五斗長垣内遺跡・舟木遺跡の淡路島も、花崗岩

鉄工房を稼働する燃料となる木材が育ちやすい場所をちゃんと選んで建設していたのですね。

>>418
>三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
>巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
>基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、

これらも花崗岩の土壌ですね。

銅矛銅剣戦争で、銅剣女王國が滅ぼされたのも、
初代のお方が、豊國岡田ワニで準備してから瀬戸内東征したのも、
専売品である絹の新興生産地を粛清するためだったのでしょうかね。

487 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:41.07 ID:oV6Lk8FT5
後漢書にて、東夷で養蚕しているのは、倭と辰韓のみですが、
三国志では、倭、?(ワイ)、馬韓、弁辰、とほとんどの国が養蚕を行っています。

公孫氏が養蚕を奨励したのか、
あるいは倭国乱で倭からの絹輸出が減ったことで、半島側でも絹を自給するようになったのか。

いずれにせよ、文献からは、
主な輸出先であった朝鮮半島で養蚕が盛んになっており、
戦乱続きの倭の絹産業は大打撃を受け、甕棺墓=養蚕有力者が消えていったわけですね。

488 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 21:37:49.89 ID:XkPY6nYLZ
>>480
志摩町の支石墓人骨の抜歯形式について、中橋孝博という学者の考えがサイトで見られます。
それによりますと、「抜歯形式では上顎の犬歯、下顎の切歯・犬歯を主とした抜歯痕がみられる」として、
「長崎県根獅子遺跡や佐賀県大友遺跡など西北九州の弥生人骨や西日本各地の縄文集団で流行したもので、かなり在来色の強い形式」としています。

この考えからしますと、海外からもたらされた支石墓を取り入れた新町遺跡の弥生早期の集団が、その墓に彼らの一員で縄文系の抜歯を行った人物を葬ったということになりますね。
このことは、菜畑遺跡などの最初期の水田稲作の集落から出土した土器には縄文系の模様がほどこされていることと軌を一にすることでしょう。
伊都地域の弥生早期(縄文晩期末)の住人は、縄文世界に住んでいた人々だったとしていいのではないでしょうか。

一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、淮河の場合は淮夷と呼ばれていたようです。
2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。
その彼らは縄文人と混血して人口を増やしていきます。
ですので、彼らは自分たちがどこからやってきたのか、子孫に記憶を残していたのではないでしょうか。

そして、その後、漢の時代に司馬遷が史記をまとめ、その中で周の太伯と虞仲が長江河口付近に領地を得たことが書かれますが、
この事績は当時の役人など知識人に共有された有名な話だったと思われますし、それが話として倭の彼ら水田稲作人にも伝わり、それが彼らの出自の記憶と被さった結果、
「太伯の後」という新たな記憶が生まれたものと考えることができるのではないでしょうか。
そして、魏略に記されますように、魏の使節が邪馬台国の有力者に彼らの出自を質問すると、彼らは「太伯の後」だと告げて胸を張ったということだと思われますね。

489 :日本@名無史さん:2022/12/29(木) 16:16:15.04 ID:wg3t23nwZ
糸島新町遺跡の支石墓など南方系のものの中国での分布は、浙江省〜江蘇省に広がるそうです。

一方、朝鮮半島南部の南方系支石墓や新町遺跡支石墓などは縄文晩期(弥生早期)の時期に当たるそうですので、
ちょうど水田稲作が菜畑などに渡来する時期に重なりますね。
その時期を3000年前頃としますと、この時期は中国では周の5代穆王の在位時期です。
穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
ですので、この淮夷排撃によって淮河下流域から避難した水田稲作民が、菜畑などにやって来たと考えることができます。

江蘇省のその淮夷のいた地方も支石墓の分布域に入りますので、これらの避難淮夷が新町遺跡などに支石墓をもたらした者たちであった可能性を考えることができますね。
このように考えますと、新町遺跡などの南方系支石墓が浙江省温州あたりから直接もたらされたと考えなくてもよくなります。
そして、渡来したこの淮夷の水田稲作民がもたらした南方系支石墓を自分たちの墓として取り入れたのは、在地の縄文人たちであったとすることは可能ではないでしょうか。

このようにみますと、五島列島などの南方系支石墓は浙江省温州あたりから直接もたらされたとするよりは、九州本土から普及したとみることもできますね。
このあたりの考えは、どうでしょうか。

490 :a:2022/12/30(金) 12:19:41.60 ID:cBQKtSHw0
http://www.geocities.ws/setsinrigaku/23.html

491 :日本@名無史さん:2022/12/30(金) 15:07:10.34 ID:XSbDzu0EI
ある意味、社会的自我は抑圧によって形成される。
この抑圧のメカニズムによって形成される自我をアイデンティティと呼ぶことが可能です。
もちろん、強度の抑圧は、その社会的自我をいびつなものにしてしまい、社会適応をむつかしくします。
ここらの抑圧機能の調整が大事です。
調整役のその働き手を名付けるとすれば、それは「他者から与えられる愛情」でしょう。
宗教などもその力の一つでしょうね。

492 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:30:59.95 ID:Pl6QGsmmk
>>489
幅広い考察ですね。

呉の太伯関連ですが、
江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡人骨(春秋時代:前8〜5世紀)と、隈西小田遺跡とで、
ミトコンドリアDNA配列が一致する人骨がありましたよね。

隈西小田遺跡の被葬者が渡来一世とは考えにくいので、
梁王城遺跡人骨と同じ母系の「女性」が渡来してきて、
さらにその女性子孫が産んだのが、隈西小田遺跡の甕棺墓被葬者、
ということになります。

女性を伴う遠距離渡来ということになり、
梁王城遺跡関係者から北部九州に「集団の渡来」があった可能性が非常に高いわけですね。

同様に、
山東省臨錙遺跡についても、最終的には土井ヶ浜遺跡へ、
「集団の渡来」があったのだろうと考えられるわけです。

493 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:32:10.62 ID:Pl6QGsmmk
さらに梁王城遺跡から出土した5000年前の人骨は、
いずれも上顎の側切歯を抜歯しており、
身長180センチ以上の高身長の人も複数いたとのことですから、
弥生人と共通する資質を持っていたことになります。

縄文時代には上顎の犬歯を抜歯していたのが、弥生時代から上顎の側切歯が多くなる。
また安徳台遺跡の甕棺墓被葬者には身長176センチの人が2人いたり、
弥生時代に入ってから高身長になるわけですから、

まあ弥生時代開始時期にこの地域から複数回の「集団の渡来」があったのだろうと
考えられますね。

文献で対応するものとして、上で検討したように、
臨錙遺跡からの「集団の渡来」は徐福が候補になるわけですし、

梁王城遺跡からの「集団の渡来」については、呉の太伯の子孫も候補になってきますね。

>>489
>穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
淮夷の反乱を平定したり、東夷26邦を従わせたのは、
穆王の前の4代昭王(前995-977)とありますから、
菜畑遺跡の開始時期と重なってきます。

あとは石棚墓との関係が焦点になってきますね。

494 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:33:48.18 ID:Pl6QGsmmk
人間の永久歯、ですが、
最大で上下に左右8本ずつ、合計24本ですね。

中央から、
中切歯・側切歯(I:incisor)
犬歯(C:canine)
第一小臼歯・第二小臼歯(P:premolar)
第一大臼歯・第二大臼歯・第三大臼歯(M:molar)
の片側8本ずつ。
第三大臼歯(=親知らず)の生える本数(0-4)は個人差がありますね。

生えてくる順番は遅い方から、
犬歯(11-12歳)>第二大臼歯(12-13歳)>第三大臼歯(17-21歳)


噛み合わせ(咬合)については、
鋏状咬合 現代人、顎が発育不全で上顎前歯が下顎前歯の前にかぶさる
鉗子咬合 縄文人、顎ががっしりしていて上顎と下顎の前歯が同じ位置
反対咬合 病的、咬合不全や発音不全となる

495 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:36:34.07 ID:Pl6QGsmmk
古代の抜歯についてですが、
・縄文人は上顎犬歯を抜歯+下顎
・弥生人は上顎側切歯を抜歯(+下顎)

・上顎中切歯は抜かない
・縄文人の上顎犬歯抜歯は12歳頃
・他の歯は、虫歯でも抜歯していないことが多い
・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

抜歯の無い正常歯列を上下左右
MMMPPCIIIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM
とします。

496 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:37:04.14 ID:Pl6QGsmmk
抜歯を?で示すと、

縄文人は両側の上顎犬歯を抜歯するのが基本で、

<0型> 上顎犬歯のみ抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

<2C型> 上顎犬歯+下顎犬歯も抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPP?IIII?PPMMM

<4I型> 上顎犬歯+下顎切歯を抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPC????CPPMMM

などいくつかのバリエーションがあります。

弥生人は、土井ヶ浜人でよく調べられていて、
両側あるいは片側の上側切歯を抜歯するようになります。

MMMPPC?II?CPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

あるいは

MMMPPC?IIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

等ですね。

497 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:39:09.35 ID:Pl6QGsmmk
抜歯は「古代の歯列矯正」と考えられますね。

抜歯は痛いですし、
古代だと抗生物質が無いので感染症を起こして死ぬ危険もあります。

それでも敢えて抜歯していた理由を考えると、
歯列矯正、が最も当てはまります。

抜歯の風習は、縄文時代には集落によって80-100%だったわけですが、
弥生時代から減少して、甕棺墓被葬者では10-20%。
古墳時代以降はしなくなりますね。
その結果として、歯科治療が発達する前の日本人について、西洋人から見ると、
出っ歯が多い
歯並びが悪い(乱杭歯)〜犬歯が目立つ(八重歯)→吸血鬼などを連想させて怖い
というイメージだったわけですね。
明治時代の西洋の新聞とかに書かれる典型的日本人はたいてい出っ歯ですね。

縄文時代は調理法が未熟でしたから、歯並びを揃えてしっかり噛むことが重要だったわけです。

歯列矯正するのに、現代であれば、
ワイヤーや、マウスピースがありますし、
親知らずが生えてきて他の歯が圧迫される場合には、親知らずを抜歯できます。

縄文時代の歯医者さんが使える手段は、抜歯のみ。
しかも奥歯を抜くのは困難。

なので、前にある犬歯を抜歯して、歯槽骨(歯ぐき)のスペースを空けて、
歯列矯正、親知らずも正常に生えるよう促したわけですね。

498 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:45:33.37 ID:Pl6QGsmmk
抜歯するなら抜きやすい前歯を抜歯するとして、
縄文人は犬歯。弥生人は側切歯を抜歯していましたね。

犬歯の方が大きくて抜きにくいのに、縄文人がなぜ犬歯を抜歯したかというと、
日本人は水平方向に咀嚼
欧米人は垂直方向に咀嚼
する傾向があるとのことですから、
尖った犬歯が水平方向咀嚼時に邪魔だったのですね。

それと、大きい犬歯を抜くことで、歯ぐきになるべく大きな余裕を空けて、
第三大臼歯=親知らず、が正常位置に生えてくる確率を上げて、
第一小臼歯〜第三大臼歯の臼歯群をフルで使う、ことが重要だったのでしょう。

生存率に大きく影響したと。


弥生時代になると、
渡来人がやってきて、調理水準が上がって、そこまで噛み合わせに全力をかける必要が無くなった。
渡来人の歯医者さんもやって来て、側切歯の抜歯を推奨してきた。
つまり、縄文時代に比べると、美容的な意味が強くなり、
医療的にはまあせいぜい親知らず対策くらいが主目的になり、
犬歯よりは小さい側切歯、しかも場合によっては片方だけだったり、
抜歯しないという選択肢も増えたわけですね。

499 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:47:05.70 ID:Pl6QGsmmk
下顎の抜歯については、
縄文時代は、鉗子咬合の人が多かったからですね。

抜歯すると、
横幅のスペースが空くのと同時に、
歯列は口内へ、奥へと倒れます。
傘を閉じると、傘の骨の間のスペースが狭くなるのと同時に、傘の骨が中央へ倒れていくのと同じですね。

縄文人は、鉗子咬合=上顎と下顎の大きさが一緒ですから、
上顎を抜歯すると、上顎の歯だけ奥に移動することで、
下顎の歯が外に位置する、反対咬合になります。

よって、上顎と歯列を合わせるために、下顎の抜歯もしたわけですね。

縄文時代の歯医者さんとしては腕の見せ所で、
鋏状咬合の人であれば、元々下顎のほうが小さいので、しばらく様子を見る、
場合によっては下顎の抜歯は不要。これが0型ですね。

鉗子咬合の人は、口の中を覗き込んで、
第二大臼歯の奥に十分なスペース=親知らずが生えるスペースがあるなら、
抜歯を見合わせるが、
基本的には下顎を抜歯しておいたほうがいい。
2C型などになります。

500 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:50:21.46 ID:Pl6QGsmmk
大事なのは上顎の中切歯2本、ど真ん中の2本ですね。
これが正常でないと、サ行やタ行が発音できなくなります。

上顎よりも下顎の歯が小さいですから、
上顎の中切歯2本には、下顎の中切歯側切歯4本ともが当たります。

上顎の犬歯を抜歯した後に、下顎切歯が上顎中切歯を押す形になってしまった場合、
放置して、
上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、
発音障害をきたします。
もちろん見た目も酷いものになりますね。

ですから、上顎中切歯が押されている程度に応じて、
下顎切歯群を左右対称に抜歯して、歯列矯正を調節したのですね。
2I型や4I型になります。


ちなみに、古代に世界の他の地域において、上顎中切歯2本の抜歯例がありますが、
これは刑罰や奴隷などでしょうね。

501 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:51:35.55 ID:Pl6QGsmmk
縄文集落で、上顎犬歯の抜歯率が、80%の集落と、100%の集落がありますが、
歯医者さんの差ですね。

見立てのいい歯医者さんがいる集落は、
11歳時に、上顎の歯の大きさと、歯ぐきの広さを確認して、
親知らずが生えるスペースが十分にあるなら、抜歯せずに様子を見る。

縄文人だって人ですから、
無駄な抜歯をしないですむなら、それに越したことは無かったわけです。

歯医者さんがいなかったり、
先代の歯医者さんが、奥義を伝授する前に亡くなったり、
歯医者そのものが、面倒くさがりだったり、
といった事情のある集落だと、
とりあえず12歳になったら全員の上顎両犬歯を抜歯しておいたのでしょう。

502 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:56:03.17 ID:Pl6QGsmmk
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

プラントオパールで明らかになっているように、
縄文人が稲、アワ、ヒエ、などのイネ科の雑穀を食べていたからですね。

ちなみに、岡山県の彦崎貝塚からは、
イネ、コムギ、オオムギ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエ、といった、
「複数の」プランオパールが出土しているので、
「栽培していた」ことがわかりますね。

ヒエだけ、などわずかな種類だけ食べていたのならば、
集落近くにたまたま原生で生えているものを採集した可能性がありますが、
これだけ多種類の物を食べていたということは、
各種の雑穀を人間が集めてきて、畑で栽培していたことを示しています。

食事の話に戻ると、
縄文時代は器具が未発達ですから、
脱穀、籾摺り、精米などをしようと思っても、莫大な労力と時間がかかったわけです。

集団の構成人数が少ないので、分業体制が確立しておらず、
狩猟採集その他、毎日やらなければならない作業が山のようにあったので、
炭水化物に関しては、平常時には穂のまま食べていたのですね。

503 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:57:53.76 ID:Pl6QGsmmk
例えば稲なら、茶碗1杯が2株とのことですから、朝に4株くらい持って、
仕事に出かけます。

で、歩きながら、そして仕事をしながら、食事をしていたわけです。

穂を1本むしり取って、例えば右手に茎を掴んで、穂を横向きにくわえます。
で、右の上下臼歯群で茎を噛みながら、茎を右手で引っ張り抜くと、
籾だけが口の中に残りますね。
これを数回繰り返して、籾を全て口の中に回収します。
脱穀ですね。

口の中に籾が溜まったら、ゆっくり咀嚼して、
臼歯群で籾を割っていきます。

籾を割りながら唾液をまぶしていくと、
中の米部分に唾液が浸透してゆき、次第に柔らかくなって、
ガムのようにくちゃくちゃ咀嚼して、でんぷん質を練り出して接種したのですね。
チューインガムを噛んで、糖分だけ接種するイメージです。
籾摺りですね。

十分に時間をかけて、中身の米を溶かして接種して、甘い味が無くなったら、
籾だけの残りかすを吐き出して、(歯みがきにもなる)
また穂をちぎって、次の脱穀へ。

504 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:58:37.55 ID:Pl6QGsmmk
仕事をしながら、口の中では脱穀籾摺り調理食事歯みがき。
これを日中ずっとやっていたのでしょう。

男性で力が強くて、せっかちな人は、
こち亀の両さんのように、
歯を食いしばって一気に茎を抜き取るパワフルな脱穀を繰り返した結果、
長年のうちに、
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる
になったのですね。

日中ずっと籾をくちゃくちゃやって、
日が傾いて来たら集落に帰って、
肉や魚を焼いて食べたり、野菜を食べたりしたのでしょう。

505 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:02:16.43 ID:Pl6QGsmmk
この食事方法の場合、
例え集落の倉庫に稲穂を保管しているにせよ、

その大半は朝に株・稲穂ごと持ち出して、
集落の外で仕事しながら茎も籾も吐き出して、
そして帰って来ますから、

例えば集落で脱穀その他をするようになった後世に比べると、
縄文集落から出土するプラントオパールの量は非常に少ないものになりますね。

506 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:03:44.79 ID:Pl6QGsmmk
細かいことを詰めると、
小臼歯を失っている人は若くして亡くなっている人骨が多いのですね。

臼歯列を5分の1失いますから、
臼歯列で穂から脱穀する効率や、籾をすりつぶす効率が落ち、
栄養摂取率が落ちて寿命が短くなったのでしょうね。

縄文時代に結婚相手を選ぶときは、前歯ではなく、
臼歯の本数をチェックしたことでしょう。


一方で、調理した跡も見つかるわけですが、
縄文集落では身分差がそこまで顕著ではありませんね。
戦争も無い平和な時代ですから、
我々の社会と同じ考えで行くと、

身体障害者や乳幼児、そして高齢者、のために、
石器で脱穀、籾摺りをしてあげて、せめて玄米の状態にして、調理したものを
毎日出してあげていたのでしょうね。

507 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:05:32.39 ID:Pl6QGsmmk
山鹿貝塚の古代女王は抜歯をしていませんね。

これはつまり、彼女たちを共立している勢力というのがそれなりの大勢力であり、
共立女王たちは、ちゃんと脱穀籾摺りされた食事を毎日献上されていた、
ということでしょうね。

後の甕棺墓被葬者の抜歯率が低いのも同様の理由ですね。
養蚕で裕福なので、きちんと調理された食事を食べる生活が代々保証されており、
歯の大きさ対歯ぐきの広さ比率がよほど悪い人や、
親知らずが生えてきて痛みがひどい場合、
などだけ抜歯したのでしょう。
その代わり、後の日本人同様、歯並びは悪かったでしょうけれども。

あと、出土する人骨は身分の高い人がほとんどですから、
一般人の抜歯率はまだ相変わらず高かっただろうと思われますね。

508 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:25:29.68 ID:Pl6QGsmmk
>>500
>上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、

ああ、逆でしたね。
この場合も反対咬合が問題で、上顎中切歯が下顎切歯より後ろになってしまうと
様々な問題が発生するので、
下顎切歯を抜歯した、ですね。

509 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:03:24.95 ID:EHG+ejYBd
>>488
>一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
>2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。

それは強引すぎるでしょうね。

O1b1とO1b2に分岐したのが約3万年前と言われています。
それで現在、O1b1がインド〜ベトナム〜中国、O1b2が日本〜朝鮮半島〜北東アジア
に分かれています。
(曹操はO1b1)

>中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、
これは単なる推測の一つであって、ハプロタイプを調べた裏付けはありません。

3万年前にDNA上で分かれたO1b1とO1b2が、
3千年前にどちらも長江〜淮河で稲作していて、
そのうちO1b1だけ中国に留まり、
O1b2だけが日本などに稲作を伝えて、稲作できない寒冷地域へ拡散していった・・。

かなり厳しいストーリーですね。

510 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:05:08.64 ID:EHG+ejYBd
Y染色体ハプログループは取り扱い注意ですね。

今後、より細かい分岐まで解析されるにつれ、
数回のどんでん返しがあるものと予想されますね。

例えば、O系統であっても、O1bまでしかわかっていない段階であれば、
長江で稲作をしていたO1bが、朝鮮半島経由で日本に稲作を伝えたんだ!
で科学的に終了していたわけですね。
それがO1b1とO1b2に分かれていて、O1b2が稲作とは関係ない地域へ拡散しているので
状況が変わっている。


現時点での単なる印象としては、出アフリカして、
まずCが来て、当時渡れたアメリカ大陸やオーストラリアへ渡っていった

次に我らがDが来て、チベットや日本へ分岐したが、
その頃にはアメリカ大陸やオーストラリアは渡れなくなっていた。

臨錙遺跡からの徐福集団は、女系ミトコンドリアDNAにて白人と同じ系統と判明したので、
男系Y染色体も白人C1A2と近い、
C1A1なのだろう。

O1b2が奴族。

O2が中国からの渡来人の本流。

「日本に来ていないO1b1」は長江〜淮河の稲作に関与しておらず、
O1b1とO1b2は3万〜2万年前に中国からそれぞれ南北に一旦追い出されたのだろう。

511 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 00:23:45.19 ID:DjSPxjpqr
>>493
菜畑などで出土する山ノ寺式土器の年代調査では、前930年〜前860年頃という年代が考えられているようです。
また、ウィキの「菜畑遺跡」では、最下層の水田の年代を前930年頃としているようです。
そこで、前930年と周王朝の王の在位年代と重なる王を見てみますと、穆王(前976年〜前922年)がこれに当たります。
一方、昭王の在位は前995年〜前977年となっています。
穆王は、在位37年目に淮夷を率いる徐偃王を楚に命じて討伐させます。
この年は前939年になりますので、その9年後頃に菜畑で水田稲作(前930年)が始まるように計算することができますね。

このようにみますと、昭王の在位期間と菜畑の水田稲作開始年代とは、時間にやや開きがあるようにみえますね。

512 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 20:51:34.13 ID:DjSPxjpqr
>>509
このYハプロから見る種族関係は、非常に面白いですね。

O1b1とO1b2が分岐したのは3万年前頃とされていますが、
この両者の生活圏が全然別であったかどうかの点については、まだ誰も指摘していません。
そこで、注目の淮河流域を見て見ますと、三国時代の魏の始祖となった曹操の墓が見つかっていて、
その墓の人骨のY遺伝子を調べたところO1b1a2aという結果が出て、曹操のYハプロはこのO1b1a2aだったとされています。
そして、曹操が出た曹一族が住んでいたのは、江蘇省の徐市あたりだったとされています。

一方、ベトナムの主要なハプロはO1b1a1aで、このハプロの原郷は長江の南の江西省や広東省あたりとされています。
ベトナムのO1b1a1aと曹操一族のO1b1a2aは非常に近いハプロですので、双方は元々はこの長江の南のあたりにいた種族を祖先としていることが想定されます。
そうしますと、曹一族は長江流域を越えて北の江蘇省へ移動したO1b1a2a系の一派の中の一族というふうにとらえることもできそうです。

そして、日本に水田稲作をもたらしたとされますO1b2の水田稲作民は、非常に遠いところからゃってきたとは考えにくいですし、
最も近い水田稲作地帯が江蘇省の淮河下流域であることを考えますと、
曹一族が属した徐州あたりのO1b1a2aの種族と菜畑のO1b2の水田稲作民は、ごく近くで共生していたと考えることが可能になります。
このことからしますと、遺伝子の分岐自体は3万年前とされますが、その分岐した二つの同系種族はごく近くに住み続けていたと考えることも可能なのではないでしょうか。

O1b1a2aの曹一族が江蘇省の徐州あたりに住んでいたことを特殊な例とするか、それともごく普通のことだったとするかで考えは相当違ってきますが、どうでしょうか。

513 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 21:53:43.25 ID:DjSPxjpqr
>>510
中国で高身長の地方は、満州と山東省が有名ですね。
山東省の出身の孔子も高身長だったとされています。
山東省の臨?遺跡の人骨がコーカソイドだったとされていますが、
この山東省の種族のルーツと関係がありそうなのは、Y-R1bですね。
R1bの言語とされるケントゥム語は、西ヨーロッパと中国西域のタリム盆地北縁あたり(天山南路)に確認されているようです。
タリム盆地北縁の言語は、トカラ語と呼ばれています。
8世紀頃まで存在していたとされていますね。

臨?遺跡の人骨がコーカソイドとしますと、このR1bのトカラ語話者と関係してくるように思われます。
この臨?市のある山東省が現在でも中国で高身長のトップ級の地方であることと、古代の西域タリム盆地北縁のR1b種族の存在は、
なにか関連があるのかも知れません。
タリム盆地北縁あたりの原住種族が山東地方へ移住した、というような記録はないのでしょうか。

514 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 00:09:29.51 ID:vvsMCyz1J
現在の山東省の人のYハプロが詳細に調べられているようで、QとRがそこそこ見られるようですよ。

515 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:43:32.34 ID:jMqI6ECGN
>>511
なるほど。
土器年代の精度が気になりますが、そうであれば、
それこそ西北九州→菜畑の順番だったからこそ、そのタイムラグが生じたのではないでしょうか?
支石墓に副葬された土器も西の方が古い傾向がありますし。

支石墓の下の埋葬部分については、
支石墓を伝えた集団の本来の形式が箱式石棺墓。
在地の縄文人は元々木棺墓。(支石墓の土壙墓は木棺が消失しただけ)
支石墓+木棺墓の形は、単に我々の墓石のような感覚で支石を一時取り入れただけだったと。

よって、支石墓を伝えた集団は支石墓+箱式石棺の形式が無くなった時点で在地の縄文社会に帰化同化したと考えられますね。
そうなると、吉武高木大王もそうだったと。

呉の太伯の子孫がいたとすれば、ワニの方に吸収されたのかもしれませんね。
同じ石棺墓系で、ワニ女系社会に婿入りして、吉武高木王家の外戚になったと。

「諸國文身各異 或左或右或大或小 尊卑有差」ですから、血統の記憶は残っていたのかもしれません。

516 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:44:28.43 ID:jMqI6ECGN
ハツカネズミのミトコンドリアDNA解析で、
約4000年前に、CAS(南アジア系)が中国南部から。
約2000年前に、MUS(北ユーラシア系)が朝鮮半島から。
それぞれ渡来したと判明しましたね。

CASは、
西で分岐しながら次第に東に拡大したのではなく、
先に日本列島そして南樺太まで一気に分布してから、各地でそれぞれ分岐していったそうです。
西日本、東北、北海道、南樺太、の4グループがそれぞれでクラスター発展したそうですね。


後からやってきたMUSの方が強かったようで、
現在は東北地方までくらいMUSが主流で、CASの遺伝子は吸収される形になっているそうです。

517 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:45:29.54 ID:jMqI6ECGN
そこで妙なのが、なぜその時に朝鮮半島にもCASが渡らなかったのか。

4000年前の時点で朝鮮半島にMUSがいて強かったから、CASが入れなかった、とするなら、
その時点で逆にMUSも渡来してきたはずですね。

渡海距離で考えるなら、対馬海峡の最大渡海距離が54kmくらい。
宗谷海峡が48kmであまり変わりませんし、
南西諸島経由だと100km以上の渡海部分が複数あり、宮古島と沖縄本島は240kmも離れています。
ですから、渡海距離が原因でもない。

ツシマヤマネコに捕食された可能性も考えましたが、それだと2000年前にMUSが来れたのが妙です。
それに南西諸島にはイリオモテヤマネコがいますし。

518 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:46:20.14 ID:jMqI6ECGN
それでよくよく調べてみると、
考古学的には8000年前から4000年前には極端に人がいなかったそうですね。

ハツカネズミは家ネズミですから、人間の集落に依存して生きている。
だから、人間がいないと食べていけないので、
伝播しなかったわけですね。


ハツカネズミが襲来して困った縄文人が、
まだ汚染されていない土地を求めて逃げてきた。
のではないでしょうかね。
時期が一致します。

519 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:47:15.77 ID:jMqI6ECGN
プラントオパールが出土しているのですから、
少なくとも6000年前には日本に稲が伝来していた。

縄文人はイネ科の各種雑穀と一緒に稲も育てていた。

上で推論したように、抜歯風習のそもそもの目的が、
イネ科雑穀を効率よく食べるためだったのであれば、
抜歯開始=イネ科雑穀の栽培開始。
稲の伝来が少なくとも6000年前で、抜歯縄文人は当然稲も栽培していた。

他のイネ科雑穀と比較して、稲の何が優れているかというと、
保存性ですね。
精米せずに保管すると、何年かもつ。

天候不順などの凶作対策で、複数種類のイネ科雑穀を栽培して
リスク軽減をしていたのでしょうけれども、
保存のきく稲は重視されていた筈で、稲があったからには、
水田遺構が見つかる可能性も高いですね。

520 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:48:47.68 ID:jMqI6ECGN
稲が伝来してから数千年の間、縄文社会はイネ科雑穀を栽培して繁栄していた。

そこに、4000年前ハツカネズミが襲来してきたわけですね。

ハツカネズミは高い登攀能力を持ちますので、
縄文社会の倉庫は格好のえさ場になって、食い荒らされたのですね。

土器に蓋をして保管するしかありませんが、
稲穂を倉庫に山積みにするのに比べて、
保管できる量が極端に減りますね。

食料をストックできなくなると、集落で維持できる人数も激減して、
数千年かけて築き上げてきたムラ社会が崩壊したのでしょう。

保存がきく、という稲の長所も生かせなくなって、
稲作が衰退します。

ハツカネズミの出現によって、食料を奪われ汚染されて、
・三内丸山遺跡は約4000年前に途切れたし、
・縄文時代後期に、日本列島の人口は26万人から8万人に激減した。

ですから、水田遺構を探すのであれば、
2000年前-4000年前の遺跡ではなく、
むしろ
4000年以上前のなるべく古い遺跡の周辺を探した方が見つかるかもしれませんね。

521 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:49:40.21 ID:jMqI6ECGN
縄文時代に既に稲作はなされていた。

ハツカネズミがやって来て、食料の長期保存ができなくなり、稲作が衰退した。

支石墓渡来人が伝えたのは稲作ではなく、
『ねずみ返し』
だったのですね。

『ねずみ返し』が伝えられたことにより、
食料の長期保存が再びできるようになって、
稲作が再度栄え始めた、わけですね。

なので、鹿児島まで30年、青森まで200-300年という超スピードで稲作が広まったのは、
稲作の土台は6000年以上前に元々できていて、
ハツカネズミによって一時中断していたのが、
『ねずみ返し』の伝来によって、再開したからですね。

『ねずみ返し』の伝播速度を見ている、と考えれば超スピードが理解できます。

522 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:36:51.39 ID:JigDkZuWg
稲DNAのSSR多型a〜hの分布
中国大陸:abcdefgh
日本列島:ab(c)
朝鮮半島:acdefgh

SSR多型はDNA配列の中の無意味な非使用部分ですから、
稲の性質には関係がなく、
DNA検査をしない限り、a〜hのどの型か知ることはできません。

よって、日本列島にabしか伝わっていないということは、
中国からの「ごく少量の稲」が日本で栽培されて日本列島へ広がっていった、
ということを意味しますね。

中国の田んぼ一面の稲を全部持ってきて、日本に植えると、
当然a〜hのより多くの種類が混ざってしまいます。

計算しやすいように、a〜h8種が同じ割合と仮定して、
1種類(b)だけ持ってきたいなら、1割る8を繰り返すので、
稲1本だと100%。
稲2本だと12.5%
稲3本で一気に1.7%
まで確率が下ってしまいます。

2種類(ab)が同時渡来にハードルを下げたら、1割る4になって、
稲2本で100%
稲3本で25.0%
稲4本で6.3%

523 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:38:01.53 ID:JigDkZuWg
これが何を意味しているかというと、

@ごく数本の稲
確率論的に、日本列島に伝わった稲は、
1〜3本の稲を最初におそらく九州西部で植えて、
それを栽培したものを増やして、日本列島全体へ広がっていった。

A伝来稲の作付けは1回だけ。
可能性としては、1本だけ伝来が2回(bのみなら12.5%)か2-3回(abなら25%)もありえますが、
100%vs12.5〜25%ですので、
1回だけと考えていいでしょう。
つまり、
初回に、bのみとすればほぼ1本。abとすれば1〜3本。の稲を九州の地に植えて、
それが比較的短期間に九州縄文人の間に広まった。

ので、
その後、中国から稲(a〜h)が渡来した時には、
稲?ああ、もううちの畑にはありますよ。
ということで、新たに作付けされることは無かった。

ということになりますね。

524 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:40:38.34 ID:JigDkZuWg
>>502
日本列島は緯度からしても野生稲は存在せず、
栽培稲が渡来するしかないわけですね。

栽培稲は籾が弾けない=自力では生息範囲が広がりにくい
=人間が栽培しないと広まらない
わけですから、
日本列島だと、稲のプラントオパールが出土する時点で、
人間が稲を栽培していたことは確実ということになります。

これが中国南部や東南アジアだと、稲の自生のものが存在するので、
プラントオパールが出土しただけだと、
栽培していたかどうかは言えない、という違いがあるわけですね。

よって、日本列島においては、
・SSR多型でabしかない=1-2本の稲から栽培開始して、少なくとも九州では一気に広まった
・原生稲がない=人間が栽培しないと広がらない
という2条件が成立するので、
方程式を解くがごとく、6000年前に岡山県で稲のプラントオパールが出土したなら、
自動的に、
6000年前には、九州全域+岡山県までの瀬戸内で、稲作が開始されていた、
ということになります。

525 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:46:38.84 ID:JigDkZuWg
そしてなぜに稲栽培が一気に広まったかを考えると、
同じイネ科の雑穀、つまりヒエ、アワその他が、既に栽培されていたからですね。

イネ科雑穀が栽培されていて、主食になっていたから皆抜歯していた。
栽培のノウハウが確立していた。

だから可食部分が大きくて、しかも保存が効く稲が伝来すると、
各地でもてはやされて、
最初の1本をあっという間に増やして、各地で栽培されたのでしょう。

あとは水稲が初回セットで伝来したか、後続の渡来人が伝えてくれたか、
(中国農民一人来てくれたら伝来なのでハードルは非常に低い)
はたまた温暖湿潤な日本列島であれば、縄文人が自然に開始したのか、
といったところになりますね。

526 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:48:47.25 ID:JigDkZuWg
朝鮮半島から稲が伝わる可能性があるとしたら、遠賀式土器の時ですね。

突帯文土器が近畿まで。北へ抜けられていない。
次の遠賀式土器が東北まで行った。

要するに、
3000年以上前に近畿より北で稲のプラントオパールが見つかれば、
縄文時代に既にabとも来ていて、縄文人の品種改良で稲北進を果たしていて、
遠賀式土器の北進を勢力的政治的なものと考える。

3000年以上前は北に稲がなかったのなら、
朝鮮半島の稲を入手した遠賀式土器勢力が北進したことになります。
その場合は、もともと縄文bがあって、そこに「弥生aのみ」が加わることになるので、
持ち込まれたaは当然1本1回だけ。
(2本だと確率が1/7=14.3%まで下がります)

そして近場なのに1本だけしかもたらさないなら、
集団集落としての渡来入植ではない可能性が高い、ということですね。

527 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:27:42.47 ID:JigDkZuWg
新町支石墓群
 24号支石墓
  木棺墓・低身長抜歯屈葬・突帯文土器壺
  左大腿骨頸部に柳葉形磨製石鏃が嵌入
  首級も埋葬

長野宮ノ前遺跡
 12号支石墓
 木棺墓
 遺体の胸部と思われる箇所から柳葉形磨製石器2とどめをさすように交差

志登支石墓群
 6号支石墓 打製石鏃6
 8号支石墓 柳葉形磨製石鏃4

三雲加賀石支石墓
 組み合わせ式木棺墓・翡翠管玉12
 柳葉形磨製石鏃6

井田用会支石墓
 隣接する石棺から柳葉形磨製石鏃1

528 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:29:17.32 ID:JigDkZuWg
支石墓には副葬品自体が稀なのに、
ごく一部に石鏃が入っていて、
埋葬状況がわかる2つは戦死に伴うものですから、

支石墓勢力、正確には糸島地方の支石墓勢力は、
柳葉形磨製石鏃勢力と交戦した可能性が高いということになりますね。

可能性だけならば、
朝鮮半島から渡って来た支石墓勢力が、元の朝鮮半島勢力と仲違いして、戦った。
とも考えられますが、

西北九州が九州支石墓の初発で、
壱岐対馬に支石墓が無いことからすれば、
まず西北九州に中国から直接渡来した集団が支石墓をもたらして、
在地の縄文勢力に次第に溶け込みながら、
ねずみ返しの普及による稲作再開と稲生産量の増加、
養蚕の開始、
などを普及させつつ北部九州を国家勢力として発展させ、
鉄資源と、中国へのルートを求めて、対馬海峡ごしにいわゆる異文化交流を開始した。
とも考えられますね。

またこの場合も、
九州西岸と朝鮮半島西南への、共に中国の同じ地域からの漂着渡来なので、
当然似通った部分が多くなる、ということにもなります。

529 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:31:15.94 ID:JigDkZuWg
>>489
太伯集団が、昭王の大規模東征南征に遭って、
台湾へ疎開、あるいは台湾からさらに南西諸島へ疎開中に、
台風などで遭難して、
その一部だけがなんとか島原半島などに漂着して、保護された。
とも考えられるわけですね。

であれば、集団の計画的一時疎開だったので、
蚕紙(休眠卵)や桑も持参していた、
可能性が高いことになります。

支石墓の主体が、当初の箱式石棺墓から、
木棺墓抜歯縄文人になっていって、
支石墓が消えて、
吉武高木遺跡には、木棺墓大王+甕棺墓近衛兵、の組み合わせになりますから、

支石墓+石棺墓=渡来直系勢力は、元々十数人や数十人の比較的少人数で、
重要人物が討ち死になどで死去したりして、

甕棺墓養蚕有力者の一部や、豊国系石棺墓の一部などとなって、
血縁者が吉武高木勢力や豊国ワニ勢力に溶け込む形で残ったのではないか、
と予想されますね。

530 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:00.48 ID:JigDkZuWg
>>476
大分県南部の内陸にも花崗岩の表層地質があるのですが、
ここにも豊後大野市の平石遺跡から甕棺墓が出土しているらしいですね。

甕棺墓の主要分布域からこれだけ離れた花崗岩の土地からも
甕棺墓が出る=養蚕していた、
ということは、
甕棺墓勢力=養蚕勢力というのは、九州縄文人が強く関与しており、
数千年の間、九州で暮らしていたので、九州の土壌を隅々まで知り尽くしていたということですね。

ただ、平石遺跡も対馬海峡から遠いので、輸送コストの問題で、
背振山系の甕棺墓密集地帯との競争に勝てず、甕棺墓がすぐに撤退したということでしょうか。

あとは九州の花崗岩土壌だと宮崎県の日向市ですかね。
甕棺墓があるとしたら。
対馬海峡からは最も遠いので、厳しいかもしれませんが。

ただ、甕棺墓養蚕とは関係なかったとしても、
やはり花崗岩の土壌だから、後の日向勢力が入植していったのでしょうかね。

531 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:44.71 ID:JigDkZuWg
甕棺墓も土器ですから、形式は似ていて、

刻目突帯文 ※原山支石墓群は刻目突帯文のみ、弥生なし

板付T

伯玄社

金海  ※吉武高木遺跡

と変遷していきますね。

<刻目突帯文〜伯玄社> 初期
<金海〜城ノ越〜汲田> 吉武高木王家
<須久〜立岩古式>   甕棺墓大型化・副葬品豪華に
<立岩新式〜桜馬場〜三津> 三雲井原大王時代

532 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:34:50.28 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代の甕棺墓分布域は、支石墓の分布域とほぼ同じですね。

糸島平野や糸島半島西側に分布していますし、
大友遺跡にも夜臼式のが入っていますが
高祖山を越えた東には、早良区にごくわずかに出土しているだけです。
また背振山系の南では、鳥栖市が東限です。

伯玄社時代になって、いわゆる後の「奴国領域」に入っていって、
背振山系を取り囲む甕棺墓密集地帯が早くも完成します。

新たに入っていった「奴国領域」が、
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡
ですね。

533 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:35:52.88 ID:JigDkZuWg
九州には、考古学的にも文献でも女性指導者が多いわけですね。

縄文時代については、
男性は、狩り、舟で漕ぎだす漁、畑の種まき前の掘り返し作業
女性は、採集、素潜り漁、畑の手入れ、土器製作
を主に分業していたはずですね。

そうなると、縄文時代の九州集落のほとんどは海に面していますから、
男性リーダーは、「舟で漕ぎだす漁」を指導する場面が多くなるので、
天候不順などで遭難する危険性が高かったわけですね。

ですので、集落周辺に留まっている女性を村長にしたほうが、
村長に不測の事態が起きる危険性が低くて、組織の動揺が少なくて済むので、
女系指導者社会となっていったわけでしょうね。

その流れのまま、弥生時代が始まって、
甕棺墓養蚕時代に突入したので、
今度は女性が養蚕機織りをすることになって、これまた女性が外貨獲得の稼ぎ頭になって、
女王制度が続く下地になったのでしょうね。

534 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:36:42.87 ID:JigDkZuWg
>>179
難升米が司馬懿に自らの故郷について話したことから、
伊邪國(伊耶國)が今の長崎県。


倭国の官の頂点が爾支(ニギ)、その下の地方官が卑狗(ヒコ)
倭国周囲の倭国領外の官が彌彌(ミミ)

その原型は、
伊邪國(伊耶國)の複数部族を束ねていた大首長が(爾)支

伊邪(伊耶) ノ (爾)支

伊邪國(伊耶國)と血縁同盟することで、
伊邪國(伊耶國)から見ると領外の女大首領が、

伊邪(伊耶) ノ (彌)彌

535 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:37:26.75 ID:JigDkZuWg
>>427
古代豊國に、西の古代出雲國と東の古代伯伎國があって、
八雷神がいて、
山鹿貝塚女王を共立していた。

それと同様に、
古代伊邪國があって、長崎県〜佐賀県福岡県西部〜熊本県北西部の範囲で、
複数部族がいて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支 を戴いていた。

おそらく男王だった、
「<伊邪(伊耶) ノ (爾)支> 之所都」 = 「伊都」

536 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:38:58.95 ID:JigDkZuWg
太伯集団は伊邪國の島原半島に漂着して、現地縄文人に保護された。

伊邪國縄文人は、伊都へ使いを出して、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に報告した。

文字が無いので詳細は伝わらず、数十年おきにあるいつもの単身漂着者と思われて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
からは、親切にしてやれ、とだけ命がきた。

一命をとりとめた太伯一行は、未知の島国で何の地理的状況もわからず、
とりあえずは生きていかなければならないので、
島原の縄文集落に混じって、生活を始めた。

島原の集落民が、ハツカネズミに苦しめられているのを見て、
ねずみ返しを作って倉庫につけてあげて感謝された。
稲は島原集落の畑にあったので、持参金属器を使って水田を作って増やした。

持参した桑枝を刺し枝して茂らせ、(桑は成長力が旺盛)
翌年に四眠蚕の休眠卵を孵化させて、養蚕を開始した。

養蚕の維持と、
助けてくれた島原縄文人に迷惑をかけないように、自分たちが食べる分の稲を育てるのとで年月が経過した。

537 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:39:48.33 ID:JigDkZuWg
年月が経過してようやく、
島原に漂着した太伯集団が何やら凄いらしいという噂が、
伊都の
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の耳に入り、
太伯集団のリーダーが召喚された。

ねずみ返し、養蚕、水田、金属器、が
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に伝えられた。

ここに伊邪國・伊都の弥生繁栄がスタートした。
菜畑遺跡。


刻目突帯文の出現については、
必ずしも水稲の開始と同期する必要はありませんよね。

もちろん水稲の開始と一緒に伊邪國で開始されたのかもしれませんし、
ねずみ返しの方が先に東方へ広まってから、
刻目突帯文は東方のどこかで誰かが始めて、それが西でも取り入れられた、
でもいいわけです。

538 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:40:45.20 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代に、
伊邪國の、伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の、山鹿貝塚女王系と、
が婚姻同盟して、

能古島に水軍を集結させてから、

>>479
>>532
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡にいたであろう、
「中間の縄文勢力」を挟撃したことになりますね。


能古島に水軍を集結させたということは、
「中間の縄文勢力」もまた、複数部族の寄り合いだったでしょうが、
その大首領が、
おそらくは那珂川流域の春日市の伯玄社遺跡にいたのでしょうね。

539 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:41:24.37 ID:JigDkZuWg
伯玄社時代になって、
北部九州は、
伊邪國の男王 伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の女王 伊邪(伊耶) ノ (彌)彌 によって治められていた。

伊都の範囲は東に広がり、
高祖山を挟んで、
東に、ひのもと(>>291
西に、ひむかい

540 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:05.22 ID:JigDkZuWg
数千年暮らしてきた九州の土地を知り尽くしていた
伊都上層から、
九州では銅や鉄を入手できない
だが半島南東部には鉄産地があるらしい、
と知った太伯集団が、侵攻を献策。

海峡を渡海しての侵攻が始まる。

541 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:46.43 ID:JigDkZuWg
投馬國を支配下に加えたことで、
旧来の縄文系寄り合い所帯から進化して、
より中央集権を高めた、
吉武高木大王が誕生。

ただし、吉武高木大王は、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
のみから産まれているので、

吉武高木遺跡には、木棺墓大王と、甕棺墓近衛兵。
石棺墓ワニは、対馬海峡管理など海上検閲を担当(大率の前身)

542 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:44:36.88 ID:JigDkZuWg
吉武高木大王の王族将軍が、
半島の鉄産地の占領を目指して出征したが、
鉄器の上流を完全占領するのはさすがに難航したため、

鉄資源の入手ルートだけは確立してから、
日本海沿岸統一へ変更。

金属製武器の優位性によって、中ノ浜遺跡などの日本海沿岸縄文勢力を制圧し、
丹後半島に花崗岩の真砂土地域を見つけて、
扇谷遺跡を建設運営。

吉武高木大王に至高の鉄剣を献上。

543 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:45:44.77 ID:JigDkZuWg
オー月ヒメの話は、つまり、

吉武高木大王としては、
国家として、租庸調を徴収したい。

しかし縄文時代からのしきたりは、複数部族の共存共生であり、
新たな中央集権に反対する、地方女性領主を、粛清したイベントがあったのですね。
おそらくは伊邪國の有力女性領主。

で、その土地を接収して、
養蚕して、稲作して、粟小豆麦大豆も育てて、
それらを国家として徴収したうえで、

>>482
神a派に渡して、燕国あるいは衛氏朝鮮と交易したわけですね。
青銅器を入手するために。

544 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 06:24:05.90 ID:EoVxFA56k
仮説としては、
縄文時代に文字は無いので、
北部九州の縄文人が、北部九州全体を呼んでいた地名がやまと。
やまとの中に、勢力名あるいは地名として、いざ、いずも、ほうき、などなど。
自分たちが何人かと聞かれたら、やまとびとであり、いざの人やいずもの人がいた。

そこに、倭(ワ)の倭人(ワじん)が渡来。
やまとびとに帰化同化して溶け込んでいく。

漢字も知っていたので、やまとの言葉や地名に宛てていく。
やまと に宛てたのが、倭。

だから「倭」に音読み訓読みそれぞれの意味ができて、
倭 ワ 中国にいた倭ワの末裔
倭 やまと 北部九州の縄文以来の地元自称名。

中国人からしたら、倭=ワで、太伯の末裔を連想させる。
倭人からしたら、倭=やまと。

史上初めて中国で「やまと」と発音したのが、師升で、
居合わせた後漢書記がそれを聞いて宛てたのが「倭面土」。
逆に、魏人張政が倭国に出張してきて、現地人が「やまと」と発音するのを聞いて、
宛てたのが「邪馬台」。

545 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 13:39:52.74 ID:EoVxFA56k
>>428
ワニが、伊都男系はもちろんですが、
太伯集団の男系も受け入れたことで、
弥生開始時に大きくリードしたわけですね。

その大成功先例があったので、ライバルのカモも負けじと
神b派や、甲羅派などを積極的に受け入れた、ということですね。
古浦遺跡&田〇山遺跡などはその代表的な例だったと。

八雷神はもとは豊國共立女王を立てて横並びだったのに、
渡来人を受け入れた=革新改革を行った、かどうかで、
主力2派と残り6派では、勢力の繁栄度が大きく変わったわけですね。

楽浪郡と組んだ奴族・奴国王はたまたまその狭間でバッティングして、
カモとワニで取り合いになり、
結果的にはワニ代表になったけれども、両勢力に大量に子孫を残したと。

また伊邪國の複数部族についても、
元々は共立王を立てていたのでしょうけれども、
リーダーの爾支部族(本来は末蘆國〜伊都西部)だけがどんどん偉くなって、広域大王になった。

もはや豊國や神a派や各地の有力部族が外戚を狙っている状態で、
伊邪國の爾支系以外の他部族は、取り入る隙すら無くなって、
単なる地方の辺境集団群になったということでしょうね。

546 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:34:33.12 ID:EoVxFA56k
>>498
抜歯についてです。

歯医者さん、というのはもちろん比喩表現で、
集落ごとの「抜歯方式の伝統」とか「歯列矯正知識」とかの意味ですが、
外科手術ではありますので、
抜歯担当者は、一人あるいは少数の「熟練者」に行ってもらいますよね。
おそらくシャーマンが、祭祀やら祈祷やら薬草処方やら何やらの多数業務の一つとして、
抜歯も担当していたのでしょう。

平安時代には巫女が抜歯を行っていたとの記録があります。
僧医が抜歯した記録は無い事から、
抜歯というのは、神社管轄、
つまり弥生時代(あるいは縄文時代からの知識も引き継いで)からの伝統的治療法であったということでしょう。

女性が行っていたということは、意外と筋力の問題ではなかったのですね。

縄文時代であれば、
患者を寝かせて頭を固定した上で、狙いの歯に木の棒の先端を当て、
大きな石でコツンと叩いて脱臼させる、角度などのコツがあったのかもしれませんね。

547 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:35:23.01 ID:EoVxFA56k
天皇や藤原氏も、民間の女性歯科医に抜歯してもらっているのは、
抜歯経験人数の差でしょうね。

内科(薬の処方など)は、知識人である僧医が良かったのでしょうけれども、
外科(抜歯)は、一般庶民の歯をいつも抜歯している巫女歯医者さんの腕が良かったのですね。

そういう目で見ると、江戸時代までずっと抜歯痕が認められますので、
「風習的抜歯」は無くなったけれども、
親知らずが大きかったり斜めに生えて痛い時とか、虫歯などの時には、
「治療的抜歯」というのは長らく続いていた、ということでしょうね。

548 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:36:10.02 ID:EoVxFA56k
時代を縄文弥生に戻すと、
抜歯の基本は、
まずは、歯が大きい上顎の、臼歯群の歯列を整える、
ことだったでしょうから、

縄文時代は、上顎の両犬歯(11-12歳)
弥生時代は、上顎の側切歯(8-9歳)
が生えた時点で、必要に応じて抜歯することになります。

抜歯することで、歯槽骨のスペースを空けて、臼歯群が綺麗に生えそろうのを促したのですね。

下顎の抜歯については、その後の咬合に対応して決めていく。
上顎では、たまに第三大臼歯(親知らず)がトラブルを起こしたときには、
抜歯を追加したのでしょう。

549 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:37:48.60 ID:EoVxFA56k
台与の女王共立が16歳。
武士の元服が12〜16歳。
ですし、
精通や初潮の年齢からしても、

12歳で上顎の抜歯、をして、その後に大人の仲間入りですね。

と、いうことは、
縄文系上顎犬歯抜歯なのか、弥生系上顎側切歯抜歯なのか、は、
12歳までに所属していた集落、
つまりは産まれた故郷の集落によって決まる、ということになりますね。

例えば土井ヶ浜遺跡だと、
基本は上顎側切歯の抜歯なわけですが、
少数の、上顎犬歯抜歯の人がいます。

上顎側切歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡の地元民か、もしくは同じ弥生系抜歯集落出身の人。
上顎犬歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡以外の、縄文系の歯医者さんがいた集落、から嫁入り婿入りしてきた人、ということになります。

同様に、
勒島遺跡で確認された男5女6の頭蓋骨のうち、
女性2体に上顎両犬歯の抜歯が認められた、とのことですが、
これもつまり、
北部九州から燕系神a派の所に嫁入りした、おそらくワニ(もしくはカモ)の女性でしょうね。

550 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:38:54.19 ID:EoVxFA56k
土井ヶ浜遺跡の上顎抜歯を詰めて考えると、

犬歯抜歯は女性が多いので、
外部の縄文系抜歯集落からは、
婿入りしてくる人数よりは、嫁入りしてくる人数が多かった。

側切歯の片側のみ抜歯は、
毎回両側抜歯しなくても、片側だけの抜歯でそれなりにスペースが空くので、
それで両側の第三大臼歯が生えてくることが多いのだ、
という、渡来系の新知識と思われるのですが、

縄文系の犬歯抜歯についても片側抜歯があるので、
土井ヶ浜遺跡と、婚姻を結んでいた先の縄文系集落の歯医者さんにも、
片側だけでも大丈夫な場合が多い、という知識が伝わって、
犬歯で片側抜歯、という選択肢が増えたのだろう、
と考えられるわけですね。

551 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:41:21.18 ID:EoVxFA56k
>>493
日本で江戸時代まで治療的抜歯が続いていたのと同様に、
中国でも治療的抜歯は重要な治療方法として続いていたはずですね。

ただし、社会が発展して分業制が進むと、
歯医者さん、でないと、抜歯の細かいノウハウがわからなかった、
可能性が高いですね。

よって、これまで推測された各派の渡来集団であっても、
歯医者さん(シャーマンだったり医師だったり)が、必ずしも同行していたとは限らなかったわけですね。

そう考えると、歯医者さんが同行したのは、
太伯集団 →支石墓みんな上顎犬歯抜歯だから?
神a派 →勒島遺跡に側切歯抜歯が無いから?
甲羅派 →古浦遺跡は上顎犬歯抜歯だから?
徐福集団 →土井ヶ浜遺跡で側切歯抜歯〇

552 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:43:59.66 ID:EoVxFA56k
渡来一世は故郷中国での思春期に上顎側切歯抜歯をされていたかもしれませんが、
歯医者さんが同行していなかったのですね。

例えば太伯集団だと、島原の縄文集落に同居して、
周りの島原縄文人達が、縄文歯医者さんの抜歯で平穏に過ごしているのを見て、
二世以降は郷に入りては郷に従って、島原縄文歯医者さんに抜歯してもらったわけですね。

古浦遺跡の場合はもっとわかりやすくて、
母系は田〇山遺跡のカモ女性達であって、子供を育てるのは母親ですから、
母親がカモ系なら、当然カモ系の縄文歯医者さんに抜歯してもらった、わけですね。

553 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:47:24.89 ID:EoVxFA56k
徐福集団には、徐福百工が同行してきましたから、
歯医者さんもいて、
上顎側切歯抜歯や、片側のみ抜歯、という歯列矯正新知識をもたらしたのでしょう。

よって、上顎側切歯抜歯のルート=徐福集団の軌跡、とも仮定されますね。

広田遺跡は体格の違いからして、おそらく福建省か台湾で雇った水夫集団が一緒に渡来したのでしょうが、
歯医者さんは必要なので、
広田遺跡からの求めに応じて、徐福集団の歯医者さんが弟子を指導して、
上顎側切歯抜歯を伝授したのでしょうね。

ちなみに、
「山」の文字が刻まれた貝符が出土しており、
後漢代の隷書とのことですから、
>>389
奴国王から贈られたものでしょうね。

宮の本遺跡も上顎側切歯抜歯。

こう考えると、土井ヶ浜遺跡は、ゴホウラ貝釧の製作販売だけでなく、
歯列矯正医術も売りだった可能性が出てきますね。
歯医者さん集団だったかも。

554 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 22:00:02.78 ID:EoVxFA56k
伊都説で検討しただけでも、大陸の戦乱のたびに、
呉、斉、燕、奴、の貴種・技術者・知識層、が渡来してきているわけですね。
日本列島まで逃れてくるにはある程度の財産や技術能力がないと辿り着けない。
東アジア各地の国家における優秀な上層集団が集まるまさに理想郷ですね。

要するに、
戦時だと、男が強いけれども
平時だと、女には頭が上がらない。

ワニやカモといった縄文女性は強くて、
次々逃げてくる東アジアの男たちを受け入れて、尻に敷いてきたわけですね。

一万年熟成した縄文社会を受け皿として、
東アジアの優秀な人材が流れ込んできた。

ノーベル賞受賞者を多数輩出、
ものづくりニッポン、
日出づる国、
というのは、
こうした優秀な男系女系が濃縮されたことで産まれた蓬莱であり黄金の国ジパングなのですね。

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