■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 703 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:18:23.59 ID:kFppqJVaI
- その視点で平原遺跡を見てみますと、
1号女王墓は割竹形木棺墓で、その埋葬方向の直線上には吉武高木遺跡があるんですね。
さらに、平原遺跡の西の大柱、西の鳥居2つ、東南の大柱、が、
1号墓を挟んで一直線に並んでおり、
これもまた吉武高木遺跡を指していますね。
この吉武高木遺跡への軸線から「日の出」を迎えるのが、「春分の日と秋分の日」。
平原女王卑弥呼は、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族であり、
縄文時代からの舟葬アマの勢力。
ただ、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族が陸上生活に移行してから300-400年ほど経過しているので、
卑弥呼が死去後に流れ着きたかった祖地は、
吉武高木遺跡であった、ということになります。
つまり吉武高木遺跡とは3世紀倭女王にとって権威の根源となる聖地であり、
魏志倭人伝に記された伊都国の里程到達地点とは、吉武高木宮殿であったのだ、
という説を、
卑弥呼自ら強力に指し示していることになります。
総レス数 719
533 KB
新着レスの表示
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver.24052200