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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 714 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:10:59.02 ID:wdeeas71O
- その視点で、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓を見てみると、
吉野ヶ里遺跡最初期の、弥生時代前期後半の甕棺墓は、
中央列が見事に対馬海流と同じ角度で並んでいるのですね。
その角度は、どちらかというと吉武高木遺跡のものよりも、田熊石畑遺跡のものに近いように見えます。
それが前期末から中期に入ると、その列が崩れて、いろんな方向に向けて埋葬されるようになります。
つまり、吉野ヶ里遺跡を最初に開始したのは、北部九州沿岸のアマであり、
おそらくは豊国領域のアマ。(田熊石畑遺跡からなら結局は吉武高木伊邪伊都系列ですが)
その後養蚕で栄えて、数世代もすると、有明海に面した陸上生活者クニとしての性質が強くなり、
対馬海流を忘れた、
ということですね。
その後のいろんな方向にも意味があるのかもしれませんが。
それぞれの祖地(本貫)とか。
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