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【メル】グランドファンクレイルロード【ドン】

1 :名盤さん:02/05/31 20:38 ID:Rvx/D1IU.net
グラファンについて語ってください。
個人的には1st〜3rd、LIVEが好き。それ以降はだめ。

252 :まっくん:03/08/22 19:24.net
テリー達は66〜7年に何曲か中西部でのローカルヒットを楽しんだ。
そのヒット曲の中にはTop 40のリメイクもあった。
彼らはまたYardbirdsやThe Rolling Stonesのような
新しいBritish Invasionのバンドにも素材を求めた.
彼らはYardbirdsのBetter Man Than Iと
The Rolling StonesのLady Janeをレコーディングしている。
彼らはこの二つのバンドを一度に取り入れ
ドンとマークにとっては名声の何たるかを味わう最初の経験になった。
「オレはハイスクールに通いながらテリーのバンドで
国中を旅していた」ドンが回想する。
「テリーはまったく凄いプロモーターだった
オレ達はjazz MastersからThe Packへと変わってから
たくさんのローカルな成功に恵まれた
オレ達は上手くやった。テリーには疑いもなく
あらゆる物から最良の利益を得る勘があった」
しかしテリーが以前ラジオDJの束縛から逃れたがったように
彼は次第にThe Packを率いるのに不満を募らせるようになり
バンドから抜けたがった。
マークがギタリストとして再び加わった67年初め
テリーの感情はますます露骨になっていった。
にもかかわらずテリーは未だにリードシンガーであり
その事がマークには受け入れられなかった。

253 :まっくん:03/08/22 19:29.net
72年のNEWSDAYの記事でロック批評家のRobert Christgauが
その時の状況をまとめている。
「バンドはとても成功したが よくある利己的ないさかいが
それを邪魔した。テリーはマークのファン達がふさわしいと
考えるよりも前に出すぎていた。テリーは利口で
マークもドンも嬉々として彼に従い彼の言うことを聞いていたが
二年もしないうちに激しい憎悪がバンドを引き裂いた」
テリーはソロになったが悪戦苦闘した。マーク、ドン達は
バンド名をThe Fabulous Packに変えた(後日また
The Packに戻している)。マークはボーカルを担当し
キーボードにクレイグを加えた。しかし彼らもまた悪戦苦闘した。
マークは曲を書き始めていたが バンドはまだ多くのカバー曲を
プレイし続けた。Land Of A Thousand Dances,Harlem Shuffle,
モータウンヒットのCome See About Me,
Jim Hendrixの曲までやった。彼らはそれをNext To Your Fire
のタイトルでシングルとしてレコーディングした。
問題は まったく成功しなかった事だ。
「John Rhysがオレ達のためにThe Pack名義の
アルバムを作ってくれた」マークが回想する。
「彼はキャピトルレコードとプロダクションの取引があった。
そのアルバムにはHeartobreakerとAre You Readyが
含まれている。多くの曲の中でその2曲はGFRの最初のアルバムに
収録された。彼はThe Packのアルバムをリリースしてくれるよう
キャピトルに提出したが突き返された」

254 :伝説の名無しさん:03/08/23 06:28.net
(つづく)

255 :まっくん:03/08/23 20:37.net
マークとドンはR&Bからより多くの音楽性を得ていた。
その他のどんな音楽も彼らにとってはカッコよくなかった。
彼らはCape Cod(木造住宅?地名?)の外でほとんど凍死しそうに
なったり ボストンで僅かな稼ぎの仕事にありつうこうと
奮闘しながら やり方を変えねばならないことを悟った。
彼らは 新しいベーシストを見つけ Blue Cheer,
The Jimi Hendrix Experience,畏怖すべきCream(彼らは
68年末に解散していたが)のようなパワートリオに
バンドの編成を変えることを思いついた。
「HendrixやCreamはなんかはblues-basedのバンドだ
彼らはスリーコード進行から逸脱しなかった」
ドンが説明する。「彼らは音量を上げ 態度を変えて
彼らのロックの詩情を表現した。オレ達はR&B-basedだ。
オレ達はR&Bを指向して それをもっと刺激的にしたり
それと同じことをしたり といったやり方を選んだ。
それが彼らとオレ達を分けているところなんだ」
サウンドはしっかりしてきたがThe Fabulous Packの連中は
経営能力皆無で彼らに努力を促してくれる人間もいなかった。
「テリーと縒りを戻して新しいバンドを上手くスタートさせて
くれるように頼まないか」とドンが提案した時にマークは
尻込みをした。ドンはテリーに手紙を書いた。
「ドンがその手飼いを書いた」マークが言う。「オレはそれに
関しては何もしていない。ドンはオレに 自分はずっとテリーと
接触を保っていて奴は音楽業界にいくつかコネがあり
オレ達のバンドの為に何かしてやれると思っている、と言った。
テリーへの手紙は書かれた。ドンの家の前の車の中でテリーについて
話したのを覚えているよ。オレ達は何を失ったんだ? オレ達は
ここから何処へも行けないじゃないか みたいな話をした。

256 :まっくん:03/08/23 20:42.net
テリーは ドン、マーク、そして新しいベーシストのメルが
どれほど頑張っているかを見定めるために ニューヨークから
フリントへ戻ることを承諾した。メルはほんの17才の子供で
バイク好きの元リズムギタリストだった。彼はQuestion Mark
& The Mysteransというグループの後期に少しの間ベースの
穴を埋めた。そのグループはしばらくして後、96 Tearsという
大ヒットを放っている。メルはマークと顔見知りで マーク達に
Musicians Union Hallで3人でリハーサルをしようと頼まれた時
彼は大喜びした。

「それは正真正銘の本物だ」テリーは初めてトリオを聴いた時の
印象を語る。「しかしその日 私は自分の聞いたものが何か
分からなかった。私が言っているのは 聞こえてくるものが何か
分かる手がかりを持っていなかった という意味だよ。
そのパワーはまったくもって完全に並外れていた。
勿論私はCleamを聞いた事がある。Blue Cheerも聞いた。
こんなのは今までに聞いたことが無かった。


  (明日ぐらいで訳し終わる・・・・かな?)

257 :伝説の名無しさん:03/08/23 22:09.net
↑楽しみにして読ませて貰ってます。
感謝です。

258 :まっくん:03/08/24 20:47.net
この時テリーは未だキャピトル所属のシンガーだった。
彼は69年初めに自身のレコーディングでCleveland Recording
CompanyのエンジニアKen Hamannと仕事をした。
テリーはバンドのマネージメントを引き受け マーク、ドン、メルに
バンド名をGrand Funk Railroadにするよう言った。
彼らは契約にサインをしテリーはマークの作品2曲
(そのうち1曲はHeartbreaker)をレコーディングするため
69年4月に彼らをCleveland Recordingに連れていった。
「あれは自分が書いた最初の曲っていうだけのものさ」マークは
彼の気まぐれなバラードHeartbreakerについてこう語る。
「以前、Dick Wagner & The Bossmenにいた頃に書いたんだ」
リストにあるHeartbreakerのレコーディング日時は69年4月16日。
Ken Hamannは テリーが今度はGrand Funk Railroadという
バンドとともにクリーブランドのダウンタウンにあ彼のスタジオに
戻ってきた時のことを回想する。「自分はThe Packとは率先して
仕事をすることはなかった。しかしテリーが彼らを連れてきて
デモを作ってくれるよう頼んできたとき テリーはすでにキャピトル
レコードのプロデューサーとしてリストに載っていることを確信した」

259 :まっくん:03/08/24 20:50.net
Hamannは彼のスタジオで何曲かシングルをレコーディングしていた。
The OutsidersのTime Won't Let Me Human Beinzの
Nobody But Meを含むキャピトルのシングルはヒットしていた。
The Lemon Pipersのヒット曲Green Tombourineもまた
Cleveland Recordingで作られた。にもかかわらずテリーがここで
歌手として作ったレコードはヒットしなかった。Hamannは
テリーが気に入っていた。そしてテリーにはプロデューサーとしての
可能性があると思っていた。
「彼には材料が必要だった」キャピトルの幹部連中を動かすために
Humannは指摘し そしてこのレコーディングエンジニアは
テリーを助けたい気持ちになった。
「最も初期のGrand Funkの録音は8トラックマルチで制作された」
彼は回想する。Hamannはバンドのレコード契約にけりがつくまで
スタジオ料金の請求を延期することをテリーに約束した。
「おお!何と慈悲深いことか!Hamannは私と知り合いという
事だけでそのように取りはかってくれた」テリーは言う。
テリーはキャピトルの人々にデモを聞かせた。彼は 最初に
会社から待たされた上シングルを出すことだけを提案された。
テリーは彼らに それでは仕事にならない、と言った。
彼はGFRのフルアルバムを出す契約を取り付けねばならなかった。
テリーは言った。「私はクリーブランドに戻って残りの8曲の録音を
始めたいんだ。メンバーはもう準備が出来ている。このデモが
気に入ったのなら彼らを好きになるはずだ。予算の裁可さえ
無いのなら 私はクリーブランドに戻ってこのバンドのために
自分の全てを投げうつ」

260 :まっくん:03/08/24 21:04.net
周知の通り物事はうまくいった。テリーはマーク、ドン、メルを
従えてHamannのスタジオに入った。そして彼らは
マークによって書かれた残りの曲をレコーディングした。
In To The Sun,Can't Be Too Long,Time Machineなどだ。
レコーディングは6月に終わった。そしてすぐ いくつかの大規模な
野外ロックフェスティバルで世界にお目見えするための準備にかかった。
出演料はタダだがとにかく目立つことが出来る。
「その後の曲は真新しいAmpexの16トラック2インチレコーダーで
制作された」Hamannが回想する。「そいつは高価な機材で
2万ドルはした」バンドのデビューアルバムであるOn Timeは
8月にキャピトルからリリースされた。そのLPの10曲は
合計52分にも及びその時代のアナログ盤としては注目すべき長さだった。
33年が過ぎた今 このCDのリスニング体験は
オリジナルのアナログ盤とはまったく別モノだ。
このようにしてGrand Funk Railroadは始まった。

by Steve Roeser

  これにて1stは完結
  かなり強引な脳内変換もやってますのでCDを持っている方は
  原文もサラッと見てみてください
  2ndも出来れば近いうちに・・・

261 :伝説の名無しさん:03/08/25 12:41.net
ボックス売ってるけど大きさの割に4枚組・・・?

262 :伝説の名無しさん:03/08/26 12:24.net


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  :  〃\  ̄ \  :\ / \ \///  ∵ ∴
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263 :まっくん:03/08/27 19:43.net
>>252
テリー達がYardbirdsやThe Rolling Stonesのカバーをやってたくだり
びみょーにズレて誤訳してました
「彼らもまた少なくともこの2つのバンドには寛容であった」
ぐらいな感じかな?
アメリカのチャートを侵略しまくっているBritish Invasionの連中だが
この2つのバンドはまあ許せるか・・・・みたいな

264 :めっくん:03/08/30 08:19.net
保守あげ

やっぱアニマルズを聞いて
孤独の叫び(クサイけどこの邦訳スキです)を
レパートリーにしたんですかね?


265 :伝説の名無しさん:03/09/01 22:58.net
ブートのビデオ買ったんだがだから買わないか?w

266 :伝説の名無しさん:03/09/02 16:03.net

         .┌┐
        / /
      ./ / i
      | ( ゚Д゚) <たまにはageてください
      |(ノi  |)
      |  i  i
      \_ヽ_,ゝ
        U" U




267 :伝説の名無しさん:03/09/03 07:35.net
アニバーサリーBOXってどうですか?

268 :伝説の名無しさん:03/09/05 23:23.net
age

269 :伝説の名無しさん:03/09/11 15:43.net
ライナー邦訳キボン

270 :まっくん:03/09/12 20:11.net
よーーーーーうやく規制解除! 2ndライナー一気に逝きます

「実のところオレは常々British Invasion(英国の侵略)という奴が
一般的に言われる事に少し憤慨しているんだ」GFRのマークは言う。
「何だって!? ブリティッシュの連中がしたのは
アメリカのRock 'n' rollの模倣だ。別に侵略なんかしてない・・・
The Beatlesの影響を自分も受けている事は分かっているけどね」
GFRは今まさにアメリカの若者文化への侵略を開始しようとしていた。
しかし彼らの攻撃計画は自国内に限られていた。実のところGFRは
無名から1969年のロック界を震撼させるには至っていなかった。
彼らは貧しい労働者の街であるミシガン州フリントを抜け出したのだ。
マネージャーのテリーはかつて同じバンドで過ごしたマーク達の音楽を
多くの聴衆にのもとへ届けるための目算を立てていた。
マーク、ドン、そしてメルは野心にあふれ 証明すべき何かを持った
パワフルなロックトリオだった。音楽はすでにずっと彼らの人生の
大きな部分を占めていた。それは天職、使命とも言えるかも知れない。
今や彼らは彼ら自身の仕事を為すことを望んでいた。

GFRとしての1stアルバムはOn Timeと題され準備万端整い69年8月の
リリースを待っていた。テリーはすでにもう一枚アルバムを作るために
数ヶ月間彼らを録音スタジオに連れ戻す計画を立てていた。
しかしバンドは まず外へ出て人々に彼らの資質を見せるべく
出来るだけ多くのステージをこなさなければならなかった。
アメリカはGFRを認知しつつあった。

271 :まっくん:03/09/12 20:13.net
マークは回想する。「夏のポップフェスティバルの現場を経験し
オレ達なんか聞いたことがない聴衆のリアクションに触れてみて
彼らはただ音楽が聴けさえすればいいって言うことをつくづく納得
させられた。そしてオレ達はオレ達自身の個性に気がついたんだ」
Atlanta Pop FestivalでのGFRの激しいオープニングステージは
強烈な印象を与え 次の二晩も演奏を依頼されるほどであった。
続いてTexas International Pop Festival, West Palm Beach
Music Festval, Strawberry Fields Festival in Canada, で演奏して
取りわけこのバンドに対する興奮は 明らかに相当な熱気を帯びて
盛り上がっていった。

60年代後半を振り返ると ロックビジネスやレコード業界を支配する
原理や方法論は現代とは違っていた。当時はひとつのバンドが
一年の内に1枚以上のアルバムを作るのはそれほど珍しくなかった。
GFRの場合 最初の2枚のアルバムは6ヶ月の間を置いて録音された。
「当時こんなやり方をしてた」ドンが言う。「オレ達はスタジオに入り
1週間で1枚のアルバムを作った。実際それをミックスして
完パケまでいったよ。その前にたくさんリハーサルをしたけどね。
オレ達はスタジオ入り前の1ヶ月をリハーサルと曲作りに費やした。
しかしオレ達はスタジオ入りして1週間でアルバムを完パケすると 
すぐ旅に出たもんだった」ドンは回想する。「テリーはオレ達に
多作であることを望んでいたと思う。そしてキャピトルは明確に
それを望んでいた。契約書に年間2枚のアルバム制作があるのは
こんな事情さ」

272 :まっくん:03/09/12 20:16.net
GFRの2ndアルバムはもう少しで無くなるところだった。
もし神の御心による介在が無ければ アルバムOn Timeがこのバンドの
唯一の記録となったことだろう。しかしマークは69年の夏の間
ガーディアンエンジェルの見張りをつけなければならなかった。
「マークがたった独りで あるバイク集団と話しているのを思いだすよ」
テリーが回想する。「連中はマークの長い髪をかっらかっていた。
彼は窮地に陥り相当ひどく殴られた。泥まみれで見分けがつかない
ほどにね。連中は彼の髪の毛を一握り引っこ抜いた」テリーはこのひどい
事件の結果マークが負った肉体的な目立った損傷を誇張してはいなかった。
しかし全ての仲間達にとって幸運だったことにマークはその日を生き延び 
比較的すぐに回復して 10月にはバンド仲間とスタジオに戻り
レコーディングを再開出来るまでになった。

「曲作りの必要性が出てきたんだ」ドンは彼とマークが以前いたバンド
The Pack(別名The Fabulous Pack)がついに解散し GFRが
まさに始まろうとしていた過渡期の68〜69年について話していて
こう思い返す。「オレ達はThe Packというバンドに在籍して
こんなふうに達観した。安定したギャラのためにカバーバンドに徹し
何者にもならないか もしくはオレ達自身の才能を始動させるか、
のどちらかだ。オレ達自身の素材で挑戦してみようじゃないか とね」
彼らはGrand Funkとして2番目の道を選択した。
「どこからオリジナルのネタを仕込んでくるかって?
マーク君、シンガーであるキミからだよ」
これ(歌手自身が曲を書く事?)がGFRがデビューした当時の状況で
オレ達が目をつけていたやり方だった、とドンは言う。マークは
オリジナル曲を書く事を期待され このギタリストはそれに同意した。

273 :まっくん:03/09/12 20:18.net
ドンは回想する。「フリントのMusicians Union Hallで3人で
練習に励んでいる時、オレ達はこんな風にマークに取り入った。
オレ達には曲が必要だった。オレとメルはよくマークに言ったもんだ。
『オレ達はマクドナルドへ行ってお前にビックマックを買ってくるよ。
オレ達が戻ってくる頃にはいいアイディアがいくつか浮かんでる
だろ?(笑)』そしてオレ達が戻るとヤツは何かを思いついてるんだ。
『コイツはどうだい?』ってね」マークはいつも3人で進められるような
いくつかのリフや音楽的なアイディアを考え出した。

彼らは大慌てで曲作りに励んだので 必然的にあちこちから少しばかり
無断借用をし事をドンは認めている。On TimeのB面1曲目Into The Sun
(The Pack時代はGetting into The Sunと呼んでいたが)はいくらか
「Steppenwolfもどき」だとドンは自認する。おそらくInto The Sunの
メインのギターパートはそのグループの初のビッグヒットである
Born To Be Wildから思いついたのだろう。しかしGFRはそこに
彼ら自身のオリジナリティを交えている。

274 :まっくん:03/09/12 20:20.net
GFRの2ndアルバム(シンプルにGrand Funkと呼ばれている)の
1曲目は 将来を考え70年代に進んでいこうとする前のThe Pack末期の
感覚を表現している。マークが書いたGot This Thing On The Moveを
マークとドンはThe Pack時代にプレイしていて 後にメルに教えた。
「メルはまったく大した奴だった」ドンは彼らの若きバンド仲間が
10代だった頃を思いだして言う。「メルがThe Packを見に立ち寄った
時のことを覚えているよ。まるでThe Packのファンのようだった。
彼はいくつかの違った場所にも立ち寄ってくれた。Bay City
(ミシガン州東部の?)でも彼はいつも来てくれた。オレが彼を初めて
知った時は こんなガキが聴衆の中にいるぞって言う感じだった」
アルバムGrand Funkはリリース当初からそのジャケットの色によって
ファンはRed Albumと呼んでいる。皮肉にもそのジャケットのメルの
イメージはマーク、ドンよりもずっと目立っている。あごひげを生やした
メルは中央右寄りに背が高く描かれ 波打つ水玉のシャツとダラリとした
黒っぽい帽子を身に付け 彼の強力なベースギターを弾いている。

「心に留めておいてくれ」テリーが指摘する。「現在heavy metal
として知られる音楽を形作ったのは あの当時GFR, Black Sabbath
Led Zeppelinだけだった。それらが無かったらheavy metalは
消え去ってしまっただろう」

275 :まっくん:03/09/12 20:22.net
マークの書いたParanoidが2ndアルバムのセッション中に録音された。
(この曲はInside Looking Outとともに最もへヴィで激しいGFRを
象徴している)Black SabbathにもまたParanoidという曲があり 
彼らの2ndアルバムのタイトルになっている。しかしそれは純然たる
偶然である。「他にParanoidっていう曲があるなんて知らなかったよ」
マークは言う。「オレ達はいつもラジオをよく聞いていたわけじゃ
なかったからね」しかしながら10分近いファイナルトラックの
Inside Looking Outは連中がラジオでよく聞いていたに違いない曲だ。
Eric Burdonによって歌われたのが数年前の1966年で アメリカで
Top 40 ヒットになった。このブリティッシュグループはThe Packでも
称賛されていた。GFRバージョンをその強烈なべースパートで煽り立てた
メルはずっとAnimalsのベーシスト Chas Chandlerのファンだった。
The Packが習慣的に他のグループのカバーをしたように 2ndアルバムは
この曲でしめくくり(カバーをする事の?)GFRの先例となった。
それは彼らの多くのカバーの中で最初のものであり成功に恵まれた。
GFRバージョンのInside Looking Outはイギリスのシングルチャートで
40位になり結局イギリスで最も成功した記録となった。

276 :まっくん:03/09/12 20:24.net
「我々はこうしたセッションのための 適切で効率の良いシステムを
すでに作り上げていた」テリーが信頼するレコーディングエンジニアの
ケン・ハマンは語る。(Cleveland Recording Studioは
オハイオ州Cleveland Euclidのダウンタウン1515にあった)
「なぜなら私はすでにJames Gangなんかと仕事をしていたからね」
The James Gangの1stアルバムはJoe Walshがフィーチャーされ
前年にCleveland Recordingで制作されていた。
「ケンはオレが思っていたよりずっとオープンマインドだった」
ドンが語る。「彼のアプローチはこんな感じだ。『これはrock 'n' roll
なんだよ。いつも伝統的な方法でやる必要は無いよ。どうしたら
マークの金切り声をあげるボロボロで凄まじく卑猥なギターサウンドを
このWestのアンプから出せるだろう。どうやってコイツをテープに
収めようか?』彼は挑戦する事をためらわなかった」
マークとドンは(ケンに)指摘した。「ボロボロでイカした
このMessengerのギターを弾くのさ。そうすればそういう
サウンドが出せる。あとワウワウペダルも使うよ」
現在 Euclid通りの以前Cleveland Recordingがあった場所に行き
さらに北へ数ブロック歩くとRock And Roll Hall Of Fameがある。
そこで 栄光あるdirty soundを紡ぎだしたマークのMessengerの
ギターを見ることが出来る。

277 :まっくん:03/09/12 20:25.net
GFRについての書籍An American Bandの著者Billy Jamesは
マークの曲であるIn Needについて「一夜にして得た成功に対して
彼らが面と向かって受けたバンド仲間や知り合いの反応である」
と言っている。Jamesはまたその著書の中で LPリリースの数ヶ月後
(69年のクリスマスの数日後)バンドはHugh Hefner司会のTV番組
Playboy After Darkで Red AlbulmのA面からPlese Don't Worryと
Mr.Limousin Driverの2曲を口パクでやった と述べている。
「オレ達は まだ製作中の曲は決してショウでは演らなかった」
マークは言う。知っての通りオレ達はレコード盤になっていなければ
決してそれを試してみようとはしなかった。
Plese Don't WorryはRed Albumでマークとドンの両方の名前が
クレジットされた曲のうちの1曲だ。多くのGFRナンバーが
書かれたが マークとドンの共作はこの曲が一番最初である。

スタジオアルバム第二弾Grand Funkは69年10月にほとんど
レコーディングされ その2ヶ月後には店頭に並んでいた。
On Timeほど長時間ではないがRed Albumはそれでも50分近くあった。
今やGFRは90分近いコンサートの為のオリジナルレパートリーを持ち
彼ら自身がメインのショウをやる準備が整った。一方 DJ出身の
テリーは 彼のラジオ界での影響力をレコード業界のために行使した。
「一晩に2時間は電話をかけていた」テリーは言う。「おそらく5人か
6人だったか 国内中の主要なDJ達の専有回線にね。そして彼らを
おだて上げて頼んだ『Into The Sunをかけてもらえないかい?
私からのリクエストとして。それかInside Looking Outを・・・
どうかオンエア用のレコードを買ってくれないか?』こういう内職を
昼も夜もたくさん続けたよ」

278 :まっくん:03/09/12 20:27.net
ドンは 初期GFRのサウンドが素朴であればあるほど、そして制作が
早急であればあるほど これらのアルバムには自分たちの個性がはっきり
出ている、と感じている。そしてドンは自分の関わりを誇りに思っている。

「Clevelandはいつも中西部を出てNew Yorkへ向う第1歩だった」
ドンは言う。「そしてそこには明らかに音楽に対するより進歩的な姿勢が
あった。ケンのCleveland Recordingには広いレコーディングブースが
あった。そして楽器のすぐ近くにマイクを置かないようにしていた。
マイクを遠くに離せば部屋の鳴りを収録することが出来たんだ。
そしてテリーは後ろに立って全体を聞き編曲した。オレ達はケンに
とにかくデカいギター、ベース、ドラムサウンドを望んだ。正直なところ
London風やNew York風やL.A.風にしようと試したけど やっぱり
少しばかり中西部風になってしまった。でもオレ達は ささやかな
自分たちの居場所を切り開いた。テリー、ケン、マーク、メル、ドン、
この5人の組み合わせ、全体の人間関係は本当の家族のようだった。
そしてオレ達がそれを築き上げた」
「On Timeは実験のようなものだった」メルが語る「オレはRed Albumが
1番気に入っている。まさにGFRの全てを音楽的に表現していると思うよ」
GFRは1年を経ずして成功した。1st 2ndアルバムのレコーディングを
通して 彼らはまさに動き始めた(gotten this thing on the move)。

Steve Roeser

279 :まっくん:03/09/12 20:31.net
以上 物凄い勢いの連続カキコ 失礼!

280 :加護は考えた。FROMラウンジ:03/09/16 07:07.net
>>270-279
おつかれさまです。最高!!

281 :めっくん:03/09/16 10:58.net
拝読しました。ありがとうです!

アニマルズの重さ・タメは
確かに初期GFRに通じるものがありそうですね

282 :伝説の名無しさん:03/09/18 07:55.net
age

283 :グッジョブ!! age:03/09/18 20:43.net
   _、_
 ( ,_ノ` )      n
 ̄     \    ( E) グッジョブ!!
フ     /ヽ ヽ_//

284 :まっくん:03/09/20 08:24.net
今度の規制はけっこう短めでしたが、蛇足です
>>277に出てくるIn Needの歌詞はこんな感じ

  お袋ったら 一体なんでそんなに青くなってしゃべる続けるんだ?
  オレはまだ若いけど覚悟を決めなきゃならない
  過去を振り返らずにね

  昔の友達に会えばイキナリ「だいぶ稼いでるんだろ?」だってさ
  まったく 友情なんて信じられないね
  
  キミには心を許せる親友がいるかい?
  いたとしたら羨ましいよ
  それは本当にいい友達だろうから

サウンドはモロR&Bというかスタックス風というか
ギターもSteve Cropperというか
オーティスあたりが歌ってそうな感じです
個人的にはツボにハマる曲です

285 :伝説の名無しさん:03/09/22 11:59.net
保守age

286 :伝説の名無しさん:03/09/25 13:03.net


         .┌┐
        / /
      ./ / i
      | ( ゚Д゚) <たまにはageてください
      |(ノi  |)
      |  i  i
      \_ヽ_,ゝ
        U" U



287 :伝説の名無しさん:03/10/04 14:02.net
                         o        o
   ______________    |        |
  │お そ れ い り ま す が.|   r'ニニニ‐‐'┐
  ├────────────┤   |o .,、. o |て)/
  │こ の ま ま し ば ら く .|   L =__|__,/
  ├────────────┤ _/ ̄ lll `ー、ヽr┐
  │お 待 ち く だ さ い  つニ -7 R. lll ○  ヽ! |
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ./   lll    ノ=!
                       /_==lll=- .,_/ /l
                       `'‐-ニ_''‐-ニ〆_.」
                         |  |`i'''''T"
                        ∠_ヽ|_|
                        く_/// /」
    




288 :伝説の名無しさん:03/10/04 18:22.net
age

289 :伝説の名無しさん:03/10/04 18:57.net
ドン・ブリュワーの揉み上げ

290 :伝説の名無しさん:03/10/05 07:26.net
マーク・ファーナーの胸毛上げ

291 :?U¨?A´?-?n:03/10/08 21:19.net
ご無沙汰です
10月中ぐらいには何とか・・・・・・・

292 :まっくん:03/10/08 21:21.net
↑化けてしもた・・・

293 :伝説の名無しさん:03/10/11 07:12.net
GFRのお勧めを教えて下さい。
回りに話が出来る人が本当にいないんです!
今、大学2年です。女子大だからか、洋楽を聴いている人さえいません。
うざかったらすいません。



294 :伝説の名無しさん:03/10/12 17:50.net
>>293

   _、_
 ( ,_ノ` )      n
 ̄     \    ( E) グッジョブ!!
フ     /ヽ ヽ_//



295 :伝説の名無しさん :03/10/12 18:09.net
>>294
コピペに反応すんな
GFRの部分を他のバンド名に変えた奴とかが氾濫してる

296 :まっくん:03/10/25 20:42.net
  さすがに下がりすぎて心配になってきたので
  とりあえず3rdのライナーの最初の部分だけうpします
  なるべく間が空かないようにがんばってみます

「ヘヴィメタルの歌詞がいつも暗くて取り乱していなきゃいけない事はない」
ベーシストのメルは語る。「マークは素晴らしいmessage musicを書いた」
GFRが3rdアルバムのレコーディングの準備をしていた70年代初頭
マークは 恐らく彼の作品のなかで最も素晴らしいメッセージソングを
作曲した。

「真夜中に目が覚めたんだ」マークは70年の冬の特別な日を回想する。
それはちょうどGFRの2ndアルバムがリリースされた後だった。
「そして歌詞を書き上げた。その時はそれを詩だと考えていた」
「朝起きるとオレはフラットトップのギターを持ってキッチンに行った
テーブルに足を投げ出してコーヒーを飲みながら朝の時間を過ごした
朝日が差し込んでくる 分かるかな? オレは一人でギターを
つま弾いていて そしてコイツが聞こえたんだ(マークは彼が
説明している曲の最初のギターリフを歌って見せた)
それからオレはその曲をかき鳴らし始めたんだ」
「作曲はさらに進んだ(よし、コイツには昨晩のあの歌詞が
合いそうだぞ)おれは歌詞を乗せて歌い始めた それからギターと
歌詞を一緒に合わせてみた オレはこの曲をドンとメルの待つ
リハーサルに持って行った あとは歴史が示すとおりさ」
マークが語っているのは勿論I'm Your Captainの事だ。
それはGFRの3rdアルバムの中心となる曲であり 曲の後半で
何度も何度も繰り返されるI'm Getting Closer To My Home
の部分はアルバムタイトルに冠されている。

297 :伝説の名無しさん:03/10/28 01:23.net
毎度乙カレー!

298 :伝説の名無しさん:03/11/01 07:28.net
『ロック魂 AMERICAN ROCK ’70−’75』という
コンピレーション・アルバムの1曲目に「アメリカン・バンド」が入ってるね。
でもGFRの曲がコンピレーション・アルバムに入るときって
なんで「アメリカン〜」なんだろ?
もっと他にもGFRらしいのあるし・・・・・


299 :まっくん:03/11/07 19:07.net
 3rdアルバムライナー その2

フリント出身の作家、映画製作者であるMichael Mooreは
VHIのドキュメンタリーでGFRについてインタビューを受けた時
70年にベトナム戦争で戦っていた何千もの男達にとって
I'm Your Captainがいかに意味深長な曲であったかを
熱く語っている。(彼らの多くはミシガン出身であり
何とか生き延びて家に帰れるように毎晩祈っていた)
GFRの曲は兵士達それぞれに語りかけ、また代弁していた。
Clocer To HomeはGFRの音楽的な可能性についてもまた違った面を
見せてくれる。それはテリーと彼の右腕であるケンの貢献によるものだ。
1年以上前ケンはテリーとSt.Paulというレコードを制作した。
テリーは大望ある歌手でありレコーディングアーティストとして
ささやかな成功を享受していた。St.Paul.はテリーがPaul McCartneyに
ひっかけて書いたもので Beatlesのさまざまな曲を引用していた。
この曲でテリーの夢想を実現するためアレンジャーのTom Bakerは
クリーブランド交響楽団の演奏者をレコーディングに起用した。
さて、素晴らしい新曲であるI'm Your CaptainでBakerとテリーは
GFRでも同様に事をしようとした。
キャピトルのスタジオログファイルによれば GFRの3人は
I'm Your Captainのベーシックトラックを70年4月10日に
Cleveland Recordingで録音している。それから1週間後の
聖パトリックデーに この野心的なアルバムを最終的に完成させる
オーケストラセクションがレコーディングされた。
しかしケンによると この時オーケストラのメンバーはNew Yorkに
借り出されていてクリーブランドには居なかったのである。

300 :まっくん:03/11/08 21:53.net
 3rdアルバムライナー その3

ケンは 素のままのI'm Your Captainのテープが入っているケースを
膝の上に置き ニューヨーク行きの飛行機に乗った、と言う。
長い年月の後では100%確実ではないが オーケストラパートの録音は
おそらくRecord Plantのスタジオで行われたとテリーとケンは
思っている。彼らは彼らの責務を1日以内で遂行した。
ケンはオーケストラを録音すると それらを編集しLPを仕上げる為に
クリーブランドへ飛んで帰った。「行ったり来りだったよ。テリーは
Don Bakerと我々がそこに行くのにリムジンを雇った。甘味な
オーケストラセッションを終えると 我々はリムジンに飛び乗って
空港へ逆戻りさ!」ケンは語る。
このような慌ただしい次第でなければ LPは6月中にリリースされる事は
なかった。テリーは4月中にGFRのニューアルバムをキャピトルに
提出するために ケンに出来るかぎり早く Closer To Homeの制作を
終わらせる事を要求した。こんな訳でケンとテリーはI'm Youra Captain
のベーシックトラックの左の不注意なミスに気づかなかった。
彼らは編集作業中にミスのある演奏テイクを採用してしまった。
そしてそのミスは注意深く聞くと判別することが出来る。
曲頭から1分位のところ、マークが歌っている間に男の声が何かを
喋っているのが聞こえるだろう。この曲の反響が熱狂的になり始めた頃
この事に気づいた当時のファンはこんな風に解釈したかも知れない
メルかドンのどちらかが演奏に集中する余り他の誰かを煽り立てたのだと。


301 :まっくん:03/11/11 18:16.net
 3rdアルバムライナー その4

しかしそれは違った。リイシュープロデューサーのDavid Teddsは
その声を分離し それがテリー・ナイトの声であることを突き止めた。
テリーが何を言っていたか・・・「よし、そこでストップだ」である。
彼は恐らくスタジオのトークバックマイクを通して ケンかバンドの
メンバーのどちらかに話しかけていた。そしてその声が録音を
キズモノにしてしまった。しかしバンドはプレイを続け ケンも
録音を続けた。
まったく故意にではなくテリーの声が残されはしたが
それは素晴らしいテイクだった。ケンはオーケストラセクションの
テープと共にニューヨークから戻ると すぐにトラックの編集作業に
かかり、カモメの鳴き声と波の音を付け加えた。
「その晩にそれをミックスしたんだ」ケンはRecord Plantから
クリーブランドに戻った、まさにその当日の事を話している。
「私は『その日!』の終りまでひどく朦朧としていた。こんな訳で
あのミステイクを見逃してしまったのさ」
I'm Your Captain(後になってI'm Your Ca;tain/Closer To Home
とも呼ばれた)はこのアルバムのクロージングトラックの座を得た。
もうひとつの長時間LPであるGrand Funkに比べこのアルバムは
約45分であるが 最後にこの曲が奮闘している。「それは最後に
輝きを添えるもの、と言えるかも知れないね」このアルバムの
エンジニアを務めて32年が経た後でケンがそう指摘する。
「その他の全ての曲はプリミックスされ準備が整っていた」

302 :まっくん:03/11/13 23:28.net
 3rdアルバムライナー その5

I'm Your Captainに対するファンの反響は このレコードに
関わったあらゆる人間を興奮させるものだろうと予想されたが
このアルバムの他の7曲の中にはさらにいい曲があった。
「多くのGFRファンは Closer To HomeにGFRが大成功するに至った
全ての要素が含む彼らの最高傑作アルバムであると見なしていた」
GFRのバイオグラフィーAn Americann Bandの著者の
Billy Jamesはこう語る。
I'm Your Captainの対をなす1曲目のSin's A Good Man's Brotherは
その詩にマークのスピリチュアルで沈思黙考する一面をのぞかせている。
その静かなイントロに騙されてしまうが 数秒後にバンドはロックの
エネルギーを解き放つかのように大爆発する。それはまさに
出世を遂げた彼らを表しているようだ。

303 :まっくん:03/11/13 23:38.net
 少し修正 それでもまだ日本語がヘンだ・・・・

「多くのGFRファンは Closer To HomeはGFRが大成功するに至った
全ての要素を含む彼らの最高傑作アルバムであると見なしていた」

304 :まっくん:03/11/14 20:25.net
 3rdアルバムライナー その6

「メルがWestのアンプを持ち込んだんだ」ケンが回想する。
それはマークの友人でフリントに住むDave Westのブランドのものだ。
「それは勿論すさまじい高出力を出せるアンプだった。我々はそれで
近所中を震わせた。スタジオの窓は外に向って開け放されていたんだ。
そして隣のオフィスビルの連中が文句を言い始めた。でもこうした
レコーディングセッションは週末か深夜に行われていた」
「最初の頃のメルは基本的にドンとつるんでいた」テリーが回想する。
「そして、そうあるべきだったんだ。ベースとドラムは固い絆で
結ばれていなければならない。一方が音楽的な要素を、一方がリズムを
担当するが 彼らが同じ感覚でプレイすることは不可欠なことだ」

マークのギタープレイは進歩を続け、Aimless LadyやNothing is
The Sameのような曲で卓越したプレイを再び披露している。
キーボードもまたこのアルバムでは重要な要素だ。
キャッチーなインストゥルメンタルであるGet It Togetherは
マークが弾く、いくらかジャズ的なエレピとオルガンのリフによって
構成されている。それはヘヴィなGFRスタイルからの もう一方の
発展だった。(曲の後半では)ソウルフルな女性コーラスが起用され
ボーカルの幅を拡げている。

305 :まっくん:03/11/17 23:22.net
 3rdアルバムライナー 完結!

スタジオ録音のMiean Mistreaterある。この年のうちには
この曲のライブバージョンのシングルがリリースされている。
この待望のフルリマスターCDで 我々はMiean Mistreaterの
ボーナストラックを楽しめる。それはエレピと同じぐらいマークの
オルガンがフィーチャーされている。何故彼らはこのアルバムの
曲順を決める時に この曲のオルガンパートを抜くのを選択したのか
ちょっと不思議だ。この曲はオルガンがあった方がいい、というのは
今や多くの人が同意するところだろう。
Closer To Homeは70年6月15日にリリースされると あっという間に
トップ10アルバムとなった。こんなチャートランキングはこのバンド
初の事である。アルバムが出てからおよそ1年というもの、GFRは
I'm Your Captain/Hooked On Love/Get it Togetherの3曲を
メドレーで演奏した。このアルバムリリースの時点で バンドは
すでに充分成功していたが、Closer To Homeは彼らを成層圏の
高みにまで打ち上げた。

306 :まっくん:03/11/17 23:23.net
「ダークブルーの新しい70年型サンダーバードを買ったよ」
バンドがブレイクして 初めて受け取った莫大なギャラを思い起こして
ドンが笑いながら言う。「そいつは最高だった。メルとマークは両方とも
リンカーンを買った。しかし運転しているのがヒッピーみたいなオレ達
だから そんな車は他ではなかったな。どうだい?そいつはちょっと
アヤシイもんだったよ!」
まったくもってアヤシイ。ミシガンに本拠を置くCreem Magazineに
寄稿していた著名なロック評論家のLester Bangsは マーク、ドン
メルに触れて「世界で有数のグループになったミシガン州フリント
出身のイカした3人の若造」と書いている。この評論からは
あるかなきかの気乗りのしない称賛しか伺われないが GFRは
こうした連中からも期待されるようになった。大した事ではない。
重大なのはCloser To Homeがバンドのコアなオーディエンスである
ブラザー、シスターから世界的に受け入れられた事だ。
それは大いに重大だ。疑いもなく。

Steve Roeser

我々はCloser To Homeをベトナムに出征した全ての勇敢なアメリカ人に
捧げる

-Mark, Don & Mel

307 :伝説の名無しさん:03/11/18 18:54.net

   _、_
 ( ,_ノ` )      n
 ̄     \    ( E) グッジョブ!!
フ     /ヽ ヽ_//



308 :まっくん:03/11/18 19:18.net
 オマケ アルバムジャケット裏にあるテリー・ナイトのコメント

去年の今ごろ、GFRは単なる3人の無名な若者に過ぎなかったが
彼らはミシガンのホームタウンにある暗い煉瓦造りのリハーサルホールで
自分たちの新しいサウンドを追及していた。
今やGFRの名前の意味するものは 国中で最も敬意を払われている
大きなコンサートホールを満員にした聴衆の叫びやスタンディング
オベイションである。
確かにGFRは成長を遂げた。そしてその事がこのアルバムの
全てである。彼らの音楽は明らかに世界の歴史上最も見識が高く
最も成熟した世代を反映している。人々が受け継いだのは 世界を
暴力と公害と無法者と死にかけた老人たちで満たすことだった。
こんな時代にGFRの3人は生きている。1stアルバムでは
「オレが目にしている現実はこうだ」と叫び 2ndアルバムでは「オレは
こう感じるんだ」と語るまでに成長した。そして今、この3rdアルバムで
彼らは何百万ものブラザー、シスター達と手を取りあって「これが
自分の向う場所なんだ」と語っている。
New Cultureに属する彼ら3人は死につつある世界を抜ける最後の航海に
出発しようとしている。
我々全てにCloser To Homeをもたらす道を探し求めるために。

Terry Knight
Producer

309 :伝説の名無しさん:03/11/27 05:59.net
ナイトとマネージメントで泥泥にもめようとは・・・

この当時は関係者はだれも思いもしなかったろうね

310 :?U¨?A´?-?n:03/11/28 20:24.net
 Live Albumライナー その1

GFRの非凡さと そのオリジナルメンバーであるマーク、ドン、メルは
70年の春には、合衆国において事実として認知された。当時は
ポップ、ロック史上極めて特異な時代だった。Jimi Hendrix,Janis Joplin,
Jim Morrisonといった伝説的なアーチスト達は皆存命中で現役であり
大いなる象徴としその時代の若者文化に貢献していた。
GFRはロックコンサートを回る旅程でJanisやJimiとすれ違っており
マーク、ドン、メルは彼らの両方と間近に出くわしている。
「オレ達は友達だったんだ」マークはJanisとの関係をこう語る。
その気まぐれなシンガーはこの年の10月に悲劇的な死を遂げ それから
3週間もしないうちにJimi Hendrixが亡くなった。
「彼女がGFRのショウに来ていたんだ。ある時オレは具合が悪くて
ドンのドラムソロの間オフステージにいた。気持ちが悪くなって
化粧室に駆け戻った。オレは自分の出来ることは全てやって空っぽに
なってしまった(笑)。オレが戻ってくると彼女が言った。
(マークはJanisの話しぶりを真似た)『坊やったら具合が悪いの?』
オレは言った『サイアクだよ!』『そう これをちょっと飲んでみて』
彼女は自分のペイズリーのハンドバッグに手を伸ばすとRippleのボトルを
サッと取り出したんだよ!」
「オレ達がJanisと会ったのは第1回のWest Palm Beach Pop Festival
だった」ドンが回想する。「彼女はひどく飲んでいて疲れ切っていたっけ」
GFRの3人はまたある時喜ばしい経験もした。NYCのFillmore Eastでの
GFRのショウのバックステージにJimi Hendrixが顔を見せ 彼らの才能を
称賛してくれたのだ。JimiのベーシストのNoel Reddingが彼のバンド
Fat MattressでGFRのオープニングを務めていた。

311 :まっくん:03/11/28 20:28.net
これらはGFRが登場した遥かなる1970年の状況のほんの一端でしかない。
しかし、何回かこうしたコンサートに行った事のある人なら このGFRの
Live Albumに心を奪われるだろう。このアルバムが初めて店頭に並んだ
あの当時も、そして長い年月が経った今も再び 3人は容赦のない
エネルギーでバカでかいサウンドを炸裂させている。そして勿論
GFRの熱狂的なファン達が それに負けないエネルギーをバンドに
ぶつけ返している事実を過小評価することは出来ないだろう。
それは言葉では表せない共生関係だった。

「原始的な本能をふるわすようなこうした熱狂がオレは好きだった。
ステージ上での出来事に聴衆は反応した。GFRは芝居じみたバンドだ。
オレはプレイする時 ステージ上で動いたり飛び上がったりおどけた
仕草をしてその曲の主人公を表現した。しかし大ゲサだったな」
マークが笑いながら言う。「つまりね 後ろの方にいる客にも
何をやっているか分かるようにだよ。自分はこの事を早くから
身に付けた。これがLive Albumでのバンドの実態さ」

312 :まっくん:03/11/28 20:29.net
クールなジャムナンバーであるMark Say's Alright(これは他の公式
アルバムでは聞くことが出来ない)を例外として Live Albumにおける
全ての曲はバンドがクリーブランドのスタジオで録音していたものだった。
4曲は1stアルバムから 3曲は2ndアルバムから 全て1969年に作られた
オリジナルである。残る1曲のMean Mistreaterは最も新しい曲であり
3rdアルバムのColser To Homeに収録されていた。Live Albumでの
この曲の演奏は 画期的なアルバムColser To Homeのリリースから
1ヶ月も経たないうちに録音されている。なぜならLive Albumの
いくつかのトラック(大部分ではないが)はColser To Homeの
プロモーションキャンペーン中に録音されたからだ。そのプロモの
主たる内容はいま一度記述されるべきであろう。そしてそのスゴい
内容とは マーク、ドン、メルの有名な巨大看板がNYCのTimes Squarsに
作られたことだ。

313 :まっくん:03/11/28 20:32.net
「私が最初にTimes Squarsのビルボードを見たのはニューヨークに
初めて行った60年代の初期だった」70年当時、GFRのマネージャーであり
プロデューサーのテリー・ナイトが回想する。「私が見た時は
Shen Conneryの007が掛かっていた。私はそれが忘れられなかった。
そして自分に言い聞かせた。『あの場所はオレのものだ。これから
やる事であいつを手に入れてやる』」
「テリーにはそのアイディアがあった」ドンが言う。「キャピトルに
それを実行するよう要求している場に オレ達は確かにいたよ。
実際にそれを最初にやったのはThe Rolling Stonesだった。でも彼らは
全面を使ったわけじゃない。彼らはアルバムの宣伝のためにビルボードの
『一部分』を使った最初のグループさ」さて、テリーはこの事実をもって
キャピトルに働きかけた。今や彼には売り出し中のイカしたバンドある。
「テリーはキャピトルに着くと行った『アンタがたに頼みたいんだが
GFRとこのニューアルバムのためにビルボードの全面を買いきって
くれないか』それは実際に市街の1区画の長さだった。オレ達は
キャピトルのための大作アルバムを作り上げ 彼らはバンドのレコードを
売り込むことに熱中していた」
このビルボード一面にデザインされた60フィートの高さを誇る顔写真
(左から右に向ってメル、ドン、マーク)は全く仰天させられる
代物だった。(ドンとテリーが総計を確認しているが)10万ドルの
コストの内 7万ドルがスペースのレンタル料に、3万ドルが労働者と
設置料金当てられたという。この申し分のない作品はBloadwayに
位置し きっちり45th Streetと46th Streetの間隔分の長さがあり
バンドメンバーの顔がじっと夕陽を見つめている。

314 :まっくん:03/11/29 22:16.net
 Live Albumライナー その2

「彼らは1ヶ月分の料金をしぶしぶ払っていた」ドンが言う。
「そうしたらストライキのために看板は3ヶ月もそのままに
されていたんだ。凄かったね。オレ達はそれでだいぶ得をした」
「看板塗装工組合が完全ストに入ったんだ」テリーが回想する。
「そしてビルボードは彼らなしには塗り替えることが出来なかった。
まったく前代未聞の信じられない休止だったよ」
考えても見て欲しい。3ヶ月の間にTimes Squarsを通りすぎる 恐らく
100万以上の旅行者がGFRの広告を目にする。地元に住んだり仕事を
したりしている全ての住民達は言うに及ばず、だ。New YorkはGFRの
最も忠実なファンがいる恐らく最大のマーケットだった。
彼らはFillmore East(席数2,500)で何日間かプレイすると、Madison
Square Garden(20,000)でメインアクトを務め、Shea Studium
(55,000)を満杯にした。ある時点では New York Daily Newsが
行った人気投票の結果 GFRはアメリカのベストロックグループとなった。
記事によれば フリント出身の若者たちは Creedence,(CCR?)
Led Zeppelin, The Jackson 5, Santana, The Who といった他の
ポピュラーなアーチスト達を屈辱的に引き離し全体の75%もの票を得た。

315 :まっくん:03/11/29 22:18.net
ギタリストで音楽ジャーナリストでもあるLenny Kayeは 70年12月の
Rolling Stone誌の見出し記事で その月の11日と18日にMadison Square
Gardenの外で GFRを見に来た若者たちにインタビューをしている。
その時はLive Albumの発売から数週間経っていたが その2枚組のLPは
熱心なファン達が考え込まなくてもすむような低価格だった。
「彼らの音楽が1番好きだよ」ある若者がに語る。「そのビートに
ジーンと来るよ。自分の血管の中を流れてるみたいだ」
「彼らはアルバム毎に良くなっているね」別のファンが言う。
「3rdアルバムは本当に最高だよ。Live Albumもそれと同じぐらいいいね」
何人かの若者は 特にLive Albumに収められているInside Looking Outに
如何に感動したかを語っている。「Eric Burdonがレコードを出した時は
それがカッコよかった。だけど今じゃ(GFRと)比べ物にならないよ」
ある若者はその音楽を「脳ミソを直撃する」と言い、別の若者は
「奴らの演奏ぶりは・・・葉っぱをキメてるね!」とうっかり喋っている。
Lenny Kayeは 古くからロックミュージックの批評を書いている
自称「評論家」達よりも ずっとオープンマインドで独立していた。
彼は GFRの絶大な人気を考慮したうえで自ら進んで彼らにある程度の
名声を与えた。バンドのファン達は、この国の流行仕掛け人達が愚かにも
気づかない事を分かっているのだ、と彼は結論づけている。

「あの当時はね」ドンが語る。「評論家達は バンドと観客がひとつに
なってゆく その全体の中に全く入っていかなかった。彼らはバンドを
見に来るのが常だった。そして考える。『うん、あのミュージシャンは
良かったな。彼の弾くフレーズを聞いたかい?』ってね」
「彼らにはこういうコンセプトが全く理解できなかった。『外に出て
大イベントを作り出そう。そしてバンドと観客とでアリーナでの
大コンサートを分かち合おうよ』という考えをね。彼らが理解するのには
少し時間がかかったけど オレ達がやったのはまさにこういう事さ。
これがGFRとは何かっていう事だよ」

316 :まっくん:03/12/05 19:53.net
 Live Albumライナー 完結!

オリジナルのLive Albumの見開きのレコードジャケットには 3人が
プレイしているところをステージの後ろから撮った写真が使われている。
その写真は 彼らにとって2度目のお目見えとなる1970年7月5日の
Atlanta International Pop Festivalのものであることが分かる。
ちょうど1年前、3人は熱気溢れるこのAtlanta Popのオープニングで
(ノーギャラで)演奏する機会を得た。当時バンドは無名だったが
彼らはこの絶好のチャンスを生かした。彼らの音楽は大群衆に響き渡り
その結果大評判となった。「GFRが一般に認められたのは初めてAtlanta
Pop Festivalに出た後だった」マークが回想する。「あれは申し分のない
出来だったよ」
69年から70年にかけて火花は炎となり、そして全開で燃え始め
GFRとその音楽の熱烈な支持者達の荒れ狂う大火へと変わっていった。
要するに彼らは僅か1年でロック界最大のニュースとなったということだ。
熱烈なファン達はこのバンドのコンサートのマジックを体験するために
合衆国のどの場所でも集まってきた。彼らはバンド自身がそうであるように
他のGFRファン達とも精神的に強い絆で結ばれていた。
「70年のLive Albumはまさにライブレコーディングだった」ドンが言う。
何のごまかしもしてないしオーバーダブも無しだ。録音をコントロール
しようという試みは全くしなかった。『おい今夜はレコーディングだぜ。
間違えないようにやろうな』分かるかい? 70年のこのアルバムは
こんな感じだった。『オレ達はこれから3日間ライブをレコーディング
する。だけど客の誰もレコーディングしている事なんか気にしやしない。
オレ達はショウをやるんだ。レコーディングは二の次さ』そして
Live Albumは自由奔放にプレイするパワートリオのピークを捉えている
とオレは思っている。そしてこれがLive Albumの真実さ」

317 :まっくん:03/12/05 19:56.net
Live Albumのオリジナルリリースから30年以上がたった今 この
最もヘヴィなサウンドのロックバンドのドキュメントは 我々を
ポストウッドストック時代へと即座に連れ戻してくれる。2枚組LPの
アナログ盤4面は 新しい1枚のリマスターCDにギリギリ収まっている。
だからマーク、ドン、メルや我々みんなが若くてイカれていたあの頃の
GFRのコンサートを蘇らせるのは簡単だ。単にプレイボタンを押し
ボリュームを上げイスに腰を下ろせばいい。そしてGFRのショウの
カタルシス、マジック、熱狂を もう一度どこでも好きな場所で
楽しむことが出来る。

「ステージ上のサウンドは良くなかったよ。いずれにしろ当時の
モニターシステムのサウンドは恐ろしくヒドかった」ドンが説明する。
「普通、ステージ上ではとにかくボーカルが充分に聞こえるようにする。
出来る限りの大音量でプレイしていたオレ達もそうだった。だから
何もかもがちょっと調子外れだった。でもみんな慣れっこになっていた。
何しろ毎晩のようにやっていたことだからね」

2002年、ついに初めて71年のGFRのライブレコーディングを集めたCDが
発売された。「Live-The 1971 Tour」はAre You Ready, Paranoid,
T.N.U.C, Inside Looking Out, Into The Sun といったLive Albumにも
収録されて親しまれているナンバーが含まれている。今やこの2枚の
ディスクは オリジナルパワートリオであるGFRのファンにとって
極めて重要な記録である。バンドがこうした曲をLive Albumが出た後も
ずっとプレイし続けていたという事実は、これらの曲がバンドと観客の
両方にとって如何に大切であったかの証拠となっている。
これらの曲の演奏の素晴らしさからいえばLive-The 1971 Tourだろう。
その前年に収録されたLive Albumは多分ギリギリの状態で演奏している。
初期のライブレコーディングには初々しさや新鮮さ、野性味が感じられる。

318 :まっくん:03/12/05 19:59.net
Live Albumは とてつもないサウンドで骨の髄までゾクゾクさせてくれた
バンドに対して 全国のGFRファン達が、好意的な評価を(おかしな
言い方に響くかも知れないが 彼らの感謝の意を)表現することが
許された初めての機会を象徴している。70年11月の新聞記事によれば
Live Albumの先行予約の総計はレコードが75万枚 それにプラス、
カセットが25万本だったと言う。当時キャピトルレコードのどんな
タイトルもこんな記録的な数字は出していなかった。テリー・ナイトと
バンドのメンバーはこの2枚組のレコードに安い小売価格をつけるよう
要求してそれを実行させた。その年のクリスマスシーズン 何百何千もの
若者たちが大挙して彼らの地元のレコード屋に押し寄せて お気に入りの
バンドによるこの特別な記念碑的レコードを手に入れるために 喜んで
1ドル札を5枚支払った(70年の価格相場としても格安だ)。
子供たちの多くは 恐らくまだGFRのショウを見たことがなかったに
違いない。彼らは子供すぎたし他の理由からも彼らの両親は子供たちを
そんな所へは行かせようとしなかった。しかし今、ついに彼らは
次善のものを手に入れた。
「こういうことさ」ドンが伝説的な初期のライブレコーディングを語る。
「GFRと聴衆が一体となっていく事が全てだった。分かるだろ?
オレ達はみんな『ひとつ』だったんだ」

Steve Roeser

319 :まっくん:03/12/05 20:10.net
 オマケ ジャケット裏にあるコメント

このグループ自身の真に歴史的なドキュメントをお贈りするために
本来の姿を編集することは避けた。このレコードの全ての曲は
オリジナルテープから全く修正を加えずに収録された。
このレコーディングにおいては エコーのようなものまでテクニカルな
助力は一切ない。そしてここで聴ける全ての事象は 彼らがしたこと
そっくりそのままである。
このアルバムは現実のコンサートにおけるGFRのライブレコーディング
である。曲間の中断は無いように整理されている。


 ・・・という事でここら辺あたりが一連のライナーノーツの中の
 白眉なのでは?と思われますが 相変わらずアヤシイ脳内変換です
 ツッコミどころがありましたらご教示ください
 Americanband位までは何とか辿り着きたいもんです

320 :加護は考えた。FROMラウンジ:03/12/06 00:00.net
>>296-319
おつかれさまです。最高!!
>>296-308
おれとかもサードがいちばん好きです。最高!!
>>310-319
おれとかが、なんでGFRが大大好き好きなのか、
改めてわかってきた気がします。

321 :まっくん:03/12/06 09:31.net
>>320
3rdの話題を余り聞かないので淋しかったのですがいいアルバムですよね
(っていう自分は今回の再発で初めて聞いた・・・)
次の「サバイバル」はさらに評判を聞きませんが捨てがたいです
今年中には何とか訳してみます

322 :伝説の名無しさん:03/12/22 01:21.net
保守

323 :伝説の名無しさん:03/12/22 13:57.net
>>321

(゜o゜;) ドキドキ...

324 :まっくん:03/12/27 23:09.net
やっぱり年内は無理でした・・・・_| ̄|○

来年は結成35周年(多分)
それまでしばらく落ちてきます
皆様よいお年を

325 :伝説の名無しさん:03/12/29 15:01.net
昨日ライブアルバムっていうレコード350円で買ってきたよ!
凄いかっこいいねこのバンド得した得した

326 :伝説の名無しさん:03/12/29 20:05.net
ome

327 :まっくん:04/01/07 22:02.net
あけおめです!!!
な・な・なんとマークが自分のバンドで2月に来日するらしい!?
とりあえず東京は中野サンプラザ あとは大阪、名古屋らしい
余りに唐突な事で実感が湧きませんが まずは一報まで
ホンマかいな?

328 :加護は考えた。:04/01/08 09:09.net
>327
ttp://www.zak-tokyo.co.jp/artest/Mark/Mark.html
そう、おれとかももちろん中野サンプラザに見に行く予定!!!!

329 :まっくん:04/01/09 22:08.net
早速11日のチケットをゲットしました!!!
まさかマークを生で見れる機会が来るとは・・・
未だに実感がわきません
ちなみに全席指定の¥7.500なり!

330 :ウエスト:04/01/12 07:12.net
初参加です。GFRのリマスターCDを聞きましたが、随分音質がクリアー
になってます。特にベースの録音レベルが上がっているようです。
1度御視聴下さいな。

331 :まっくん:04/01/12 23:35.net
マークのジャパンツアー!!
主催はニッポン放送、及びInter FM
ニッポン放送ではぼちぼちスポットを流してるようです
Mark Farner of The Original Grand Funk Railroad Japan Tour
と銘打っているところをみるとドン達の新GFRとはやっぱり微妙な関係か?
果たしてAmericanbandは演るのか?っとその前に客席は埋まるのか?
さまざまな憶測が乱れ飛ぶ公演1ヶ月前だーっ!!!

332 :伝説の名無しさん:04/01/16 17:43.net
思い出すのは22年前の再結成武道館ライブ。
あの時の感動と興奮が蘇る。。。

なんちて。当時漏れは小学生だったけどね。マクロスと飯島 真理に夢中ですた。

後から知人のFMライブエアチェックしたので聴いた。そのときはじめてハードロック
なる音楽を聞いた。正直、よくわからなかった。当時はキッスさえも暗くて怖かった。
YMOばかり聞いていたのに、YMOはすぐ解散してしまって興味が失せた。
そんなときクラスの奴から貸してもらったのがレインボーとこのGFRのライブだった。

レインボー(アイサレンダー)にはすぐにハマったけど、GFRは?だった。
メロディーが無くて単調で金切り声で絶叫だったがテクノの反動で泥臭くて汗臭い
ブルース系のロックに次第に惹かれていき。。。いつしかメタラーに。。。






でも当時ストーンズに出会ってなくてホントによかったと思う。あやうく人生踏み外すところだった。

333 :まっくん:04/01/18 18:24.net
GFRの公式ページ(ドン達の方)にドンのインタビューがあったので
ちょっとだけ訳してみました。実際はかなりな量です。
おそらく去年のツアー中か?

Q さて 今やあなたの星条旗コスチュームは(新生GFRの)ステージで
定番となっていますね? それは実際あなたにとって何を意味しますか?
A オレの時代掛かったファッションの意味かい? 単なる星条旗
コスチュームではなくオレの毛皮のコートと帽子・・・みんなオレの
十八番だよ。誰でもちょっとした十八番が必要なものさ
Q それは今現在の愛国的、政治的な空気を含んでいるのですか?
あなたはアメリカ人であることを誇れますか?
A いいや、それは単に仕事だと思っている。それは単にどういう音楽か
っていう表明だよ。オレ達のロゴがそれを表現している。オレ達は
1973年の昔から星条旗仁「指差し」をあしらってきた。「合衆国は
君を望んでいる、そう、オレ達も君を望んでいる」と言う意味さ。
オレ達はアメリカンバンドだ。オレ達はそれを誇りにしているし
アメリカの全てを誇りにしている。それはただ単に9.11のためじゃない。
オレ達は常にそうだった。それが全ての英国バンドからオレ達を
特徴づけるものだった。「ヘイ!オレ達はアメリカンバンドだぜ」ってね。


この辺の彼らの心境はやはり複雑なのだろうか?
マークはドン無しでもアメリカンバンドを演るのだろうか?

334 :まっくん:04/01/18 23:36.net
 続きです

Q 我々の読者や 11日のあなた方のコンサートに行くであろうう
聴衆の多くは軍の関係者です。ここは2.3の軍事基地から数マイルしか
離れていないのでね。彼らの多くがあなたの曲We're An Americanband
を彼らと共に異国の土地に持っていくのを知ってどう思われますか?
あなたの書いた曲がある種の賛歌のようになっていくのをどう感じますか?

A 分からないな。そういうやり方であの曲を書かなかったことは
とても幸運に思うよ。オレ達がこの曲のアイディアを考え出し そして
それは全てに英国バンドとEinglish Invasionに対するある種の反抗
だった、という風聞はいつもあったよ。でもそれは全然違うよ。
あの歌はまったく無邪気なものだよ。
オレはギターは上手くないけど暇つぶしにコードを弾いていた。
オレ達はアルバムPhoenixのツアーに出ていて 次のアルバムの
シングルを考えつかなきゃならなかった。そしてオレ達の背後は
壁に直面していた。テリー・ナイトはオレ達を訴えていて あらゆる
ところでオレ達は訴えられていた。オレ達には将来がどうなっていくのか
分からなかった。そしてこんな考えがオレの頭に浮かんだ。「オレ達は
ツアーに出ている。みんなの町に行ってパーティーの手伝いをするんだ」
こんな感じだ。オレ達が色々な町に着く。そうしてこう言うんだ。
「来いよ パーティーに来いよ こっちだぜ。オレ達はAmericanbandさ」
それが頭を転がりだしてコードをつけるとサウンドがイカしてきた。
オレはプレイしてみた。それからツアーがどんな風だったかの断片を
付け加えた。

335 :まっくん:04/01/18 23:38.net
オレ達はFreddie Kingとツアーをした。彼は偉大なブルースマンだ。
そしてオレ達はFreddieとショウをやる事を本当に望んでいた。
しかしオレの生涯で出会ったもっともクールな事のひとつになるが
彼が「オレのバンドは毎晩オレとポーカーをしなきゃならんぞ」と
言い張ったんだ。それはつまり彼がバンドに払ったギャラを
勝って取り戻せるようにだよ。みんないつも破産していたっけ。
だからFreddieとポーカーをやらずして彼のバンドにいることは出来ない。
そして彼から支払われたギャラは また彼に巻き上げられてしまう。
これが次の一節の元になったんだ
Up all night with Freddie King and I gotta tell you Poker's his thing.

These four young chiquita's in Omahaはもうひとつのエピソードだ。
ホテルのロビーに4人の女の子がいたんだ。勿論オレは詩を少しばかり
膨らませてエキゾチックで面白く響くようにした。
これが当時のいきさつの全てだよ。オレは本当に賛歌のようなものを
意図して作るつもりはなかったんだ。でもそれは(Americanbandが賛歌
のように解釈されるのは の意か?)素晴らしいことだと思うよ。
驚くべきことだね。

オレ達はアメリカ文化の結晶の表現だと本当に思うよ。オレ達は単なる
ガレージバンドさ。オレはミシガンのシュワルツクリーク出身で
そこはフリント郊外の小さな町だった。いつもバンドをやっていたよ。
いつも自分の家の地下室で仲間と練習をしていた。そして近所の人達は
みんなオレが何をやっているか知っていた。そしてみんなバンドを聞き
騒音やたわ言を我慢してくれた。それはアメリカの風土の一片だった。
そしてGFRはその一部分だったんだ。だからこの曲はまさにオレ達が
何であるかを表現していると思うよ。

336 :まっくん:04/02/04 21:23.net
マーク来日まで1週間! 辛くも復活 ドンのインタビュー続きです

Q 多くのバンドが世に出ましたが ただのバンドに終わらずに
ロックの象徴にまでなったのはどんな気分ですか。
こんな風になるなんて思っていました?

A オレは全くそんなふうに見ていないよ。全くね。オレは自分を
ミシガン生まれのただの男だと思っている。そして素晴らしい妻と
子供たちに恵まれていて そんなたわ言は引っ込めるよ。とても幸運だと
思っている。We're An American Bandについても同じように考えている。
オレはこの曲を作り歌った男で 30年以上過ぎてもこの曲が巷で
流れている事をとても幸運に思う。まったくオレにとっては「おお!
これは恐ろしくスゴい事だな」っていう感じさ。
とりわけ70年代は全ての批評家がオレ達を酷評していた。Rolling Stone誌
はオレ達を嫌っていた。そしてこの曲は未だに巷で流れ オレ達は未だに
聴衆を引きつけることが出来る。みんなオレ達の曲を知っていて
曲が始まるとたちどころに歌詞を歌いだすんだ。スゴい事だと思うよ
オレ達は本当に恵まれているよ。

Q そのネガティブなマスコミがまさに 10代の若者をさらにあなた方の
レコードを買うように駆り立てたとは思いませんか。

A その通りだと思う。ああいった酷評がオレ達の音楽を気に入った
人々の意志をさらに頑なにしたんだと思う。人々は批評家のたわ言が
不公平で個人的な物だということが分かっていたからだろうね。
「アンタらはGFRが気に入らないっていうわけかい? オレは奴らが
好きだね! まったくアンタらはゴタクばっかり並べやがって ブッ」

337 :まっくん:04/02/08 22:35.net
 マーク来日3日前に辛くも規制解除! 続きです

Q 何千もの恐らく同じくらい才能のあるバンドが消えていった中で
GFRが成功できたのは何故だと思いますか? アイドルの二番煎じ
といった連中の事ではないのですが。

A ただ単に時と場所が正しかった と言う事だろうね。ちょっとした
要素の組み合わせが合っていて正しい時にそれが進行したと言う事だね。
そしてそれが正しい道の判断を生み出す。
オレとマークで以前に組んでいたThe Fabulous PackをやめてGFRを
結成する時に オレ達はある重要な決断をした。(当時)オレ達は
カバーバンドになりつつあった。金を稼ぐためにカバー曲ばかりを演奏し
クラブやその類いの店にハコで入っていた。そうやってオレ達は金を
稼いでいた。しかしメルを加入させてGFRを結成した時に オレ達は
カバーバンドにはならない事を誓ったんだ。(当時)Grandee Ballroomや
Fillmore等といったThe hippy placesが現れてきていた。オレ達は
デトロイトのGrandeeに行ってそこに出ているバンドを観察した。
そして こうしたアングラムーブメントの動向を目の当たりにした。
全てのバンドはオリジナル曲を演奏していた。そして聴衆も総じて
それを受け入れていた。こうしてオレ達は たとえ飢え死にしても
カバーバンドにだけはなるまい と決意したのさ。そしてオレ達は
まさにそれを実行した。オレ達は遂に本当に厳しい時期をやり抜いた。
カバーバンドになりたくなかったからね。人は決断を下さなければ
チャンスを掴めないものさ。これがオレ達がした最大の決断だね。
それは確かにいい結果を生んだ。おかげで否が応でもオレ達は
オレ達自身にならなければいけなくなった。

338 :まっくん:04/02/08 22:37.net
Q 今、奮闘しているミュージシャン達に そのこと(オリジナリティを
持つこと?)を推奨していただけますか?

A いいや。時代が違ってしまったからね。それはあの当時の時代の
ムーブメントだったから オレ達はその時流に乗ることができた。
当時はレコードもアーティストも他と違っている事によって世に出ていた。
もし他の連中と違うものを思いつければ それでラジオの電波に乗る事が
出来た。今はそのやり方じゃ無理だね。誰もそんな曲を流そうとしないよ。
全く時代が変わってしまったね。だから今この時代に個性が必要だなんて
言う気は全然ないよ。オレはそもそも今どうやってバンドが世に出るのか
知らない。業界のシステムがどうなっているのかも知らない。ラジオ局は
みんな休業してしまったね。バンドをやっている連中と話すと 彼らは
みんな当然のように自分たちのウェブサイトを持っている。そして
ごく限られた取り巻き連中の輪を作ろうとしている。あっちこっちの
クラブで演奏しCDは彼らのウェブサイトで売るのさ。でもどうやって
そこから全国的に知られるようになるんだい? オレには分からないね。

339 :まっくん:04/02/08 22:38.net
Q あなたはGFRとして演奏しなくなった年月を残念に思いますか?
バンドを離れた時は嬉しかったですか?

A イエイ!とても嬉しかったよ。オレ達が現役中にバンドを解散
(休止?)する事を決断できたのは ある種幸運だったとオレは思う。
実際のところはディスコブームの到来でオレ達は最後の決断をした。
オレ達はただ話した「ディスコブームにはついて行かない。ここで
もうやめよう。もし将来 機会が巡ってきたらまた演ろうぜ」
そしてオレ達は解散した。それがベストの選択だったとオレは思うよ。
オレ達は80年代の初めにカムバックしようとしたけど 当時はまだ
早過ぎたね。まったくヒドイ時代だったよ。みんなオレが言うところの
リアルロックから離れていって産業ロックの方に行ってしまった。
そんなわけでオレ達にとっては悪い時代だった。そしてオレは幸運にも
Bob Segerの仕事を得て 外の世界から企業の一員となった。だから
オレはオレ達のしたことが正しかったと思う。それにしても こんなに
クラシックロックのラジオ局やアーティストのCDが溢れるようになるとは
夢にも思わなかったよ。当時の誰もこんなことを考えていなかった。
誰も予想は出来なかったけれど 全てが戻ってきた時には オレ達は
みんな年を取っていて何とか家族を養っていた。そしてオレ達は
ここにいる。「ヘイ 外へ出てプレイするなら今だぜ」 スゴい事だね。

340 :まっくん:04/02/09 22:15.net
 いよいよあさってか・・・・ 続き

Q 60年代から70年代初頭にかけて GFRは疑いもなく大きな現象であり
ロックの革新者でした。あなたの考えではGFR現象とは何でしたか?

A そうだね。当時は2.3の動きが進行していた。オレ達はその時に
生れたパワートリオのうちの1つだった。オレ達はJimi Hendrix
Creamといったパワートリオの後に続いた。Johnny Winterでさえ
トリオで演っていた。しかし彼らは皆ブルースをベースにしていた。
彼らはまさにブルースを取り入れ それを白人的なやり方で演奏した。
そしてアンプの音量を上げ当時のヒッピーのように派手にした。
オレ達はデトロイト郊外のフリントで育った。だからブルースよりも
R&Bに強い影響を受けている。オレ達はMotown, Muscle Shoals,
Memphisといった音楽にのめり込んだ。Howard Tateにも影響を受けた。
そしてマークの曲であれカバーであれ(ずいぶんカバーをしたもんだよ)
オレ達は自分たち流に料理しようとした。オレ達のやり方とはこうした
R&Bの影響を保ちつつ ボリュームを上げ強烈なロックスタイルで
プレイすることだった。この事がオレ達をまさに個性的にしていたと
オレは思うよ。スローグルーヴであればヘヴィスローグルーヴに
速いグルーヴだったらもう踊りだしたくなるくらいに、でも当時は
踊りだす人はいなかったね。踊るのはその後のディスコブームが
到来してからだった。それにしても ブルースよりもR&Bに強い影響を
受けた事は ずいぶんオレ達をユニークにしていたと思うよ。

341 :まっくん:04/02/09 22:16.net
Q 自分たちの音楽に満足していましたか。それとも他に夢想する
ものがありました?

A 音楽は夢想なんかじゃなく まさにオレ達は何であるかという
ものだったと思う。それがオレ達の音楽に対するアプローチの方法だった。
オレ達がEric Burton & The Animalsのアルバム(ブルース色が濃い
60年代スタイルだった)で聴いたInside Looking Outを取り上げた時も
オレ達流のやり方で演った。オレはヘヴィメタルという言葉を使うのが
嫌いなんだ。ヘヴィメタルは80年代にならないと出て来ないのに 皆は
初期のGFRの音楽をこのジャンルで括りたがるようだね。でももう一度
言うけど オレ達はパワートリオで実際にオレ達がプレイしていたのは
当時で言うところのハードロックだったんだ。そしてそれがまさに
オレ達の音楽のやり方だった。オレ達はもう座っていられなくなった。
「これこそがオレ達だよ。このやり方で行かなくてどうするって
いうんだい?」オレ達はフリントのスタジオで練習した。そして
ショウの為の練習であれアルバムの為の曲作りであれ 全ては
ジャムセッションから始まった。スタジオに入るとすぐに延々と
ジャムを繰り広げたもんだった。それから「イェイ!さっきのヤツは
良かったな。あれはイカしたサビになるぞ。あいつをこの曲に使おう」
っていう感じでジャムから曲を構成してアレンジするんだ。
全てはジャムる事からだったよ。

342 :まっくん:04/02/09 22:18.net
Q もし当時に戻って何かを修正するとしたら何を修正しますか。

A 何ひとつ無いね。今振り返れば そういう時代だったということさ。
80年代のバンドはみんな随分誤魔化しが上手くなったね。彼らのレコードの
サウンドも良くなった。それに引き換えオレ達の初期のレコード 特に
1枚目から3枚目はかなり荒削りだ。それがなおさらアルバムを良くして
いるようにオレは思う。だからそれは見方の問題だね。あの頃オレ達は
数日間でアルバムを録音していたもんだった。リハーサルは2.3週間で
そこで出来る限り欠点を無くすようにした。それからスタジオ入りして
数日間でアルバムを作り上げたんだ。ミスもそのままにしてね。
それからオレは ラジオからアルバムの曲が流れてきてこうしたミスを
聴かされるハメになるんだ。「ウワー 神様 やっちゃいました」
でも誰も気づかなかったね。それが全く正直なところだし凄いと思うよ。
今や過去に戻って変えたいものは何もないね。
GFRはオーバープロデュースではなかったから 聴衆に訴えかけるものが
多くあったんだろうね。それはオレ達のまったく偽らざる表現だった。
Todd Rundgrenやもっと商業的なプロデューサーと仕事をした時でさえ
オレ達はなおもロックンロールバンドであることに徹していた。
オレ達は後戻りして手直しをするのに多くの時間を費やす事はなかった。
もし何かあってもそのままにしておいた。

343 :まっくん:04/02/09 22:21.net
Q 恐らく(当時)ガレージバンドをやっていた連中は「いったいGFRは
どうやってこれを演奏してるんだろう」と頭をひねった事でしょう。
そしてあなた達のミスを一生懸命コピーしようとした。

A オレ達のミスを完コピ? まさかね。

Q そうしたミスも含めGFRのユニークなサウンドが他のバンドによって
模倣されることはありませんでした。それは何故でしょう。

A オレ達は全くのガレージバンドだったからね。オレ達はニューヨークや
ロス、シカゴといった大都市の出身じゃなかった。オレ達は敬意を払われる
大スタジオのミュージシャンでもなかった。当時は(そういった)
スーパーバンドが出てきていたが オレ達はミシガン出身の平凡な男達
であり その事でオレ達はローカルの壁を突き抜けるたんだ。
その当時でさえオレ達はミシガンが本拠のバンドっていう以上の存在
ではなかった。実際デトロイトのバンドでさえなかった。オレ達は
どちらかといえばデトロイトの郊外にいたからね。だからMC5
Nugentといった多くのバンドはデトロイトが本拠だが オレ達は
そうした音楽シーンの一角にすらいなかった。オレ達は町の片隅で
結成された全くのガレージバンドだった。だから多くの人達がオレ達に
本当に共感してくれたんだと思うよ。「おお なんて普通の男達なんだ」
と皆は言った事だろうね。オレ達の音楽やレコードから伝わったのは
そういう事だった。

344 :まっくん:04/02/10 18:27.net
 マークは今ごろ都内でスシかなんかつまんでるんだろうか?
 いよいよ明日!!!!

Q あなたがこの仕事を始めた時 何がやりたかったのですか?
スターになりたかったのか それともただプレイしたかったのか

A オレはいつもロックスターのなりたかった。まだほんのガキの頃
からね。エド・サリバンショーでプレスリーがBlue Suede Shoesを
演っているのを見たんだ。よくプレスリーの物真似をしたもんだった。
親父はオレをバーに連れて行くとジュークボックスにコインを入れて
Blue Suede Shoesをかけた。そしてオレをテーブルの上に乗せて
言うんだ。「ほら お前の物真似をやって見せろ」そしてオレは
そいつをやったもんだった。最初にバンドを始めたのは確か9才か
そこらだった。それで学校のコンテストに出たんだ。本当にバンドが
やりたかったよ。学校の上級生がやっていたバンドにエラく感動したのさ。
彼らの名前は覚えていないけどね。しかし彼らはJerry Lee Lewisや
Chuck Berryの曲をやっていて オレは「あの人達がやっている事は
なんてカッコいいんだ」となったわけだ。そうしてオレはとにかく
バンドがやりたくなった。運良くバンドを始めプロになって金を
稼ぐようになってからも ロックンロールはまだカッコいいものだった。
オレは15才で運転免許はなかったけど パーティーなんかで演奏して
金を稼いで家に帰った。そしてオレは「ワオこれは素晴らしいじゃないか」
と思ったんだ。

345 :まっくん:04/02/10 18:30.net
Q 後の多くのアーティスト達は GFRから大きな影響を受けたと
言っていますが あなたの作曲や演奏に影響を与えたバンドは何ですか。

A CreamとJimi Hendrixからは オレ達は常に大きな影響を受けた。
Motownのヒット曲もそうだ。The Young Ras calsからも影響を受けた。
彼らはR&B的だったからね。そしてニューヨーク的だった。彼らに
ベース奏者がいないのを オレはいつも興味深く見ていた。ハモンド
B3オルガンとそのベース鍵盤であらゆる事をこなしてしまうんだ。
それが凄くカッコ良かったよ。そしてFelix Cavaleriのボーカルは
R&B風 Blue Eyed Soul風だった。Dino Danaliは好きなドラマーの
1人だよ。彼には夢中になったな。エド・サリヴァンショーで見たんだけど
彼はドラムのスティックをステージの天井近くまで高く放り投げて
落ちて来たところを受け止めるのさ。それがえらくカッコよかったんだ。


346 :まっくん:04/02/10 18:31.net
Q バンドにとって最もポピュラーな曲の作者があなたである という
事実が あなたとマークとの間の軋轢の原因だったのですか?

A かつてはいくらかそういう事もあったかも知れない。でもそれは
違うんだ。オレが曲を提供し始めたのはFMラジオ局が台頭してきた
後のことだった。FMラジオはアングラ的な風潮を新しいコマーシャルな
Top 40に変えつつあった。そしてオレが曲を提供し始めるより前は
オレ達は基本的にアルバムの曲やステージ用の曲作りに専念していた。
当時は7分の曲でもラジオ局はちゃんと流してくれた。それから72年の
終りごろになると もうどこも流してくれなくなった。曲は3分か3分半で
売れセンでキャッチーなサビとコーラスがある。こうした曲じゃなきゃ
いけなくなったんだ。オレが乏しい知識や才能で作曲を始めた頃の状況は
こんな風だった。しかしおよそ心もとない素質だったけど オレが
作り出したのは よりコマーシャルな曲だった。

Q ガレージバンドというロックの新ジャンルをどう思われますか?
今はガレージバンド専門のラジオ局さえあるのですが。

A 凄い。それは素晴らしい事だね。レコード会社はMP3が普及した
おかげで危機的な状況にある。彼らは保持している音源の流通経路を
失ってしまった。そしてラジオ局は売り上げに左右されずにレコードを
かけることが出来る立場にある。レコードを流すのに 今までとは全く
違ったシステムが出来てきているんだね。それは無限の宝箱のようだよ。
それにひきかえ中波の広域放送のような所は新しい才能を見いだしたり
新しい曲をかけたりする事をしないできた。こういうラジオ局で
何か新しいものを聴く事はめったにないね。だから世間の人々は
うんざりして ラジオを聴くのをやめ そうした事を変えようとしない
ラジオ局の広告をサポートするのもやめる、とまで言っている。
彼らは変わらないだろうね。オレはこういうラジオ局をアメリカ中にある
ショッピングモールのようなものだと常々思っている。どこへ行っても
同じものばかり。人々が同じものにうんざりするようになるまでは
何も変わらないだろうね。

347 :まっくん:04/02/10 19:12.net
斜め読みのつもりがだいぶハマってしまった・・・ ソースはこちらです
http://www.grandfunkrailroad.com/lkinterview.htm

以下私めの雑感

ドンやメルにとって今の新生GFRは
野球のマスターズリーグみたいなものだろうか
そこら辺がマークとは相容れないところだとしたら
何となく分かる気もします。
マークはマイナーながらもアルバムを作り続け
ライブをやり自分の音楽を捨てることはなかった。
恐らく死ぬまで現役っていう信念があるんでしょうね。
明日は名実ともにドンの曲であるAmricanbandはやるんだろうか?
やってくれれば嬉しいですが やらなければそれはそれで潔いかも
何十年ぶりかで彼らの音楽を聞き直して
ますます彼らの男気に惚れ込んでしまった自分としては
今のこうした状況は残念ではありますが
40周年にまた何かやってくれることを期待!

という事で明日です!
このトシになってこんな機会が巡ってくるとは!
マークの熱いギターと歌が生で聴ける!?
イカン だんだん浮き足立ってきた・・・


348 :加護は考えた。:04/02/11 13:24.net
>>333-347
いつもいつも、おつかれさまです。thx!!  最高!!

おれとかも、これから、中野サンプラザに行ってきま〜〜す!!

349 :まっくん:04/02/11 21:20.net
皆さん お疲れさまでした 今帰宅しました
とりあえず Thank you Mark!! カッコよかったぜ!

声の若々しさ シャープさは予想していたとはいえ凄かった
おっ そろそろキツそうだな と思っていると
イキナリ復活してガツーンと来るのには
彼の底知れないパワーを感じました

350 :まっくん:04/02/11 21:35.net
余韻が残っているうちに曲順を書いときます(すでにアヤシイですが・・)

1. Are You Ready
2. Rock'n Roll Soul
3. Footstompin' Music
4. Time Machine
5. Heartbreaker
6. Into The Sun
7. Mean Mistreater
8. We're American Band
9. Sin's A Good Man's Brother
10. Bad Time
11. Loco Motion
12. Some Kinda Wonderful
13. Inside Lookin' Out
14. Closer To Home


351 :まっくん:04/02/11 21:58.net
真ん中あたりの曲順はあやしいです 補足お願いします
Americanbandは何のてらいもなくやってくれた・・・
(つまらん事書いてスミマセン)
あと 会場にサビになると星条旗を振ってた人たちがいた
最初のお約束の3曲もタイトでしたがラスト2曲の密度は凄かった
Closer To Homeで会場から歌声が起こったのには涙・・・
(大合唱とまではいきませんでしたが)

全体で1時間半ほどのショーでした
初日で機材の調子も悪かったようですが
今夜は楽しんでってくれ!ていう心意気が伝わってきました
自分としてはマークの勇姿を拝めただけでも充分涙、涙でしたが
マークはこれからどこへ向かうのだろう

名古屋、大阪の方 よければレポよろしくお願いします

352 :伝説の名無しさん:04/02/11 22:34.net
・1階は後ろ3列ぐらいを除いてほぼ埋まってた。
 俺の席から2階は見えなかったけど、2階は開放してたの?

・マークはルックスはともかく、声はCDと一緒。
 あの年代のハードロック歌手で、あれだけ声が衰えてないのは凄い。

・1階の前の方は、足腰が立たない人達の集会ですか?
 お前ら何しにハードロックのコンサートにきてるのかと。俺と席変われと。
 中央の彼女連れのニーチャン一人が頑張ってたような。


・アメリカンバンドで星条旗を振って会場を盛り上げてた客は、
 係員に注意されて旗を引っ込めさせられてた。
 もう係員アホかと。

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