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【メル】グランドファンクレイルロード【ドン】

1 :名盤さん:02/05/31 20:38 ID:Rvx/D1IU.net
グラファンについて語ってください。
個人的には1st〜3rd、LIVEが好き。それ以降はだめ。

270 :まっくん:03/09/12 20:11.net
よーーーーーうやく規制解除! 2ndライナー一気に逝きます

「実のところオレは常々British Invasion(英国の侵略)という奴が
一般的に言われる事に少し憤慨しているんだ」GFRのマークは言う。
「何だって!? ブリティッシュの連中がしたのは
アメリカのRock 'n' rollの模倣だ。別に侵略なんかしてない・・・
The Beatlesの影響を自分も受けている事は分かっているけどね」
GFRは今まさにアメリカの若者文化への侵略を開始しようとしていた。
しかし彼らの攻撃計画は自国内に限られていた。実のところGFRは
無名から1969年のロック界を震撼させるには至っていなかった。
彼らは貧しい労働者の街であるミシガン州フリントを抜け出したのだ。
マネージャーのテリーはかつて同じバンドで過ごしたマーク達の音楽を
多くの聴衆にのもとへ届けるための目算を立てていた。
マーク、ドン、そしてメルは野心にあふれ 証明すべき何かを持った
パワフルなロックトリオだった。音楽はすでにずっと彼らの人生の
大きな部分を占めていた。それは天職、使命とも言えるかも知れない。
今や彼らは彼ら自身の仕事を為すことを望んでいた。

GFRとしての1stアルバムはOn Timeと題され準備万端整い69年8月の
リリースを待っていた。テリーはすでにもう一枚アルバムを作るために
数ヶ月間彼らを録音スタジオに連れ戻す計画を立てていた。
しかしバンドは まず外へ出て人々に彼らの資質を見せるべく
出来るだけ多くのステージをこなさなければならなかった。
アメリカはGFRを認知しつつあった。

271 :まっくん:03/09/12 20:13.net
マークは回想する。「夏のポップフェスティバルの現場を経験し
オレ達なんか聞いたことがない聴衆のリアクションに触れてみて
彼らはただ音楽が聴けさえすればいいって言うことをつくづく納得
させられた。そしてオレ達はオレ達自身の個性に気がついたんだ」
Atlanta Pop FestivalでのGFRの激しいオープニングステージは
強烈な印象を与え 次の二晩も演奏を依頼されるほどであった。
続いてTexas International Pop Festival, West Palm Beach
Music Festval, Strawberry Fields Festival in Canada, で演奏して
取りわけこのバンドに対する興奮は 明らかに相当な熱気を帯びて
盛り上がっていった。

60年代後半を振り返ると ロックビジネスやレコード業界を支配する
原理や方法論は現代とは違っていた。当時はひとつのバンドが
一年の内に1枚以上のアルバムを作るのはそれほど珍しくなかった。
GFRの場合 最初の2枚のアルバムは6ヶ月の間を置いて録音された。
「当時こんなやり方をしてた」ドンが言う。「オレ達はスタジオに入り
1週間で1枚のアルバムを作った。実際それをミックスして
完パケまでいったよ。その前にたくさんリハーサルをしたけどね。
オレ達はスタジオ入り前の1ヶ月をリハーサルと曲作りに費やした。
しかしオレ達はスタジオ入りして1週間でアルバムを完パケすると 
すぐ旅に出たもんだった」ドンは回想する。「テリーはオレ達に
多作であることを望んでいたと思う。そしてキャピトルは明確に
それを望んでいた。契約書に年間2枚のアルバム制作があるのは
こんな事情さ」

272 :まっくん:03/09/12 20:16.net
GFRの2ndアルバムはもう少しで無くなるところだった。
もし神の御心による介在が無ければ アルバムOn Timeがこのバンドの
唯一の記録となったことだろう。しかしマークは69年の夏の間
ガーディアンエンジェルの見張りをつけなければならなかった。
「マークがたった独りで あるバイク集団と話しているのを思いだすよ」
テリーが回想する。「連中はマークの長い髪をかっらかっていた。
彼は窮地に陥り相当ひどく殴られた。泥まみれで見分けがつかない
ほどにね。連中は彼の髪の毛を一握り引っこ抜いた」テリーはこのひどい
事件の結果マークが負った肉体的な目立った損傷を誇張してはいなかった。
しかし全ての仲間達にとって幸運だったことにマークはその日を生き延び 
比較的すぐに回復して 10月にはバンド仲間とスタジオに戻り
レコーディングを再開出来るまでになった。

「曲作りの必要性が出てきたんだ」ドンは彼とマークが以前いたバンド
The Pack(別名The Fabulous Pack)がついに解散し GFRが
まさに始まろうとしていた過渡期の68〜69年について話していて
こう思い返す。「オレ達はThe Packというバンドに在籍して
こんなふうに達観した。安定したギャラのためにカバーバンドに徹し
何者にもならないか もしくはオレ達自身の才能を始動させるか、
のどちらかだ。オレ達自身の素材で挑戦してみようじゃないか とね」
彼らはGrand Funkとして2番目の道を選択した。
「どこからオリジナルのネタを仕込んでくるかって?
マーク君、シンガーであるキミからだよ」
これ(歌手自身が曲を書く事?)がGFRがデビューした当時の状況で
オレ達が目をつけていたやり方だった、とドンは言う。マークは
オリジナル曲を書く事を期待され このギタリストはそれに同意した。

273 :まっくん:03/09/12 20:18.net
ドンは回想する。「フリントのMusicians Union Hallで3人で
練習に励んでいる時、オレ達はこんな風にマークに取り入った。
オレ達には曲が必要だった。オレとメルはよくマークに言ったもんだ。
『オレ達はマクドナルドへ行ってお前にビックマックを買ってくるよ。
オレ達が戻ってくる頃にはいいアイディアがいくつか浮かんでる
だろ?(笑)』そしてオレ達が戻るとヤツは何かを思いついてるんだ。
『コイツはどうだい?』ってね」マークはいつも3人で進められるような
いくつかのリフや音楽的なアイディアを考え出した。

彼らは大慌てで曲作りに励んだので 必然的にあちこちから少しばかり
無断借用をし事をドンは認めている。On TimeのB面1曲目Into The Sun
(The Pack時代はGetting into The Sunと呼んでいたが)はいくらか
「Steppenwolfもどき」だとドンは自認する。おそらくInto The Sunの
メインのギターパートはそのグループの初のビッグヒットである
Born To Be Wildから思いついたのだろう。しかしGFRはそこに
彼ら自身のオリジナリティを交えている。

274 :まっくん:03/09/12 20:20.net
GFRの2ndアルバム(シンプルにGrand Funkと呼ばれている)の
1曲目は 将来を考え70年代に進んでいこうとする前のThe Pack末期の
感覚を表現している。マークが書いたGot This Thing On The Moveを
マークとドンはThe Pack時代にプレイしていて 後にメルに教えた。
「メルはまったく大した奴だった」ドンは彼らの若きバンド仲間が
10代だった頃を思いだして言う。「メルがThe Packを見に立ち寄った
時のことを覚えているよ。まるでThe Packのファンのようだった。
彼はいくつかの違った場所にも立ち寄ってくれた。Bay City
(ミシガン州東部の?)でも彼はいつも来てくれた。オレが彼を初めて
知った時は こんなガキが聴衆の中にいるぞって言う感じだった」
アルバムGrand Funkはリリース当初からそのジャケットの色によって
ファンはRed Albumと呼んでいる。皮肉にもそのジャケットのメルの
イメージはマーク、ドンよりもずっと目立っている。あごひげを生やした
メルは中央右寄りに背が高く描かれ 波打つ水玉のシャツとダラリとした
黒っぽい帽子を身に付け 彼の強力なベースギターを弾いている。

「心に留めておいてくれ」テリーが指摘する。「現在heavy metal
として知られる音楽を形作ったのは あの当時GFR, Black Sabbath
Led Zeppelinだけだった。それらが無かったらheavy metalは
消え去ってしまっただろう」

275 :まっくん:03/09/12 20:22.net
マークの書いたParanoidが2ndアルバムのセッション中に録音された。
(この曲はInside Looking Outとともに最もへヴィで激しいGFRを
象徴している)Black SabbathにもまたParanoidという曲があり 
彼らの2ndアルバムのタイトルになっている。しかしそれは純然たる
偶然である。「他にParanoidっていう曲があるなんて知らなかったよ」
マークは言う。「オレ達はいつもラジオをよく聞いていたわけじゃ
なかったからね」しかしながら10分近いファイナルトラックの
Inside Looking Outは連中がラジオでよく聞いていたに違いない曲だ。
Eric Burdonによって歌われたのが数年前の1966年で アメリカで
Top 40 ヒットになった。このブリティッシュグループはThe Packでも
称賛されていた。GFRバージョンをその強烈なべースパートで煽り立てた
メルはずっとAnimalsのベーシスト Chas Chandlerのファンだった。
The Packが習慣的に他のグループのカバーをしたように 2ndアルバムは
この曲でしめくくり(カバーをする事の?)GFRの先例となった。
それは彼らの多くのカバーの中で最初のものであり成功に恵まれた。
GFRバージョンのInside Looking Outはイギリスのシングルチャートで
40位になり結局イギリスで最も成功した記録となった。

276 :まっくん:03/09/12 20:24.net
「我々はこうしたセッションのための 適切で効率の良いシステムを
すでに作り上げていた」テリーが信頼するレコーディングエンジニアの
ケン・ハマンは語る。(Cleveland Recording Studioは
オハイオ州Cleveland Euclidのダウンタウン1515にあった)
「なぜなら私はすでにJames Gangなんかと仕事をしていたからね」
The James Gangの1stアルバムはJoe Walshがフィーチャーされ
前年にCleveland Recordingで制作されていた。
「ケンはオレが思っていたよりずっとオープンマインドだった」
ドンが語る。「彼のアプローチはこんな感じだ。『これはrock 'n' roll
なんだよ。いつも伝統的な方法でやる必要は無いよ。どうしたら
マークの金切り声をあげるボロボロで凄まじく卑猥なギターサウンドを
このWestのアンプから出せるだろう。どうやってコイツをテープに
収めようか?』彼は挑戦する事をためらわなかった」
マークとドンは(ケンに)指摘した。「ボロボロでイカした
このMessengerのギターを弾くのさ。そうすればそういう
サウンドが出せる。あとワウワウペダルも使うよ」
現在 Euclid通りの以前Cleveland Recordingがあった場所に行き
さらに北へ数ブロック歩くとRock And Roll Hall Of Fameがある。
そこで 栄光あるdirty soundを紡ぎだしたマークのMessengerの
ギターを見ることが出来る。

277 :まっくん:03/09/12 20:25.net
GFRについての書籍An American Bandの著者Billy Jamesは
マークの曲であるIn Needについて「一夜にして得た成功に対して
彼らが面と向かって受けたバンド仲間や知り合いの反応である」
と言っている。Jamesはまたその著書の中で LPリリースの数ヶ月後
(69年のクリスマスの数日後)バンドはHugh Hefner司会のTV番組
Playboy After Darkで Red AlbulmのA面からPlese Don't Worryと
Mr.Limousin Driverの2曲を口パクでやった と述べている。
「オレ達は まだ製作中の曲は決してショウでは演らなかった」
マークは言う。知っての通りオレ達はレコード盤になっていなければ
決してそれを試してみようとはしなかった。
Plese Don't WorryはRed Albumでマークとドンの両方の名前が
クレジットされた曲のうちの1曲だ。多くのGFRナンバーが
書かれたが マークとドンの共作はこの曲が一番最初である。

スタジオアルバム第二弾Grand Funkは69年10月にほとんど
レコーディングされ その2ヶ月後には店頭に並んでいた。
On Timeほど長時間ではないがRed Albumはそれでも50分近くあった。
今やGFRは90分近いコンサートの為のオリジナルレパートリーを持ち
彼ら自身がメインのショウをやる準備が整った。一方 DJ出身の
テリーは 彼のラジオ界での影響力をレコード業界のために行使した。
「一晩に2時間は電話をかけていた」テリーは言う。「おそらく5人か
6人だったか 国内中の主要なDJ達の専有回線にね。そして彼らを
おだて上げて頼んだ『Into The Sunをかけてもらえないかい?
私からのリクエストとして。それかInside Looking Outを・・・
どうかオンエア用のレコードを買ってくれないか?』こういう内職を
昼も夜もたくさん続けたよ」

278 :まっくん:03/09/12 20:27.net
ドンは 初期GFRのサウンドが素朴であればあるほど、そして制作が
早急であればあるほど これらのアルバムには自分たちの個性がはっきり
出ている、と感じている。そしてドンは自分の関わりを誇りに思っている。

「Clevelandはいつも中西部を出てNew Yorkへ向う第1歩だった」
ドンは言う。「そしてそこには明らかに音楽に対するより進歩的な姿勢が
あった。ケンのCleveland Recordingには広いレコーディングブースが
あった。そして楽器のすぐ近くにマイクを置かないようにしていた。
マイクを遠くに離せば部屋の鳴りを収録することが出来たんだ。
そしてテリーは後ろに立って全体を聞き編曲した。オレ達はケンに
とにかくデカいギター、ベース、ドラムサウンドを望んだ。正直なところ
London風やNew York風やL.A.風にしようと試したけど やっぱり
少しばかり中西部風になってしまった。でもオレ達は ささやかな
自分たちの居場所を切り開いた。テリー、ケン、マーク、メル、ドン、
この5人の組み合わせ、全体の人間関係は本当の家族のようだった。
そしてオレ達がそれを築き上げた」
「On Timeは実験のようなものだった」メルが語る「オレはRed Albumが
1番気に入っている。まさにGFRの全てを音楽的に表現していると思うよ」
GFRは1年を経ずして成功した。1st 2ndアルバムのレコーディングを
通して 彼らはまさに動き始めた(gotten this thing on the move)。

Steve Roeser

279 :まっくん:03/09/12 20:31.net
以上 物凄い勢いの連続カキコ 失礼!

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