2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【メル】グランドファンクレイルロード【ドン】

1 :名盤さん:02/05/31 20:38 ID:Rvx/D1IU.net
グラファンについて語ってください。
個人的には1st〜3rd、LIVEが好き。それ以降はだめ。

296 :まっくん:03/10/25 20:42.net
  さすがに下がりすぎて心配になってきたので
  とりあえず3rdのライナーの最初の部分だけうpします
  なるべく間が空かないようにがんばってみます

「ヘヴィメタルの歌詞がいつも暗くて取り乱していなきゃいけない事はない」
ベーシストのメルは語る。「マークは素晴らしいmessage musicを書いた」
GFRが3rdアルバムのレコーディングの準備をしていた70年代初頭
マークは 恐らく彼の作品のなかで最も素晴らしいメッセージソングを
作曲した。

「真夜中に目が覚めたんだ」マークは70年の冬の特別な日を回想する。
それはちょうどGFRの2ndアルバムがリリースされた後だった。
「そして歌詞を書き上げた。その時はそれを詩だと考えていた」
「朝起きるとオレはフラットトップのギターを持ってキッチンに行った
テーブルに足を投げ出してコーヒーを飲みながら朝の時間を過ごした
朝日が差し込んでくる 分かるかな? オレは一人でギターを
つま弾いていて そしてコイツが聞こえたんだ(マークは彼が
説明している曲の最初のギターリフを歌って見せた)
それからオレはその曲をかき鳴らし始めたんだ」
「作曲はさらに進んだ(よし、コイツには昨晩のあの歌詞が
合いそうだぞ)おれは歌詞を乗せて歌い始めた それからギターと
歌詞を一緒に合わせてみた オレはこの曲をドンとメルの待つ
リハーサルに持って行った あとは歴史が示すとおりさ」
マークが語っているのは勿論I'm Your Captainの事だ。
それはGFRの3rdアルバムの中心となる曲であり 曲の後半で
何度も何度も繰り返されるI'm Getting Closer To My Home
の部分はアルバムタイトルに冠されている。

297 :伝説の名無しさん:03/10/28 01:23.net
毎度乙カレー!

298 :伝説の名無しさん:03/11/01 07:28.net
『ロック魂 AMERICAN ROCK ’70−’75』という
コンピレーション・アルバムの1曲目に「アメリカン・バンド」が入ってるね。
でもGFRの曲がコンピレーション・アルバムに入るときって
なんで「アメリカン〜」なんだろ?
もっと他にもGFRらしいのあるし・・・・・


299 :まっくん:03/11/07 19:07.net
 3rdアルバムライナー その2

フリント出身の作家、映画製作者であるMichael Mooreは
VHIのドキュメンタリーでGFRについてインタビューを受けた時
70年にベトナム戦争で戦っていた何千もの男達にとって
I'm Your Captainがいかに意味深長な曲であったかを
熱く語っている。(彼らの多くはミシガン出身であり
何とか生き延びて家に帰れるように毎晩祈っていた)
GFRの曲は兵士達それぞれに語りかけ、また代弁していた。
Clocer To HomeはGFRの音楽的な可能性についてもまた違った面を
見せてくれる。それはテリーと彼の右腕であるケンの貢献によるものだ。
1年以上前ケンはテリーとSt.Paulというレコードを制作した。
テリーは大望ある歌手でありレコーディングアーティストとして
ささやかな成功を享受していた。St.Paul.はテリーがPaul McCartneyに
ひっかけて書いたもので Beatlesのさまざまな曲を引用していた。
この曲でテリーの夢想を実現するためアレンジャーのTom Bakerは
クリーブランド交響楽団の演奏者をレコーディングに起用した。
さて、素晴らしい新曲であるI'm Your CaptainでBakerとテリーは
GFRでも同様に事をしようとした。
キャピトルのスタジオログファイルによれば GFRの3人は
I'm Your Captainのベーシックトラックを70年4月10日に
Cleveland Recordingで録音している。それから1週間後の
聖パトリックデーに この野心的なアルバムを最終的に完成させる
オーケストラセクションがレコーディングされた。
しかしケンによると この時オーケストラのメンバーはNew Yorkに
借り出されていてクリーブランドには居なかったのである。

300 :まっくん:03/11/08 21:53.net
 3rdアルバムライナー その3

ケンは 素のままのI'm Your Captainのテープが入っているケースを
膝の上に置き ニューヨーク行きの飛行機に乗った、と言う。
長い年月の後では100%確実ではないが オーケストラパートの録音は
おそらくRecord Plantのスタジオで行われたとテリーとケンは
思っている。彼らは彼らの責務を1日以内で遂行した。
ケンはオーケストラを録音すると それらを編集しLPを仕上げる為に
クリーブランドへ飛んで帰った。「行ったり来りだったよ。テリーは
Don Bakerと我々がそこに行くのにリムジンを雇った。甘味な
オーケストラセッションを終えると 我々はリムジンに飛び乗って
空港へ逆戻りさ!」ケンは語る。
このような慌ただしい次第でなければ LPは6月中にリリースされる事は
なかった。テリーは4月中にGFRのニューアルバムをキャピトルに
提出するために ケンに出来るかぎり早く Closer To Homeの制作を
終わらせる事を要求した。こんな訳でケンとテリーはI'm Youra Captain
のベーシックトラックの左の不注意なミスに気づかなかった。
彼らは編集作業中にミスのある演奏テイクを採用してしまった。
そしてそのミスは注意深く聞くと判別することが出来る。
曲頭から1分位のところ、マークが歌っている間に男の声が何かを
喋っているのが聞こえるだろう。この曲の反響が熱狂的になり始めた頃
この事に気づいた当時のファンはこんな風に解釈したかも知れない
メルかドンのどちらかが演奏に集中する余り他の誰かを煽り立てたのだと。


301 :まっくん:03/11/11 18:16.net
 3rdアルバムライナー その4

しかしそれは違った。リイシュープロデューサーのDavid Teddsは
その声を分離し それがテリー・ナイトの声であることを突き止めた。
テリーが何を言っていたか・・・「よし、そこでストップだ」である。
彼は恐らくスタジオのトークバックマイクを通して ケンかバンドの
メンバーのどちらかに話しかけていた。そしてその声が録音を
キズモノにしてしまった。しかしバンドはプレイを続け ケンも
録音を続けた。
まったく故意にではなくテリーの声が残されはしたが
それは素晴らしいテイクだった。ケンはオーケストラセクションの
テープと共にニューヨークから戻ると すぐにトラックの編集作業に
かかり、カモメの鳴き声と波の音を付け加えた。
「その晩にそれをミックスしたんだ」ケンはRecord Plantから
クリーブランドに戻った、まさにその当日の事を話している。
「私は『その日!』の終りまでひどく朦朧としていた。こんな訳で
あのミステイクを見逃してしまったのさ」
I'm Your Captain(後になってI'm Your Ca;tain/Closer To Home
とも呼ばれた)はこのアルバムのクロージングトラックの座を得た。
もうひとつの長時間LPであるGrand Funkに比べこのアルバムは
約45分であるが 最後にこの曲が奮闘している。「それは最後に
輝きを添えるもの、と言えるかも知れないね」このアルバムの
エンジニアを務めて32年が経た後でケンがそう指摘する。
「その他の全ての曲はプリミックスされ準備が整っていた」

302 :まっくん:03/11/13 23:28.net
 3rdアルバムライナー その5

I'm Your Captainに対するファンの反響は このレコードに
関わったあらゆる人間を興奮させるものだろうと予想されたが
このアルバムの他の7曲の中にはさらにいい曲があった。
「多くのGFRファンは Closer To HomeにGFRが大成功するに至った
全ての要素が含む彼らの最高傑作アルバムであると見なしていた」
GFRのバイオグラフィーAn Americann Bandの著者の
Billy Jamesはこう語る。
I'm Your Captainの対をなす1曲目のSin's A Good Man's Brotherは
その詩にマークのスピリチュアルで沈思黙考する一面をのぞかせている。
その静かなイントロに騙されてしまうが 数秒後にバンドはロックの
エネルギーを解き放つかのように大爆発する。それはまさに
出世を遂げた彼らを表しているようだ。

303 :まっくん:03/11/13 23:38.net
 少し修正 それでもまだ日本語がヘンだ・・・・

「多くのGFRファンは Closer To HomeはGFRが大成功するに至った
全ての要素を含む彼らの最高傑作アルバムであると見なしていた」

304 :まっくん:03/11/14 20:25.net
 3rdアルバムライナー その6

「メルがWestのアンプを持ち込んだんだ」ケンが回想する。
それはマークの友人でフリントに住むDave Westのブランドのものだ。
「それは勿論すさまじい高出力を出せるアンプだった。我々はそれで
近所中を震わせた。スタジオの窓は外に向って開け放されていたんだ。
そして隣のオフィスビルの連中が文句を言い始めた。でもこうした
レコーディングセッションは週末か深夜に行われていた」
「最初の頃のメルは基本的にドンとつるんでいた」テリーが回想する。
「そして、そうあるべきだったんだ。ベースとドラムは固い絆で
結ばれていなければならない。一方が音楽的な要素を、一方がリズムを
担当するが 彼らが同じ感覚でプレイすることは不可欠なことだ」

マークのギタープレイは進歩を続け、Aimless LadyやNothing is
The Sameのような曲で卓越したプレイを再び披露している。
キーボードもまたこのアルバムでは重要な要素だ。
キャッチーなインストゥルメンタルであるGet It Togetherは
マークが弾く、いくらかジャズ的なエレピとオルガンのリフによって
構成されている。それはヘヴィなGFRスタイルからの もう一方の
発展だった。(曲の後半では)ソウルフルな女性コーラスが起用され
ボーカルの幅を拡げている。

305 :まっくん:03/11/17 23:22.net
 3rdアルバムライナー 完結!

スタジオ録音のMiean Mistreaterある。この年のうちには
この曲のライブバージョンのシングルがリリースされている。
この待望のフルリマスターCDで 我々はMiean Mistreaterの
ボーナストラックを楽しめる。それはエレピと同じぐらいマークの
オルガンがフィーチャーされている。何故彼らはこのアルバムの
曲順を決める時に この曲のオルガンパートを抜くのを選択したのか
ちょっと不思議だ。この曲はオルガンがあった方がいい、というのは
今や多くの人が同意するところだろう。
Closer To Homeは70年6月15日にリリースされると あっという間に
トップ10アルバムとなった。こんなチャートランキングはこのバンド
初の事である。アルバムが出てからおよそ1年というもの、GFRは
I'm Your Captain/Hooked On Love/Get it Togetherの3曲を
メドレーで演奏した。このアルバムリリースの時点で バンドは
すでに充分成功していたが、Closer To Homeは彼らを成層圏の
高みにまで打ち上げた。

306 :まっくん:03/11/17 23:23.net
「ダークブルーの新しい70年型サンダーバードを買ったよ」
バンドがブレイクして 初めて受け取った莫大なギャラを思い起こして
ドンが笑いながら言う。「そいつは最高だった。メルとマークは両方とも
リンカーンを買った。しかし運転しているのがヒッピーみたいなオレ達
だから そんな車は他ではなかったな。どうだい?そいつはちょっと
アヤシイもんだったよ!」
まったくもってアヤシイ。ミシガンに本拠を置くCreem Magazineに
寄稿していた著名なロック評論家のLester Bangsは マーク、ドン
メルに触れて「世界で有数のグループになったミシガン州フリント
出身のイカした3人の若造」と書いている。この評論からは
あるかなきかの気乗りのしない称賛しか伺われないが GFRは
こうした連中からも期待されるようになった。大した事ではない。
重大なのはCloser To Homeがバンドのコアなオーディエンスである
ブラザー、シスターから世界的に受け入れられた事だ。
それは大いに重大だ。疑いもなく。

Steve Roeser

我々はCloser To Homeをベトナムに出征した全ての勇敢なアメリカ人に
捧げる

-Mark, Don & Mel

307 :伝説の名無しさん:03/11/18 18:54.net

   _、_
 ( ,_ノ` )      n
 ̄     \    ( E) グッジョブ!!
フ     /ヽ ヽ_//



308 :まっくん:03/11/18 19:18.net
 オマケ アルバムジャケット裏にあるテリー・ナイトのコメント

去年の今ごろ、GFRは単なる3人の無名な若者に過ぎなかったが
彼らはミシガンのホームタウンにある暗い煉瓦造りのリハーサルホールで
自分たちの新しいサウンドを追及していた。
今やGFRの名前の意味するものは 国中で最も敬意を払われている
大きなコンサートホールを満員にした聴衆の叫びやスタンディング
オベイションである。
確かにGFRは成長を遂げた。そしてその事がこのアルバムの
全てである。彼らの音楽は明らかに世界の歴史上最も見識が高く
最も成熟した世代を反映している。人々が受け継いだのは 世界を
暴力と公害と無法者と死にかけた老人たちで満たすことだった。
こんな時代にGFRの3人は生きている。1stアルバムでは
「オレが目にしている現実はこうだ」と叫び 2ndアルバムでは「オレは
こう感じるんだ」と語るまでに成長した。そして今、この3rdアルバムで
彼らは何百万ものブラザー、シスター達と手を取りあって「これが
自分の向う場所なんだ」と語っている。
New Cultureに属する彼ら3人は死につつある世界を抜ける最後の航海に
出発しようとしている。
我々全てにCloser To Homeをもたらす道を探し求めるために。

Terry Knight
Producer

309 :伝説の名無しさん:03/11/27 05:59.net
ナイトとマネージメントで泥泥にもめようとは・・・

この当時は関係者はだれも思いもしなかったろうね

310 :?U¨?A´?-?n:03/11/28 20:24.net
 Live Albumライナー その1

GFRの非凡さと そのオリジナルメンバーであるマーク、ドン、メルは
70年の春には、合衆国において事実として認知された。当時は
ポップ、ロック史上極めて特異な時代だった。Jimi Hendrix,Janis Joplin,
Jim Morrisonといった伝説的なアーチスト達は皆存命中で現役であり
大いなる象徴としその時代の若者文化に貢献していた。
GFRはロックコンサートを回る旅程でJanisやJimiとすれ違っており
マーク、ドン、メルは彼らの両方と間近に出くわしている。
「オレ達は友達だったんだ」マークはJanisとの関係をこう語る。
その気まぐれなシンガーはこの年の10月に悲劇的な死を遂げ それから
3週間もしないうちにJimi Hendrixが亡くなった。
「彼女がGFRのショウに来ていたんだ。ある時オレは具合が悪くて
ドンのドラムソロの間オフステージにいた。気持ちが悪くなって
化粧室に駆け戻った。オレは自分の出来ることは全てやって空っぽに
なってしまった(笑)。オレが戻ってくると彼女が言った。
(マークはJanisの話しぶりを真似た)『坊やったら具合が悪いの?』
オレは言った『サイアクだよ!』『そう これをちょっと飲んでみて』
彼女は自分のペイズリーのハンドバッグに手を伸ばすとRippleのボトルを
サッと取り出したんだよ!」
「オレ達がJanisと会ったのは第1回のWest Palm Beach Pop Festival
だった」ドンが回想する。「彼女はひどく飲んでいて疲れ切っていたっけ」
GFRの3人はまたある時喜ばしい経験もした。NYCのFillmore Eastでの
GFRのショウのバックステージにJimi Hendrixが顔を見せ 彼らの才能を
称賛してくれたのだ。JimiのベーシストのNoel Reddingが彼のバンド
Fat MattressでGFRのオープニングを務めていた。

311 :まっくん:03/11/28 20:28.net
これらはGFRが登場した遥かなる1970年の状況のほんの一端でしかない。
しかし、何回かこうしたコンサートに行った事のある人なら このGFRの
Live Albumに心を奪われるだろう。このアルバムが初めて店頭に並んだ
あの当時も、そして長い年月が経った今も再び 3人は容赦のない
エネルギーでバカでかいサウンドを炸裂させている。そして勿論
GFRの熱狂的なファン達が それに負けないエネルギーをバンドに
ぶつけ返している事実を過小評価することは出来ないだろう。
それは言葉では表せない共生関係だった。

「原始的な本能をふるわすようなこうした熱狂がオレは好きだった。
ステージ上での出来事に聴衆は反応した。GFRは芝居じみたバンドだ。
オレはプレイする時 ステージ上で動いたり飛び上がったりおどけた
仕草をしてその曲の主人公を表現した。しかし大ゲサだったな」
マークが笑いながら言う。「つまりね 後ろの方にいる客にも
何をやっているか分かるようにだよ。自分はこの事を早くから
身に付けた。これがLive Albumでのバンドの実態さ」

312 :まっくん:03/11/28 20:29.net
クールなジャムナンバーであるMark Say's Alright(これは他の公式
アルバムでは聞くことが出来ない)を例外として Live Albumにおける
全ての曲はバンドがクリーブランドのスタジオで録音していたものだった。
4曲は1stアルバムから 3曲は2ndアルバムから 全て1969年に作られた
オリジナルである。残る1曲のMean Mistreaterは最も新しい曲であり
3rdアルバムのColser To Homeに収録されていた。Live Albumでの
この曲の演奏は 画期的なアルバムColser To Homeのリリースから
1ヶ月も経たないうちに録音されている。なぜならLive Albumの
いくつかのトラック(大部分ではないが)はColser To Homeの
プロモーションキャンペーン中に録音されたからだ。そのプロモの
主たる内容はいま一度記述されるべきであろう。そしてそのスゴい
内容とは マーク、ドン、メルの有名な巨大看板がNYCのTimes Squarsに
作られたことだ。

313 :まっくん:03/11/28 20:32.net
「私が最初にTimes Squarsのビルボードを見たのはニューヨークに
初めて行った60年代の初期だった」70年当時、GFRのマネージャーであり
プロデューサーのテリー・ナイトが回想する。「私が見た時は
Shen Conneryの007が掛かっていた。私はそれが忘れられなかった。
そして自分に言い聞かせた。『あの場所はオレのものだ。これから
やる事であいつを手に入れてやる』」
「テリーにはそのアイディアがあった」ドンが言う。「キャピトルに
それを実行するよう要求している場に オレ達は確かにいたよ。
実際にそれを最初にやったのはThe Rolling Stonesだった。でも彼らは
全面を使ったわけじゃない。彼らはアルバムの宣伝のためにビルボードの
『一部分』を使った最初のグループさ」さて、テリーはこの事実をもって
キャピトルに働きかけた。今や彼には売り出し中のイカしたバンドある。
「テリーはキャピトルに着くと行った『アンタがたに頼みたいんだが
GFRとこのニューアルバムのためにビルボードの全面を買いきって
くれないか』それは実際に市街の1区画の長さだった。オレ達は
キャピトルのための大作アルバムを作り上げ 彼らはバンドのレコードを
売り込むことに熱中していた」
このビルボード一面にデザインされた60フィートの高さを誇る顔写真
(左から右に向ってメル、ドン、マーク)は全く仰天させられる
代物だった。(ドンとテリーが総計を確認しているが)10万ドルの
コストの内 7万ドルがスペースのレンタル料に、3万ドルが労働者と
設置料金当てられたという。この申し分のない作品はBloadwayに
位置し きっちり45th Streetと46th Streetの間隔分の長さがあり
バンドメンバーの顔がじっと夕陽を見つめている。

314 :まっくん:03/11/29 22:16.net
 Live Albumライナー その2

「彼らは1ヶ月分の料金をしぶしぶ払っていた」ドンが言う。
「そうしたらストライキのために看板は3ヶ月もそのままに
されていたんだ。凄かったね。オレ達はそれでだいぶ得をした」
「看板塗装工組合が完全ストに入ったんだ」テリーが回想する。
「そしてビルボードは彼らなしには塗り替えることが出来なかった。
まったく前代未聞の信じられない休止だったよ」
考えても見て欲しい。3ヶ月の間にTimes Squarsを通りすぎる 恐らく
100万以上の旅行者がGFRの広告を目にする。地元に住んだり仕事を
したりしている全ての住民達は言うに及ばず、だ。New YorkはGFRの
最も忠実なファンがいる恐らく最大のマーケットだった。
彼らはFillmore East(席数2,500)で何日間かプレイすると、Madison
Square Garden(20,000)でメインアクトを務め、Shea Studium
(55,000)を満杯にした。ある時点では New York Daily Newsが
行った人気投票の結果 GFRはアメリカのベストロックグループとなった。
記事によれば フリント出身の若者たちは Creedence,(CCR?)
Led Zeppelin, The Jackson 5, Santana, The Who といった他の
ポピュラーなアーチスト達を屈辱的に引き離し全体の75%もの票を得た。

315 :まっくん:03/11/29 22:18.net
ギタリストで音楽ジャーナリストでもあるLenny Kayeは 70年12月の
Rolling Stone誌の見出し記事で その月の11日と18日にMadison Square
Gardenの外で GFRを見に来た若者たちにインタビューをしている。
その時はLive Albumの発売から数週間経っていたが その2枚組のLPは
熱心なファン達が考え込まなくてもすむような低価格だった。
「彼らの音楽が1番好きだよ」ある若者がに語る。「そのビートに
ジーンと来るよ。自分の血管の中を流れてるみたいだ」
「彼らはアルバム毎に良くなっているね」別のファンが言う。
「3rdアルバムは本当に最高だよ。Live Albumもそれと同じぐらいいいね」
何人かの若者は 特にLive Albumに収められているInside Looking Outに
如何に感動したかを語っている。「Eric Burdonがレコードを出した時は
それがカッコよかった。だけど今じゃ(GFRと)比べ物にならないよ」
ある若者はその音楽を「脳ミソを直撃する」と言い、別の若者は
「奴らの演奏ぶりは・・・葉っぱをキメてるね!」とうっかり喋っている。
Lenny Kayeは 古くからロックミュージックの批評を書いている
自称「評論家」達よりも ずっとオープンマインドで独立していた。
彼は GFRの絶大な人気を考慮したうえで自ら進んで彼らにある程度の
名声を与えた。バンドのファン達は、この国の流行仕掛け人達が愚かにも
気づかない事を分かっているのだ、と彼は結論づけている。

「あの当時はね」ドンが語る。「評論家達は バンドと観客がひとつに
なってゆく その全体の中に全く入っていかなかった。彼らはバンドを
見に来るのが常だった。そして考える。『うん、あのミュージシャンは
良かったな。彼の弾くフレーズを聞いたかい?』ってね」
「彼らにはこういうコンセプトが全く理解できなかった。『外に出て
大イベントを作り出そう。そしてバンドと観客とでアリーナでの
大コンサートを分かち合おうよ』という考えをね。彼らが理解するのには
少し時間がかかったけど オレ達がやったのはまさにこういう事さ。
これがGFRとは何かっていう事だよ」

316 :まっくん:03/12/05 19:53.net
 Live Albumライナー 完結!

オリジナルのLive Albumの見開きのレコードジャケットには 3人が
プレイしているところをステージの後ろから撮った写真が使われている。
その写真は 彼らにとって2度目のお目見えとなる1970年7月5日の
Atlanta International Pop Festivalのものであることが分かる。
ちょうど1年前、3人は熱気溢れるこのAtlanta Popのオープニングで
(ノーギャラで)演奏する機会を得た。当時バンドは無名だったが
彼らはこの絶好のチャンスを生かした。彼らの音楽は大群衆に響き渡り
その結果大評判となった。「GFRが一般に認められたのは初めてAtlanta
Pop Festivalに出た後だった」マークが回想する。「あれは申し分のない
出来だったよ」
69年から70年にかけて火花は炎となり、そして全開で燃え始め
GFRとその音楽の熱烈な支持者達の荒れ狂う大火へと変わっていった。
要するに彼らは僅か1年でロック界最大のニュースとなったということだ。
熱烈なファン達はこのバンドのコンサートのマジックを体験するために
合衆国のどの場所でも集まってきた。彼らはバンド自身がそうであるように
他のGFRファン達とも精神的に強い絆で結ばれていた。
「70年のLive Albumはまさにライブレコーディングだった」ドンが言う。
何のごまかしもしてないしオーバーダブも無しだ。録音をコントロール
しようという試みは全くしなかった。『おい今夜はレコーディングだぜ。
間違えないようにやろうな』分かるかい? 70年のこのアルバムは
こんな感じだった。『オレ達はこれから3日間ライブをレコーディング
する。だけど客の誰もレコーディングしている事なんか気にしやしない。
オレ達はショウをやるんだ。レコーディングは二の次さ』そして
Live Albumは自由奔放にプレイするパワートリオのピークを捉えている
とオレは思っている。そしてこれがLive Albumの真実さ」

317 :まっくん:03/12/05 19:56.net
Live Albumのオリジナルリリースから30年以上がたった今 この
最もヘヴィなサウンドのロックバンドのドキュメントは 我々を
ポストウッドストック時代へと即座に連れ戻してくれる。2枚組LPの
アナログ盤4面は 新しい1枚のリマスターCDにギリギリ収まっている。
だからマーク、ドン、メルや我々みんなが若くてイカれていたあの頃の
GFRのコンサートを蘇らせるのは簡単だ。単にプレイボタンを押し
ボリュームを上げイスに腰を下ろせばいい。そしてGFRのショウの
カタルシス、マジック、熱狂を もう一度どこでも好きな場所で
楽しむことが出来る。

「ステージ上のサウンドは良くなかったよ。いずれにしろ当時の
モニターシステムのサウンドは恐ろしくヒドかった」ドンが説明する。
「普通、ステージ上ではとにかくボーカルが充分に聞こえるようにする。
出来る限りの大音量でプレイしていたオレ達もそうだった。だから
何もかもがちょっと調子外れだった。でもみんな慣れっこになっていた。
何しろ毎晩のようにやっていたことだからね」

2002年、ついに初めて71年のGFRのライブレコーディングを集めたCDが
発売された。「Live-The 1971 Tour」はAre You Ready, Paranoid,
T.N.U.C, Inside Looking Out, Into The Sun といったLive Albumにも
収録されて親しまれているナンバーが含まれている。今やこの2枚の
ディスクは オリジナルパワートリオであるGFRのファンにとって
極めて重要な記録である。バンドがこうした曲をLive Albumが出た後も
ずっとプレイし続けていたという事実は、これらの曲がバンドと観客の
両方にとって如何に大切であったかの証拠となっている。
これらの曲の演奏の素晴らしさからいえばLive-The 1971 Tourだろう。
その前年に収録されたLive Albumは多分ギリギリの状態で演奏している。
初期のライブレコーディングには初々しさや新鮮さ、野性味が感じられる。

318 :まっくん:03/12/05 19:59.net
Live Albumは とてつもないサウンドで骨の髄までゾクゾクさせてくれた
バンドに対して 全国のGFRファン達が、好意的な評価を(おかしな
言い方に響くかも知れないが 彼らの感謝の意を)表現することが
許された初めての機会を象徴している。70年11月の新聞記事によれば
Live Albumの先行予約の総計はレコードが75万枚 それにプラス、
カセットが25万本だったと言う。当時キャピトルレコードのどんな
タイトルもこんな記録的な数字は出していなかった。テリー・ナイトと
バンドのメンバーはこの2枚組のレコードに安い小売価格をつけるよう
要求してそれを実行させた。その年のクリスマスシーズン 何百何千もの
若者たちが大挙して彼らの地元のレコード屋に押し寄せて お気に入りの
バンドによるこの特別な記念碑的レコードを手に入れるために 喜んで
1ドル札を5枚支払った(70年の価格相場としても格安だ)。
子供たちの多くは 恐らくまだGFRのショウを見たことがなかったに
違いない。彼らは子供すぎたし他の理由からも彼らの両親は子供たちを
そんな所へは行かせようとしなかった。しかし今、ついに彼らは
次善のものを手に入れた。
「こういうことさ」ドンが伝説的な初期のライブレコーディングを語る。
「GFRと聴衆が一体となっていく事が全てだった。分かるだろ?
オレ達はみんな『ひとつ』だったんだ」

Steve Roeser

319 :まっくん:03/12/05 20:10.net
 オマケ ジャケット裏にあるコメント

このグループ自身の真に歴史的なドキュメントをお贈りするために
本来の姿を編集することは避けた。このレコードの全ての曲は
オリジナルテープから全く修正を加えずに収録された。
このレコーディングにおいては エコーのようなものまでテクニカルな
助力は一切ない。そしてここで聴ける全ての事象は 彼らがしたこと
そっくりそのままである。
このアルバムは現実のコンサートにおけるGFRのライブレコーディング
である。曲間の中断は無いように整理されている。


 ・・・という事でここら辺あたりが一連のライナーノーツの中の
 白眉なのでは?と思われますが 相変わらずアヤシイ脳内変換です
 ツッコミどころがありましたらご教示ください
 Americanband位までは何とか辿り着きたいもんです

総レス数 565
205 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200