2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【メル】グランドファンクレイルロード【ドン】

1 :名盤さん:02/05/31 20:38 ID:Rvx/D1IU.net
グラファンについて語ってください。
個人的には1st〜3rd、LIVEが好き。それ以降はだめ。

310 :?U¨?A´?-?n:03/11/28 20:24.net
 Live Albumライナー その1

GFRの非凡さと そのオリジナルメンバーであるマーク、ドン、メルは
70年の春には、合衆国において事実として認知された。当時は
ポップ、ロック史上極めて特異な時代だった。Jimi Hendrix,Janis Joplin,
Jim Morrisonといった伝説的なアーチスト達は皆存命中で現役であり
大いなる象徴としその時代の若者文化に貢献していた。
GFRはロックコンサートを回る旅程でJanisやJimiとすれ違っており
マーク、ドン、メルは彼らの両方と間近に出くわしている。
「オレ達は友達だったんだ」マークはJanisとの関係をこう語る。
その気まぐれなシンガーはこの年の10月に悲劇的な死を遂げ それから
3週間もしないうちにJimi Hendrixが亡くなった。
「彼女がGFRのショウに来ていたんだ。ある時オレは具合が悪くて
ドンのドラムソロの間オフステージにいた。気持ちが悪くなって
化粧室に駆け戻った。オレは自分の出来ることは全てやって空っぽに
なってしまった(笑)。オレが戻ってくると彼女が言った。
(マークはJanisの話しぶりを真似た)『坊やったら具合が悪いの?』
オレは言った『サイアクだよ!』『そう これをちょっと飲んでみて』
彼女は自分のペイズリーのハンドバッグに手を伸ばすとRippleのボトルを
サッと取り出したんだよ!」
「オレ達がJanisと会ったのは第1回のWest Palm Beach Pop Festival
だった」ドンが回想する。「彼女はひどく飲んでいて疲れ切っていたっけ」
GFRの3人はまたある時喜ばしい経験もした。NYCのFillmore Eastでの
GFRのショウのバックステージにJimi Hendrixが顔を見せ 彼らの才能を
称賛してくれたのだ。JimiのベーシストのNoel Reddingが彼のバンド
Fat MattressでGFRのオープニングを務めていた。

311 :まっくん:03/11/28 20:28.net
これらはGFRが登場した遥かなる1970年の状況のほんの一端でしかない。
しかし、何回かこうしたコンサートに行った事のある人なら このGFRの
Live Albumに心を奪われるだろう。このアルバムが初めて店頭に並んだ
あの当時も、そして長い年月が経った今も再び 3人は容赦のない
エネルギーでバカでかいサウンドを炸裂させている。そして勿論
GFRの熱狂的なファン達が それに負けないエネルギーをバンドに
ぶつけ返している事実を過小評価することは出来ないだろう。
それは言葉では表せない共生関係だった。

「原始的な本能をふるわすようなこうした熱狂がオレは好きだった。
ステージ上での出来事に聴衆は反応した。GFRは芝居じみたバンドだ。
オレはプレイする時 ステージ上で動いたり飛び上がったりおどけた
仕草をしてその曲の主人公を表現した。しかし大ゲサだったな」
マークが笑いながら言う。「つまりね 後ろの方にいる客にも
何をやっているか分かるようにだよ。自分はこの事を早くから
身に付けた。これがLive Albumでのバンドの実態さ」

312 :まっくん:03/11/28 20:29.net
クールなジャムナンバーであるMark Say's Alright(これは他の公式
アルバムでは聞くことが出来ない)を例外として Live Albumにおける
全ての曲はバンドがクリーブランドのスタジオで録音していたものだった。
4曲は1stアルバムから 3曲は2ndアルバムから 全て1969年に作られた
オリジナルである。残る1曲のMean Mistreaterは最も新しい曲であり
3rdアルバムのColser To Homeに収録されていた。Live Albumでの
この曲の演奏は 画期的なアルバムColser To Homeのリリースから
1ヶ月も経たないうちに録音されている。なぜならLive Albumの
いくつかのトラック(大部分ではないが)はColser To Homeの
プロモーションキャンペーン中に録音されたからだ。そのプロモの
主たる内容はいま一度記述されるべきであろう。そしてそのスゴい
内容とは マーク、ドン、メルの有名な巨大看板がNYCのTimes Squarsに
作られたことだ。

313 :まっくん:03/11/28 20:32.net
「私が最初にTimes Squarsのビルボードを見たのはニューヨークに
初めて行った60年代の初期だった」70年当時、GFRのマネージャーであり
プロデューサーのテリー・ナイトが回想する。「私が見た時は
Shen Conneryの007が掛かっていた。私はそれが忘れられなかった。
そして自分に言い聞かせた。『あの場所はオレのものだ。これから
やる事であいつを手に入れてやる』」
「テリーにはそのアイディアがあった」ドンが言う。「キャピトルに
それを実行するよう要求している場に オレ達は確かにいたよ。
実際にそれを最初にやったのはThe Rolling Stonesだった。でも彼らは
全面を使ったわけじゃない。彼らはアルバムの宣伝のためにビルボードの
『一部分』を使った最初のグループさ」さて、テリーはこの事実をもって
キャピトルに働きかけた。今や彼には売り出し中のイカしたバンドある。
「テリーはキャピトルに着くと行った『アンタがたに頼みたいんだが
GFRとこのニューアルバムのためにビルボードの全面を買いきって
くれないか』それは実際に市街の1区画の長さだった。オレ達は
キャピトルのための大作アルバムを作り上げ 彼らはバンドのレコードを
売り込むことに熱中していた」
このビルボード一面にデザインされた60フィートの高さを誇る顔写真
(左から右に向ってメル、ドン、マーク)は全く仰天させられる
代物だった。(ドンとテリーが総計を確認しているが)10万ドルの
コストの内 7万ドルがスペースのレンタル料に、3万ドルが労働者と
設置料金当てられたという。この申し分のない作品はBloadwayに
位置し きっちり45th Streetと46th Streetの間隔分の長さがあり
バンドメンバーの顔がじっと夕陽を見つめている。

314 :まっくん:03/11/29 22:16.net
 Live Albumライナー その2

「彼らは1ヶ月分の料金をしぶしぶ払っていた」ドンが言う。
「そうしたらストライキのために看板は3ヶ月もそのままに
されていたんだ。凄かったね。オレ達はそれでだいぶ得をした」
「看板塗装工組合が完全ストに入ったんだ」テリーが回想する。
「そしてビルボードは彼らなしには塗り替えることが出来なかった。
まったく前代未聞の信じられない休止だったよ」
考えても見て欲しい。3ヶ月の間にTimes Squarsを通りすぎる 恐らく
100万以上の旅行者がGFRの広告を目にする。地元に住んだり仕事を
したりしている全ての住民達は言うに及ばず、だ。New YorkはGFRの
最も忠実なファンがいる恐らく最大のマーケットだった。
彼らはFillmore East(席数2,500)で何日間かプレイすると、Madison
Square Garden(20,000)でメインアクトを務め、Shea Studium
(55,000)を満杯にした。ある時点では New York Daily Newsが
行った人気投票の結果 GFRはアメリカのベストロックグループとなった。
記事によれば フリント出身の若者たちは Creedence,(CCR?)
Led Zeppelin, The Jackson 5, Santana, The Who といった他の
ポピュラーなアーチスト達を屈辱的に引き離し全体の75%もの票を得た。

315 :まっくん:03/11/29 22:18.net
ギタリストで音楽ジャーナリストでもあるLenny Kayeは 70年12月の
Rolling Stone誌の見出し記事で その月の11日と18日にMadison Square
Gardenの外で GFRを見に来た若者たちにインタビューをしている。
その時はLive Albumの発売から数週間経っていたが その2枚組のLPは
熱心なファン達が考え込まなくてもすむような低価格だった。
「彼らの音楽が1番好きだよ」ある若者がに語る。「そのビートに
ジーンと来るよ。自分の血管の中を流れてるみたいだ」
「彼らはアルバム毎に良くなっているね」別のファンが言う。
「3rdアルバムは本当に最高だよ。Live Albumもそれと同じぐらいいいね」
何人かの若者は 特にLive Albumに収められているInside Looking Outに
如何に感動したかを語っている。「Eric Burdonがレコードを出した時は
それがカッコよかった。だけど今じゃ(GFRと)比べ物にならないよ」
ある若者はその音楽を「脳ミソを直撃する」と言い、別の若者は
「奴らの演奏ぶりは・・・葉っぱをキメてるね!」とうっかり喋っている。
Lenny Kayeは 古くからロックミュージックの批評を書いている
自称「評論家」達よりも ずっとオープンマインドで独立していた。
彼は GFRの絶大な人気を考慮したうえで自ら進んで彼らにある程度の
名声を与えた。バンドのファン達は、この国の流行仕掛け人達が愚かにも
気づかない事を分かっているのだ、と彼は結論づけている。

「あの当時はね」ドンが語る。「評論家達は バンドと観客がひとつに
なってゆく その全体の中に全く入っていかなかった。彼らはバンドを
見に来るのが常だった。そして考える。『うん、あのミュージシャンは
良かったな。彼の弾くフレーズを聞いたかい?』ってね」
「彼らにはこういうコンセプトが全く理解できなかった。『外に出て
大イベントを作り出そう。そしてバンドと観客とでアリーナでの
大コンサートを分かち合おうよ』という考えをね。彼らが理解するのには
少し時間がかかったけど オレ達がやったのはまさにこういう事さ。
これがGFRとは何かっていう事だよ」

316 :まっくん:03/12/05 19:53.net
 Live Albumライナー 完結!

オリジナルのLive Albumの見開きのレコードジャケットには 3人が
プレイしているところをステージの後ろから撮った写真が使われている。
その写真は 彼らにとって2度目のお目見えとなる1970年7月5日の
Atlanta International Pop Festivalのものであることが分かる。
ちょうど1年前、3人は熱気溢れるこのAtlanta Popのオープニングで
(ノーギャラで)演奏する機会を得た。当時バンドは無名だったが
彼らはこの絶好のチャンスを生かした。彼らの音楽は大群衆に響き渡り
その結果大評判となった。「GFRが一般に認められたのは初めてAtlanta
Pop Festivalに出た後だった」マークが回想する。「あれは申し分のない
出来だったよ」
69年から70年にかけて火花は炎となり、そして全開で燃え始め
GFRとその音楽の熱烈な支持者達の荒れ狂う大火へと変わっていった。
要するに彼らは僅か1年でロック界最大のニュースとなったということだ。
熱烈なファン達はこのバンドのコンサートのマジックを体験するために
合衆国のどの場所でも集まってきた。彼らはバンド自身がそうであるように
他のGFRファン達とも精神的に強い絆で結ばれていた。
「70年のLive Albumはまさにライブレコーディングだった」ドンが言う。
何のごまかしもしてないしオーバーダブも無しだ。録音をコントロール
しようという試みは全くしなかった。『おい今夜はレコーディングだぜ。
間違えないようにやろうな』分かるかい? 70年のこのアルバムは
こんな感じだった。『オレ達はこれから3日間ライブをレコーディング
する。だけど客の誰もレコーディングしている事なんか気にしやしない。
オレ達はショウをやるんだ。レコーディングは二の次さ』そして
Live Albumは自由奔放にプレイするパワートリオのピークを捉えている
とオレは思っている。そしてこれがLive Albumの真実さ」

317 :まっくん:03/12/05 19:56.net
Live Albumのオリジナルリリースから30年以上がたった今 この
最もヘヴィなサウンドのロックバンドのドキュメントは 我々を
ポストウッドストック時代へと即座に連れ戻してくれる。2枚組LPの
アナログ盤4面は 新しい1枚のリマスターCDにギリギリ収まっている。
だからマーク、ドン、メルや我々みんなが若くてイカれていたあの頃の
GFRのコンサートを蘇らせるのは簡単だ。単にプレイボタンを押し
ボリュームを上げイスに腰を下ろせばいい。そしてGFRのショウの
カタルシス、マジック、熱狂を もう一度どこでも好きな場所で
楽しむことが出来る。

「ステージ上のサウンドは良くなかったよ。いずれにしろ当時の
モニターシステムのサウンドは恐ろしくヒドかった」ドンが説明する。
「普通、ステージ上ではとにかくボーカルが充分に聞こえるようにする。
出来る限りの大音量でプレイしていたオレ達もそうだった。だから
何もかもがちょっと調子外れだった。でもみんな慣れっこになっていた。
何しろ毎晩のようにやっていたことだからね」

2002年、ついに初めて71年のGFRのライブレコーディングを集めたCDが
発売された。「Live-The 1971 Tour」はAre You Ready, Paranoid,
T.N.U.C, Inside Looking Out, Into The Sun といったLive Albumにも
収録されて親しまれているナンバーが含まれている。今やこの2枚の
ディスクは オリジナルパワートリオであるGFRのファンにとって
極めて重要な記録である。バンドがこうした曲をLive Albumが出た後も
ずっとプレイし続けていたという事実は、これらの曲がバンドと観客の
両方にとって如何に大切であったかの証拠となっている。
これらの曲の演奏の素晴らしさからいえばLive-The 1971 Tourだろう。
その前年に収録されたLive Albumは多分ギリギリの状態で演奏している。
初期のライブレコーディングには初々しさや新鮮さ、野性味が感じられる。

318 :まっくん:03/12/05 19:59.net
Live Albumは とてつもないサウンドで骨の髄までゾクゾクさせてくれた
バンドに対して 全国のGFRファン達が、好意的な評価を(おかしな
言い方に響くかも知れないが 彼らの感謝の意を)表現することが
許された初めての機会を象徴している。70年11月の新聞記事によれば
Live Albumの先行予約の総計はレコードが75万枚 それにプラス、
カセットが25万本だったと言う。当時キャピトルレコードのどんな
タイトルもこんな記録的な数字は出していなかった。テリー・ナイトと
バンドのメンバーはこの2枚組のレコードに安い小売価格をつけるよう
要求してそれを実行させた。その年のクリスマスシーズン 何百何千もの
若者たちが大挙して彼らの地元のレコード屋に押し寄せて お気に入りの
バンドによるこの特別な記念碑的レコードを手に入れるために 喜んで
1ドル札を5枚支払った(70年の価格相場としても格安だ)。
子供たちの多くは 恐らくまだGFRのショウを見たことがなかったに
違いない。彼らは子供すぎたし他の理由からも彼らの両親は子供たちを
そんな所へは行かせようとしなかった。しかし今、ついに彼らは
次善のものを手に入れた。
「こういうことさ」ドンが伝説的な初期のライブレコーディングを語る。
「GFRと聴衆が一体となっていく事が全てだった。分かるだろ?
オレ達はみんな『ひとつ』だったんだ」

Steve Roeser

319 :まっくん:03/12/05 20:10.net
 オマケ ジャケット裏にあるコメント

このグループ自身の真に歴史的なドキュメントをお贈りするために
本来の姿を編集することは避けた。このレコードの全ての曲は
オリジナルテープから全く修正を加えずに収録された。
このレコーディングにおいては エコーのようなものまでテクニカルな
助力は一切ない。そしてここで聴ける全ての事象は 彼らがしたこと
そっくりそのままである。
このアルバムは現実のコンサートにおけるGFRのライブレコーディング
である。曲間の中断は無いように整理されている。


 ・・・という事でここら辺あたりが一連のライナーノーツの中の
 白眉なのでは?と思われますが 相変わらずアヤシイ脳内変換です
 ツッコミどころがありましたらご教示ください
 Americanband位までは何とか辿り着きたいもんです

総レス数 565
205 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200