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【メル】グランドファンクレイルロード【ドン】

1 :名盤さん:02/05/31 20:38 ID:Rvx/D1IU.net
グラファンについて語ってください。
個人的には1st〜3rd、LIVEが好き。それ以降はだめ。

315 :まっくん:03/11/29 22:18.net
ギタリストで音楽ジャーナリストでもあるLenny Kayeは 70年12月の
Rolling Stone誌の見出し記事で その月の11日と18日にMadison Square
Gardenの外で GFRを見に来た若者たちにインタビューをしている。
その時はLive Albumの発売から数週間経っていたが その2枚組のLPは
熱心なファン達が考え込まなくてもすむような低価格だった。
「彼らの音楽が1番好きだよ」ある若者がに語る。「そのビートに
ジーンと来るよ。自分の血管の中を流れてるみたいだ」
「彼らはアルバム毎に良くなっているね」別のファンが言う。
「3rdアルバムは本当に最高だよ。Live Albumもそれと同じぐらいいいね」
何人かの若者は 特にLive Albumに収められているInside Looking Outに
如何に感動したかを語っている。「Eric Burdonがレコードを出した時は
それがカッコよかった。だけど今じゃ(GFRと)比べ物にならないよ」
ある若者はその音楽を「脳ミソを直撃する」と言い、別の若者は
「奴らの演奏ぶりは・・・葉っぱをキメてるね!」とうっかり喋っている。
Lenny Kayeは 古くからロックミュージックの批評を書いている
自称「評論家」達よりも ずっとオープンマインドで独立していた。
彼は GFRの絶大な人気を考慮したうえで自ら進んで彼らにある程度の
名声を与えた。バンドのファン達は、この国の流行仕掛け人達が愚かにも
気づかない事を分かっているのだ、と彼は結論づけている。

「あの当時はね」ドンが語る。「評論家達は バンドと観客がひとつに
なってゆく その全体の中に全く入っていかなかった。彼らはバンドを
見に来るのが常だった。そして考える。『うん、あのミュージシャンは
良かったな。彼の弾くフレーズを聞いたかい?』ってね」
「彼らにはこういうコンセプトが全く理解できなかった。『外に出て
大イベントを作り出そう。そしてバンドと観客とでアリーナでの
大コンサートを分かち合おうよ』という考えをね。彼らが理解するのには
少し時間がかかったけど オレ達がやったのはまさにこういう事さ。
これがGFRとは何かっていう事だよ」

316 :まっくん:03/12/05 19:53.net
 Live Albumライナー 完結!

オリジナルのLive Albumの見開きのレコードジャケットには 3人が
プレイしているところをステージの後ろから撮った写真が使われている。
その写真は 彼らにとって2度目のお目見えとなる1970年7月5日の
Atlanta International Pop Festivalのものであることが分かる。
ちょうど1年前、3人は熱気溢れるこのAtlanta Popのオープニングで
(ノーギャラで)演奏する機会を得た。当時バンドは無名だったが
彼らはこの絶好のチャンスを生かした。彼らの音楽は大群衆に響き渡り
その結果大評判となった。「GFRが一般に認められたのは初めてAtlanta
Pop Festivalに出た後だった」マークが回想する。「あれは申し分のない
出来だったよ」
69年から70年にかけて火花は炎となり、そして全開で燃え始め
GFRとその音楽の熱烈な支持者達の荒れ狂う大火へと変わっていった。
要するに彼らは僅か1年でロック界最大のニュースとなったということだ。
熱烈なファン達はこのバンドのコンサートのマジックを体験するために
合衆国のどの場所でも集まってきた。彼らはバンド自身がそうであるように
他のGFRファン達とも精神的に強い絆で結ばれていた。
「70年のLive Albumはまさにライブレコーディングだった」ドンが言う。
何のごまかしもしてないしオーバーダブも無しだ。録音をコントロール
しようという試みは全くしなかった。『おい今夜はレコーディングだぜ。
間違えないようにやろうな』分かるかい? 70年のこのアルバムは
こんな感じだった。『オレ達はこれから3日間ライブをレコーディング
する。だけど客の誰もレコーディングしている事なんか気にしやしない。
オレ達はショウをやるんだ。レコーディングは二の次さ』そして
Live Albumは自由奔放にプレイするパワートリオのピークを捉えている
とオレは思っている。そしてこれがLive Albumの真実さ」

317 :まっくん:03/12/05 19:56.net
Live Albumのオリジナルリリースから30年以上がたった今 この
最もヘヴィなサウンドのロックバンドのドキュメントは 我々を
ポストウッドストック時代へと即座に連れ戻してくれる。2枚組LPの
アナログ盤4面は 新しい1枚のリマスターCDにギリギリ収まっている。
だからマーク、ドン、メルや我々みんなが若くてイカれていたあの頃の
GFRのコンサートを蘇らせるのは簡単だ。単にプレイボタンを押し
ボリュームを上げイスに腰を下ろせばいい。そしてGFRのショウの
カタルシス、マジック、熱狂を もう一度どこでも好きな場所で
楽しむことが出来る。

「ステージ上のサウンドは良くなかったよ。いずれにしろ当時の
モニターシステムのサウンドは恐ろしくヒドかった」ドンが説明する。
「普通、ステージ上ではとにかくボーカルが充分に聞こえるようにする。
出来る限りの大音量でプレイしていたオレ達もそうだった。だから
何もかもがちょっと調子外れだった。でもみんな慣れっこになっていた。
何しろ毎晩のようにやっていたことだからね」

2002年、ついに初めて71年のGFRのライブレコーディングを集めたCDが
発売された。「Live-The 1971 Tour」はAre You Ready, Paranoid,
T.N.U.C, Inside Looking Out, Into The Sun といったLive Albumにも
収録されて親しまれているナンバーが含まれている。今やこの2枚の
ディスクは オリジナルパワートリオであるGFRのファンにとって
極めて重要な記録である。バンドがこうした曲をLive Albumが出た後も
ずっとプレイし続けていたという事実は、これらの曲がバンドと観客の
両方にとって如何に大切であったかの証拠となっている。
これらの曲の演奏の素晴らしさからいえばLive-The 1971 Tourだろう。
その前年に収録されたLive Albumは多分ギリギリの状態で演奏している。
初期のライブレコーディングには初々しさや新鮮さ、野性味が感じられる。

318 :まっくん:03/12/05 19:59.net
Live Albumは とてつもないサウンドで骨の髄までゾクゾクさせてくれた
バンドに対して 全国のGFRファン達が、好意的な評価を(おかしな
言い方に響くかも知れないが 彼らの感謝の意を)表現することが
許された初めての機会を象徴している。70年11月の新聞記事によれば
Live Albumの先行予約の総計はレコードが75万枚 それにプラス、
カセットが25万本だったと言う。当時キャピトルレコードのどんな
タイトルもこんな記録的な数字は出していなかった。テリー・ナイトと
バンドのメンバーはこの2枚組のレコードに安い小売価格をつけるよう
要求してそれを実行させた。その年のクリスマスシーズン 何百何千もの
若者たちが大挙して彼らの地元のレコード屋に押し寄せて お気に入りの
バンドによるこの特別な記念碑的レコードを手に入れるために 喜んで
1ドル札を5枚支払った(70年の価格相場としても格安だ)。
子供たちの多くは 恐らくまだGFRのショウを見たことがなかったに
違いない。彼らは子供すぎたし他の理由からも彼らの両親は子供たちを
そんな所へは行かせようとしなかった。しかし今、ついに彼らは
次善のものを手に入れた。
「こういうことさ」ドンが伝説的な初期のライブレコーディングを語る。
「GFRと聴衆が一体となっていく事が全てだった。分かるだろ?
オレ達はみんな『ひとつ』だったんだ」

Steve Roeser

319 :まっくん:03/12/05 20:10.net
 オマケ ジャケット裏にあるコメント

このグループ自身の真に歴史的なドキュメントをお贈りするために
本来の姿を編集することは避けた。このレコードの全ての曲は
オリジナルテープから全く修正を加えずに収録された。
このレコーディングにおいては エコーのようなものまでテクニカルな
助力は一切ない。そしてここで聴ける全ての事象は 彼らがしたこと
そっくりそのままである。
このアルバムは現実のコンサートにおけるGFRのライブレコーディング
である。曲間の中断は無いように整理されている。


 ・・・という事でここら辺あたりが一連のライナーノーツの中の
 白眉なのでは?と思われますが 相変わらずアヤシイ脳内変換です
 ツッコミどころがありましたらご教示ください
 Americanband位までは何とか辿り着きたいもんです

320 :加護は考えた。FROMラウンジ:03/12/06 00:00.net
>>296-319
おつかれさまです。最高!!
>>296-308
おれとかもサードがいちばん好きです。最高!!
>>310-319
おれとかが、なんでGFRが大大好き好きなのか、
改めてわかってきた気がします。

321 :まっくん:03/12/06 09:31.net
>>320
3rdの話題を余り聞かないので淋しかったのですがいいアルバムですよね
(っていう自分は今回の再発で初めて聞いた・・・)
次の「サバイバル」はさらに評判を聞きませんが捨てがたいです
今年中には何とか訳してみます

322 :伝説の名無しさん:03/12/22 01:21.net
保守

323 :伝説の名無しさん:03/12/22 13:57.net
>>321

(゜o゜;) ドキドキ...

324 :まっくん:03/12/27 23:09.net
やっぱり年内は無理でした・・・・_| ̄|○

来年は結成35周年(多分)
それまでしばらく落ちてきます
皆様よいお年を

325 :伝説の名無しさん:03/12/29 15:01.net
昨日ライブアルバムっていうレコード350円で買ってきたよ!
凄いかっこいいねこのバンド得した得した

326 :伝説の名無しさん:03/12/29 20:05.net
ome

327 :まっくん:04/01/07 22:02.net
あけおめです!!!
な・な・なんとマークが自分のバンドで2月に来日するらしい!?
とりあえず東京は中野サンプラザ あとは大阪、名古屋らしい
余りに唐突な事で実感が湧きませんが まずは一報まで
ホンマかいな?

328 :加護は考えた。:04/01/08 09:09.net
>327
ttp://www.zak-tokyo.co.jp/artest/Mark/Mark.html
そう、おれとかももちろん中野サンプラザに見に行く予定!!!!

329 :まっくん:04/01/09 22:08.net
早速11日のチケットをゲットしました!!!
まさかマークを生で見れる機会が来るとは・・・
未だに実感がわきません
ちなみに全席指定の¥7.500なり!

330 :ウエスト:04/01/12 07:12.net
初参加です。GFRのリマスターCDを聞きましたが、随分音質がクリアー
になってます。特にベースの録音レベルが上がっているようです。
1度御視聴下さいな。

331 :まっくん:04/01/12 23:35.net
マークのジャパンツアー!!
主催はニッポン放送、及びInter FM
ニッポン放送ではぼちぼちスポットを流してるようです
Mark Farner of The Original Grand Funk Railroad Japan Tour
と銘打っているところをみるとドン達の新GFRとはやっぱり微妙な関係か?
果たしてAmericanbandは演るのか?っとその前に客席は埋まるのか?
さまざまな憶測が乱れ飛ぶ公演1ヶ月前だーっ!!!

332 :伝説の名無しさん:04/01/16 17:43.net
思い出すのは22年前の再結成武道館ライブ。
あの時の感動と興奮が蘇る。。。

なんちて。当時漏れは小学生だったけどね。マクロスと飯島 真理に夢中ですた。

後から知人のFMライブエアチェックしたので聴いた。そのときはじめてハードロック
なる音楽を聞いた。正直、よくわからなかった。当時はキッスさえも暗くて怖かった。
YMOばかり聞いていたのに、YMOはすぐ解散してしまって興味が失せた。
そんなときクラスの奴から貸してもらったのがレインボーとこのGFRのライブだった。

レインボー(アイサレンダー)にはすぐにハマったけど、GFRは?だった。
メロディーが無くて単調で金切り声で絶叫だったがテクノの反動で泥臭くて汗臭い
ブルース系のロックに次第に惹かれていき。。。いつしかメタラーに。。。






でも当時ストーンズに出会ってなくてホントによかったと思う。あやうく人生踏み外すところだった。

333 :まっくん:04/01/18 18:24.net
GFRの公式ページ(ドン達の方)にドンのインタビューがあったので
ちょっとだけ訳してみました。実際はかなりな量です。
おそらく去年のツアー中か?

Q さて 今やあなたの星条旗コスチュームは(新生GFRの)ステージで
定番となっていますね? それは実際あなたにとって何を意味しますか?
A オレの時代掛かったファッションの意味かい? 単なる星条旗
コスチュームではなくオレの毛皮のコートと帽子・・・みんなオレの
十八番だよ。誰でもちょっとした十八番が必要なものさ
Q それは今現在の愛国的、政治的な空気を含んでいるのですか?
あなたはアメリカ人であることを誇れますか?
A いいや、それは単に仕事だと思っている。それは単にどういう音楽か
っていう表明だよ。オレ達のロゴがそれを表現している。オレ達は
1973年の昔から星条旗仁「指差し」をあしらってきた。「合衆国は
君を望んでいる、そう、オレ達も君を望んでいる」と言う意味さ。
オレ達はアメリカンバンドだ。オレ達はそれを誇りにしているし
アメリカの全てを誇りにしている。それはただ単に9.11のためじゃない。
オレ達は常にそうだった。それが全ての英国バンドからオレ達を
特徴づけるものだった。「ヘイ!オレ達はアメリカンバンドだぜ」ってね。


この辺の彼らの心境はやはり複雑なのだろうか?
マークはドン無しでもアメリカンバンドを演るのだろうか?

334 :まっくん:04/01/18 23:36.net
 続きです

Q 我々の読者や 11日のあなた方のコンサートに行くであろうう
聴衆の多くは軍の関係者です。ここは2.3の軍事基地から数マイルしか
離れていないのでね。彼らの多くがあなたの曲We're An Americanband
を彼らと共に異国の土地に持っていくのを知ってどう思われますか?
あなたの書いた曲がある種の賛歌のようになっていくのをどう感じますか?

A 分からないな。そういうやり方であの曲を書かなかったことは
とても幸運に思うよ。オレ達がこの曲のアイディアを考え出し そして
それは全てに英国バンドとEinglish Invasionに対するある種の反抗
だった、という風聞はいつもあったよ。でもそれは全然違うよ。
あの歌はまったく無邪気なものだよ。
オレはギターは上手くないけど暇つぶしにコードを弾いていた。
オレ達はアルバムPhoenixのツアーに出ていて 次のアルバムの
シングルを考えつかなきゃならなかった。そしてオレ達の背後は
壁に直面していた。テリー・ナイトはオレ達を訴えていて あらゆる
ところでオレ達は訴えられていた。オレ達には将来がどうなっていくのか
分からなかった。そしてこんな考えがオレの頭に浮かんだ。「オレ達は
ツアーに出ている。みんなの町に行ってパーティーの手伝いをするんだ」
こんな感じだ。オレ達が色々な町に着く。そうしてこう言うんだ。
「来いよ パーティーに来いよ こっちだぜ。オレ達はAmericanbandさ」
それが頭を転がりだしてコードをつけるとサウンドがイカしてきた。
オレはプレイしてみた。それからツアーがどんな風だったかの断片を
付け加えた。

335 :まっくん:04/01/18 23:38.net
オレ達はFreddie Kingとツアーをした。彼は偉大なブルースマンだ。
そしてオレ達はFreddieとショウをやる事を本当に望んでいた。
しかしオレの生涯で出会ったもっともクールな事のひとつになるが
彼が「オレのバンドは毎晩オレとポーカーをしなきゃならんぞ」と
言い張ったんだ。それはつまり彼がバンドに払ったギャラを
勝って取り戻せるようにだよ。みんないつも破産していたっけ。
だからFreddieとポーカーをやらずして彼のバンドにいることは出来ない。
そして彼から支払われたギャラは また彼に巻き上げられてしまう。
これが次の一節の元になったんだ
Up all night with Freddie King and I gotta tell you Poker's his thing.

These four young chiquita's in Omahaはもうひとつのエピソードだ。
ホテルのロビーに4人の女の子がいたんだ。勿論オレは詩を少しばかり
膨らませてエキゾチックで面白く響くようにした。
これが当時のいきさつの全てだよ。オレは本当に賛歌のようなものを
意図して作るつもりはなかったんだ。でもそれは(Americanbandが賛歌
のように解釈されるのは の意か?)素晴らしいことだと思うよ。
驚くべきことだね。

オレ達はアメリカ文化の結晶の表現だと本当に思うよ。オレ達は単なる
ガレージバンドさ。オレはミシガンのシュワルツクリーク出身で
そこはフリント郊外の小さな町だった。いつもバンドをやっていたよ。
いつも自分の家の地下室で仲間と練習をしていた。そして近所の人達は
みんなオレが何をやっているか知っていた。そしてみんなバンドを聞き
騒音やたわ言を我慢してくれた。それはアメリカの風土の一片だった。
そしてGFRはその一部分だったんだ。だからこの曲はまさにオレ達が
何であるかを表現していると思うよ。

336 :まっくん:04/02/04 21:23.net
マーク来日まで1週間! 辛くも復活 ドンのインタビュー続きです

Q 多くのバンドが世に出ましたが ただのバンドに終わらずに
ロックの象徴にまでなったのはどんな気分ですか。
こんな風になるなんて思っていました?

A オレは全くそんなふうに見ていないよ。全くね。オレは自分を
ミシガン生まれのただの男だと思っている。そして素晴らしい妻と
子供たちに恵まれていて そんなたわ言は引っ込めるよ。とても幸運だと
思っている。We're An American Bandについても同じように考えている。
オレはこの曲を作り歌った男で 30年以上過ぎてもこの曲が巷で
流れている事をとても幸運に思う。まったくオレにとっては「おお!
これは恐ろしくスゴい事だな」っていう感じさ。
とりわけ70年代は全ての批評家がオレ達を酷評していた。Rolling Stone誌
はオレ達を嫌っていた。そしてこの曲は未だに巷で流れ オレ達は未だに
聴衆を引きつけることが出来る。みんなオレ達の曲を知っていて
曲が始まるとたちどころに歌詞を歌いだすんだ。スゴい事だと思うよ
オレ達は本当に恵まれているよ。

Q そのネガティブなマスコミがまさに 10代の若者をさらにあなた方の
レコードを買うように駆り立てたとは思いませんか。

A その通りだと思う。ああいった酷評がオレ達の音楽を気に入った
人々の意志をさらに頑なにしたんだと思う。人々は批評家のたわ言が
不公平で個人的な物だということが分かっていたからだろうね。
「アンタらはGFRが気に入らないっていうわけかい? オレは奴らが
好きだね! まったくアンタらはゴタクばっかり並べやがって ブッ」

337 :まっくん:04/02/08 22:35.net
 マーク来日3日前に辛くも規制解除! 続きです

Q 何千もの恐らく同じくらい才能のあるバンドが消えていった中で
GFRが成功できたのは何故だと思いますか? アイドルの二番煎じ
といった連中の事ではないのですが。

A ただ単に時と場所が正しかった と言う事だろうね。ちょっとした
要素の組み合わせが合っていて正しい時にそれが進行したと言う事だね。
そしてそれが正しい道の判断を生み出す。
オレとマークで以前に組んでいたThe Fabulous PackをやめてGFRを
結成する時に オレ達はある重要な決断をした。(当時)オレ達は
カバーバンドになりつつあった。金を稼ぐためにカバー曲ばかりを演奏し
クラブやその類いの店にハコで入っていた。そうやってオレ達は金を
稼いでいた。しかしメルを加入させてGFRを結成した時に オレ達は
カバーバンドにはならない事を誓ったんだ。(当時)Grandee Ballroomや
Fillmore等といったThe hippy placesが現れてきていた。オレ達は
デトロイトのGrandeeに行ってそこに出ているバンドを観察した。
そして こうしたアングラムーブメントの動向を目の当たりにした。
全てのバンドはオリジナル曲を演奏していた。そして聴衆も総じて
それを受け入れていた。こうしてオレ達は たとえ飢え死にしても
カバーバンドにだけはなるまい と決意したのさ。そしてオレ達は
まさにそれを実行した。オレ達は遂に本当に厳しい時期をやり抜いた。
カバーバンドになりたくなかったからね。人は決断を下さなければ
チャンスを掴めないものさ。これがオレ達がした最大の決断だね。
それは確かにいい結果を生んだ。おかげで否が応でもオレ達は
オレ達自身にならなければいけなくなった。

338 :まっくん:04/02/08 22:37.net
Q 今、奮闘しているミュージシャン達に そのこと(オリジナリティを
持つこと?)を推奨していただけますか?

A いいや。時代が違ってしまったからね。それはあの当時の時代の
ムーブメントだったから オレ達はその時流に乗ることができた。
当時はレコードもアーティストも他と違っている事によって世に出ていた。
もし他の連中と違うものを思いつければ それでラジオの電波に乗る事が
出来た。今はそのやり方じゃ無理だね。誰もそんな曲を流そうとしないよ。
全く時代が変わってしまったね。だから今この時代に個性が必要だなんて
言う気は全然ないよ。オレはそもそも今どうやってバンドが世に出るのか
知らない。業界のシステムがどうなっているのかも知らない。ラジオ局は
みんな休業してしまったね。バンドをやっている連中と話すと 彼らは
みんな当然のように自分たちのウェブサイトを持っている。そして
ごく限られた取り巻き連中の輪を作ろうとしている。あっちこっちの
クラブで演奏しCDは彼らのウェブサイトで売るのさ。でもどうやって
そこから全国的に知られるようになるんだい? オレには分からないね。

339 :まっくん:04/02/08 22:38.net
Q あなたはGFRとして演奏しなくなった年月を残念に思いますか?
バンドを離れた時は嬉しかったですか?

A イエイ!とても嬉しかったよ。オレ達が現役中にバンドを解散
(休止?)する事を決断できたのは ある種幸運だったとオレは思う。
実際のところはディスコブームの到来でオレ達は最後の決断をした。
オレ達はただ話した「ディスコブームにはついて行かない。ここで
もうやめよう。もし将来 機会が巡ってきたらまた演ろうぜ」
そしてオレ達は解散した。それがベストの選択だったとオレは思うよ。
オレ達は80年代の初めにカムバックしようとしたけど 当時はまだ
早過ぎたね。まったくヒドイ時代だったよ。みんなオレが言うところの
リアルロックから離れていって産業ロックの方に行ってしまった。
そんなわけでオレ達にとっては悪い時代だった。そしてオレは幸運にも
Bob Segerの仕事を得て 外の世界から企業の一員となった。だから
オレはオレ達のしたことが正しかったと思う。それにしても こんなに
クラシックロックのラジオ局やアーティストのCDが溢れるようになるとは
夢にも思わなかったよ。当時の誰もこんなことを考えていなかった。
誰も予想は出来なかったけれど 全てが戻ってきた時には オレ達は
みんな年を取っていて何とか家族を養っていた。そしてオレ達は
ここにいる。「ヘイ 外へ出てプレイするなら今だぜ」 スゴい事だね。

340 :まっくん:04/02/09 22:15.net
 いよいよあさってか・・・・ 続き

Q 60年代から70年代初頭にかけて GFRは疑いもなく大きな現象であり
ロックの革新者でした。あなたの考えではGFR現象とは何でしたか?

A そうだね。当時は2.3の動きが進行していた。オレ達はその時に
生れたパワートリオのうちの1つだった。オレ達はJimi Hendrix
Creamといったパワートリオの後に続いた。Johnny Winterでさえ
トリオで演っていた。しかし彼らは皆ブルースをベースにしていた。
彼らはまさにブルースを取り入れ それを白人的なやり方で演奏した。
そしてアンプの音量を上げ当時のヒッピーのように派手にした。
オレ達はデトロイト郊外のフリントで育った。だからブルースよりも
R&Bに強い影響を受けている。オレ達はMotown, Muscle Shoals,
Memphisといった音楽にのめり込んだ。Howard Tateにも影響を受けた。
そしてマークの曲であれカバーであれ(ずいぶんカバーをしたもんだよ)
オレ達は自分たち流に料理しようとした。オレ達のやり方とはこうした
R&Bの影響を保ちつつ ボリュームを上げ強烈なロックスタイルで
プレイすることだった。この事がオレ達をまさに個性的にしていたと
オレは思うよ。スローグルーヴであればヘヴィスローグルーヴに
速いグルーヴだったらもう踊りだしたくなるくらいに、でも当時は
踊りだす人はいなかったね。踊るのはその後のディスコブームが
到来してからだった。それにしても ブルースよりもR&Bに強い影響を
受けた事は ずいぶんオレ達をユニークにしていたと思うよ。

341 :まっくん:04/02/09 22:16.net
Q 自分たちの音楽に満足していましたか。それとも他に夢想する
ものがありました?

A 音楽は夢想なんかじゃなく まさにオレ達は何であるかという
ものだったと思う。それがオレ達の音楽に対するアプローチの方法だった。
オレ達がEric Burton & The Animalsのアルバム(ブルース色が濃い
60年代スタイルだった)で聴いたInside Looking Outを取り上げた時も
オレ達流のやり方で演った。オレはヘヴィメタルという言葉を使うのが
嫌いなんだ。ヘヴィメタルは80年代にならないと出て来ないのに 皆は
初期のGFRの音楽をこのジャンルで括りたがるようだね。でももう一度
言うけど オレ達はパワートリオで実際にオレ達がプレイしていたのは
当時で言うところのハードロックだったんだ。そしてそれがまさに
オレ達の音楽のやり方だった。オレ達はもう座っていられなくなった。
「これこそがオレ達だよ。このやり方で行かなくてどうするって
いうんだい?」オレ達はフリントのスタジオで練習した。そして
ショウの為の練習であれアルバムの為の曲作りであれ 全ては
ジャムセッションから始まった。スタジオに入るとすぐに延々と
ジャムを繰り広げたもんだった。それから「イェイ!さっきのヤツは
良かったな。あれはイカしたサビになるぞ。あいつをこの曲に使おう」
っていう感じでジャムから曲を構成してアレンジするんだ。
全てはジャムる事からだったよ。

342 :まっくん:04/02/09 22:18.net
Q もし当時に戻って何かを修正するとしたら何を修正しますか。

A 何ひとつ無いね。今振り返れば そういう時代だったということさ。
80年代のバンドはみんな随分誤魔化しが上手くなったね。彼らのレコードの
サウンドも良くなった。それに引き換えオレ達の初期のレコード 特に
1枚目から3枚目はかなり荒削りだ。それがなおさらアルバムを良くして
いるようにオレは思う。だからそれは見方の問題だね。あの頃オレ達は
数日間でアルバムを録音していたもんだった。リハーサルは2.3週間で
そこで出来る限り欠点を無くすようにした。それからスタジオ入りして
数日間でアルバムを作り上げたんだ。ミスもそのままにしてね。
それからオレは ラジオからアルバムの曲が流れてきてこうしたミスを
聴かされるハメになるんだ。「ウワー 神様 やっちゃいました」
でも誰も気づかなかったね。それが全く正直なところだし凄いと思うよ。
今や過去に戻って変えたいものは何もないね。
GFRはオーバープロデュースではなかったから 聴衆に訴えかけるものが
多くあったんだろうね。それはオレ達のまったく偽らざる表現だった。
Todd Rundgrenやもっと商業的なプロデューサーと仕事をした時でさえ
オレ達はなおもロックンロールバンドであることに徹していた。
オレ達は後戻りして手直しをするのに多くの時間を費やす事はなかった。
もし何かあってもそのままにしておいた。

343 :まっくん:04/02/09 22:21.net
Q 恐らく(当時)ガレージバンドをやっていた連中は「いったいGFRは
どうやってこれを演奏してるんだろう」と頭をひねった事でしょう。
そしてあなた達のミスを一生懸命コピーしようとした。

A オレ達のミスを完コピ? まさかね。

Q そうしたミスも含めGFRのユニークなサウンドが他のバンドによって
模倣されることはありませんでした。それは何故でしょう。

A オレ達は全くのガレージバンドだったからね。オレ達はニューヨークや
ロス、シカゴといった大都市の出身じゃなかった。オレ達は敬意を払われる
大スタジオのミュージシャンでもなかった。当時は(そういった)
スーパーバンドが出てきていたが オレ達はミシガン出身の平凡な男達
であり その事でオレ達はローカルの壁を突き抜けるたんだ。
その当時でさえオレ達はミシガンが本拠のバンドっていう以上の存在
ではなかった。実際デトロイトのバンドでさえなかった。オレ達は
どちらかといえばデトロイトの郊外にいたからね。だからMC5
Nugentといった多くのバンドはデトロイトが本拠だが オレ達は
そうした音楽シーンの一角にすらいなかった。オレ達は町の片隅で
結成された全くのガレージバンドだった。だから多くの人達がオレ達に
本当に共感してくれたんだと思うよ。「おお なんて普通の男達なんだ」
と皆は言った事だろうね。オレ達の音楽やレコードから伝わったのは
そういう事だった。

344 :まっくん:04/02/10 18:27.net
 マークは今ごろ都内でスシかなんかつまんでるんだろうか?
 いよいよ明日!!!!

Q あなたがこの仕事を始めた時 何がやりたかったのですか?
スターになりたかったのか それともただプレイしたかったのか

A オレはいつもロックスターのなりたかった。まだほんのガキの頃
からね。エド・サリバンショーでプレスリーがBlue Suede Shoesを
演っているのを見たんだ。よくプレスリーの物真似をしたもんだった。
親父はオレをバーに連れて行くとジュークボックスにコインを入れて
Blue Suede Shoesをかけた。そしてオレをテーブルの上に乗せて
言うんだ。「ほら お前の物真似をやって見せろ」そしてオレは
そいつをやったもんだった。最初にバンドを始めたのは確か9才か
そこらだった。それで学校のコンテストに出たんだ。本当にバンドが
やりたかったよ。学校の上級生がやっていたバンドにエラく感動したのさ。
彼らの名前は覚えていないけどね。しかし彼らはJerry Lee Lewisや
Chuck Berryの曲をやっていて オレは「あの人達がやっている事は
なんてカッコいいんだ」となったわけだ。そうしてオレはとにかく
バンドがやりたくなった。運良くバンドを始めプロになって金を
稼ぐようになってからも ロックンロールはまだカッコいいものだった。
オレは15才で運転免許はなかったけど パーティーなんかで演奏して
金を稼いで家に帰った。そしてオレは「ワオこれは素晴らしいじゃないか」
と思ったんだ。

345 :まっくん:04/02/10 18:30.net
Q 後の多くのアーティスト達は GFRから大きな影響を受けたと
言っていますが あなたの作曲や演奏に影響を与えたバンドは何ですか。

A CreamとJimi Hendrixからは オレ達は常に大きな影響を受けた。
Motownのヒット曲もそうだ。The Young Ras calsからも影響を受けた。
彼らはR&B的だったからね。そしてニューヨーク的だった。彼らに
ベース奏者がいないのを オレはいつも興味深く見ていた。ハモンド
B3オルガンとそのベース鍵盤であらゆる事をこなしてしまうんだ。
それが凄くカッコ良かったよ。そしてFelix Cavaleriのボーカルは
R&B風 Blue Eyed Soul風だった。Dino Danaliは好きなドラマーの
1人だよ。彼には夢中になったな。エド・サリヴァンショーで見たんだけど
彼はドラムのスティックをステージの天井近くまで高く放り投げて
落ちて来たところを受け止めるのさ。それがえらくカッコよかったんだ。


346 :まっくん:04/02/10 18:31.net
Q バンドにとって最もポピュラーな曲の作者があなたである という
事実が あなたとマークとの間の軋轢の原因だったのですか?

A かつてはいくらかそういう事もあったかも知れない。でもそれは
違うんだ。オレが曲を提供し始めたのはFMラジオ局が台頭してきた
後のことだった。FMラジオはアングラ的な風潮を新しいコマーシャルな
Top 40に変えつつあった。そしてオレが曲を提供し始めるより前は
オレ達は基本的にアルバムの曲やステージ用の曲作りに専念していた。
当時は7分の曲でもラジオ局はちゃんと流してくれた。それから72年の
終りごろになると もうどこも流してくれなくなった。曲は3分か3分半で
売れセンでキャッチーなサビとコーラスがある。こうした曲じゃなきゃ
いけなくなったんだ。オレが乏しい知識や才能で作曲を始めた頃の状況は
こんな風だった。しかしおよそ心もとない素質だったけど オレが
作り出したのは よりコマーシャルな曲だった。

Q ガレージバンドというロックの新ジャンルをどう思われますか?
今はガレージバンド専門のラジオ局さえあるのですが。

A 凄い。それは素晴らしい事だね。レコード会社はMP3が普及した
おかげで危機的な状況にある。彼らは保持している音源の流通経路を
失ってしまった。そしてラジオ局は売り上げに左右されずにレコードを
かけることが出来る立場にある。レコードを流すのに 今までとは全く
違ったシステムが出来てきているんだね。それは無限の宝箱のようだよ。
それにひきかえ中波の広域放送のような所は新しい才能を見いだしたり
新しい曲をかけたりする事をしないできた。こういうラジオ局で
何か新しいものを聴く事はめったにないね。だから世間の人々は
うんざりして ラジオを聴くのをやめ そうした事を変えようとしない
ラジオ局の広告をサポートするのもやめる、とまで言っている。
彼らは変わらないだろうね。オレはこういうラジオ局をアメリカ中にある
ショッピングモールのようなものだと常々思っている。どこへ行っても
同じものばかり。人々が同じものにうんざりするようになるまでは
何も変わらないだろうね。

347 :まっくん:04/02/10 19:12.net
斜め読みのつもりがだいぶハマってしまった・・・ ソースはこちらです
http://www.grandfunkrailroad.com/lkinterview.htm

以下私めの雑感

ドンやメルにとって今の新生GFRは
野球のマスターズリーグみたいなものだろうか
そこら辺がマークとは相容れないところだとしたら
何となく分かる気もします。
マークはマイナーながらもアルバムを作り続け
ライブをやり自分の音楽を捨てることはなかった。
恐らく死ぬまで現役っていう信念があるんでしょうね。
明日は名実ともにドンの曲であるAmricanbandはやるんだろうか?
やってくれれば嬉しいですが やらなければそれはそれで潔いかも
何十年ぶりかで彼らの音楽を聞き直して
ますます彼らの男気に惚れ込んでしまった自分としては
今のこうした状況は残念ではありますが
40周年にまた何かやってくれることを期待!

という事で明日です!
このトシになってこんな機会が巡ってくるとは!
マークの熱いギターと歌が生で聴ける!?
イカン だんだん浮き足立ってきた・・・


348 :加護は考えた。:04/02/11 13:24.net
>>333-347
いつもいつも、おつかれさまです。thx!!  最高!!

おれとかも、これから、中野サンプラザに行ってきま〜〜す!!

349 :まっくん:04/02/11 21:20.net
皆さん お疲れさまでした 今帰宅しました
とりあえず Thank you Mark!! カッコよかったぜ!

声の若々しさ シャープさは予想していたとはいえ凄かった
おっ そろそろキツそうだな と思っていると
イキナリ復活してガツーンと来るのには
彼の底知れないパワーを感じました

350 :まっくん:04/02/11 21:35.net
余韻が残っているうちに曲順を書いときます(すでにアヤシイですが・・)

1. Are You Ready
2. Rock'n Roll Soul
3. Footstompin' Music
4. Time Machine
5. Heartbreaker
6. Into The Sun
7. Mean Mistreater
8. We're American Band
9. Sin's A Good Man's Brother
10. Bad Time
11. Loco Motion
12. Some Kinda Wonderful
13. Inside Lookin' Out
14. Closer To Home


351 :まっくん:04/02/11 21:58.net
真ん中あたりの曲順はあやしいです 補足お願いします
Americanbandは何のてらいもなくやってくれた・・・
(つまらん事書いてスミマセン)
あと 会場にサビになると星条旗を振ってた人たちがいた
最初のお約束の3曲もタイトでしたがラスト2曲の密度は凄かった
Closer To Homeで会場から歌声が起こったのには涙・・・
(大合唱とまではいきませんでしたが)

全体で1時間半ほどのショーでした
初日で機材の調子も悪かったようですが
今夜は楽しんでってくれ!ていう心意気が伝わってきました
自分としてはマークの勇姿を拝めただけでも充分涙、涙でしたが
マークはこれからどこへ向かうのだろう

名古屋、大阪の方 よければレポよろしくお願いします

352 :伝説の名無しさん:04/02/11 22:34.net
・1階は後ろ3列ぐらいを除いてほぼ埋まってた。
 俺の席から2階は見えなかったけど、2階は開放してたの?

・マークはルックスはともかく、声はCDと一緒。
 あの年代のハードロック歌手で、あれだけ声が衰えてないのは凄い。

・1階の前の方は、足腰が立たない人達の集会ですか?
 お前ら何しにハードロックのコンサートにきてるのかと。俺と席変われと。
 中央の彼女連れのニーチャン一人が頑張ってたような。


・アメリカンバンドで星条旗を振って会場を盛り上げてた客は、
 係員に注意されて旗を引っ込めさせられてた。
 もう係員アホかと。

353 :伝説の名無しさん:04/02/11 22:50.net
一番聴きたい曲で前回演らなかった「INTO THE SUN」やってくれたのは
嬉しかったけど、ちとショボかった。

354 :伝説の名無しさん:04/02/12 00:44.net
マーク・ファーナーよかったよーーーっ!
30年以上聴き続けてるファンです。
オレが高校の時に1番感化されたバンドのリーダー。
涙でたー!
しかも今回は前から3列目
マークにSome Kainda Wonderfulの時マイクを指された!
この年になってもうれしい!
しかし今日はキーボードの調子が悪かったみたいね、残念。
「パラノイド」やって欲しかったが無理か。
名古屋も大阪も行きてー!

355 :伝説の名無しさん:04/02/12 02:32.net
まぁ、後楽園逝った俺としてはそれなりに感慨もあったし楽しかったよ。
でもN'rGのライブと同じメンツなの?あれ。
なんかリハ不足って感じがチラホラしたんだけど・・・
それにキーボードだけじゃなくてギターもなんか調子悪かったみたいで
何度もスタッフに渡してたね。
それにしてもギターのスペアくらい持ってこいよなぁ(w

赤坂ブリッツでやったParanoid今回もやって欲しかったなぁ。
でもInto The Sunやったからいいや。出来たらアンコールにやって
欲しかったけど。

1階席の最後部で一人でぎゃーぎゃー騒いでたのは俺です・・・
でも、今日もそうだったけど、この手のオールドタイマーな来日ライブ行くと
いかにもかつてはロック少女でしたって感じの中年女性いっぱいいて
結構色っぽく見える人が多いのはやはり昔の輝きが蘇るからでしょうか?
そういうのを見るのも、この手のライブの楽しみの一つだったりします、正直。
でもそういう女性の輝きに比べて男は「おっさん頑張ってるなぁ」とか「なんか
無理してるなぁ」とかしか思えないのはなんででしょ?・・・

356 :伝説の名無しさん:04/02/12 03:18.net
ドラムへただったけど、アンコールのドラムソロでドン・ブリューワーの
ドラムソロを真似してみせるサービスの良さは、気が付いた人少なかった
みたいだけど誉めてあげたかった(w

357 :まっくん:04/02/12 19:03.net
今ごろは名古屋もヒートアップしている頃?

Heartbreakerの前あたりでマークが
「オレがギターを引き始めたのは・・・12・・・・・いや15位か・・・・」
「みんなこの曲を覚えているかな オレがこの曲を作ったのは
16・・・・・・・・・・いや18だったっけ・・・・・・・」
機材の不調で少し間が空いたとき客席から「タップリ行けーー」の声
マーク「Ah・・・・・・・・・・Ha・・・・・・・・・・」
こんな感じだったかな? 何となく微妙に笑えました
ラストあたりのマークのメッセージは
I hope・・・・・Music・・・・Peace・・・・・We're dhildren.
みたいな感じでしたか? よく聞こえなくて残念

私の周りはみんな大体立って拳を突き上げてましたが
身じろぎもしないで座ったまんまの若い子がいてチトワラタ
まあ、オジサン、オバサンがノリまくる
異様なシチュエーションではありましたが・・・・

358 :伝説の名無しさん:04/02/12 22:22.net
>>352
>あの年代のハードロック歌手で、あれだけ声が衰えてないのは凄い。
>1階の前の方は、足腰が立たない人達の集会ですか?
 お前ら何しにハードロックのコンサートにきてるのかと。俺と席変われと。
 中央の彼女連れのニーチャン一人が頑張ってたような。

同意!
中央のにーちゃんも頑張ってたが、その少し右後ろの若そうなねーちゃんも
頑張ってた!えらい!
ちなみにオイラも頑張ったぜ!
マークが客席に投げたドラムスティック拾った人だれー?

359 :伝説の名無しさん:04/02/13 01:12.net
>>357
HeartBreakerのイントロ弾き出す前に
「みんな、この曲思い出してくれるといいな・・・いや、俺も思い出せるといいな」って
笑い取ってたね(w
ロコモーションでは3コーラス目の歌詞間違えてたし。

360 :伝説の名無しさん:04/02/13 01:32.net
明日の難波ハッチ、当日券あるかな?

361 :伝説の名無しさん:04/02/13 20:11.net
前の方にあれだけ座られると、演奏してる方もやる気なくすよなぁ。
ライブ全体のノリに水を差されたかんじ。
俺は一番後ろの方だったけど、最前列真ん中のお兄さんが
一緒にきてる女の子に「ほら立とうよ、ほら!」と言ってる様子が
伝わってきて微笑ましかったっす。

>>355
一人でクネクネ踊ってた方ですか?

362 :355:04/02/14 00:31.net
いや、クネクネはしてないすよ(w
声はよく出したけど、両脇も狭いので上体揺らすか時々手叩くか

ちなみにCloser to homeで客に歌わせたとき、周りで声出してたのは
俺だけですた・・・

ところで名古屋行った人はここ来ないのか?

363 :伝説の名無しさん:04/02/14 19:33.net
Closer to home
中野サンプラザ前列は合唱だったよ。

364 :まっくん:04/02/15 20:42.net
旨い日本食は食べれたかい?
Good Luck. Mark!
また来てくれよーーー

365 :伝説の名無しさん:04/02/15 21:05.net
来日ツアーがあったのに、この書き込みの少なさはなんなのよー(涙)

366 :伝説の名無しさん:04/02/15 21:20.net
名古屋や大阪の情報が知りたいです。


367 :伝説の名無しさん:04/02/15 21:33.net
私は、2/11の中野サンプラザのコンサートに行ってきました。始めはガラガラじゃないかとビクビクしてました。
そうしたらほぼ満員で非常に嬉しかったです。コンサート前のBGMにツエッペリンが
かかってたので少し驚きました。コンサートの内容は素晴らしかったと思います。つくずくマーク(=
GRAND FUNK)は優れたエンターティナーだと思いました。


368 :伝説の名無しさん:04/02/15 21:46.net
MARK SAYS ALRIGHT のドラムが聞けてうれしかった。SINS A GOODMANS BROTHER
が丸々聞けるとは。INTO THE SUNも良かったヨ。


369 :伝説の名無しさん:04/02/15 21:55.net
NAGOYA & OSAKA にはグランド ファンク ファン は居ないのかな。淋しいよ。

370 :まっくん:04/02/15 22:13.net
マークの公式ページに東京のコンサートのレビュー?が
アップされてました。速っ!

Wow! 東京、中野サンプラザ、2月12日の夜の何と素晴らしかった事か。
ショウの終りまで100%GFRのナンバー、それはまさに私が聴きたかった
ものだった。とくにLive Albumを聴き倒していた頃を思いださせる
古いナンバーを私は評価したい。30年余り経った後でも それらの曲は
未だにエキサイティングで 永久に残るであろう古典であることを証明
している。私はWe're An American BandやBad Timeが聴けるとは
予想もしなかった。そしてそのドラムソロには全く驚かされた。
私は会場で売られていたN'rGのライブCDを買ったのだが それ以来
ずっとそれを聴き続けている。それはボスニアのライブよりもずっと
エキサイティングに聞こえる。そんなわけで私はボスニアを再び
聴いてはいない。N'rGのライブは素晴らしい録音だ。世界中の
GFRファンの為にもっとメジャーなレーベルから発売されるべきだ。
その夜の興味深いことの1つはショウにやって来た聴衆達だった。
彼らはまさに大挙して押し寄せた。彼らの平均年齢は40代半ばから
50代であろう。「入り口の看板に40代以下はお断りってあったぜ」
というジョークさえ耳にした。
興味深かったことのふたつ目は 2階席にいた誰かが1階の聴衆を
見下ろして「まるでオセロのゲーム板みたいだな」と言った事だった。
(白髪のオジサンが多いっていう事かな?)
私は最前列のセンターに席を取った。それはいい席だった。PAの死角
であることを除けば。だから私はマークの歌や彼のギターアンプが
炸裂するのを充分に聴くことは出来なかった。HubertとLawrenceは
GFRのナンバーを生き返らす為に全く素晴らしい仕事をした。
マークに祝福あれ。そしてKeep rockin' !!!

371 :伝説の名無しさん:04/02/15 22:17.net
中野はこじんまりとしてスペースでTシャツ&帽子を売ってたみたいだけど、
開始直前にいったら、全部売り切れでした。どんなんだったの?

372 :伝説の名無しさん:04/02/15 22:37.net
キーボードプレーヤー一瞬クレイグかと思った。

373 :まっくん:04/02/15 22:41.net
N'rGのCDとマークのバイオ本が会場で販売されてましたね
私もあれ以来CD聴きまくっています
当日のラインナップに加え
Aimless Lady / Paranoid / He Sent Me You(ソロの時の曲?)が聴けます
バイオ本の方はなかなか興味深い内容ですが
私の厨房英語でまともに読もうとすると10年はかかるな・・・・・
本のオマケでCDが付いていて
これは言わばマーク流のゴスペルミュージックか?
カントリーロック風のポップなものからやたらヘヴィなブルースまで
なかなか面白かったです(音質はそれなり)


374 :伝説の名無しさん:04/02/15 23:16.net
いや、俺もそれなりに良いと思ったし、マークの歌も相変わらずソウルフルで
衰え知らずで良かったんだけどさ・・・ケチは付けたくないけど何かが違う・・・
途中でメル・サッチャーのベースが無いからだって思った。
特にGFR初期の曲でなんかちゃっちく聞こえちゃったのはあのドライブ感の
塊みたいなベースが無いからだな。
昔のライブなんかあらためて聞いてつくづく思ったけど、GFRの魅力の
半分はマークの歌だろうけど、残りの半分はあのドライブ感ビンビンの
リズム・セクションだよね、絶対。
今、GFR本家の方はマークとは別にやってるみたいだけど、オリジナル
メンバー3人での再結成激しくキボ!!!

375 :伝説の名無しさん:04/02/15 23:25.net
初期のGFRの影(?)の功労者はメルだと思う。中期,後期はクレイグ

376 :伝説の名無しさん:04/02/15 23:28.net
タイムマシーン演ってたけどハイファルティーンウーマンの方がいいな。

377 :伝説の名無しさん:04/02/15 23:44.net
ゴッド・ジス・シング・オン・ザ・ムーーーーーヴ!  聴きたい。

378 :伝説の名無しさん:04/02/15 23:46.net
ライブのハートブレイカーがすきだったなー

379 :伝説の名無しさん:04/02/16 00:00.net
MARK SAYS ALRIGHT 全部演奏して欲しかったナー。ダークな感じだけど
COUNTRY ROADなんかもライヴで演ってもらいたかった。あと戦争をやめようとか。


380 :伝説の名無しさん:04/02/16 15:33.net
やはりどうしても初期の曲に偏るのはしょうがないよ。
Mark say’s alrightはドラムソロのついでにさわりやっただけでしょ。
Don Blewerの真似っぽいフレーズは確かにやってたね。

381 :伝説の名無しさん:04/02/17 02:17.net


382 :伝説の名無しさん:04/02/17 03:10.net
仕事で行けなかったが行っとけばよかったな大阪。

383 :伝説の名無しさん:04/02/17 19:35.net
グランドファンク、ベストなライヴは?
オレ的には1975年かな、あとは1982年JAPAN!

384 :まっくん:04/02/18 22:00.net
あれからはや1週間
マークのオフィシャルページよりレビューをもういっちょ
(東京の曲順もアップされてた)

私は今日、本当に彼のショウを楽しんだ。
私が言いたいのは マークがまさにモノホンのロックバンドで
プレイしているということだ。
恐らく皆はマークが懐メロをドン、メル無しで演るというだけのものだと
思ったことだろう。私もショウが始まった時はそう思っていた。
しかし それは全く真実ではなかった!!
とにかくショウに来て彼らのAmerican Bandやinside Lookin' Outを
聴いてみるがいい。それらの曲は力強い生き物のようだった。
まったく素晴らしい。あなたは圧倒されるだろう!!
マークのサポートバンドはサポートバンドではない。
あなたも何故マークが彼らとプレイするのを選んだのか分かるだろう。
彼らはまったくもってテクニシャンでその上デカイ音でプレイする。
まさに皆はこれを望んでいたのではないだろうか。
とにかく彼はこの極東の地で素晴らしいパフォーマンスを繰り広げたのだ。
ありがとうマーク! とにかく彼を見よ!!

Nate, T

385 :伝説の名無しさん:04/02/21 08:43.net
私が高校生の時グランドファンクが初来日しました。当時外タレのコンサートに
行くなど発想すら湧きませんでした。それだけに後楽園球場へ行った同世代の人達の行動力を凄いと思
います。ツエッペリン,パープル,ヒープ等ひとつも行かなかった。後悔してます。



386 :伝説の名無しさん:04/02/21 09:31.net
アンデルセンだっけ、そんな名前のアイドルバンド?がライブで(アーユーレディ)
を演奏しているのをTVで見た。何か驚いた。GFR全盛期のヒトコマです。

387 :まっくん:04/02/22 20:14.net
厨房の頃はギターといえばフォーク(ド田舎ゆえ・・・)
エレキはおろかギターアンプすら目にしたことがなかった
ひたすら彼らのレコードの音とジャケ写からロックを体感しようと
あがいていた当時 まあそれも青春ってところでしょうか
いいトシしてまた彼らの音楽にのめり込めるのも
そういうトホホな時期があったからこそか と思います
リアルタイムな体験を持っている方はやはり羨ましいですけどね

久々の中古盤屋巡り 幻の「ボスニア」を捜すも収穫なし
ガックリして帰ろうかっていう時に邦楽盤の新譜の棚で
偶然見つけてしまった「王様伝説」(ベスト盤)!
入ってましたよ!「アメリカ人の楽団」
マークのギターも元気だ!そうる透氏のドラム最高!
ツボにハマッてしまったのはメドレーに入っていた

 ふ〜られた〜〜 か〜た思い〜〜
 ふ〜られた〜〜 落ち込む〜〜〜

何とかオリジナル盤で他の曲も聴きたい!!


388 :まっくん:04/02/22 21:16.net
何やらマークのオフィシャルサイトは空前の更新ラッシュだー
サンプラザのコンサートの写真などがたくさんアップされてます
トップページはTimemachineの時の写真かな?
http://www.markfarner.com/

389 :まっくん:04/02/22 21:36.net
たびたび失礼・・・大阪の写真もあった
こうやってあらためて写真で見るとやっぱり老けたかな?
旨い日本食もサケも楽しんだようですね
マークのやたら丁重なメッセージは社交辞令ばかりとも思えないので
ツアーの感触はけっこう良かったのでは?
もしかして来年あたりまた来てくれる・・・・かな?

390 :伝説の名無しさん:04/02/22 22:46.net
マークのコンサートは直前まで行こうか行くまいか大いに悩んだ。失望するんじゃ
ないかと非常に怖かった。でも思い切って行って良かった。
コンサートの写真をあらためて見ると又感動が蘇るよ。

391 :伝説の名無しさん:04/02/23 12:05.net
今回はパスした。やはりドンとメルは来て欲しいね。
前回の赤坂ブリッツ公演が、良かっただけに・・・

392 :伝説の名無しさん:04/02/24 22:22.net
[ON TIME]というと、CANT BE TO LONGとUPS AND DOWNSを思い浮かべちゃうんです。
有名じゃないけど、何故か心引かれます。あと2枚目のWINTER AND MY SOULとか
[SURVIVAL]のI CAN FEEL IN THE MORNINGとか[WE ARE AN AMERICAN BAND]の
AINT GOT NOBODY 地味だけどいいですね。

393 :伝説の名無しさん:04/02/25 18:46.net
おおっ かなり聞き込んでらっしゃいますな
マークの作るリフやアレンジは結構ウマイと思う

394 :伝説の名無しさん:04/02/25 20:36.net
AINT GOT NOBODYのリフなんかスゴイデスヨネ。黒光りしてるって感じで。
自分は楽器の事は良く分からないけど、マークは上手いと思うんだけど。
昔から下手だの何だのと言われているのが釈然としない。

395 :ウエスト:04/02/25 21:02.net
エイントガット・・もいいけど、最後の曲のロンリエストライダーも気になる。特に詞が良い。 

396 :伝説の名無しさん:04/02/25 21:05.net
グランドファンクの初期(3人)の映像が観たい。今までみたのは、有名な孤独の叫びを演奏してる
20分位のやつ。映画「ウイークエンドレベリオン」を20分位に編集したのとか、
アメリカのTVのドキュメンタリー番組。そんなところだ。シエアスダジアムの映像が
有るとCDの解説に書いてあったが、本当なら早くみたい。

397 :伝説の名無しさん:04/02/25 22:21.net
マークの歌詞はいいですね。自分はウインター・アンド・マイ・ソウルが好きです。
暗く重い詩が多いですね。

398 :伝説の名無しさん:04/02/26 09:21.net
「戦争をやめよう」もよくこんな曲が発表できたなと思う。1971年当時は、反戦ムード
がたかまったせいもあるだろうけど。業界で干されたりしなかったんだろうか?

399 :伝説の名無しさん:04/02/26 11:02.net
私が生まれて初めて買った輸入盤は「アメリカン・バンド」。中野ブロードウエーの3階
でのこと。でも今思い出してもあんな所にレコード屋なんて無かったのにあれは何屋さん
だったのだろう。金ピカのジャケットのいい、真っ黄色のレコード盤といい度肝を抜かれた。
肝心の中身は正直?で納得出来なかった。ガツーンと来る物が無かった。良さが解るまで時間
がかかった。ともあれ、初めての輸入盤体験は感動的だった。

400 :まっくん:04/02/26 20:39.net
あれから2週間・・・未だにGFRナンバーがアタマの中を回ってます
マークのバイオ本 From Grand Funk To Grace より

Chapter 9 Heavy Music
GFRは当時のどのバンドよりも大規模な機材を所有していた。
彼らの楽器に加え、20.000Wのフルステレオサウンドシステム、
さらに12本のマイクロフォンと2.000Wのモニターシステムを
持ち運んでいたのだ。彼らはまさしく最も音のデカいバンドだった。
彼らのユニークなサウンドはオーバードライブさせたWestのアンプを
ステージの両サイドそれぞれ7.000WのP.A.システムで可能なかぎりの
高出力で音量を上げることで得られた(それはほとんどのバンドが
やっていたことだった)。聴衆はそれを好んだが このような大音量に
長くさらされていると慢性の難聴になる危険性が 当時少なからず
認められたた。「神の御加護があったんだろうね。オレにはしっかりした
音程で歌うための聴力が必要だから。オレはピンが落ちた音さえ
聴く事が出来る。みんなは驚くけどね。オレ達は大量の機材を
持ち運んでいたけど それで最大音量まで上げることはしなかった。
だからみんなはクリアな音で聴く事が出来た。大規模なサウンドシステム
だと 小規模システムのように目一杯までドライブさせる必要がない。
だから良質で正確なサウンドが得られる。限度を超えた音量の楽器音の
中からボーカルを聞き取るのは難しい。マイクロフォンは アンプやら
そばで鳴っているあらゆる音を拾ってしまうからね。オレ達は全員
楽器の音を歪ませて演奏していたから そのアンプの轟く歪みは
そのまま保ちつつクリアなボーカルの音を得るのが主たる問題だった」
(噂ではテリーとメルは彼のユニークなディストーションベースサウンドを
編み出すために何日も苦労したという)

401 :まっくん:04/02/26 20:42.net
ミュージシャンが直面する最も大きな危険は感電のリスクだ。とりわけ
雨天の野外での演奏がそうだ。バンドのメンバーは電気ショックの
未経験者ではなかった。その事故は日本での演奏中に起こった。
GFRが日本の空港に着いた時 彼らを歓迎するために大挙して
押し寄せた大勢のファンにもみくちゃにされた。彼らは1971年7月17日
ロックバンドとして初めて東京の後楽園球場で演奏しようとしていた。
この特別なイベントは大型の台風によって台無しになった。
風は大変激しく球場へ行くために彼らが乗ったリムジンはマンホールの
フタが宙に吹き飛ばされるのをよけなければならなかった。報道によれば
暴風雨によって都内の主な5つの鉄道の路線が不通になった。しかし
Grand Funk鉄道は違った。彼らが球場に着いた時 外で何千もの人々が
すでにソールドアウトとなったショウを見ようとしていた。
(チケットを持たないファン達はゲート近くの電信柱を叩いて訴えたり
球場に入れてくれるよう泣きついたりしていた)

402 :まっくん:04/02/26 20:50.net
マークは回想する。「日本側のプロモーターがやって来てオレ達に言った。
『Ah-so さあ始めてくれ』オレ達は彼らに雨の中では演奏できない
と訴えた。まったく信じられないほど激しく雨が降っていた。しかし
さらに信じられない事には4万もの傘を持った観衆が豪雨の中を座って
いたんだ。彼らは何が何でもショウを見るつもりだった。だから
オレ達は出ていってプレイした。あのコンサートは素晴らしい経験だった」
常識的な慎重さを放棄して バンドは無情の豪雨の真ん中にある
ほとんど覆いのないステージに向かった。彼らは用心のためにラバーの
底の靴をはいた。ステージ中央の低い場所には何インチもの雨水が
たまっていた。ドンがドラムを叩くと水が弾けとんだ。ギターなどの
楽器とマイクロフォンは別々の電源回路になっていて 立ち位置によっては
非常な危険がつきまとった。(・・・・マークの立ち位置!)
マークはマイクロフォンとの距離を保つことを充分心得ていたが ある時
少しばかり近づきすぎて マークの唇からマイクロフォンに青い火花が
走った。これにはマークもかなり動揺した。メルは茫然自失だったが
ショウは続けられた。バンドにとって驚くべきことに聴衆の多くは
英語で歌い続けていた。マークは常に日本の人々の礼儀正しい手厚い
もてなしを受けた。日本は彼が訪れたりツアーをした国の中で 好きな
国のひとつだ。(現在でもマークとGFRは日本で高い人気を誇っている)


今さら気づくのもアホですが コンサート会場で買ったこのバイオ本の
表紙の裏にマークのサインが〜〜〜〜!!!!!!
しかし何だか製本が安っぽいので(ハードカバーじゃないです)
読んでいくうちにバラバラになりそうな悪寒・・・

403 :伝説の名無しさん:04/02/26 21:34.net
いつもありがとう。

404 :まっくん:04/02/28 23:17.net
同じく前書よりクレイグが加入したあたりの微妙ーーーな状況

Chapter 7 Four's A Crowd
GFRは独裁者テリー・ナイトから離れて新たに見いだした自由な活動と
彼らの音楽的な地平を拡げる事を熱望していた。彼らは4人目のメンバーを
グループに加えることを検討した。最初にHumble Pieのギタリストである
Peter Framptonが考えられたが Peterはやがて大成功する事になる
ソロ活動を開始させるのに忙しかった。問題は音楽と とりわけ
アルバム志向のFM局(その放送スタイルはGFRの様なグループに
適していて以前は彼らの曲のエアプレイを確約してくれていた)が
急速にAM局のTop 40スタイルを取り入れた事だった。通常の番組で
長い曲をかけたり アルバム一枚を丸ごと中断なくかけていたような
FM局のほとんどは もはやこうした自由や贅沢を提供しなくなった。
GFRはふたたび「適応しなければ死ぬ!」という可能性に直面した。
彼らはしぶしぶ適応することを決意した。(こうした変化は最初
バンドを空前の商業的な成功に至らせたが 最終的にはこのグループを
ここまで昇りつめさせた本質的なものを死なす事となった)

最終的にかつてのThe Packのメンバーだったクレイグが バンドの
キーボードを拡大するために選ばれた。クレイグは回想する。
「ある晩オレがプレイしていたフリントのクラブにドンが入って来た。
そしてマークの家に来て一緒にジャムセッションをしてくれるよう
オレに頼んできたんだ。コトは進んでオレはバンドに加わった」
この幸運に興奮しはしたが クレイグは突然巨大なアリーナの何千もの
観衆の前でプレイする事になり少なからずビクついた事を認めている。

405 :まっくん:04/02/28 23:19.net
クレイグをバンドに加入させるという提案にマークは動揺した。
マークは純粋に音楽的な見地からこのアイディアに異を唱えた。
マークは子供の頃からクレイグを知っていて本当に彼を好きだった。
この事がマークのクレイグ加入反対の意図をなおさら分かりにくく
している。しかしながらバンド内での決定は民主的に行われた。
マークが説明する。「ドンがクレイグ加入を提案しメルはそれに同意した。
ここでオレ達の対立が始まった。クレイグとオレは長い間ずっといい友達
だった。しかし彼のバンド加入を望まないオレの気持ちをクレイグが
気づいていた事でオレ達の友情が変化したんだと思う。もし彼をGFRの
一員にする事が無かったら オレ達は普通に仲良くしていられたと
オレは確信している。この事があってからバンドの信頼関係にある種の
緊張が持ち込まれた。オレ達はまだ一緒に楽しんでいたにもかかわらずね。
アルバムPHOENIX以後 オレ達はもはやパワートリオではなくなった。
何とかキーボードが加えられると オレ達は人々がオレ達の音楽の中に
見い出し、そしてたくさん愛してくれていた個性的なダイナミックさを
失ってしまった。(クレイグが加入した事で)ステージ上でのオレの負担は
いくらか軽くなった。クレイグに(パートを)引き継いでもらって
オレは制約なくいられるようになった」
マークによれば クレイグは言わばパーマネントのサイドマンとして
バンドに加わったのであり バンドの実質的な正式メンバーには決して
なっていない、と言う。(クレイグはバンドが崩壊する1976年まで
バンドに留まった)

406 :まっくん:04/02/28 23:21.net
「バンドがビッグになるにつれて ドンはバンドの為に曲をもっと
提供する事を強く望むようになったようにオレは思う。彼のそのような
行動の動機のいくらかには こうした曲のロイヤリティを共有し
もっと金を稼ぐ事があったと思うよ。オレが曲を書く時は詩も自分で
書く事を望んだ。この事についてドンは決して(自分も曲を作って利益を
享受する意志を?)明らかにしなかったし オレに対しても何も
言わかった。でもオレは ドンがオレ達の間の事をクリアに公明正大に
しておきたかったんだと信じている。(マークとの共作を嫌った?
借りを作りたくなかったとか?)この事を彼に言った事はなかったけれど
オレの直感では彼はもっと曲が書きたくなって一緒に曲を作ってくれる
誰かが必要になったんだね。彼はもし我々がクレイグのバンド加入を
必要としたら クレイグこそが自分の作曲を手伝える人物だと
感じたんだね」クレイグはこのドラマーの鼻歌を採譜して音楽的に
アレンジしたり彼の詩に曲をつけたりする事でドンの曲作りを助けた。
マークは言う。「ドンとオレの友情は残った。しかしAmerican Band
以降は深い友情ではなくなった。ドンがまだ農場をやっていて三輪自動車に
乗っていた頃は オレ達は湖で水上スキーなんかをしたものだった。
でも今やオレ達は2人の間のこうした距離に気づいてしまっていた。
大部分の時間 オレ達はベストを尽くし上手く付き合っていた。しかし
別のところでは ドンはクレイグとつるみ始め オレはメルと
以前に増して一緒につるむようになった」

407 :まっくん:04/02/29 00:11.net
蛇足 私めの深読み
Phoenixでせっかくクレイグがキーボードで参加したにも関わらず
アルバム1曲目のド派手なオルガンのイントロはマーク
American Bandの3曲目Cleepin'の印象的なエレピのイントロもマーク
ライブのCaught In The ActのFootstompin' Musicではわざわざ
ハモンドB3オルガンを2台ステージに乗っけてマークは自分のパートを
弾いている(クレイグもそっくり同じリフを弾いていて これはこれで
なかなか贅沢でゴージャス・・・・か?)
この辺はやはりマークと他のメンバー間で見えない火花が散っていた?
マークがキッチリ自分のポジションを固守しているように感じます
これが実質的なラストアルバムBorn To Dieになるとマークは
キーボードを全てクレイグに任せていますね
終りの予感があったのか すでに最後の決断を下した後だったのか
そんな状況がマークをそうさせたような気がします
イントロなどにクレイグの印象的なプレイが目立ちますね
自分としてはこのアルバムの4人のバンドアンサンブルの密度が
1番濃いように感じます
結局彼ら自身のレクイエムのようなアルバムになってしまいましたが

しかしロックバンド崩壊の経緯としては余りに「ありがち」な展開
GFRに限ってこんなナイーブな人間模様は無いと思ってました
連中のノー天気なだけじゃないところを垣間見れたのは新鮮!

408 :伝説の名無しさん:04/02/29 13:30.net
GFRにもこんな内部対立があったんですね。
でも最後まで、メンバーチェンジが無かったのは救いでした。

409 :伝説の名無しさん:04/02/29 13:35.net
良スレ紹介

http://sports3.2ch.net/test/read.cgi/sports/1077278598/l50

410 :ウエスト:04/02/29 17:26.net
そう言えば、Born To Dieのジャケット写真の撮影時に、マークだけが目を開けている
写真を使うことをマークが要求し、メンバー同士でモメたと言う話を当時の雑誌で読んだ
覚えがあります。その時既にマークはソロ活動をすることを決意しており、末永く音楽活動を
行う意思表示をする為にその写真を使いたがったらしい。

411 :伝説の名無しさん:04/02/29 19:42.net
BORN TO DIEのジャケットって縁起悪いですよね。
マークだけが眼を明けていたらなおさら不気味でしたね。


412 :伝説の名無しさん:04/02/29 22:26.net
なんかクレイグがかわいそう。フェニックス・ツアーのビデオ(海○盤)を
観るとこの人凄いんだよね。ウルトラ・テクニシャン。もうちょっと評価されても
いいと思う。性格がおとなし過ぎたのかもね。

413 :まっくん:04/03/02 20:36.net
後書きに各メンバーのその後がありました(恐らく2001年当時)
クレイグは78年からボブシーガーのSilver Bullet Bandに加入
現在に至るまでずっとメンバーとして留まっている(凄いね)
クレイグは彼の娘によっておじいちゃんにされてしまった(オメデト)
彼の息子は親父の後を継いでミュージシャンの道を歩みつつある
ドンはフロリダに移った。興味深い事にやはりボブシーガーの
バンドに加わっていますね(83年と86〜87年)
さらに興味深い事にFrank Zappa(!)やPat Traversと
レコーディングセッションをしていたらしい
一時法律を勉強したが現在の法制度に幻滅したとの事???
最初のカミさんとは別れフロリダのラジオ局で人気のあった(DJ?)
Sunny Quinnと再婚。現在娘がふたり
メルは長年に渡りヴィンテージカーのレストアに情熱を注いでいる
またミュージックストアのチェーンを所有している
さらに鳥獣保護区の管理人もやっている
メルはマークと同じく敬虔なクリスチャンであり 彼の息子は
クリスチャンヘヴィメタルのバンドでプレイしている!

414 :伝説の名無しさん:04/03/02 22:54.net
四人共凄いミュージシャンなのに、浮ついた所があまり無く
地に足がついた生き方をしてるのが嬉しい。

415 :伝説の名無しさん:04/03/06 13:02.net
「ロコモーション」は「シャイニン・オン」完成後に出来たらしいですね。
むりやりアルバムに入れた?せいかこのアルバムバランス悪いと思いませんか。
「ディスティチュート・アンド・ルージン」は「ロコモーション」にはじきだされた?
とゆーとオリジナル?の曲順はどんなだったんでしょう。
1.シャイニン・オン
2.トゥ・ゲット・バック・イン
3.プリーズ・ミー
4.キャリー・ミー・スルー
5.ディスティテュート・アンド・ルージン
6.ミスター・プリティ・ボーイ
7.ゲッティング・オーバー・ユー
8.リトル・ジョニー・フッカー
違うかな。長々スミマセン


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