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フジロッカースを潰すスレ822
- 842 :名盤さん:2024/05/11(土) 10:29:54.53 ID:F+lCga58.net
- 星野源の考える「自由」とは?
では星野自身の考える「自由」とは何なのでしょうか? 5月7日放送の『星野源のオールナイトニッポン』で、こう語っています。
<ライブをしていて楽しくて。本当にみんながすごくたくさん踊ってくれたり、歌ってくれたり。もちろん、休んでる人もいたし、めっちゃ踊ってる人もいたし。なんかね、それぞれですごい楽しんでくれてる感じがあって、それがすごい嬉しくて。>
つまり、各々の気の向くままに、個人の裁量で音楽を楽しむことを「自由」だと言っているのですね。きっとイギリスのグラストンベリーフェスティバルみたいな雰囲気をイメージしているのでしょう。大人らしく遊んでくださいねと。そのうえで、“みんな自分で考えましょう”と呼びかけて、実際に観客は応じたわけです。
ただ、意地悪な見方をすれば、星野源という大物アーティスト=力を持つ者のご託宣に従っただけじゃんと思わなくもないのですが……。
そもそも、パーにした手を前後左右に動かすことが何を意味するのか、きっと誰にも説明できないでしょう。その動き自体に、特定のメッセージは込められていないのです。
そうした状況に参画することにカタルシスを見出すのが日本人の特性なのではないかと思うのですね。
「自由に」という要求が、そもそも自由ではない?
こうした日本人による不可思議な集団行動を論じたのが、フランスの思想家、記号学者のロラン・バルトです。1960年代の全学連によるデモを、このように評していました。
<全学連の暴力は暴力それ自身の調整に先行しない。調整と同時に発生する。全学連の暴力は.....
つまり、ひたすらに手を前後に動かすオーディエンスとは、バルトが全学連のデモに見た、<ただ単にその行動それ自体>を目的とする集団そのものなのですね。
当然、デモもライブも、その種の行動を強要されてやっているわけではなく、日本人が集まるとそうなってしまう何かが発生する。
この抗いがたい力を、“自由ではない”と切り捨てることにはかなりの抵抗を感じます。
今回、星野源は多様な楽しみ方があってしかるべきだとのメッセージを込めて、手を前後に動かすことをやめ、「自由」に動くことを要求しました。しかし、それがスムーズな「自由」であったのかどうかは議論のわかれるところでしょう。
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