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◆◆キルケゴール、キリスト教と実存主義◆◆

1 :ちゅん太郎:2017/12/05(火) 20:39:48.88 0.net
複雑化した現代社会において人は、言語を過剰に運用するので知性的に、言語に過剰に
依存するので一般的に、言語によって過剰に分析するので受動的になる。この様に
社会構造が個人を透明化させてしまう。個人の充実のための社会が社会の充実のための
個人となり、個人の生が蔑ろにされているのではないか。それに対抗するために
生まれたのが実存主義であり、キルケゴールは感性的・個別的・能動的な生き方を
推進する。

2 :ちゅん太郎:2017/12/05(火) 21:48:06.04 0.net
人類は生きる為に生存実感を必要とする。単に生きているだけでは新鮮さが失われ実感
が無くなり、飽きが来て苦痛に感じるようになるし、ついには精神崩壊してしまう。
そこで人類は飽きに対抗し生存実感を更新する為に、前近代においては祭りを行って
いた。前近代の社会は単純であり流動性も低かったので、運営に支障をきたすこと
なく共同体の成員全員が祭りに集合可能であり、また自ら選択することなく受動的に
祭りを享受可能であり、また時間の中で定期的に祭りを行うことが可能であった。
しかし近代以降の社会において無が進入してきた。

なぜなら社会が複雑化して流動性が高まったからであり、それゆえに通勤や納品時期
などの社会の運営に支障をきたす為祭りのために成員全員の集合が不可能になり、
また祭りが来るからこそ主体的選択をせず目標が無くてよかったのに自ら能動的に
選択することになり、また個々人の都合で祭りを空間的に選び取るようになったから
である。

3 :ちゅん太郎:2017/12/05(火) 21:59:18.20 0.net
すなわち前近代の一般性・受動性・時間性が、近代以降は個別性・能動性・空間性と
なったのであり、こうして何百万年の人類史上初めて人々は主体者として意味の無限
指定に囚われたのである。最早無の前に人は不安におびえるのであり、生存実感は現実
逃避となった。そんな無の深淵の前に立たされた人類が意識的に選択できる態度は
3つある。それが享楽的実存・道徳的実存・宗教的実存である。

享楽的実存は近代において感受性を更新し生存実感を得ようとすることである。
この様な享楽追求には外的変化追求と内的変化追求がある。外的変化追求は外的対象
を享楽に費やして、それに飽きが来たら次々とその対象を別のものに変えて楽しむと
いうものである。風景を次々に変えていく転居魔や、抗争を通じて暴力を楽しむ
チーマーや、さまざまなゲームと戯れるゲーマーや、薬物使用を繰り返すジャンキー
や、性的快楽を追及するナンパ師などがこれに当たる。しかしこれは既存の外的対象
に限定されてしまうし、また引き出す快にも限度があるため快が得られなくなったり
、より高い刺激を求めて社会の外側へ突き抜ける可能性がある。内的変化追求は個別
的な外的対象に様々な手を加えて楽しもうというものであり、対象から空想したり、
人間関係において相手と様々な関係を取り結んだりして、日々の生活から遊離した
世界に自らコミットして快を引き出す。これは外的変化享楽追求とは異なり対象に
限定されず、また無限に快を引き出すことが出来る。しかし外的であれ内的であれ、
享楽の後に残っているのは無である。ここでは何故それを選ぶのかの理由が欠けて
いる。

4 :ちゅん太郎:2017/12/06(水) 19:16:52.68 0.net
実存は現実に存在するということであるが、事物と人間の場合では異なる。事物の場合
は職人が作る際にまず本質としての概念があり、それに基づいて存在としての実存が
作られる。つまり物は本質としての一般類種的同一性に基づいた個別的自己同一性で
あり、本質が実存に先立つ。

しかし人間の場合はまず存在する実存があり、その後に自らで自らを作り本質である
概念として語られるものである。つまり人は鋳型にはめ込むような同じ存在ではない
のでまず事物とは逆にまず個別的自己同一性があってそれが更新される中でその都度
一般類種的同一性としての本質が語られうるのであり、実存が本質に先立つ。事物に
おいては事物ならしめる本質は不動であるが、人間においては本質は更新され続ける。

5 :ちゅん太郎:2017/12/06(水) 19:21:18.34 0.net
この様な人間の実存は近代的自我であり、事物とは異なる感性的な存在である。これは
出来るようになりたい理念に向けて、可能性に過ぎなかった現実的には無の存在を、
現実の存在へと変化させ感性を高めるものである。これは自己関係を総合して自己関係
自身へと近づけ自己生成を行う、自覚的な生き方である。

ここでは人間は情熱によって動くが、選択する際には不安に絶えず付きまとわれる。
しかし反復を通じて鍛えられ自信を得て感性を高めていくが、いずれかの関係項に
偏向することによって総合できずに絶望し頓挫することもある。絶望することなく
正しく総合することで、人は理念へと近づき自由が拡大していくのであるが、
しかし神に成り得ない人間のやれることにはいずれは限界が訪れる。

6 :ちゅん太郎:2017/12/06(水) 19:33:00.83 0.net
キルケゴールにとっては、関係が関係自身に関係するのが実存するということであった。
これは自己が自己自身に関わるという意味であり、すなわちキルケゴールにとっての
自己とは関係性なのである。自己関係は4つの関係項である無限性と有限性、可能性と
現実性で構成されている。無限は有限性と相対的規定項であり、抽象的な絶対的な
自己への意識である。有限性は無限性と相対的規定項であり、抽象的な平均的な自己
への意識である。可能性は現実性と相対的規定項であり、具体的な選択をした自己
への意識である。現実性は可能性と相対的規定項であり、具体的な自己への意識
である。

この様な自己関係が4つの関係項の総合によって至るのが、より自分らしさを持った
自己関係自身であり、絶対者に近づいた自己が行き着くべき未来の立場である。各々
の関係項のいずれにも偏向することなく総合を果たしたことで、感性の高まりに
よって自己は他の誰でもない自己自身へと近づいていく。

7 :考える名無しさん:2017/12/06(水) 21:06:01.45 0.net
飛び出せ 性春!

8 :考える名無しさん:2017/12/06(水) 21:16:19.74 0.net
遠隔韓国アイドルVRでとばしとんのかね??

9 :考える名無しさん:2017/12/08(金) 12:29:06.55 0.net
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10 :学術 :2017/12/08(金) 12:32:15.69 0.net
絶望かあ。希望は見つけたかい?

11 :考える名無しさん:2017/12/09(土) 05:31:43.64 0.net
>>2
無とは具体的に何ぞや?
教えろ下さい。

12 :ちゅん太郎:2017/12/09(土) 21:59:36.99 0.net
不安は目標を前提にしている者に根本的に漂っている雰囲気であり、これはある共感的
な反感・ある反感的な共感である。すなわちやれるようでやれない・やれないようで
やれるという思いであり、恐怖とは異なる。なぜなら対象がないからこそ不安なので
ある。この様な実存的不安を持っているのが精神としての自己である。

反復は理念に向かって感性を高めるべく何度も行為することであり、成功できるよう
になりたいことを試行錯誤の失敗を通じて感性を高めることによって受け取りなおし
て、成功できる感性とそれに伴う自信を獲得することが出来る。

13 :ちゅん太郎:2017/12/09(土) 22:10:27.72 0.net
>>11
無とは神の死によって訪れた新しい時代の地平であり、それは社会の複雑化によって
起こる。すなわちそれまで受動性・時間性・一般性で生きていた人類が、時代の要請で
能動性・空間性・個別性の生き方に転じて、こうして社会の経済的繁栄の対価として
人類は無を招きよせることになる。

すなわち個人が自らの意思によって選択しなければならないという、意味の牢獄で
永遠に暮らさなければならないということだ。今では当たり前になっていること
だが、何百万年の人類史を顧みるとこの様な事態は近代から初めてのことである。
さあ無がやってきた。

14 :美魔女:2017/12/09(土) 22:41:42.93 0.net
>>13
同意。👰

15 :ちゅん太郎:2017/12/10(日) 19:16:23.90 0.net
道徳的実存は道徳に準拠した生き方をすることであり、共同体の成員がその普遍性の
中で仕事・家庭などを通じ、幸福を見出すことである。その社会の日常的な道徳義務を
果たすことによって、現実から遊離することなく幸福を実現していく。ここでは同胞
と如何に幸福になるかが問題であって、個別者がその個別性を捨てて普遍的・一般的
なものとなるのが目的である。しかし一般性であるということは紋切り型であると
いうことであり、それは既存性でしかない。

このような客観的な役柄を目指してもそれを取り入れて感性にするのは不可能で
ある。なぜなら自己を捨てて普遍を拾おうとしても、拾おうとするのもまた自己で
あるから自己がついて回るからである。この様にして完全なる道徳者は完成され
えない。小さな自我を温存しつつ普遍になりきれないのである。またこの様な日常
生活の義務の反復は本質の変化であって、けして自己生成は起こらない。そして
合意解消により共同体が衰退すると、行動前提を失って幸福自体獲得出来なく
なってしまう。

16 :ちゅん太郎:2017/12/10(日) 19:21:10.63 0.net
絶望は自己関係の齟齬によって実存できない状態のことであり、無限性と有限性・
可能性と現実性の関係項の取り違いによって起こる。ここでは自己生成が起こらない。
絶望に陥った人間は何ものにも依拠することはできないのであり、無の深淵に飲み
込まれるしかない。これは理論上の絶望と現実的な絶望がある。

理論上の絶望は現実に起こる絶望ではなく理念型として分類した4つの絶望の類型で
ある。これには無限性の絶望、有限性の絶望、可能性の絶望、現実性の絶望がある。
無限性の絶望は自己関係において無限性と有限性が総合されること無く、一足飛びに
理念へと向かって無限性に意識が偏向している事から起こる絶望である。理想主義者
がこれに当たる。有限性の絶望は自己関係において無限性と有限性が総合されること
無く、自己を平均化・固定化して人類だとか大衆だとか員数の一般性の一人と捉える
ことから起こる絶望である。共同体主義者がこれに当たる。可能性の絶望は自己関係
において可能性と現実性が総合されること無く、理念への意識を忘れ可能的な仮想
現実の中で生きていこうとする事から起こる絶望である。空想家がこれに当たる。
現実性の絶望は自己関係において可能性と現実性が総合されること無く、理念への
意識を忘れ現実がどうにもならない必然的なものと捉え、この現実にしがみつこうと
する事から起こる絶望である。運命論者がこれに当たる。

17 :ちゅん太郎:2017/12/11(月) 00:42:15.10 0.net
現実的な絶望は理念型ではなく現実にその人の人生において起こりえる絶望の類型で
ある。これには第1に自分が絶望していることに無自覚である絶望、第2に自分が絶望
していることを自覚している絶望、第3に罪としての絶望がある。自分が絶望でして
いることに無自覚である絶望は実存することの必要性を理解していない自然的な生を
送っている無知な者に起こる絶望である。自分が絶望していることを自覚している
絶望は理念に気づきながらもそれが挫折することにより陥る絶望である。これには
弱さの絶望と強さの絶望がある。弱さの絶望は絶望して自己自身であろうとしない
絶望であって、これには地上的なものについての絶望と最高度の段階としての永遠
なるものについての絶望がある。

地上的なものについての絶望は不幸の理由を無為であるが故であることを自覚できず
に運命に腹を立て自己自身に嫌気がさして新規の自己を望む絶望であり、空想に
よって可能的世界の中で完全なる自由を満喫する。しかし夢から覚めて待っている
のはみすぼらしい自己である。永遠なるものについての絶望は不幸の理由を無為で
あるが故であることを自覚しているものの、弱い自分に腹を立てて無為に留まる絶望
であり、挫折とそれに対する後悔に恐怖を抱き実践に踏み出そうとはしない。理念
への運動に掻き立てられながらも、気後れして過度の分析に従事し、絶えず自己の
殻の中に留まってしまう。強さの絶望は絶望して自己自身であろうとする絶望で
あり、自己生成のために自己を否定しなければならないことに腹を立て、自らの自我
を絶対視して固執するのである。権威主義者や体系的哲学論者やソクラテスなどが
これに当たる。ここでの最高度の段階が悪魔的狂乱である。悪魔的狂乱は権威を誇示
して世界を支配することに失敗した者が、逆に世界から不当に扱われることに対し
愚か者にはわからない、と自己の高貴さを感じる絶望であり、ここで自我の殻への
自己閉鎖性は極限に達する。しかし実存しないので脆弱な自己が温存されるだけで
ある。罪としての絶望は自らの罪を自覚しながらも信仰への立場へと飛躍しない絶望
である。

18 :ちゅん太郎:2017/12/11(月) 00:45:18.91 0.net
キルケゴールはキリスト者へと誘導するべく、客観的な皆がこうすべきというような
一般的な思想ではなく、主体的な個人が如何に生きるべきかというような個別的な思想
の伝達を試みた。そこで直接伝知ではなく間接伝知が行われる。この様な匿名での発表
は、彼自身が伝達しようとしたことが客観的真理ではなく主体的真理だからである。

もし実名で主張すれば主張者の権威に左右され、ある者は隷属しある者は反発し、
主体的な決断に至らない。キルケゴールは人生の三段階を踏まえたうえで、人々を
信仰の道へ誘うべく信仰の虻として人々にまとわりつき、気付きを供給するので
ある。

19 :ちゅん太郎:2017/12/11(月) 12:15:17.51 0.net
信仰は対象を信じ不信を除き去る立場であり、対象と信仰者が人格関係であって成功
する。人格関係は相対的で客観的な条件を充たせば誰でも築くことが可能な非人格的
関係ではなくて、人格的な個人のみが築くことが可能な絶対的で主観的な関係のことで
ある。これは対象が自らの意識の根底にあるような感性に取り込まれているということ
であり、この様な関係はどのような論理によっても合理化することは出来ない。それ
はもはや当然のことであって理屈ではないのであり、それゆえ人はその事を言葉に
表して他人に説明することができないからである。

しかし人格関係でない信仰は、けして完全に達成されることはない。何故なら感性に
取り込もうという者もまた自己であるから、自己が常について回るからである。

20 :ちゅん太郎:2017/12/11(月) 12:19:10.19 0.net
信仰誇りは信仰者の真理を知っているという誇りであり、真理と無関係な他者に対する
優越感である。敬虔な信仰者にとっては当然のものであるが、これは自らが信仰者と
して努力したという自己への信頼感が伴っていなければならない。非人格関係に基づく
形式的な信仰者は、信仰者としての努力をしていないにも拘らず信仰者という形式的な
権威で自らを大きく見せて尊大に振舞う。

自称信仰者が高みから土足で人の人格に踏み込んで否定するのは、自身の力を誇示
しようとする弱さの現れである。そして他者への誇りだけで自己信頼が伴っていない
ので、弱い人間が権威にますますすがって努力せず傲慢になっていくという悪循環を
生む。これに対して人格関係に基づく真の信仰者は、神に選ばれているという誇りは
持っているがそれとともに信仰者としての努力をしているという自己への信頼がある
ので、尊大に振舞わないし自信を持っている。

21 :考える名無しさん:2017/12/11(月) 12:33:52.22 0.net
キルケゴールの立場は、一切衆生の救済を目指した大乗仏教とは明らかに異なるもの
信仰はどこまで突き詰めても、主観的な実感でしかないので
それを万人向けに広めようとした時点でウソになってしまう

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