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◆◆キルケゴール、キリスト教と実存主義◆◆

3 :ちゅん太郎:2017/12/05(火) 21:59:18.20 0.net
すなわち前近代の一般性・受動性・時間性が、近代以降は個別性・能動性・空間性と
なったのであり、こうして何百万年の人類史上初めて人々は主体者として意味の無限
指定に囚われたのである。最早無の前に人は不安におびえるのであり、生存実感は現実
逃避となった。そんな無の深淵の前に立たされた人類が意識的に選択できる態度は
3つある。それが享楽的実存・道徳的実存・宗教的実存である。

享楽的実存は近代において感受性を更新し生存実感を得ようとすることである。
この様な享楽追求には外的変化追求と内的変化追求がある。外的変化追求は外的対象
を享楽に費やして、それに飽きが来たら次々とその対象を別のものに変えて楽しむと
いうものである。風景を次々に変えていく転居魔や、抗争を通じて暴力を楽しむ
チーマーや、さまざまなゲームと戯れるゲーマーや、薬物使用を繰り返すジャンキー
や、性的快楽を追及するナンパ師などがこれに当たる。しかしこれは既存の外的対象
に限定されてしまうし、また引き出す快にも限度があるため快が得られなくなったり
、より高い刺激を求めて社会の外側へ突き抜ける可能性がある。内的変化追求は個別
的な外的対象に様々な手を加えて楽しもうというものであり、対象から空想したり、
人間関係において相手と様々な関係を取り結んだりして、日々の生活から遊離した
世界に自らコミットして快を引き出す。これは外的変化享楽追求とは異なり対象に
限定されず、また無限に快を引き出すことが出来る。しかし外的であれ内的であれ、
享楽の後に残っているのは無である。ここでは何故それを選ぶのかの理由が欠けて
いる。

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