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競争に敗れた人間が生きる意味ってなんなんだ?
- 20 :ビクテン・ミネオカンビア :2020/04/21(火) 17:25:52.74 0.net
- 「競争に敗れた」とあるが、この表現には面白いところがあって、「競争」と言う主軸を定義している所。
まず、競争を人生の主軸として定義する必要はなくて、あるいは自分の幸せ、と言う自分本位であっても良い。
けれども、それをすることをしないのは、例えば「褒められて嬉しくなる」「貶されて悲しくなる」と言う経験に基づいていたり、
あるいは、嫉妬という感情が犬猫にでも科学的データとしてあることが立証されているように、人間本来のアプリオリなものであるかもしれぬ。
だが、しかし、経験に基づく優位・劣等に拘泥する感覚やら、あるいはアプリオリに根差した優位・劣等に拘泥する感覚があっても、
それ、と言うのはアポステリオリに背馳することができる、と言うことが脳科学のデータであるのがあって、面白い。
と言うのはつまり、人間はこれまで脳の機構は可塑的ではない、人間の脳内情報はそのままである、と見なされていた時期が長い間あったのだけれど、
実際は、人間は経験を経るに従って、その脳の機構を変容することができる、と立証されている。そして、先験的な脳の機構についても容易に変わりうると言うのが、
例えば、幼児の「脳の刈り込み」によって示唆されているのではないかな。
畢竟するに、「競争で破れる」だの「競争で勝つ」だのと言った贏輸と言うのは、ただの反復により強化されたものに過ぎず、
実際上は脳のデータに過ぎないが為に、あるいはそれから脱すると言うのが自由への道なのではないかな。
ただやるべき事と言うのは、その煩悩をしっかりと自覚する事、そして煩悩であるが故に悪いのではなくて、
”煩悩を自制できぬ”ことが悪い。煩悩があるからこそ人間は楽しめるし、成長できる。
その程々(中庸)を見極めつつ、あるいは仏教的に言うと、仮観と空観の間をとるとも言えるけれど、
競争に固執し過ぎてしまったのであれば、それは「ただの反復」に倚藉して、伸長してしまったに過ぎない醜悪な欲望として冷厳に切り捨てる覚悟が必要だよね。
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