2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ルドルフ・シュタイナーと人智学28

271 :考える名無しさん:2020/05/25(月) 14:06:45 ID:0.net
803 :神も仏も名無しさん :2020/05/25(月) 08:14:25.19 ID:7vM6ywtf.net
旧約と新約、立法と福音について和協信条第5条


六、律法と福音、ならびに律法の教師なるモーセ自身と福音の教師なるキリストとが、比較せられる時、われらは、次のように、信じ、教え、また告白する。

福音は、有罪と宣告する改悔の宣教ではなく、本来、もっともよろこばしい使信、また慰めにみちた宣教のほか何ものでもなく、律法の恐怖に対して良心を慰め、キリストの功績のみを見るよう良心に命じ、
キリストをとおして獲得された神の恩恵と憐憫のもっともたえなる宣教によって、良心を再び引きあげるゆえに、罪ありとしたり、おびやかすことをしないものである。

七、しかし、罪の啓示について、問題は次のようである。律法の宣教のみを聞いて、キリストについて何も聞かない限り、モーセのあのヴェールは、すべての人間の眼の上におおわれる。

(…)

このゆえに、キリストは、律法を手にしてそれを霊的に説明された。また、律法の真の意味を知ることによって、
神の怒りが、どれほど大きなものであるかが理解せられるように、神の怒りはすべての罪人に対して、天からあらわれるのである。

そしてこのようにしてついに、罪人たちは律法にわたされ、真にして正しく自己の罪を知るに至る。しかし、モーセだけでは、このような罪の認識を罪人に強要することはできなかった。

それゆえに、神の子、キリストの受難と死とに関する説き明かしはそれが罪に対する神の怒りを示す限り、厳格と恐怖とに満ちているが、
これによって、モーセのかのヴェールが、とり去られて、その後神が律法においてどれほど大きな事柄を、われらに要求したもうかを、ついに正確に知るに至るよう、人間は、神の律法にさらに近づかせられる。
われらは、その律法のどれをも、履行できないゆえに、キリストのみにあるわれらの義の全体を求めなければならない。

八、それにもかかわらず、キリストの受難と死とが、神の怒りを宣言し、人を恐怖させる限り、それは、本来、福音の説教ではなくて、律法とモーセとの教えであり、
したがって、それはキリストの異なる御業であって、それをとおして、キリストは恩恵を説き明し、慰め、また生かすというその本来の職務に行きたもう。
これらの事柄が本来福音の説教である。

総レス数 1001
458 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200