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栄進軍曹の仏教哲学講座「悟りを定義する」

30 :考える名無しさん:2020/05/25(月) 11:44:13 ID:0.net
>>21
思うものでも定義するものでも、説明できるものでもない。

悟った人が気がつくものだよ、つまり悟れない人には気がつきが生じていないから
常に神を信仰しないものが神を語るように説明されるだけ。
悟りを高尚なものやら、くだらないものやら割り切るところがアホな証拠だ。

悟りの最終形態は自分で気がつくのではなく他人に気がつけさせる状態に至ることであり、
気がつくなど自覚するかしないかの問題にすぎない。
釈尊の悟りとは、信者に悟りを気がつかせるものであって自らの悟りとかの話ではない。
存在によって存在ではなく周囲が感謝の意を生み出せるということだ。

悟れるとか悟ろうとかいう自転で主体が修行して勝ち得る技量のように考えるからこそ
そういう割り切り、単純化、合理化する悟りとは、知識としての理解にすぎない。
たとえば、どんなに理解しようが、初めての自転車で自転車の物理法則を全て
理解して運転できるかの問題であり、知識ばっかりのそれはバランスをとれず
自転車を運転できない屁理屈実践ってことだ。

気がつきとは「自然に訪れる」ということであり山を登るのではなく山を下り
山の雰囲気を思い出すことだ、そこに求める心があるかぎり得られない、
主体性から導き出せる結果ではなく主体性が終わったときに気がつくのである、
気がつくとはそういうこと。

見えているものばかり追い続け、理解しえる悟りばかり知識化するからこそ
悟りという掴み得ない何かを追えば、空気や星を掴んだと言い張るような詭弁しか
生まれる結果は得られない。
星を掴み取るという本質に気がつけず、星は掴めるものではないと説明し
こいつアホなのかという思考で切り捨てる、だから無縁なんだよ。

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