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◎女形役者について語るスレ◎

526 :玉三郎インタビュー 2/:2021/05/09(日) 18:29:10.97 .net
>>525

幼稚園を1日でやめ、踊りの稽古へ

左:2歳の頃、実母と/右:3歳の頃、実父と(写真提供:坂東玉三郎事務所)

1950年、東京・大塚で料亭の息子として生まれた。名前は、楡原(にれはら)伸一。料亭に出入りする芸者たちに囲まれて幼少時代を過ごし、物心つく頃には踊っていた。

「音楽がかかると、体が動いちゃう子どもだったんです。それで両親が、踊りのお稽古をするといいだろうと導いてくれた。そのまま好きなことをやって、今日までこられたということだと思います。
『役者になりたいと思ってなったんじゃない』と言うと不遜ですけど、何かずるずると来てしまった、という感じがあるんですね」

幼児期の記憶が鮮明だという。小児麻痺を患い、体が弱かった。

「1歳半で病院に入った時の、エレベーターの音と色を覚えているんですね。薄いブルーグリーンでした。当時のエレベーターは動き始める時に『トーン』、その後に『ブー』と鳴るから、
僕、エレベーターを『トーンブー』と言っていたんです。病院に入って苦しい思いをしたこと、トーンブーに乗れば外に行けることの印象が深かったんだと思います。それは1カ月半の入院でした。
よちよち歩きになってから、お医者さんが家に来てくれて、白い布団の上で治療を受けたのも覚えています」

7歳で初舞台を踏む。「菅原伝授手習鑑 寺子屋」。1957年12月、東横ホール (C)松竹株式会社

甘えん坊で、どこか気の強い子どもだったという玉三郎は、幼稚園を1日でやめている。

「やっぱり過保護だったんでしょうかね。家族以外の人と会うのが苦手でした。母親が付き添うというので、幼稚園に行ったんです。
それは1日だけだと思っていた。そしたら2日目からは母が来ないという。『約束が違うから』と言って、やめさせてもらいました。小学校は『義務教育という法律上のことだから』と言われて、行きました。
両親は僕を子ども扱いせず、子ども用の言葉を使わなかったんです。『法律上のことなら仕方がないかな』と思った。意外とませていたんでしょうか」

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