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北京の歴史

1 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:18:17.44 0.net
北京原人から習近平まで

119 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:33:03.58 0.net
>>113
漢人の匠戸は、現代でいえば工場作業員

120 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:34:11.60 0.net
中国・朝鮮の職人軽視・技術軽視の風潮は、元で下層階級だったことに始まるのかもしれない

121 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:35:59.62 0.net
Xanadu 2.0 is a mansion owned by Bill Gates that overlooks Lake Washington in Medina, Washington.

The 66,000-square-foot (6,100 m2) mansion is noted for its design and the technology it incorporates.

It is nicknamed Xanadu 2.0 after the title character's estate in Citizen Kane.

122 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:37:31.95 0.net
『ザナドゥ』(英: Xanadu)は、1980年公開のアメリカ映画。
地上に最高の音楽の殿堂を作るために、と集まる人々を描くミュージカル・ファンタジー映画。

2007年には、この映画のブロードウェイ・ミュージカル劇場版が制作・上演された。

ブロードウェイ版は、酷評された映画とは対照的に『ニューヨーク・タイムズ』で絶賛されるなどし、翌年のトニー賞にミュージカル作品賞、台本賞、主演女優賞、振付賞で候補となり、予想以上のロングラン上演となった。
ブロードウェイ以外でも次々に新演出で公演されるようになり、オーストラリアでの公演は本作の振付家ケニー・オルテガが手掛けた。2015年にはロンドンで英国初演もされた。

123 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:39:42.83 0.net
オリビア・ニュートンジョンの「ザナドゥ」

駄作だった映画とは異なり、これは名曲

https://www.youtube.com/watch?v=oWeJ9p42ufg

124 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 20:08:22.41 0.net
http://www.4gamer.net/games/315/G031560/20151014002/TN/001.jpg

125 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 20:36:58.34 0.net
挨拶されようとわざと立ち止まるキモイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする

大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ

今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923

126 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:05:00.80 0.net
金の海陵王は、幼少時より学問を好み、極めて博覧強記で英邁だったという。
金に拉致された北宋の徽宗のもとにもよく出入りし、痩金体という徽宗が始めた独特の書体を身につけて、書道も達筆だったという。
漢詩も上手で、「呉山」などはこの時代を代表する詩として、今日まで有名である。

そのような彼が、自ら白刃を振るって煕宗を殺害し、皇帝の地位にとって代わったのは、悲劇だったのかもしれない。
実際、海陵王は、自分のクーデターに協力した、いわば功績者であった重臣や皇族を、その後粛清していくことになる。
 
彼は、純然たる中華風な皇帝たろうとし、金の中にあった女真族の風習や共和的要素を払拭し、中央集権の皇帝独裁権の確立を目指した。
そのため、女真貴族・皇族の力は大幅に削がれ、しかも、それまではあまり登用されなかった漢民族の人材が大幅に枢要な地位にまで抜擢されたのである。

127 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:07:23.98 0.net
しかしながら、海陵王は、破滅する。
五十万の大軍をかき集め、南宋を攻撃したのである。 
しかし、金軍は、采石の戦いで大敗を喫する。
南宋軍は、大砲のような火薬兵器や、特殊な軍船を開発しており、これが勝敗を分けたようである。
もっとも、金軍は一気に戦線を突破できなかったというだけで、別段壊滅したわけではなく、戦線は膠着したようである。
彼を死に至らしめたのは、内部の謀反だった。
 
采石の戦いでの敗北と同時に、金の国内は騒然として、それまで服属していた契丹人が散八らの指揮のもと独立戦争を起こした。
後方地域にあった女真貴族・皇族らは、こうした状況を収拾すべく、海陵王の従兄弟に当たった雍を皇帝の地位に担ぎ上げた。
重臣の一人の完顔元宜が兵を率い、海陵王を攻撃し、ここに部下の裏切りにより海陵王は殺されたわけである。
 
雍は五代目の皇帝・世宗となり、外征の大失敗により混乱した金国をとりまとめ、契丹の反乱を鎮圧し、逆に攻め込んできた南宋軍を撃破して講和を結んだ。

128 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:08:21.34 0.net
世宗については、別項で詳しく述べたいが、彼の妻は海陵王に殺されたともいう。
また、世宗は女真文化を極めて愛好し、漢文化に心酔していた海陵王とは決定的にその点でも異なっていた。
海陵が殺されると、再び女真人優先主義がとられ、高位大官には例外を除き、女真人が、その補いには契丹人や渤海人がとられる体制がとられた。
世宗や女真皇族・貴族の海陵王に対する怨嗟は相当なものであったようで、のちに史書が編纂される時、海陵王を悪く書くよう奨励され、
海陵王についての悪逆非道を暴き立てたものには報奨が与えられたそうである。
そのため、海陵の時の記述は十に一つも信用できないと、当時を知る者が述べたことを、詩人の元好問はのちに書き記している。
そういうわけで、彼が行った暴虐というのは、あまり信用できない。
 
海陵王は、史書では正統な皇帝とは認められず、海陵庶人として記された。
後世、中間をとって海陵王と呼び習わすようになった。

129 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:16:18.27 0.net
つまり、金の海陵王の最大の罪とは、漢化政策にあったようである。

金に大敗して拉致され、黒竜江省で生涯を終えた北宋の徽宗。
政治はともかく、書画に関しては偉大な才能の持ち主で、道教を熱烈に信仰していた。
海陵王はその徽宗の元に出入りして、大きな文化的影響を受けた。

北京に遷都し、漢人を登用して漢化政策を進めた海陵王。
仏教を弾圧した。

中華の大統一を夢見た海陵王は、南宋を攻撃したが、火薬兵器の前に苦戦。
女真至上主義者の謀反によって打倒された。

海陵王の死後、金は漢化政策を廃止して、女真文化に戻した。

130 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:19:05.10 0.net
海陵王じゃなくて海陵庶人な

131 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:36:32.57 0.net
>>114
ペルシャ陶器は中国の影響下で発展したんだが
三上次男の「イスラーム陶器史研究」を読め

>>119
そりゃ当たり前だろ
現代も工芸品を作ってるのは工場の作業員だが

132 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:39:17.92 0.net
「グランド世界美術8 イスラムの美術」岩村忍編
 この新しい焼物作りにはササン朝ペルシアやビザンティンの製陶活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国陶磁の影響が色濃く反映しており、
大きな刺激となったことは疑いない。
鉛釉を使った各種の色釉をかけあわせた三彩、錫(すず)を溶媒剤に使った失透性の白釉では、その形や文様は明らかに9〜10世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒的に多い。

16世紀のイランにサファビー朝が興り、ペルシア人による帝国が興ると、製陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。
しかし新味はやはり明(みん)代中国製の染付磁器の模倣にあった。

133 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 22:57:31.02 0.net
http://parstoday.com/ja/radio/programs-i28842
>イルハン朝は、1256年から1335年まで、イランを統治しました。この間、イランの芸術や文明は、東洋の芸術、特に中国の芸術の影響を受けました。
>中国人の縫い師が、型を使った裁縫を少しずつイランに広めました。
>中国語のはさみ、パターン、アイロンといった言葉は、この時代から広まりました。イルハン朝の衣服も、このような影響を受けていました。

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006389906.pdf?id=ART0008387893
>イスラーム世界では、8世紀ごろから16世紀ごろまで、隣接する中国の美術や文化の影響を受けた。イスラーム世界では初期から、中国の陶磁器や絹織物などに対する憧れが
>強く、また中国絵画も高く評価されていた。
> 中国の美術品や文物は、初期には交易や献納品などとしてイスラーム世界に伝来したが、13世紀中期にモンゴル民族がイスラーム世界を制覇し、イランにイル・ハーン朝という
>モンゴル王朝を確立すると、中国の美術工芸品が大量にイスラーム世界に入り、伝統的なイスラーム美術に新風を吹き込んだ。

134 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 07:14:24.75 0.net
そりゃ、中国の影響くらいあるだろ

そんなの、お互いさまだっつーの

135 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 07:16:24.58 0.net
しかし、テント生活するモンゴル人やトルコ人にとっては、ペルシャ絨毯こそが必需品

136 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 07:18:22.52 0.net
唐と元

中国とペルシャにまたがる勢力をもった2つの世界帝国だが、
2つとも中国文化より、ペルシャ文化に傾倒した

137 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 07:22:54.40 0.net
モンゴル帝国においては、色目人のほうが漢人より上の身分とされた

138 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 18:56:23.69 0.net
相変わらず願望垂れ流してるな
じゃあ何で漢人姓を名乗ったり老子の子孫と自称していたんですか?
何で漢風の宮殿に住んで漢字を使っていたんですか?

139 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 18:59:18.34 0.net
>>134
イル・ハン朝時代の中国の影響はほぼ一方的なんだよ
「世界美術大全集 東洋編 第17巻」、「グランド世界美術8 イスラムの美術」を読め
反論があるなら明確な文献を挙げてくれ

140 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 20:53:52.04 0.net
>>123
デイヴ・ディー・グループ「ザナドゥの伝説」
それをカバーしたザ・ジャガーズの曲のタイトルは「キサナドゥの伝説」
初めの頃はタイトルに近く「キサナドー」と歌ってたけど、
やがて「ザナドゥ」と歌うようになったw
※シングルは最初の録音のまま「キサナドー」

141 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:04:14.73 0.net
数々の名曲を生み出した、永遠の憧れ「ザナドゥ」

モンゴル帝国の栄光だな

142 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:40:16.03 0.net
ただ、現実の上都=Xanaduは、草原に無数のパオが居並ぶだけの殺風景なものか、とw

143 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:48:46.57 0.net
(コピペ)

マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で上都について、大理石で出来た宮殿があり、建物の内部はみな金で塗られ、
鳥獣花木の絵が描かれるなど工芸や技術の粋を尽くした装飾がなされて見るものの目を楽しませている、と書き残している。
マルコ・ポーロらによりヨーロッパへ伝えられたきらびやかな大都市・上都の姿は、その後のヨーロッパ人の想像力に影響を与えた。

『見聞録』を読んだイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』を書き、この中に歓楽の都・ザナドゥを登場させた。

以後、ザナドゥは伝説の都、あるいは理想郷の象徴となっている。

144 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:49:53.68 0.net
>>142
たしかに周囲は一面の草原だけど、上都そのものは、碁盤の目状に整備された京都の平安京みたいな都市

145 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:52:33.45 0.net
マルコ・ポーロは、実際に上都に行ったはずだから、きらびやかな雕欄玉砌の描写には説得力がある

146 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:53:49.93 0.net
ただし、寒すぎて農業生産力がゼロに近いので、食料不足には悩まされたようだ。

その点に関しては、いにしえの唐の都・長安にすら遥かに見劣りする。

147 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 21:58:21.49 0.net
帝国の権力者の所在地という以上のものはなかったろうな

148 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:11:41.97 0.net
まあ現実には、上都が避暑地で、本籍は大都だっただろうな。

経済力の差がありすぎる。

149 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:27:08.81 0.net
元上都
http://www.dlhbg.com/e/upload/s1/fck/image/2015/12/10/1935422013.jpg
http://www.beijing.mfa.gov.mn/sd/wp-content/uploads/2016/12/3-1024x768.jpg
正殿
http://1812.img.pp.sohu.com.cn/images/2012/11/3/9/7/u159249159_13b87ad508fg86.jpg

150 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:28:59.79 0.net
クビライは実際は都外のパオにすんでたっていうから形だけのものだったんだろうな

151 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:38:22.34 0.net
中国で大ヒットしたタイムスリップ時代劇「宮廷女官ジャクギ」では、清の康熙帝が毎年、避暑と鎮撫を兼ねてモンゴルに行幸していた。

夏の間は、モンゴルのテントで過ごしてた。あれと同じようなものか?

152 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:39:31.57 0.net
基本的に、遊牧民は宮殿に興味がない。

北京の紫禁城だって、今みたいに立派になったのは明代だし。

153 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 22:53:21.57 0.net
今の紫禁城は元代の4分の1サイズ
本来は北海公園も王宮内の池である
http://military.china.com/zh_cn/history2/06/11027560/20050520/images/12328766_243403.jpg
http://slidesplayer.com/slide/11740244/65/images/36/%E5%85%83%E5%A4%A7%E9%83%BDCG%E9%B8%9F%E7%9E%B0.jpg
http://blog.sina.com.cn/s/blog_c06915130101ffuj.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


154 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 23:05:28.02 0.net
商都としての北京の経済力は、元代がピークだったな

明清では、政治都市って感じになった

155 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 23:20:13.77 0.net
1時間ほど前、放送大学「歴史から見る中国」講座で、遼金元明清の北京の歴史をやっていた。
なるほどと思う内容だった。
2013年から放送されてる講座で、毎年繰り返し視ているものではあるけど。

156 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 23:45:40.10 0.net
それは良さそうな番組だな?
再放送キボン

157 :世界@名無史さん:2017/11/15(水) 23:47:15.37 0.net
やはり、国力はモンゴル帝国期がピークだったか

158 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 06:40:11.26 0.net
>>156
放送大学「歴史からみる中国('13)」講座
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H29/kyouyou/C/ningen/1554662.html
昨日はこの第7回「モンゴル時代の中国」

BS231バンドでは3月までの番組表にはもう見当たらない。
来年4月からの新年度を期待することになるが、2013年からの放送なので
この講座はそろそろ終わって新しい内容が制作されるかもしれない。

159 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 16:29:37.14 0.net
北京の夏に耐えられず避暑地に行くようでは、南京なんか絶対に無理だな

160 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 16:30:24.46 0.net
夏の南京は、熔鉱炉と言われるほどの暑さ

南京の暑さに耐えられる人なら、どこにでも住める

161 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 16:31:18.94 0.net
PM2.5もあるしなw

162 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:23:41.54 0.net
あの北京ですら、モンゴル人にとっては南国だったか

163 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:24:28.22 0.net
明の永楽帝も、南京が暑くて逃げだしたんじゃないか

北京育ちの奴にはキツいだろう

164 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:26:20.13 0.net
中央アジア出身で、インドを征服したムガール帝国の開祖・バーブルが、
「ここは暑くて、メシが不味い」と、死ぬまで文句を言ってた話は有名だ。

大帝国の皇帝になっても、やっぱり故国に帰りたいという話。

165 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:27:26.39 0.net
モンゴル人も、脂っこい中華料理より、スパイシーな羊肉料理を好んでいた。

166 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:29:04.14 0.net
ん?
元々南京生まれ育ちじゃないの?
大明成立後に燕王に封じられて北京に赴任し、そのまま根拠地になったんで。

167 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:52:28.71 0.net
そうだった。北京に行ったのは、大人になってからだな。

南京育ちの奴には、北京の寒さはかなりキツかったはずだ。

そんな北京にわざわざ舞い戻るとは、やはり、天下を取る奴は根性の据わり方が違う。

168 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:55:36.82 0.net
しかし、南京は、冬の寒さもかなりのものだ。
日本より寒いんじゃないかと言われている。
夏の暑さが異常なおかげで、あまり目立たないが。

169 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 21:57:59.76 0.net
南京の気候は、東アジアモンスーンの影響を受ける亜熱帯湿潤気候に属しています。
雨が多く非常に暑い夏が南京の特徴です。
中国では、武漢と重慶に並んで「中国三大火炉の一つ」と言われるほど南京の夏は酷暑となります。

年間平均温度は15.7℃です。
一年で最も寒いのは1月で平均気温は2℃まで下がります。
7月の平均最低気温と平均最高気温は、24℃と32℃まで上がります。
過去に記録された最高気温は43℃(1934年7月13日)、最低気温はマイナス16.9℃(1955年1月6日)です。

170 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 22:02:46.54 0.net
夏は暑く、冬は寒い。
奈良と同じで、盆地の気候はどうしてもそうなる。
奈良はタネモミをまけば自然に稲が育つというほど高温多湿だから、
日本で最も早く稲作が発達し、古代王朝が栄えた。

171 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 22:03:34.67 0.net
しかし、いくら冬の南京が寒いといったって、やはり北京の寒さには及ばない。

172 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 22:05:03.27 0.net
(コピペ)

実は私は、北京に来る前は北海道の旭川に住んでいたので「北京が寒いと言っても旭川に比べれば!」と内心思っていました。
事実、1月の最高気温と最低気温の平均を比べると、 最高,最低気温とも旭川の方が8度以上低いのです。所が、実際は北京のほうがはるかに寒く感じます。
北京の寒さは足元からどっと攻め上ってくるような寒さで、旭川では、ズボン下をはかなかった私が、北京ではズボン下が必需品になっています。

最初私は、この寒さは風の違いかと思いました。一般に風速1メートルの風で、体感温度は1度下がるといいます。
旭川は盆地で、冬ほとんど風が吹きません。北京は比較的風の吹く日が多いんです。でも、風の吹かない日も「寒い!!」。
そこで私は始めて「この寒さには湿度が関係しているのでは」と思い当たりました。調べてみると、湿度が10%下がると体感温度は1度低くなるんだそうです。
「北京の寒さは大陸的!」と北京にいる日本人がよく言うのも、この湿度が関係しているのだと思います。
 

173 :世界@名無史さん:2017/11/16(木) 22:05:28.63 0.net
北京の『乾燥度』は半端ではありません。秋から冬は、雨も雪もほとんど降らないため、特に空気が乾燥します。部屋の換気をすると、室内の湿度はあっという間に、20%以下になります。

「北京で初めての冬です」という話をすると、ほとんどの人が「ここはとても乾燥しているので、水分をこまめに十分補給してください」とアドバイスをくれます(日本で、挨拶代わりにそんな話が出る土地は、まずないと思います)

174 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 07:53:38.40 0.net
永楽帝が南京から北京に遷都して500年間、北京が明清の首都であり続けた。

やがて、清は崩壊する。孫文が率いる中華民国臨時政府が成立し、500年ぶりに南京が首都になった。

しかし、これも長くは続かない。臨時政府はすぐに崩壊し、袁世凱が北京で中華帝国皇帝に即位した。

175 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 07:58:10.32 0.net
中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。
しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた大清帝国が北京に存続していた。
両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。
その後、袁世凱は中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移したが、これが北京政府のはじまりである。

176 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 08:00:17.04 0.net
結局、中華民国の大皇帝・袁世凱がすぐに北京に首都を戻してしまった。

大皇帝はすぐに失脚し、中華民国が復活したが、そのまま北京が首都であり続けた。

177 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 08:02:57.17 0.net
袁世凱の死後、中華民国が復活し、黎元洪が大総統となった。
袁世凱系の勢力である北洋軍閥は、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派とに分裂する。

以後、中国は群雄割拠の時代に突入した。

178 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 18:59:19.15 0.net
その後、1940年代にも南京に国民政府ができる。

汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在し、中華民国の南京政府。
行政院長(首相)は汪兆銘。

首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。
中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。

179 :世界@名無史さん:2017/11/18(土) 19:16:45.60 0.net
シナを再統一した中国共産党は、北京に首都を置いた。

そして、現在に至っている。

180 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 09:37:57.92 0.net
中華人民共和国は、迷わず北京を首都にしたようだが、他に選択肢はなかったのか?

181 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 10:22:45.31 0.net
国民党が支配していた南京を首都にするには危険だった

のかもしれない

182 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 11:00:51.24 0.net
南京虫がうじゃうじゃいたんでないの?

183 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 11:07:45.77 0.net
長江のキタネー川でも平気で泳ぐ毛沢東がそんなの気にする訳ない

184 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 13:05:41.73 0.net
日本軍が南京大虐殺で30マン人を殺し、南京を廃墟にしてしまったアルよ

185 :世界@名無史さん:2017/11/19(日) 14:36:58.81 0.net
満州人はそんな事言わないと思うぞ

186 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:02:44.02 0.net
「北京に遷都した人」として歴史的に有名なのは、金の海陵庶人、元のフビライ・ハン、
明の永楽帝、清の順治帝、中華帝国の袁世凱・・・といったところか。
 

187 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:03:59.63 0.net
翌1644年(順治元年、崇禎17年)3月19日、李自成率いる順軍が北京を陥落させ、明を滅ぼした。
清軍はドルゴンの主導の下、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に、北京へ向かった。
北京の順軍は明を滅ぼした後、おのおの官職を決めたり明の高級官僚を処罰したりと忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。
清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。
10月19日、順治帝はドルゴンに迎えられて北京に入城した。

188 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:07:04.68 0.net
>>186
共産党も

189 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:08:12.87 0.net
もっとも、順治帝は幼帝だったため、政治の実権はなかった。

生母と結婚した摂政のドルゴンに、国政を牛耳られていた。

190 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:08:49.02 0.net
>>188

じゃあ、「中華人民共和国の毛沢東」も入れよう

191 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:10:39.15 0.net
どの王朝も、もともと他の地域が地盤だったにもかかわらず、吸い寄せられるように北京へと都を移してきた。

北京こそは、天に選ばれし王城の地。

192 :世界@名無史さん:2017/11/24(金) 00:22:26.73 0.net
それもそろそろ終わりそうだな
黄砂に飲み込まれて歴史から消えるだろう

193 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 16:45:46.79 0.net
李自成の乱は、千年の都・北京の歴史において屈指の大波乱だった。

李自成は、中国明末の農民反乱指導者。
明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順
王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。

194 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 16:53:09.38 0.net
1644年、西安に入った李自成は、国号を順(大順)、元号を永昌と定め、この地で順王を称した。
2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。
李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。

195 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 16:55:23.71 0.net
李自成は順の皇帝となった。
盗賊上がりの荒くれ者だが、明の太祖・朱元璋だって似たようなものだから、
こんな人が皇帝になったところで別におかしくない。

しかし、その軍は統制が取れず、略奪暴行が横行したと言われている。
最初は、暗君・明の崇偵帝を打倒する解放者として歓迎された李自成は、次第に民衆から疎まれるようになった。

196 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 16:57:13.66 0.net
崇禎帝を"捨てて"賊軍を迎えたのかw

197 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 17:02:44.23 0.net
そこに想定外の事件が起きた。
史上に名高い、呉三桂の裏切りだ。

明の将として山海関を守っていた呉三桂は、なぜか祖国を裏切り、満州人を内地に引き入れた。
大順は滅び、満州人が天下を取って、清の世となった。

この功績により、呉三桂は平西王に奉ぜられるとともに、時代劇の悪役として、
民衆の娯楽に欠かせないダークヒーローの地位を確立した。

198 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 17:05:31.00 0.net
>>196
豊臣秀吉の日本軍が攻めてきたと聞いて、朝鮮王は逃げ出した。
日ごろから鬱憤がたまってた朝鮮の民衆は、王宮に焼き討ちして暴れたため、
日本軍はなんなく首都を占領した・・・というエピソードを思い出す。

199 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 17:07:23.19 0.net
呉三桂は、明の将として山海関にあり、満州人の脅威から内地を守っていた。

崇禎17年(1644年)、流賊出身で明に反旗を翻していた李自成の順軍が北京に迫るとの報を受けた朝廷は、
呉三桂を平西伯に封じ、首都北京の防衛に当たらせることとした。

しかし山海関から北京に向かう途中の灤州で北京陥落の報を受けた呉三桂は、山海関に引き返した。
山海関において、西から李自成がしきりに呉三桂に投降を呼びかけ、東からドルゴン率いる清軍が迫っており、呉三桂は窮地に立っていた。

200 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 17:12:51.64 0.net
この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、
急に翻意して清のドルゴンに難攻不落と言われた山海関を明け渡し、李自成を討つための援助を求めた。

ドルゴンは呉三桂の要請を容れ、そのまま北京に進軍を開始した。
清と呉三桂の軍は李自成率いる順軍を激戦の末打ち破り、そのまま北京への入城を果たした。

怒った李自成は、北京にいた呉三桂の家族を皆殺しにしてしまった。

なぜ、呉三桂はこんなことをする気になったのか。それについては諸説ある。
「美女・陳円円を李自成軍に奪われたことに対する怒りから」という俗説が流布している。

201 :世界@名無史さん:2017/11/25(土) 23:20:17.35 0.net
近代のナショナリズムから離れたら、そもそもドルゴンと李自成のどちらを選ぶべきかは自明じゃないのでは?
蛮族とはいえかつては明のもと参陣してたこともある女真の現リーダー、それと盗賊あがりの成り上がり者
仕えるべき明の朝廷が滅びた後、一武官として親近感を感じたのがドルゴンの方だったとして何の不思議もない

202 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 21:49:18.10 0.net
たしかに、誇り高い武将なら、300年の皇統を滅ぼした盗賊集団に投降しようとは思わんだろうなあ。

単に、「一時的に野蛮人の力を借りてでも、まずは盗賊どもを追い出そう」と考えたとしても不思議はない。

まさか、国を乗っ取られるとまでは思わなかったか?

203 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 21:50:28.29 0.net
いや、最前線で将軍を張ってる人が、そんな甘い考えとも思えんなあ。

204 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 21:54:26.81 0.net
良い悪いは別にして、女真人は北京に進出し、国盗りが成功した。

順治帝と宰相ドルゴンのもと、清の世が始まった。

205 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 21:56:37.92 0.net
清朝は、明の永楽帝が建てた紫禁城を、そのまま王宮として使用した。

「逆賊・李自成を討伐した、明朝の正統なる後継者」というポジションに、すっぽりと収まることに成功した。

李自成の乱は、清にとって本当にラッキーだった。
もしも李自成がいなくて、女真人が皇帝を殺して明を滅ぼしていたならば、こうはいかなかった。 

206 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 22:04:00.91 0.net
モンゴル帝国の時代には、北京は商業と金融の世界的な中心でもあった。
現代でいえば、ニューヨークのような存在だった。

しかし、明朝の300年を通じて、江南がさらに台頭する。
もはや、誰が見ても長江下流が中国経済の心臓部だった。

しかし、政治都市としての北京の重要性は揺るがなかった。
内地からモンゴル・満州に出るのにも、モンゴル・満州から内地に入るのにも、北京を通るのが最良のルート。
周囲は険しい山地と砂漠地帯で、ここしか通るところがない。

207 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 22:08:36.59 0.net
年表

1643年 清で順治帝が即位。
1644年 李自成が北京を包囲し、これを占領。明が滅亡する。
1644年 清が北京に侵攻し占領。清の中国支配が開始。
1646年 鄭成功が江戸幕府に救援を求める。
1648年 ヨーロッパで初の国際会議が開かれ、ウェストファリア条約が結ばれる。近代国際法の原点。
1649〜58年 イングランドでオリヴァー・クロムウェルが独裁。
1651年 ドルゴン、死去。
1658年 ムガル帝国皇帝にアウラングゼーブ大帝が即位。
1658年 (神聖ローマ)レオポルド1世が即位。
1661年 順治帝、死去。

208 :世界@名無史さん:2017/11/26(日) 22:16:21.06 0.net
しかし、女真人は人口が少ない。漢人は人口が多い。
清が中国を再統一するのは、それほど簡単なことではなかった。

北京から追い出された明朝の残党は、南京を拠点として再起を図っていた。
このままでは、また、金と南宋のような南北朝時代になっても不思議はない情勢。

その困難を乗り越え、広い中国を再統一したのは、宰相ドルゴンの凄腕だった。

209 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 21:16:59.66 0.net
http://www.china-watching.com/ura/ime142.jpg

210 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 21:19:08.29 0.net
↑ラクダに乗った隊商が、清の都・北京に向かうの図

北京からモンゴル高原を通って西域に抜けるルートは健在だった

211 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 21:21:06.08 0.net
かっての北京は城壁に囲まれた町でした。
北京は厳重に二つの部分に分かれています。
内城と外城です。

内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。
この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という
故宮の真南にある門と、徳勝門という北西の門です。

外城は、内城の南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。

http://www.china-watching.com/ura/ime271.jpg

212 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 21:22:31.29 0.net
城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。
内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、
格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、
道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。

その城壁は中華人民共和国「1950年代頃から」地下鉄を作る為、
取り壊され、現在・北京地下鉄環状線です。

北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧・内城をぐるりと回っている市民の便利な足です。
この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。

213 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 21:23:58.09 0.net
復興門「フーシーメン」駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、
宣武門「シュェンウーメン」、和平門「ホーピンメン」、前門「チェンメン」、
崇文門「チョンウエンメン」、建国門「チェングオメン」、朝陽門「チャオヤンメン」、
東直門「ドンジィメン」、安定門「アンチィメン」、西直門「シィジィメン」、
阜成門「フチョンメン」、そして復興門駅にもどってきます。


 なぜ、こうも門が続くのか。
そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、
「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。
その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、
いまも脈々と生き続けているのです。

214 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 22:15:36.46 0.net
>>206
日本の支配層だったら北京やコンスタンティノープルは
重要都市に位置付けても首都には出来ないな 博多や長崎に皇居があるようなものだ

215 :世界@名無史さん:2017/11/27(月) 22:31:18.45 0.net
地理的位置からすれば、日本でいえば札幌に首都があるようなもので、あまりにも偏っている。

でも、もしも首都がもっと南のどこかに移ったら、北京は衰退するだろう。
あれだけ政治権力が集中していても、金融の中心は上海や香港にある。

金融というのは、政治権力と切っても切れない関係にあるので、
アジアでは首都に収れんしていく傾向がある。日本がいい例だ。
それだけに、北京にも相当なアドバンテージがあるはずなのだが、それでも無理。

216 :世界@名無史さん:2017/11/28(火) 09:09:50.75 0.net
北京のGDPは中国全国のGDPの2%でしかない。
首都に一極集中していない経済構造は、発展に有利な気がする。

217 :世界@名無史さん:2017/11/28(火) 09:45:24.71 0.net
>>211
徳勝門の横にバス乗り場があって
八達嶺長城や明十三陵行きのバスがどんどん発車していた。
ほとんど2,3分おきぐらいで、
客待ちのバスが常に数台待機していて、満員になり次第次々と発車する。
IC交通カードを利用すると運賃がびっくりするほど安い。
6元ぐらいじゃなかったかなぁ?
八達嶺まで乗ってみた。
IC交通カードは乗車時と降車時にタッチするが、
道中で車掌がカードを集めてタッチして戻してくれる。
降車する時間を減らすためらしい。
高速を利用するので1時間ぐらいで到着できる。
帰りも徳勝門直行や明十三陵行きのバスにほとんど待たないで乗れる。

北京を個人旅行する時は、
空港駅前の窓口で、IC交通カードを買っておくこと。
100元も入れておけば、市内地下鉄、バス、タクシーに利用できて、
切符を買うよりかなり割安に設定してあって超便利。
政策的低価格というやつだ。
チャージは地下鉄駅窓口などで係員にお願いする。
券売機でチャージするのかと思ってたらできなかった。
出国時に空港駅の窓口でカードを返却すると、残金とカード保証金が戻ってきた。
地下鉄駅入り口や有名観光地入り口には、荷物検査がある。
公安関係に随分と人手と手間を割いている。

218 :世界@名無史さん:2017/11/28(火) 19:53:27.50 0.net
「ソ連時代は良かった。電気代やガス代が、タダみたいに安かった」というロシア人みたいなものだな。
財政赤字をどれだけ垂れ流しても気にしなくて済むのが、社会主義国の強み。
後にツケを回してるだけとはいうものの。

219 :世界@名無史さん:2017/11/28(火) 19:56:24.06 0.net
>>216

そういう意味でも、日本でいえば札幌が首都で、東京や大阪が地方になっている状態。

まあ、北京もかなりの大都会なので、札幌とは違うが。

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