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北京の歴史

1 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:18:17.44 0.net
北京原人から習近平まで

25 :世界@名無史さん:2017/10/10(火) 23:16:27.30 0.net
北京は、華北平原の北東の端にある。

つまり、中国から満州やモンゴルに行くのにも、逆に満州やモンゴルから中国に行くのにも、必然的に北京を通る。
 
回りは険しい山岳地帯だから、ここを通るしかない。

だから北京は、商業ネットワークのカナメになる場所。
 

26 :世界@名無史さん:2017/10/10(火) 23:23:03.13 0.net
古くは関中も北京みたいな立ち位置たったのだろう
周のような遊牧民と華夏人が接する場所。

27 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 08:28:21.81 0.net
渤海五京 上京龍泉府、中京顕徳府、東京龍原府、西京鴨緑府、南京南海府
→ 最北は北京ではなく上京

遼五京 上京臨潢府、中京大定府、東京遼陽府、南京析津府、西京大同府
→ 同じく最北は北京ではなく上京

宋四京 東京開封府、西京河南府、南京応天府、北京大名府

金五京 中都大興府、上京会寧府、東京遼陽府、西京大同府、南京汴京府

28 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 14:36:41.94 0.net
周口店行ったけど北京つうよりどことも知れない山の中のド田舎だったよ
昔のことだから街の中心にでかい国営工場があって、煤煙がひどかった
社会主義国の街づくりってそういうもんだった

29 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 15:13:44.66 0.net
そりゃ胡同地区とかから北京原人が発掘されるわけはないんだから、
だいぶ郊外にいった田舎になるのは想像つくだろ

30 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 15:29:41.98 0.net
想像つくか?いちいちトンチンカンなところに刺さるなあ

31 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:14:04.39 0.net
昔は、中国人にどこの出身かをきくと、「北京の近くから来ました」というので、
北京郊外のどの辺なのかと思ったら、「鉄道で12時間くらいのところ」と
答える・・・という調子だった。

彼らのいう「北京」というのは、日本人の考える「街」とは概念が異なる。

どっちかっていったら、「国」なんじゃないかと、それを聞いて思った。

32 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:18:14.81 0.net
10年前、「北京オリンピックが終わったら、中国は深刻な景気後退に陥るのではないか?」と
上海人に言ったら、「北京は小さな街で、経済的な重要性が低いので心配ない」と上海人は答えた。

一事が万事、こんな調子。

上海人にとっての「北京」は、東京人にとっての「札幌」みたいな感覚だ。
「北の隅っこにある、寒くて、そこそこ大きな街」というくらいの印象。

33 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:21:27.98 0.net
しかし、札幌には広々とした北海道に特有の良いイメージがあるが、北京にはそんなイメージがない。

全体的に、北京のイメージはあまり良くない。
 

34 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:33:41.02 O.net
清軍の入関がなく李自成の大順国が続いてれば、
西安(長安)が唐朝以来800年ぶりに首都になってたかも知れない

35 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:36:36.16 0.net
で、江南の米をはるばる西安まで舟と驢馬で運ぶの?

36 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:38:37.90 0.net
順は北京が第一希望でしょ

37 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:40:07.77 0.net
北平の北はただただ草原だからな
現在だと砂漠化もすすでんるしもう首都になることはないだろう

38 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:42:20.21 0.net
北京も、長安と同じ道をたどる

いったん首都でなくなったならば、二度と戻ることはないだろう

39 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:48:21.20 0.net
首都でなくなったら、企業が北京に本社を置く意味がなくなり、北京は急速に衰退することが予想される。

そうなったら、上海や広東省が圧倒的な経済力を持つことになる。

中国は、全体的に暑い南の国になる。

40 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:50:43.06 0.net
漢以後で中原や関中に首都を置く王朝を浸透王朝といい、
北京に首都を置く王朝を浸透王朝という

41 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 21:51:35.14 0.net
>>40
征服王朝だった
たぶんもとの領土と中国をいっしょに手にいれてるから北京に首都をおく

42 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 00:38:24.66 0.net
いずれにせよ、中国の首都を攻め落とした民族は
中国に同化吸収される運命にある。

43 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 00:51:27.78 0.net
>>42
北清事変で首都を攻め落とした

日本・ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・オーストリアハンガリー・イタリア

44 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 02:43:55.98 0.net
春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。
周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。

秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。
北京市に隣接する河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。

45 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 02:45:18.92 0.net
遼は南京と呼び、金は中都と呼び、元は大都と名付けた。

46 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 07:42:49.65 0.net
フランクは征服王朝、
東西ゴートは浸透王朝

47 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 13:43:55.67 0.net
北平

48 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:43:27.41 0.net
チンギスハンは、西はホラズムまで征服したが、中国は後回しになった。

それでも、北京までは版図におさめた。

49 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:45:14.54 0.net
大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。

現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。

50 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:48:12.80 0.net
北京地方はモンゴル高原・東北地区(満州)と中国中原の間の中継点に当たることから軍事的に重要な土地で、契丹人の遼のとき北方民族の支配下に置かれ、遼を滅ぼした金が首都中都大興府を置いた。

1215年5月にモンゴルの圧力を受けた金が中都を放棄し、チンギス・カンの親征にともないモンゴル帝国軍による攻囲ののち接収される。
モンゴル本土と中国の中継点であることからいち早くモンゴル帝国による北中国支配の拠点として復興され、燕京大興府と称した。
チンギス、オゴデイ時代は耶律楚材など現地の漢人官僚たちによって運営が任されていたが、
1251年7月にモンケが即位するとモンゴル帝国を3つの巨大行政府に分割し、そのうちの一つ、燕京等処行尚書省が設置された。

オゴデイ時代にはマフムード・ヤラワチがこの長官として中央アジアから派遣された。
燕京はモンゴル帝国東部の中心都市として位置付けられるようになった。
皇弟クビライは、この地の統治権一切を掌握した。

51 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:50:25.74 0.net
北京がなぜ千年の都になったかと言えば、地形のせい。

北京は巨大な三角州である華北平原の東北端に位置する。
周囲を険しい山脈に囲まれた、唯一の出入り口。

中国からモンゴルに行くにも満州に行くにも、逆に北から中国に入るにも、必然的にここを通る。
まさに、兵家必争の地。

52 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:51:57.29 0.net
隋の煬帝が運河の北端としてから、商業都市としての北京の発展が始まった。

その後、モンゴル帝国の時代に運河がますます整備され、かつての長安や開封に代わって中核商業都市になった。

53 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:56:19.97 0.net
大都と呼ばれた北京。

その北、300kmほど行ったところに、上都という都市があった。
ここが、東モンゴル帝国の冬の首都。

マルコ・ポーロは、この地で見聞した壮麗な宮殿の雕欄玉砌、にぎやかな街並みを
東方見聞録に書きつけて以来、ここは「ザナドゥ」と呼ばれる西洋人の憧れの地となった。

20世紀のアメリカでも、「ザナドゥ」という歌が大ヒットしたくらい、ここは伝説の都。

54 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 16:59:11.56 0.net
モンケ歿後のアリクブケとの後継者争いに勝利したクビライは、1267年に燕京の城市の東北に接する土地に新たな都市を建設し始めた。
大都の構造は、周礼の匠人営国の記載に則って構成され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られた。
こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものである。
大都はこうした構成に見られる如く、純然たる計画都市として設計されたため、極めて整然とした構成美を持っていたとされる。

55 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:00:43.17 0.net
大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。
現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。
このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。

大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。

56 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:02:59.91 0.net
モンゴル帝国の運河が、隋の煬帝のそれとどう違うかといえば、なんといっても、北京と天津を大運河で結んだこと。
これにより、江南から海路で天津に入り、そこから北京へと直通の水路が開かれた。

「北方の軍事拠点」というイメージが強くて、商都というイメージがあまりない北京だが、それはイメージの問題。

モンゴル帝国の時代には、紛れもなく世界経済の中心だった。
現代でいえば、ニューヨークに相当する。

57 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:08:36.42 0.net
さらに北京は、「モンゴル高原への出口」というポジションにある。

モンゴル高原は、馬で移動するのに便利。
長安からラクダを引いて砂漠を移動するより、格段にスピードが速い。

モンゴル帝国の時代には東西貿易が活発化したため、西の拠点・長安も金・宋代よりは復興した。
それでも、北京の繁栄の影に隠れて圧倒されてしまった。

58 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:26:19.94 0.net
>>52
永済渠は高句麗遠征用の兵站輸送運河だったんだよなぁ、煬帝はん無茶するわ
洛陽からスタートじゃなくて、済南あたりまでは黄河使ってそこから北上する運河にすれば半分以下で済んだ気もするし

59 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:44:14.13 0.net
1968年、北京の城壁を撤去する工事にともない、北京市西城区の西直門を取り壊した際、その中から元代に建設された和義門が発掘された。
西直門は、和義門にさらに土をかぶせる形で建設されていたのである。
城門の残存部の高さは約22m、門道は長さ9.92m、幅4.62mで、磚(せん、煉瓦)で敷きつめられた門の上には、幅三間の城楼があったと推測される。

大都の遺物が発掘されるのはきわめてまれで、他には同じく西城区の一角にあった貴族の邸宅跡の調査があるのみであった。

現在北京市内で確認できる大都の遺構は、西城区の積水潭(現在は什刹海)などの池や、海淀区から朝陽区にかけてある西土城と北土城が残る元大都城垣遺跡公園のみである。

60 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 17:50:29.55 0.net
北京の歴史において、モンゴル帝国の大都が最盛期だった。
明清の北京は、都市としての規模が縮小された。
現在の北京は、政治的には首都だが、経済的には上海や香港の後塵を拝している。

というものの、現在の北京に、大都の痕跡はほとんど残っていない。
現在の北京は、大都が破壊された跡地に、明の永楽帝が改めて築いた都市。
地理的には春秋時代の燕にまでさかのぼる地だが、直接には明から数えて600年の古都。

61 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 21:05:04.56 0.net
>>58

そこまでして高句麗を征伐しなきゃいけなかったとは、やはり当時から満州は危険地域だったんだな

62 :世界@名無史さん:2017/11/03(金) 22:56:07.57 0.net
>>22
王建が女真系とか無理あり過ぎやぞ
もともと姓がなかったことや双系的な系譜をもつことから新羅人であると考えるのが妥当

63 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:25:19.28 0.net
イブン・バットゥータも、旅行記によれば、広東省から海路で北京に移動したようだ。

64 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:33:21.08 0.net
古代中国人は、徹底して陸の民であり、海とはあまり縁がなかった。
孔子も、いまでいえば山東省の出身だが、「生涯、海を見たことがなかったのではないか」と言われている。
唐の後半から宋にかけて、東西交易は次第に海路が主流となり、広東省や福建省の港が繁栄した。
モンゴル帝国の時代には、北京ー天津間の運河が開通したおかげで、「国内移動も海で」という国に変わった。
いまの中国は、北京・上海・広東省の「沿海部」が中心。日本でいえば「太平洋ベルト地帯」みたいなものだ
(もっとも、日本の場合は日本海側の人口が少ないが、中国は内陸部の人口も多い)。
その体制が確立されたのは、モンゴル帝国期。内陸の国だった唐までの中国とは、大きく地図が変化した。

65 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:37:54.55 0.net
京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。
戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。
運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。
この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。
2014年の第38回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された

66 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:39:26.82 0.net
まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、
そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。
完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。

67 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:40:31.94 0.net
開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代より北宋の首都として繁栄した。
開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。
当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。

68 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:44:11.58 0.net
しかし金が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。
その後、元が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都(北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。
つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。
元代には海運が発達し対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたものの、この新しいルートは国内における北京の重要性を高める効果があった。

69 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:48:42.26 0.net
つまり、隋から宋までは、開封が水運の十字路として脚光を浴びていた。
開封から北京へと向かう永済渠、開封から杭州へと向かう通済渠・江南河。
江南から北京に行くにも、開封を経由した。

しかし、北宋が滅んで金と南宋の時代になると、南北の商業ネットワークが分断され、開封も衰退した。

元では、それに代わって杭州から天津へ、開封を経由しない直通ルートが開かれた。
もっとも、元では海路が主流になっていたため、もはや運河の時代じゃなくなっていたのだが。

70 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 07:49:58.95 0.net
次の明の時代になると、明は鎖国主義で海禁政策をとったため、海路が衰退した。

このため、また運河が脚光を浴びることになった。

対外開放的だったモンゴル帝国に比べ、明では海洋貿易が後退した。

71 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:30:12.63 0.net
靖難の役で建文帝を倒して権力を握り、南京城を焼き討ちした永楽帝は
1403年に北平府という名を順天府に改め、明の第二の国都とした。
建文帝の帝位を奪った永楽帝に対し、南京にはそれを正統と認めない空気が強かったこともあったので、
永楽帝は北京を帝都とすることを決断、1406年に北京で宮殿改修工事に着手した。
1409年からはモンゴルの動きも活発になったためもあって、永楽帝は北京に滞在し始めた。
翌年からのモンゴル親征は北京を拠点に行われた。
また北京につながる大運河の浚渫を行い利用可能にした。
こうして条件を整え、1415年正式に北京の新都造成を始め、
元の大都の規模を拡大し、それを上回る都城の建設を目指した。
1420年に都城が完成して翌1421年正月に遷都が実行された。

72 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:31:08.40 0.net
1992年度のセンター試験本試験の第2問で、
「永楽帝が1402年に遷都を行い・・・」という本文に関しての設問が出された。
1402年は永楽帝の即位の年で、遷都は1421年とされているので、これは誤った設問であった。
実施後に入試センターは受験者全員を正解とすると発表した。

73 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:35:24.10 0.net
明朝の首都が当初は南京にあったが、永楽帝が北京に遷都したのは有名だ。
世間の一般人ならともかく、歴史マニアならみんな知っている。

でも、永楽帝が即位してから当初の数年間は南京にいたこと、
北京に入り浸るようになってからも、正式に遷都するまで十数年は
南京が引き続き首都であったことについては、認知度が低い。

センター試験の出題者でさえ、間違えてしまった。

74 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:37:46.40 0.net
隋の煬帝も、江南が大好きだったため、首都の長安にいたのは最初の頃だけで、あとは揚州に入り浸るようになってしまった。

あのまま隋の世が続いていたら、正式に遷都していた可能性もある。

75 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:39:42.04 0.net
これが神聖ローマ帝国やセルジューク朝だったら、皇帝がいま現在いるところが首都だ。

そもそも、皇帝は移動するのが当たり前の存在で、首都なんてものがない。

76 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 19:47:22.48 0.net
隋の煬帝が江南に長期滞在しているスキをついて、唐の李淵は長安を占拠した。
勝手に隋の新帝を擁立して、そいつに禅譲させて皇帝になった。

唐と隋は、北朝と南朝のような位置関係になってしまった。

やはり、南に首都があると、どういうわけか軍事的に弱くなる。
隋は、あっという間に唐に滅ぼされた。

77 :世界@名無史さん:2017/11/04(土) 21:15:11.28 0.net
そら脅威になるのが北辺におるからな(隋の場合は主に突厥)
精兵はそっちに駐屯することになるし、それを吸収することができたらほぼ自動的に勝ち
靖難の変もだいたい同じ

78 :世界@名無史さん:2017/11/05(日) 00:26:31.42 0.net
宇文泰が漢兵の精鋭を選りすぐって作った府兵集団は色々と謎が多い
隋唐の高句麗討伐にも動員されず隋末期の群雄割拠でもまったくどちらにも組せず
いつのまにか形骸化していたところとか

79 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 08:14:35.78 0.net
GettyImages
北京の故宮

現在残されている故宮は、主に北京の清の時代に使われたものです。巨大な宮殿がそのまま博物館として展示されています。

1987年にユネスコより世界文化遺産に認定されています。

80 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 08:15:09.61 0.net
万里の長城

万里の長城は、非常に長いので沢山の場所が公開されていますが、特に北京市内に比較的近くて観光地としても最も有名なのが北京八達嶺です。

1987年に世界遺産に登録されています。

81 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 08:15:45.57 0.net
明十三陵

明代の皇帝、后妃の陵墓群です。

万里の長城(八達嶺長城)とセットになったツアーが組まれる事が多い場所です。

82 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 08:16:56.01 0.net
天壇公園

天壇公園は、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所です。

1998年に世界遺産に登録されています。

83 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 08:20:42.34 0.net
頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。
1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。

頤和園の前身は清漪園である。
1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い息子の乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、
西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。
1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。
道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。

84 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 16:18:51.09 0.net
明の陵墓が最大の見どころって、日本でいえば古墳時代みたいなものか?

85 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 16:19:53.85 0.net
仁徳天皇陵のほうが、圧倒的にスケールはデカい

86 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 16:20:54.20 0.net
北京にも、もちろん偉大な歴史がある

でも、大阪ほどではない

87 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 19:41:16.52 0.net
明がスタートしたのは、1368年。

永楽帝が北京に遷都したのは、1421年。

その間の半世紀は、南京が首都だった。

もうちょい長かったら、「西漢・東漢」みたいに、「南明・北明」と区分された可能性が高い。

88 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 19:43:00.14 0.net
北京を首都とする政権は、どの民族が支配していようと、本質的にモンゴル帝国の後継者だ。

南京に首都があるのとでは、意味合いが違いすぎる。

89 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 19:47:56.96 0.net
一般に、日本人は漢や唐の歴史が大好きだ。
明清には、どうも関心が乏しい。

でも、現代の中国を考える上では、明清の歴史のほうが圧倒的に参考になる。

90 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 19:51:53.16 0.net
>>87
南明てのは存在したけどね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%98%8E

91 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 20:03:46.98 0.net
じゃあ、南京時代は「中明」だな

92 :世界@名無史さん:2017/11/11(土) 20:25:16.81 0.net
>>89
洪武帝の海禁政策以来、交流が減っちゃったからね
あるいは絶対量でいえば減ってないとする見方もあるだろうけど、国内の諸活動全体に占める中国事物の相対的地位は下がったかと
学問面では宋からあとは古典にほぼ含めなくなるし、せいぜい実用書か自分たちとは直接関係がない洋モノ書籍の感覚になっていったんだと思う

93 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 08:00:45.11 0.net
、都を自分の本拠地である「北京」に遷した。同時に金陵は、南京と改称された。遷都の理由は、北方のモンゴル民族の来襲に備えるためには、南京よりも北京の方が都合が良かったからである。
 
 北京が初めて首都に選ばれたのは、金の4代目「海陵王」の時である。以来、南京に首都を置いた明代初期を除けば、今日の中華人民共和国に至るまでの800年あまり、北京が中国の都となる。これに対してなぜか、南京を都とした王朝は長続きしていない。
 
 最初に南京に首都を定めた三国時代の「呉」は58年間で滅びた。その後「東晋」は103年間、「宋」は59年間、「斉」は23年間、「梁」は55年間、「陳」は32年間と、みな短命に終わったのだ。
 
 明朝も、南京が都だったのは、わずか34年間でしかない。それに第二次世界大戦中中華民国の南京政府は、日本帝国陸軍の侵攻の前に10年で陥落し、戦後再び、南京に帰ったものの、たった3年で台湾に追いやられている。

94 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 08:02:45.91 0.net
永楽帝が、北京に遷都した理由は、もう一つある。永楽帝にとって、南京は居心地が悪かったのである。
なぜなら兄の息子の建文帝を殺すという、やってはいけないことをやってしまったからである。このことは、永楽帝にとっては、生涯の大きな汚点となり一種の罪悪感を背負って生きていくことになるのだ。
 
それに南京には、建文帝の側近がおり、彼らとの関係がしっくりいかなかったのだ。
事実、永楽帝は建文帝の側近の一人「方孝孺」に即位の詔書を起草させようとしたが、彼はその命令に従おうとせず、最後には「燕賊、位を奪う」と書いたので、永楽帝は、方孝孺とその一族873人を粛清して、南京から去ったのである。

95 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 08:05:47.46 0.net
最初に北京に遷都したのは、金の海陵王

海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。
『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。
また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。
姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。
宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。

96 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 08:09:07.55 0.net
金の海陵王が北京に遷都したという話の認知度は低い。
永楽帝の遷都のほうが、遥かに有名だ。

ひとつには、いまの北京が建設されたのは永楽帝のときだからだろう。
北京が誇る名所旧跡は、永楽年間に建設されたものが多い。
それ以前の痕跡は、いまの北京にはほとんど残っていない。

97 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 09:23:52.82 0.net
>>87 >>90-91
めんどくさいことに、戦国時代・東周が滅亡直前に分裂して東周君と西周公とが並立

98 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 09:40:14.46 0.net
海陵庶人だろ

99 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 10:53:01.37 0.net
東魏と西魏みたいなものか

100 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 13:09:02.96 0.net
古今東西、遷都は常に、多大な労力と犠牲を払って遂行される。
鉄道も飛行機も自動車もない時代。移動するだけでも大変だ。
大土木工事で死者が続出する。
華の都から、辺境へと転落した人々の恨みは深い。


よほどの暴君が有無を言わさず実行しないと、誰もついてこない。

遷都を強行した皇帝の評判が概して悪いのは、そこに原因があるのかもしれない。

101 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 13:13:56.78 0.net
現代の日本も、もちろんそうだ。
東京から首都を移しますと言うのは簡単だが、独裁者でもない限り、実際には決められないだろう。

あのプーチンでさえ、首都をサンクトペテルブルクに移すとか、そういうことはやっていない。

中国も、首都を北京から他のところに移すのは無理っぽい。

102 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 13:36:42.67 0.net
金の海陵王、元のフビライ・ハン、明の永楽帝。

北京に遷都した連中は、いずれも暴君ぞろいだ。

103 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 14:10:10.26 0.net
召公奭はどぉ?

104 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 14:25:01.45 0.net
>>100
ピョートル大帝は評判悪くない

105 :世界@名無史さん:2017/11/12(日) 17:47:25.98 0.net
>>103
また、古い例を持ち出してきたな

106 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 12:58:46.44 0.net
クビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をカラコルムから中国の大都に移動させるなど様々な改革を打ち出した。

クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。

107 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 13:00:23.85 0.net
至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、
至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。

108 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 13:01:43.58 0.net
至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、
至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。

109 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 13:03:45.89 0.net
しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。

110 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 15:20:24.04 0.net
しかも巨大宮殿を作ったけど、日常はテント生活

111 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 16:12:06.99 0.net
テント生活だから、中国式の家具なんかより、ペルシャ絨毯が必需品

中国文化より、ペルシャ文化に傾倒したのは当たり前であった

112 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 16:51:16.03 0.net
元の宮殿は儀礼用で
ハーンを含めてモンゴル人はみな宮城の隣の空き地にテント張って住んでたようだな

113 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 18:30:56.13 0.net
えええ匠戸とかほとんど漢人だけど
イスラム教徒は基本的には天文学や算術や金融に従事していて工芸品は漢人層の独壇場

114 :世界@名無史さん:2017/11/13(月) 19:36:50.66 0.net
>>113
んなこたあない

地味な宋の青磁より、華やかなペルシャのラスター彩のほうがよほど人気があった

115 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:28:01.20 0.net
時代劇でも、モンゴル人は、どんなに偉くてもテント生活している

116 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:29:47.10 0.net
元の上都は西洋人から「ザナドゥ」と呼ばれた。

ザナドゥは、桃源郷と同じような意味で使われるようになったほど、西洋人の憧れを集めた。

117 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:30:34.02 0.net
しかし、ザナドゥは世界の中心

桃源郷は、人里離れた山奥という決定的な違いがある

118 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:31:32.67 0.net
上都は寒すぎるので、冬は北京が首都になった

あの北京が避寒地になるとは、どんだけ寒いんだよと言わざるを得ない

119 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:33:03.58 0.net
>>113
漢人の匠戸は、現代でいえば工場作業員

120 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:34:11.60 0.net
中国・朝鮮の職人軽視・技術軽視の風潮は、元で下層階級だったことに始まるのかもしれない

121 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:35:59.62 0.net
Xanadu 2.0 is a mansion owned by Bill Gates that overlooks Lake Washington in Medina, Washington.

The 66,000-square-foot (6,100 m2) mansion is noted for its design and the technology it incorporates.

It is nicknamed Xanadu 2.0 after the title character's estate in Citizen Kane.

122 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:37:31.95 0.net
『ザナドゥ』(英: Xanadu)は、1980年公開のアメリカ映画。
地上に最高の音楽の殿堂を作るために、と集まる人々を描くミュージカル・ファンタジー映画。

2007年には、この映画のブロードウェイ・ミュージカル劇場版が制作・上演された。

ブロードウェイ版は、酷評された映画とは対照的に『ニューヨーク・タイムズ』で絶賛されるなどし、翌年のトニー賞にミュージカル作品賞、台本賞、主演女優賞、振付賞で候補となり、予想以上のロングラン上演となった。
ブロードウェイ以外でも次々に新演出で公演されるようになり、オーストラリアでの公演は本作の振付家ケニー・オルテガが手掛けた。2015年にはロンドンで英国初演もされた。

123 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 07:39:42.83 0.net
オリビア・ニュートンジョンの「ザナドゥ」

駄作だった映画とは異なり、これは名曲

https://www.youtube.com/watch?v=oWeJ9p42ufg

124 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 20:08:22.41 0.net
http://www.4gamer.net/games/315/G031560/20151014002/TN/001.jpg

125 :世界@名無史さん:2017/11/14(火) 20:36:58.34 0.net
挨拶されようとわざと立ち止まるキモイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする

大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ

今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923

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