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唐宋変革期

1 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:46:47.62 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。…

2 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:49:05.44 0.net
党争変革期、か

3 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:54:59.57 0.net
宋では党争が盛んだった

4 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:55:38.29 0.net
王安石や安倍晋三のような大宰相が出てくると、それに合わせて抵抗勢力も強くなる

5 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 21:09:44.88 0.net
唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。

6 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 21:39:00.40 0.net
その後どうして中国はヨーロッパに追い越されたのか
北方民族に征服されたためかな

7 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:20:26.65 0.net
千年前の宋は、世界に先駆けて貴族社会から官僚国家に移行した
 
近代ヨーロッパを何百年も先取りしてたので、ヘーゲルもビックリ
 

8 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:33:35.58 0.net
異論有り。
中国は戦国時代には既に官僚国家。
その官僚の供給源が唐・五代に貴族・名望家から科挙出身者に変わっていき、
宋の時代に全面的に科挙出身者になったということ。

9 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:42:44.33 0.net
まずは、基礎知識をチェック!

唐代から宋代にかけての時期は,中国史上でも有数の変革期にあたり,「唐宋変革」と呼ばれることがある。次のような変化が見られる。

(1)政治体制:唐では貴族と皇帝による合議体制 → 唐末・五代に貴族が没落, [ 1.     ]

→ 宋では科挙の最終試験として [ 2.   ] が採用され, [ 3.     ] にもとづく君主(皇帝)独裁体制。

(2)政治制度:唐では三省のうち [ 4.     ] が貴族の牙城 → 宋では[ 4 ]が中書省に併合されて実権を失う。

(3)支配層:唐では [ 5.    ] → 宋では新興地主層である [ 6.     ] 。

(4)経済・都市:唐では坊市制による規制があり政治都市 → 宋では商業・産業が発達し,規制がゆるみ商業都市。

(5)文化:唐では [ 7.     ] ,国際色豊か → 宋では士大夫・ [ 8.     ] ,中国的。

(6)儒学:唐では経典の字句解釈の [ 9.     ] → 宋では [ 10.      ] 。
 

10 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:43:53.47 0.net
>>9

解答

http://kudo-schule.com/sekaishi/eastern_asia/ix-79-%e3%80%8c%e5%94%90%e5%ae%8b%e5%a4%89%e9%9d%a9%e3%80%8d/

11 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 22:18:39.47 0.net
初歩的な質問。

宋の士大夫に「我家は漢魏以来の名門」って家は、本当にないの?探せばありそうなんだけど。

唐末五代の乱世を生き抜いて宋に仕えた名門貴族の生き残りって全くないの?

12 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:19:41.69 0.net
>>11
それは、本当にいなかったんじゃないかな。

漢魏以来の名門は、梁末の侯景の乱、唐末の黄巣の乱と、二度の大虐殺で激減してるから、さすがに生き残れなかったと思われる。

13 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:27:36.38 0.net
宋の司馬光は、秦までさかのぼれる家系(ていうか、司馬懿の弟の子孫)とされてるが、門閥貴族とは言えないなあ。

14 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:35:12.87 0.net
岳飛とともに金に抵抗した大宰相として有名な張浚も、先祖は唐の宰相にまでさかのぼる家柄

でも、先祖は成り上がりなので、これまた門閥貴族とはいえない

15 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:39:09.30 0.net
日本でいえば源平藤橘に相当する、清河崔氏・范陽盧氏・趙郡李氏・滎陽鄭氏の四姓が、唐末に全滅してるからなあ。

16 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:41:25.37 0.net
清河崔氏

北魏の暴君に仕えて漢人の伝統を守り、最後は誅殺された宰相の崔浩が有名。

その後も子孫は栄えて、唐では12人の宰相を輩出し、唐で第一の家格とされた。

三国志に出てくる先祖には、崔琰(サイエン)ってのがいる。

17 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:48:31.08 0.net
范陽盧氏

斉の姜氏に起源があるとされ、「劉備の師匠」として有名な蘆植を輩出した家柄

北魏の孝文帝により、清河崔氏とともに「四姓」に列せられた

18 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:50:27.40 0.net
趙郡李氏

春秋の鄭国に起源があるとされ、北魏の孝文帝により「四姓」と位置付けられる

唐では十人の宰相を輩出した名門

19 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:53:13.76 0.net
>>18
まちがえた

「春秋の鄭国に起源がある」ってのは、滎陽の鄭氏だった

20 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 06:56:42.73 0.net
趙郡李氏

「戦国の名称・李牧の子孫」だそうな。これまた、唐で多くの宰相を輩出した家柄

21 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:01:55.77 0.net
南朝の四姓

琅邪王氏
陳郡謝氏
陈郡袁氏
蘭陵蕭氏

22 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:02:34.44 0.net
北朝の四姓

清河崔氏
范阳卢氏
荥阳郑氏
太原王氏

23 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:11:52.99 0.net
王氏と謝氏に代表される南朝の門閥貴族は、梁末の候景の乱で大打撃を受けた
 
唐では、北魏から北斉を経てきた山東貴族が主流となった

隋唐の皇室は、北周に由来する関隴集団に属する
 
唐は、関隴集団と山東貴族が二大勢力
 
要するに、北魏でもさんざんやってた、胡人の支配者と、統治機構を支える漢人の文官の対立だが
  

24 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:18:37.42 0.net
魏によって行われた「九品官人法(九品中正法)」と言われる制度は、当初は地域ごとに名望のある人物を品等に区分けして(郷品)、郷品の高下によって品等の高いポスト(官品)につけるという制度でした。

しかし、地方の人物を品定めする役人(中正官)は次第にその地方の有力豪族と手を結び、特定の家柄のみが高い郷品につけられるという事態が生じました。

これによって「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と言われるような状態となります。これによって貴族制が構築されていくのです。

したがって、科挙制が始まった当初も政治の上層部には彼ら貴族が掌握し、科挙によって官僚となったものは下位に甘んじなければなりませんでした。

25 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:19:08.06 0.net
この状態を変えるきっかけを作ったのは世に悪女とも女傑とも言われる則天武后です。

彼女は低い家柄のため、貴族達と対立します。
そのため彼女は貴族を排斥し、科挙官僚を重用するのです。
この時は則天武后の死後の混乱を収めた玄宗によって貴族の勢力も盛り返しますが、
科挙官僚の勢力も以前より高くなっています。

26 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:19:46.97 0.net
大体9世紀には貴族閥と科挙官僚閥との勢力が拮抗するようになります。

とくに823年から激化した「牛李の党争」と呼ばれる政争は、
牛僧孺・李宗閔を中心とする科挙官僚派と李徳裕率いる貴族派とが
激しく争った事件として歴史に刻まれます
(「牛李」とは当初は牛僧孺と李宗閔の姓を指したが、
後世になり李宗閔に変わって李徳裕の姓を指すようになる)。

27 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:20:37.37 0.net
しかし双方が朝廷内で争っている間に、皇帝の側近である宦官や、地方の防衛を担う節度使等が地方軍閥化した「藩鎮」らが中央政界の主導権を握ります。

とくに有力藩鎮の一人、朱全忠はライバルを抑えて権力を掌握すると、まず宦官を皆殺しにします。
そして彼は運命の905年2月、裴枢ら貴族30余人を黄河のほとりの白馬駅に連行して殺害、死体を黄河に捨てます。

この行為を教唆した朱全忠のブレーン 李振はことのき
「此の輩、常に自ら清流と謂う、宜しく之を黄河に投じて濁流と為さしむべし」
と言ったとされます。

まさにこの清流を誇った貴族が濁流に呑まれた瞬間、中国における貴族制は完全に終わりを告げました。

28 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:33:35.29 0.net
唐末は、「ここで中国の歴史は断絶して、新たな中国の歴史が始まる」とまで言われるだけあって、
ここで漢魏はもとより、春秋戦国にまでさかのぼる古い貴族の家柄がことごとく滅んだ。
宋からは、新たな名門の家柄が登場してくる。
 

29 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:34:36.84 0.net
ついでに、千年〜二千年の長きにわたって都だった、長安と洛陽の時代も終わった。
二都は内陸部の辺境となり、砂塵に埋もれていく。

唐が滅んで20年後に、後唐の李存勗が洛陽に遷都したときでさえ、
「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」という批判を浴びたほどだった。

30 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 07:42:18.75 0.net
現代の中国は、北京・上海・広東省の沿海部が圧倒的な中心地で、内陸部は植民地みたいになっている。

これは現代の工業化のせいでそうなったわけではなく、明あたりで既にこの体制が完全に固まっていた。

唐までは、内陸部が中華の地だった。
 

31 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 15:57:58.20 0.net
>「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」
孟知祥「うるせっ!」

32 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:32:49.94 0.net
三世一身の法と墾田永年私財法はセットで覚えましょう

大化の改新で朝廷は、農民に土地を貸し出すという政策をとっていました。この土地のことを口分田といいます。
しかし奈良時代になると、人口が増えてきたことによってこの口分田が足りなくなってきました。土地が足りないと食料不足にもなりかねません。
そこで朝廷は、三世一身の法という法律を作って、この問題を解決しようとしました。

723年にだされた三世一身の法(さんぜいっしんのほう)とは、朝廷から与えられた口分田とは別に、新しく自分で土地を切り開いた者には、
その土地を3世代(孫の世代)まで自分たちの土地にしていいよーという法律です。

743年に制定された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、三世一身の法をさらにパワーアップさせた法律でした。
三世一身の法では、自分で切り開いた土地は孫の代まで自分の土地にしてもいいという内容でしたが、
墾田永年私財法では、新しく土地を切り開いたらずっと自分の土地としてもいいよ!というものでした。

大化の改新のときに、「国民の持っている土地はすべては国の物!」とした考え方が、ここにきて大きく崩れていくことになります。

33 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:39:07.11 0.net
唐の時代を均田制に基礎をおいた社会で、国家は土地と人民を直接支配し、均田農民から租庸調・雑徭という税制によって搾取してきた。
この均田農民を奴隷とみなし、唐の時代を古代奴隷制社会であるというと見方があった。
府兵制や租庸調にみられる国家によるきびしい支配は、多くの農民を逃亡・没落させ、やがて逃亡した農民たちは佃戸となっていった。
そのため国家は税を取ることができなくなり、税制は、租庸調から両税法に変わっていった。

この税制は、土地と資産に応じて納めるもので、唐は、国家の大原則である公地公民制を自ら否定し、土地の私有化を国家が正式に認めることを意味したものである。
これ以後、地主―佃戸制が中国社会で大きく広がり、宋代以後、清代にいたるまでの基本的な生産関係となった。
そして、佃戸を支配し、勢力を強めた地主階級が、科挙制度を通じて官僚となり、地主=官僚が宋代以後の皇帝独裁体制をささえる支配階級となったのである。

地主―佃戸は中世ヨーロッパ社会における領主−農奴に相当するとみなされ、宋から清までを中国の封建社会ととらえる。
つまり、「唐宋変革期」とは、唐の均田制にもとづく古代奴隷制社会から、宋代の地主―佃戸制にもとづく中世封建社会への変革の時期であったという見方である。

34 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:41:20.07 0.net
日本史では、小学校から中学校にかけて、「奈良時代には、農民に口分田が支給されていましたが、
この体制はだんだん崩れて土地の私有が認められるようになり、貴族の荘園が広がりました」
というのを、繰り返し刷り込まれる。

いくら歴史の授業で寝ていた人でも、あれだけ強調されれば、なんとなくでも覚えているのが普通だろう。
 

35 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:41:49.01 0.net
>>32
わしゃあ、墾田永代私有の令と習ったんだがのう

36 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:45:44.52 0.net
同時代の中国も、同じようなプロセスをたどって公地公民制度が崩壊していった。

均田制のもとで農民には口分田が支給されていたが、しだいに均田制が機能しなくなり、
土地の私有が認められるようになって、貴族の荘園が広がった。

日本でいえば「三世一身の法」とか「墾田永年私財法」に相当するのが、中国では「両税法」。

両税法は、土地の私有という既成事実を追認した。

ついでに、貨幣経済という既成事実も追認され、銅銭での納税が行われるようになった。
 

37 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:46:27.60 0.net
>>35
マジで!?

それは初めて聞いた

38 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 05:24:50.84 0.net
>>4
アベシンゾウは士大夫官僚層でも実力のみで出世した新興知識人層でも無く
唐王朝の血統しか誇る物が無い門閥貴族な

39 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 07:59:01.82 0.net
なに言ってんだ
安倍は藤原北家だろうが

40 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 08:33:35.25 0.net
権力者の世襲化は体制の安定をもたらすが、
ルーチンワークしかできない前例固守が幅を利かせ、
政治の形骸化をもたらす。

資本の国有化は初期は国力を増大させるが、
しだいに経済が低迷していく。

41 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 08:58:27.12 0.net
均田制の施行実態がよくわからないなぁ。
敦煌とかの文書ぐらいしか残ってないのかしらん?
敦煌じゃ辺境過ぎて、全国での一般と考えるには難しい。

42 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 09:08:34.11 0.net
五代十国を生き抜き、
五朝八姓十一君に仕えた
馮道は天才。

43 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 10:16:48.09 0.net
仕えた皇帝が次代に変わると嫌われて、投獄されたり左遷されたり。
そういう皇帝に限って亡国の憂き目に遭い、それが結果として
新王朝で重用されることに繋がる。
その繰り返しで後周まで生き残ったのだ。

44 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 10:16:56.85 0.net
府兵制も、実際には関中でしかやってなかったらしいな

45 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 10:19:09.32 0.net
胡族の支配者が中原を統治するためには、どうしても教養ある漢人の文官を必要とする
 
新皇帝にとっては、馮道しか頼る相手がいない
 

46 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 10:43:49.83 0.net
>馮道
この読み方、人名なんだから「ふうどう/feng-dao」のはずなんだけど
最近は偉い学者でさえ「ひょうどう/ping-dao」と読む人が増えている。
中国でもfeng-daoはすっかり廃れてping-daoだけらしい。

47 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 10:53:33.55 0.net
>>39
岸信夫が藤原南家ってとこか?

48 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 11:14:42.86 0.net
>岸信夫
誰それ?

49 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 11:37:35.40 0.net
安倍晋三首相の弟、岸信夫は腹違いではなく実弟?安倍家の複雑な事情

https://sori-no-bansan.com/237

50 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 19:29:09.80 0.net
>>33
お前世界史の授業の時寝てたのか?
公地公民制なんてやってたのは日本だけだぞ

51 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 20:22:53.69 0.net
均田制ってのは、公地公民制とは違うんかい!?

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