■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
唐宋変革期
- 1 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:46:47.62 0.net
- 中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。
その変化の一つは,支配階級の交代である。…
- 228 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 08:07:32.32 0.net
- 経済の健全度や統計の信頼性で、
中国に大きな問題があることは中国人たちも認めている。
それでも
国土と人口の大きさを
過小評価するなと言いたい。
- 229 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 08:08:01.45 0.net
- 何年か前にかなり売れた「中国化する日本」という本では、「いちはやく身分制社会を克服して、
試験に受かれば誰でも偉くなれる自由競争社会に突入した」として、宋代の中国を絶賛していた。
日本や西欧も、宋のレベルに向かって進化してきたのである・・・とまで主張していた。
- 230 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 08:12:07.71 0.net
- 解決済の質問
北宋朝の「皇帝独裁官僚国家制度」はどのような経過をたどって成立したのかについて教えてください。
- 231 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 08:13:08.34 0.net
- ベストアンサーに選ばれた回答
北宋を建てた「趙匡胤」は、皇帝独裁型の官僚制国家を作り上げました。
960年の宋建国の時点で、
趙匡胤は中国国内で最大の軍事力を握っていましたから、
その気になれば、短期間で軍閥勢力を力で圧服させることも出来たでしょうし、
地方の諸国を一気に滅ぼすことも出来たであろうと思われます。
しかし趙匡胤はその強大な軍事力を背景にしながら、
五代以来の軍閥横行による君主権力の後退に鑑み、
実に根気強く、
軍閥勢力を硬軟取り混ぜた手法で説得して、
その権限を徐々に奪っていき、
藩鎮の勢力削減・
禁軍(正規の国軍)の指揮権掌握・
文官優位の文治主義などを推進しました。
- 232 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 08:13:56.98 0.net
- 中央官制では唐代以来、貴族政治の牙城であった門下省を廃止して、
中書省に吸収し、
その長官である中書省中書門下平章事(宰相)が、
六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)の各長官を指揮することにしました。
また参知政事(副宰相)を新たに設置し、
節度使を、いつのまにか名誉職としてしまい、
順次廃止または有名無実化させます。
州県の長官(知州、知県)には中央から文官を任命(強幹弱枝策)
によって、中央集権化を進めました。
科挙制を改革し、最終試験として殿試を創設し、
その合格者(進士)となった官僚すべてを、
皇帝の学問上の弟子とする関係を形成しました。
その間に科挙合格者を重要な役職につけるようにし、
官僚任命権と、軍隊指揮権を、
皇帝のものとするという制度改正を行い、
軍人は官僚によって統制されるという、
文治主義への転換を成し遂げました。
- 233 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 12:06:19.04 0.net
- >>221
遼寧省は日本市場や日本企業と結び付きが強くて経済的に依存してたから
日本の凋落に巻き込まれた
- 234 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 12:27:36.69 0.net
- >>227
唐の時代が続くと以前より没落する勢家が減って無能な官位持ちが増えた結果
新興地主層からの登用が増えて朝廷での権力を貴族が失って逝ったという皮肉w
- 235 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:13:00.90 0.net
- 飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。
ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、
今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、
経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。
しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。
1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが
「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。
- 236 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:13:35.50 0.net
- 與那覇 それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。
戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、
日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、
グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。
- 237 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:14:26.12 0.net
- アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。
内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。
内藤のこの史観を述べながら、著者(與那覇)は次のように書く。
「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。
同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で
競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」
- 238 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:46:31.04 0.net
- 官僚国家で貨幣経済となった宋を、「いち早く古代の身分制社会から脱却し、
試験に通れば誰でも高級官僚になれるし、熱心に商売すれば誰でも金持ちになれる、
近代的な機会均等の自由競争社会を実現した」として称賛する與那覇潤(よなはじゅん)氏。
まあ、そういう解釈が出てきても不思議はないか・・・。
- 239 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:57:44.44 0.net
- 北宋の首都は開封、南宋の首都は臨安であった。
唐代との都の大きな違いは、街区を細かく区切っていた門(夜には閉められ通行が遮断される)が取り払われ、
昼夜を問わず店には人々が集い、路上に屋台が並んでいた事である。
電気やガスが用いられる以前に、この様な営業形態をとりうる経済力は驚くべきことなのだ。
- 240 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 13:59:22.92 0.net
- 具体的には、食器屋、薬屋、貴金属店が店を並べた。それに加えて、その客を目当てに飲食店、娯楽、風俗店が集まっていた。
都には瓦ぶきの2階や3階建ての建物が建ち並んでいた。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装されていた。
また、大衆文化と呼べるものが登場した。盛り場では
『三国志演義』の源流とも言える講談が演じられた他、
切紙・影絵・動物の芸、雑劇(歌を伴う演劇)などが人々を楽しませた。
本格的な出版事業が始まり、多くの人が印刷された本を入手することができるようになった。
- 241 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 14:01:40.86 0.net
- 唐の時代劇を見ると、長安の都はじつに華やかで賑やかで、昼も夜も歓楽の巷なのだが、
それは宋以後の話であって、唐の長安は常に戒厳令が敷かれている状態。
唐で華やかなのは、貴族だけだった。
大衆消費社会の実現には、まだ程遠かった。
- 242 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 14:49:41.86 0.net
- 西安は、ムスリムが多い西域化した都市。
名物は、羊の串焼きだ。
唐三彩の焼物には、ラクダの像とか、ラクダに乗った商人の像がとても多い。
唐の都・長安にはラクダがよほど多かったのだろう。
マニ教寺院とか、キリスト教会だっていくつもあった。
フィリピン・パブならぬ、ペルシアン・パブも賑わっていた。
ペルシャ系の音楽や舞踊が流行していた。
おそらく、当時の長安は想像以上に西域っぽくて、
現代の「中国」というイメージとは異世界だったんじゃなかろうか。
- 243 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 14:51:40.87 0.net
- 「唐と宋で歴史の切れ目がある」というより、単純に、唐が特殊な時代だったんじゃあるまいか。
- 244 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 16:41:43.80 0.net
- 宋は文物がすごいもんなぁ。書にしても陶にしても。
金出せる人がいっぱいいたのかなと思わせるし、自由の気風も感じられる。
- 245 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 16:47:35.71 0.net
- おそらく、奈良時代の奈良が中国っぽかったのと同じように、
唐代の長安は、非常に西域っぽかったであろうと考えられる。
秦漢の頃は緑に覆われていた黄土高原も、この頃にはかなり荒涼とした風景になってきていた。
長安は、砂漠のオアシス都市みたいなところになってきた。
そこは、ラクダに乗った隊商が往来し、ペルシャ風の文化が花開いた世界。
日本と違って、中国には妙なプライドがあるせいか、
「西域から文化を導入して文明開化した」とはなかなか認めたがらないが。
- 246 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 16:53:51.81 0.net
- >>244
書画骨董は、宋のが最高
東洋美術館の主力展示品
- 247 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 17:04:01.85 0.net
- そりゃ西域は唐代でも現在でも中国の領土だもの
琉球との貿易によって日本は様々な中国の文物を受容できたけど
琉球によって日本は文明開化したとは言わないでしょ
- 248 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 17:35:45.91 0.net
- >>245
仏教に対しても長い間アレルギー反応示していたからなあ
- 249 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 17:46:06.99 0.net
- >>247
空手と三味線が、琉球起源
日本文化に占める存在感が大きい
- 250 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 18:03:59.85 0.net
- そもそも江南だって華北からみたら被征服地だしな
- 251 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 18:08:21.63 0.net
- 自分の中のイメージでは
唐)
異民族文化に寛容
国際的
儒教を重んじない
女性上位
宋)
内向き
漢族ファースト
儒教原理主義
纏足で女性を拘束
- 252 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:06:25.79 0.net
- >>245
何か勘違いしてるけど
シルクロード交易って文物、製品共に中国側の圧倒的な輸出超過
- 253 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:20:56.00 0.net
- >>245
少くとも食文化はよくイメージされる中華料理とは掛け離れてたろうな
中華鍋と豪快に炒める料理は宋からやろねさ
- 254 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:24:44.88 0.net
- >>252
何が中国側に入ったのでしょうか?
決済は金とか銀でしょうか?
- 255 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:27:04.24 0.net
- 漢代の文化が衣食住全てにおいてやたら日本に近いのはなぜだろうか
南朝では漢代の文化が残っていて、それが伝わったとかだろうか
- 256 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:38:00.18 0.net
- >>253
石炭火力を使うようになって変わった
- 257 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 21:57:46.60 0.net
- 今でも陝西省の料理は独特
中国四大料理(北京・上海・広東・四川)のどれにも分類されない孤立料理
- 258 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 22:01:26.10 0.net
- >>255
最近、京都や奈良に来た中国人観光客が、「唐の文化がここにあった」、
「どうして日本には唐の文化が残っているのか」と言い出すことが多い。
でも、金閣寺や銀閣寺を初めとして、京都の名所旧跡は室町時代のものが多く、中国でいえば明代に相当する
- 259 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 22:02:30.89 0.net
- >>254
宝石でしょ、玉とか
- 260 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 22:03:19.54 0.net
- が中国側の輸入品として有名
- 261 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 22:55:31.81 0.net
- >>245
長安から西に向かうルート(絹の道)の他に、北京から北に向かいモンゴルを通るルート(草原の道)があった。
長安からはラクダに乗った隊商、北京からは馬に乗った遊牧民が運び手。
当然、ラクダより馬のほうが速かった。
- 262 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 23:26:01.32 0.net
- ダウンタウンの松本気取りのくだらない奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923
- 263 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 23:26:28.76 0.net
- >>258
その中国人観光客、歴史を習っていないんじゃない?
- 264 :世界@名無史さん:2017/10/15(日) 23:28:40.54 0.net
- 地形図を見れば、なぜユーラシア貿易の拠点として北京と長安がつねに選ばれ続けてきたのか、その理由が一目瞭然
理由もなにも、地形からいって、ここしか通るところがない
- 265 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 03:00:17.52 0.net
- >>254
唐と西域諸国との交易で規模が大きかったのは奢侈品よりもむしろ軍事経済
唐は中央アジア方面で吐蕃やウイグルと戦争していたので
クチャにあった安西都護府に莫大な軍需物資を送り込んだ
今話題になってるソグド人も物資の購入や輸送を請け負う御用商人として活躍した
それまで西域諸国では銀銭が用いられたが
唐が支払い手段とした銅銭や布帛が通貨として流通するようになった
- 266 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 04:43:36.21 0.net
- >>263
正しい歴史を習って無い
- 267 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 05:46:03.50 0.net
- 唐代の地層から急に布帛や銅銭が大量出土する様に成るんよな西域
>>266
宋代に発達した規格化された建築様式って日本じゃあまり見られ無いし
唐代に導入した様式を連々と続けてたから、強ち間違いでも無いけどね
- 268 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 12:04:00.26 0.net
- 強ち=あながち
- 269 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 16:37:31.73 0.net
- 北京は、中国の内地にとっては北端だけど、遼から見れば逆に南端。
いまでいう北京を、遼では「南京」と呼んでいた。
北京を出て、モンゴルに入ると、そこは広大な大草原地帯。
馬で移動するから速い。
長安から、ラクダをひいた隊商が月の砂漠をはるばると行くという交易スタイルは、過去のものとなった。
海洋貿易はまた別の問題だけど、モンゴル帝国に至って陸路は北京ルートが主流となり、長安は衰退した、
- 270 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 17:11:05.80 0.net
- >>265
>>267
西域で唐の貨幣が流通していたということは、
唐代初期でも貨幣経済がかなり進んでいたということでしょうか?
宋はそれを引き継いで貨幣経済を発展させたということであって、
唐と宋の間を区切るような大変革が生じたわけではなく、
連続的な発達にすぎないということなのでしょうか。
- 271 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 18:25:49.83 0.net
- 宋が長安、洛陽を都にしなくなったのは、唐の時代に拡大した
流通社会・貨幣経済に対応できなくなったからなわけだが。
開封は大運河による新しい経済社会体制の都として最適で、
長安や洛陽のような閉鎖的な都市はもはや過去のもの。
- 272 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 18:32:12.89 0.net
- 開封って古代からずっと栄えていたわけ?
- 273 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 18:43:41.29 0.net
- >>272
古代の戦国時代には、魏の都・大梁として一時代を画した
- 274 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 18:45:27.19 0.net
- でも、洪水が多いのが弱点
古代の魏の都は黄河の土砂に埋もれ、その上に築かれた宋の都の開封も土砂に埋もれ、
現代の開封はその上に築かれた
だから、古代からの連続性はない
- 275 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 19:09:30.81 0.net
- 唐の大運河・通済渠が元〜明時代には黄河の本流となってしまったんだよなw
- 276 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 19:49:36.72 0.net
- そう、明の時代には、黄河が長江に合流して一緒に海に流れ込んでたんだよね。
- 277 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 19:55:55.83 0.net
- 唐の長安と漢から西周代の長安も関係ないと思われてるが実はある
長安には北方の離宮群を守る禁苑の城壁が旧長安もすっぽり覆い囲っていて旧都城全域が一つの離宮として機能していた
- 278 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 19:57:19.64 0.net
- 日本は歴史の古い都市が全くないね
- 279 :275:2017/10/16(月) 19:57:52.43 0.net
- 唐の大運河じゃなくて隋唐の大運河、だな。訂正。
- 280 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:05:50.79 0.net
- >>277
漢の長安城の廃墟が邪魔になって全く同じ場所には作れなかったわけで。
その事情は洛陽も同じで、漢・魏の洛陽城が邪魔で唐の洛陽城は別の場所になった。
- 281 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:07:24.73 0.net
- >>270
いわゆる唐宋変革は、たいてい唐の後期に変化が進んできて、宋代で歴然としたものが多い
- 282 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:08:07.72 0.net
- >>267
えええ宋様とか大仏様とか教科書にも書いてあるレベルだろ
鎌倉時代の寺なんてほぼ宋の建築技術に依ってるんだが
唐代の影響をまだ受けていた創建当時の平等院の内装とかこんな感じ
http://hishiya.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/09/16/o0500037510501208610.jpg
奈良の大極殿も首里城みたいに赤一色だが実物はもっと金ピカだったはず
- 283 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:10:26.70 0.net
- 隋はオールド長安の近くにニュー長安を作ったけど、カンジンの煬帝は運河に船を浮かべて
江南に行幸したまま、帰ってこないので「事実上の遷都」と言われた
これで長安貴族の不満を高めてしまったのが、隋滅亡の原因のひとつ
- 284 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:14:16.31 0.net
- >>282
なんか、建築も陶磁器も文人画も、宋代のは渋みのある典雅なものが多い印象があるんだが。
唐代のは、やけに金ピカ趣味だったんだな?
- 285 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:15:41.75 0.net
- >>280
デリーとニューデリーくらいの関係
連続性がないとまでは言えない
- 286 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 20:22:26.88 0.net
- 唐代になってもまだ長楽宮や未央宮は残ってたらしい
http://www.geocities.jp/wtbdh192/tuganyakubun/HPTochouanzu/TOHCHOANZU011.gif
会昌元年(842)年頃でも未央宮には殿舎が249件残っており正殿を通光殿と改めさせたとある(長安志)
- 287 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:10:14.22 0.net
- 新の滅亡から600年もどうやって持たせたんかな?
- 288 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:26:55.48 0.net
- 中国で現存最古の木造建築ってなに?
いつの時代の建築?
- 289 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:43:52.17 0.net
- 懸空寺かな? 491年、北魏
- 290 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:45:45.18 0.net
- >>288
五台山・南禅寺の大仏殿
782年建造
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Nanchan_Temple_1.JPG/330px-Nanchan_Temple_1.JPG
- 291 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:51:26.35 0.net
- なるほど。
戦乱、文化弾圧続きのお国柄でも山中には古いものが残ってるのか。
- 292 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:53:54.66 0.net
- 中国最古の現存木造民居(民家)
山西省の姫家の民家
「大元国至元三十一年」(1294年)と刻まれている
- 293 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:55:58.76 0.net
- >>287
その後も歴代王朝の改修や改築を受けてるからその時の物でしょ
- 294 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:57:11.23 0.net
- 日本最古の木造住宅は、箱木家住宅(1283−1307)
- 295 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 22:57:22.60 0.net
- 標高3000メートルというから、富士山の七合目くらいの高さ
唐の武宗や、後周の柴栄の廃仏も、こんな高いところまでは来なかった
- 296 :世界@名無史さん:2017/10/16(月) 23:17:01.25 0.net
- 3000m?
そんな高いところまでよく建築資材運び上げたな
- 297 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 00:00:02.21 0.net
- 古い家系は孔子の家だけなの?
- 298 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 00:08:08.47 0.net
- >>272
地域で見ると大梁→許昌→開封だからずっと栄えてるよ
今の開封は何度か河川の氾濫で埋もれて別の都市だけど
- 299 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 00:09:45.20 0.net
- まあ、孔子の子孫を自称する人は、中国に200万人いるって話だけどな
- 300 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 00:20:19.62 0.net
- >>282
宋代以降の中国建築ってカチッカチッとした無骨な造りで
金閣寺銀閣寺の規格張って無くてイマイチ頼り無さ気な造りとあんま似て無いと思うけど
- 301 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 02:25:48.31 0.net
- >>270
確かに西域では開元通宝も使われていたけど
トルファン地域から出土した売買文書を見る限りでは
決済手段として用いられたのは絹織物が多い
- 302 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 18:36:52.60 0.net
- 唐宋変革期に起こった生産力向上の中でも顕著なのが江南における米生産の向上である。
この進展を示す言葉として「蘇湖熟れば天下足る」「蘇常熟れば天下足る」という当時の諺がある。
その結果、江南の経済力は飛躍的に成長した。
- 303 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 18:39:00.92 0.net
- 宋代に至り、各種生産力が大幅に向上した事は異論を挟む余地がない。
中でも重要なのが農業、特に米作の発展である。
その他にも精銅・製鉄・窯業の技術的発展など宋代の発展は枚挙に暇がない。
その飛躍的発展の多くは、江南で起きた。
- 304 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 18:44:13.67 0.net
- 中国で最良の地といえば、長江下流のデルタ。
海に面し、温暖で肥沃で、広大な平野が広がる。
中国に限らず、世界的に見ても最良の地のひとつだろう。
でも、それを開発するのには、長い年月を必要とした。
古代の江南は、巨大な湿地帯で洪水も多く、人が住むのには適していなかった。
何百年もかけて徐々に干拓が進み、やがてその生産力は華北を圧倒するに至った。
それが、宋という時代の特徴。
- 305 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 19:14:56.50 0.net
- 宋代に入って、東高西低・南高北低という、現在につながる構図が確立された。
もちろん、隋唐の頃だって、江南はかなり発展していた。
でも、唐はまだ、ギリギリで西高東低・北高南低の時代。
- 306 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 19:18:52.23 0.net
- 宋代で本格的な貨幣経済・自由主義市場経済に突入したのは、
なんといっても、江南の高度成長のおかげだった。
- 307 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 19:20:23.70 0.net
- 首都は、江南と運河で直結する開封になった。
もう、洛陽・長安の時代じゃなくなった。
- 308 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 19:49:52.34 0.net
- しかし、完全な貨幣経済社会になったのは、やはり、明の時代だろう。
米作地帯は、長江下流から中流に移り、下流では商品作物、とくに綿の栽培が盛んになった。
それを原料として、繊維工業が発達した。
農民は、商品作物を換金して、そのおカネで食糧を購入する時代。
自給自足とか、物々交換とか、そういうのは完全に過去の思い出と化した。
- 309 :世界@名無史さん:2017/10/17(火) 22:03:41.16 0.net
- 咸陽→長安→洛陽→開封→臨安→北京
段々東に行ってるね
- 310 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 03:29:32.11 0.net
- >>251
>>124
最も中国らしい時代は宋なのか明なのかどっちだよ
- 311 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 03:30:39.71 0.net
- >>257
西安の食い物は辛いから四川に近いだろ
- 312 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 03:31:50.23 0.net
- >>310
平成の広島県
- 313 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 06:03:48.14 0.net
- 島根県には雲南ってとこもある
- 314 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 06:20:13.12 0.net
- 從璀璨的金銀器文物看唐朝貴族的生活
金碗、銀碗、金杯、銀杯、銀盤、銀碟……你可以想到的幾乎所有飲食容器都可以在何家村窖藏的271件器皿中找到。
它們有的花紋繁複,工藝精巧,但也有沒有任何裝飾的金碗銀碟。
https://i1.read01.com/SIG=1cf31i0/30455175437072333169.jpg
- 315 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 06:26:46.73 0.net
- 「唐朝までの貴族が消えた」という認識は、中国でも浸透してきたようだ?
↓
唐朝以後,中國的貴族為何消失了?
2017-05-03 由 最愛歷史 發表于歷史
貴族,自古以來便是平民百姓仰望的對象,更是不少家族累世奮鬥的追求目標,但中國歷史到了唐代以後,貴族卻突然轉弱,最終在歷史的長河中逐漸消失,這又是為什麼呢?
- 316 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 06:27:55.70 0.net
- >>315
これ書いたの台湾人だな、中国じゃなかった
- 317 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 08:28:55.24 0.net
- 唐の貴族
聖徳太子がこんなに大勢いたとは
https://pbs.twimg.com/media/CrW8B38UMAElK5G?format=jpg
- 318 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 09:27:54.74 0.net
- >>313
江南も韓国にもあるな 江南スタイルで有名になったが
- 319 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 09:56:44.08 0.net
- 歴史GDPでみると全体は唐代から1人当たり3割増しだから緩やかな上昇
江南は上がる反面内陸部は停滞
あと人口が唐代の6000万から宋代の1億だから規模による押し上げもあり
人口増と一人当たりの増加により生産力は唐代の2倍程度にまで上がったのが現状の推測
- 320 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 10:03:55.14 0.net
- アンガスのアレって東アジアに関して史料に当たって無いから何の参考にも成らんし
- 321 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 10:23:23.86 0.net
- いや当たってるけ中国人が参加してた
どっちにしても他に史料がない
頑張れ中国人
- 322 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 10:29:50.30 0.net
- そもそもアンガスは中国経済史に真っ先に取り組んでるからな
中国なんて他の地域に比べて圧倒的に史料が足りてるから
歴史統計だとより正確性が高くなる
- 323 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 10:58:13.10 0.net
- >>318
日本にもあるで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8D%97%E5%B8%82
- 324 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 15:08:22.28 0.net
- >>321
当たって無いよ
清代からの単純な逆算
- 325 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 16:07:07.91 0.net
- >>309
鎬京は?
- 326 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 16:49:36.71 0.net
- どっちにしても都市人口が中国全体で5%以下なんだから
ルネサンス期のイタリアの都市化率の半分以下
江南の発展だけみても意味なし
宋代の発展は主に食糧に依存してたから人口増で相殺
緩やかな発展が妥当
ちなみに鉄の生産もほとんど記念碑や橋などの建築が主体で
工業化とも関係ない
- 327 :世界@名無史さん:2017/10/18(水) 17:30:12.78 0.net
- ♪オッパ カンナムスタイール
総レス数 1001
272 KB
新着レスの表示
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver.24052200