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唐宋変革期

1 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:46:47.62 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。…

482 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:10:35.57 0.net
明以下の技術力で近世欧州と比較しようなんてほんとに中国人はずうずうしいな

483 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:17:39.74 0.net
ソース元の名大の出してる世界経済の歴史によると
>>中国の製鉄技術が先進的でヨーロッパより1000年以上前から鉄の鋳造を行いながら、鉄が記念碑などに用いられ、
>>産業向けに鉄が使われることは少なく、ヨーロッパのような鉄の文化は中国では根付かなかった
>>それとは別に貨幣や手形が急速に発達し、銅銭や紙幣が使われた。
>>取扱い商品の中心は、工業品ではなく、農業、林業、水産業などの第一次産品で、
>>農業内部では地租納入向けの生産から市場向け生産への大きな転換がみられた
>>宋では商業活動を支える都市と都市近郊型農業が発達した

484 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:18:32.19 0.net
大学をかくちにつくればよかったんじゃね

485 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:29:59.04 0.net
>>483
日本の大学って低レベルで不誠実だからね
数々の隠蔽、改竄、捏造事件で明らかな様に

486 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:48:53.48 0.net
>>485
そろそろ、スッこんで祖国に帰れよ

煤煙にまみれた大陸の空がお前を待ってるぞ

487 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:52:13.52 0.net
>>483

結局のところ、人口が多いから食料のニーズが多い。
内陸の奥地にまで塩の供給が必要。

・・・というような理由で商業ネットワークが発達し、貨幣経済が進展した。
それだけの話。近代工業など、中国から出てくるはずもなかった。

488 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 23:39:24.88 0.net
>>486
実際問題、冗談かと思うような改竄紛いの引用や作文が溢れてる日本の史学

489 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:29:30.53 0.net
、内藤湖南という人物

1866−1934 ・教師・ジャーナリスト・学者

二十年ごとに一区分
雄大かつ独創的な東洋史の体系を作り上げた:

中国史四部作 (『支那上古史』、『中国中古の文化』、『中国近世史』、『清朝 史通論』)
時局論:『支那論』(1914年)、『新支那論』(1924)など
世界的にも有力な時代区分:「唐宋変革、宋代近世」説
議論の大きな特徴:歴史論と時局論の融合

490 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:31:00.67 0.net
基本認識:清朝の崩壊と共和制の成立を必然の趨勢と見なし、 宋以後の平民台頭の趨勢の上に革命後の共和制を位置づけ、 その共和制は伝統的な地方自治団体「郷団組織」によって担わ れるべきだ。

いくつかの根拠
@中央に対する地方の関係の特徴
「求心力」(兵力、財政経済、思想)の崩壊
「遠心力」(民衆の力量の伸張、地方自治組織の発 達 )の発展
➡共和制中国の建設の基礎 は「郷団自治」の力

491 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:32:28.39 0.net
A「地方分権」と「政治上の徳義」
中国時局に対する期待:「共和政治」の実現と、「中央集権」 への反対。
清朝の弱さの原因は、国家の危機に対して官僚が無責任、 民衆が無関心であることにあり、それらはいずれも君主への 権力集権化の必然的所産。

B「聯邦制」論
当時の輿論・・・積極干渉論、仲裁講和論、南北対立論・・・ 湖南:武力統一反対、不干渉静観論を唱える
革命の大勢として中央集権的共和国に決着が付くが、 理想像としては、中国社会の単位としての小さな「郷団」を国 家体制の基盤に配置し、
「郷団自治」を中核とする共同体組 織を生かした上での「一種の変形した聯邦制度」を」提唱。

492 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:33:45.09 0.net
三、「近世」への視座ーー辛亥革命に つながる「唐宋変革」論

「上古―中世―近世」の時代区分の図式:

第一期 開闢より後漢の中頃まで……上古 第一過渡期 後漢の後半より西晋まで

第二期 五胡十六国より唐の中世まで……中世 第二過渡期 唐末より五代まで

第三期 宋元時代……近世前期

第四期 明清時代……近世後期

493 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:37:28.24 0.net
内藤の東洋史観に着目し、彼の歴史認識に焦点を当ててみると、2つの主張を展開していることが分かる。ひとつは「文化中心移動説」、ひとつは時代区分論を展開する「唐宋変革説」である。

前者は、ある時代、ある地域に形成される文化・文明は当時の時代の趨勢や土地の高低、山・川の配置により育まれていくものであるが、それは永遠に不変のものではなく、発展・変遷し、進化するものであるという説である。
 
たとえば、中国文明は全土を九等分して九州と呼んだ時代の冀州、豫州に起源し、そこから洛陽を中心とする初期文明が形成された。
しかしながら、戦国末になると、洛陽はその活力が衰え、前漢の後は長安文明がこれに代わって栄え、中国史における有名な長安の繁栄を迎えるのである。
だが、長続きはしない。唐朝の衰えとともに長安の地の風格や気品も影を潜め、中国文明の中心は燕京(北京)に移っていく。
ただ、燕京は、これまでの文化の中心地洛陽、長安とは少し様相を異にしていた。
燕京は東北の地の利を生かし形成された政治の中心地であり、
文化の中心は、長安(西安)が衰退後は徐々に六大古都のひとつである南京を中心とする長江の南岸地域、江南に移っていったのである。
江南は宋以降、中国の文化・文明の先進地となり、政治の中心は北、文化の中心は南という2つの勢力が確立された。

内藤はこう予言している。「東洋の文化の発展においては、時にその民族や国境を越え、ひとつの“東洋文化圏”を形成する。
今後、中国文化の中心は日本に移り、日本が中国文化の復興を実現するだろう。これこそ近代日本国家の使命である」と。

494 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 06:39:42.94 0.net
内藤湖南の「唐宋変革論」は中国史を時代区分の考え方で論じる説であり、この説は日中双方の中国史の研究に深い影響を与えた。

彼が導き出した答えは“宋代”であった。宋代以降の近世は誤った考え方が横行しており、中国が未来に前進するためには、貴族の支配下から解放され、
これまでの形式重視から自由な発想を重んじる文化へ移行しなければいけないと気付いたのである。

だからこそ、この宋代近世説の考え方は、同時期の世界各地に比べはるかに先進的で、高度に発達した輝かしい文明を有していたのである。

これは今から一千年近く前の中国であり、まさにこの早熟すぎた文明のために、現在の政治腐敗、経済的貧弱を誘発し、出口を求めて奔走する中国、これこそが今の中国なのである。

495 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 08:54:56.85 0.net
宋代社会については宮崎市定の見解が最もしっくり来る
もちろん内藤湖南が師だから内藤説をふまえてる

496 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 09:05:05.27 0.net
「International Industrialization Levels from 1750 to 1980」

世界各国の工業生産比の推移

  1750年 1800年 1830年 1860年 1880年 1900年 1913年
アメリカ 0.1% 0.8% 2.4% 7.2% 14.7% 23.6% 32.0%
ロシア 5.0% 5.6% 5.6% 7.0% 7.6% 8.8% 8.2%
イギリス 1.9% 4.3% 9.5% 19.9% 22.9% 18.5% 13.6%
フランス 4.0% 4.2% 5.2% 7.9% 7.8% 6.8% 6.1%
ドイツ 2.9% 3.5% 3.5% 4.9% 8.5% 13.2% 14.8%
イタリア 2.4% 2.5% 2.3% 2.5% 2.5% 2.5% 2.4%
日本 3.8% 3.5% 2.8% 2.6% 2.4% 2.4% 2.7%
中国 32.8% 33.3% 29.8% 19.7% 12.5%  6.2%  3.6%

日本が低いのは想像通りなのだけどフランスとイタリアも想像以上に低いな
中国はやはり太平天国の乱と八か国連合軍による植民地化のダメージがデカいっぽい

497 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 09:10:21.39 0.net
そういや明の時代は日本と中国は文明度に大分差があったとおもうけど、
それは江戸時代に逆転したという理解でいいの

498 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 09:14:07.49 0.net
>>496
読めないぞ
手抜きせずにちゃんと整形しろよ


        1750年  1800年  1830年   1860年  1880年  1900年  1913年
アメリカ     0.1%    0.8%    2.4%    7.2%   14.7%   23.6%    32.0%
ロシア      5.0%    5.6%    5.6%    7.0%   7.6%    8.8%     8.2%
イギリス     1.9%    4.3%    9.5%    19.9%  22.9%   18.5%    13.6%
フランス     4.0%    4.2%    5.2%    7.9%    7.8%    6.8%     6.1%
ドイツ       2.9%    3.5%    3.5%    4.9%   8.5%    13.2%    14.8%
イタリア     2.4%    2.5%    2.3%    2.5%   2.5%    2.5%     2.4%
日本        3.8%    3.5%    2.8%    2.6%   2.4%    2.4%     2.7%
中国       32.8%   33.3%    29.8%   19.7%   12.5%   6.2%      3.6%

499 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 10:05:58.84 0.net
>>497
だいたいそんな感じだな

500 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 10:11:14.27 0.net
インド 1750 24.5
前近代だと単なる人口の指標にしかなってない

501 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 10:33:24.58 0.net
人口が増えたのも関わらず明治は江戸時代以下の水準に落ち込んでいるので
明治維新は過大評価だな

502 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 10:35:54.46 0.net
中国の人口 1750年 25900万 インド 18100万 UK 930万 フランス 2470万 日本2900万
日本は1820年の推計だとGDPでも一人当たりで中国抜いてる

503 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 10:42:30.71 0.net
それにこの指標みても技術格差はわからん
1人当たり生産性が中国より高かった1750年のインドはすでにイギリス・フランスに太刀打ちできなくなってる

504 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 11:45:24.50 0.net
18世紀のムガール帝国とかアウラングゼーブ以後はニザーム、アワド、ベンガルが独立
マラーター同盟に首都が包囲されたり、イランやアフガンまで侵入してくる始末で
イギリス、フランスと戦ってる余裕はないが

505 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 11:56:47.13 0.net
18世紀だと、清はまだ雍正・乾隆の極盛期

オスマン帝国は、だいぶ衰退してはいたが健在

ムガール帝国は、一足お先に崩壊していた

506 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:14:54.24 0.net
>>505
そういう基準でいうとヨーロッパは常に分裂内戦中になるし、まありあてにならない

507 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:22:21.74 0.net
いや戦ってるだろ
ベンガル軍40000対イギリス人1000インド傭兵7000で負けてる

508 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:28:37.36 0.net
>>500
それ、単に願望だよね
>>496の図表は相当疑問有るけど

>>503
18世紀中葉のムガル帝国は既に幕末や晩唐末みたいな有様

509 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:30:19.45 0.net
>>506
ヨーロッパなんて国なぞ無い
願望と現実の区別を付けろよ

510 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:40:16.03 0.net
どっちにしても中国18世紀だと一人当たりだとインド以下だな

511 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:46:21.08 0.net
>>507
それインドVSインド&イギリスの戦いであってインドVSイギリスじゃないよね

512 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:49:11.13 0.net
>>510
数字的にわ人口爆発で急激に零細農民増えたからね、あと
大清帝国は色々時代逆行してるのと
明も糞みたいな財政制度が祟って中期以降金が無く非民生分野が停滞してたから

513 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:49:11.91 0.net
>>511
イギリス人の資本で雇ったイギリス式軍隊のイギリス軍だろ
だからベンガルはイギリス領になるんだよ
ちなみに同時期清はビルマ遠征大失敗だな

514 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:49:36.94 0.net
>>512
言いわけ乙
インド以下中国

515 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:54:54.38 0.net
>>514
解説してやったのに言い訳乙とか意味不明過ぎだろ

516 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 12:56:57.66 0.net
また言いわけかよ中国人

517 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 15:28:32.75 0.net
言い訳していいわけ?

518 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 16:15:51.99 0.net
フライング・タイガースも中国資本で動いてるんだから中国軍な
よって中国空軍>>>>>>>>>>日本帝国の空軍

519 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 17:42:56.78 0.net
まあ実際はやってみないと分からんよ
日本はロシアと清とイギリス艦隊に勝ってアメリカに負けて、中華民国中華人民共和国ソ連には負けたと思って無いもの

520 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 17:51:00.02 0.net
普通に王朝崩壊後の内戦で弱体化してた中国に負けたんだけどな大日本帝国は
兵士と兵器の損失を重ね開戦数年で兵士の4割が傷病死で戦闘不能
兵器の6割が毀損、補充も乏しく更に無理を重ねるハメに

521 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 18:08:20.85 0.net
アメリカには負けたけど他には負けてないとか思ってるうちは完全な完敗だよな。
外交が下手くそだと何をどうやっても負け組になってしまう典型だよ。

522 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 18:57:24.23 0.net
これが五代十国の最初の方
中国が複数に分かれる状態としていちばんしっくりくる
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD#/media/File:%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%90%8E%E6%A2%81%E5%89%8D%E6%9C%9F%E5%BD%A2%E5%8A%BF%E5%9B%BE%EF%BC%88%E7%B9%81%EF%BC%89.png

523 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 18:58:21.38 0.net
燕が河北を統一できたらこの状態をもっと長く続けれたんじゃないかと

524 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:09:36.87 0.net
>>522

海岸に並ぶ沿海部の諸省 (河北省・山東省・江蘇省・浙江省・福建省・広東省)が、
すべて別の国に分かれているというのが最大の特徴だろう。

後は、内陸部の大国・四川省と湖北省が独立。

525 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:11:32.39 0.net
沿海部には、経済の発達した有力な省がズラリと並んでおり、どの省も独立国として十分にやっていける実力がある。

内陸部は、天府と称される四川盆地に位置する四川省を別格とすれば、十把ひとからげ。

526 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:17:59.90 0.net
福建省は、ほかの沿海部の諸省と比べたら小国だけど、それでも韓国程度の国力は十分にある。

他は、どれが独立したとしても、中国と日本に次ぐ東アジアで三番目の大国になるだろう(笑)。

527 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:19:17.97 0.net
隋唐の時代にも、江南の経済力の台頭は明らかだったが、まだ華北を圧倒するには至っていなかった。

いよいよ本格的に南が伸びてくるのは、五代の分裂がキッカケとも考えられている。

独立して初めて、これらの国々は真価を発揮した。

528 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:19:28.53 0.net
経済が発達してるからというより
山脈と河川だらけで分断されてるからでしょ江南と嶺南は、日本の分立傾向と同じ

529 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:32:00.72 0.net
日本・インド・中東・欧州とも、中世は地方の諸侯が分立するバラバラな状況になっていくんだけど、
中国は宋が再統一したおかげで、その流れが一応は食い止められた。

再統一といっても、「史上最弱の統一王朝」だったが。

530 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:36:05.81 0.net
宋よりも、普段対立してる国が会盟で北方民族と戦うほうがよい
「東洋と西洋を含めて20本の指に入る強国の内の10国が同盟を結んだんじゃからの。 しかもライバル同士が手を組んだんじゃ。そりゃ最強に決まっとるわい」

531 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:38:14.58 0.net
>>520

朝鮮戦争のときのアメリカ軍の関係者が、中国と長いこと戦ってきた日本軍の関係者を呼んで意見を聴取したところ、
彼らが一様に中国をバカにしきっており、「中国軍はまるで無力だ。敵ではない」と異口同音に語ったと証言している。

532 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:40:40.74 0.net
>宋よりも、普段対立してる国が会盟で北方民族と戦うほうがよい

ていうか、五代も宋も、みんな北方民族だよ。

古代の春秋の世とは時代が違う。

533 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:42:10.70 0.net
>>531
当に馬鹿だな、無能の極み。兵卒しか務まら無いレベルの

534 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:49:49.57 0.net
日中戦争の頃の中国は、統制不能でバラバラな無政府状態の国だった。
本当に、極めて無力だった。

でも朝鮮戦争の頃には、毛沢東の独裁権力が絶頂で、まったく状況が変わっていた。

このため、アメリカ軍は、「日本軍の意見を聞いたおかげで、中国軍の戦闘力を過少評価してしまった」
と悔やんだと言われている。

535 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 19:53:33.20 0.net
やはり、中国には強力な中央権力が不可欠ということか

536 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:20:15.80 0.net
態々敵の築いた要塞や防衛施設を設けた都市を強攻して無駄に兵士と兵器を失うとかゲームやってんじゃ無いんだから

537 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:33:25.27 0.net
本当にバカなのはそこじゃ無いよ
共産主義を甘く見て百年この世界情勢に固定化してしまったこと

538 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:35:22.77 0.net
>>520
日華平和条約は失効したので中国は戦勝国ではない

539 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:37:18.70 0.net
そうに違いないウヨ

540 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:47:40.31 0.net
(コピペ)

唐中葉までには、小麦作が普及した。
すると、秋の稲・アワ・キビの収穫に加え、夏には小麦が得られることになる。
安史の乱後の財政破綻に対応して、この双方を税として徴収する両税法が、楊炎の提言によって始まった。

この政策の意義は、単に課税対象と時期の変更だけではなかった。農民に対して、古来、一律平等に課すのが原則だった税を、農民の土地保有や財産の額に応じて取り立てる戸等制が採用されたのである。
これは、「国家」が、「国民」の中に「貧富の差」の存在を認める、という一大転換であった。
以後、農民の貧富の差は、一層拡大したと言われている。

541 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:50:50.17 0.net
唐代における「胡食」の普及

唐代に流行したイラン系の西方文化は,おもに
「胡人」つまりイラン系ソグド商業民によってもたらされたので,当時は「胡風」とよばれた。
人々 は「胡帽」や「胡服」を愛用し,宮廷でも「胡曲」しょう が流行した。

「胡瓜」 胡麻 胡椒」などの「胡」 も,それが中国原産ではなく西方に由来する物産 であることを示す。
李白や白居易らの唐詩も,各地の飲食店で接客にあたる「胡姫」=ソグド人ホステスや,
彼女らが披露する「胡旋舞」=ソグド 流回転舞踊を,憧憬や驚嘆とともに描写している。

542 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:53:04.62 0.net
唐の中期からの巨大な社会変動の要因として、「小麦」も無視できない。

ペルシャから伝来した粉食文化は、華北の食文化を一変させた。

小麦二毛作の普及は、税制をも変えた。

543 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:56:23.66 0.net
粉食文化じゃない、パン食文化

粉食はもっと前からある(西域から伝来したことに変わりはないが)

544 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 20:58:46.87 0.net
麦を粉にする技術が広まったのは唐の時代だよ

545 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 21:04:35.58 0.net
小麦は、漢代に張騫が西域から持ち帰ったとされているが、本格的に普及したのは唐代だった。

小麦は、栽培するのに大量の水が必要となる。
もちろん、稲と比べたらそれほどでもないが、
それまで主流だった粟などよりは、ずっと多くの水を必要とする。
だから、灌漑施設が未発達な古代には、なかなか普及しなかった。

技術進歩もさることながら、長安でイラン風のパン食が流行したのが、普及の最大の理由と言われている。

546 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 21:09:08.82 0.net
>>544
水車の技術かな?

547 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 21:15:56.53 0.net
>>524
山東半島が「斉」とかになってればよかったのにな

548 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 22:15:05.99 0.net
まあ、春秋戦国時代と違って黄河が涸れかかってるので、
華北は、荒涼とした平坦な土地が広がってるだけだからな。

国境を画する決め手に欠ける。

549 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 22:38:17.40 0.net
山東省だけで人口が一億人

まさに人大杉

550 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 22:48:07.90 0.net
>>548
山東半島に独立国は戦国時代より後は見ないと思ったがそのためか

551 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 23:39:47.64 0.net
斉も、山東半島の国とは言えないけどね

半島も領土に入ってるとはいえ、あくまで大陸部の国

宮城谷昌光の「晏子」の前半は、斉の晏弱が半島を征服する話だった

552 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 23:55:19.85 0.net
山東半島や遼東半島は、独立して半島国家になるほどの大きさではない

朝鮮半島にして、やっと半独立の従属国

553 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 02:39:48.27 0.net
朝鮮韓半島は広さ十分だけど東亜の中でも可住地というか可耕地が狭過ぎて

554 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 03:01:57.85 0.net
>>540>>542>>544-546
小麦がそれ迄の粟黍稗等に代わり北方の主食に成ったのが前後漢の頃
水車の石臼は後漢代に始まり普及したのが西晋〜北魏の頃。饅頭とか麺類が主な食べ方

555 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 03:59:05.91 0.net
古代華北の主食は、アワ、キビ、オオムギなどの雑穀であった。
アワとキビが良質の穀物であり、粒状で食べられた。

小麦は漢時代(前3〜後3世紀)の126年に、張騫(ちょうけん)が西域から製粉用の石臼と共に伝えた。
だがこの時点には、小麦粉は効率的に作れなかった。
小麦の栽培は華北の土地に合い、三国時代(3〜5世紀)には小麦の粉食は中原に定着し、以後華北は小麦粉食圏となった。

唐時代(7〜10世紀)より少し前、水車を利用した「テンガイ」の発明により小麦粉が安価で大量に出回り、粉物文化が根付いていった。
しかし、中国では小麦粉をパンとして焼かず、生地を蒸すか茹でて調理した。最も代表的な食品は饅頭(マントウ)である。

556 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 04:03:23.49 0.net
まあ、「張騫が石臼とともに西域から伝えた」というのはマユツバな伝説で、もっと前からあった可能性が高い。

でも、唐より以前には、小麦粉はかなりの贅沢品だったんじゃないのかな?
水車がない時代に人力で製粉するのは効率が悪く、大量に作れたとは思えない。

557 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 04:12:47.81 0.net
「夏と秋の2回に分けて徴収する両税法」が唐で導入されたのも、
冬小麦と春小麦の二毛作がこの時期に普及したことの表れ

558 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:06:46.82 0.net
(コピペ)

>田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
>780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。

559 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:10:02.18 0.net
租庸調制の時代には、粟で租税を納めていた。

このことからしても、唐の前期においては、粟が主要作物だったことが分かる。

それに対して、両税法では、夏は麦、秋は粟で納税することになった。
金銭での納税も始まった。

これを見れば、唐代に冬小麦の生産が広まったことが分かる。
でも、まだ粟の存在感は大きかった。
金納が当たり前になる宋に比べて、まだ貨幣経済も中途半端だった。

560 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:16:53.16 0.net
粟っていったら、小鳥の餌箱に入っている小さな粒の穀物だ。

小鳥にとっては大好物だけど、人間にとっては不味い。

唐の庶民は、黄土高原に穴を掘って地下で生活し、小鳥のエサみたいなものを食べていた。

561 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:20:08.45 0.net
しかし、かつては高価だった小麦粉が安くなり、次第にマントウや麺類が普及してきた。
宋代には、当たり前の存在になった。

昔、「アルプスの少女ハイジ」というアニメでは、金持ちが柔らかい白パンを食べ、貧乏人が固い黒パンを食べていた。
黒パンは、よほど歯が丈夫な人じゃないと食べられないようなシロモノだった。
近代ヨーロッパというのは、そういうところだった。

それに比べて、宋の小麦粉の質は高かった。
この点に関しては、近代ヨーロッパを上回っていたと言われている。

562 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 07:34:28.99 0.net
>>551
山東半島にあったのは異民族の莱って国だな

563 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 07:36:05.77 0.net
>>555-556
石臼は夏王朝の頃既に有り西域から導入されたのわ隴西で用いられて居た水車式の石臼
小麦の中国伝入は殷代の頃だけど>>545に在る通り灌漑が未発達で広まらず
水車に由る石臼は後漢代に一部で用いられ始め西晋北魏の頃に普及したが
黄河の水量はそれ程でも無いので広まったのわ主に米食の江南、華北は主に畜力

564 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 08:07:17.54 0.net
>>557-561
>>554は小麦じゃ無く大麦小麦蕎麦
南北朝→唐代で農具が改良されて大麦が減り小麦と蕎麦が増えた
小麦の加工は水車が普及しても畜力が主、小麦粉が高価なんて事実も無い

565 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 08:12:32.47 0.net
>>563-564

なるほど、そういうことだったか。

566 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 11:31:31.09 0.net
>1
領土的には唐
文化的には宋がクライマックスだったな

それ以降は差別されたり鎖国したり変な髪型にされたり混乱したり文化失ったり猿真似しかできなくなったり
まだ中華が滅びないのが不思議なくらい

567 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 12:34:15.96 0.net
中華式の髷や玉すだれの冠は威厳があるのに、
辮髪は滑稽にしか見えないからなぁ

568 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 12:51:19.06 0.net
辮髪民族に支配されたチャンコロが滑稽

569 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 13:03:30.44 0.net
明は行政制度と政治体制が色々酷いのがなあ
技術面でも途中でパタッと止まるし

570 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 13:13:34.23 0.net
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        / ̄\ ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′ ||  
      r┤    ト::::: \___/     ||     
     /  \_/ ヽ:::.  \/    ,ノ   
      |   _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
      |   _)_ノヽ\  ハ // /    ヽ   
     ヽ____)ノ      ̄ ̄ ̄   /     ヽ、


呼んだ?

571 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:03:02.88 0.net
唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。
その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。
その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。

世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳の若さで急死。
あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。
このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。

体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。
まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。
翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。
これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。

後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。
真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国四年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。
また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。

五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。
宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている。

572 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:07:11.13 0.net
>>569
今の中国も、政府が民間の枷になっている

573 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:07:27.86 0.net
「歴史は繰り返す」とよく言われるけど、魏晋南北朝時代の終わりには北周の武帝、五代十国時代の終わりには後周の世宗と、英邁な君主が現れて、統一目前にして早死にした。

それぞれ後を継いだのは、隋の楊堅、宋の趙匡胤。どちらも、早死にした前皇帝の重臣だった。

宮崎市定によると、「後周の世宗が織田信長で、趙匡胤が豊臣秀吉で、趙匡義が徳川家康」なんだそうな。

574 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:12:03.50 0.net
宮崎市定先生の論旨を至極大ざっぱにまとめると、欧州史に比して、宋以前の唐は門下省で貴族が力を持っていた中世とし、
宋代以降の皇帝独裁を絶対王政に見立て、近世とする。
また宋代は民間でも欧州の郷紳に比定されるべき、貴族ではない在地勢力である形勢戸が生まれた。
欧州との違いは郷紳は国王の抵抗勢力となったが、中国では科挙を通じて体制の中に組み込まれたので、市民革命は起きなかった。

・・・って感じです。


補足について

論文なら、東洋的近世
概説なら、アジア史概説
共に宮崎市定先生の著作です。

575 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:15:28.14 0.net
唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。
後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。
それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立。

この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。

各政権の皇帝や王はみな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。
均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。
その過渡期の混乱。

576 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:21:06.37 0.net
唐の後半は、統一王朝といっても事実上、節度使による軍閥割拠状態。
節度使というのは、スケールは違うけど、日本の室町時代の守護大名みたいな感じ。

日本でも、やがて室町幕府が崩壊して、そのまま戦国時代に突入していったように、
唐の節度使もやがて自立して皇帝となり、五代の混乱期に突入した。

戦国を統一した徳川家康が、必死で各地の大名の力を削ったように、五代十国を統一した
宋の趙匡胤・趙匡義の兄弟も、節度使の力を削り、皇帝独裁の官僚国家を実現した。
軍人の力を弱くしすぎたおかげで、宋は「史上最弱の統一王朝」になってしまった。

577 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:22:28.67 0.net
新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。
後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。
自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。
形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。
豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。

しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。
全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。
小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。
だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。
したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。
 
黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。
すべて人民は、同じ身分。

日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。
中国では10世紀にはすでに貴族が消滅している。
こういう面で中国はものすごく進んでいる社会です。

578 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:26:13.52 0.net
宮崎市定の研究姿勢は内藤湖南の提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、
西アジアやヨーロッパとの交流の影響及び比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、
さらにそれを裏付けるために宋代に於ける政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。

579 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:26:45.67 0.net
宮崎市定 「中国史」

内藤湖南・桑原隲蔵以来の京都東洋史学の学風を継承、発展させた宮崎市定(1901‐1995)。
本書は唐と宋の間に明確な時代の変革を見る独自の理論に基づいた通史で、文章は平易で論旨は明確である。
上巻では歴史とは何かを問い、主な時代区分論を紹介し、古代から最近世までそれぞれの特徴を述べて、夏殷周から唐五代に至る歴史を概観する。(全2冊)

580 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:28:30.49 0.net
>>572

習近平と李克強が、先頭に立って経済発展をリードしている

581 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:38:29.96 0.net
一応実力登用の科挙+法に由る皇帝独裁と血統に因る世襲の封建貴族制って、油と水じゃね
日本じゃ国会議員に続いて国立大学や中央姦庁迄
極めて時代錯誤で反動的な身分枠復活させてるし

582 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:57:18.66 0.net
イギリスは今だに貴族がいるし日本だって明治期に華族がいたけど
別に遅れてない

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